内的自己対話-川の畔のささめごと

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「無垢な魂は、愛が無垢なものに見えれば見えるほど、その影響を受けやすい」― 十七世紀フランスの反演劇派の論法

2023-07-06 15:19:35 | 哲学

 十七世紀フランスの演劇の隆盛について、山上浩嗣氏の『パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章』(講談社学術文庫、2016年)のなかの「コラム5 パスカルと演劇」に簡にして要を得た説明があるので、それをまず引く。

一七世紀フランスは、コルネイユ、ラシーヌ、モリエールらの活躍、ならびにリシュリューら権力者による庇護のおかげで演劇の隆盛を見たが、同時に演劇は、教会による批判の対象でもあった。演劇は恋や野心や復讐などの危険な情念をあたかも美徳であるかのように描き出すことで、情念に対する観客の警戒心をゆるめるばかりか、演じられた行いを自分も実践したいという気持ちをかき立てる。―このような主張は、世紀半ばにおける演劇批判文書において、しきりにくり返された。なかでも、パスカルの盟友ピエール・ニコルは、演劇批判の決定版となる『演劇論』(一六六七年)において、あらゆるキリスト者はこの空しい見世物を前にして目を閉じなければならないこと、さらには、「喜ばしき盲目(l’aveuglement salutaire)」を与えられるように神に祈るべきことを主張した。

 このような演劇批判文書が多数出回ったということは、とりもなおさず、当時それだけ演劇が民衆の娯楽として人気を博していたことを意味している。
 この歴史的文脈のなかで、アリストテレス『詩学』の悲劇論のカタルシス概念が読み替えられ、というよりも、誤って解釈され、その誤った解釈を目指してアリストテレスが批判される。アリストテレスにしてみれば、いい迷惑である。
 その誤解(いや、意図的な曲解と言ってもいい)とは、アリストテレスは、悲劇による観客の「感情の浄化(カタルシス)」を論じているのに、十七世紀の演劇論者たちは、カタルシスを人間の「感情からの浄化」と曲解し、そんなことは演劇にはできないどころか、上の引用にあるように、むしろある種の感情をかき立てる効果を演劇はもっており、その悪しき効果は人間を敬虔なる信仰から遠ざけると批判する。
 例えば、岩波文庫版塩川徹也訳の『パンセ(中)』の断章七六四(セリエ版六三〇、ブランシュヴィック版一一)の « car plus il paraît innocent aux âmes innocentes, plus elles sont capables d’en être touchées »(「なぜなら無垢な魂は、愛が無垢なものに見えれば見えるほど、その影響を受けやすいのだから。」)に注が付されており、「一六六〇年代には、演劇の倫理性をめぐって論争が繰り広げられるが、そこで反演劇派が用いた論法。たとえば、オラトワール会士であったスノー神父は次のように述べている。「芝居は魅力的であればあるほど、危険である。さらに付け加えて、汚れなく見えれば見えるほど犯罪的だとさえ言いたい」(『君主論―主権者の義務』一六六一年)とある。この注は、Le Livre de Poche の La Pochothèque 版(セリエ版)の同箇所の注(p. 1164)をほぼ踏襲している。

On reconnaît ici le paradoxe de Senault, lieu commun de la polémique antithéâtrale des années 1660-1670 : « Plus elle [la comédie] est charmante, plus elle est dangereuse ; et j’ajouterais même que plus elle semble honnête, plus je la tiens criminelle » (J.-F. Senault, Le Monarque ou les Devoirs du souverain, 1661).