パスカルの時代は、フランス古典演劇全盛時代でもあり、三大古典劇作家、コルネイユ(1606‐1684)、モリエール(1622‐1673)、ラシーヌ(1639‐1699)はまさにパスカルの同時代人であった。パスカルは青年時代ルーアンに一家で移り住んでいたときにコルネイユと知り合いになっている。そのきっかけや両者の付き合いがどのようなものだったのかについては何もわかっていないが、『パンセ』にはコルネイユの名が二回登場し、その作品への明示的あるいは暗示的言及も数か所見られる。パスカルがどこかの劇場でコルネイユの作品を鑑賞したことがあったのかどうかもわからない。
しかし、パスカルが演劇に関心をもっていたことは確かである。実際、『パンセ』には演劇に対するパスカルの批判的な見方が表明されていると見なせる断章がある。ただし、この断章の執筆者については以下のような特殊事情がある。
若い頃は華やかな宮廷生活を謳歌し、サロンを主宰して当代一流の知識人を集めたが、晩年はパリのポール・ロワイヤル修道院のとなりに私邸を築いて敬虔な信仰生活を送っていたサブレ侯爵夫人は、自分が書いた文章の添削をパスカルに依頼した。その添削された文章が断章として『パンセ』に組み込まれているのである。『パンセ』諸校訂版では、パスカルが添削あるいは付加した箇所がイタリックで示されている。
Tous les grands divertissements sont dangereux pour la vie chrétienne. Mais entre tous ceux que le monde a inventés, il n’y en a point qui soit plus à craindre que la comédie. C’est une représentation si naturelle et si délicate des passions qu’elle les émeut et les fait naître dans notre cœur, et surtout celle de l’amour, principalement lorsqu’on le représente fort chaste et fort honnête, car plus il paraît innocent aux âmes innocentes, plus elles sont capables d’en être touchées. Sa violence plaît à notre amour-propre, qui forme aussitôt un désir de causer les mêmes effets que l’on voit si bien représentés. Et l’on se fait au même temps une conscience fondée sur l’honnêteté des sentiments qu’on y voit, qui ôtent la crainte des âmes pures, qui s’imaginent que ce n’est pas blesser la pureté d’aimer d’un amour qui leur semble si sage.
Ainsi l’on s’en va de la comédie le cœur si rempli de toutes les beautés et de toutes les douceurs de l’amour, et l’âme et l’esprit si persuadés de son innocence qu’on est tout préparé à recevoir ses premières impressions, ou plutôt à chercher l’occasion de les faire naître dans le cœur de quelqu’un pour recevoir les mêmes plaisirs et les mêmes sacrifices que l’on a vus si bien dépeints dans la comédie.
Ed. Sellier 630 ; éd. Lafuma 764 ; éd. Brunschvicg 11.
あらゆる大がかりな気ばらしは、キリスト者の生活にとっては危険である。しかし、この世が発明したすべての気ばらしのなかでも、演劇ほど恐るべきものはない。それは情念の実に自然で微妙な演出であるから、情念をかきたて、われわれの心のなかにそれを起こさせる。特に恋愛の情念を。ことにその恋愛がきわめて純潔でまじめなものとして演じられていれば特にそうである。なぜなら、それが潔白な魂に潔白に映ればうつるほど、それによって動かされやすくなるからである。その恋愛の激しさが、われわれの自尊心を喜ばせる。その自愛心は、目の前でこんなに巧みに演じられているのと同じ効果をひきおこそうとする欲望をただちにいだく。それと同時にそこに見られる感情のまじめさに基づいた一種の自覚がつくられ、その自覚が純な魂の懸念を取り除き、あのようにつつましく見える愛で愛することが純潔を傷つけられることにはならないという気になるのである。
こうして、人は恋愛のあらゆる美しさと楽しさとに心をすっかり満たされ、魂と精神とは恋愛の潔白さを信じきって劇場から出て行く。そのため、恋愛の最初の作用を受け入れたり、あるいはむしろ、劇中であのように巧みに描写されているのを見たのと同じ快楽と同じ犠牲とを受け入れるために、その恋愛の最初の作用をだれかの心のなかに起こさせる機会を求める用意がすっかり整った状態になっているのである。(前田陽一訳、中公文庫)
サブレ侯爵夫人の意向に沿いながら、それを補強する方向で入念な添削が施されていることから、たとえこの文章はパスカル自身の文章とは言えないにしても、そこにパスカルの演劇観が示されているとも考えられる。あるいは、少なくとも、この文章がパスカル自身の手になる他の断章と一つに束ねられていたことからして、サブレ侯爵夫人の演劇観にパスカルが概ね同意していたと見なすことは許されるだろう。
この批判的演劇観の背景として、同時のフランス古典演劇界でアリストテレスの『詩学』の悲劇論における「カタルシス」概念を巡る論争がある。十七世紀フランス演劇界で起こる「カタルシス」概念の意味変換については、2022年10月20日の記事で一度話題にしているが、明日の記事ではそれとは違った文脈でもう一度「カタルシス」論争を取り上げ直す。