内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己同一的な実体の否定としての〈錯綜体〉、あるいは可能的な行動の総体としての〈錯綜体〉

2023-07-20 16:10:59 | 哲学

 引き続き、伊藤亜紗氏の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』第III部「身体」第二章「生理学」のなかの錯綜体についての記述を追っていこう。
 ヴァレリーが錯綜体という概念を導入することで強調しているのは、「いかに私たちの行為が外界によって引き出されているか」、「いかに思いもよらない可能性が、私たち自身のうちに隠れているか」ということである。つまり、〈錯綜体〉は、「わたし」という存在の他動性と偶然性を強調することによって、世界の構成者としての位置から主体をずらすことを狙って作られた概念なのである。
 錯綜体が行動する能力であるとしても、それは必ずしも能動的な自己決定にもとづく行動というわけではなく、外界からの刺激に対するリアクションとして、私たちはいわば行為させられているのである。「私たちとは結局のところ、起こりうる諸々のことに取り囲まれ、支えられている一つの可能性の感情、感覚でしかない」(Cahiers, I, 1100)。錯綜体とはつまり、「どんなものであれ何らかの状況が私たちからひき出しうるものの総体」(Cahiers, II, 329)である。
 次の段落は私のコメントである。
 私たちひとりひとりが錯綜体であるということは、取り巻く環境及びその都度置かれた状況において可能でありかつ可変的な行動の総体が錯綜体なのであるから、錯綜体としての私は自己同一的な実体ではありえないということを意味している。
 伊藤書の摘録に戻る。
 私たちがこれこそ自分だと思っているものは不変の実体のようなものでは決してなく、時間とともにまったく違うものに変化する可能性を秘めている。各人の個性(だと私たちが信じているもの)など、錯綜体のさまざまなあらわれ、多分に偶発的なあらわれにすぎない。「各人のうちには、その人物がそうであるところのものの可能的な拒絶がある」(Cahiers, I, 305)。
 では、このような錯綜体はすべて偶然の産物で、そこにいかなる〈主体性〉も認めることはできないのであろうか。
 この問いに対するさしあたりの答えは、否、である。伊藤氏によれば、ヴァレリーが探究しているのは「普遍的な人間の可能性」である。この可能性は、「ひとりの人間に何ができるか」という問いの形をとって、「錯綜体」という概念が登場するはるか以前からヴァレリーによって繰り返し問われてきた。錯綜体という概念も、ある一人の人間に何が可能であるかという問いを問うために導入されたと考えることができる。
 したがって、錯綜体という概念とともに問われるべきは、いかなる条件においてひとりの人間は主体でありうるのか、という問いである。