内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

錯綜体 ― その都度の現在において現動化されている潜在的なものの総体

2023-07-19 18:11:14 | 哲学

 昨日の記事で取り上げたヴァレリーの〈錯綜体 implexe〉を日本でその独自の身体論あるいは〈身〉の構造論に取り入れたのは市川浩である(『精神としての身体』、勁草書房、一九七五年)。本書によってこの概念はヴァレリーの専門家たち以外にも知られるようになった。その後、市川は『〈身〉の構造  身体論を超えて』(初版、青土社、一九八四年。講談社学術文庫、一九九三年)のなかで錯綜体についてさらに議論を発展させる(「IV 錯綜体としての身体」)。しかし、それはヴァレリーの錯綜体に触発された市川固有の所説としての色合いが濃く、ヴァレリーの錯綜体の説明として読むことはできない。
 ヴァレリーが錯綜体という概念を導入することで何を捉えようとしていたか知るためには、ヴァレリーのテキストに直接あたるのがもちろん正道であるが、ここでは伊藤亜紗氏の優れたヴァレリー論『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫、二〇二一年。原本『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』、水声社、二〇一三年)に依拠するという捷径を辿ることにする。
 本書における錯綜体についての詳しい考察は、最終部である第三部「身体」の第二章「生理学」において展開される。同章三番目の節「人間の可能性」と次節「能力としての錯綜体」とから、錯綜体に直接関わる箇所を見ていこう。ただし、以下の文章は引用と要約と私見との混合体であることをあらかじめお断りしておく。
 まず、錯綜体のもっとも簡潔な定義は、「わたしのうちにある潜在的なものの総体」である。この「潜在的なものの総体」は、それじたいは超(非)時間的なものだが、そのつど「現在」において現動化され、わたしという人間を構成する。
 一九三二年に発表された対話篇『《固定観念》あるいは海辺の二人』のなかで、〈わたし〉は対話者の〈医者〉に、「歩く(marcher)」という動詞をすべての時と法に活用させてみてほしいと頼む。この思考実験を通じて〈わたし〉が示そうとしているのは、歩くという運動に対する私たちの関係はその都度の現在において変化するということである。具体的に言えば、いま歩いていない私は、現在において、歩くという運動に対して「歩いた」及び「歩くだろう」という関係にあり、それだけ「歩く」あるいは「歩いている」という様態からは「離隔」されている。
 この離隔は相対的・可変的であり、私が現に歩いているときは、「歩いた」および「歩くだろう」、さらには「歩けない」「歩かない」から離隔されている。言い換えれば、現に歩いていることが、それらの別の可能態を否定している。しかし、この否定は相対的であり、他の様態の潜在性は保持されている。
 このように、その都度の現在において現動化(あるいは現勢化)されている潜在的なものの総体が錯綜体なのである。