内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「無意識」の抑圧の構造に対置された、「ひとりの人間の潜在的な可能性の総体」としての錯綜体

2023-07-22 18:30:20 | 哲学

 ヴァレリーの〈錯綜体〉概念に戻ろう。
 伊藤亜紗著『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』第III部「身体」第二章「生理学」の「能力としての錯綜体」と題された節は、ヴァレリーがなぜ錯綜体という概念を強調するに至ったかを説明するのに、一九二〇‐一九三〇年代のフランスの知的風土を喚起している。この箇所はヴァレリーの錯綜体を理解するためにとても重要なので、要所をほぼテキストそのままに摘録する。
 その時代の知的風土を席巻していたのはフロイトの精神分析である。ヴァレリー自身、フロイトの「無意識」と自身の「錯綜体」との見かけの近似性は意識していた。しかし、「錯綜体という概念は、最初からフロイトを批判する意図をもって構想されたものであるというほうが正しい」と伊藤氏は言う(255頁)。「なぜなら「錯綜体(Implexe)という命名は、明らかに「コンプレックス(Complexe)」を意識しているからである」(同頁)。「錯綜体は、ヴァレリーが無意識や下意識についての考えを修正する目的で提出した概念なのである」(同頁)。
 「ヴァレリーの理解によれば、「無意識」や「下意識」とは「壁越し」や「地下室」、つまり意識のおよばないところで働いているひとつの「活動」である。それはさまざまな謎、私たちの行為や失調についての謎を説明してくれるものであり、それというのも、無意識や下意識の活動は「隠されたバネ」として、私たちの目に見える活動の背後にあってそれに推進力を与えているからである」(257頁)。
 「ヴァレリーにとって、無意識や下意識に関して批判すべきは、現れている活動の背後に、より深いところに、それを操る別の潜在的な活動を設定するという、この二段構えの構造、すなわち「抑圧」の構造である。ヴァレリーにとっての活動は、意識のおよばないところと意識のおよぶところに二つあるのではない。潜在的なものは、構造化されることによって、感じたり、反応したり、作ったり、理解したりする私たちの行為のために使用可能になるのである。ヴァレリーが錯綜体を「活動」ではなく「能力」であるというのは、それが行為を「操る」からではなく、構造化されることによって行為のために「使用可能」となるからである。この現動化には、「抑圧」の契機はまったくない。ヴァレリーの錯綜体が、間接的で偽りの仕方でしか知覚されず、そのものとしてその総体を認識できないのは、無意識や下意識のように、それが意識のおよばないところにあるからではない。それはたんに、錯綜体が「ひとりの人間の潜在的な可能性の総体」という超(非)時間的な概念だからである。」(258頁)
 このような錯綜体に私たちはどのように接近していくことができるのだろうか。