内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人生という芝居の最後の幕

2023-07-04 09:23:16 | 哲学

 十六・十七世紀、つまり、モンテーニュそしてパスカルの時代、comédie というフランス語は、芝居・劇全体を意味し、いわゆる喜劇ばかりでなく悲劇もそのなかに含まれていた。だから「人生というコメディ」というとき、それは悲喜こもごも・喜怒哀楽・栄光と悲惨などなど人生のすべての出来事をひっくるめてドラマとして捉えている。『エセー』第一巻・第十八(十九)章「われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない」に、モンテーニュが哲学者ソロンの言葉を以下のように解釈している箇所がある。

ce même bonheur de notre vie, qui dépend de la tranquillité et du contentement d’un esprit bien né, et de la résolution et de l’assurance d’une âme réglée, ne doit jamais être attribué à l’homme, tant qu’on ne lui a pas vu jouer le dernier acte de sa comédie, et sans doute le plus difficile.

われわれの人生の幸福というものは、生まれのよい精神が、平静でいられるのか、満足できるのかといったことにかかっているし、規律正しい精神が、確信をもって、決然としていられるのかにもかかっている。とはいえ、人生という芝居の最後の幕を見届けないかぎり、この人は幸福であったというべきではない。死という終幕こそは、たぶんもっともむずかしいのだから。(宮下志朗訳)

 原文の comédie は「芝居」と訳されている。関根秀雄訳も同様である。
 パスカルの『パンセ』には『エセー』のこの一節を踏まえていると諸家が指摘する断章がある。

Le dernier acte est sanglant, quelque belle que soit la comédie en tout le reste. On jette enfin de la terre sur la tête, et en voilà pour jamais.

最後の幕は血で汚される。劇の他の場面がどんなに美しくても同じだ。ついには人々が頭の上に土を投げかけ、それで永久におしまいである。(前田陽一訳、中公文庫)

芝居では、他のすべての場面がどれほど美しくても、最終幕は血なまぐさい。ついに頭上に土くれが投げかけられ、それで永遠に一巻の終わりだ。(塩川徹也訳、岩波文庫)

 『エセー』の一節には、まだ救いというか、暖かみが感じられるが、『パンセ』の断章には、読むものの心をまるで短刀で一突きに刺すような冷たい鋭さが感じられる。こんなこと言われたら、それまで陽気なおしゃべりで賑わっていた座が一挙にして凍りつくというか……。
 確かに、喜劇的な人生であれ、悲劇的な人生であれ、死が最終幕である点では同じだ。芝居が終われば役者は永久に舞台を立ち去り、戻っては来ない。