『新々百人一首』(新潮社、一九九九年)は、丸谷才一が王朝文学史についての深い学識に基づき独自の鑑識眼によって選りすぐった古代から中世までの名歌人による名歌百首である。
本書の意図について丸谷は「はしがき」で次のように述べている。「この詞華集にしてかつ注釈と評論集を兼ねる本がわたしの王朝文学史になるやうに仕組みたい、それによつてわたしの文学史の展望を差出したいといふことであつた。」「わたしの本は、古代の帝の、むしろ呪文に近い何かなのかもしれない口ずさみから、中世の連歌師の、俳諧を予感させる侘言までを収め、配列し、解釈し、鑑賞する試みになつた。さふいふ移り変りの姿のなかにわたしは天皇家と藤原家の文藝としての王朝和歌の全史を示したいと願つたのである。」(10頁)
本書の中から夏の部の藤原信実の一首とそれについての丸谷の注釈の一部を引用する。
むろの海や瀬戸の早舟なみたてて片帆にかくる風のすずしさ
播磨の室泊は古代から中世にかけて栄えた良港である。[…]ただしどういふわけか、一流歌人による絶唱が詠まれず、歌枕としての位置を確立することができなかつた。
この藤原信実の一首は、[…]「船納涼」ないし「舟中納涼」といふ題で詠んだものだが、動きがあつて景色が広く、気がせいせいする。信実が似絵の名手であつたことをここで持ち出すのは批評の常套とはいへ、しかしこのくらゐ見事に絵画的な小品に接したとき、詩中に画のある趣に触れないのもをかしなものだらう。
[…]
その室の港の海がまづわれわれの眼前にひろがり、そこでは瀬戸(両側から陸地が迫つて海の狭くなつたところ、干潮時、満潮時には潮の流れが早い)をゆく早舟(漕ぎ手の多い速力の早い舟)が波を立てて進む。そのとき片帆(舟が横風を受けて帆走するときの帆の状態、帆を斜めに張る)に受ける風の涼しさよ、といふわけである。
躍動感と爽快感にみちてゐる。かういふ楽しさを歌つた作は、王朝和歌では珍しい。ひよつとするとこの一首だけか。