内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『眼と精神』精読のための補助線としての〈錯綜体〉

2023-07-18 23:59:59 | 哲学

 フランス語に implexe という形容詞がある。ラテン語の implexus に由来する。このラテン語は動詞 implexer(混ぜ合わせる、互いに結びつける)の過去分詞であるから、implexe は元来「混ぜ合わせられた、互いに絡み合った」という意味である。
十九世紀末までは、演劇や文学作品について、その筋書きが複雑なことを言うために使われてきた。Littré はコルネイユから例を引いている。
 二十世紀に入り、この形容詞は哲学において使われるようになる。ある概念について、「一つの図式に還元することができない」という意味で適用される。
 この形容詞を実詞として独自の意味を込めて使っているのがヴァレリーである。「錯綜体」あるいは「混合体」と訳されているが、前者のほうが適訳だと思う。そして、このヴァレリーの用法に注目した哲学者の一人がメルロ=ポンティである。
 ヴァレリーは『カイエ』のなかで、錯綜体を次のように定義している。

J’appelle Implexe, l’ensemble de tout ce que quelque circonstance que ce soit peut tirer de nous.
                                          Cahiers, t. II, « Pléiade », p. 329.

 「何らかの状況が私たちからひき出しうるものの全体」ということである。この定義で面白いのは、私たちが状況から引き出すのではなく、状況が私たちから引き出す、と言っているところである。主体としての私たちが状況からなんらかのものを引き出すのではなく、ある状況のなかに置かれた私たちから状況が引き出すものごとの全体を「錯綜体」と呼んでいるのである。
 その錯綜体に対して私たちはどのような関係にあるのか。私たちが状況に主体の権限を譲渡したということではない。状況はいわば種々の意味の生成の場であり、その生成過程全体が錯綜体であるとすれば、私たちはその過程における意味生成の媒介者である。この媒介者の可能性の条件が身体性である。さしあたりこう規定しておく。