内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「完全な休息のうちにあることほど、人間にとって耐えがたいことはない」― パスカルにおける「倦怠 ennui」について(承前)

2023-07-10 12:52:43 | 哲学

 昨日の記事で引用した断章136のなかの「倦怠」についての塩川徹也氏の後注には断章622が参照箇所として挙げられていた。その断章をまず読んでみよう。

情熱も仕事も気晴らしも熱中もなしに完全な休息のうちにあることほど、人間にとって耐えがたいことはない。そのとき、彼は自分が虚無であり、見捨てられ、無能で自立できず、無力で空っぽなことを感ずる。するとたちまち彼の魂の奥底から、倦怠、メランコリー、悲しみ、悲嘆、憤怒、絶望が湧き上がる。

Rien n’est si insupportable à l’homme que d’être dans un plein repos, sans passions, sans affaires, sans divertissement, sans application. Il sent alors son néant, son abandon, son insuffisance, sa dépendance, son impuissance, son vide. Incontinent il sortira du fond de son âme l’ennui, la noirceur, la tristesse, le chagrin, le dépit, le désespoir.

 何らかの外的要因によって ennui が引き起こされるのではなく、むしろ完全な休息のうちにあって自分と向き合わざるをえないときに ennui は魂の奥底から湧き上がってくる。

このようにして、人間の不幸はあまりにも大きいので、悲しみの原因がまったくない場合でも、生来の資質そのものによって悲しみに陥るだろう。(断章136、塩川徹也訳)

Ainsi l’homme est si malheureux qu’il s’ennuierait même sans aucune cause d’ennui par l’état propre de sa complexion.

 原文の ennui を塩川氏は「悲しみ」と訳している。確かに、ここで「倦怠」は使いにくい(前田陽一訳は「倦怠」と訳している)。この悲しみは、何か不幸な出来事があったから生じるのではなくて、人間の生来の資質そのものから発生する。何もすることがない「ありのままの」自分に向き合うことは耐え難い。それは死すべき存在である人間の実存を剥き出しに突きつけてくる。

死の危険なしに死を思うより、死を思わずに死ぬほうが耐えやすい。(断章138)

La mort est plus aisée à supporter sans y penser que la pensée de la mort sans péril.