内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(二十三)― 唯一性と三位一体性との間

2015-04-20 09:28:45 | 哲学

 エックハルトのいう神性(Gottheit)は、そこから私たちの精神に表象が形成される根底のようなものである。それは、在るものについても在らぬものについても同様である。それゆえ、この神性は、構造的に、新プラトン主義者たちのいう言表不可能な〈一〉と似ている。
 ところが、キリスト教神学においては、このような考え方は、当然のこととして、三位一体の教義との関係で問題を引き起こす。エックハルトのいう神性は、正統的な三位一体の像に亀裂をもたらしかねない。実際、エックハルトは、〈一〉なる神性を、三位一体を構成する三つの位格の上位に置く。三位一体の三つの位格は、なお表象の秩序の中に属しているが、神性は、〈一〉のように、絶対的に認識不可能で表象不可能だからだというわけである。そこで、エックハルトにおいて、〈一〉と三位一体とでは、どちらが第一義なのかという問題が提起される。
 とはいうものの、エックハルトは、キリスト教の根本教義を疑ったことはない。それは三位一体についてばかりでなく、神の受肉についても天地創造についても同様である。この限りでは、エックハルトはまったく正統的キリスト教神学者の一人である。
 しかしながら、エックハルトが、ディオニュシウス・アレオパジタの系譜に連なり、媒介なしの神秘的合一(unitio あるいは hénôsis)において、神と被造物との対面を超えて、そこにおいて神の本質と魂の本質が一致する唯一なる「一者」(einic Ein)に到達する次元に特にその思索の焦点を合せていたことは否定しがたい。
 その次元においては、魂は神のうちに生まれ、神は魂のうちに生まれる。神が言表不可能で、理性によっては到達不可能であるとしても、神はなお精神的合一(hénosis, Einunge)において接近可能であることにかわりはない。この合一は、理性的な思弁の働きによって準備される。つまり、神が何であるかということは言えないが、それでもなお、神との接触は可能である。神が被造物とはまったく他なる何かであるかぎりにおいて無であると言われるとすれば、一切の被造物もまた、その神との関係において、まったくの無である(Alle crêaturen sint ein lûter niht)。
 このテーゼに異端の嫌疑がかけられる。エックハルトの死後、一三二九年三月二十七日付で公にされた教皇勅書「主の畑において」(In agro dominico)で、時の教皇ヨハネス二十二世は、エックハルトの著作および説教から抜き出された二十八箇条の命題を挙げ、そのうち十七箇条を異端とし、十一箇条を異端の嫌疑の濃いものとして、「信仰の明々白々たる真理に反する」との断罪宣告を下した。その第二十六条が上記のテーゼに対応している。

Omnies creaturae sunt unum purum nihil : non dico quod sint quid modicum vel aliquid, sed quod sint unum purum nihil.

すべての被造物はまったくの無である。私は、それらがわずかばかりのものとか何ものかであると言うのではなく、それらはまったくの無であると言うのである。

 ここから、万有の起源にある唯一性を再び見出すためには、諸被造物の無を削除するのが適当であるという帰結が導かれうる。すべての起源である一者は、複数性の彼方に探し求められなければならない。しかも、その乗り越えなければならない複数性は、エックハルトが私たちに捨て去るよう促す被造物の状態としての複数性ばかりではなく、父と子と聖霊という三位一体の位格の複数性でもあるのだ。
 エックハルトがこのように主張することから、名前ばかりのキリスト教徒で、実のところは三位一体の教義を信じてはいなかった新プラトン主義者だと結論づけなくてはならないであろうか。いや、むしろ、エックハルトは、三位格の〈一〉性を強調しはしたが、三位一体を排除も放棄もしていないと言うほうが穏当であろう。エックハルトは、三位一体の知解可能な〈一〉性、つまり、三位格における〈一〉なるものに到達しようとしていたのである。この〈一〉性は、三位格と区別された、いわば四番目の位格として、他の三位格を基礎づけるものではなく、父と子と聖霊の〈一〉性に他ならない。いわば、〈一〉なる三位性である。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(二十二)― 知性(vernünfticheit)こそ神の神殿である

2015-04-19 11:31:59 | 哲学

 エックハルトにおける知性の存在に対する優位は、『ヨハネによる福音書』第一章第一節「太初に言あり。言は神と偕にあり、言は神なりき」(『文語訳 新約聖書』、岩波文庫、2014年)をその根拠の一つとしている。存在はすでに被造物の顕現であるから、エックハルトは、被造物と造物主とを区別することに力を注ぐ。神を存在として語ることは、神的無限性をあまりにも限定することになり、その絶対的超越性を見損なうことになるからである。
 ところが、その後の議論の展開において、エックハルトは、存在と神との等価性を訴えているように見える。実際、エックハルトが「存在は神である」(esse est Deus)と主張するとき、在るところの存在は神の存在であると言おうとしている。
 『三部作』の「全般的序文」を見てみよう。「在るところのすべては、存在によって、存在から、在りうる或は現に在るという事実を得ている。それゆえ、もし存在が神以外の何ものかであるならば、事物は神以外の何ものかによって存在を得ていることになる」(omne quod est per esse et ab esse habet, quod sit sive quod est. Igitur si esse est aliud a deo, res ab alio habet esse quam a deo)。ところが、創造された諸事物は、その存在を神の存在から得ている。すべての「存在者」は神の存在のうちに在る。神なしでは、諸事物は存在しないであろう。しかし、神自身は存在の彼方にある。
 それゆえ、エックハルトは、『出エジプト記注解』の中の有名な一節「我は有りて在る者なり」(Ego sum qui sum)を、神の名についての問いに答えることの神による拒否と解釈している。それは、「否定の否定」(negatio negationis)であり、〈一〉であることを否定的に言う仕方である(Unum negative dictum)と考えるのである。
 マイモニデスに依拠しながら、エックハルトは、次のように神と存在とを区別する。「否定の否定」によって、神的本質の純粋性が示されている、なぜなら、神において有るのは、存在ではなく、存在の純粋性(puritas essendi)だからである。
 ここで、エックハルトは、ドン・スコトゥス的な「存在の一義性」のテーゼに対立している。被造物の存在と神の存在とについて一義的に存在を語ることはできない、なぜなら、顕現した世界と創造主との間には深淵があるからである。ただし、この深淵は、神秘的合一において人が「神において神となる」(devenir Dieu en Dieu)とき、これを越えることができる。これがエックハルトの主張である。
 エックハルトにおける神の存在性と超存在性(非存在性)との区別と関係については、エックハルトの述作の中に、神の非存在論(méontologie)の立場と〈存在-神〉論的表現との間の矛盾あるいは非連続を見たり、後者から前者への転回を見たりするなど、研究者たちの間で解釈が分かれている。しかし、神はその本質において存在の彼方にある、というテーゼは、エックハルトにおいて、やはり、根本的なテーゼであると私たちには思われる。
 ドイツ語説教九(全集版説教番号)で、エックハルトは、神をその存在において捉えるのは、神をその前庭において捉えることであるが、その神殿の内部では、神は知性(vernünfticheit)であると言う。「知性こそ神の神殿である。神が最も本来的に住いするのは、その神殿、すなわち知性をおいて他にない」(『エックハルト説教集』、田島照久編訳、岩波文庫、1990年、57-58頁)。同じ説教の少し前のところを引く。

どの事物もその有の内で働く。どんな事物もその有を超えて働くことはできない。火は木以外のどんなところにおいても働くことはできない。しかし神が活動しえる場にあっては、有を超えて神は働くのである。つまり神は非有において働く。まだ有が存在しなかったときに、神は働いたのである。つまり、有がいまだ存在しなかったときに神は有をあらしめたのであった。考えの足らない師たちは、神はひとつの純粋な有であると語る。最高の天使が蚊をはるかに超えているように、神は有をはるかに高く超えているのである。もしわたしが神を有であると名づけたならば、それは太陽を色あせた、あるいは黒いと言おうとするようなものであって、神に対して正しからざることを働くことになろう。神はあれでもなくこれでもない(55頁)。

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(二十一)― 存在・知性・一者、エックハルトにおける新プラトン主義

2015-04-18 12:36:48 | 哲学

 エックハルトは、ラテン語著作『三部作』(Opus tripartitum)の全般的序文とその第二部「命題論集」(Opus propositionum)の序文の中で、「存在は神である」(esse est Deus)と明言している。これは、それまでの伝統的な命題「神は存在である」(Deus est esse)を転倒させたものである。この限りでは、エックハルトは、新プラトン主義的〈一者〉論の系譜によりも、トマス・アクィナスの存在論の系譜に連なるかに見える。しかし、エックハルトにおいては、〈一〉あるいは神性の思想が存在の思想に対して優位を占める。後者は前者に依存すると考えられているからである。
 一三〇二年から一三〇三年にかけてのパリでの第一回目の神学教授期におけるエックハルトの討論に関しては、『パリ討論集』(Quaestiones Parisienses)が残されており、その中には、エックハルトとフランチェスコ会士ゴンザウルスとの討論記録が収録されている。その中で、エックハルトは、神における知性(知ること)の存在(在ること)に対する優位を主張している。「神は、在るがゆえに知解するのではなくて、知解するがゆえに在る」(Deus non intelligit quia est, sed est quia intelligit)と言う。それゆえ、神にあっては、「知解が存在の根拠であって」(est ipsum intelligere fundamentum ipsius esse)、その逆ではない。
 神は知性である(Dieu est Intellect)。神性が存在を知るのであって、この意味で、神性は、〈言葉〉あるいは〈知性〉として、存在に先立つ。この知性に優位を置く思想は、新プラトン主義的思想であり、その第二実体(位格)の考え方に対応している、つまり、知性あるいは精神は、存在に対しては優位に立つが、〈一〉(一者)に対しては下位に位置する、という考え方である。
 〈在る〉(esse)-〈生きる〉(vivere)-〈知解する〉(intelligere)という、中世においてまさに古典的な三位格について、エックハルトは、〈知解する〉を最上位に置く。なぜなら、知解が最も非限定なものとして最高位を占めると考えるからである。それゆえ、この三位格をキリスト教伝来の三位に適用する際、エックハルトは、父なる神に〈知解する〉を、神の子に〈生きる〉を、そして聖霊に〈在る〉をそれぞれ配当する。
 〈知解する〉は、かくして、エックハルトにおいて、もっとも限定を受けること少ない概念として位置づけられ、それゆえに、神性の超越性をもっともよく説明することができると考えられている。
 しかし、この〈知解する〉も、最終的には、さらに上位を占める〈一〉(一者)に従属させられるのは、まさに新プラトン主義の場合と同様である。
 ここまでの祖述は、Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart. Une mystique du détachement (Ousia, 2000) の八七-八八頁の記述に基づいているが、それとは異なった解釈が上田閑照『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻、一五〇頁)に示さているので、その部分を引用しておく。

エックハルトが神を「存在の彼方」とするところは確かにプロチン、プロクロスの新プラトン主義的ではあるが、その「存在の彼方」を知性認識とするのは、新プラトン主義とはちがってエックハルト独特の立場である(新プラトン主義においては知性に当る思惟は、未だ思惟と思惟されるものとの二元性を含んでいる故に一者の下位に置かれている)。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(二十)― 神性(Gottheit)と神(Gott)との区別と関係

2015-04-17 17:26:20 | 哲学

 エックハルトは、「神性(Gottheit)」と「神(Gott)」とを区別する。後者は前者に全面的に依存する。なぜなら、神性こそ、そこからすべてが発出する〈一〉だからである。神的本質それ自体は認識不可能であり、それについては、否定によって、あらゆる多数性・複数性を排除することによってしか喚起することができない。この意味で、〈神〉は「神」の彼方にある。それは超越的であり、言表不可能なので、ニコラウス・クザーヌスが言うところの「学識ある無知(docte ignorance)」を通じてしか接近することができない。「神」とは、被造物との関係に入った神性である。それは、三位一体として顕現し、啓示された神であり、以来、認識可能となる。
 エックハルトは、人間なしには神は存在しない、なぜなら、神性が神となるのは被造物があるときだけだからである、とまで言うことができた。つまり、被造物がまったく存在しなければ、神は存在しないであろう、と言い切ったのである。神性が否定的認識(connaissance apophatique)であるのに対して、神は肯定的認識(connaissance cataphatique)の対象である。
 この神性と神との区別およびそれぞれに対する認識方法の違いについての神学的言説の起源は古い。それは、偽ディオニュシウス・アレオパジタ(五世紀頃のシリアの神学者)にまで遡る。そして、エックハルトに若干遅れて、しかしエックハルトとはまったく独立に、東方のビザンティン神学において、グレゴリオス・パラマス(1296-1359)によって、認識不可能な神の超本質と神から発出する認識可能で可視的なエネルギーの区別という形で大きく発展させられる。神は、その超本質においては接近不可能だが、神はその発出したエネルギーの諸形態において関与可能(participable)となる。
 エックハルトは、ディオニュシウス的否定神学の系譜にはっきりと連なっている。この神学によれば、神は、いかにしても言い表しがたく、それにあてがわれたあらゆる名前を取り払うことによってしか到達することができない。このような否定過程の果てに来るのが神的無であるから、この神的無は、神の非在とは何の関係もない。無なる神は、無条件的・超越的神なのであり、顕現されたものの無である。つまり、神を超えた神性である。それは、あらゆるイメージの彼方にあり、いわばイメージなき存在である。
 神あるいは神性を無と述定することによって、エックハルトは、神は存在しないと言いたいのではない。神は、存在でも無でもない、より正確には、存在と無の彼方にあり、在るもの無いもののあらゆる表象に先立ち、あらゆる存在論的限定に先立っている、と言いたいのである。存在が何ものかであるとすれば、神は無であるというのは、神は、顕現という仕方で表象されうるものの彼方にある、ということである。神性としての神は、まったく他なるものなのである。だから、神性は、否定的認識の対象にしかなりえず、類推的認識の対象にはなりえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十九)― エックハルトへの系譜学的アプローチ

2015-04-16 09:46:29 | 哲学

 マイスター・エックハルト研究文献は、英独仏語に限っただけでも膨大な量で、とてもではないが、専門家でもない私にはそれらを一望することさえできない。ご興味のある方は、Nikulaus Largier の Bibliographie zu Meister Eckhart, Fribourg (Suisse), Universitätsverlag Freiburg, 1989 及び同氏が学術誌等で定期的に継続しているその補遺を参照されたい。
 それにしても、素人は素人なりに、エックハルトを真剣に読むためのアプローチの仕方を作業仮説的に規定しないことには、それでなくても難解で、魅惑的ではあるが誤解を招きやすい表現に満ちたテキスト群にいささかなりとも接近することさえできない。そこで、テキスト読解に先立って、私なりのアプローチの仕方を暫定的に規定しておきたい。
 ストラスブールに留学生として来た一九九六年以来、仏語のあるいは仏訳されたエックハルト研究書を少しずつ買い集めてきた私の手元には、今三十冊余りの研究書がある。それらを覗いて見ただけでも、エックハルト研究には実に多様なアプローチがあることがわかる。その多様性にはいくつかの理由があるが、その主な理由の一つは、エックハルトの教説そのものに多様な読みを許す多面性があることである。それはあたかも見る角度によって相貌が変化する多面的な像のようである。エックハルトを、神学者、説教者、神秘家、はたまた哲学者として見るか、あるいはそのいずれでもあると見るかによって、自ずとテキストの読み方も変わってくる。
 エックハルト研究をさらに多様化させている要因の一つに、比較思想的アプローチがある。このタイプのアプローチは、ルドルフ・オットーの『西と東の神秘主義―エックハルトとシャンカラ』(一九二六年)を嚆矢とするが、その後もアラブ思想研究の立場からの比較研究など、今日まで様々な試みがなされてきている。日本との関係に限定して言えば、それは、鈴木大拙によって先鞭をつけられ、上田閑照によって展開・深化された、禅仏教との比較研究である。
 異端の嫌疑を掛けられるほどにある方向に徹底化されたエックハルトのドイツ語での言説は、こうした比較研究を誘発しやすい章句に事欠かない。しかし、当然のことながら、このような比較研究的アプローチは、テキストそのものの入念な読解作業、その背景をなす文脈の歴史的研究、思想史的系譜学的研究をまず行ってからでないと、表面的で牽強付会なものに終わってしまうおそれなしとしない。なぜなら、それでは、いわば最初から見込み捜査を行っているようなものだからである。これでは、自分の見方に都合の良い「証拠」だけしか見えてこない。
 さしあたり私が自分の読解作業の「ガイド」として参照するのは、すでに言及したことがあるが、Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart. Une mystique du détachement (Ousia, 2000) と、その四年後に同氏が刊行した Maître Eckhart (Entrelacs, 2004) とである。このニ著の中で、一九七一年生まれのベルギーのこの若き俊秀は、エックハルト研究の歴史と現在について、実に情報量が豊富でバランスが取れていて細部まで行き届いたパノラマを明晰この上ない文章で提示してくれている。
 明日の記事から、今回の一連の記事の主題である「離脱 Abegescheidenheit」と「放下 Gelâzenheit」というエックハルト神秘思想の中心概念について、Benoît Beyer de Ryke が系譜学的アプローチを提示している部分を読んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十八)― 正統と異端の危険なまでの接近が生み出す神秘思想の生成圏

2015-04-15 00:00:01 | 哲学

 十三世紀から十四世紀にかけて、西洋キリスト教社会をそれまで支配してきた宗教的権威は、燎原の火のごとくに急速にヨーロッパ各地に広がっていく異端運動によって、その根底から揺るがされていく。ライン河・フランドル地方神秘主義の歴史的展開も、この「正統と異端」という問題軸の中で理解されなくてはならない。
 教会当局のベギン会の女性たちへの非難・攻撃・弾圧は、「自由心霊派」との「共謀」がその主たる理由であった。この「自由心霊派」という名称は、何かそれ自体で独立の組織としてまとまっていた一セクトを指すものというよりも、当時のある一定の傾向を持った異端運動全体を指すために教会当局によって用いられた呼称と見たほうが穏当のようである。この「自由心霊派」運動は、ベギン会の女性たちが世俗語によって表現した神秘思想から、その中に孕まれていた異端的要素を抽出し、さらにはそれを濃縮した形で表現している精神運動だと見ることができるだろう。
 ベギン会の女性たち、そして後にはエックハルトが異端の嫌疑を掛けられた理由は、当局によれば、主として、完全な状態に至った人間の魂の神格化(あるいは、より端的に言えばその神化)を認め、その限りでの神と人間の同一性を強調しすぎたという点にある。この点において、ベギン会の女性たちばかりでなく、もともと教会教義の「正統」を代表しているはずのエックハルト(パリ大学神学教授としてドミニコ会によって二回派遣されたのは、エックハルト以前にはトマス・アクィナスの例があるだけ)の教説は、危険なまでに「自由心霊派」によって代表される「異端」と接近している。
 歴史的現象としての「自由心霊派」の位置づけに関しては、現在もなお、専門家の間で大きく意見が分かれている。一方には、実際に各地で活動していた異端的信仰者集団たちの間にいわば友愛の精神によって形成されていたネットワークとしての実在を「自由心霊派」に認める立場があり、他方には、「自由心霊派」は、異端運動取締のために異端審問官たちによって捏造されたまったく架空の運動組織と見なす立場がある。いずれにせよ、当時のヨーロッパ各地に、異端的な思想を奉じ、教会の権威を無視した生活を送っていた信仰者たちがいたことは事実として認められている。その出自は、実に様々で、都市在住の貴族階級から、裕福な商人たち、現役の聖職者、棄教者、さらには粗野で文盲の田舎者まで、「自由心霊派」として一括りにされいた。
 「自由心霊派」の中心思想である「人間の魂の神化」は、一見したかぎりでは、エックハルトに代表されるライン河流域神秘思想の教説と重なり合うように見える。しかし、次の一点において、両者は決定的に異なる。エックハルトがその神化は恩寵によると終始一貫主張しているのに対して、「自由心霊派」は、恩寵なしの神化を主張している。その根拠は、反キリスト教的な汎神論である。神は存在するすべてのものであり、したがって、人間は、その本性によって神になることができる、と彼らは考える。ところが、エックハルトは、神がその本性によってそれであるところのものに、人間の魂は恩寵によってなることができる、とドイツ語説教の中で繰り返しているのである。
 エックハルトが異端の嫌疑を掛けられるに至ったのには、当時の宗教政治的状況も大きく作用しているので、異端宣告の理由を単に教説内容そのものだけから説明することはできない。ただ、その教説内容が、「自由心霊派」のそれと、少なくともその表面において、危険なまでに類似していたことが、「自由心霊派」の信徒たちに、エックハルトという宗教的権威の名を借りての自己正当化の口実を与えてしまい、それが同派の拡大に勢いを与えたことは間違いないであろう。
 私たちは、今日の記事まで十八回に渡って行ってきた、エックハルトの「離脱・放下」論攻究のための予備的考察を、ここで一先ず終えることにする。明日以降、私たちは、エックハルトのドイツ語説教と論述との中に、正統と異端の危険なまでの接近によって生み出された実存的緊張という磁場における神秘思想の生成圏に立ち入っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十七)― 魂の自由と異端審問、マルグリット・ポレートとエックハルトの交叉点

2015-04-14 00:00:02 | 哲学

 マイスター・エックハルトに影響を与えた女性神秘家として、アントウェルペン(アンヴェルス)のハデヴィジック(Hadewijch d’Anvers)、マグデブルクのメヒティルド(Mechtilde de Magdebourg)、そしてマルグリット・ポレート(Marguerite Porète)の三人をこれまで取り上げてきたが、それぞれに割いた記事の分量の差からも想像がつくとは思うが、この三人の中では、マルグリットの影響が一番大きい、と私は考えている。
 まさに同時代人であったマルグリットとエックハルトは、その当時のキリスト教社会における立場としては、それぞれに「正統」と「異端」に属しており、その意味では、真っ向から対立していたわけであるが、同じ時代状況を生き、その思想的課題に全身全霊をもって取り組んだという意味では、同じ精神的気圏に生きていたと言うことができる。
 エックハルトがマルグリットの生前からその噂を聞き及んでいたかどうかについては確たることは言えないが、遅くとも、マルグリットがパリで火刑に処された一三一〇年の翌年から二年間、エックハルトがパリ大学神学教授として二度目の教鞭を取っている間に、マルグリットの教説について知る機会があったことは、ほぼ確実である。しかも、その間、エックハルトは、サン・ジャック修道院で、まさにマルグリットを異端審問官として断罪したパリのギヨームと何度も会う機会があったのである。おそらく、ギヨームの口から直接、異端審問の経過とマルグリットが火刑台で身を焼かれるまでの状況について詳しく聴く機会があったに違いない。
 エックハルトのドイツ語説教の中には、マルグリットの教説と共鳴する主張がいくつも見出されるが、その良き例の一つが有名な「精神の貧しさ」についての説教五二(Beati pauperes spititu)である。異端審問官たちがマルグリットに対して嫌疑の眼差しを向けたのは、主に、諸徳目の放下、つまり、神格化された魂による諸徳目の「解雇」である。神格化された魂(この確かに誤解を招きやすい表現が言わんとするところは、魂が神にいわば昇格するということではなくて、まったく逆に、〈愛〉なる神ご自身が己のうちで直に働くまでに無化された魂のことである。この点については、これまでの一連の記事でくり返し説明してきた)、つまり、己の意志について貧しさの極みにある魂は、一切の徳目と善行とを放棄しなくてはならない。
 こうした外的拘束からの魂の解放を基礎的経験とする神秘主義は、教会当局が信徒たちに課す外的秩序と義務とに対する個人の魂の本質的自由という主張を論理的に含みうる。しかも、このような「危険思想」が、当時の知的特権階層である聖職者・神学者・学者たちにしか読めないラテン語ではなく、一般民衆が直接聴いて理解できる、各地方の現地語で語られたのであるから、当局が警戒したのも無理はない。
 十三世紀から十四世紀にかけてヨーロッパ各地に広がった異端運動に直面して、教会当局が採用した方針は、排除か統合かの二者択一であった。統合とは、既存の修道会のいずれかに下部組織として「危険分子たち」を回収することである。自分たちのそれまでの独立した、しかし不安定で解体の危機にも曝されていた共同生活が、教会の権威の下にこのように統合されるとき、ベギン会の女性たちは、自分たちの組織が教会の保護の対象となることと引き換えに、当局の課す規則を受け入れなければならなかった。排除とは、そのような統合を拒否し、どこまでも自由と独立を求める信仰者たちを、異端として排斥することである。このような弾圧的姿勢は、十四世紀初めに盛んであった。とりわけ、当局からはっきりと異端の烙印を押されていた、いわゆる「自由心霊派」たちに対して過酷を極めた。この「自由心霊派」との親近性を疑われたことが、マルグリットおよびベギン会の女性たちが異端の嫌疑を掛けられた主な理由だったのである。
 エックハルトがパリでの二度目の神学教授としての任務を終えた後、私たちが再びその姿を見出すのは一三一四年、ストラスブールにおいてである。以後約十年間、エックハルトは、このアルザス地方の中心都市で、現地語である中高ドイツ語で地元の僧俗に説教を続ける。アルザス地方は、元来異端的運動の長い歴史を持つ地方の一つであり、まさにその異端運動への現場での対処がエックハルトに課された大きな使命の一つであった。ストラスブールからケルンに移った後もドイツ語説教は継続される。そのエックハルトに、あろうことか、異端の嫌疑が掛けられる。
 当時ライン河流域の教区を管轄していたケルンの大司教ハインリッヒ・フォン・ヴィルネブルグは、一三〇六年から、「不服従な」ベギン会の女性たちとベガルド会の男性たちの多くを、火刑に処すかライン河で溺死させていたが、その同じ大司教が、一三二六年、エックハルトに対する異端審問を開始するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十六)― 愛の神秘主義と存在の神秘主義との融合

2015-04-13 00:04:00 | 哲学

 マルグリット・ポレートにおいてその最も昇華された表現の一つが見出される、ベギン会の女性たちを担い手とする神秘主義は、「恋愛的神秘主義」(mystique amoureuse)と呼ばれ、情感的・感情・官能的要素を多分に含んだ愛なる神との合一の神秘主義と特徴づけられる。それは、エックハルトに代表されるような、知性の働きに重きをおく「思弁的神秘主義」(mystique spéculative)との対比でそう特徴づけられるのが一般的で、ときにはいささかの揶揄がそこに含まれていることもあり、不当にも軽侮の念がかいま見られることさえある。
 抒情的かつエロス的要素に彩られた「愛の神秘主義」と形而上学的思弁性を色濃く備えた「存在(あるいは本質)の神秘主義」とが、十三世紀から十四世紀にかけてのキリスト教神秘主義運動を方向づける対立的な傾向として提示されることもある。もっと極端な立場として、前者に「女性的な」官能性を孕んだ神秘主義を、後者に「男性的な」知的で精神主義的な神秘主義を配当し、前者を後者の下に置くというあからさまに男性優位主義的な見方もある。しかし、アラン・ド・リベラが正当にもこのようないわば性差別的な図式を批判しているように(Alain de Libera, Penser au Moyen Âge, Seuil, collection « Points Essais », 1991, p. 299)、事態はもっと複雑である(Benoît Beyer de Ryke, Maître Eckhart. Une mystique du détachement, Ousia, 2000, p. 51)。
 実際、この経験的感覚性と思弁的形而上学性という神秘主義の二つの構成要素は、ベギン会の女性たちにすでに見出されるのであり、愛の神秘主義と存在の神秘主義との融合こそ、彼女たちがヨーロッパ宗教思想史にもたらした最も大きな貢献だと言うことができる。しかし、この融合は、彼女たちの独創によるものではない。一方では、当時の宮廷恋愛文学にその〈愛〉の表現形式を借り、他方では、シトー会の聖ベルナール(1090-1153)の旧約聖書『雅歌』説教に遡る婚礼の神秘主義に多くを学ぶことによって、世俗の愛が神秘的合一に変容させられることで、この融合は成就されたのである(G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988, p. 15)。
 この後者の系譜に連なり、ベギン会の女性たちに決定的な影響を与えたのが、聖ベルナールの友人で、もともとは他派の神学者・修道院長でありながら、聖ベルナールの改革運動に共感を持ち、ついには六十歳になってからシトー会の平修道僧になるサン・ティエリーのギヨーム(1075-1148)である。アウグスティヌス主義が、魂と神との単なる類似しか肯定せず、汎神論を回避するために、魂の神への限定的分有しか認めなかったのに対して、サン・ティエリーのギヨームは、ギリシア教父たちに依拠しながら、はるかに徹底した仕方で、「人間の神格化(théôsis)」を肯定する。
 ギヨームは、しかし、人間の神格化を肯定する一方で、人間と神との違いを明確化することにも心を砕く。そのきわめて微妙な区別とは、「神であること」(« être Dieu »)と「神がそれであるところのものであること」(« être ce que Dieu est »)とを区別することからなる。この違いを含意としてもった「人間の神格化」は、「魂は、もともと神であった」、より正確には、「魂は、神の不可欠な部分であった」、だから、「己の起源に立ち返ることによって、神がそれであるところのものに再びならなくてはならない」というテーゼを主張しているのである。このテーゼが、ハデジウィックでは、「神とともに神となる」(« devenir Dieu avec Dieu »)という表現になり、エックハルトでは、「神において神となる」(« devenir Dieu en Dieu »)という表現へと変奏されていく(Benoît Beyer de Ryke, op. cit., p. 53)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十五)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(八)

2015-04-12 00:22:26 | 哲学

 マルグリット・ポレートは、「何故ということなしに」(sans pourquoi)愛する人々と愛から多額の収益を期待する者たちとを対比する。高貴なるものと下劣なるものとのこの対比は、『鏡』の中では、「精妙なる愛を求める」魂と利益に惹きつけられた魂との対立として表現されている。私たちは、エックハルトが、同じような対立を、ドイツ語説教の中で、純粋な離脱を理解した人々と外面的で自己中心的な仕方で自己救済を図る者たちとの間に立てているのを見るだろう。マルグリットは、おそらくエックハルト以上に激しい調子で、「地上の楽園の探求者たち」に対しての軽蔑を様々な表現によってくり返す。それらの中には、彼女を異端として弾劾したパリ大学の神学者たち、彼女のことを正しく評価できなかった修道士たち、彼女の教えを理解できなかったベギン会の女性たちも含まれている。
 マルグリットは、『鏡』の中の魂のようにその生を生き切った。その生き方は、公正な裁きが期待できない異端審問の席へ召喚を拒否し、火刑の脅迫にも己の信ずるところを撤回することはなく、火刑台の上で生きたままその身を焼かれるまで、「論理的に」一貫していた。ここで、レジスタンス活動に身を投じ、ゲシュタポによって銃殺された数理哲学者ジャン・カヴァイエスをその友人だったジョルジュ・カンギレムが哀悼の意を込めて評した言葉「ジャン・カヴァイエス、それは死に至るまで生き抜かれたレジスタンスの論理である」(« Jean Cavaillès, c'est la logique de la Résistance vécue jusqu’à la mort », Georges Canguilhem, Vie et mort de Jean Cavaillès, Allia, 2004, p. 36)を捩ることを許されるなら、次のように言うことができるだろう。マルグリット・ポレート、それは火刑台まで生き抜かれた魂の解放の論理である。
 その生きられた論理的一貫性は、神秘家がどうしても突き当たる矛盾、神についての言表不可能性の自覚と神についての夥しい述作への衝迫との間の矛盾を説明するところにも表れている。述作は、彼女にとって、魂の解放に至る以前の、つまり魂がまだ「彷徨えるものたち」の仲間であったときに必要とされたのだ。
 マルグリットが自らの魂の遍歴を語るのは、人間の魂がその起源から遠く離れるとき、再び解放され無化されるまでは無益な苦労を重ねるものであることを示すためであった。そこに記述された一つの生ける魂の遍歴と無化によるその解放の経験に普遍性があるからこそ、教会当局から禁書という烙印を押されたにもかかわらず、『鏡』は、中世からルネサンス期にかけて言語的障壁を乗り越えつつ広く読まれたのであろう。
 今日マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を読むことは、一人の類稀な古の女性神秘家への好事家的趣味から、あるいは、中世ヨーロッパの異端運動への宗教史的関心から、あるいはまた、中世フランス文学研究の一対象としてだけ可能なのではない。それは、己の魂の救済を渇仰している人たちにとっての天来の甘露でありうるだろう。

Et désormais Amour œuvre en elle sans elle.

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十四)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(七)

2015-04-11 13:38:51 | 哲学

 『単純な魂の鏡』には、教会当局から異端の嫌疑を掛けられやすい詞章が少なくないことは、マルグリット・ポレート自身、よく自覚していた。しかし、その大胆な表現がそこから溢れ出てくる魂の経験の真正性は、虚心坦懐に彼女の述作を読む人たちの中に、当時からよき理解者を見出していた。その中には、当代一流の神学者たちも含まれていた。マルグリットの死後も、『鏡』は、数世紀に渡って、国境と言語的障壁とを越えて、ヨーロッパ諸国で熱心な読者によって読み継がれていく。
 しかし、魂の本質的な自由を訴えるマルグリットの神秘主義思想の眩いばかりの結晶である『魂』は、個人の精神の自由と独立を高らかに掲げる哲学が登場する近代に入り、忘却の淵に沈んでしまう。このフランス中世文学の忘れられた精華が埃を被った古文書の間から再び見出されたのは、一八六七年のことにすぎない。しかも、その発見者 Francesco Töldi は、『鏡』の作者を、誤ってハンガリーの聖マルガリタに帰してしまう。『鏡』の真の作者はマルグリット・ポレートであることがイタリア人学者 Romana Guarinieri によって確証されたのは、それからさらに八十年近く後の一九四六年のことである(この中世神秘主義研究の大家が一九六五年に出版した、自由心霊派についての浩瀚な研究書の中のマルグリット・ポレートに割かれた三百五十頁近い章節は、今日でもすべてのマルグリット・ポレート研究者が必ず参照しなければならない基礎文献である)。
 教会当局がマルグリットの『鏡』に異端の嫌疑を掛けたのは、その内容を当時急速にヨーロッパに広まりつつあった異端運動「自由心霊派」の教説と重ねあわせて見ていたからである。嫌疑の対象となった主張のうち、とりわけ危険だと当局に睨まれたのは、「魂の本質的な自由」という主張であった。しかも、この主張が、主張する当の本人によってそう考えられ、生きられただけでなく、世俗の言語で表現されていることに当局は脅威を感じたのである。これには、十三世紀からヨーロッパで進行しつつあった宗教革命の推進力となっていた中心的テーゼが、貧困のテーゼと不可分の関係にある自由のテーゼだったということも背景としてある。いつの時代でも、民衆たちからの自由の要求は、権力者たちにとってはこの上なくおぞましいものである。教会当局もまた、あらゆる手段を使って自由を求める宗教革命運動を弾圧しようとしたことは言うまでもない。
 しかし、マルグリットの主張は、いわば魂の最終的永久革命論なのであって、社会秩序や道徳を無視するものではなかった。『鏡』の中で、解放された魂が道徳を構成する諸徳目に暇を取らせるのは、最初から道徳を無視するためではなく、諸徳目をまず謙虚に順守し、十全にその要求を満たした上で、それらを超越した段階に魂が〈愛〉の導きによって到達したからであった。その至高の審級に至るまでの階梯をマルグリットは七段階に分け、そのそれぞれについて記述を与えているばかりでなく、自らの魂も、「彷徨えるもの」であったとき、まさにそれらの階梯を辿ったことを認めてもいるのである。