エックハルトのいう神性(Gottheit)は、そこから私たちの精神に表象が形成される根底のようなものである。それは、在るものについても在らぬものについても同様である。それゆえ、この神性は、構造的に、新プラトン主義者たちのいう言表不可能な〈一〉と似ている。
ところが、キリスト教神学においては、このような考え方は、当然のこととして、三位一体の教義との関係で問題を引き起こす。エックハルトのいう神性は、正統的な三位一体の像に亀裂をもたらしかねない。実際、エックハルトは、〈一〉なる神性を、三位一体を構成する三つの位格の上位に置く。三位一体の三つの位格は、なお表象の秩序の中に属しているが、神性は、〈一〉のように、絶対的に認識不可能で表象不可能だからだというわけである。そこで、エックハルトにおいて、〈一〉と三位一体とでは、どちらが第一義なのかという問題が提起される。
とはいうものの、エックハルトは、キリスト教の根本教義を疑ったことはない。それは三位一体についてばかりでなく、神の受肉についても天地創造についても同様である。この限りでは、エックハルトはまったく正統的キリスト教神学者の一人である。
しかしながら、エックハルトが、ディオニュシウス・アレオパジタの系譜に連なり、媒介なしの神秘的合一(unitio あるいは hénôsis)において、神と被造物との対面を超えて、そこにおいて神の本質と魂の本質が一致する唯一なる「一者」(einic Ein)に到達する次元に特にその思索の焦点を合せていたことは否定しがたい。
その次元においては、魂は神のうちに生まれ、神は魂のうちに生まれる。神が言表不可能で、理性によっては到達不可能であるとしても、神はなお精神的合一(hénosis, Einunge)において接近可能であることにかわりはない。この合一は、理性的な思弁の働きによって準備される。つまり、神が何であるかということは言えないが、それでもなお、神との接触は可能である。神が被造物とはまったく他なる何かであるかぎりにおいて無であると言われるとすれば、一切の被造物もまた、その神との関係において、まったくの無である(Alle crêaturen sint ein lûter niht)。
このテーゼに異端の嫌疑がかけられる。エックハルトの死後、一三二九年三月二十七日付で公にされた教皇勅書「主の畑において」(In agro dominico)で、時の教皇ヨハネス二十二世は、エックハルトの著作および説教から抜き出された二十八箇条の命題を挙げ、そのうち十七箇条を異端とし、十一箇条を異端の嫌疑の濃いものとして、「信仰の明々白々たる真理に反する」との断罪宣告を下した。その第二十六条が上記のテーゼに対応している。
Omnies creaturae sunt unum purum nihil : non dico quod sint quid modicum vel aliquid, sed quod sint unum purum nihil.
すべての被造物はまったくの無である。私は、それらがわずかばかりのものとか何ものかであると言うのではなく、それらはまったくの無であると言うのである。
ここから、万有の起源にある唯一性を再び見出すためには、諸被造物の無を削除するのが適当であるという帰結が導かれうる。すべての起源である一者は、複数性の彼方に探し求められなければならない。しかも、その乗り越えなければならない複数性は、エックハルトが私たちに捨て去るよう促す被造物の状態としての複数性ばかりではなく、父と子と聖霊という三位一体の位格の複数性でもあるのだ。
エックハルトがこのように主張することから、名前ばかりのキリスト教徒で、実のところは三位一体の教義を信じてはいなかった新プラトン主義者だと結論づけなくてはならないであろうか。いや、むしろ、エックハルトは、三位格の〈一〉性を強調しはしたが、三位一体を排除も放棄もしていないと言うほうが穏当であろう。エックハルトは、三位一体の知解可能な〈一〉性、つまり、三位格における〈一〉なるものに到達しようとしていたのである。この〈一〉性は、三位格と区別された、いわば四番目の位格として、他の三位格を基礎づけるものではなく、父と子と聖霊の〈一〉性に他ならない。いわば、〈一〉なる三位性である。