内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(十三)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(六)

2015-04-10 17:30:52 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988  には、昨日の記事で参照した箇所のすぐ後に、放下のうちに憩う平安に至るまでの魂の長い闘いにマルグリットが与えることができた表現について、Peter Dronke (1934-)の Women Writers of the Middle Ages. A Critical study of Textes from Perpetua to Marguerite Porete, Cambrige, 1984 からのかなり長い引用がある(p. 182-183)。中世ラテン抒情文学の世界的権威である Dronke の言葉に、私たちも耳を傾けてみよう。

抒情的でほとんど劇的な表現が全体の構成の中にしっかりと統合されている。長く複雑な対話構成の中で、マルグリットは、語り手の交替を度々行う。この点で、彼女は、マグデブルクのメヒティルドよりも、ラモン・リュイにむしろ近い。しかしながら、メヒティルドの『神性の流れる光』の中でと同じように、魂の内的な力と天来の力とをマルグリットがそれぞれ投射した「登場人物」間のやりとりや争いから、自ずと劇的な緊張が生まれてくることがある。そのとき、この点でも、メヒティルドの場合と同様なのだが、それらの諸力にあって主導権を握っているのは、「愛婦人」(Dame Amour)である。もう一つのマルグリットとメヒティルドとの類似点は、抒情の持続性と呼べるようなもののうちにある。その持続性は、『神性の流れる光』でと同じように、『鏡』でも、リズミカルな散文からより緊密な韻を踏んだ詞章へ、そして完全に詩的な形式にまで至る。

 文学作品としての『鏡』の基本構想は、当時の宮廷恋愛文学の形式とそこで典型的な高貴なる婦人への騎士の献身的な愛というモデルとに依拠している。高貴なる婦人が課すすべての試練に耐えて愛の成就に至る騎士という構図に、〈愛〉と〈魂〉との関係を当てはめようとしている。騎士なる〈魂〉にとって、「精妙なる〈愛〉」(Fine Amour)そのものが最終目的なのである。『鏡』は、無化された単純な〈魂〉について、それは「精妙なる〈愛〉」が求めるところのものと繰り返す。この「精妙なる〈愛〉」に固有な特徴は、〈喜び〉である。
 この〈喜び〉の表現にマルグリットの独創性が煌めく。以下の引用は、第二十八章「この〈魂〉は喜びの海を如何に泳ぐか」の冒頭である。

Cette Ame nage en la mer de joie, en la mer de délices, fluent et dévalant de la Divinité, et toutefois ne ressent nulle joie, car elle-même est joie et nage et flue en joie, sans éprouver nulle joie, car elle demeure en Joie et Joie demeure en elle ; elle est elle-même joie par la vertu de Joie, qui l’a muée en elle.

この〈魂〉は喜びの海を泳ぐ。神性より流れ来る、甘美で流麗な海に泳ぐ。しかしながら、少しも喜びを感じることはない。なぜなら、魂自身が喜びなのであり、喜びに泳ぎ、流れ、どんな喜びも身に覚えることはないから。なぜというに、魂は〈喜び〉のうちにとどまり、〈喜び〉は魂のうちにとどまるから。魂自身が、己をそのうちで喜びに変えてくれた〈喜び〉のおかげで、喜びそのものなのである。

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十二)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(五)

2015-04-09 18:58:14 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988  に依拠しながら、昨日の記事の最後に引用した一節に見られた、解放された魂と愛なる神との関係についての理解を深めていこう。
 〈魂〉は、かつては細心の注意をもって従っていた、服従のための諸々の外的規範をもはや必要としない。なぜなら、〈愛〉なる神のうちにすっかり受け入れられた〈魂〉は、向後、神意の下にまったく受動的であり、神意は〈魂〉のうちで「魂なし」に働く。つまり、〈魂〉自ら率先して何か行うことはもういっさいないのである。この境位を、マルグリットは、「無為なる信によって救われる」(se sauver de foi sans œuvre)と言い表す。この大膽極まりなく誤解の危険に満ちた言表こそ、ライン河流域及びフランドル地方の神秘主義(la mystique rhéno-flamande)の大きな主題である「神受」(le pâtir Dieu)の先駆的な表現なのである。
 « pâtir » というフランス語は、今日ではもはや古風な表現である。使われるとしても、自動詞として前置詞 de を伴って「~に苦しむ」という意味になる。しかも、その苦しみは、過誤によって引き起こされたという含意を有する。ところが、上掲の表現では、他動詞として用いられ、神が目的格補語になっている。 ラテン語の « pati » の「苦しむ、被る、耐える」という意味を受け継いではいるものの、神秘主義的経験を表現するためにこの語が用いられるときには、それは、「平安で不可思議な受動的瞑想の中にある」という意味になり、名詞化されれば「受動」そのものであり、自ら働く「自動」(agir)に対立する。
 では、〈魂〉における「神受」とは、いったいどのような境位のことなのか。『鏡』の第八十四章における〈魂〉の言葉に耳を傾けてみよう。

Cette œuvre est l’affaire de Dieu qui l’opère en moi. Je ne lui dois aucune œuvre puisque c’est lui-même qui opère en moi. D’ailleurs, si j’y mettais du mien, je déferais son œuvre.

この業は、私のうちでそれをなさる神の御業なのです。私は神にどのような業も負うてはおりません。なぜなら、言うまでもなく、私のうちで働かれるのは神ご自身だからです。そもそも、もし私がそれに手出しをしたならば、その御業を乱してしまうことになるでしょう。

 〈魂〉と〈愛〉とは、これらの高貴なる真理を〈理性〉に説明しようと試みる。しかし、目の前につきつけられたそれら逆説的真理にすっかり動転し、衝撃を受けてしまった〈理性〉は、とうとう死んでしまう。かくして、神のより高次な理解に場所を譲る。それと並行して、〈魂〉は、諸徳目に暇を取らせ、それら以上の高みへと上り、〈愛〉の至高の自由へ至ろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十一)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(四)

2015-04-08 19:10:01 | 哲学

 マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を読んで人々がとりわけ心打たれたのは、著者の精神の精妙さであった。理性の導きによる論理的な議論の順序に従ってではなく、眩いばかりのイメージを次から次へと現出させることで、一つの真実の多側面をいわば鏡の中に映しだすようにして、作品は展開していく。
 その一つの真実とは、作者マルグリット自身の魂を解放・純化した真実であり、その真実が読み手あるいは聴き手の魂をも解放・純化することを願って、この作品は書き継がれていったのである。
 一つの真実の多彩な側面を次から次へと言葉の明るみのうちに引き出すことによって、作者は、読み手あるいは聴き手に作品の中心的主題を理解させようとする。その中心的主題とは、魂の解放である。この解放は、魂が神のうちで愛によって無化されることによって、そしてまさにそのことによって魂が神のうちで神になることによって現成する。
 この魂の解放という主題は、マルグリットにかぎらず、ベギン会の他の神秘家たちによっても、当時の宮廷恋愛文学の言語で表現されている。この表現方法は、彼女たちの作品が同時代人に受け入れられるために採られた一つの「戦略」だったとも言うことができる。〈理性〉〈悟性〉〈愛(なる夫人)〉〈魂〉〈礼節〉〈徳目〉〈信の光〉などが人格化されることで、それらが一つの舞台の上の「登場人物」たちとして、互いに問いかけ、応える。その言葉のやりとりを通じて、〈魂〉に根本的な位格変容が引き起こされる。
 その一例として、『鏡』の中でも特に有名な一節を読んでみよう。
 『鏡』の第二十一章で、〈理性〉は、なぜ〈魂〉は〈諸徳目〉に別れを告げたのか、と〈愛〉に問いを投げかける。それに対して、〈愛〉は次のように答える。
 かつての主人たる〈諸徳目〉から多くのことを学び、今や主人以上のものとなった〈魂〉は、もはや〈諸徳目〉に仕える身ではなく、〈諸徳目〉の主人である〈愛〉にのみ仕える。ところが、この〈愛〉によって〈愛〉のうちですっかり変容されて〈愛〉と一つになった〈魂〉は、もはや己自身にさえ属してはいない。
 〈愛〉のこの答えに対して、〈理性〉は、「〈愛〉よ、あなたもまた私たち徳目の仲間ではないのですか」と、さらに問いかける。この章は、それに対する〈愛〉なる夫人(Dame Amour 古フランス語では、amour は女性名詞。マルグリットは、作中で名詞の性に応じて様々な人格化を行っている)の次のような答えで締め括られている。
まず、Claude Louis-Combet の現代フランス語訳を掲げ、その後に拙訳を付す。

Je suis Dieu, car Amour est Dieu et Dieu est Amour, et cette Ame est Dieu par condition d’Amour, et je suis Dieu par nature divine et cette Ame l’est par droiture d’Amour. Ainsi cette précieuse amie de moi est-elle instruite et conduite par moi sans elle, car elle est transformée en moi et se nourrit de moi.

私は神です。なぜなら愛は神であり、神は愛だからです。そして、この魂は、愛のうちで神となっているのです。私はその神性において神ですが、この魂は愛の正しさによって神なのです。このようにして、私のこの大切な友は教えを受け、己なしに、私によって、動かされているのです。というのも、彼女(=魂)は、私のうちで私に変容させられており、私を糧としているからなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(十)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(三)

2015-04-07 11:25:24 | 哲学

 マルグリット・ポレートが生きた十三世紀後半から十四世紀にかけてのヨーロッパで、一冊の書物がどのように流通し、受容されていたかを知っておくことは、『単純な魂の鏡』をよりよく理解するためにも無駄ではないであろう。そこで、Max Huot de Longchamp が自身の手になる『鏡』の現代フランス語訳に付した序文に依拠しながら、そこに私自身の観点も織り込みつつ、ヨーロッパ中世期における書物の流通と受容の形態について一瞥を与えておくことにする。
 ヨーロッパ中世文学には、「鏡」(フランス語では miroir, ラテン語では speculum)をそのタイトルに含んだ作品が多数あり、自然の鏡、歴史の鏡、道徳の鏡等、様々な分野に渡るが、それらに共有されている鏡の意味は、現実のある側面を、最初は「観客」であるところの読者の眼前に「煌めかせる」、ということである。つまり、当時、「鏡」としての書物は、今日私たちが読む本に比べて、現実との関係においてはるかに深い意味を持っていた。それは、単に現実の反映にとどまるものではなく、その現実を見るものの姿をそこに映すものでもあり、さらには、その現実の反映と読むものの「映し身」がそこで一致しうる「場所」でもあったのである。
 中世における書物の価値及びその受容形態は、今日とは大きく異なる。活版印刷が始まるのは十五世紀半ば以降、大量生産された印刷物としての書物が広く流通するとようになり、書物を一人で黙って読むという習慣が大衆化するのは、近代以降の話である。マルグリットの時代、書物は、とても貴重できわめて高価な品で、宗教的共同体や当時生まれつつあった大学外に流通することはほとんどなかった。
 中世期において、「読む」ということは、石工が一つの仕事であるのと同じような意味で、ほとんど一つの仕事であった。十三世紀には、書記法はまた正確さを書いており、読み手の側の解釈の余地は大きく、それはちょうどグレゴリアン聖歌の楽譜と歌い手との関係とに似ていた。読むとは、一般に、声に出して読むことであり、したがって、そこには、一定のリズム・抑揚があり、ゆっくりと、テキストの内容にふさわしい読み方が要求された。つまり、複数の聴き手を前提とした、多分に演劇的な行為だったのである。
 この読書における演劇性が、『鏡』において、作者であるマルグリットによってはっきりと意識されていたことは、それが〈愛〉〈理性〉〈魂〉などの多声部からなる構成によって強調されていることからよくわかる。「この本を読まれる聴き手の方々よ」と、マルグリットが作中で読者に呼びかけるのは、たとえ黙読されるときにも、作品が複数の異なった声からなっていることを忘れないように注意を促したかったからでもあろう。しかも、それらの声のいずれかがマルグリットの考えの代弁者なのではなく、『鏡』の舞台劇としての展開全体が彼女の神秘思想の表現なのである。
 『鏡』の演劇的構成は、しかし、けっしてマルグリットの独創にかかるものではない。むしろ、彼女は、当時生まれつつあったヨーロッパ演劇の様式に着想を得ていると見るほうが穏当である。一方では、各地のカテドラルの門前で演じられていた「聖史劇」が、他方では、「愛の法廷」という洗練された宮廷文学の舌戦劇が、『鏡』の構成に影響を与えていることはほぼ間違いない。愛や理性を擬人化して登場人物とする手法も当時として珍しいものではなかった。
 とはいえ、『鏡』はそれらの模倣ではない。テキスト全体の長さかららして、『鏡』が実際に上演されたということは先ず考えられない。それに、その内容の難しさからして、いきなり多くの聴衆の前で読まれたとも考えにくい。たとえ作品が複数の聴き手を前に読まれたとしても、舞台劇として読まれること自体が作品の最終目的ではなかったことは、最後の諸章では演劇的構成がすっかり姿を消していることからもわかる。
 『単純な魂の鏡』は、一冊の書物以上のものであろうとする。どういうことか。作者は、読者が作品の中に自らの「映し身」を見出し、その作品世界の「現実」に近づき、その中で自らが変容すること、つまり、『鏡』が、取りも直さず、その読み手の魂を純化する鏡であることを切に願っているのである。
 一方、中世における書物が今日の書物とは大きく異なっていたように、中世期の鏡は、今日私たちが日常的に使用している鏡とは別物であった。まず、中世の鏡は、今日のようなガラス製ではなく、様々な反射光をもたらす金属製反射板であり、その前に立つものの忠実な姿見ではなかった。むしろ、それは私たちに謎めいた姿を見せるものであり、それはその「彼方」にある「真の姿」に手がかりを与えるものであると同時に、それを私たちの眼から隠すものでもあった。鏡像から真の像へと至るプロセスは、その不完全な鏡像を辛抱強く読み解く作業にほかならない。鏡像は、それが鏡の中に映った像であるかぎり、真の姿ではない。真の姿は、鏡がまったく無化されたときにはじめて、そこに現成する。
 なお、この鏡の歴史と自己認識の歴史的変容という問題は、二〇一二年と二〇一三年の二年に亘って日本で行った集中講義「鏡の中フィロソフィア」で取り上げたことがあり、その概要はこのブログの二〇一三年六月から七月にかけての一連の当該記事で知ることができるようになっている。

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(九)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(二)

2015-04-06 18:01:43 | 哲学

 マルグリット・ポレートの生涯については、その異端審問記録から、最後の十年間についていくつかの史実と日付を知ることができるだけである。しかし、彼女の異端審問から火刑に至るまでの経緯を、当時のヨーロッパの政治・経済・社会史を背景として見るとき、マルグリット・ポレートの生涯は、その時代の思想史的課題の集約点の一つとして浮かび上がってくる。
 一三一〇年六月一日、マルグリット・ポレートは、現在のパリ市庁舎前広場で、当時のパリの主だった聖職者たち、フィリップ四世に属する官憲、物見高い群衆らの環視の中、異端再犯・改悛拒否の廉で、火刑に処された。一三〇七年には、すでに異端審問のためにパリで身柄を拘束されていたようである。その後、審問の席への召喚を拒否し、火刑をちらつかせ改悛を強要する当局の圧力に屈することもなく、一切自己弁護することもなく、火刑台に上る最後の時まで、自らの神秘体験のうちに与えられた真理の確信に揺らぎはなく、凛とした態度を貫き通した。その姿を見ていた群衆の中には、彼女に対する深い同情、さらには讃仰の念を抱くようになったものも少なくなかったと伝えられている。
 一三〇〇年、フランス北部のヴァレンシエンヌで『単純な魂の鏡』が教会当局によって没収され、焚書に処された。以来、同書は禁書とされ、それを所有あるいは伝播させしものは破門に処すとの禁令も布告された。ところが一三〇六年から翌年にかけて、マルグリットは、当時の主だった司教たちに『鏡』を送っている。このような危険を敢えて冒したのは、彼らから『鏡』の内容についての支持を獲得するという目的もあったろうと推測されている。実際、同書のラテン語版および古英語版には、修道士あるいは神学者三人からの同書の教説についての好意的な見解が巻末あるいは冒頭に付されており、後者が古フランス語版からの直接訳であることから、原古フランス語版にも同じ推薦文が付されていたと推定されている。
 『鏡』の教説の中には、確かに、文脈を無視して単独の命題として見れば、教会当局から異端の嫌疑をかけられるおそれのある内容が含まれていた。例えば、「無為なる信による自己救済」(se sauver de foi sans œuvres)は、スコラ神学者たちの理解するところではなかった。そのような危険にマルグリット自身夙に気づいていたことは、『鏡』の中で、そこに展開される教説の理解は容易ではないことに読者あるいは聴き手の注意を一再ならず促していることからもわかる。
 しかし、同時代から教会内に彼女の教説の理解者はいたこと、彼女が火刑に処された後、『鏡』は、禁書であったにもかかわらず、ルネッサンス期に至るまで、ラテン語訳、古英語訳、イタリア語訳によってヨーロッパ各地で読まれ続けたことなどからわかるように、「神は愛」「魂の無化」という二つの教説に集約され、無化された魂において働くのは神の愛そのものであって、個々の魂ではない、というところまで徹底化されたその神秘思想は、中世期のキリスト教信徒たちにもその真正性を認められていたのである。もし彼女が、平信徒や庶民が話す現地語であるフランス語ではなく、ラテン語で書いていたら、異端審問の対象になることはなかったであろうとも言われている(同じことがエックハルトのドイツ語説教についても言われていることはご存じの方も多いであろう)。
 マルグリットに対する異端宣告は、したがって、その教説内容からだけでは十分に説明することができない。そこには、当時のフランス王家と宗教的権威(特に異端審問官たち)との癒着、フランス王家・教皇間の覇権争い(教皇のアヴィニョン捕囚は、マルグリットの処刑の前年)、修道会間(特に、フランシスコ会とドミニコ会との間)の勢力拡張競争、絶対王政確立のための経済的利権の収奪、都市生活における女性共同体の成立と拡張など、政治・宗教・経済・社会史的背景を考慮しなければ理解できない問題がいくつもある。それらの問題が複雑に絡み合った歴史的文脈の中にマルグリット・ポレートの異端審問も位置づけられなくてはならないのである。
 とりわけ、当時絶対王政確立のための中央集権化に踏み出していたフィリップ四世(Philippe le Bel 「端麗王」)の治下であったことがその最も大きな背景的要因であったと思われる。マルグリットが主にそこで活動したとされるフランドル地方は、毛織物業が盛んであり、フィリップ四世は、同地を支配下に置くことを目論んでいた。同地方は、教会にも属さず、自立した生活共同体を形成しつつあったベギン会の活動がもっとも活発な地方の一つだったが、同会に属する女性たちの中には王権にも教会に服従しようとしないものもあったから、当然迫害の対象にもなったであろう(マルグリットがベギン会に所属していたかどうかは確かではないが、同会の女性たちに自分の教説を語り、ある共同体の指導にあっていたことは『鏡』の記述からわかる)。フィリップ四世が、さらに王政の経済的基盤を固めるため、テンプル騎士団を異端として弾圧し(一三〇七-一三一四)、これを壊滅に追いやり、その莫大な財産を没収したのは、まさにマルグリットの異端審問及び火刑と時期的に重なる(このテンプル騎士団に対する異端宣告はまったくの冤罪であったことを、今日のローマ教皇庁はその公式見解として認めている)。
 マルグリット・ポレートは、いかなる権威に屈することもなく、真実を口にし続けたがゆえに悲劇的な最後を迎えた、いわば時代の犠牲者であったわけである。彼女が生涯にたった一冊書き残した作品である『単純な魂の鏡』は、その高貴な魂の表現として不滅の価値を持っている。

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(八)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(一)

2015-04-05 14:31:13 | 哲学

 マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』(以下、『鏡』と略記)についての記事を書くにあって、私の手元にある参考文献は以下の四点である。因みに、平凡社『中世思想原典集成 15 女性の神秘家』に同書の部分訳が収録されているが、未見である。
 (1)Le Miroir des âmes simples et anéanties, introduction, traduction et notes par Max Huot de Longchamp, Albin Michel, collection « Spiritualités vivantes », 2011, 272p. 私が所有しているのはポケット版の第二版だが、その第一版は一九九七年出版。初版は一九八四年。最もオリジナルに近いとされる現在シャンティイに保管されている古フランス語原文の現代フランス語訳である。序論の中で、訳者は、その文体それ自体が『鏡』の魅力をなしている古フランス語の原文を現代フランス語に訳すことの難しさを嘆いて、原作の煌めくような文章を「工場生産された鏡のごとく無記名な製品」(un produit aussi anonyme qu’une glace industrielle)に変容させてしまったかの感を抱かざるをえなかったと言う。しかし、次に掲げる別の現代フランス語訳の訳者は、この明晰な訳のおかげで、原文の意味不明な箇所の理解が得られたことは一再ならずあったと証言している。
 (2)Le Miroir des simples âmes anéanties, traduit de l’ancien français par Claude Louis-Combet, présenté et annoté par Emilie Zum Brunn, Jérôme Millon, collection « ATOPIA », 2001 (1re édition, 1991), 264p. 訳者は、「神秘主義の友」である詩人。前書きとして解説文を書いている中世西欧神秘主義研究の碩学エミリー・ツム =ブルンは、その解説文をこの翻訳への次のような賛辞で締め括っている。「ただ詩人のみが、実際、その魔力が「言葉がそこで引き返すところ」へ行くように私たちを誘う神秘的な言を忠実に訳すことができる。」(Seul le poète en effet peut rendre avec fidélité le verbe mystique dont la magie nous convie à aller « là où les mots rebroussent chemin ». p. 25)上の現代フランス語訳とは違って、訳者は、「訳者注記」の中で、現代フランス語としての読み易さよりも、原文の「精気」を復元することに注意を払い、できるかぎり、その古の情趣・リズム・詩的呼吸を保つべく、原文に忠実であろうと努めたと言っている(p. 26)。
 (3)G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988. この本については、西洋中世の女性神秘家についての記事を書き始めてから度々引用しているので、その全体の紹介は繰り返さない。同書の第九章がマルグリット・ポレートの生涯(といっても、異端宣告を受けて火刑に処されるまでの経緯以外は、彼女の生涯について知るための資料はほとんど残っていない)と『単純な魂の鏡』の思想の解説、第十章が『鏡』からの抜粋訳。
 (4)Encyclopédie des mystiques rhénans d’Eckhart à Nicolas des Cues et leur récetpion, Cerf, 2011. この事典についても、先日、マグデブルクのメヒティルドについての第一回目の記事の中で言及した。総勢百人を超える英仏独語圏の研究者たちを動員した、エックハルトとニコラウス・クザーヌスとを中心としたライン河流域神秘主義とその今日に至るまでの影響というテーマに特化した、総頁数一三〇〇頁近いこのきわめてユニークな事典は、私の座右の書の一つである。この事典の「マルグリット・ポレート」の項は、四頁に渡っており、それを読むことで、このフランス人女性神秘家について、今日まで伝わるごく僅かなその伝記的事実と『鏡』に展開された中心思想のあらましとを知ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(七)― マグデブルクのメヒティルド『神性の流れる光』(三)

2015-04-04 11:37:52 | 哲学

昨日の記事で見たように、マグデブルクのメヒティルドの『神性の流れる光』は、パトス的と形容できるような表現に溢れている。しかし、そこから、彼女のような神秘体験を感覚、感情、あるいは心理状態の問題に還元してしまうことに西谷啓治は強く反論する。

神秘家達の書いたものが歓喜や苦痛のパトス的な諸状態の記述に満たされてゐることは事実であるが、そのことは彼等が自己の主観的な感情に生きてゐたことを意味しない。寧ろ逆に、彼等はその時々の感情の去来に妨げられないような、従つて彼等にとつては、神との合一は歓喜や恍惚の心理的状態にのみ実現されるのでもなく、またそれによつて証明されるものでもない。自己の心的状態が、神から遠ざかつたやうな苦痛に陥る場合でも、なほ神と共にあることを感得し、その苦痛に安らかに身を委せることによつて、神の不変なる現在を自己の身上に証すること、それが彼等の立つてゐた所であつた。(彼等の立場が信仰の ―― 特に唯信の立場に連なる点もそこにある。)そしてメヒティルドに於てはかかる立場が特に強く現はれてゐるのである(西谷啓治「マグデブルクのメヒティルド」『西谷啓治著作集』第七巻、132頁)。

 この「神の不変なる現在」を自証するには、しかし、ただひたすらに神だけを神の故に愛するだけでは不十分で、神を諸々の被造物のうちでも愛せねばならず、それが神に最も近く立つ立場である、とメヒティルドは言う。諸々の被造物のうちで神を愛するとは、一切の事物を正しく用いる知恵を発揮しながら、まさにそのことによってあらゆる地上の事物に対して無縁であるような心胸をもつことに他ならない。神における「自由の高貴性」は、地上の一切の事物を正しく用いながら、それらに対して無縁なままであるという「聖なる貧」においてこそ生きられる。
 この高貴な自由と現実の中の困厄との矛盾的同一性こそが、「独逸神秘主義の底を流れる最も根本的な立場」であると西谷は言う(136頁)。この点でメヒティルドにおいて注目すべきなのは、「神の疎外」(Gottesentfremdung)という次元である。
 花婿たる神からの尽きせぬ恵みを辞退し、花嫁たる霊は、花婿たる神に天の最低部に下されんことを請い願う。彼女はそこへ下り、神も彼女の後を追って下る。そのとき神は、いつまでここにとどまるつもりかと霊に問う。それに対して花嫁たる霊は、「愛する主よ、私から離れてください。そして貴方の栄誉のために私をもっと深く下へ沈ませてください」と願う。その後、霊と肉とは大きな闇のうちに入り、そのため霊は神の認識や光を失い、神の友情も忘れ、愛も去ってしまって、不信仰と信仰との動揺に陥る。
 西谷によれば、このような「神の疎外」は、宗教学者が神秘主義のうちの一類型として挙げる「受難の神秘主義」であり、受難のキリストとの神秘的合一を求めるものに他ならない。このタイプの神秘主義は、神を単にその神性においてのみならず、神性と人間性との全体において捉え、受肉した神の人間性のうちに、かえって神の深みを見る。メヒティルド自身、長年多くの僧俗からの攻撃や迫害に曝されたと言われている。現実生活の内的・外的苦悩を、そのまま神との合一に高めるというのが、受苦神秘主義の立場である。しかもその立場は、苦しみを止むを得ない禍悪と諦めてそれを甘受するのではなく、むしろそれを自発的に進んで求める。

彼女には「神の疎外が神自身よりも好ましい」のである。神との合一の甘美よりも神の疎外の苦杯こそ、神を最も「甘美に飲む」ことであり、神に最も近いことよりも神に最も遠ざかることが、神に最も近いことなのである。彼女は神が自らを慰めようとするのを辞退する。彼女には慰めなきことのうちに真の慰めがある。何となれば、その苦しみが神の不可思議なるまた測り知れぬ賛美に外ならないからである。然も、「今や神は不可思議なる仕方で私と共にある。それは私には彼の疎外が彼自身よりも好ましいからである」といはれる如く、この疎外のうちに反つて真の合一が成り立ちうるのである。最も実生活的にして同時に最も不可思議(wunderlich)なる合一が起り得る。神の疎外とは霊が自らをどこまでも低く沈め、自らの卑しさの自覚に徹することであるが、それによつて反つて霊は不可思議な仕方で神と共にあり得るのである(140頁)。

 ここを読むとき、私たちはマイスター・エックハルトの神秘主義の気圏に接近しつつあることがわかる。
 明日からは、エックハルトとまさに同時代の女性神秘家マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を数回にわたって読む。






























「離脱・放下」攷(六)― マグデブルクのメヒティルド『神性の流れる光』(二)

2015-04-03 19:38:08 | 哲学

 西谷啓治『神と絶対無』の中の論文「マグデブルクのメヒティルド」は、同書の初版が一九四八年に弘文堂から出版されたときに初めて発表された論考で、おそらく出版の直前に執筆されたものであろう。現在は、『西谷啓治著作集』第七巻(一九八七年)に収録されている(本攷で同論文に言及・引用する際には、この著作集版に拠る)。
 それから七十年近く経っている今日、日本語によるメヒティルド研究もかなり進展しているに違いないが、まだそれらの研究成果を参看する機会に恵まれていない。ただ、それらの中の大きな成果の一つが、昨日も言及した、創文社の『ドイツ神秘主義叢書Ⅰ』として一九九九年に刊行された香田芳樹による『神性の流れる光』全訳であることは間違いないであろう。
 西谷論文以後の今日までのメヒティルド研究を知らずに西谷論文についての評価を下すことはもちろんできないが、このわずか三十頁足らずの小論文が私にとってメヒティルド理解の良き手引であることは、幾冊かの仏語の研究書を参看した後も変らない。
 その手引に従って、『神性の流れる光』を読んでみよう。
 メヒティルドは、自分にとっての母語である当時の北東ドイツ語で同書を書いた。このことは、当時のキリスト教会公式の神学的世界観による制約を、少なくとも言語的には受けずに、自らの神秘的体験とそこから引き出された教説を自発的に表現することを可能にした。それに、彼女の熱情的かつ真摯な性格は、彼女を当時の腐敗したキリスト教会の苛烈な批判者にもしていた。

彼女の述作には、優しく深い内感が思想の自由さ及び明晰さと結びつき、子供らしく素朴な魂が崇高な心意と一つになつてゐる。その表現は彫塑的な直観性をもち、その叙述は異常な生気と多様性に満ちて居り、彼女の詩情は自らなる韻律にまで高まつて抒情歌となり、叙事詩となると同時に、時としてはエックハルトに通ずる思弁の深さにも達してゐる(西谷上掲書119-120頁。同書での旧漢字は、これを現行漢字に改めた)。

 メヒティルドの神秘主義の独自性は、それが神との「愛」(minne)にその全体が貫かれていることだが、それが鮮やかな幻想や感覚に満たされた詩情と結びつき、体験的に深められている。

然もその神との愛は、極めて濃厚に恋愛と婚姻といふ形で表象され描写されてゐる。神なる基督が霊の花婿であり霊が神の花嫁であるといふ観念は、『神性の流れる光』の全体を貫き、その最も生彩ある部分の主題をなして居り、其等の部分に於て詩人神秘家といはれる彼女の面目が最も躍如としている(121頁)。

 西谷論文には、西谷自身の訳による『神性の流れる光』からの引用が多数含まれ、中には二頁近くに渡る引用もあり、メヒティルドの表現の特徴を垣間見ることができるようになっている。そこから、この「ドイツ中世の女性神秘主義の最も光輝ある作品」が、当時まだ洗練された言語とはとても言えなかったドイツ語の一方言 による詩的表現としても、一つの例外的な高みにまで到達していることを理解することができる。
 それにしても、その表現の大胆さには驚かされる。それが読み手に及ぼす効果を狙った意図的なものではなく、彼女にとってはその経験の真率な表出であっただけになおさらのことである。

彼女の場合、エックハルトに於けるとは異なつて、神との愛といはれるものが極めてパトス的な性格をもつてゐることが注意を惹く。[...]そのパトス的性格は時としては性的な匂ひをすら帯びてゐる(127頁)。

 こう述べた後に、西谷は、その一例を引くのであるが、その引用の中に、「彼はその神的な口をもつて彼女を durch küssen する」と訳さないままに残してある語がある。その意味するところがあまりにも直截的なので、さすがに日本語にするのが躊躇われたのでもあろうか。

吾々はかくして、この女流神秘家に於ける多様を極めた、そして花・衣装・飾りなどの如く特に女性的な感覚的比象やパトス的な(時としては性的ですらある)象徴の根底に、深い「欲情」の観念のあることを見出し得る。その観念は、メヒティルドに於ける宗教的生の源泉であり、且つその神秘主義に独自の性格を与へてゐる中心である(130-131頁)。






















「離脱・放下」攷(五)― マグデブルクのメヒティルド『神性の流れる光』(一)

2015-04-02 12:21:08 | 哲学

 西欧中世の女性神秘家列伝の劈頭を飾るのは、通常ビンゲンのヒルデガルト(1098-1179)であるが、エックハルトとは生年に一世紀半以上の懸隔があり、直接的な影響関係を見出すこともできない(エックハルトの直弟子の一人タウラーの説教には明示的な言及があるが)ので、拙ブログでの今回の一連の記事の中では取り上げない。
 ただ一言付け加えておくと、ビンゲンのヒルデガルトについては、ドイツを中心にすでに汗牛充棟ただならぬ研究が積み重ねられているのは言うまでもないが、日本でも、ここ十数年、自然学・治療学の分野を主としてヒルデガルトの著作が相当数訳されている。欧米の研究者の手になる評伝や研究書の翻訳も数冊出版されており、種村季弘の『ビンゲンのヒルデガルトの世界』によって、その多岐にわたる教説は、一部の熱心な信奉者ばかりでなく、かなり広く知られてもいるようである。ただ、私自身は、そのいずれの文献も未見である。
 エックハルトと時代的に重なり、かつ歴史的文脈において接点を見出すことができ、さらにはその思想内容にある親近性を認めることができる最初の重要な女性神秘家は、マグデブルクのメヒティルド(生没年はいずれも推定で、しかもかなりの幅があるが、生年は1207から1210の間、没年は1282から1294の間と推定されている)である。
 その伝記的事実としては、ごくわずかのことしか知られておらず、しかも研究者たちによる推定の域を出ない部分も少なくない。
 出自に関しては、メヒティルドの著作内の幼少期についての証言、それを傍証する周辺資料から、彼女が裕福な家庭の子女であり、それにふさわしい物質的な富と良質の教育を受けたことは推定しうる。しかし、彼女についての聖女伝説がそう望むように、貴族階級に属していたかどうかについては、今もなお、留保せざるをえないようである。その主たる理由の一つは、彼女を直接知っていたであろう著者たちが、その著作で彼女に言及する際に、その出自が高貴であるとは言明していないことである。なぜこの不言及が彼女の出自が高貴であることを疑う理由になるかというと、これは当時の習慣に反しており、彼女がもし貴族の出であれば、必ずそのことに言及していたはずだからである。
 それゆえ、昨日紹介した Femmes troubadours de Dieu(1988)のメヒティルドの生涯の紹介に割かれた章の冒頭では、「彼女が高貴の出であった可能性は低い」(« il est peu probable qu’elle fût d’origne noble »)と推定している(p. 67)。しかし、『神性の流れる光』の仏訳 La lumière fluente de la Divinité, traduit de l’allemand par Waltraud Verlaguet, Éditions Jérôme Millon, 2001 の訳者による前書きによると、「裕福で、おそらくは高貴な一族の生まれ」(« de parents riches et probablement nobles »)となっており(p. 5)、Encyclopédie des mystiques rhénans d’Eckhart à Nicolas des Cues et leur récetpion, Cerf, 2011 のメヒティルドの項では、「おそらく騎士階級の貴族の家庭の出」(« sans doute originaire d’une famille noble de chevaliers »)と、推定がより詳しくなっている。このような推定の変化は、この三つの文献の出版年から見て、その間の研究の進展によるものと推定できる。
 日本語の文献としては、『神性の流れる光』の香田芳樹による全訳が創文社の『ドイツ神秘主義叢書Ⅰ』として一九九九年に刊行されている。これも私は未見であるが、その中には当然伝記的紹介もあるだろう。
 私の手元にある日本語文献で、メヒティルドについてまとまった考察が見られるのは、西谷啓治「マグデブルクのメヒティルド」(『神と絶対無』(1948)が初出、『西谷啓治著作集』第七巻(1987)に再録)のみ。『上田閑照集』第七巻『マイスター・エックハルト』の中のメヒティルドの教説に関する言及も、この西谷の論文に依拠している。この西谷論文の冒頭には、メヒティルドが「学問の素養もない一介のベグィネ」と紹介されているが、このような見方は、上に見たような今日の研究結果からすれば、もはや維持しがたいだろう。
 メヒティルドの出身地は、ドイツのミッテルマルク地方で、これはエックハルトの出身地エルフルトを含む地方と隣接している。彼女がその生涯の大半を過ごしたのは、マグデブルクの街で、それゆえに「マグデブルクのメヒティルド」と呼ばれるわけである。彼女は、一二三〇年には、家族の元を離れ、マグデブルクで初期のベギン会に属し、その宗教的共同生活を始めていたことが確認されている。このマグデブルクのベキネとしての生活は、苦難に満ちたもので、多くの迫害と身体的不調に悩まされたもののようである。彼女自身によれば、その生活は、神の召命にしたがっての「流刑生活」であった。
 これは、しかし、メヒティルド個人固有の生活的・身体的条件に還元されうる問題ではなく、ベギン会そのもののあり方とも密接に絡み合っている。なぜなら、ベギン会とは、教会の保護の外にあって、都市内で女性たちだけで共同生活を送りながら、互選で選ばれた長の指示の下、彼女たち自身の理解した「福音の教えに従って清貧と貞潔を守り、手仕事をしながら、病人や貧者や孤児の世話に尽くした」(『上田閑照集』第七巻、269頁)、新しい宗教的共同生活の形態で、そこには、教会当局から見れば、教義からの逸脱、さらには異端の危険がつねに孕まれていたからである。
 ヨーロッパ中世都市部でのこのような生活は、一般の世俗生活の仕組みから見ても、教会の組織からも見ても、つまり二重の意味で周縁的であった。メヒティルドは、それゆえ、いかなる宗教的権威も社会的保護もあてにすることができなかったのである(Voir La lumière fluente de la Divinité, op. cit., p. 6)。
 都市部におけるベギン会のこのような発展は、社会史的側面からも説明されているが、その点については、上田閑照上掲書『マイスター・エックハルト』にも引用されている、阿部謹也『中世の窓から』(朝日選書、一九九三年。あるいは、筑摩書房『阿部謹也著作集〈4〉』、二〇〇〇年)を参照されたし。
このベギン会は、十三世紀のドイツ・フランス・オランダ・ベルギーにおいて、驚くべき速度と規模で広がっていく。先回りをして言っておけば、一三一四年に、南ドイツ管区テウトニアにおけるその監視と教導をドミニコ会総長から託され、ストラスブールに居を構えたのがエックハルトであった。
さて、メヒティルドに戻ろう。
 メヒティルド自身の証言によると、十二歳のときに最初の見神あるいは「聖霊の訪れ」を体験している。その後も繰り返された見神体験を、しかし、メヒティルドは、長年けっして口外しなかった。一二五〇年、つまり四〇才を過ぎてから、精神的教導師であったドミニコ会士ハレのアンリの勧めにより、その助言に従いながら、自らの神秘的体験を、彼女にとっての母語である北東部ドイツの方言で、以後数十年に渡って、綴っていくことになる。「ドイツ中世の女性神秘主義の最も光輝ある作品とされている」(上田閑照前掲書271頁)『神性の流れる光』はかくして生まれたのである。










































「離脱・放下」攷(四)― 神に酔える中世女性神秘家たち(三)

2015-04-01 17:17:21 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988.
 この二四〇頁余の小著は、ヨーロッパ中世期の代表的な女性神秘家たちの生涯と主な作品を紹介しつつ、失われたキリスト教女性史に新しい光を当てようとする好著である。以下は、その結論部分のおよその内容を伝えつつ、そこに私見をすべりこませた「自由訳」である。

 ヨーロッパ中世を通じて、スコラ学者たちによって無視されるか、過小評価され、今日もなお、まだ十分には再評価されているとは言いがたい、神秘主義の母性的表現技法は、十二世紀から十四世紀にかけて、ヨーロッパ中世の修道女たちや独自の共同生活体を形成していたベギン会の女性たちによって、いわば霊的に継承され、花開いていった。それらの女性たちが遺した書簡・頌歌・論述等の中には、スコラの神学者や論理学者たちによって歪められ、忘れられた、古代キリスト教に淵源する神秘体験の、最も洗練された、それゆえ最も貴重な表現が保たれている。
 そこに私たちが見出すのは、〈知性〉に対する〈愛〉の優位であり、この〈愛〉の優位こそが中世の終焉と近代の到来を告げ知らせる、「女」声による讃歌であった。ところが、この〈愛〉の優位は、近代思想史において、しばしば主意主義へと転じていってしまう。しかし、これは、中世の女性神秘家たちにとって、まったくその意に反する方向性であった。
 なぜなら、彼女たちにとって、正統的な観想修道会士たちにとってと同様、何よりも大切なことは、神に対して「受動的」(受容的)であることであって、能動的であることではないからである。この受動性こそが、魂を単純化し、無数の欲動 ― たとえそれが聖なるものであり、聖霊によってであっても ― から魂を解放し、非意志において、つまり神の意志のみにおいて、魂を神に合一させると、彼女たちは自らの神秘体験に基づいて主張しているのである。
 この受動性(受容性)こそ、古代ギリシア教父たちからアヴィラの聖テレサ(1515-1582)や十字架のヨハネ(1542-1591)にまで連綿と継承された西洋神秘主義の最も深い処に息づく本性である。
 〈愛〉の夜における魂の神との出逢いを歌った十字架のヨハネは、いわゆる「善き」行いの幻想を警戒するように私たちに注意を促す。魂がまずもって真に神を受容し、神において神に変えられることがなければ、いかなる「能動的・積極的な」善行も私たちを神から遠ざけることにしかならないからである。
 このような「受動性(受容性)」の伝統が、人間の魂に、その「本質」において、つまり、その〈絶対者〉との最も内密な繋がりにおいて、触れているのである。エックハルトが東洋人たちによっても魂の導師として認められているのも、この「受動性(受容性)」を表現することができているからであろう。
 実際、エックハルトは、ドミニコ会の伝統に則って、知性を象徴する「男」性が魂の最も高貴な名であることを一旦は言明した後、ライン河流域・フランドル地方神秘主義の影響下、人間の最も高貴な名は、実のところ、「女」性である、なぜなら、その名が神に対する受容性を表現しているからであると主張するに至るのである。
 活動に優位を置く主意主義的な歴史の中で忘却されたこの「非意志」の重要性を再発見することは、ヨーロッパ文明にとって喫緊の課題である。その再発見によって、私たちの世界は、根本的な現実性の深い理解を保つことができた諸伝統と調和を保ちつつ、精神的かつ人間的な均衡を再び取り戻すことを期待することができるようになるだろう。
 「受動性(受容性)」という本質的な「女」性的価値への回帰は、私たちの文明の生き残りのために不可欠であると思われる。