今日はごく短い記事です。
どうしてかというと、今日は午前八時から午後四時半まで(昼休み一時間半を挟んで)、バカロレアの口頭試問官として十八人の高校生と面接したので、かなり疲れているからです(明日も同様)。とてもスタロバンスキーを読んでいるどころではないのですよ(悲しい...)。
試験会場は、ストラスブールから電車で三十分南に下ったコルマールのある高校の教室です。朝八時から始まる試験に余裕をもって会場に着くためには、自宅を六時前には出なくてはなりませんでした。行きの電車の車中では、学年末試験答案の採点もしました。
口頭試問自体は全体として私にとってとても面白い経験なのですが、けっしてわかりやすくはない「変な」日本語を聴き、それに対してその程度の相手に理解されうる簡単な質問を日本語でし、それに対するこれまたよくわからない回答を注意深く聴き続けていていると、相当に疲れるものなのですよ(いつもスマイル、スマイルだし)。
もちろん、試験を受ける側だってめちゃくちゃ緊張して大変な思いをしていること(それはもう可哀想になるくらい)はよくわかっていますよ。でも、受験者は一人あたり二十五分から三十分の試練に耐えればいいのに対して、試問官であるこちらは一人でず~っと一日中対応し続けるわけですから、これは結構な重労働なのですよ(最初と最後で受験者に対するこちらの態度に違いがあってもいけないですしね)。
幸い、最後の受験者がすごく優秀だったので、気持ちよく初日を終了できました。でも、明日もあるので、今日はもうこれで寝ます。おやすみなさい。
スタロバンスキーは1939年から1942年までの三年間、ジュネーヴ大学でギリシャ・ラテン古典文学を学びます。そして、文学士号を取得してすぐに同大医学部に登録し、1945年には医学部を卒業します。その後、1958年まで、医学(主に精神医学)と文学とのいわば「二足の草鞋」を履くことになります。
この経歴からも推測できるように、スタロバンスキーは、文学を捨てて医学者になったのではなく、文学と医学とはスタロバンスキーの精神活動の中で分かちがたく結びついています。両者のこの不可分かつ緊密な相互作用的関係は、ジュネーヴ大学の思想史講座の教授に任命されて医学者としての活動は止めた1958年後も変わりません。
ただ、職業として医学者の道を最初に選択したのは、医者のほうが文学教師より遙かに社会的に独立した生活を社会体制の如何にかかわらず送ることができるというスタロバンスキーの両親(ともにポーランドからの移民として若き学生時代にジュネーヴに移住して来て医者になります)の「実際的な」考え方に影響されてのことでもあることをスタロバンスキーはジェラール・マセとの対談で認めています。
しかし、他方、スタロバンスキーにおいて文学と医学と繋がりを支えているのは哲学だということも同対談で次のように述べています。
La philosophie avait fait partie de mes disciplines littéraires, et les études de médecine me paraissaient un prolongement de la philosophie, comme ce fut le cas pour mon père (op. cit., p. 14).
哲学は文学研究の一部をなしており、医学の勉強は哲学の延長のようにスタロバンスキーには思えたのです。そして、それは父親の場合も同様だったというのです。
スタロバンスキーにおける文学と医学との関係を考える上で大切だと思われるもう一つの要素は、その学生時代、つまり1930年代の終わりから1940年代にかけて、少なくともジュネーブ大学においては、文学と医学とはまったく縁遠い二つの分野とは考えられていなかったということです。
Les trois années de Lettres classiques qui m’avaient familiarisé avec l’antiquité grecque et latine m’avaient aussi donné l’occasion de lire des textes sur la pensée mythique (Freud et Rank, les écrivains du Collège de Sociologie). La transition n’était pas aussi abrupte qu’aujourd’hui (ibid., p. 15).
一昨日の記事で予告した通り、今日から Jean Starobinski, La parole est moitié à celuy qui parle... Entretien avec Gérard Macé, La Dogana / France Culture, 2009 の摘録を始めます。
本書の冒頭で、対談相手というよりも質問者・聴き手の役割をこれから引き受けようとしているジェラール・マセは、拙ブログの一昨日・昨日の記事で取り上げたモンテーニュの『エセー』の中の一文 « La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute » に言及しながら、「あなたにとって、この文は、あらゆる言葉は他者に聴かれることによってより豊かにされるということを意味するのですか、それとも、反対に、私たちはつねに誤解に晒されているということを意味するのですか」とスタロバンスキーに尋ねます。
それに対して、前者の意味に取るとスタロバンスキーは答えます。モンテーニュは、生動しつつある言葉をテニスで対戦中の選手同士が打ち合うボールのように見なしていて、言葉が十全に言葉になるのは、話し手と聴き手とを隔てる距離を言葉が乗り越え、聴き手からの応えが話し手に返されたときだけだと考えているとスタロバンスキーは注解します。
このような生きた言葉のやり取りは、対話者同士が共通の規則に従っていることを前提としていると述べた後、スタロバンスキーは、歴史家・文芸批評家・教師としての自分の態度について語り始めます。
Historien et critique de la littérature, enseignant, mon métier a fait de moi quelqu’un qui parle, qui cherche à éveiller l’écoute, mais pour inviter les écoutants à parler à leur tour. Je n’ai pas voulu seulement proposer une écoute, mais éveiller l’aptitude à la réplique (p. 9-10).
ただ聴かせるだけでなく、聴き手に話すことを促すために話す。聴き手の応答力を目覚めさせるためにこそ話す。そうありたいとスタロバンスキーは言うのです。
話を聴いている人に自分もそれに対して応答したいという気を引き起こすように話してこそ、言葉は生動し、話は「伝わり」、知識は伝播するのでしょうね。
昨日の記事の最後に引用した箇所の後、モンテーニュは、自分が従僕を厳しく荒々しい調子で叱責する場合を具体例として挙げつつ、問題を聞き手の側に移行させます。
Quand je mastine mon laquay d’un ton aigre et poignant, il seroit bon qu’il vint à me dire : Mon maistre parlez plus doux, je vous oys bien (Les Essais, op. cit., p. 1088).
ここをどう解釈したらいいのかが私にはよくわからないのです。 叱責に対して従僕が「ご主人、もっと穏やかにお話ください。よく聞こえていますから」などと反応することになれば、それはとんでもないことで、その従僕はさらにひどい目にあうことにもなろう、ということでしょうか。
原文の « il seroit bon » について La Pochothèque 版には脚注が付されており、 « il ferait beau voir » と言い換えられています。 « Il ferait beau voir que + subj. » で、「((皮肉に)) …するなんて見物だろう;とんでもないことだ,許しがたい」(『小学館ロベール仏和大辞典』)という意味です。Gallimard の « Quarto » 叢書の André Lanly による現代フランス語版『エセー』では、当該箇所は « il serait plaisant » となっていて、これもやはり皮肉に「笑うべき、こっけいな、ばかばかしい」(同辞典)という意味です。いずれの場合も、主人の意図をまったく理解していない従僕の反応についての評言ということになります。
ところが、その直後のクインティリアヌス『弁論家の教育』からのラテン語での引用 « Est quædam vox ad auditùm accommodata, non magnitudine, sed proprietate » は、「聴覚に適した声というものがあり、それはそのボリュームによってではなく、その質によってである」という意味です。そして、このラテン語引用の直後に昨日の記事で『エセー』からまず引用した 一文 « La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute » が来るのです。
従僕の「不適切な」反応を所与として、この羅仏二文を合わせて読めば、主人としての私の声の調子が適切でなかったから、こちらの意図に反した反応が従僕から返ってきてしまったのであり、言葉はそれを発する側だけで意味が完結するのではなく、その言葉を聞き手がどう受け止めるかによって意味が変化してしまう、つまり、言葉は話し手と聞き手とにそれぞれ半分づつ属している、ということになりはしないでしょうか。
しかし、話はそこで終わりではありません。この羅仏二文の後、« Cettuy-cy se doibt preparer à la recevoir selon le branle qu’elle prend. » とあって、聞く側が相手によって発された言葉の動きにしたがってそれを受け止めるよう心構えをしなくてはならない、と、再び聞く側の問題になっているように読めます。しかし、聞く側に一方的に問題が投げ返されているのではないことは、その直後のポーム(十一世紀から行われていたテニスの原形とされる球技)の喩えを読むとわかります。
Comme entre ceux qui jouent à la paume, celuy qui soustient se desmarche et s’apreste selon qu’il voit remuer celuy qui luy jette le coup et selon la forme du coup (ibid.).
この文の出だしに「ポームをする人たちの間でのように」とあり、その球技を行う両者の間の関係がここでの問題だということがわかります。その後の説明は、球の受け手の観点に立ち、球を打ってくる相手の動きと打ち方に応じて動かなければならないということです。しかし、その受け手がただ球を受け止めるのではなく、それを打ち返すことではじめてゲームは成り立つのですから、打ち手と受け手との関係はたえず目まぐるしく相互に入れ替わらなくてはなりません。
つまり、言葉は、一回きりの一方通行的な発話でその意味が伝わるものではなく、それ自体に意味が内包されている独立の実体でもなく、まさにテニスでのボールのやり取りのように、相手の〈声〉に応じて聴き手が適切に「打ち返す」ときにはじめてその意味が生成する、それはたとえ主人と従僕との間であっても同様である、これがこの一節でモンテーニュが言いたかったことなのでしょうか。
今日の記事のタイトルの仏語部分は、スイスの出版社 La Dogana から2009年に出版されたスタロバンスキーとジェラール・マセ(Gérard Macé)の対談のタイトルです(Jean Starobinski, La parole est moitié à celuy qui parle..., La Dogana / France Culture, 2009)。対談そのものは1999年にジュネーブのスタロバンスキーの自宅で三十分づつ五回に渡って録音され、France Culture の À voix nue というラジオ番組で同年に放送されました。その後録音から起こした原稿に両者がそれぞれ手を入れて、対談の「書かれたヴァージョン」として、実際の対談から十年後に出版されたのが本書です。
対談本文は九十頁足らずの薄い本ですが、対談内容は実に豊かで、それについては明後日以降の記事で少しずつ紹介していくことにします。それに先立ち、今日と明日の記事では、本書のタイトルについて少しコメントしておきたいと思います。
対談のタイトルは、モンテーニュの『エセー』第三巻第十三章「経験について」(« De l’expérience »)の一節に由来します。相手にこちらの言いたいことを伝えるのに適切な声の調子について考察している箇所から取られています。本書は『エセー』の当該の一文の前半に省略符「...」を付してタイトルとしていますが、『エセー』の原文(単語の綴りはモンテーニュの時代のまま)は以下の通りです。
La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute.
Les Essais, Édition Villey-Saulnier, PUF, « Quadrige Grands textes », 2004, p. 1088.
「言葉は、半分はそれを話す者のものだが、半分はそれを聴く者のものだ」(« La parole est moitié à celui qui parle, moitié à celui qui écoute »)ということです。しかし、『エセー』において引用文の直前の箇所で問題になっているのはむしろ、話し手の意図がよく伝わる声とはどのような声か、ということです。声の調子やイントネーションが話し手の言いたいことを表現しているのだから、話し手はそれらを場面に応じて適切に制御できなくてはならないというのがそこでの主張です。
Le ton et mouvment de la voix a quelque expression et signification, de mon sens ; c’est à moy à le conduire pour me représenter (ibid.).
続きの二文を読んでみましょう。
Il y a voix pour instruire, voix pour flater, ou pour tancer. Je veux que ma voix, non seulement arrivé à luy, mais à l’avanture qu’elle le frape et qu’elle le perse (ibid.).
それぞれの場面に相応しい声(発声の仕方)があり、その声が単に聞き手に届くだけでなく、聞き手の心を打つ或いは突き刺すことを望むということは私たちにもあることですよね。ここまでは私にもわかります。
ところが、その次の箇所が私にはうまく読み解けないのです。この問題については明日の記事で取り上げます。
どうも先月来重篤な「スタロバンスキー症候群」に罹ってしまったようです。
といっても病気じゃありませんよ。拙ブログですでに何度か取り上げた偉大なる批評家スタロバンスキーの著作群の虜になってしまったのです。その膨大な業績のごく一部を覗いてみただけのことですが、それだけでもう、明晰この上なくかつ容易に見通し難い奥行きを具えた途方もなく広大な批評世界に魅了されてしまい、もう一生そこから抜け出すことはできそうにありません。
普通の病気とまったく違うところは、この「症候群」からの治癒を望むことはまるでなく、むしろそのおかげでこれから自分が発見していくであろう未知の世界にワクワクしているところでしょうか。
そのどこまでも横断的かつ越境的な批評世界全体は、しかし、« Connais-toi toi-même » (「汝自身を知れ」)というたった一つの根本命題をめぐって展開されていると言うこともできるかも知れません。
スタロバンスキーを読んでいて私がなによりも心打たれるのは、世界への常に新鮮な眼差しによって拓かれ続けるその批評世界がそこで獲得され更新され続ける知の全体を他者と共有したいという情熱によって隅々まで荷電されており、しかもその情熱が理性と一体となっていることです。
La fin que je choisis est de comprendre et de faire comprendre. Il faut donc que ma recherche soit partageable, ce qui veut dire qu’elle soit portée par une exigence de raison.
Le Poème d’invitation, 2001, p. 1.
拙ブログの本日のお題は、まったく出し抜けで、しかも問題を唐突な仕方で二者択一的に提示しているので、それだけですぐに反発を覚えられた方もいらっしゃることでしょう。
あえてこのように提示された問題の背後には、しかし、物事の生成の論理とはどのようなものか、という、より根本的な問題が横たわっているとまず申し上げておきたく存じます。
その問題の所在をよりよく理解していただくためには、あらかじめ説明しておかなくてはならないことも少なくないのですが、それらをすべて省略して、しかも誤解は覚悟の上で、私なりの結論をいきなり申し上げると、以下のようになります。
どちか一方を排他的に選ばなくてはならないかのように問題を提示することは、言語教育上はそもそも間違った問題の立て方だということは認めた上のことですが、それでも、演繹的学習法は帝国主義的であり、帰納的学習法は民主的である、とあえて挑発的に申し上げます。言い換えると、前者は、間違えを許容せず、間違った者を矯正することを「国是」とする「デスポティズム」であるのに対して、後者は、人はそもそも間違えるものであり、まさにそれだからこそ、漸進的な相互理解の規則は実際の運用の中に徐々に見出されていく、という「オプティミズム」に基いています。
このような主張を支える論拠については、言語教育法上のデータに基づいた「科学的な」進歩ということももちろん考慮に入れなくてはならないのですが、それはまた別の機会に話題にすることにしましょう。
今日のところは、言語教育もまた、思想的・政治的な賭けと無縁ではないのだ、ということを申し上げたかったのです。
こちらは別に連休中ではありませんが、拙ブログをお読みくださっている方々の多くは日本にお住いですので、今日も休日らしい気楽なお話をいたします。
これはきっと私だけのことではないと想像されますが、私にとってはちょっと困った悪癖というか性格的な弱さがあります。それは、ふとしたきっかけである著作家の本を一冊読み始めて興味を覚えると、たちまちその著作家の他の本も欲しくなってしまうことです。そういうことってあるでしょう?
今の時代ほどその誘惑に負けやすい「仕掛け」がいたるところに張り巡らされている時代もないですよね。自宅でネットにつながっているだけで、それこそ一瞬にして注文できてしまうのですから。もっとひどい場合は、出版社が毎月メルマガとして送信してくる新刊案内を見ただけで、即発注してしまうこともあります。私の場合、このような「衝動買い」はほぼ書籍に限られますが、他の商品でも同様かそれ以上にその誘惑に負けっぱなしの方もいらっしゃることでしょう。
我が家で事態をさらに悪化させているのは、だいたいいつも数冊の本を並行して読んでいることと、三台のPCと一台のタブレットが常に稼働していることです。こうなりますとね、例えば、休日など、自宅から一歩も外に出ていないにもかかわらず、書籍購入の誘惑たるや、まるで客引きがずらりと並んでいてあちこちから袖を引っ張ってくる歓楽街(って、行ったことありませんよ。これはあくまでテレビ・映画などを見ての想像ですから、念のため)のど真ん中を歩いているようなものです。
だったら全部OFFにすればいいじゃんって思われるかもしれませんが、話はそんなに簡単じゃあないんですよ。すぐにONにできちゃうから(って、理由になってない?)。
それでも、主に経済的理由からこのような書籍購入の欲望が数週間(たったの?)沈静化することもあります。でも、また性懲りもなくぶり返してくるので、年間の書籍購入費は恐ろしくてとても計算する気になりません。
まあ、とは言いましてもね、旅行やらカメラやら、もっとお金がかかるご趣味をお持ちの方々は相当にそのために散財されていることでしょうから、それらの趣味に比べれば、かわいい「浪費」じゃあないですか(もちろん同意してくださいますよね)。それに、大半の場合、広い意味での(便利だなぁ~、この表現)研究のため書籍ですから、単なる趣味ではないのである。稀覯本収集などという好事家的趣味もまったくありませんしね(な~んか言い訳っぽいんですよぇ)。
かくして、今日もまた届いた本をめくりながら悦に入っているところです。
二十一年前の留学当初はまだメールは普及しておらず、日本とのやりとりは緊急の場合は電話、それに準ずる場合はFAXだった。身近な人たちとの間の近況報告はもっぱら手書きの手紙だった。
今はほとんど手書きの手紙を書くことがなくなってしまった。プリンターを使って印刷した葉書や封書さえ送ることはほとんどない。もっとも最近でも数年前に遡らなくてはならない。
しかし、手書きの手紙にはメールには置き換えることのできない大切なメッセージや気持ちが込められている。内容や筆跡だけでなく、選ばれた筆記用具、便箋、封書、切手まで含めてそれらすべてが人から人へと伝わる「便り」となる。
この四月からNHKで始まったドラマ『ツバキ文具店 ~鎌倉代書屋物語~』は、そのことを現代における代書屋という実に斬新かつ伝統にも基づいた設定でしみじみと思い出させてくれている。主役の多部未華子が役柄にぴったりで、しかも脇を固めるのがみな芸達者な役者さんたちばかりで、鎌倉という古都の美しい風景を中心として展開される毎回の物語を楽しく鑑賞している。私個人の中では、はやくも今年度テレビドラマ大賞の最有力候補である。
これはウェッブ上の動画配信サイトのおかげで海外でも見ることができているわけで、しかもHNKに受信料を払わずにだから、この点では現代の通信技術の発達の恩恵に、非合法的に、浴しているわけである。
今日が本年度最後の講義だった。後は明日と来週火曜日に学年末試験が一つずつあるだけ。今日の講義は二年生の日本古代史。後期は平安時代について勉強してきた。その締め括りとして、宗教史に触れ、特に神仏習合現象とその社会的背景などについて日仏語の資料に基づいて説明した。
その上で、来週の小論文の問題を予告した。いつものようにいくつかの予想問題を提示するのではなく、今回はずばり問題そのものを提示した。それはその問題が一週間の準備を必要とするほどに「手強い」問題だからである。
私が学生たちに望んでいるのは、たとえ歴史の授業であっても、覚えたことを試験のときに「吐き出す」ことではなく、歴史の中のある一つの出来事・事実・現象について、なぜそれが起こり、それがどのような意味をその社会において当時もっていたか、さらには、それが現代社会と何らかの関係があるかどうかを、与えられた資料を元に、自分の頭で考えることである。
だから、これが正解というような既成の答えがどこかにあるわけではない。採点基準も、専門家から見て妥当性の高い優れた考察かどうかよりも、学生たちが自分の知力と想像力とを総動員してどこまで問題を考え抜いているかに重きを置く。準備時間はたっぷり与えるのだから、当然のこととして、とても厳しく採点する。何かの資料に無批判に依拠しただけのような答案には合格点はもちろんあげない。そもそもそうさせないように試験問題を「捻って」ある。その試験問題はおよそ次のような内容である。
あなたは、日本のことについてその現代のサブカルチャーのこと以外は何も知らないフランス人学生向けに、日本古代における神仏習合についてのルポルタージュを書くことをある歴史雑誌から依頼された特派員である。タイムマシンを使って平安時代に行き、そこで神仏習合についての考えを聞くインタビューを一人あるいは二人の人に対して行い、それを元にルポルタージュを書きなさい。そのルポルタージュの中にインタビュー相手の出身・階級・職業・居住地区などを必ず明記しなさい。インタビューの相手は、僧侶、神官、公卿、天皇あるいは上皇(これには特別な面会許可が必要)、宮廷女房、国司(受領)、武士、農民、帰化人(渡来人)など、自分で自由に選んでよい。ただし、日本国内での移動費用は自己負担とする。
出題意図は、神仏習合を日本社会一般の現象として外側から記述することに満足するのではなく、その時代の社会の中で生きる人たちのある特定の視点から事柄を見る想像力を問うことにある。ただ、あくまで現代フランスに生きる学生としてそれを記述するわけであるから、ヨーロッパ古代・中世宗教史を比較対象項として導入してもかまわない。例えば、古代ギリシア・ローマの多神教世界、その真逆の中世カトリック世界と比較し、それらといかに異なっているかに言及してもよい。そのための参考文献も三冊講義の中で挙げておいた。