内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己責任論によって洗脳され、「繋がり」を失った現代日本の若者たちの自虐私観

2019-07-11 15:38:52 | 雑感

 「自虐史観」という言葉は今でもよく見かけるが、「自虐私観」という言葉は見かけたことがない。日本では現政権を支持する若者たちが多いという新聞記事を昨日読んで、うかつにも今さら愕然とした私の頭にひょいと浮かんだ言葉である。坂口安吾の名評論「日本文化私観」では、「私観」とは私固有の物の見方という意味だが、私の頭に浮かんだ「自虐私観」の「私観」とは、自分自身についての見方という意味である。「自虐私観」とは、一言で言えば、自虐的自己認識のことである。
 積極的支持ではないにしても、他よりはまし、今より不安定になるのはゴメンだ、問題はあるにせよ、今の政府は政策を決定する力がある、などが若者たちの現政権支持の主な理由であるという。そういう若者たちは、けっして恵まれた環境で暮らしている、いわゆる「勝ち組」ではない。むしろ、不安定な労働条件で働くことを強いられている非正規被雇用者もその中には少なくない。しかし、そんな自分の現状は、現政権のせいではなく、社会を甘く見た自分の「自己責任」だと彼らは考え、自分を責める、あるいは現状を受け入れる、あるいはよりよい未来を諦めているのだという。
 確かに、彼らの窮状をほんとうに理解し、そのために有効な政策を打てるようなまともな政党など日本には存在しない。ならば、みんなが幸せになれる「より良い社会」などという幻想を金輪際捨て切って、「安定的な」現政権にすり寄って生きたほうがマシだ、彼らがそう考えたとしても、彼らを責めることはできないだろう。
 生きることに疲れているとき、あるいは、未来になんの希望も持てないとき、人は考えることそのことを厭うようになる。考えたってしょうがない。考えるだけ時間の無駄、それどころか、その分人より遅れてしまう。考えていたらノルマをこなせない。雇い止めされたら大変だ。過酷な労働条件で働く者たちは、その条件の改善を求めて、自分たちを組織し、交渉あるいは闘争の戦略を練るために考えるには、あまりにもすでに疲れている。
 自分独りのために考えること、それは考えることでさえない。考えることは、本来、未来を志向し、他者との繋がりを必要とする。この二つの条件のいずれかが欠ければ、空想しかできない。空想だけでは人は生きていけない。
 そこで行き着いたのが以下のような自虐私観である。
 イッソノコト、考ヘルノヲ止メ、自己責任ノ結果トシテノ現状ヲ素直ニ受ケ入レ、他者ヲ責メズ、社会ヲ恨マズ、イツモ静カニ微笑ンデ、我ガ身ヲ老ヒルニマカセ、誰ニモ看取ラレズ独リデ死ンデイク、サウイフモノニワタシハナリタイ。












私の身体は、精神というマクロな生成の一部分なのだろうか? ― ベルクソン『物質と記憶』探検(4)

2019-07-10 19:42:37 | 哲学

 「物質も精神も重なりながら生成しつつある」(訳者解説)という前提を認めた上で、もう少し、自分勝手に考えてみる。
 この「重なる」という言い方は曖昧だ。一般的な用法として、何かが何かと重なるというとき、その両者が互いに区別できるそれぞれに独立な存在であることをその前提としている。それは物体間の関係についてばかりでなく、予定が重なる、思い出が今の出来事と重なる、二つのイメージが重なって見えるなどの場合でもそうだ。
 しかし、物質と精神とは、そのような意味で重なっているのではないだろう。
 例えば、テーブルの上に水が入ったコップが一つあり、それを目の前にしている私がいるとしよう。この水もコップも私の身体も、机その他それらを取り巻くすべての物理的環境も、物理的法則に従う物質的所与としてだけ記述することができる。このような所与は、私の身体の行為という次元とはまったく関係がないという意味で、非決定的あるいは中立的である。
 次の瞬間、私がそのコップを手に取って水を飲んだとしよう。この行為の理由は、のどが渇いていたからかも知れないし、なんだか自分でもはっきりしないが、気がついたら飲んでいたということかも知れないし、あるいは、他の人にそう命令されたから、そうしただけなのかも知れない。そのいずれの場合も、私が水を飲んだということは、物理的所与からだけでは説明できない。
 精神は喉が乾わかない。自由意志も同様だ。では、私の身体のそのときの生理的状態が私の脳にコップの水を飲めという命令を発したのだろうか。しかし、そのような問いを発する以前に、もっと単純に、非決定的あるいは中立的であった所与の物理的状態に、あるときある一定の方向に変化が起こったと見てみればどうか。
 その変化の記述は、その変化を引き起こした起動点を中心になされる。それが私の身体だ。精神があるから、私の身体が水を飲むという行為を実行したのではない。そのような行為の発生が、所与の物質と同じ物理的世界に在りながら、それらは異なり、且つそれらと交渉を持つ、あるいは持たなければ生きていけない存在としての私の身体を周囲から区別する。
 しかし、私の身体は、その都度の現在においてのみ物質と作用反作用の関係にあるのではない。

それは精神というマクロな生成の一部分、その先端にすぎない。身体の背後には、ずっと以前から継続している生成の全体が控えている。これが、身体が位置する「現在」との対比で「過去」とされるものだ。注意すべきだが、主観である私の生成にとって、この区分は二次的なものである。あくまで「身体=物質=現在」を自分の先端部とし、しかも身体の周囲に拡がる物質をも自分の知覚として引き受けながら、その上で、より厚みをもったものとして生成しつつある全体が、「私」である。物質は、いつも「現在」にある。だが、精神としての「私」は、それ以上の内容でできている。つまり、それは「私の現在の(物質的な)知覚+それを先端とした生成全体、なのである。円錐の図式が言わんとしているのは、まずはこういうことだ。(訳者解説)

 ここを読んでも、ベルクソンに対してなのか、訳者に対してなのか、はっきりしないが、昨日の記事で呈したのと同じ疑問を懐く。生成しつつある全体としての「私」は、どうして身体を持たなくてはならないのだろうか。精神というマクロな生成は、なぜ身体という先端部を必要とするのか。なぜ物質と交渉を持たなくてはならないのだろう。
 むしろ、見方を逆転させるべきではないのだろうか。つまり、物質と身体との間に差異化が発生するところに一つのマクロな生成としての精神の生誕を見るべきではないのだろうか。言い換えれば、身体の個体化過程が精神の生成過程なのであって、精神の生成過程の一齣として身体が発生するのではない、そう見るべきではないのか。












「私という生成」― ベルクソン『物質と記憶』探検(3)

2019-07-09 18:23:57 | 哲学

 それ自体は見事な訳者解説をこっちで勝手に摘録しても、それを読む人にはなんのためにもならないどころか、訳者の意図を損ない、ひいては『物質と記憶』そのものの理解の妨げにもなりかねないではないか。そんな誰のためにもならないことをしている暇があるならば、せっかくフランス語が読めるのだから、この訳書を脇に置きながら、自分で『物質と記憶』の原文を読んで考えればそれでいいではないか。もう少しましなことが書けないものか。『物質と記憶』そのものに関心のある方には、この最新にして最も優れた訳と訳者解説をどうぞご自身でお読みになってくださいと言えば、それで足りることではないか。
 こんなことを自問しながらここ数日の記事を書いている。私の頭では、解説に書いてあることを一通り辿るだけでも一苦労であるから、結局、これはもっぱら自分のために書いているに過ぎない。
 以下、特に断りのないかぎり、カギ括弧内の文は、すべて訳者解説からの引用である。
 『物質と記憶』における主観と客観の区別は、精神と物質の区別と対応している。「物質と精神とは、それぞれに別個に存在しているわけではない。両者は同じ場所に重なって存在し、生成しつつある。」両者の違いは、生成のスケールあるいはリズムの違いである。それぞれに異なったリズムで生成する精神と物質は、「各自、自らに固有の実在性をもっている」が、互いに作用を及ぼし合ってもいる。
 例えば、「手を挙げる」という動作は、そのような動作としては私の精神の運動の一部であるが、他方では、それと同時に、身体内でのミクロレベルの膨大な運動変化でもある。両者は、そのいずれかに還元可能なのではない。「私という生成は、物質が含む微細な非決定性に対して、統計上の決定論に沈ませることなく、それらをすべて集めて一定の向きに傾けることができるというわけである。」
 この言い方にちょっと引っかかってしまい、先に進めなくなってしまった。以下に述べることは、ベルクソン理解として妥当化どうかという問題を離れた自問自答である。
 何に引っかかったかというと、この言い方だと、私の生成には、非決定的な状態にある物質に一定の方向を与える能力があるかのように読めてしまうからだ。それ自体は非決定的なものたちをひとまとめにして一定の方向に向かわせることができるいわば指揮官のようなものが〈私〉なのだろうか。逆なのではないだろうか。ある一群の非決定的なものあるいは中立的なものがある一定の方向に動き出すとき、その一定の運動性とそれが成立する環境との間に差異が発生することで、いわば原〈私〉が生成しはじめるのではないだろうか。
 「物質も精神も重なりながら生成しつつある」とするのならば、原初的な物質と精神との差異(あるいは差異化)を考えるためには、すでに形が出来上がったものとしての身体を前提として考えるのではなく、上の段落で述べたように考えなくてはならないように私には思われるのだが。私たちの身体を最初から前提してしまうと、「手を挙げる」という動作は私の意志に拠るか拠らないかという偽問題の方にも引きずられかねないとも懸念される。
 探検は始まったばかりなのに、早くも遭難しかけている。












宇宙というイマージュの総体の中での私の身体というイマージュの働き ― ベルクソン『物質と記憶』探検(2)

2019-07-08 18:34:24 | 哲学

 ベルクソンが『物質と記憶』第一章で定義している「イマージュ」という語の用法に従えば、宇宙もイマージュであり、その中に在るすべてのものもまたイマージュであり、私たちの身体もイマージュである。その身体の中で機能している脳も神経組織もすべてイマージュである。
 しかし、私の身体は、知覚によって外から認識されるだけでなく、情感(affections)によって内からも認識される点で際立っている。この私の身体が宇宙のイマージュの総体の中に何か新しいものを生じさせる。

Tout se passe comme si, dans cet ensemble d'images que j'appelle l'univers, rien ne se pouvait produire de réellement nouveau que par l'intermédiaire de certaines images particulières, dont le type m'est fourni par mon corps (p. 12).

私が「宇宙」と呼ぶところのイマージュの総体においては、ある特殊なイマージュ、その典型が私には自分の身体によって与えられるイマージュを介してでなければ、本当に新しいことは何も生じえない、という具合にすべては進んでいる。(杉山訳)

 では、私の身体というイマージュは、宇宙というイマージュの総体の中にそれまでなかった何かを産出しているのだろうか。私の身体において頭蓋骨に守られ、それ自体は直接には肉眼では見えないし、四肢のようにその動きを外から見ながら、内からもその限界づけられた広がりを感じることはできない脳とは、どのような働きを果たすイマージュなのだろうか。脳は、それだけを身体の他の諸器官から切り離すこともできないし、身体を取り巻く世界とは無関係に、あたかもそれだけで機能する機械のようなものでもありえない。では、脳を包んだ身体は、イマージュの総体の中でどのように機能しているのか。この問いに対するベルクソンのラディカルな解決を杉山直樹氏は訳者解説で次のようにまとめている。

もともとイマージュの総体としての宇宙は、それ自体で、すべて見える(聞こえる、触れる……)ものである。事物の彩り豊かな現前ないし表象それ自体は、説明しなくてもよいのだ。われわれの意識的知覚のほうが、この光に満ちた可視的世界を、むしろ制限し、その一部分だけを切り出したものなのだ。身体が行っているのは、この選別だと言うのである。意識的表象を新たに産出しているわけではない。最初に用意されている客観的イマージュの総体から引き算をしているだけなのだ。身体の変化は、この選別を変化させる。身体と知覚が相関するのは、身体が知覚を生むことからの帰結ではない。この相関は、最初から用意された可能的な意識的知覚の全体を、身体が実際の知覚へと縮減していることから理解されるべきだ、というわけである。

 無限に豊かな宇宙というイマージュの総体の中で、脳をその裡に備えた身体は、その総体からその都度自分に必要なものを引き出しているだけあり、そこにもともとはなかった何ものかを産出しているわけではない。言い換えれば、宇宙は、私たちの身体の選別機能を介して、己自身のうちに新しいイマージュを知覚可能な形象として引き出し続けている。












色彩豊かな客観的実在としてのイマージュ ― ベルクソン『物質と記憶』探検(1)

2019-07-07 23:47:55 | 哲学

 『物質と記憶』第一章での「イマージュ」(image)という語のベルクソン固有の使い方は、1896年の初版刊行直後から多くの批判と誤解の対象となった。それに対して答える形で、本書の第七版(1911年)からそれ以前の序文に替わって新しい序文(もとは1910年刊の英訳版の序文として書かれたものの仏語版)が冒頭に置かれるようになった。
 現行の諸版は、この第七版の序文を巻頭に置き、初版の序文は巻末資料などに送り込んでいる。私の手元には、新旧のPUF « Quadrige » 版(1939年版第七版、2008年校訂版)、同じく PUF から1959年に刊行された生誕百周年著作集、GF Flammarion 版(2012)La pochothèque 版(2015)があるが、このうち初版の序文を冒頭に置いているのは La Pochothèque 版だけである(同版はその直後に第七版序文を置いている)。
 杉山訳は 、PUF « Quadrige » の旧版と生誕百周年著作集を底本としている。これは一つの見識だと思う。というのも、訳者が指摘しているように、2008年校訂版には新たな誤植が生じているからである。この校訂版は、詳細な注解・資料編の豊富さ・最新研究成果についての情報などの点でその他の版の追随を許さず、研究者たちはこの版の恩恵に浴していることは確かだが、唖然とするような誤植も確かにある。
 それはともかく、第七版序文におけるイマージュの説明を読んでみよう。

La matière, pour nous, est un ensemble d’« images ». Et par « image » nous entendons une certaine existence qui est plus que ce que l'idéaliste appelle une représentation, mais moins que ce que le réaliste appelle une chose, — une existence située à mi-chemin entre la « chose » et la « représentation ».

われわれの立場からすれば、物質とは「イマージュ」の総体のことだ。そして、この「イマージュ」の語でわれわれが言わんとしているのは、観念論者が表象と呼ぶものよりは多く、しかし実在論者がものと呼ぶものよりは少ない存在、つまりは「もの」と「表象」の中間に位置する存在なのである。(杉山訳)

Donc, pour le sens commun, l’objet existe en lui-même, et, d’autre part, l’objet est, en lui-même, pittoresque comme nous l’apercevons : c’est image, mais une image qui existe en soi.

このように、常識にとっては、ものはそれ自体で存在しているものであり、しかも他方、われわれが見て取るがままにそれ自体、色彩豊かなものでもある。これはイマージュだが、それ自体で存在しているイマージュなのだ。(同訳)

 ベルクソンが第一章で「イマージュ」と名づけているのは、われわれが日常生活の中で経験している事物のことであり、心に浮かぶ影像ではない。それは「重みをもった実在であり、科学者の問いかけに応じて、次々と予期しない内奥を開示しうるだけの奥行きをそれ自身にそなえた実在のこと」なのである(「訳者解説」)。
 この意味での「イマージュ」をどう訳すかが問題になる。杉山訳は、これまで採用された「像、象」を含んだ訳語を避け、日常言語として使われている「イメージ」という英語も避け、「日本語とフランス語の距離をむしろ利用しよう」という意図から、「イマージュ」というカタカナ表記を採用している。読者は、先入見を排して、この語が使われている文脈そのものからその意味を捉える必要がある。これは仏語原文でも同じことだ。












「危険な」哲学書を日本語で探検するとき頼りになる案内書 ― 杉山直樹訳・ベルクソン『物質と記憶』

2019-07-06 19:40:38 | 哲学

 講談社学術文庫の新訳として取り上げる四冊目は、杉山直樹訳のベルクソン『物質と記憶』(2019年5月刊)である。
 古代から現代までの西洋哲学史の主要な著作はすべて日本語に訳されており、その中でも古典中の古典とされる著作は、明治から現代に至るまで、何度も訳されている。しかし、『物質と記憶』ほど何度も訳された著作はそうざらにはないのではないだろうか。最初の訳は大正三年(1914)に刊行された高橋里美訳、最新の杉山訳は八番目の訳ということになる。この百年余りの間に八回も訳された哲学書が他にどれほどあるだろうか。その初版は1896年であり、これほど「最近」に出版された哲学書で八回も訳された哲学書はおそらく他にはないのではないだろうか。
 このことは、何を意味するのだろう。本書が第一級の哲学書であることは間違いないが、それだけでは、これだけ何度も訳し直される理由としては不十分だ。過去の訳に何らかの誤りや問題があり、それを訂正するために新訳を試みるということももちろん理由の一つとして挙げることはできるだろう。しかし、『物質と記憶』に関しては、それだけでは説明しきれない、何か固有の理由があるはずだ。
 確かに、本書は難しい。フランス語の構文として特に難しいわけではないし、ベルクソンは難解な語彙を振り回すわけでもなく、逆に、杉山氏も訳者解説で述べているように、ベルクソンが使う言葉は、それ自体は見慣れたもの―「記憶」(mémoire / souvenir)「物質」(matière)「イマージュ」(image)が多い。だが、まさにそこが罠なのだ(ベルクソン自身は罠を仕掛けようなどとは思っていないが)。なぜなら、ベルクソンは、それらの語に彼独特の意味を込めて使っており、見かけのとっつきやすさが問題そのものの難解さを覆い隠してしまっていることが多いのだ。
 その結果、「まあ、見慣れた言葉遣いだし、そう構えなくてもだいじょうぶと、思って分け入ってみるのだが、気がつくと、あたかも密林の中で遭難するといった目に遭わされるわけだ」(訳者解説)ということになる。訳者自身、少なからぬ遭難経験があったと言う。
 このようにとても「危険な」、しかし現代哲学の最先端へと開かれた哲学書の世界に日本語で分け入るための最新の信頼できる翻訳(しかも、とても親切な安全マップとしての解説付き)が本書である。
 明日から何回か、例によって計画性なしに、訳者のガイドにしたがって、私たちに見慣れた日常世界を根本から見直すことを今も迫ってやまない『物質と記憶』を読み直していこう。












哲学革命のための地ならし作業 ― J・L・オースティン『言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか』

2019-07-05 19:14:20 | 読游摘録

 講談社学術文庫として人文科学系の古典的名著の注目すべき新訳が昨年から矢継ぎ早に刊行されているので、そのそれぞれを手に取った(というか、電子書籍を購入した)機会に最初の印象記を残しておこうと思い立ち、一昨日のマックス・ウェーバーの『仕事としての学問 仕事としての政治』からそれを始めた。
 今日は三冊目。今年一月に刊行されたJ・L・オースティンの『言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか』(飯野勝己訳)を取り上げる。原書のタイトルは How to do things with words で、私の手元にはその第二版(Harvard University Press, 1975)があるが、訳者が底本としたのは第一版(1962年)。第二版での若干の誤記修正と変更・加筆については、前者は、あきらかな場合は断りなく取り入れ、後者は、訳中で言及・引用している。本書には、仏訳もあり、そのタイトルは Quand dire, c’est faire(Seuil, 1970)。アングロサクソンの言語哲学・分析哲学の系統に属する著作としては、かなり早く訳されたほうだ。
 本書について一般に共有されている理解の仕方は、訳者によると、「『言語行為論(speech act theory)』を創設した記念碑的著作であり、したがって、テーマはもちろん言語行為の理論を提示することにある。そして、この言語行為の理論こそ、もっぱら破壊的な議論にいそしんできたオースティンが構築へと転じ、未完に終わったものの自身の哲学の到達点としてしるしづけたものである」となる。それはどれも間違いというわけではないが、この訳業を通じて、それとはちょっと異なるイメージが見えてきたと訳者は言う。
 訳者は、本書の章立てにとらわれずに、内容に即した区切りによる独自の章立てを試み、それに沿って、けっして読みやすくはない本書の各章を概観していく。もちろんそこには訳者の見解がにじんでいるわけだが、その結果として見えてきた「新たな相貌」があると訳者は言う。
 それによると、本書は哲学革命の遂行そのものではなく、革命のための地ならしの作業だったのであり、本書でオースティンが実践しているのは、彼のいつもの哲学的営みである「言語的植物採集(linguistic botanizing)」である。「本書のテーマが言語行為にあることは間違いない。しかし、その重心は、言語行為一般の理論ではなく、個々の言語行為がどうなっているのか、そしてそれらは哲学の問題にどういう光をあてるのか、という探究のための準備作業にあった」というのが訳者の見方である。
 この採集作業はしばしば共同作業として実行される。

何か論題が決まったら、まずは辞書を通覧するなどして、関連する語彙や成句をとにかくたくさん「採集」する。次に、それらを具体的な状況における具体的な発話にあてはめて、「どういうときに何を言うべきか(what we should say when)をあれこれ検討する。そして、そのうえで当の哲学的論題にあたるのである。たとえば「自由意志」という伝統的論題に取り組むとしたら、いきなり決定論などと対比させて大ぶりに論じるのではなく、まずは「自由に(freely)」や「自発的に(voluntarily)といった語彙を採集し、それを具体的な状況にあてはめ……とやるわけである。

 この作業だけでは、いくらそれを続けても何ら問題の解決にはならないが、地に足の着いた哲学的議論を共同作業として実行するための準備作業の一つでは確かにありうるだろう。












社会とは何か ― エミール・デュルケーム『社会学的方法の基準』新訳を読みながら考える

2019-07-04 18:20:50 | 読游摘録

 昨日に続いて、私自身が最近手にした古典の新訳についての感想。出版月からすればこちらのほうが昨日のウェーバーの新訳より一月前の昨年六月に講談社学術文庫の一冊として刊行されている。この新訳も、専門家として原典を知悉している菊池和宏による極めて優れた訳業である。
 明快で懇切丁寧でありかつ問題提起的な解説の中で、訳者は、「いったい社会はあるのか、ないのか。あるとすれば、どのような意味で存在し、またわれわれ各人はそれとどのように関わっているのだろうか」という問いを、本書の翻訳の問題として提示している。
 デュルケームが言う « individuel » は、実のところ必ずしも「個人」を指しているわけではない。訳者は便宜上「個人」という訳を原則として採用しているが、こう注記している。

この語は「個別性」あるいはあえて「個性」とも訳すべき individualité を有することを意味する語として用いられており、ただちに「個人」を指しているわけではない。したがって、本文中で「個人意識」と訳した conscience individuelle、「個人的生」と訳した vie individuelle は、それぞれ「個的意識」、「個的生」とも訳しうる。

 言い換えれば、「個性」(あるいか個別性)と「個人性」と重ね合わせ、両者を区別しないまま語っていることそのこと自体にデュルケームの社会観が如実に表れている。

端的に言って、本書における individuel とは、自然的存在である人体の社会的属性としての個(人)性を指しており、今日われわれがこの語から想起するような近代的個人を指しているわけではない。Individuel は主体的行為の起点ではなく、ましてや〈私〉などというものではない。それは区分(division)という視角から捉えられた全体である。それはあくまでも「諸個」である。つまり、ここに個人というものの本源的社会性が現れているのだ。

 デュルケームが思い描いている社会とは、個人と社会とが不即不離の関係にあるような存在様態、全体として分割不可能な一つの生命である人類=人間性(ヒューマニティ)の存在様態だと訳者は言う。

このことを敷衍すれば、個人的生と社会的生は、個人と社会という異なる二つの視角から、同じ一つの不可分の「生」というものを照らし出して初めて現れる区別にすぎない、とも言えよう。つまり、人がともに生きているという現実の全体を客観的な事実として捉えようとしたデュルケームにとって、両者は生という現実の二つの側面であり、表裏一体のものなのである。

 先行世代の社会有機体的社会観を色濃く残した一種折衷的なデュルケームの社会概念は、むろん不安定なものである。この不安定さを一九世紀の前実証主義的な思考様式から二〇世紀の実証主義的なそれへの移行期における過渡的な混乱とみなすこともできる。
 しかし、現代社会に生きる私たちは、より確固とした社会概念を持っていると言えるだろうか。むしろ、ますます不安定になった社会観しか持てなくなってはいないだろうか。社会とは何かという問いを徹底的に考えようとするとき必ず立ち返るべき古典の一つが優れた新訳で読めるようになったことは、それを読んで社会についてその根本から考え直してみよという課題が私たちに与えられたことを意味しているのではないだろうか。












「就職はサイコロ賭博」―「軽さ」を重んじたフレッシュな新訳で読むマックス・ウェーバー『仕事としての学問 仕事としての政治』

2019-07-03 18:27:14 | 哲学

 野口雅弘訳のマックス・ウェーバー『仕事としての学問 仕事としての政治』(講談社学術文庫)が出版されたのはもう一年前のことだから、新訳として話題にするのは今更の感があるが、この訳は、古典はそれが読まれる時代に応じて何度も訳し直されるに値することを、熟慮の上で選択された「軽い」文体で見事に実証している。
 例えば、「就職はサイコロ賭博」と見出しが付された三段落の中の一節を読んでみよう。

私講師がいつか正規の教授や、ましてや研究所の管理職のポストに就くことができるどうか。これはまったくサイコロ賭博のような話です。助手であれば、なおさらです。たしかに、偶然だけが支配しているわけではありません。しかし、尋常でないレベルで偶然が支配しています。

 ここで「サイコロ賭博」と訳されている原語は « Hazard » である。この訳語の選択の理由は訳注で説明されている。

“Hazard” は「僥倖」と訳されてきたが、もともとはアラビア語の“az-zahr”(サイコロ)に由来し、そこから転じて「危険」、「運」、「賭けごと」という意味をもつ。「ハザードマップ」というときの「ハザード」は、予測される災害を指し、少なくともプラスの意味ではない。「仕事としての政治」34段落にも「リスクをともなった冒険」という意味で、この語が出てくる。以上を考慮して、本書ではすべて「サイコロ賭博」と訳す。

 ちなみに、仏訳は « hasard » となっており、同じ語源を共有している語をそのまま用いている。つまり、この語に限って言えば、訳す必要さえない。それを大胆にも「サイコロ賭博」と訳した効果は大きい。
 この講演のキーワードである「ベルーフ(Beruf)」には、ピタリと対応するフランス語がない。だから2003年刊行の新訳(Le savant et le politique, préface, traduction et notes de Catherine Colliot-Thélène, La Découverte/Poche)では « la profession et la vocation » と二語を充て、原語の両義を顕在化させている。
 野口訳は、既存の訳で使われている「職業」という言葉を避け、かといって、「召命」としてしまうと、あまりにも宗教的なニュアンスが強く出過ぎて不自然になるから、やはり避け、基本的に「事」に「仕」えるという意味での「仕事」を訳語として採用することで「天職」という含意を残そうとしている。
 このような「軽さ」を旨とした訳語と文体によって、つい最近行われた講演記録であるかのような臨場感とともにこの古典を読むことができる。そのおかげで、「就職はサイコロ賭博」と題された段落を読んだだけでも、1917年の講演が今もなおアクチュアリティを持っていることがよくわかる。
 細心の熟慮に基づいた大胆な訳語の選択と淀みない口語体の文体の練磨に、遅まきながら、喝采を送りたい。












文学・哲学・歴史を横断し、古代と現代の間を遊行する鵺のテツガク

2019-07-02 12:12:40 | 哲学

 職業的身分からすれば、私の本業はストラスブール大学言語学部日本学科の教育研究員であるから、その枠外での哲学研究は、いわば副業である。日本の大学の哲学科での集中講義もその副業の一部ということになる。研究者としても、どこかの哲学会に属しているわけでもなく、そういうことにはそもそもあまり関心がない。哲学関係の学会誌に論文が掲載されたこともない。つまり、アマチュアである。文学についても同様であり、研究者ではない。せいぜい文学老年である。
 「じゃあ、何なの?」ということになるが、まあ鵺みたいなものである。鵺とは、日本国語大辞典によると、第一義は、虎鶫(とらつぐみ)の異名、第二義は、「源頼政が紫宸殿の上から射落としたという怪鳥。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に似、声は虎鶫に似るという」、そして、そこからの転義としての第三義が、「どちらともつかないあやしげなもの。正体がはっきりしない人物・事物やあいまいな態度にいう」となっており、まさにこれである。これは卑下でも開き直りでもなく、事実そうなのだから仕方ない。今さら自分の所属をはっきりさせたところでどうなるものでもない。このまま行くしかなかろう。
 それに、鵺本人にとっては、文学も歴史も哲学も相互に繋がり合っている。古今東西あちこち飛び回るのがその習性だ。だから、支離滅裂なことをやっているつもりはない。これはこれで一つの実存様態なのだと自負している(もちろんちっぽけではあるが)。日本思想史における積極的無常観の起源の探究と西田とミッシェル・アンリとを対質させる現代哲学的関心とは、無関係どころか、鵺のテツガクにおいて相補的な関係にある。今年の前半は、この相補性が頓に強化・拡大され、と同時に深化しつつあり、その深化の過程で発見された新たな問題群の輪郭が明確になりつつある。
 ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ。ヤマトの鵺は自由に時空を遊行する。