内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

科学的自然観と汎生命論的存在論の統合、あるいは相続されなかった知的遺産

2023-01-11 08:52:17 | 読游摘録

 先を急ぐこともなく、行きつ戻りつしながら好きなテキストを味読するのは楽しい。その味読の間に参照したいテキストも次から次に出てくる。それらの本が机上に積み重なっていく。それを眺めるのも嬉しい。研究のためというわけでもなく、ましてや論文に仕立て上げようという意図などまるでなく、ただこうしてブログにその読書記録を記していく。そのこと自体が私にとって喜びなのだ。
 さて、一昨日の記事の最後に言及したドミニック・ジャニコーの本を読み直す前に、アドが『イシスのヴェール』でラヴェッソンに言及しているもう一つの箇所を見ておきたい。というのも、その箇所に付けられた注の一つでアドがまさにジャニコーのその本に言及しているからだ。そのもう一箇所は、『イシスのヴェール』第18章「美的感覚と形の生成」「5 螺旋形と蛇行線」の中にある。
 螺旋や蛇行に自然美を見出すルネサンス以来の美的感覚の伝統にラヴェッソンもまた連なり、その絵画教育法の考察もそれに基づいている。ラヴェッソンによれば、芸術家はものを囲い込むような輪郭線ではなく、形を生み出す動きとしての蛇行曲線に注目しなければならない。こう説明した後にアドは例のベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」の中に引用されたダ・ヴィンチの『絵画論』の一節をそのまま全文引用する。ただ、その一節が『絵画論』からの引用であるという説明ぬきなので、あたかもラヴェッソン自身の所説のように読めてしまうが、この文脈ではそう取られても特に誤解を招くわけでもない。
 それよりも注目したいのは、この引用に続けて、ラヴェッソン最晩年の著作である『哲学的遺書』の数節にアドが言及していることである(『遺書』については2015年12月12日の記事から16回連続して取り上げているのでそちらも参照されたし)。アドによれば、『遺書』のなかでラヴェッソンは「自然の方法と法則 la méthode et la loi de la nature」(日本語訳は「自然法則の方法」と誤訳している)を発見するために絵画教育法についての所論をさらに推し進めている。
 そこでもラヴェッソンはミケランジェロとダ・ヴィンチを援用している。ところが、『教育学辞典』の「デッサン」の一節とは違って、自然の中に実在する蛇行や波動の背後に何か「形而上学的な線」を見出そうとするのではなく、個々の存在を「自然の一般的な方法の個別的な表現 une expression particulière de la méthode générale de la nature」として捉えようとする努力としてダ・ヴィンチの教説を解釈している。

Comme s’il pensait que dans chaque manière de serpenter ou d’ondoyer se révélait le caractère propre de chaque être ; chaque être serait ainsi une expression particulière de la méthode générale de la nature, expression elle-même de l’incarnation aux formes multiples de l’âme génératrice.

Ravaisson, Testament philosophique, Allia, 2008, p. 76

 アドが引用しているのは1932年刊の Ch. Devivaise 編版である(BNFGallica で閲覧・ダウンロードできる)。この版には、ベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」が序論として巻頭に置かれている。ただ、なぜかわからないが、アドが参照した版にも上の引用の最後の一句 « expression elle-même de l’incarnation aux formes multiples de l’âme génératrice » がちゃんとあるのに、アドはそれを引用していない。しかし、その直前の句と同格に置かれたこの一句はラヴェッソン晩年の思想を知る上で重要だと私は考える。
 なぜなら、この二つの expressions が相俟って、個々の具体的な存在を通じて自然の一般法則を探究する科学的自然観と、自然を生成する魂と考え、個々の存在をその魂が無数の形を取った受肉の表現そのものとする汎生命論的存在論とが統合される途が開かれるからである。このように解釈してよいのならば、晩年のラヴェッソンは、デッサン論での所論からさらに一般化された哲学へと歩を進めようとしていたと言えるだろう。
 この哲学の構想が十九世紀末に「遺書」として遺されたことは象徴的である。二十世紀の哲学者たちは、ベルクソンも含めて、ラヴェッソンの知的遺産をほんとうには相続しないままに終わり、今や二十一世紀ももうすぐ最初の四半世紀を終えようとしているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


父はウクライナで戦っています

2023-01-10 23:59:59 | 講義の余白から

 ウクライナ人学生と続けているウクライナ人作家 Mykola Khvyliovy(1893‐1933)の小説 Moi (romantisme) [仏訳のタイトル]の日本語訳作成作業は今日が年明け初回だった。
 型通りに新年の挨拶を日本語で交わした後、「ご家族はどうしていますか。元気にされていますか」と尋ねた。「ありがとうございます。母はドイツにいます。父はウクライナで戦っています。二人とも元気にしています」と気丈に答えてくれた。しかし、心中はどうだろうか。日々死の危険に晒されている父親のことが心配で仕方がないのではないだろうか。そんな中、挫けずによく勉強している。一日も早く戦争が終わることを切に願わずにはいられない。
 私は彼女に何もしてあげることができない。せめてこの共同翻訳作業には微力を尽くしたい。毎回、それこそ一語一語、彼女が作った日本語訳を仏訳と照らし合わせながら検討している。まず、60年代に出版された仏訳と彼女がそれをより原文に忠実に修正した訳と日本語訳を対照しながら、日本語訳を推敲する。その過程でいかにも奇妙なと私には思われる表現に出会うとき、ウクライナ語原文でそれに対応する箇所について彼女に説明してもらう。その説明を受けて、また日本語訳を一緒に推敲する。その上で、日本語訳がウクライナ語原文のニュアンスを伝え得ているのかどうか確認するために、日本語訳が与えるリズム・トーン・イメージ等を私が説明する。それに対する彼女からの返答に応じて、また修正を加える。うまく適切な訳がすぐに見つからないこともある。そういうときは次回までの宿題として持ち越す。
 前期の正規の演習としては次回が最後だ。しかし、いつか彼女の名でこの小説の日本語訳が発表できるように訳が完成するまで伴走するつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ラヴェッソンによるダ・ヴィンチ『絵画論』からの引用に関する一つの疑惑

2023-01-09 23:59:59 | 読游摘録

 ピエール・アドの『イシスのヴェール』にはラヴェッソンに言及している箇所が二つある。一つは、第1章の終わりで、ラヴェッソンの間違いを指摘している箇所である。ラヴェッソンは『哲学的遺書』のなかで「自然はみな死を求める(Toute nature aspire à la mort)とレオナルド・ダ・ヴィンチは言う」と書いているのだが、それについての解釈が間違っているだけではなく、そもそもダ・ヴィンチはそんなことは言っていないとアドは言う(『イシスのヴェール』小黒和子訳、法政大学出版局、2020年、16頁)。ラヴェッソンはダ・ヴィンチの表現を書き換えてしまっているのだ。
 ちなみに、アドの原文では déformer という動詞が使われており、この文脈では、「元の形を歪める」という批判的な立場からの強い意味で使われており、日本語訳の「意味を取り違える」は適切ではない。取り違えであれば、不注意からとか、うっかりして、という言い訳も成り立つが、déformer は単なる過失では済まされない。
 この箇所を読んで、にわかに私のうちに疑惑が生まれた。それは先日来何度か引用しているベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」でラヴェッソンが引用することを好んだとベルクソンがいうダ・ヴィンチの言葉についての疑惑である。出典であるはずのダ・ヴィンチの『絵画論』には複数のフランス語版があり、中にはテキスト校訂に関して信用の置けない代物もある。編者が勝手にダ・ヴィンチの言葉を「編集」してしまっていることもあるという。
 いまだにラヴェッソンが参照したのがどの版なのか突き止めるに至っていないし、もしかすると『哲学的遺書』の場合のように、ラヴェッソン自身が「編集」してしまっている可能性も今の段階では否定できない。ベルクソンはそんなことは気にせずに、ラヴェッソンの『教育学辞典』執筆項目「デッサン」からダ・ヴィンチの言葉として引用している。
 問題は単に書誌的なレベルではない。ダ・ヴィンチとミケランジェロに始まるとされる、蛇行線に生命に固有な運動を見る芸術的直観は近代を貫く長い美学思想の淵源だからである。そして、このうねるような線の背後に目に見えない形而上学的な線を精神の眼で見る、あるいはこの線を形而上学的な線と同一視するラヴェッソンとベルクソンの解釈は、ダ・ヴィンチともミケランジェロともほとんど無縁である。とすれば、イタリア・ルネッサンスに始まる生命の運動としての蛇行線の系譜学は、ラヴェッソンとベルクソンによって、良く言えば、新たな展開を遂げたのであり、悪く言えば、己の起源を否定することで自壊したのである。
 『眼と精神』でのラヴェッソンとベルクソンに対するメルロ=ポンティの批判的な言辞をこの系譜学との関係において読み直すことは、メルロ=ポンティが構想しつつあった新しい存在論のより深い理解を可能にしてくれる。
 そのためには、しかし、必ず参照すべき本がもう一冊ある。ドミニック・ジャニコ-(Dominique Janicaud, 1937‐2002)の Ravaisson et la métaphysique, Vrin, 1997 (1re édition, Martinus Nijhoff, 1969) である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


動詞 traduire について

2023-01-08 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事に長々と引用したアンドレ・マルシャンの発言の中で traduire という動詞が三回使われている。もちろんこの文脈では、ある言語で書かれたテキストを別の言語に翻訳するという意味ではない。もともと traduire は法律用語で、「ある場所から別のある場所に移動させる」、とくに「法廷に召喚する」という意味で用いられた。ラテン語の traducere に由来する。
 それが「翻訳する」という意味で使われるのは16世紀半ばからのことで、次第にこの意味での用法が一般化する。17世紀半ばになると、「表現する、解釈する」という抽象的な意味でも使われるようになる。例えば、「(ある人の)考えを表現する」という使い方である。19世紀になると、この意味での用法が芸術の分野で広まっていく。
 アンドレ・マルシャンにとって、traduire とは、諸事物の魂が語りはじめるのを待ち、その「言葉」を聴き取り、それをキャンバスの上に表現することだ。いわゆる表現主体としての画家が何か己の内にあるもの表現するのではない。画家とは、彼にとって、諸事物の魂がキャンバスの上に色彩と形によって己の姿を現すためのいわば媒介者である。
 『眼と精神』に銘句として掲げられているガスケが伝えるセザンヌの言葉 « Ce que j’essaie de vous traduire est plus mystérieux, s’enchevêtre aux racines mêmes de l’être, à la source impalpable des sensations. » の中の traduire も「翻訳する」という意味ではないが、マルシャンの言う意味での traduire とはまた微妙に違っているように思われる。
 文脈に即して言い換えるならば、「そのままでは捉えがたい何ごとかをある形において表現して、伝わるようにする」という意味であろう。だから、比喩的な意味で「翻訳する」ことだという説明も成り立たないわけではない。実際、みすず書房版の訳は「私があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっと神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです」となっている。
 富松保文訳は「私があなたに伝えようとしていることはもっと不思議で、存在の根源や手にとってみるわけにはゆかない感覚の源にからまっているものなのです」となっている。脚注によれば、富松訳はガスケの『セザンヌ』(岩波文庫)の與謝野文子訳に拠っている。與謝野訳は、「あなたに伝えようとしていることはもっと不思議で、存在の根源や手にとってみるわけにはゆかない感覚の源にからまっているものなのです」(220頁)となっているから、富松訳は「私が」を補っていることがわかる。その点を除けば、両者は同一の訳である。
 セザンヌの言葉は銘句として掲げられているだけで元の文脈がわからないから、みすず書房版のように「翻訳」と訳すのはやはり誤解を招きやすいのではないだろうか。存在の根源にある「言語」はそのままでは理解しがたいから、画家はそれを絵画という「言語」に「翻訳」するのだという意味だと解釈できなくはない。そうすると、しかし、画家の仕事は、それ自体として在る存在の原テキストを色彩と形によって翻訳することだということになるのだろうか、という問いが生じる。
 次に、impalpable をみすず書房版は「感覚の感知しがたい」、與謝野訳は「手にとってみるわけにはゆかない」と訳している点について。原義は「手で触れることができない」ということであるから、與謝野訳が間違っているわけではない。しかし、メルロ=ポンティが諸感覚には感覚そのものには還元され得ない源泉があるという存在論的な含意を持たせつつセザンヌのこの言葉を銘句として掲げているのだとすれば、みすず書房版の訳のほうがその含意をよりよく伝えていると言えるだろう。ただし、セザンヌ自身が言いたかったことをどちらの訳がよりよく伝えているかというのは別の問題として残る。
 もう一点、両訳を比べて問題になることは、みすず書房版は「存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉」と両者を同格と取り、両者は同じ一つのことと捉えているのに対して、與謝野訳は両者を並列し、同一のこととは見なしていないことである。
 この点に関しては、私はみすず書房訳を支持したい。つまり、「存在の根そのものは感覚によっては感知しがたい源泉である」というのがセザンヌの考えで、メルロ=ポンティもセザンヌの言葉をこの意味で捉えたからこそ、銘句として掲げたのだと理解しておきたい。
 これらの問題について早急に結論を出すことがここでの目的ではない。メルロ=ポンティが引用あるいは参照している他者の諸テキスト及びメルロ=ポンティ自身の他の著作も参照しつつ、『眼と精神』を半年かけてじっくりと読み直しながら、これらの問題を検討していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョルジュ・シャルボニエ『画家の独白』入手

2023-01-07 23:59:59 | 読游摘録

 『眼と精神』に引用されている Georges Charbonnier の Le Monologue du peintre の原本は1959年と翌年に二巻に分けて Julliard という出版社から刊行されている。メルロ=ポンティが引用しているのはいずれも上巻に収められた対談である。上下巻合わせて36人の芸術家(主に画家だが、彫刻家、建築家も含まれている)たちとの対談が収録さている。日本でもよく知られている名前として、ジョルジュ・ブラック、マックス・エルンスト、アルベルト・ジャコメッティ、アンリ・マティス、サルヴァドール・ダリ、マルク・シャガール、ジョルジュ・ルオー、ル・コルビュジエ、ベルナール・ビュッフェなどを挙げることができる。
 この談話集の基になっているのは、1950年から1951年にかけて、そして1956年から1957年にかけてフランス・ラジオ・テレビ(Radiodiffusion-télévision française=RTF、のちの France culture)のラジオ番組での対談である。五十年代のフランスでラジオ番組が文化・教養の伝播に果たした役割は大きい。シャルボニエはこの年代にきわめて重要な対談を驚くべき密度で企画し実現させている。レヴィ=ストロースとの対談は特に有名だが、メルロ=ポンティともほぼ同時期に十回に亘って対談を行っており、そのうちの九回が一九五九年に放送されている(現在、Entretien avec Georges Charbonnier, Verdier, 2016 にすべて収録されている)。
 Le Monologue du peintre は初版から二十年後の1980年に第二版が Éditions Guy Durier という書肆から出版されている。この第二版にはシャルボニエ自身が序文を寄せている。私が今回購入したのは、2002年に Éditions de la Villette から一巻本として出版された第三版の中古本である。字のサイズが10ポイントで行間も狭くぎっしりとテキストが詰め込まれているが、上質の紙を使ってあり、しかもしっかりとした糸かがりの製本である。これで定価が12€というのだから驚きである。私が購入した中古本はほぼ新品で値付けは12€だったが、正当だと思う。
 この本のおかげで『眼と精神』の中の引用で省略されている部分を読むことができた。少し長くなるが、メルロ=ポンティによって引用された箇所の前後を復元して以下に掲載する(引用中、G. C. はジョルジュ・シャルボニエ、A. M. はアンドレ・マルシャンを指す)。

 G. C. – Dans le cours de votre expérience de peintre, est-ce que cet écran constitué par les apparences vous est apparu plus ou moins solide selon les période ?
 A. M. – Lorsque j’étais très jeune, je me promenais dans la campagne à Aix, puisque je suis né dans cette ville, et je me promenais dans ces grands paysages que Cézanne a peints et magnifiés. J’étais très, très jeune, très jeun homme, et je sentais, au fond, que, derrière le monde de l’apparence, déjà, surgissait un monde autre et qu’il fallait traduire. Il fallait arriver à percer l’apparence et à traduire ce monde autre sur la toile. C’est une entreprise très difficile. Et longue. Et lente. N’est-ce pas ?
Il faut d’abord une grande accoutumance du monde visible pour arriver à le désintégrer, à voir son âme, à voir ce qui se cache à l’intérieur. Par exemple, dans une forêt, j’ai senti à plusieurs reprises que ce n’était pas moi qui regardais la forêt. J’ai senti, certains jours,  que c’étaient les arbres qui me regardaient, qui me parlaient. Moi, j’étais là… écoutant. Ce n’était pas moi qui regardais l’arbre. C’est l’arbre qui me regardait.
Donc, je sentais, certains jours, que la nature contenait vraiment ce monde du dedans, c’est âme du dedans, cachée à nos regards et terriblement obsédante. Je l’ai vu et je l’ai senti à plusieurs reprises. Si je suis sur des grandes plages désertes, au bord de la mer, ce n’est pas moi qui regarde la mer, c’est la mer qui me regarde, qui me parle, qui me dit certaines choses que j’écoute pendant des jours, là, tout seul. Il faut une grande solitude, il faut être seul, absolument seul. Ensuite, je rentre dans mon atelier, et je dis sur la toile ce que la mer m’a dit, ce que l’océan m’a dit. Mais ce n’est pas moi qui regarde l’océan, c’est l’océan qui me regarde. C’est un corps de femme qui me regarde. Ce n’est pas moi qui regarde le corps de femme. Ce que je suis devant une femme nue, c’est ce corps de femme qui me regarde.
 G. C. – Le rôle du peintre, est-ce répéter ?
 A. M. – C’est traduire. C’est s’effacer devant le monde. Le rôle du peintre est l’effacement. Le peintre doit s’annuler, s’effacer. Je crois que le peintre doit être transpercé par l’univers et non vouloir le transpercer.
 G. C. – C’est le contraire de la position scientifique. Le savoir du savant est un savoir agressif.
 A. M. – C’est un savoir agressif, mais c’est d’abord un savoir de contemplation. Ce n’est qu’après la contemplation que le savant passe à l’action.
 G. C. – Il veut savoir pour agir. Vous ne voulez pas savoir pour agir ? Vous ne cherchez aucunement à modifier l’ordre des choses ?
 A. M. – Ah ! Aucunement. J’attends d’être transpercé par les choses.
 G. C. – Et quand vous voulez atteindre l’âme des choses – je crois qu’on peut employer cette expression, en ce qui vous concerne…
 A. M. – En effet : l’âme des choses.
 G. C. – Lorsque vous souhaitez atteindre l’âme des choses, vous ne souhaitez pas arriver à prévoir leur structure au sens où le physicien emploierait ce terme ?
 A. M. – Non, non.
 G. C. – Le nombre n’a pas de rôle dans votre appréhension de la nature.
 A. M. – Cette âme doit m’arriver dessus. Elle doit me submerger. Si je ne suis pas submergé par cette âme des choses, cette âme de l’intérieur des choses, je ne peins pas. J’attends d’être intérieurement submergé, enseveli. Je peins peut-être pour surgir.

 Le Monologue du peintre, Éditions de la Villette, 2002, p. 110-111.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一本の見えない線が繋ぐもの ― ラヴェッソンのデッサン論をめぐって

2023-01-06 14:13:33 | 哲学

 昨日の記事で言及した『教育学事典』の項目「デッサン」ためにラヴェッソンが執筆を担当した部分は671-684頁に渡り、それ自体がラヴェッソンのデッサン論としてきわめて興味深い。昨日引用したダ・ヴィンチの『絵画論』からの引用がある段落の次の段落でラヴェッソンはこう述べている。

Quoi qu’il en soit, cette ligne souveraine qui commande les autres lignes, et qui pourtant ne se révèle aux yeux que par celles-ci, cette ligne qui se laisse deviner plutôt qu’elle ne se montre, et qui n’existe pas tant pour la vue que pour l’imagination et la pensée, un artiste éminent de notre époque l’appelait, en parlant à son élève (l’auteur du présent article), la “ligne métaphysique” ou supra-physique ; c’était achever par un terme expressif la théorie de Léonard de Vinci, de Michel-Ange et des Grecs.

Dictionnaire de pédagogie et d’instruction primaire, op. cit., p. 680.

なにはともあれ、この至高の線が他の諸線を命じているのであるが、しかしこの線が肉眼に明らかされるのはその他の諸線によってのみであり、この線はそれ自体が姿を現すというよりも推察されるのであり、肉眼に対して存在するというよりも想像力や思考に対して存在する。この線を、私たちの時代の卓越した芸術家の一人は、その生徒の一人(本項目の執筆者)に向かって話しているとき、「形而上学的な線」あるいは超物理的な線と呼んだ。それは、この豊かな表現力をもった言葉によって、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてギリシア人たちの理論を完成させるものであった。(私訳)

 ポショテック版ベルクソン全集の校注者は、この箇所を注に引用しつつ、ラヴェッソンが好んで引用したというダ・ヴィンチの『絵画論』の一節を引用した直後にベルクソンが述べていることはこの箇所についてのコメントであろうと推定している。その通りであろう。

Cette ligne peut d’ailleurs n’être aucune des lignes visibles de la figure. Elle n’est pas plus ici que là, mais elle donne la clef de tout. Elle est moins perçue par l’œil que pensée par l’esprit. (PUF, 2009, p. 264-265)

そうした線はじつは物の姿のどこにも見えない線かもしれない。ここにもなくあそこにもないのだが、しかしそれが全体の鍵となっているのだ。そうした線は眼で知覚されるというより、精神によって思考されるのである。(原章二訳、平凡社ライブラリー、2013年)

 ベルクソンが同論文で述べているように、ラヴェッソンは才能ある芸術家を母としてもち、少年時から芸術一般、とりわけ絵画に素質を見せていた。母は息子を当時の新古典主義の巨匠ダヴィッドの二人の弟子の手に委ねた。ラヴェッソンはデッサンを特によくし、その作品は「この上もなく優美な de grâce exquise」ものであったという。
 つまり、ラヴェッソンのデッサン論は画家としても優れた才能をもっていた哲学者による経験に裏打ちされた芸術論であり、実践経験のない哲学者たちの思弁的な美学とは一線を画すものであった。メルロ=ポンティが『眼と精神』で画家たちの言葉とともにラヴェッソンのデッサン論に言及しているのも、そこに優れた芸術的直観を読み取ったからであると思われる。
 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラヴェッソン(ベルクソンを介した)、そしてメルロ=ポンティを繋いでいるのは、それ自身はそのまま現れることはないが、眼に見える諸線を生動させ、それら生動する線の多様な運動を通じて己を表現する一本の「うねるよう線」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『眼と精神』のなかのベルクソン「ラヴェッソンの生涯と業績」からの引用を巡るちょっとややこしいが大切な話

2023-01-05 17:25:51 | 読游摘録

 『眼と精神』には、ベルクソンの La Pensée et le Mouvant に収録された論文「ラヴェッソンの生涯と業績」からの引用がある(この一節の引用に関する複雑な問題群に関しては2014年8月29日の記事を参照されたし)。
 ベルクソンのこの論文には、ラヴェッソンのデッサン論がかなり詳しく紹介されており、そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの『絵画論』の中からラヴェッソンが好んで引用するとベルクソンが言う文章が引用されている。

« Le secret de l’art de dessiner est de découvrir dans chaque objet la manière particulière dont se dirige à travers toute son étendue, telle qu’une vague centrale qui se déploie en vagues superficielles, une certaine ligne flexueuse qui est comme son axe générateur. » (PUF, 2009, p. 264)

「素描芸術の秘訣は、おのおのの物のうちに、中央の波が表層の波へと広がっていくように、あるうねるような線がその広がり全体を通じて進んでゆくその独特な仕方を発見することだ。このうねるような線は、その物の生成軸のようなものである。」(私訳)

 このダ・ヴィンチからの引用をメルロ=ポンティが『眼と精神』のなかで一部省略して引用しているのである。つまり、メルロ=ポンティは、ラヴェッソンがダ・ヴィンチの『絵画論』の仏訳から引用している箇所をベルクソンが引用しているのを引用しているのである。これは、孫引きでも、「曾孫引き」でもなく、「玄孫引き」である。
 ベルクソンは当該のダ・ヴィンチからの引用をラヴェッソンが『教育学事典 Dictionnaire de pédagogie et d'institution primaire 』のために執筆を分担した項目「デッサン」から引用している。1882年から1893年にかけて出版されたこの『教育学事典』はフランス国立図書館(BNF)の電子図書館 Gallica で閲覧・ダウンロード(無料)できる。それによって確認したところ、ベルクソンの引用は項目の文章(680頁左側)と正確に一致している(こちらを参照)。
 ただし、ラヴェッソンの引用には不定冠詞 une が抜けている箇所があり、ベルクソンはそれを補って引用している。このことをちゃんと注で指摘しているのは、La Pensée et le Mouvant の多数ある版のうち、La Pochothèque 版だけであった(Tome 2, p. 1077, n. 3)。それだけでなく、ベルクソンが引用していない箇所も補って、ラヴェッソンが引用しているダ・ヴィンチの絵画論の当該箇所を注に引用するという親切ぶりである。ダ・ヴィンチの『絵画論』仏訳の書誌的情報を注に記しているのも同版だけである。
 ちなみに、PUFから2009年に出た La Pensée et le Mouvant 校訂版では、当該箇所に学部生でも書けるような簡単な注が付いているだけである。同版は圧倒的な情報量を誇るが、結構誤植もあり、また注にも不備が散見される。
 細かくてややこしい話が続いたが、まだ終わりではない。というのも、ラヴェッソンが引用しているダ・ヴィンチの『絵画論』の仏訳がどの版なのかまだ突き止められていないからである。上掲のポショテック版には、別の箇所の注に « Voir Trattato della pittura di Lionardo da Vinci, édition de Raphael Trichet du Fresne, Paris, Giacomo Langlois, 1651. » と記されているだけで、これではラヴェッソンが本当にこの版から引用したのかわからない。おそらくポショテック版の校注者もそこまでは調べなかったのではないかと思われる。
 私の手元にあるダ・ヴィンチの『絵画論』の仏訳 Traité de la peinture は、アンドレ・シャステル訳注版(Éditions Berger Levrault, 1987年)の新訂版(Calmann-Lévy, 2003)である(この美しい大型本についてはこちらの記事を参照されたし)。今朝からずっと当該箇所を探しているのだが見つからない。焦ることはない。むしろ、これを良き機会として、この豪華本『絵画論』を、その中に収録されているため息が出るほど美しい図版の数々を嘆賞しながら毎日数頁ずつ読んでいこうと思う。
 かくして、日々の愉しみが一つ加わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


樹々が私を見ている、私に語りかけてくる

2023-01-04 23:59:59 | 読游摘録

 『眼と精神』に引用されている画家たちのさまざまな言葉(証言、経験談、絵画論等々)はそれ自体とても興味深い。それらの引用の出典の一つがジョルジュ・シャルボニエ(Georges Charbonner, 1921‐1990)の Le monologue du peintre, Paris, Julliard, 1959 (『画家の独白』未邦訳)である。
 著者のシャルボニエは、実に多面的な才能を発揮した人で、大学で教えながら、フランスのラジオやテレビでプロデューサーやディレクターとして番組を企画し、かつ作家、批評家、翻訳家でもあった。特に、対談やインタビューの名手として知られていた。レヴィ=ストロース、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、マルセル・デュシャン、ミッシェル・ビュトールなどの著名人たちとの対談は日本語訳も出ている。
 『眼と精神』II節の三箇所に上掲書からの引用がある。原本は未見なのだが(今日明日中に2002年の復刊版が届く)、おそらく本書も画家たちとの対話あるいは画家たちへのインタビューから構成されているのだろう。それら三つの引用のうち、私には、アンドレ・マルシャン(André Marchand, 1907-1998)という画家の言葉がことのほか心に響いた。

« Dans une forêt, j’ai senti à plusieurs reprises que ce n’était pas moi qui regardais la forêt. J’ai senti, certains jours, que c’étaient les arbres qui me regardaient, qui me parlaient… Moi j’étais là, écoutant… Je crois que le peintre doit être transpercé par l’univers et non vouloir le transpercer… J’attends d’être intérieurement submergé, enseveli. Je peins peut-être pour surgir. »

L’Œil et l’Esprit, Gallimard,1964, p. 31.

森のなかで私は幾度となく、森を見ているのは私ではないという感覚を抱きました。木々こそが私を眺め、私に語りかけてくるのだという感覚を抱いたことが幾日もありました……。私はと言えば、そこにいて、耳を傾けていました……。私が思うに、画家は宇宙に貫かれるべきであり、宇宙を貫こうと願うべきではありません……。私は内的に沈められ埋められるのを待ち受けているのです。おそらく私は浮かび上がるために描いているのです。(富松保文訳・注『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』武蔵野美術大学出版局、2015年、95‐96頁)

 この経験は自然の擬人化などということではまったくない。画家にとって決定的とも言える存在経験なのだ。メルロ=ポンティはこの引用に続けてこう述べている。

Ce qu’on appelle inspiration devrait être pris à la lettre : il y a vraiment inspiration et expiration de l’Être, respiration dans l’Être, action et passion si peu discernables qu’on ne sait plus qui voit et qui est vu, qui peint et qui est peint.

Ibid., p. 31-32.

インスピレーション〔霊感=吸気〕と呼ばれているものは、文字通り受け取られるべきだろう。まさに《存在》のインスピレーションとイクスキレーション〔呼気〕、《存在》のうちでのレスピレーション〔呼吸〕というものがあるのであって、ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのかわからないほどである。(同書、96頁)

 マルシャンの言葉とその直後の一節にはメルロ=ポンティが当時構想しつつあった新しい存在論の核心にふれるものがある。と同時に、『知覚の現象学』の序文のなかの有名な一文「真の哲学とは世界の見方を学び直すことである」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde. », Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945, p. XVI)に示された哲学的姿勢がメルロ=ポンティにおいて最後まで貫かれていたことも証ししている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョアキム・ガスケ『セザンヌ』― 画家と詩人の出会いから生まれた稀有な作品

2023-01-03 23:59:59 | 読游摘録

 『眼と精神』はいわゆる学術論文ではない。フランスの美術史家・文化史家アンドレ・シャステルが美術雑誌 『フランス美術 Art de France』第一号 への寄稿をメルロ=ポンティに依頼し、それを引き受けて書かれた哲学的エッセーである。だから、引用の仕方は論文とは違ってかなり自由に行われている。
 画家たちの言葉が多数引かれているが、その中でもっとも重要な位置を占めるのは、詩人ジョアキム・ガスケ(Joachim Gasquet, 1873-1921)がその死の直前の1921年に出版したセザンヌとの交流記録 Cézanne である。これはセザンヌの語録として第一級の資料であるばかりでなく、この画家の生涯と言葉を生き生きと描き出した文学的肖像としても出色の出来である。この本は Les Belles Lettres 社の « encre marine » という叢書の一冊として2012年に新版が出版され、今でも簡単に入手できる(この版の前身は、encre marine がまだ独立の出版社であった2002年に出版した洒落た装丁のポッシュ版であるが、私はこちらの版で愛読してきた)。日本語訳も岩波文庫に『セザンヌ』(与謝野文子訳、2009年)として収められている(本訳は1980年に求龍堂から出版された初版の復刊)。
 本書の中には、実に豊かで繊細な絵画的思考の数々がまるで宝石箱をぶちまけたかのようにいたるところで燦いている。メルロ=ポンティが自身の哲学的思索のために本書を重用したのももっともなことだと思う。
 セザンヌとガスケは歳が三十四も離れていて、ガスケが最初にセザンヌに会った時はまだ二十三歳になるかならないかであった。セザンヌの作品に魅せられていたガスケにとって、画家と親しく交わる機会が得られたことはこの上なく幸せなことであったろう。そして、ガスケが注意深い観察者であり、優れた文学的才能を持った詩人としてこの稀有な作品を遺してくれたことは、セザンヌにとって幸いであったばかりでなく、後世の人びとにとっても僥倖であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


当たり前にあるはずのものなしで日常を過ごすという「実験」

2023-01-02 23:59:59 | 雑感

 今日の話題は、ほんとうは具体的に事例を挙げて話さないとよくわからないことなのですが、今はまだ私自身が日常生活の中で「実験」中のことで、いまだ結論を出すには至っていないので、ぼかした話になります。
 今日の私たちの日常生活にとってなくてはならないいわゆるライフラインを構成している要素として、常時供給される安全な水道水や安定的に十分に供給される電力とガスなどがあります。災害などによってある地域全体でこれらの要素が供給できない状態に陥ると、公権力が緊急措置を講じます。それによって急場を凌ぎつつ、復旧を急ぐというのが一般的な構図です。
 このような事態に遭った当事者たちからよく聞くのは、こうした生活に不可欠な要素は日頃あまりにも当たり前のように供給されていたので、それらが得られない状態に陥ってはじめてそのありがたみがわかったというたぐいの話です。それは至極もっともな話だと私も思います。幸いなことに、私自身はそういう被災者になったことはありませんが、なったときの多大な困難は想像することができます。
 上に挙げた三つの要素のうち、水道水が止まってしまったことは、数時間であれば実際に経験したことが何度かあります。ただ、これは工事のためであり、予告されていたことなので、事前に対処の準備をすることができましたし、ちょっと不便だったなあという程度の話です。でも、それらの経験は、水道水が止まってしまった場合にどのような困難が待ち受けているか想像する機会を与えてくれました。
 電気に関しては、幸いなことに、長時間に渡る停電を経験したことはありませんが、これは大変だろうとはすぐに想像がつきます。自家発電装置を常備しているならばともかく、それなしでは日常生活の多くの部分がたちまち機能不全に陥ります。電気なしのキャンプ生活の経験はありますが、それはせいぜい数日のことでしたし、予めそのための準備を整えてしたことですから、普段の日常生活とは話が違います。電気のない日常生活の大変さはちょっと私の想像を超えています。
 ガスに関しては、水道と電気に比べれば、依存度にかなり幅があります。例えば、フランスでは、調理にはガスを使わないほうが今では多数派です。そもそも台所にガス栓がないことも特別なことではありません。私が現在暮らしているアパートもガス栓はどこにもありません。以前住んでいたパリのアパートもガスはまったく使われていませんでした。この場合、ガスの供給が居住地区で止まったとしても、さして日常生活に直接的な影響はありません。しかし、それは電気への依存度がその分大きいことを意味してもいます。
 災害あるいは事故によって上記の三要素の供給が停止してしまった場合を想定して、そのための備えをしておくことは決して無駄ではないでしょう。しかし、具体的に何をどう準備すればよいのかは、経験がないとよくわかりませんね。
 実は、ちょっとしたことがきっかけで、ガスが使えない生活を一月半ほど続けています。我が家にとってガスが使えないということは、アパートの大型のガス湯沸かし器が使えないということです。そのため、水道の蛇口からもシャワーからも温水が出なくなっただけではなく、この湯沸かし器の温水を各部屋のラジエーターに回流させる方式の暖房システムも使えなくなりました。これから本格的な冬を迎えようというときにです。当然、すぐに修理してもらうために各所に連絡したのですが、それに対する先方の反応が鈍かったことで、ちょっと考え方を変えてみました。
 当たり前に使えていたものが使えなくなったとき、それが引き起こす困難をどのような工夫で乗り越えていくか、ちょっとゲーム感覚で実験してみることにしたのです。
 最初は、なんでこんなバカバカしいことを、と思わなくもなかったのですが、二週間、三週間と経つうちに、「そうか、ここはこうすればいいのか」、「なんだ、これで十分いけるじゃないか。いや、こっちのほうがエコロジカルでさえある」、「いや、しかし、これはこれで他のエネルギーへの依存度を強めているな」等々、いろいろ気づかされるのですね。それがけっこう面白いのです。
 というわけで、もうしばらく「実験」を続けてみます。