旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ロードス島~モンテ・スミスの丘のアポロ神殿からリンドスへ

2020-04-23 05:30:05 | ギリシャ
2004,2007,2011の《手造の旅》ギリシャの写真を併用しています
ロードス島のいちばん北からはトルコが見える。こんなに近いのか。

ロードス・シティを見下ろすモンテ・スミスの丘からの眺め。
※Sidney Smithは18世紀末から19世紀にかけてのイギリス海軍提督。つまり、ネルソン提督の元でナポレオンと戦っていた一人。ロードス島のこの丘に観測所を築かせたことが丘の名前の由来となった。後年債務から逃れるために、ナポレオン後のパリに家族で逃亡移住。1840年に没。ペール・ラシューズに墓がある。
この高台には古代にアポロ神殿があった。
神殿へ至る階段は、登るにつれて巨大な神殿がみえるように設計されていた。

今は神殿の柱が数本立てられているだけだが

近づくとこれがけっこう大きいのです↓

神域はけっこう大きく、神にささげる競技会がおこなわれていただろうスタディオンも↓

↓人々が集まったオデオンもある

**
海辺のロードス港までおりる

鹿の像が乗せられた柱はもちろん現代に設置されたものだが、あのあたりに古代七不思議のひとつ「ロードスの巨人」と呼ばれた人型の灯台があったとされている。
鹿がロードス島のシンボルになっているのは、蛇を退治するために古代に放されたから。
効き目があったのかはわからない。

島の南西海岸にある★リンドスまで四十五分ほどのドライブ。

印象的な岩山が見えてくる。
あの上にも古代の神殿があっただろうことは想像できる。

ギザギザの城壁は騎士団が要塞化していた時代のもの。

下の駐車場から白い村を抜けるお土産屋のならぶ階段をのぼっていく
↓途中、少し広くなった岩を背にした広場↓何が刻まれているの?

船の舳先だ。

現在、ルーブル美術館のシンボルとなっている「ニケの像」はこの広場に飾られていたのではないかという説がある。
※下はルーブル美術館の「ニケ(勝利の女神)像」

確かに船の舳先にのっている↓


騎士団がつくったリンドス要塞の城壁

入口はもうすぐ。クルーズ船からの観光バスは同じ時間に集中するからけっこう混む。

城壁をくぐると

古代の神殿と中世の教会とその後の要塞が混然となった遺跡の中にでる

神殿のあった高台から振り返る

↓中世の教会跡

リンドスには十二使徒のパオロが伝道に訪れたとされている。
古代、この港に入ったとされている↓

キリスト教徒にとって大事な場所になっている。

ロードス・シティへの帰路に、ロードス名産の陶器工房に寄る

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ロードス・シティ

2020-04-21 07:22:01 | ギリシャ
2007年、2011年《手造の旅》ギリシャ二回の旅の写真を併用してお送りします

朝、クルーズ船のデッキに出るとロードス島の城壁に虹がでていた。
1522年ロードス島騎士団(聖ヨハネ騎士団)の立て籠もるロードス・シティをオスマントルコが包囲した。

↓下は城壁内の見張り場所「ロロイの塔」からの眺め

今はクルーズ船が停泊している海。

城壁は大砲戦がはじまったばかりの時代だったのでこのぐらいの厚さでよかった。
修復を重ねた結果なのだが、16世紀当時の雰囲気をそのまま感じられる。
↑城壁手前に見える赤いドームの教会はビザンチン時代のスタイル。
オスマントルコ時代でもキリスト教信は居住を許されたし、教会での信仰も禁止されたわけではない。
↓上の眺めはこの「ロロイの塔」からのもの。

元は七世紀ビザンチン時代からの塔があったとされるが、今見えているものは19世紀後半に建てなおされている。
こわれたのは1856年に起きた「騎士団長の舘」の大爆発によるものか、あるいは同年の地震によるものか?
↓近くにはスレイマンモスクの尖塔、1523年オスマントルコの領土になった際最初に建設されたモスクだが、現在見えているのは1808年に再建されたもの。


実際に城壁内を歩くと

様々な時代の遺跡や廃墟やモニュメント重層的に見えてくる

↓この黒いのは?

↑第二次大戦中ドイツによって強制収容所で殺された1604人のユダヤ人への追悼碑。

ロードス島は1912年にオスマントルコ領からイタリア領になり、第二次大戦後の1947年からやっとギリシャになった。
ムッソリーニのイタリアがイタリア内のクーデターで覆されると、エーゲ海の島々も実質的にナチス・ドイツによって占領された。
第二次大戦後半1943-45のギリシャの島々ではナチス・ドイツの厳しい支配が行われていたのである。。


歴史的な事を知らなくても、旧市街をさまようのが楽しいが
↓このイッポトン通り(騎士団通り)に入ると整然とした、ちがった雰囲気を感じるだろう↓

1309年から1522年までロードス島を支配していた聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパ各地の貴族たちがその子弟をおくりこんで成り立っていた。
この通りには言語別の舘が並んでいた。
もっとも人数の多かったのがフランス人。最後の騎士団長の紋章がフランスの舘にはめこまれている。

彼らの運営していた病院の建物↓


今はがらんとしているがここは当時の病室。
ヨハネ騎士団は別名「ホスピタラー」と呼ばれているように、その発祥は11世紀にエルサレムへ巡礼するキリスト教徒のために設立されたのである。

考古学博物館としても使われている。
訪れるといつも、「水浴のヴィーナス」を楽しみに見る。

※これについてもう少し書きました
**
イッポトン通りをのぼりきった場所にある騎士団長の舘は規模が大きい↓

ここはロードス島がイタリア領だったころには王家が滞在する宮殿として使われていた。
イタリア王国時代の国王のヴィットリオ・エマニュエレ三世やムッソリーニも滞在した。
1858年の火薬庫大爆発で大きなダメージをうけて再建された部分が多いので現代的に立派に見える。

ここも考古学博物館となっているが、床に古代のモザイク画がはめこまれたのは宮殿だった時代である。

いちばん有名なのは9ミューゼズか

騎士団の先割れ十字もあしらわれて、イタリア王国の宮殿だったおもかげが感じられる↓

***

街をぐるりと囲む城壁も見所のひとつ

空堀を歩けるようになっている。
1522年のオスマントルコとの戦いは詳細に記録されているので、それを読んでこのあたりを歩くと16世紀の出来事がありありと浮かんでくる。
****
昼食に、何度か訪れていた店にお連れした。

路地の奥にひっそりとあるが、光も風もよく通る。

シンプルな料理だけれど、素材がよいのでどんどんたべられてしまう。

何度も通っていると同じメニューでも日によって・季節によって違うのがよくわかります(^.^)

サカナの身をほぐしてこぶりなボールにしてさっと揚げてあるの、また食べたいなぁ。





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ヨハネの黙示録が書かれたパトモス島

2020-04-20 06:26:42 | ギリシャ
2007年、2011年《手造の旅》ギリシャ二回の旅の写真を併用してお送りします

パトモス島が近づくと丘の上に要塞のような修道院が見えてくる。
誰でもあそこまで行きたくなるけれど、歩くのでは時間が足りない。停泊時間制限もある。

クルーズ船の主催する英語ツアーに参加するのもよいけれど、大人数で外国語の解説を聴くのは辛い。↑自習しておいて港で待っているタクシーをチャーターすることにした↑上の写真で右上に見える「6」番を覚えておいて同じ車行き来する。
↓見所は二ヶ所、丘の中腹にある「聖ヨハネの洞窟」を先に訪れる↓

キリストが処刑された後、いちばん若い弟子だったヨハネは聖母マリアと共に今のトルコ・エフェソス遺跡の近くに移り、そこで聖母マリアをおくる。その後、キリスト教布教の罪によって流刑地のパトモス島にながされ、この奥にある洞窟にすんでいた。

黙示録の最初にパトモスの名前が出てくる。
そこで、神の声を聴き振り返るとその姿を見た。神の声があまりにおおきかったので洞窟の天井が三つに割れたと書かれているのだが、たしかに大きく二つのひび割れがあった。※昔撮影した写真がみつかったら載せます

↑入口上のモザイクに、神の言葉を一生懸命書きとっているヨハネが画かれている↑
キリスト教が公認された後のビザンチン(東ローマ)時代にここは教会となった

ふたたびタクシーに乗り修道院まで行く。
「要塞」の門をくぐると中庭になっている

フレスコ画がびっしりと被うナルテクス部分。

古そうに見えるが何度も描きなおされており、現在見られるのは17世紀から19世紀のもの。
↓入口のこの柱は11世紀からここにあるとsれる。1080年東ローマ(ビザンチン)皇帝アレクシオスはパトモス島をクリストドロスに賜り、この修道院が建設された。同じ場所には古代の神殿があり、その上に四世紀の教会の廃墟となってのこされていた。
この柱は古代の神殿か四世紀の教会にも使われていたのかもしれない↓

二階部分にのぼると

船から見えた(最初の写真の)鐘楼が間近だった↓

オスマントルコの支配下ではイスラム海賊による襲撃が脅威だった。
修道院が敵の襲来を見つけると、この鐘を打ち鳴らして修道院の周りホーラの街の住民に避難するように知らせていた。

今はクルーズ船が停泊している入江に海賊船がやってきていたのか。

修道院のまわり・ホーラを歩くのは楽しい

区画整理など不可能な地形







路地の向こうに突然広場

市役所のようだ

**
タクシーで港に戻る。
クルーズ船の夕食もついているけれど、パトモス島で夕食にしよう。

島らしい食材をシンプルに

最後のデザートは?

レモンの皮の蜂蜜漬け(^.^)

テンダーボートで母船に戻る。

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トルコ領クサダシ

2020-04-19 07:00:32 | ギリシャ
2007年9月、2011年4月《手造の旅》ギリシャより

地中海クルーズの船はトルコ領クサダシへ到着。国父=アタチュルクの描かれたトルコ国旗がひるがえっている。
半日の停泊中にエフェソス遺跡への観光バスに乗るのがツアーの定番だが、この港町を歩くのも悪くない。

クサダシという地名は港から細い防波堤でつながれた↑この小さな島に由来する。
Kuşが「鳥」、adaが「島」という意味。鳥がたくさんいたのが印象的な島だったんでしょう

↑この島は18世紀はじめに画かれた版画にも描かれている↓


防波堤には漁船がたくさんつながれている

泳いでいる小魚もみえる

魚を売るよりも観光客相手の方が確実に稼げるのだろう

現金収入というのは大事だ
島の城塞へ↓

この港と城塞は15世紀ごろにジェノヴァ、ヴェネチア、ビザンチン(東ローマ)の勢力下につくられた。
※それ以前はカディカレシ・アナイアという今は青銅器時代からの遺跡まで残る丘が中心だった。


↑オスマントルコ時代になってからも↑ムスリムの墓がある


修学旅行かな
**
島から出て、丘につくられたかつての城塞都市を歩いてみよう

港近くのバザール

ムハンマドの誕生祭の飾りがあった

モスクの尖塔
↓城壁の名残

朝の街角ではパン屋が大忙し

チャイハネでひとやすみさせてもらおう


胡麻のいっぱいついた「シミット」は万人うけする

↓急な坂を下りて船にもどる

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ミコノス島

2020-04-18 07:45:05 | ギリシャ
2011年4月《手造の旅》ギリシャより



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クルーズ船からミコノス島がみえてきた

大きな船から島へはテンダーボートにのりかえなくてはならない

小さなボートなら旧市街に面した港に降り立つことができる

漁師たちが毎日お祈りする礼拝堂

路地を抜けてさかを登ってゆくと

高台に出る




白い家の向こうに↓

↓港を風からまもる風車がならんでいる





港へ降りて海沿いを歩く

風をとおさないように、不規則に曲がった路地に突然ギリシャ正教の教会が現れる

ヴェネチアのように海ぎりぎりまで建てられた旧市街にカフェがならぶ↓

日が暮れるころ、

テンダーボートで母船に戻る。

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