遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  ひさびさにルイとあいました。すこしあわないうちにルイは自意識が芽生え、恥ずかしがりやさんになったようです。....遊ぼうと誘ってもボクハズカシイカラヤラナイ.....とばばの誘いにのってくれません。ちいちゃなキリンのぬいぐるみがあったので.....ルイくん、ぼくはアフリカにいたんだよ。サバンナでママといっしょに草を食べたの、おいしかったよ。ママ どうしてるかなぁ....とキリンさんになって話しかけたら、ルイはとことこ走っていって大きな長い睫毛のキリンのぬいぐるみを持ってきました。キリンのママのつもりなのでしょう。

  それでキリンのおやこごっこをしました。キリンのママは足が速いのですがライオンや人間がくると必死で逃げます。キリンのママはころんで怪我をしてしまいました。キリンの坊やはいっしょうけんめいだいすきなママのお世話をします。子どもはアニミズムそのままです。ルイといっしょにサバンナやジャングルをさまよいました。”キリンサンノママハコロンデケガヲシタノ バンソウコウハドコ”わたしはルイのそばにずっといたいと思いました。その鈴のようなひかりのような声はわたしをしあわせにするだけでなく、めぐりを清めるように感じました。

  8歳よりちいさな子のいる家には邪気がこないといいます。その声に邪をはらう"明かな"にむかう力があるからなのでしょうね。おとなになる過程でイノセンスを失ってゆくひとはたいていその声の力を失ってしまいます。周囲をなごませ明るくする声を持ち続けるひともいますが、その幸福なごくひとにぎりのひとびとはさておくことにしましょう。おとなになったわたしたちはただ無垢を失っただけでしょうか? 

   哀しみや苦痛を知ることで、傷つき、立ち止まり、それでも忍耐つよく省みること、試みることつづけることを厭わないおとなたちは、失うかわりにより深い沁みいる声を手にいれるのではないでしょうか。”声”には人生を含めそのひとのすべてがあらわれる...といいます。わたしはかつてひとの”声”に惹かれ憧れ、愛し、見つめてきました。その感覚が間違いでなかったことを今 うれしく思っています。

  けれども、たいていのひとは自分の声を聴くと自分の思っている声とのギャップに驚きます。そのうえに自分の声を好きではない...というひとが多いのです。わたしもそうでした。...その理由のひとつは、自分が聴く声は、体内に反響した骨導音、倍音をたっぷり含んだ音声であるのにたいして、録音された音声は気導音であるからではないでしょうか。

  豊かな深い声を出すことと身体は深い係わりがあります。まず身体の緊張をゆるめることが必要です。緩めるにはさまざまな方法がありますね。自力整体もそうですし、アレクサンダーテクニーク野口体操ゆる体操 もっとたくさんありますね。それらの体操の真髄が、身体をつくりあげることではなく、ゆがみをなおしたり、脱力したりすることにあるのは示唆的です。弊害をとりのぞくこと、緊張をとること、リセットなのです。

  そしてトマティスの聴力トレーニングは赤ちゃんの耳をとりもどすこと、そして音声のなかの骨導音...倍音のわりあいを増やし、そのひと本来の”声”を取り戻すことに有効です。.....三日目のトレーニングの日、わたしは暮らしのなかでの嵐に遭遇し波立つこころを抑えかねていました。モーツァルトを聴きながら感情は逆巻き、なかなか没入できませんでした。グレゴリア聖歌がはじまった途端、草木鳥獣のうつくしい繊細な線画が脳裏一杯にひろがり、そのイメージはめくるめく変わってゆきます。うつくしさに深い吐息を漏らしたと見る間に、赤身がかかった紫の色彩が画像にかかり、色彩はつぎからつぎに変わってゆきます。それは前回の深みのある色とは違い、透きとおったパステルカラーでした。

  90分の時間が過ぎてわたしは静謐のなかにおりました。自分の声を取り戻す旅は死ぬまでずうっとつづくのだろうと思います。悲しみや喜びがわたしたちの魂を清めてくれるに呼応して声は変わってゆくでしょう。身体に隙間をつくり響く器にしてゆくことで声は変わってゆくでしょう。幼な子のひかりの声とはちがうけれども、その旅もまた本質に還る回帰の旅であるように思います。たのしみながらゆきたい....と思います。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )