縄文の旅....写真をUPし書き終えてほっとしてます。もっとも肝心なことは書いていないような気がするのですが....録音してあるテープを聴いてみたらなにかわかるような気がします。ずいぶんとウタをうたいました。
わたしの野望のひとつは即興でウタッテカタルことです。そしてもうひとつはその場にゆだね切って語ること....まだまだ野望はつづきますが、ひとりになり自由になったところで自分を解き放ってみたいのです。....というのもわたしが語りをつづけてきたのは、覚醒しながら夢うつつにいる、そこにいてそこにいない、自分が語らずして語っている...という相反する....どうにも理性ではわからない状況が語りの場で生まれ、それがひどくわたしを惹きつけるからにほかなりません。
半分、神懸り状態....半分あっちにいってる....それでいて客観的に把握している....そこから向こうにもう一歩踏み出したい....というのが望みです。けれども、すこし怖い、イタコ状態になるわけですから....そのあたりをさぐる旅でもあったわけです。...結論はまだ怖い(イイモノだけがくるわけじゃなくて、そのとき対処できるか自信がない)....ですが、意識をひろげる感じはつかめたし、音だけでなく、身体からくる...というのもわかりました。そしてトランス状態になっても、自分をコントロールできないわけではなく、ある部分はより明晰に覚醒している、無意識でふだんいるより自分を把握しているのだということもわかりました。.....というか超自我の感覚かもしれません。
もちろん、以上のことはは子どもたちをたのしませ、わくわくさせたい....おとなのために語りたい....歴史の証人としての語り....神話のウラの神話.....市井のひとびとのライフストーリーを語りたい.....創作の童話を語りたい.....というより現実に即した希望と並列してあるものです。
そして、自分のほんとうの声を取り戻したい、身体をゆるませ、骨と身体を弦にして精妙な楽器に自分の身体を調律したい...というのぞみとも並列し
ひとりではなく仲間とともに歩いてゆきたいという希望にもなんら背くものではありません。ずっとつづけてゆくなら、どこかでひとつになるだろう、そこまで歩いてみたいものだと思います。目くら滅法やってきて、その実案外近道をしてきたようだ....というのが実感としてあります。動物的直感にいざなわれて、さまざまな方々にお会いし、教えを乞いそのエッセンスを味あわせていただきました。....これからも、えにしあれば胸をひらき、自分のアンテナのピコピコいう方向に向かっていきたいと思います。
種差海岸は義経伝説とも関わり深いところです。そんなことから浄瑠璃姫とわかき日の九郎のはなしを今、書いています。なぜだかわからないのですが、戀ものがたりが、もののけにまつわる染殿の后のはなしとか、あの六条御息所のものがたりとか、語りとうございます。.....
100%農薬フリー、化学肥料フリーの林檎が届き、ざくざく切ってポットにアップルティーを淹れました。ブランディーも落としたりして....ゆく秋を惜しんでおります。....来週は出雲の旅です。
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