遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   朝、自力整体をじっくり30分する。夕べは夕食をとる余裕も眠ってしまったのでお腹がすき、いさんで朝食に行く。このホテルは地元産の焼き魚と林檎ジュースが美味しい。林檎のコンポートはすこぅし固いような気がする。ヨーグルトはおいしい、コーヒーもまぁまぁ。生野菜のほか野菜が少ない。外国の方が多いので仕方がないのかもしれない。酵素玄米がなつかしかった。観察していると欧米系の客は窓際4人掛けのテーブル、日本人や中国人は壁際の二人掛けに案内される傾向があるようだ。.....差別?か...と思った。フロントも感じはよいのだがマニュアルとおりの笑顔と接客....たいせつななにかが欠けている...次回はホテルはやめよう、不老不死温泉など泊まってみたいものである。日本海の夕陽が見たいし。

   タクシーで三内丸山遺跡に向かう。9時前についてそわそわしている。恋人に会う前のようである。チケットは無料であった。白髪の鶴のような痩身のガイドさんに着いてゆくことにした。....が、途中すぐはぐれた。



   秋草がうつくしい....ここでは5000年前から3500年前まで1500年ものあいだ、人々が生活していた、江戸→東京でさえ400年くらいか....それを思うと気の遠くなるような時間である。ひとびとは魚や貝や海草それから木の実や兎なども食べていた。栗の木は定植され、一時東北の植生はぶなが減って栗が増えていたという。冬は毛皮をまとい夏は麻の服をまとい、靴も履いていたようだ。イヤリングもくびかざりもあった。土器ばかりでなく漆器もつくっていたようだ。わたしたちが思い描くよりずっと豊かな暮らしをしていたのである。住んでいたひとびとが此処を去ったのは気候変動....寒冷期に入ったため、南に移住したのではといわれている。

     

   敷地内の自遊館では数々の出土品が見られる。撮影もOK、ここでは若い女性がガイドをしてくれた。


  

   復元された柱。直径1mの栗の木はシベリアから運ばれた。1400tもの柱を往時のひとたちはどうやって運んだのか....柱は腐らないように燻されていたそうだ。目的については諸説ある。祭祀、灯台(海が近い)など...かたちも屋根があったのでは...という説もあったが、想像の余地を残すために掘っ立て柱のままにしたそうだ。



   この写真の左右はきっかり東西に向き 縦横は南北 向こうに見えるのは八甲田山。前に書いたが春分秋分を知ったという説もある。神殿のふるいかたちだったかもしれない。



   実際の柱はすこし北に立っていた。今はドームで保護されている。その東にもうひとつドームがあった。そこは写真を撮ってはいけない...という気がして撮らなかった。そしてなぜだかわからないけれどもわたしはウタを歌っていた。....やさしいウタ。.....あとで知ったのだが、そこは1歳未満の子どもの墓で800体くらいあったという。おとなの墓とはずっと離れて生活のそばに置かれていたそうだ。実際に生活に使われていたらしい土器におさめられ、その土器は底や口が壊されていたという。再生を願ったのでは...といわれる。

   

   そんなこととは知らず、わたしは草地に寝転んで空を見ていた。とてもよい気持ちだった。ここに流れている気はやはらかでやさしい。いつまでもいたかった。

   

   柱の近くに大きな建物があった。集会所とか作業所という、ところが写真をあとで見たら....

   

   これは集会所の入り口、思わず撮った一枚、だがこんなけむりのような湯気のようなものはなかったと思う。屋根はとても高いところにあって、ここだけ光があたるとも思えない。水蒸気ではないようだ。謎である。

   

   内部はかなり広かった。中央に立っているのがガイドさん。

   

   三内丸山遺跡は江戸時代から知られていたが、本格的に発掘がはじまったのは野球場をつくろうとしたときの発掘からだそうだ。野球場はやめて遺跡がのこった。全国で縄文の遺跡はここも含めて三か所に過ぎないそうだ。教科書も弥生時代からが歴史のようなものなのだが、もっと縄文についての言及があってもいいのではないだろうか。

   天皇家のご先祖が渡来人であることが知れても、尊崇の念がかわることはないであろうし、日本人が単一民族でないことがわかっても、今より求心力が落ちることもあるまいと思う。実際日本人は縄文人と渡来人との混淆だし、グローバルでよいではないかと思う。世界最古の土器が日本で発見されていることを知っているひとは少ないのではあるまいか。一万年つづいた縄文時代について、またかずかずの伝承についてもっと調べてもいいのではと感じた。トロイの遺跡は発見され、伝説が事実であるとあきらかになったのは、シュリーマンの夢からだった。

   考古学は実証主義だが、想像力も必要である。土地の伝承などから探っていくこともできる。わたしが古代に興味を持ち出したのはごく最近だが、ネットを検索すると、実に多くの歴史探求愛好家が地道に努力をしていらっしゃることに驚き、敬服する。その原動力はただロマンを求めるということだけでなく、自らの出自、日本という国を知りたい....という希求もあるのだろう。もしかしたら、前世の遠い記憶が駆り立てているのかもしれない。

   さて、わたしは語り手である。文字に書かれた、あてがい扶持のものがたりではなく、血の流れた生き生きしたものがたりを語りたいという気持ちが嵩じて、歴史に首をつっこみ、今回の旅につながったわけである。総括は最終回の種差海岸の回まで待つとして、ルネサンスにも書いたのだが、わたしたちは2008年という今だけに生きているわけではないような気がした。土地にはエナジーがこもっている、そしてそこに生きてきたひとびとのかすかな記憶もその土地は持っているような気がする。土地の記憶なのか、いのちの残照のようなものなのかわからないけれど.....。

   遺跡を発掘し、維持してゆくのはたいへんなお金がかかる。青森県、青森市も弘前市も財政が逼迫しているようだ。三内丸山は広大な東北の縄文文化圏の中心であったのではといわれる。遺跡はまだ発掘が続いているが、周辺はいかに貴重なものであっても発掘が済むと埋め戻されてしまうのだそうだ。維持するには莫大な予算が必要らしい。

  ...大規模な工事に携わった夫の話だと、トンネル工事などで遺跡や遺物にぶつかると、すわ!!と機械で敷き均し埋めてしまうことがあるそうだ。工事がストップしてしまうからという。そんなことで失われた貴重な遺跡が全国津々浦々にあることだろう。それは歴史観を変えるような、国民的もしかしたら世界的な宝であったかもしれない。

最終回につづく




コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )