リナリア、姫金魚草。ゴマノハグサ科。地中海沿岸が原種だそうです。
最近、よく見かけます。
今日は父の総合検診の日でした。
昨日、次男が買ってきた備前幻という吟醸酒。
アルコールは大変弱く、日本酒はもう何年かぶり。
息子のお土産とあっては飲まないわけにはいきません。
ちょっとだけとおもいましたが、フルーティでさっぱりしていてとても呑みやすく。おチョコに3杯ほど・・・。そして。
朝、寝ていたら母から電話。「今日、検診来てくれないの?」
あら?と飛び起きたら、9時。
予約時間です。「もう、いいわ。帰り迎えにきて。」
ありゃりゃ。大失敗。
飲みすぎて起きられなかったのは初めてです。平日は7時代に起きていますが、夫も今日は車で出かけるので10時に出るということで、ゆっくりしていて気づかなかった。
両親はタクシーで行ったらしい。
11時ころ、迎えに行ったら「買い物もしなくちゃ。」
ということで、一旦牧野に帰り、次男をひらい。次男は二日酔い。起きないのを叩き起し買い物へ。
そのまま、京田辺の実家に帰り、4人でお昼ご飯を食べて、守口で仕事をする母を樟葉に送っていき帰宅。
なんとか一日終わりましたが。皆さん飲みすぎには注意しましょう。
昨日は父と過ごす日。母が京都府立医大で定期検診を受けるので、「お昼ご飯を作ってあげて」と頼まれました。
ところが、行ってみると、作り置きの食事がたくさん置いてあります。
「おかしいなぁ?一緒に食べてってことかな?お父さん、何か聞いてる?」と聞いたら
「さあ、わからん。」そうだろうなぁ。
まあ、いいので、母が作った肉じゃがや、金曜日に私が作っていたハンバーグを食べて、母が帰ってくるのを待っていたら、母からメール。
「今、終わって樟葉にむかっているところ、来ない?」
はあ?今から、牧野からだとすぐですが、京田辺からだと30分かかります。なんで、京田辺行直行バスに乗らなかったのかな?と思っていると、「八幡です。」
仕方ないので、父を乗せて樟葉に行くと、「モールの二階で買い物しています。」とメール。
モールの駐車場に入れて、父とモールに降りて、電話をすると、「いつもよく行くところにいるから。」
いつものブティックに行くと、いない。
「父は、お母さんはどこにいるんや。」と何回目か。
もう一度電話すると「なかったから、いずみやの前にいるから。」っていました。
「あれ?!お父さん連れてきたん?」
「だって、見といてって言ってたから、田辺に居てたんだけど。」というと、「あれ?そうやったかな。」
やっぱり頼んでいることを忘れていたのでした。「今日出るから、昨夜からご飯作ってたいへんやったわ。」
そりゃそうでしょ。
「おかあさん、自分で自分を忙しくしてるって知ってる?」ついでに私も振り回しているって・・・。
でもまあ、母も70過ぎ、あちこちスキがあってあたりまえ。仕方ない。
で、「法事にでる用の服を買いたい。もう、前のは古すぎてへんだから。」というので、父を連れて、服を見るのを手伝います。
黒のフォーマルは、入学シーズンで出る時期のようですが、おめでたい方のスーツが多い。
イズミヤのフォーマルもやはり、祝儀用で、若い人向きが多く、細い。
「やっぱり、こういうものは百貨店じゃないかな?」と私。京阪百貨店へ。
父は、直ぐに座りたがりますが、ベンチで休んでもらっているあいだに店に入るという形で、なんとか歩いて移動。
結局百貨店の中に、昔ながらのウールで作った温かいジャケットワンピがあったので、無事購入。
私はダイエーで、28日に試作するファミリークッキングのチョコレートの材料を購入。
さて、帰ろうか?といころ、父がもう歩けなくなりました。
大丈夫。こういうところは車椅子があるから。
車椅子を借りようとしたら、イオンなどとちがって玄関にはありません。しまった、サービスカウンターか。
サービスカウンターで名前と電話番号を書いて借りるのです。しかもここに返さないといけない。
本館の1階センター。ここは駅よりのはしっこ。借りて父のところまで迎えに行き、車椅子に乗せて、南館の3階端っこの駐車場に行くには、エレベーターに乗って2階に行き、連絡通路を通って、エレベータに乗って3階へ。
そこで、父を降ろして、車に乗せておいて、カラの車椅子を、押してエレベーターに乗って2階へ、この通路を通って、
再度エレベーターに乗って1階へ行き、センターのサービスセンターで返却。
父を乗せているときはまだいいけど、空の車椅子は、通路でほかのお客さんの邪魔になるし、エレベーターは、入れるのも出すのも嵩張ってなお、申し訳ないし、もし介助者一人でだったら、車に残している父も気になっただろうなぁ。
イオンや、平和堂なら、どこの入口でも借りられてどこの入口でも返してもいいようなっているのになぁ。と、考えずにはいられない私でした。
実家のシクラメン シャイニーピンク。シクラメンには音楽家の名前がついたものがあります。
モーツアルトとか、シューベルトとか。期待して調べてみましたら、違いました。
まあ、いいのです。花は自分の名前を知らないのです。
今日夕方から父と過ごす時間。
父は認知症になって、5分前のことを忘れてしまいますが、新聞をはしからはしまであまさず目を通します。
テレビのニュースを見て、笑ったり怒ったりしています。
スポーツは大好きで、今夜はサッカーを見て、手を打って笑ったり、激励したりしています。
政治や教育問題にも関心を持っています。
理解しているかどうかは、不明ですが。
ドラマは私が見ていると、一緒に見ますが、「よーわからんな。」と5分か10分置きに言いながら見ています。
怖しい戦争のニュースや、母の嘆きには、口を引き結んでじっと見て「たまらんな。」と嘆いています。
新聞やテレビを見終わったあとに、為替レートや、どこの国が戦争をしているのか?を聞いても父は答えられません。
答えられないけれど、父の感覚は生きていて、喜んでいる人と一緒によろこび、傷ついて悲しんでいる人と一緒に悲しんでいます。
一日に何度でも、同じできごとでも、ニュースが流れるたびに、
いちいち驚いています。どんな恐ろしいことも感情が動かなくなっている私の比ではありません。
父は感覚、気持ちから離れない。離れないから、人らしさから離れません。
正しいか間違っているか?善か悪か?損か得か?勝ち組か負け組か?優か劣か?なんて、尺度は存在しません。
父が「人らしくある」とはどういうことか?を教えてくれます。
実家の玄関にトルコ桔梗 クラリスピンク。
昨日の朝、レッスンのために実家に行くと、庭に父がたっていました。帽子をかぶって今にも出かける様子。
ちょっと、ドキッとしながら、
「お父さん、どうしたの?」とわざとゆっくり声をかけたら。
「畑に行こうと思ってな。でも、おかしいなぁ。鍵がどこにあるか、わからへん。」
「ふーん。」
畑って、市民の貸し農園のことで、お世話できなくなって返して一年以上経ってるよ。って思いましたが、「鍵ないの。」と、できるだけ落ち着いていうと、
「そうや、お母さんいてへんしなぁ。もう、やめとくわ。」
と、自分からドアをおして、家に入りました。
徘徊のはじまりかなぁ?
母から、最近は目を離しても父は家から出ることは無いので、「お昼だけ、一緒に食べて」と頼まれたのですが、また出かけたりしたら大変。帰り道がわからなくなって行方不明…なんてことが目に浮かびます。
結局、レッスンのあと、父を置いて帰れなくて夜まで一緒にいました。
途中で、父は「畑なぁ、どんどん狭くなって、あんなん殺生やで。」というので、
「見てきたん?」
「うん。」と言います。本当かなぁ?と思っても確かめる術はありません。
先生から、体が元気で、家にじっとしたりしていると、徘徊が起きることがある。と言われていたので、お昼を食べてから、公園に行ってみました。
しかし、駐車場から公園に行く、少しの間も「しんどい。ふらふらするわ。」と私の肩をもって歩き、公園に行ったもののベンチに座ってじっとしています。
これでは歩いて15分ほどある農園までは無理かも。
それでも、買い物をして、近所の公民館でやっている文化祭で、中学生ブラスバンドを見せてという母のミッションをこなして帰りましたが、全て車で目の前までいって、現地についたらベンチに座ってという感じで、とても畑までは歩いて行けそうには見えません。
半信半疑ですが、やっぱり誰かが見てないと無理かも。
こう書いていると、大変そうですが、父はどんどん幸せになっているみたい。
文化祭で、男性が二人「よっ」「元気でよかったよ。」と父に声をかけましたが、「よっ。」と手をあげてニコニコうれしそうに答えています。
でも後で「今の人誰?」と聞いても「わからへん。」
でも、声をかけてもらったことは、父は本当に嬉しいのだと思います。
忘れるから、何にもこだわらず、人間関係で悩むこともない。
父が幸せだから、一緒にいて私も幸せだし、前よりなんでもない日常のことがおかしくてよく笑います。これが老いるということなら、悪いことばかりでもありません。
今日は生徒さんのOさんが来て、著作権の申請手続きを手伝ってくれました。
コンサート一つでも、いろいろ煩雑な手続きがあります。私は抜け抜けなので、助かります。
今日は父を見る日です。実家に帰ると、母の母、祖母のお嫁入り道具で現役で活躍していた姿見が壊れていました。母に聞いたところでは、棚の上のものをとろうと足を滑らして姿見にもたれかかってしまい。ゆっくりと敷物の上に倒れて鏡が割れたそうです。
そんなに高価なものではありませんが、桜の木でつくってあり、簡単な彫り物もあります。
しかし、驚いたのはそれから。
割れた鏡の下から、出てきた新聞の日付は昭和二年。
大阪朝日新聞の文字は右から左に書かれています。
一面トップ見出しは「中村大尉殺害は果たして支那正規兵」
クライスラーのプリムスは優雅なクラッシックカー。
月刊誌「ビッグ」の広告
「十月号の内容トテモ全部あげがたし→早く書店で御覧下さい。」
久米正雄や、菊池寛が寄稿しています。挿絵は大正美女のようです。
ノーシン、森永ドライミルクなどお馴染みの広告もありますが、一番多いのは淋病治療薬の宣伝。一面広告やら、小さな枠広告などあらゆる隙間がこれで埋められています。
また、菊池寛の新聞連載小説「勝敗」も掲載されています。
昭和というと、横文字禁止の戦中をイメージしますが、新聞本文のきな臭い感じをよそに、巷はまだまだ自由で爛熟した空気が支配していたことがわかります。
「これは、すごいわ。残しとけよ。」と父も夢中になって読んでいました。
夕食を作って父と食べ、母が帰宅したのは10時過ぎ。
バトンタッチ、牧野に帰ります。人通りが絶え、車も少ない。さすがに寂しいです。
福山の自動車時計博物館にあった自動演奏付きピアノ。おそらく19oo年初頭のもののレプリカでエオリア社から20年くらい前に買ったそうです。。
今の電子ピアノのご先祖様と言えなくもないですが、オルゴールと言ったほうがよいのかも。
自動演奏は聞けませんでしたが、弾いてみたら、今のピアノではちょっと出ないような、まろやかで、素朴ないい音がしました。
戦争の世紀、技術と科学を音楽に捧げた人たちがこんなところにもいました。
お盆のころ、脳梗塞を起こした父を、ようやくかかりつけの関西医大で見てもらうことができました。
MRI画像を田辺中央病院から送ってもらったり紹介状をかいてもらったり、
その間に、父の様子はドンドン良くなり、麻痺していた左手、左足も回復したように見えます。
先生に診てもらった画像には、やはり少し梗塞の跡がありましたが、親指と人差し指で丸を作って、その指は離したり、くっつけたり、両手を水平に上げて、まっすぐ保てるか?とか、椅子に座って足を上げて、その上から先生が手でグッと圧力をかけ、どれくらい保てるか?
最後には線の上を歩くテスト。
その結果、脳梗塞の影響からはほぼ回復し、それよりも動かないことによる筋力低下で動けなくなっているそうです。
もちろん、今後の梗塞が進まないという保証があるわけではありませんが、とりあえず脳リハビリなどはしなくてもいいことになり、ほっとしました。
後は、血液検査をして帰ることになりました。
採血してもらおうと、父が検査台の上に手を乗せて、注射器を左腕にしたら、血管が細くて、みつけられません。
針をつっこんだまま、「ごめんなさい。」と先生が血管を探っていると、
父は「年取ってもう血管なくなったんやろ。」と笑って言います。
先生は吹き出して「年とっても、死んでないから血管はありますよ。」と返しました。
とうとう、左腕では採れず、右腕にチェンジ。
あったかいパットをつけてもらって、さて注射。しかし、またもみつかりません。
「もう死んでるんとちゃうか?」と父。
「いやいや、そんなことあらしませんって。」といいながら、また抜いて、細い針に注射針を変更。
ようやく探り当てることができました。
「やっぱり、生きてたか。」
「はい、生きてはりました。」
私の知っている父はちょっと怖がりですが、認知症になって、いろんなことを忘れて、できないことが増えても、怖さと失敗した気まずさを笑いに変換する能力は、残っています。
こういうところはわが父ながら、なかなかイケてる。と思うのです。って、ちょっとファザコンかな?
旧宅の隣家のゴーヤ。領空侵犯。
「すみません。もう少ししたら切りますから。」と言われて。「はい、構いませんから。」と夫は答えたらしい。
「なんで、そこで、『構いませんから実が出来たら下さい。』と言わないかなぁ。」そういう私は根っから大阪のおばちゃんです。自覚はあるのです。
「そう言ったら、お隣さんも悪いことしてるなぁって気まずさから救われるし、一緒にゴーヤの成長を喜べるから、友達になれるやん。」と、勧めましたが、
これもわかっていますが、東京生まれの夫には、死んでも言えません。
今日は父を見る日。まだ、夏休み中の次男を連れて車で実家に。
「おじいちゃん、おんなじことばっかり、言うし。『彼女できたか』って何回も、これってセクハラだよ。」とぼやく次男に、
「うーん。吉本好きでしょ。大阪人なら、吉本みたいに何パターンのボケで返せるか、やってみたら。」とやりとりしたのは、昨夜のこと。
食事の最中、やってきました。父の質問。
「彼女できたんか?」
「え・・・と、5人ほど。」やった!ボケ返し。座布団10枚!しかし、
「親の前じゃ言えんなぁ。」
耳が遠くて父聞こえず・・・撃沈。
「いや、5人ほど。」と負けずに言った次男、あっぱれ!
大阪人としてはベタなボケでしたが、いつもの繰り返しがなかったのは、父に次男とやり取りをした満足があったからじゃないかと思うのです。
お笑いはこういう時こそ、役に立つ。
金曜日は父を見せて紹介状を書いてもらいました。土曜日は実家の買い物を手伝い、日曜日は母が演奏会で留守なので、実家で父を一日見ていました。
これは実家の観葉植物。青い大きな壺と合わせています。こういうものの母のセンスの良さは特別です。
言葉に特別な意味を感じしてしまうのは、あまりよくない癖だと、自覚はあるのですが、久しぶりに感動した新発見。
T病院からの紹介状の宛先。
「御侍史」って?!恥ずかしながら初めて見ました。
「御侍史って、江戸時代?」母と、思わずふいてしまいました。
ググって見たら、
御侍史は、昔偉い人が雇っていた秘書のような役割の名前のことで、位の高い人に直接お手紙を渡すのははばかられるので、侍史の方を通じてお伝え下さい。という意味だそうで、強い謙譲語。
ちなみに、侍史を持っているかどうかわからない漠然とした相手に使うことは、やはり誤りだそうです。
今では、よほどの師弟関係、家元と弟子なんていう時か、医療界でしか使わないそうです。
医療界では替りに御机下を、使うこともあるそうです。
こちらも、初めて見ましたが、机の上に置くほどの大したものではないので、机の下にでも置いておいて下さい。という意味だそうです。
お互いにへりくだり合うのはいいけれど、中に入っているのは患者の個人情報が書いてある紹介状だよねぇ。
「御侍史」の方が中身を開けて読むのは言語道断!
「御机下」なんて、机の下に置かれてなくされたらどうするの?
「先生」は敬称なので、それ以上何かつけると二重敬語。
そして、個人情報の入った書類は、「親展」・・・宛先の名前の人が、必ず自ら開けてください。
というのが、正解のような気がしますが・・・。
2500円も払って(この金額は紹介状にすれば安いらしい)誰に読まれるかわからない
。患者のプライバシーよりも、先生同士の上下関係優先とは・・・。
しかし待てよ。事務員の人が読んで処理するのなら、あながち間違いではないのかも。
事務員の人は自分が「御侍史」だって知っているのかしら?
「御侍史」は、どうも偉い人お付きの個人的なお手紙専門の役職だったらしい。医療事務全般などやってはいけないし、受付なんてとんでもない!お手紙のプロフェッショナル。
確かに、偉い人の昔の手紙情報の重要性は今以上に大きな気がします。
戦争になったり、死罪になったり、恋愛でも命懸けのものも多かったのかも。
病院でも、命が掛かっているものがあるので、御侍史が、取り扱って下さい。という意味もあるのかなぁ?
とってもおもしろい。
5月のコンサートの時にいただいたサンクスマザーズデイも、再々花期。
今朝、千葉、船橋のお義父さんのところに、夫と次男が出かけていきました。
義父は76歳。65歳の時に、脳梗塞で倒れて以来、右半身が不自由です。
それでも、県営住宅でケータリングや、ヘルパーを利用して一人で暮らしています。
右腕、右足は麻痺して使えませんが、国語の教師だった義父は、今でも好きな俳句を左手で書いて句会に投稿したりして楽しんでいます。
それから、さっさと葬儀社と契約して、東京湾に遺灰を流してもらうことにしています。
私の方は、金曜日夕方は父と過ごす日。
二人だと静かです。
どこに行っていたか、長男が帰ってきましたが、夜勤のためすぐに寝ます。
夕食の準備をするまでに、リサイタルのための練習をします。
ゴーベールの「ファンタジー」、「ミニョン」「魔弾の射手」
ドニゼッティの「ソナタ」ブリチャルディの「ローエングリン」「ヴェニスの謝肉祭」
ざぁっと吹いたら時間になります。
父にお茶を飲むように勧めて、夕飯の準備をします。
脱水になりやすいので、一時間ごとに何かを飲むように勧めますが、ほんとに少ししかのみません。
入れて持ってもらってもすぐに「もう、ええわ。ありがとう。」と返してきます。
血液が濃くなると梗塞が進みやすいので、たくさん飲んで欲しいのですが。
夕飯は、じゃがいもとなすと水菜の肉そぼろあんかけ、生姜風味、ピーマンとかぼちゃの油炒め、エリンギのバター蒸し、ズッキーニの浅漬鰹節和え、レタスとトマト添え。
野菜いっぱい食べてもらって、元気になる作戦。
焼酎のお湯割り・・・これだけはやめられないようです。・・を飲みながら、完食。
食事が終わると、まだ8時までには間があります。
ちょこっと、また練習。
もっと下半身に重心を移して演奏しなければ。
食後のいい運動になります。
ご近所さんに悪いので8時で終え、後は、父とテレビを見ながら過ごします。
私はフェルデンクライスをして、体をリセットしながら、終わると今度は父の体を触ります。
「気持ちいいなぁ。どこで覚えたんやこんなこと。」
と、何度も聞きます。
父はこれをマッサージと思っています。
人の体を触ると、自分の骨や肉も意識されるので、自分の体もほぐれてきます。
そうやって、父に歩いてもらうと、15日に梗塞をやってから、内側に曲がっていた足が、比較的まっすぐになっています。
効果あったみたい。
私も体をやってから、寝ると、次の日音がよくなります。
まあ、いろいろ大変ですが、音楽があることで、生活は彩があるし、父がいることで、体を意識したり、食事も気をつけるので、一緒にいる私も健康になり、また、音楽がよくなる。
そんな感じの最近です。
かすみ草咲きミニバラに二度目の花期。結構丈夫です。
先週、お盆休みに父が脳梗塞を起こし、左足に少し麻痺が出たので、お休みのかかりつけ医に変わって診察していただいたT病院の先生からリハビリを勧められました。
今通っている関西医大で、診察してもらえないか?と、思って関西医大に電話で相談したら、そこからが大変。
まず、T病院地域連携科に電話して、「関西医大の診察予約をして、T病院の先生に紹介状と、MRIの画像をもらってきて下さい。」ということでした。
地域連携科ではまず、「脳神経外科の先生に聞いてみます。」
「大丈夫です。関西医大に電話して、予約を入れてください。」
関西医大に電話。「今、入れている予約を早めてもらえないでしょうか?」
「予約は詰まっていて、12日まで、全く予約は入りません。」
梗塞を起こして、一ヶ月後です。
「心配なので、それまでにT病院で脳リハビリというものに掛かりたいです。」
「地域連携科に相談してください。」
地域連携科「先生に相談してみます。」
5時間後「転院されると聞いていますが、リハビリをT病院で継続したいということですか?」
「いえ、12日まであまりに遠く心配なので」
「わかりました。先生に聞いてみます。」翌日午後5時半。「先生は帰られてしまったので、明日朝、聞いてみます。」
翌朝「大丈夫です。リハビリがいけるかどうか、診断が必要なので、来て下さい。」
??リハビリが必要だともう診断されたのでは?
しかし、仕方ない、午後から父を連れて行ってみると、
T病院の脳外の先生「転院されるということで、紹介状を書いたのですが、やめられるのですか?」
「いえ、転院先の病院の予約があまりに先なので、不安なので、それまで脳リハビリを短期でこちらで受けられないか?という相談です。」
「受けられますが、医療リハビリを受けると、デイサービスと併用できないですよ。ちょっと待って説明してもらいます。」
リハビリの担当者がやってきて「医療リハビリを受けると、介護保険でのデイサービスは受けられないのです。併用できない。」
「医療リハビリって、どれくらいの時間を過ごすのですか?」
「20分とか、30分。」
「え!それを受けるとデイサービスであずかってもらえないんですか?それは困ります。」
「それはそうですよね。」
「ケアマネージャーさんに相談してリハビリをやれるデイサービスを紹介して貰った方がいいですよ。」
・・・それは、初めに来た時にわかっていたんじゃ?
そのために大変な思いをして動けない父を連れてくる必要はなかったんじゃないのか?
診断を待っている間にも、デイサービスならリハビリにお迎えの車付きで使える。病院ではなくケアマネに相談。という情報を得るためだけに3日も電話のやりとりをかけ、動く必要のなかった父を動かした件でした。