日曜ですが子育てサポートしました。
廃園になった幼稚園をサポート施設に改築。
(1819〜1896年)と出会います。
の大反対にあい、
シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年)
7時に自宅から枚方市ファミリーポートまで、子どもを車で送って行きました。
廃園になった幼稚園をサポート施設に改築。
お泊り保育や、一時預かり、講習会や、お遊びの会などされています。
子育ての悩みや、相談ものってくれます。
1人でしんどい時は助けてもらっていいんですよ。
ロベルト シューマン(1810〜1856年)プロイセン王国ツヴィカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没
は、1828年ピアノ教師フリードリヒ ヴィークの娘クララ ヴィーク
(1819〜1896年)と出会います。
1835年頃になると恋愛関係になります。が、父フリードリヒ
の大反対にあい、
1840年ついに訴訟沙汰になります。
フリードリヒは反対を貫きますが、訴訟に負け、シューマンを侮辱しますが、これも負け、禁錮2週間の刑に処せられます。
その間シューマンはクララと結婚します。
二人の間には.8人の子どもが生まれました。
長女マーリエ 1841-1929年
次女エリーゼ 1843-1928年
三女ユーリエ 1845-1872年
長男エミール 1846-1847年
次男ルートヴィヒ 1848-1899年
三男フェルディナント
1849-1891年
四女オイゲーニエ 1851-1938年
四男フェリックス 1854-1879年
エミールが1歳で亡くなりましたが、7人は成人しています。
シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年)
シューマンは子供好きで、いくら多くても構わないという考え方でした。クララは演奏家と主婦、母親の両立に苦労することになりました。
また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなりました。
演奏旅行に同行すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われました。
1842年の演奏旅行では、ゴールデンブルクでクララ1人が宮殿に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っています。
「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。人はすべてを所有することなどできはしない。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」
シューマンは結婚感をこう語っていますが、クララは結婚後、シューマンが作曲している時はピアノ演奏を控えています。5ヶ月後の日記で演奏力が衰えたと、嘆いています。
シューマンは結婚して4年後には、精神疾患の症状が出始め倒れています。
そして1856年亡くなった時は15歳を筆頭に2歳まで7人の子育て、しかも家計を支えながら、さぞ大変だったろうと思います。
シューマンは、1848年長女マーリエの7歳の誕生日の贈り物として「こどものためのアルバム」作品68の最初の7曲を贈っています。
2週間で作曲されました。
後に曲を加えて40曲にして「少年のための40のピアノ小品集」として出版しました。
マーリエへのプレゼント
第1部 小さい子供のために
第1曲 メロディ(Melodie)
第2曲 兵士の行進(Soldatenmarsch)
第3曲 口ずさむ歌(Trallerliedchen)
第4曲 コラール(Ein Choral)
コラールのタイトルは「喜べ、おおわが心よ (Freue dich, o meine Seele)」
第5曲 小曲(Stuckchen)
第6曲 哀れな孤児(Armes Waisenkind)
第7曲 狩人の歌(Jagerliedchen)
第1曲 メロディ