音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

子育ては大変

2023-07-31 21:09:00 | ロマン派
日曜ですが子育てサポートしました。
7時に自宅から枚方市ファミリーポートまで、子どもを車で送って行きました。






廃園になった幼稚園をサポート施設に改築。
お泊り保育や、一時預かり、講習会や、お遊びの会などされています。
子育ての悩みや、相談ものってくれます。
1人でしんどい時は助けてもらっていいんですよ。

ロベルト シューマン(1810〜1856年)プロイセン王国ツヴィカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

は、1828年ピアノ教師フリードリヒ ヴィークの娘クララ ヴィーク

(1819〜1896年)と出会います。

1835年頃になると恋愛関係になります。が、父フリードリヒ

の大反対にあい、
1840年ついに訴訟沙汰になります。
フリードリヒは反対を貫きますが、訴訟に負け、シューマンを侮辱しますが、これも負け、禁錮2週間の刑に処せられます。
その間シューマンはクララと結婚します。

二人の間には.8人の子どもが生まれました。
長女マーリエ 1841-1929年
次女エリーゼ 1843-1928年
三女ユーリエ 1845-1872年
長男エミール 1846-1847年
次男ルートヴィヒ 1848-1899年
三男フェルディナント
1849-1891年
四女オイゲーニエ 1851-1938年
四男フェリックス 1854-1879年

エミールが1歳で亡くなりましたが、7人は成人しています。

シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年)

シューマンは子供好きで、いくら多くても構わないという考え方でした。クララは演奏家と主婦、母親の両立に苦労することになりました。

また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなりました。

演奏旅行に同行すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われました。

1842年の演奏旅行では、ゴールデンブルクでクララ1人が宮殿に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っています。

「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。人はすべてを所有することなどできはしない。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」

シューマンは結婚感をこう語っていますが、クララは結婚後、シューマンが作曲している時はピアノ演奏を控えています。5ヶ月後の日記で演奏力が衰えたと、嘆いています。

シューマンは結婚して4年後には、精神疾患の症状が出始め倒れています。
そして1856年亡くなった時は15歳を筆頭に2歳まで7人の子育て、しかも家計を支えながら、さぞ大変だったろうと思います。

シューマンは、1848年長女マーリエの7歳の誕生日の贈り物として「こどものためのアルバム」作品68の最初の7曲を贈っています。

2週間で作曲されました。
後に曲を加えて40曲にして「少年のための40のピアノ小品集」として出版しました。

マーリエへのプレゼント
第1部 小さい子供のために

第1曲 メロディ(Melodie)

第2曲 兵士の行進(Soldatenmarsch)

第3曲 口ずさむ歌(Trallerliedchen)

第4曲 コラール(Ein Choral)
コラールのタイトルは「喜べ、おおわが心よ (Freue dich, o meine Seele)」

第5曲 小曲(Stuckchen)

第6曲 哀れな孤児(Armes Waisenkind)

第7曲 狩人の歌(Jagerliedchen)

第1曲 メロディ


2023-07-30 21:36:00 | 近代
久しぶりに長男も来て、温泉に行きました。
月ヶ瀬のやぶっちゃの湯。

母を連れて行って夕食を食べようと思ったのですが、お出かけ中。
仕方ないので久しぶりに家族団欒。
特に長男とは久しぶり。

温泉に行って、帰りにやぶっちゃの湯の道の駅でお野菜を調達。
スーパーでお肉を買って帰り、
母と夕飯を一緒にすることにしました。

帰る途中、京田辺市の駅近くで、虹が出ました。

ちょっと薄いけれど、これまた久しぶりの虹でした。

ここも久しぶり。
暑すぎるものね。

ベンジャミン ブリテン(1910〜1976年)イギリス ローストフト生まれ、イギリス オールドバラ没

歯科医の父と、アマチュア声楽家の母の元に生まれ、2歳でピアノに興味を持ち、7歳から習い始めます。
9歳で弦楽四重奏曲を完成させます。

ブリテンの生家
1924年ノーフォークとノリッジで開催された音楽祭で10歳のブリテンはフランク ブリッジ(1879-1941年)
1921年ブリッジ
の交響組曲「海」に感銘を受け、彼と会います。

するとブリッジはブリテンの音楽的才能を認め、指導することを買ってでます。ブリテンはブリッジの元で和声法、対位法、音楽理論を学びました。

1930年奨学金を得てロンドンの王立音楽大学

に入学し、アイアランドやベンジャミンに指示しました。

1932年在学中に作曲されたのが、
「3つの2声部の歌」は女性合唱、もしくは少年合唱のための曲です。

同時期に「シンフォニエッタ」「幻想四重奏曲」などを作曲しています。
作曲の経緯はよく分かりませんが、元々はクリスマスキャロルの3つの学習のためのカノンとも呼ばれていて、合唱の楽しさを子どもたちに伝えるものとなっています。

「3つの2声部の歌」
第1曲「夜の騎行」
第2曲「虹」
第3曲「リオの船」

第2曲「虹」


庭園の音楽

2023-07-29 20:25:00 | 近代
金曜日は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生のお宅で、ヴィオラの金重さんとアンサンブルレッスンでした。

8月6日(日)12:30開演サンスクエア ホールで、モーツァルトのフルート四重奏Ddurを演奏させて頂きます。

なかなか、いい感じになってきました。
ドレスを何にするか?
という話になって、直子先生の着物ドレスがいいねという話に、金重さんが先週紹介してもらってご購入。

練習後のお楽しみ
二人のドレスを見せてもらっているうちに私も買うことになり、お店の方に電話していただき、今度お店に行くことになりました。

ドレスが決まったら、立って演奏しようと言うことになりました。
どうも、帯を使ったものは座れないらしい。
立って演奏すると、より生き生き!

ドレスが決まると盛り上がって来ました。
チェロの政雄先生だけは座ったままですが…。

長居といえば長居公園。植物園、博物館、競技場があります。

エーリッヒ ヴォルフガング コルンゴルド(1897-1957年) オーストリア=ハンガリー帝国ブリュン生まれ、アメリカ合衆国ロサンゼルス没

神童として、オーストリアで育ち、16歳から18歳に書いたオペラ「ヴィオランタ」でプッチーニに絶賛されるなど、すでに作曲家としての評価が確立します。

1920年23歳にはオペラ「死の都」で世界的に成功します。

1918年俳優で舞台監督のマックス ラインハルト(1873-1943年)
に委嘱され、組曲「空騒ぎ」op11を作曲し、1920年に初演します。

この後、二人はユダヤ系であったためナチスから逃れて、アメリカ合衆国に亡命し、映画や舞台を組んで作り上げています。

これはシェークスピアの「空騒ぎ」
1600年刊行の空騒ぎ
をもとにした組曲です。

Ouverture 序曲
Act Ⅰ Scene 1: Kriegsmusik 戦争の音楽
Act Ⅰ Scene 2: Don Juan ドン・ファン
Act Ⅱ: Prelude, "Mummenschanz" (Hornpipe) 前奏曲「仮面舞踏会」(ホーンパイプ)
Act Ⅱ Scene 1: Festmusik 祝典曲Act Ⅱ Scene 1: Benedict ratselt uber Beatrice ベアトリスをめぐるベネディクトの謎

1905年の上演、ベネディック役のハーバート・ビアボーム・トゥリーとベアトリス役のウィニフレット・エメリー。第2幕第5場の「クローディオを殺して」の場面それについてくのが
Act Ⅱ Scene 3: Lied des Balthasar バルタザールの歌: Ihr Madchen klagt nicht
Act Ⅲ: Prelude, "Gartenmusik"
前奏曲「庭園の音楽」
Act Ⅲ Scene 1: Intermezzo  間奏曲Act Ⅲ Scene 3: Holzapfel und Schlehwein (Marsch der Wache)
ドグベリーと
Act Ⅲ Scene 3: Verhaftung 逮捕
Act Ⅲ Scene 4: Madchen im Brautgemach 花嫁の部屋の乙女
Act Ⅳ Scene 1: Kirchenszene 教会の情景
Act Ⅳ Scene 2: Holzapfel und Schlehwein (Reprise) ドグベリーとヴァージェス (繰り返し)
Act Ⅴ Scene 3: Trauermusik 葬送音楽
Act Ⅴ Scene 4: Intermezzo (Reprise) 間奏曲 (繰り返し)
Act Ⅴ Scene 4: Schlusstanz 最後のダンス

第三幕への前奏曲「庭園の音楽」




2023-07-28 21:01:00 | 近代
母の定期検診。

京都医療センターの駐車場は玄関に近い方から満車。
森を登って、1番奥の駐車場に一台だけ空いていました。

心電図を取って、聴診器あてて、結果は良好。

先生から「剪定はいけませんよ!」と先月の骨折予防の注意、念押しして頂きました。


イオンでお昼。暑くて食欲も無く、ネバネバおくらうどん。
天ぷら一個だけついていました。
母のお買物をして帰りました。

車載温度計40度!
ちょっと車載温度計は高いからなぁ。」と思っていたら、ニュースで枚方市、39.8℃。
全国一暑かったとか…。
ひぇ~っ!


帰りの車窓から入道雲。
夕方から少し降りました。
庭木に水をやった後でした。
雨を待ってたらしおれてしまうものね。

クロード アシル ドビュッシー(1862〜1918年)フランス帝国サンジェルマンアンレ゙ー生まれ、フランス共和国パリ没



1897年から1899年にかけて作曲された管弦楽曲「夜想曲」の第一曲は「雲」になっています

夜想曲=ノクチュルヌはジョン・フィールド(1872-1837年アイルランド)が創始した名前で、夜を連想させる器楽曲のことです。
ショバンが発展させ、より自由でロマンティックなものに発展させました。

ドビュッシーはこの新しいジャンルを

「より一層新しい装飾的な意味で使われるべきです。
慣行の形式を意味するのではなく、様々な印象と光の特別な効果のすべてを意味します。」と言う絵画的な表現で使っています。

ホイッスラーの灰色と金色のノクターン チェルシーの雪1876年
ホイッスラーは1892年から98年パリに住んでいたり、画題から参考にしたのではないかと言われていますが、証拠はありません。
「夜想曲」を書く前に2つの前身の作品があります。

「3つの黄昏の情景」1892年
アンリレニエの詩集から着想をえて書き始めましたが、完成することはありませんでした。

独奏バイオリンと管弦楽のための
「夜想曲」1894年
「実際のところ、実験です。絵画でなら、さしずめ、灰色のエチュードといった、ただひとつの色のなかで可能なさまざまなコンビネーションを探求する実験です。」と、書いていますが、献呈の予定だったバイオリニストのイザイとの仲が悪化し、立消えになりました。

1897年現在の形の「夜想曲」に着手します。


ホイッスラーの黒と金色のノクターン 落下する花火1875年
第一曲 雲
「セーヌ川の上にたれ込めた」クラリネットとバスーンで表現されます。
「汽笛のサイレン」のコールアングレ。
弱音器をつけた弦楽器とフルートが灰色のテクスチュアを表現しています。

第二曲 祭り
祭りの盛り上がりと祭りの後の静けさを表現しています。
活発な三連付のリズムの祭りの音楽が盛り上がり、突然中断すると、遠くから幻影のような行列が近づいてきます。
やがて祭りと行列が融合し、消え入るように終わります。
シレーネのテーマが現れます。

第三曲 シレーヌ
ギリシャ神話の海の精霊シレーヌの歌声と海に映る月の光が表現されます。

第一曲「雲」







機械仕掛けの神

2023-07-27 21:00:00 | 古典
月曜は母のzoom理事会のお手伝いをしました。

お琴の理事は高齢の方が多く、コロナ禍以来、直接会うのは控えられています。毎年東京まで行っていたのですが。

zoomのセットをして、隣の部屋で待機。
「ミュートがわからない。」と一度休憩の時に聞きに来ましたが、すぐに解決。
無事に終えました。
3時間くらいかな?
ご褒美に丹波の黒豆の羊羹?頂きました。
絶品でした。

zoomで全国の人と会議が日常にできるなんて、少し前まで考えもつかないことでした。

デウス エクス マキナ(機械仕掛けの神)
紀元前5世紀のアテナイでエウリピデスが好んで用いた方法で、複雑な筋の劇のラスト付近で、神や神に相当する力のある人が出てきて、混乱した一同をまとめ、解決に導くというものです。

エクス マキナ機械仕掛けというのは、しばしば神を演じる役者が、クレーンのような機械で吊るされて、舞台(オルケストラ)に降ろされて出演することからついた名前です。後には機械が無くても、そう呼ばれるようになりました。

デウス エクス マキナの代表作はギリシャ悲劇のソポクレスの「ピロクテテス」
エウリピデスの「オレステス」
「タウリケのイピゲネイア」など。

クラッシック音楽では、モーツァルトの「イドメネオ」、ウェーバーの「魔弾の射手」などがあります。

「イドメネオ」
クレタのイドメネオ王は難破した時にネプチューン神に「帰れるなら、上陸して初めて会った者を生贄にする」と祈ります。
すると、嵐は止み、船は陸に着きます。
よろこんでやってきたのは王の息子イダマンテ。
「来るな!」と叫び難を避けようとしますが、イダマンテは傷ついて悲嘆にくれます。

トロイアの王妃イリヤはイダマンテを愛しています。

ネプチューンがよこした怪物がクレタを襲います。
イダマンテはイリヤに闘いに行くと告げます。

イドメネオは、「自分の息子を生贄にするという約束を破った」ことを明かします。
そして自分が息子の変わりに生贄になると叫びます。
しかし、イダマンテは生贄の装束で現れ、自分を捧げると言います。
イリヤまでが現れ、自分を変わりに捧げると言い出します。

やはり、イドメネオは苦悩の中、イダマンテを殺そうとします。
すると、神の声が響き「愛が勝った。イドメネオは退位し、イダマンテに王位を譲り、イダマンテはイリヤを娶るように」とお告げが。
一同赦されて、みんなで愛と結婚の神を讃えて終わります。

1781年モーツァルト25歳の作品です。神や、人を信じている前向きなモーツァルトの幸せな結末です。





大王の食卓事情

2023-07-26 21:02:00 | バロック
うちの庭で採れたトマトとピーマン。

ピーマン、丸くない。

きゅうりは、トドみたい。
味はいいんですが…。
とれるときは一度に採れるので、今年はピクルスにしようかと思ってらっきょう酢を買ってきました。

ピクルスはお酢に野菜をつける保存食てすが、古くはメソポタミアからありました。

ヨーロッパでも古くから使われていました。
冬は寒く野菜がとれないので、ピクルスは重宝したと思います。
ドイツでよく食べられていたのはザワークラウト。
キャベツの酢漬けですが、こちらはお酢ではなく発酵させて作っています。

フリードリヒ2世が、じゃがいもを食料として、普及させたそうですが、そのお供にはキャベツのザワークラウトが必ず乗っていたそう。

軍隊に畑を守らせてじゃがいもを育てたそうです。

その彼は文化や芸術も大切にしました。

彼の宮廷では、大バッハの息子
カール フィリップ エマニュエル バッハ(1714-1788年)神聖ローマ帝国ザクセン=ヴァイマル公領ヴァイマル生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市ハンブルク没


がオルガニスト、音楽監督として雇われていました。

宮廷では、じゃがいもとザワークラウトだけでなく、豪華な食事が並びました。
お昼は8皿、うち4皿はフランス料理、2皿はイタリア料理、あと2皿は王の好みの香辛料を効かせた鰻、トウモロコシの粥、ベーコン料理でした。

夕飯はお客様が来たときだけ一緒に食べましたが、その時は30皿も料理が並んだそうです。

カール バッハもお相伴したはず。
1740年質素倹約を旨とした父王から
フリードリヒ2世が、王位についですぐ作られたのが

「弦楽のための交響曲ト長調 Wq.173」1741年

カールも一緒に昇進し、美味しい食事に舌鼓を打っていたのだろうとおもいます。


変な生物

2023-07-25 21:08:00 | 近代
琵琶湖に浮いていたオニビシ。
絶滅危惧種だそうです。

こちらは浮きさくらそうやなぎ、floating primerose willowだそうです。

こちらは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドによく分布していたものだそうです。

1番変だったのはこれ。
オオマリコケムシと言うそうです。
ムシと言ってもムシではなく、外肛動物だそうです…!
アメリカで1900年発見されたそうです。日本には1972年頃入ってきました。

外から見えているのは寒天質の分泌物で、小さな個虫…やっぱり虫っていうんだ…が集まって群体になっているそう。

奇妙な形ですが、無害、無毒でプランクトンを食べて生きています。
有性生殖、無性生殖どちらでもいけるそう。ただ、畳2畳分くらい繁殖するらしくあまり増えると邪魔だそうです。

食用にはなりませんが、食べても良いそう。昔ナイトスクープで林先生が調理されて食べたときは美味しかったそう。
勇気のある人は食べてみては?
次男が試すと言いそうで怖い。

エリック サティ(1866-1925年)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

1924年自画像
彼は「家具の音楽」と自分の作品のことを呼んでいました。
それは、家具のようにそこにあっても日常生活を妨げず、意識的に聴かれることの無い音楽。
「生活の中に溶けこむ音楽」を「家具の音楽」と呼び、その後 1ジャンルを形成しました。

その中の一つが、「胎児の干物」と呼ばれる1913年ピアノ曲です。
「干からびた胎児」と呼ばれます。
しかし、フランス語のEmbryonsは、海洋生物の卵や幼生のことで、翻訳は適切ではありません。

第一曲 ナマコの胎児 d'Holothurie

序文に「わたしはサン・マロ湾でナマコを観察しました」とあり、途中「歯の痛いナイチンゲールのように」という指示があります。

第二曲 甲殻類の胎児d'Edriophthalma

ショバンの「葬送行進曲」のパロディになっています。
サティ自身は「シューベルトの有名なマズルカから」と中間部に書いていますが、シューベルトは、マズルカを作曲していず、サティの冗談かも。

第三曲 丙眼類の胎児 de Podophthalma

中間部で、角笛が鳴ります。
終結部は終止形の和音が18回も繰り返されたあげく、「作曲者による強制的な終止形」というコメントで終わります。

サティは、6歳で母を亡くし、祖父母に預けられますが、12歳の時に祖母が海で溺死体で発見されます。
再び父の元に戻されますが、1年後父は再婚。
パリ音楽院に入学しますが、1886年退屈だとやめてしまい、シャンソン酒場のピアノ弾きになります。

薔薇十字団に入団したり、シュザンヌ ヴァラドンに半年で600通も手紙を送り、絶交。
社会主義に傾倒したり、コクトーとダダイズムに行ったりし、あげくアルコール乱用で肝硬変で亡くなります。

イージーリスニングの開祖と言われていますが、本人はゴツゴツと生きづらかったのではないか?と…私見ですが思います。

そしてドキッとする名前は、日本人にはお馴染みの海産物の干物だったりするのでした。



水車と遭遇

2023-07-24 20:52:00 | 近代
久しぶりに滋賀方面に夫とドライブ。 長男に会えるかと思ったけれど、バイクでツーリングにでていて会えませんでした。

まあ、いいかと
道の駅 かがみの里で野菜を買って、

琵琶湖を周って



長命寺港で少し降りて…暑すぎる。
すぐ車に乗って


沖ノ島が見える埠頭でちょっと
水辺を見て
能登川水車博物館

この水車で72時間かけて石臼の中の米を粉にしたそうです。

ここで、鯉に餌をやって…

食いつき過ぎ!
10円と50円でたっぷりやれるので丸々太っていました。

この湖は伊庭内湖と言って琵琶湖の側にある小さな湖です。
そしてあと一軒、産直ステーション愛菜館によって野菜を買い足して完璧!
今日の近江富士。

ロナルド ビンジ(1910-1979年)イギリス ダービシャー州ダービー生まれ、イングランド ハンブトンシャー リングウッド没


労働者階級の生まれ、幼少期にセント・アンドルーズ教会の聖歌隊にいました。
ダービー音楽学校でオルガンを学びます。
映画音楽のオルガン奏者としてキャリアを始めます。
マントヴァーニのバンドメンバーになります。

第二次大戦時はイギリス空軍に勤務し、軍隊内のエンターテイメントに引っ張りだこでした。

戦後マントヴァーニはビンジに映画音楽の編曲と作曲を依頼しました。
ミュージカル「パシフィック1860」「エース オブ クラブス」などのオーケストレーションをし、世界的によく知られるようになりました。

1945年ベラ シモンズと結婚します。息子と娘をもうけます。

1952年BBCのラジオ番組「ストリング ソング」を受け持ち、自身の作曲した曲を発表するようになりました。

彼の代表作の多くはラジオやテレビの中で使われました。

1958年オーボエと弦楽のための「昔ながらのこと、水車小屋」は1957-1960年の間にBBCラジオで放送されたコメディ「隣のカップル」の中で使うために作曲されました。





世界の至宝

2023-07-23 20:58:00 | 楽器
今日は塚口t-raumでハープの発表会でした。
先生のホルンガッハで個室でお試し。本番は青山のベガで演奏します。

いい音です。

リハーサルの後本番。
緊張!
結果、私は、あまり良い演奏できませんでしたが、頑張りました。
みんなももっとがんばっていました。

ホルンガッハのはじまりは、1928年ミュンヘンのヨセフ オーベルマイヤーという親子が作った古い客車のハーブ工房です。
オーベルマイヤーという名前で始まったこの工房は1944年第二次大戦時の爆撃で全焼してしまいます。

オーストリア、カウフシュタイン、チロルに移転し、小さな修理工場を作ります。

その頃マキシミリアン ホルンガッハと出会います。

1952年オーベルマイヤーはミュンヘン郊外シュタンベルクに移り、再び工房を作ります。

1955年、ホルンガッハがこの工房に招かれ、ハープ作りを始めます。

1966年にオーベルマイヤーが亡くなります。
ホルンガッハは彼の仕事を引き継ぎ、その頃、ブランド名がホルンガッハという名前に変わります。 

1977年息子のクラウス ホルンガッハが工房に加わります。

現在もホルンガッハは、オーベルマイヤーからの伝統を引継ぎ、年間18台しか作らずに、品質を維持しています。
(森田ハープファクトリーホームページより)

クラウンと柱頭

サイド側
台座

外観も美しいですが、音色が芯があって深くていい音。
「世界の至宝」と呼ばれています。

1801年作曲フランソワ アドリアン ボワドュウ(1775-1834年)フランス ルーアン生まれ、フランス ヴァレンヌジャルシー没

革命期の恐怖政治をピアノ調律師として働き、難を逃れました。
オペラで成功し、ロシア皇帝の宮廷音楽家になったあと、パリに戻り、オペラをヒットさせます。

彼の功績はオペラが多いですが、1801年に作曲された「ハープのための協奏曲」はこのジャンルの傑作の一つです。

1820年にはパリ音楽院の教授になりました。しかし、オペラコミック座の破産と、1830年の革命、喉頭癌が彼を苦境に陥れさせます。
その年彼の功績に対して年金がおりるようになります。
1834年に亡くなります。
ホルンガッハでの演奏動画です。






コンサート終了 お礼

2023-07-22 21:00:00 | 近代
富久田治彦先生の60thAnniversaryコンサート終わりました! 
ブログを見たりして、応援くださったみなさん、ありがとうございました。

富久田先生門下若手によるアンサンブル。

カルテットや、セクテット、アンサンブルに続き

東京フィル吉岡アカリ先生、我が師匠で名古屋芸大名誉教授の伊藤公一先生80歳と、富久田先生のトリオ

富久田先生の恩師で元京響フルート奏者川瀬蛍光先生90歳、登場!

低音群

高音群

富久田先生
川瀬先生、伊藤先生もオーケストラメンバーに加わってシャミナードのコンチェルティーノ、フルートオーケストラ版。私もここからはthirdで出演。

富久田先生ソロお見事でした。

その後バースデーソングをみんなで演奏して、先生の18歳の息子さんから花束を渡すというサプライズ!
息子さんも今日が誕生日でした。

アンコールはフォーレの演奏会用小品。
伴奏していても心に沁みる演奏でした。
1894年パリ音楽院の作曲法と対位法の教授として就任したガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没
1889年のフォーレ
画ジョン・シンガー・サージェント
は、教育の目的を持った小品を作曲するようになりました。

コンクール用小品は、1898年学生の初見のための問題として作曲されました。
長く忘れられていましたが、1970年、コレクターが売りに出したことから、その存在が知られるようになりました。

富久田先生と石橋尚子先生のピアノでフォーレ「コンクール用小品」