音楽の喜び フルートとともに

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忌み言葉のルーツ

2023-01-31 09:22:00 | ロマン派
実家に行くとサイネリアが咲いていました。
シネラリアは北アフリカ原産18世紀、イギリスで交雑され世界に輸出されました。
耐寒性があり、寒い時期に咲く花として日本でも普及しました。

日本ではシネラリアという名前が死に通じるということでサイネリアに改名されました。
セネッティという品種だそうです。

こういう忌み言葉は使用を憚られる言葉、穢れのことです。

穢れ…不浄な状態は共同体に異常をもたらすとされます。

古来は死、病気、出産、性交、女性、怪我、排泄を不浄とします。

他にも共同体以外の人、特定の身分の人、特定の職業の人、身体の一部を不浄とすることもあります。

穢れを払う

として宗教的儀式や民間信仰儀式、習慣が行われることがあります。

日本書紀のイザナギ、イザナミの神話も死と出産、女性の穢れのお話しともとれます。

女性が男性よりも先に口を聞いたことで災いがふりかかり
火の神を産んだことでイザナミは亡くなります。

イザナミの死を認めたくないイザナギが黄泉の国に探しに行くと、「黄泉の国のものを食べたので戻れません。」とイザナミは言い、「決して見ないでいると帰れるので待ってください。」と言います。

イザナギは待ち疲れイザナミの姿を見てしまいます。

その姿はうじ虫に食われ、身体には雷神が座っています。
イザナギはその姿に恐れをなし、黄泉の国から逃げることになります。

これは女性が先に口を聞いたこと、忌み言葉から発した不幸で、出産、死、女性を忌むものとして何百年も決定づけた物語です。

ヨーロッパでは「オルフェオとエウリディーチェ」の物語があります。
オルフェオは音楽の力を持つギリシャの英雄で黄泉の国に亡くなった妻エウリディーチェを探しに行きます。

この物語は、古代ギリシャに発しましたが、長くヨーロッパで支持され何度も再話され、音楽にもなっています。

1600年記録に残る最古のオペラ「エウリデュケ」ヤコポ ペリ(1561- 1633年)教皇領ローマ生まれ、トスカーナ大公国フィレンツェ没
1602年 ジュリア カッシーニ エウリデュケ

1607年 モンテヴェルディ オルフェオ はじめのこの主題の傑作


1690年 ルイ リュリ オルフェウス (テレマン一部再演)

1726年 テレマン オペラ オルフェウス

1761年 グルック オルフェオとエウリディーチェ


1791年 ヨーゼフ ハイドンアニマ デル フィロソファ オルフェオとエウリディーチェ

1853年 リスト 交響詩 オルフェオ

フランツ フォン シュトック オルフェウス

1858年 オッフェンバック 地獄のオルフェウス

1907年から1916年ドビュッシー未完成のプロジェクト

1913年ジャン デュカスとルビーシュタインによるオルフェオ

1925年 ダリウス・ミヨー オルフェの魔法

1947年 ストラヴィンスキー バレエ音楽 オルフェウス

カミーユ・コロー ウリディスを導くオルフェ
主な作曲家のものだけ書き出してみましたが、この物語は他にもたくさん残されています。

物語の結末は、悲劇とは限らず、振り返ってしまったものの、その勇気に神に赦されてエウリディーチェが生き還るハッピーエンドのものまで様々です。

フランツ・リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没


の交響詩「オルフェウス」1853-1854年は、リスト4番目の交響詩です。
ヴァイマールの宮廷歌劇場でグルックのオペラ「オルフェウスとエウリディーチェ」を見て、その序奏の音楽として作ろうとしました。

リストはいろいろな文献や資料に当たりましたが、インスピレーションをルーブル美術館にあったエトルリアの壺から受けたと言っています。
その壺には優雅でほっそりした指で竪琴を弾くオルフェウスの姿が描かれていたそうです。

紀元前450年のギリシャの壺。
ルーブル美術館のものは見つけられませんでしたが、たぶんこんな感じ。











高木綾子、平野花子フルートとハープのためのデュオリサイタル

2023-01-30 11:59:00 | コンサート
昨日は枚方市にフルート高木綾子さんとハープ平野花子さんが来られたので聴きに行ってきました。
枚方市総合文化芸術センター関西医大ホールで
「デュオリサイタル」

高木さんは、フルート界のトップスターの一人です。
平野花子さんは枚方市民で大フィルのハーピストです。
ほぼ1500席満席。

フルートとハープと言ったらこれ!という曲
ビゼーの「アルルの女」のメヌエット。

美しい演奏です!
ハープとの息もピッタリ。

次はピアソラの「タンゴの歴史」から第1、2楽章のみ演奏されました。
一楽章ボルデルはブエノスアイレスの酒場の喧騒を表現していますが、冒頭書かれていないフェルマータを入れたりして楽しい演奏でした。
二楽章カフェは哀愁漂うスローなタンゴをしっとりと聴かせました。

シューマンのクラリネットとピアノのための「幻想小曲集」op73をフルートとハープに編曲。
1849年シューマンが「もっとも実り豊かな年」と言ったように素晴らしい曲。
「夕べの小品集」とつけようとしていたそうです。
静かな夕べから軽やかに進み、最後には燃えるような展開が待っています。

フォーレの幻想曲ハ長調op79
フォーレはフランスのパリ音楽院の院長をしていました。
その時フルート科の教授だったタファネルが生徒たちの卒業試験のための曲をフォーレに依頼しました。

それに応えたのが、この曲です。
演奏技術や音のコントロールを見るような曲ですが、それを超えた美しさを持つ曲です。

モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」から第二楽章
モーツァルト22歳1778年
パリでド ギーヌ公爵の依頼でハープを弾く娘と演奏するために作曲されました。

オーケストラ無しで、どうするのだろう?と思いましたが、平野さんが抜群のテクニックでオケ部分も違和感なく演奏されて素晴らしかったです。
高木さんとのカデンツァも息があってよかったです。

ドップラーとザマラ「カジルダ幻想曲」
1885年頃 名フルート奏者のフランツ ドップラーと名ハープ奏者のアントニオ ザマラが協力して作曲しました。

元になったザクセン=コーブルク=ゴーダ公エルンスト2世のオペラ「カジルダ」は今日では忘れられてしまいました。

オペラは忘れられてしまいましたが、美しいメロディは二人の名奏者のゴージャスな変奏は超絶技巧。
とっても華麗になめらかに演奏されました。

アンコールはイベールの「間奏曲」
さすがでした!

高木綾子さんのフルートと松岡みやびさんのハープ、ウィーンフィルのモーツァルトフルートとハープのための協奏曲ありました。
2005年愛・地球博 愛知万博の時の演奏です。




香辛料と管楽器の関係

2023-01-29 09:09:00 | ロマン派
北海道土産の山ワサビ。

冷奴にかけたり、菜の花にかけたり。
本わさびほど香りも辛味もありません。
辛さが苦手な私も美味しく頂けます。

わさびは山葵と書きますが、葵とは関係なく、葉の形が青いと似ていたからこの名前で呼ばれるようになったとか。

飛鳥時代(592-710年)の飛鳥京跡苑池


の遺跡の中の木簡にわさび(李佐俾)の文字があるそうです。
薬草園の中に植えられていたそう。

その後は、918年「本草和名」と

本草和名
931-938年「和名類聚抄」には和佐比とあるそうです。
南北朝時代(1337-1392年)にはお汁の実として食べられ、
室町時代(1336-1573年)には酢と混ぜ、鳥の薄切りや貝と食べられるようになりました。

武家調味故実
1591年利休が茶の湯の席でおろしたわさびを振る舞った記述があります。


1607年徳川家康にわさびが献上され天下の名品としてご法度品指定されたそう。

江戸時代後期には栽培が広がり、一般の人も食べるようになりました。

日本わさび協会「わさびの日本史」山根京子より

この北海道の山わさびはホースラディッシュ西洋わさびらしいです。

本わさびは日本のわさびと思いきや、最近はイギリス、オーストラリア、カナダ、中国で栽培されているそうです。

本わさびも中国産がほとんど。

日本わさびも品種がいろいろあるそうですが…。

わさびは香辛料の一種ですが、昔は冷蔵庫などなく、保存して運ぶと匂いがするようになりました。
それを隠すために香辛料が使われたという説があります。

強い香り、多少の劣化を感じさせなくする辛味。
胡椒は金よりも高かったとか。

大航海時代の航海へのエンジンは高い香辛料にありました。

後期には、それによってもたらされた巨大な富がガソリンととなり、産業革命が起き、鉄とガラスの時代がやってき、富裕な市民層が生まれ、音楽を支えるようになりました。

金属加工の技術はホルンやトランペットにバルブをつけました。
オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットにも精巧な金属キーの加工をもたらしました。

管楽器の金属加工は、鉄とガラスの時代の成果の1つです。

それを初めに有効に利用したのがベートーヴェン。

交響楽第九の第3楽章には半音階を自由に出せるホルンを前提に書いています。

ワーグナーに至っては1840年オペラ「リエンツィ」でバルブトランペット2本と明確に指定し、1876年「ニーベルンゲンの指輪」バルブ付きチューバをわざわざ工房に作らせて使っています。
この時作られたチューバはワーグナーチューバと呼ばれています。

チューバという名前がついていますが、ホルン奏者が演奏します。

ホルンのように手を突っ込んて音を調整することはできません。
コントロールが難しい楽器でワーグナー以外ではあまり見ません。
ブルックナーはワーグナーを尊敬していて使っています。

ホルン 

テナーチューバ

似てますが、ワーグナーチューバより一回り大きい感じです。

ニーベルンゲンの指輪「神々の黄昏」ジークフリートの葬送のシーン。

長い楽劇の一部だけの動画で載せられるのはなかなか無くて…ショルティのリハーサルのようですが、冒頭40秒位の所にワーグナーチューバが4本写っています。
それとは別にホルンが6本。

ワーグナーはホルン8本で持ち替えと書いていたようですが、ホルンだらけの迫力をどうぞ。







キリマンジャロの雪

2023-01-28 09:09:00 | ロマン派
今日も雪です。
今日の雪は閑かに降っています。
不思議な感じです。

地面は濡れているので、JRも今日は停めないでしょう。
これからの状況にもよりますが…。

「キリマンジャロは高さ19710フィートの雪に覆われた山でアフリカ第一の高峰だと言われる。
その西の頂きは「神の家」(ヌガイエ ヌガイ)と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばには干からびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。
そんな高いところまで、豹が何を求めて来たのか、誰も説明したものはいない。」

こんな日は
アーネスト ミラー ヘミングウェイ(1899-1961年)アメリカ合衆国イリノイ州オークパーク生まれ、アメリカ合衆国アイダホ州ケッチャム没

の「キリマンジャロの雪」1936年の冒頭を思い出します。

タンザニア キリマンジャロ空港では年間を通して16℃から33℃、雨季と乾季がありますが、13℃未満、35℃以上にはなりません。
そこで、野生の豹がなぜ雪原しかないキリマンジャロの頂きまで登ったのか?

2001年の名古屋大学のキリマンジャロ観測調査で3500mで生きた豹を見た。という報告があります。

AD1100年の豹の骨格が見つかったこともあったそう。

ユキヒョウは鼻腔の幅が広く、冷たい空気を吸い込んでも温めて湿度を与えることができ、足の裏は体毛で覆われ、防寒と高地でも滑らないようになっています。
標高600~6000mに住んでいます。

ユキヒョウ
しかしユキヒョウはアジア大陸の一部に生息していて、アフリカ大陸のキリマンジャロには公式には生息していません。

アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラホゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没


1891年アメリカのニューヨーク ナショナル音楽院の院長に就任し、講義を始めました。

初めは固辞していましたが、13歳を筆頭に6人の子どもたちを育てていたのでプラハ音楽院の給料の25倍の提示に断れなくなったからと言われています。

1893年アイオワ州のスピルヴィルという小さな町を訪れます。
この街はドボルザークの故郷からの移住者が多く住み、故郷を思わせます。

5月には「新世界より」を書きあげ、6月には弦楽四重奏「アメリカ」を完成させました。

1894年3月ニューヨークに戻ったドボルザークに、父プランチェチノックの病気、チャイコフスキー、グノー、ハンスフォンビューローの訃報が届くなどし、「聖書の歌」を書きます。



この夏休暇でボヘミアに帰り、またニューヨークに戻ると急激なホームシックに陥り、「チェロ協奏曲」をサーバー夫人に贈り、1895年4月契約半ばでアメリカを去ってしまいます。

「聖書の歌」は、1894年ニューヨークで16世紀、チェコ語の聖書の歌を元に作られました。 全10曲


第一曲 
雲と暗闇が主のまわりに立ち込め

第二曲
我が隠れ家にして我が盾なるは御身なり

第三曲
神よわが祈りを聞き給え

第四曲
主は我が羊飼い

第五曲
神よ!神よ!新しき歌なり

第六曲
聞き給え、主よ、我が叫びを

第七曲
バビロンの河のほとりに

第八曲
われを顧み、我に憐れみを授け給え

第九曲
目を上げて山々を仰ぐ

第十曲
主にむかいて新しき歌を歌え

この第九曲のイメージと、神なき後のヘミングウェイの迷える豹、主人公ハリーの迷いが繋がっているような気がするのです。

ちなみに第十曲の前奏は「雪やこんこ」です。

第九曲
目を上げて山々を仰ぐ
私の助けはどこからくるのか
助けは主から来る
天と地を創造された主より
動かしてくださるのだ
汝の足がそう動くべきように
そしてまどろむことなく見守ってくださる
見よ、まどろむこともなく、お眠りになることもなく、
主はイスラエルをお守りになられる






大航海時代

2023-01-27 09:11:00 | 現代
夫の北海道出張のお土産。
六花亭とバターサンドは定番。
山わさびと蝦夷わさび、わさび気に入ったのかな?
辛味が薄めで私にはちょうどで美味しい。

いか飯になれなかったイカ、「ご飯と炊くと美味しいんだ。」と夫。

北海道ラーメン2種。
どら焼き、栗まんじゅう、六方焼き?
ペンギン…ペンギン?

オウサマペンギン
「いいだろう?」と得意気な夫。
ペンギン二羽すでにいますが…今は長男の会社に出張中。
すべて夫が買ってきました。
好きみたい。
そういえば、「1st Penguin!」とドラマを見て、なにかあると叫んでいたときがあったし、
ペンギンカフェも行っていたし。
そんなに好きだったのか…。
知らなかった。

ペンギンは、ヨーロッパで知られたのは大航海時代(15〜17世紀)温帯産ペンギンに限ります。
南極産は19世紀になってきます。
脂肪から油を取り、肉を食べました。

ペンギンの語源はラテン語の肥満Pengiusから来ている説が有力です。

16世紀、スペインの猟師が飛ばない、潜水して餌をとるオオウミガラスをPenguigo太いやつと呼びました。
オオウミガラス
その頃、南極で発見されたペンギンを区別できずに総称してペンギンと呼んでいました。

17世紀、オオウミガラスが乱獲で絶滅。
ペンギンという名称がペンギンの名前として残りました。

大航海時代
11世紀から十字軍遠征が始まり、アラブ方面との交易は盛んにありました。
香辛料や鉄鉱石などを輸入していましたが1458年オスマン・トルコ帝国により東ローマ帝国が滅亡すると、アラブ方面の交易は難しくなりました。
そのことでスペイン、ポルトガルにより新しい航路を開拓。
ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ周りインド航路を発見。
スペインはマゼランが1519年から大西洋航路を開拓。
世界中に航海の船を広げたのでした。

フェルレル フェルラン(1966年~
バレンシア生まれ。
スペインの作曲家、指揮者、ピアニスト、吹奏楽作曲家。
15歳でピアノと打楽器の学位を取得、室内楽と伴奏のディプロマをとると、ロンドンの王立音楽学校や、ハンガリーで学びます。
その後、世界各地で演奏活動をし、スペインカスティリョン音楽院、バレンシア音楽高等学校で作曲、伴奏をおしえています。

交響詩「大航海時代」は、主にマゼランの航海を描いています。

スペインに雇われたポルトガルの船乗りマゼランが5隻の艦隊と200人からなる船員を率い1512年航海に出ます。

大西洋を南下、アフリカ大陸の先に通り道を発見(マゼラン海峡)。
飢餓と病に苦しみながらグアム島を経由してフィリピン、マクタン島まできますが、酋長ラプ ラプと戦いになります。
ここでマゼランは殺されてしまいます。

残された船員たちはインドネシアで香辛料を仕入れ、インドの南から西側を通ってスペインに帰り着きます。
1522年 200人いた船員は18人になっていました。

香辛料は2000倍の値段で売れ、地球が丸いことを証明しました。

「大航海時代」はこのマゼランの探検をファンファーレ、艦隊の様子、嵐、戦闘シーン、森の中、凱旋。
と、情景が彷彿とする仕立てになっています。




凍てつく時は去り

2023-01-26 09:02:00 | 中世
この辺りは雪はほとんど降りませんが、毎年大寒あたりにドカッと降ります。
17時頃から降り出し、18時次男が車で帰宅。
紺のアクアが真っ白。
わからないので字を書いてしまいました。
20時頃夫が旭川出張から帰って来るというので樟葉にお迎え。
飛行機も、電車も遅れ、遅れでしたが、京阪も動いていて助かりました。

「北海道に比べたら全然寒くない。」とか言っちゃってます。
そりゃそうですね。

こちらは慣れてないので、車で行くのも怖かった。

樟葉モールで夕飯。
このだし巻き卵、中に明太子が入っています。

とろろ昆布がのったおでん。

あったまりました!
21:30頃帰宅

アクアに書いた文字が消えていました。

雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと
              田捨女

とはいかず、今朝は道路の雪はほぼ消えて、

庭の植栽に残るのみてした。

カルミナ・ブラーナというと、オルフが有名ですが、もともとは10世紀〜13世紀の放浪学生や、修道僧たちによって書かれた世俗歌集です。

バイエルン選帝侯領のベネディクト会ベネディクトボイエルン教会。
1803年ここの図書館の蔵書をミュンヘン宮廷図書館に移すために調査していた時に羊皮紙112枚に書かれた
「カルミナ・ブラーナ」の手写本が発見されました。

300篇の歌が、ラテン語、中高ドイツ語、古代フランス語で書かれていました。

宗教曲は少なく、ほとんど世俗歌で占められていて、時代風俗への批判、自然、愛、宴会、遊び、放浪生活がテーマです。

4分の1にネウマ譜がついています。
こんなの。

グレゴリオ聖歌
ほとんどは譜線のない旋律のない覚書のような図がついていました。

1847年に出版されると評判になりました。

1937年、オルフがこの手写本を元にカンタータを作りました。

「凍てつく時は去り」は、1300年頃の手写本から再演されたものです。



天才!アンダーソン

2023-01-25 09:05:00 | 現代
月曜はフルートアンサンブルレッスンでした。
今回は榎田先生がアルトフルートとバスフルートを持って来られて、お借りしました。

サロン ド プリンシパル
フルート五重奏で
リロイ アンダーソンの「ワルツィング・キャット」踊る猫
アルトフルートとバスフルートの低音が入ると厚みが出ていい感じです。

同じシリーズで「そりすべり」
「ブルータンゴ」もやってみました。

「アンダーソンって天才だね。」と先生。
私もそう思います。
同じ楽器でやっても、猫やそりたのしい表現がバッチリでています。
いや、同じ楽器でやるからこそ、そのオーケストレーションの巧みさがわかるのです。

楽器の特性に頼らなくても、ほぼ表現できています。もちろんベルとかはベルでないといけませんが。

ああ、しまった!アルトとバスの写真撮るの忘れました。

バス欲しいなあ!

前にも書いた気がしますが、おさらい。

リロイ アンダーソン(1908-1975年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ、アメリカ合衆国コネチカット州ウッドベリー没

移民の両親、父は郵便局員、母は教会オルガニストでピアノを母から学びます。

1926年ハーバード大学でジョルジュ エネスコに和声など、音楽を学びます。
同時にニューイングランド音楽院でコントラバスも学びます。
1930年学位を取り、ラドクリフ大学で教師になります。
その間バンドマスターやダンスホールのダブルベース奏者としても活動します。
1931年ハーバード大学で言語学を学びます。ドイツ語、スカンジナビア語を学び、北欧やヨーロッパの9カ国語の研究をしていました。

1938年ボストン交響楽団のマネージャーの求めでハーバード大学学歌の編曲を提出したところ、指揮者のアーサー フィードラーの目にとまり、オーケストレーションを称賛されます。

フィードラーに応えて「ジャズピチカート」「ジャズレガート」を作曲します。


1942年軍隊に入隊。第二次世界大戦でスカンジナビア言語担当の情報将校として勤務。
ペンタゴンで働く前に結婚。

朝鮮戦争でも軍属として勤務します。
結果、学業を断念します。

1946年除隊。
「シンコペーテッド クロック」を作曲、大変な人気でゴールデン ディスク賞を取ります。

1950年スタジオ オーケストラ指揮者として成功し、
商業的成功をおさめます。

1953年アメリカでもっとも演奏されたクラッシック音楽作曲家になります。

1975年肺がんのため自宅で亡くなります。
1988年「作曲家の殿堂」に入ります。

1950年作曲の「ワルツィング・キャット」






improvisationって?

2023-01-24 08:57:00 | 音楽様式
土曜日に実家でレッスンの後、弘法市で買ったデミタスカップにコーヒーを淹れて母とお茶しました。

お菓子は

花びら餅が出てきました。
ゆったり一服。

「花びら餅はまえに食べたあそこのが美味しかったよね。」と私が言うと
「あそこのでしょ。」と母。
「生徒さんのお兄さんがお父さんから受け継いだ作り方で作っていたの。」
「じゃあ、また頼もうよ。」
「無理。もうだいぶ前にお兄さん亡くなったのよ。」
「色ももっと薄くて上品だったでしょう。」
「味噌餡の味も甘すぎず、少しごぼうの塩気があって、歯ごたえもあったね。」
「美味しかったよね。」
「もう食べられないのか…。残念やなぁ。」

その日、そこに行けないと受取れない物があります。
あの小さなお餅、音楽、文化…。

古典音楽は、花びら餅のような定形があって、それをどう料理し、どう提供するか?という芸術です。
演奏者の数だけあって、どういう味がするか?みたいな。
だから、同じ曲でも何度でも演奏会に行きたい。
その違いがわかってくるとますますおもしろくなってきます。

それとは別に
即興演奏 improvisationと言う分野がクラッシック音楽にもあります。

中世やルネッサンス期には楽譜が無かったものも多いので、記憶に頼ったり、他はほぼ即興演奏でその場限りの音楽がほとんどでした。

バロック時代には
楽譜があっても、主要音と数字が書いてあって、他の音はリュート奏者や鍵盤奏者によって適当に補って演奏されていました。



古典派になって、楽譜があり、特定の場所だけカデンツァ(楽曲の休止、終止に入れられる和声。楽章の終結部に独唱、独奏者の演奏技術を発揮させるために挿入される楽句)で奏者に任されているというやり方になりました。
モーツァルトやベートーヴェンなどの協奏曲の各楽章に入るカデンツァが有名です。

現代になるとショスタコーヴィチ、武満徹、メシアン、ジョン ケージなどが即興演奏をしています。

即興演奏をしたのをレコーディングしてそこから採譜するという強者も。


有名な即興演奏のYou Tubeはありますが、転載はできませんでした。

improvisation by grate pianists and composers

で、You Tubeで検索してみてください。
ホロビッツの即興演奏に始まり、最古の即興演奏のレコーディング1903年、アルベニスも聴けます。

こういう楽しみ方もおもしろいですね。




ハープと管弦楽団のための小協奏曲

2023-01-23 09:57:00 | 近代
塚口t-raumでハープのアンサンブル発表会でした。

ヴァイオリンとハープ、歌とハープ、ハープ同士、ハープとピアノ、フルートとハープなどなど、アンサンブルを組んで発表しました。

サティの「ジムノペティ」グルックの「精霊の踊り」を演奏してきました。 


サティゆっくり、ゆったりと
「精霊の踊り」はハープとやるとゴージャスな感じがします。
細かいニュアンスも聴いてもらえる気がします。

ゲスト演奏はドビュッシーの「神聖な舞曲」
素敵な演奏でした。

みんな熱演。
頑張りました!

アンリ コンスタン ガブリエル ピエルネ(1863-1937年)フランス帝国メス生まれ、フランス共和国ブルージャン没


父は音楽教師、母はピアノ教師。
1880年に17歳でパリ音楽院に入学。ジュール マスネに作曲と対位法、セザール フランクにオルガンを師事します。

1882年19歳で「エディト」でローマ大賞を受賞します。

1890年、聖クロチルド教会のオルガニストになります。
コロンヌ管弦楽団の副指揮者を経て、常任指揮者になり1934年まで務めます。
1937年ブルージャンで没します。

ラヴェル、ルーセル、ストラヴィンスキーの初演を行っています。
バレエ音楽や、室内楽曲を残しています。

「ハープと管弦楽のための小協奏曲op39」1903年作曲。ベルギーのハーピストアルフォンス ハッセルマンに献呈されています。

ピエルネの指揮、ヘンリエッタ ルニエのハープ、コロンヌ管弦楽団によって初演されました。



1月生まれのあの人の人気の曲

2023-01-22 08:34:00 | ロマン派
金曜夜のひとり飯。
塚口t-raumでハーブのレッスンでした。

阪急電車。
日曜にハープアンサンブル発表会の最終合わせでした。

日曜2時から、t-raumで
金重さんと久米、ハープのデュオで
サティの「ジムノペティ」と

鈴木健司さんのハープとフルート久米でグルックの「精霊の踊り」を演奏します。

サティは伴奏と旋律を前半と後半で交替するのですが、二人とも伴奏部分が難しく苦労しています。
変わった和音…の上に1回ずつ変化。覚えられない。
いや、私の技術が足りないだけですが…。
頑張ります。


1月生まれの作曲家を調べると
ペルゴレージ、モーツァルト、ブルッフ、ブーランク、スクリャービン、ゴセック、シャブリエ、キュイなどなど
共通点ありますか?

アレクシ=エマニュエル シャブリエ(1841-1894年)フランス王国アンベール生まれ、フランス共和国パリ没

1月18日生まれです。
ピアノを初め音楽に天才的な才能を示すも父親の願いで法律を学び、内務省に勤務。公務員生活を送ります。

1880年39歳のとき、ミュンヘンでワーグナーのトリスタンとイゾルデを見て音楽への道に専念することを決意し内務省を退職しました。

1888年音楽の功績を讃えてレジォンドヌール賞を授与されますが、晩年は麻痺に苦しみ1894年亡くなります。

活動期間は14年ですが、「スペイン狂詩曲」は今でも人気の曲。
ピアノ曲の分野で功績を残しました。

しかし、何と言ってもシャブリエと言えば「スペイン狂詩曲」

1882年秋、妻とともにスペインを訪れ4ヶ月滞在し、サン・セバスチャン、トレド、ブルゴス、セビリア、グラナダ、マラガ、カディス、コルドバ、バレンシア、サラゴサ、そしてバルセロナを訪れています。

その時の体験から作曲されたと言われています。
初めはピアノ連弾で作曲されましたが、発想が飛躍しフルオーケストラで作曲となりました。

初演から熱狂的に受け入れられました。