音楽の喜び フルートとともに

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対決!エラールvsプレイエルハープ編

2025-01-31 21:00:00 | 近代
病院最後の日の朝食。
薄い食パン、牛乳、パイナップル。オムレツ…かな?ミンチ肉がうっすら入っていました。

7日午前中に退院ということで、帰りました。
途中、上賀茂神社でお礼参り。
「手術無事終わりました。ありがとうございました。」
三条通り商店街の町中華、台湾風

エビチリ定食1380円
サラダと

大根餅もついてます
でお昼を頂いて帰りました。
「あ〜!娑婆に帰ってきた気分。」
とは言っても、まだ無理はできません。
安定するまで走るな飛ぶな
特に転ぶな〜っ!です。
つまり安静に。

こういう時は、やっぱり音楽!

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没

フランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれました。

生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しています。

ラヴェルの生家
母マリー(1840年 - 1917年)はバスク人、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)はスイス出身の発明家兼実業家でした。

同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれました。

左からエデュアール、母マリー、モーリス、父ジョゼフ
ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論がありましたが、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったといいます。 

サン・ジャン・ド・リュズのラヴェルの休日
成人になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりしました。

やがてパリ音楽院へ入学。
音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学びました。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となりました。

1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなりました。

1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされました。 その中の一曲
『序奏とアレグロ』(Introducción et allegro, )
は、1905年に作曲した、ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲。

エラール社のダブル・アクション方式のペダルつきハープの普及のために、依嘱された室内楽曲です。

初演は1907年2月22日に、フランス写真協会主催の演奏会においてパリで行われました。

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)

がハープと弦楽合奏のために作曲した『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』とほぼ同時期の作品です。

ドビュッシーの作品の方はプレイエルの新型の半音階ハープの普及のために作曲された作品で、エラールはこのプレイエルの動きに対抗するためにラヴェルに依頼しました。

『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』が実はエラールのハープでも演奏可能だったのに対し、『序奏とアレグロ』をプレイエルのハープで演奏するのはまったく不可能でした。

エラールのハープ

1820年エラール社のハープ(7音を半音ずつ上げることと下げることができます)
が現代のハープの原型となったのに対して、プレイエル

プレイエル社クロスストラングハープ、弦を増やすことで半音を出そうとしましたが演奏するのが難しかった
の発明品は忘れ去られてしまいました。

『序奏とアレグロ』は変ト長調、単一楽章のソナタ形式ふうの作品で、美しい2つの旋律主題を軸に繰り広げられています。

序奏は4/4拍子、主部はワルツ風の曲調となり3/4拍子。

ハープのやや長めの印象的なカデンツァも挿入されていて、室内楽編成によるハープ協奏曲のようです。


教育で力を発揮した音楽家

2025-01-30 21:00:00 | 近代
病院のWi-Fiのせいか、なぜかログアウトし、その後はまたしてもログインできず、帰ってアンインストールをして、ログインしたら入れました。
手術の夜も下書き保存していたのに投稿9:00にできず😭💦
今頃になってしまいました。

1月29日は左目の手術でした。
朝、次男が京都の病院まで送ってくれました。 
8:30から入院手続きなので、
7:00に出発。
6:59日の出。
今日も快晴です。
失敗率の少ない手術とは言え、やっぱりどきどきします。
今回は12:30から手術。
次男は「めしは手術の後だな。」と言ってでていきました。

コロナで面会は手術当日でも30分までだから。
また、流行っているみたい。

前回は2時からだったので、ゆっくりだったのですが、診察。
手術前の目薬16回。
お昼は先にでてきました。
「途中だったら温め直しもあるので食べててくださいね。」

と、言うことで食べました。
…なんと前回と全く同じ!
曜日で決まっているのかなぁ?
まあ、最後までしっかり食べて、結局1番過ぎに移動。
「病院あるあるやな。」と後で次男。

「早く呼び出しといて待たされる。」まあね。

手術は「ちょっと心配だったけど、まあうまく行きました。」と先生。

よかった。
30日10:00には退院します。

「2回目なのでちゃんと動かさないでくださったので、やりやすかったですよ。」ですって、だって1回目は「上むいて、上!」とか「違うそっちは右!後1ミリ下!」とか立て続けに言われて視界はぼやけてるしどこをどう見ているのか?自分でもわからないのに、どうすればいいんだ〜!って感じ。
最後の方に「反対の目と同じところ明かりの方を見てくれたらいいんです。」って言われてやっと納得。
先生ってコミュ力いるなぁ!私も生徒さんに同じことしてるんではないか?と3週間考えた末の今回。 
音楽の教え方も同じ。
以前学んだ師匠出口和世さんのお話し。

1相手が変わるという確信がない、(理解できるように言えないと思う時は)言わないこと

2.批判は一度目は親切、2回目はおせっかい、3回目は余計なお世話、4回目は暴力。

3、誰かが叱られているときは、それに重ねて言わない。集団でいうのは暴力

などなど他にもいろいろあったような気がしますが、レッスンの時には特にこの3つは思います。
なかなかコミュニケーションは難しい。
まだまだ修行しなければ。

ナディア ブーランジェ(1887-1979年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

実家は代々音楽家の家庭で、
父エルネスト・ブーランジェ(1815年 - 1900年)は、パリ音楽院で1835年にローマ大賞を受賞したオペラ作曲家でした。

エルネストは母校で教鞭を執り、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世(1179-1146年)

の子孫)門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚しています。

ライサはエルネストの43歳年下でした。2人の間に1888年に生まれたのが長女ナディアで、1893年に生まれたのが夭折した次女リリでした。

1897年、10歳でパリ音楽院に入学し、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドール

とガブリエル・フォーレ

に、伴奏法をポール・ヴィダルに師事しました。

在学中は和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏、フーガで首席になり1904年卒業。

長年の目標としてきた1908年のローマ大賞では次点に終わりました。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していません。

1908年の提出作品は騒動を起こしました。
声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏曲を提出しました。

カミーユ・サン=サーンス

などの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれています。
ブーランジェがローマ大賞に挑んだのはそれきりでした。

ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていました。

6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアでした。 

リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時も、姉の手引きを受けていました。

ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていました。

姉妹の父エルネストが1900年に没したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのですが、今度はリリが1918年に急逝すると、ナディアは作曲を辞めました。

リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していましたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていました。

ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》があります。

《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョ(1852-1914年)

のために作曲されましたが、自信不足や極度の自己批判のために、数多くの改訂を加えています。

プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られています、 

後者は1914年の上演が計画されていましたが
同年にプニョが他界したためと、第1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わりました。

1912年に指揮者としてデビューを果たしました。

主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団やボストン交響楽団、ハレ管弦楽団、BBC交響楽団などを指揮しました。

ソリストとしても活動し、1925年にアメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドに委嘱した《オルガンと管弦楽のための交響曲》の初演でオルガンを弾きました。

1907年にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920年より、アルフレッド・コルトーのエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執りました。
1921年には、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院
で和声法の教授に就任して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎されました。

ブーランジェはジャズやストラヴィンスキーなど新しい音楽にも態度を開き、学生一人一人が自ら才能を発揮できるように仕向けたので、多くの生徒が彼女の門をたたくようになりました。

ブーランジェは最終的に1948年に院長に昇格しています。
またアメリカのロンジー音楽学校でも教鞭をとりました。

第二次世界大戦中はアメリカに過ごして、ウェルズリー大学、ラドクリフ大学、ジュリアード音楽院の教壇に立っています。

1946年から1957年までパリ音楽院のピアノ伴奏科で教授を務め、晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979年に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送りました。

1979年、パリで92歳で逝去しました。
歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じ墓に葬られています。

ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法(ソルフェージュの応用)などです。

しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》

を暗譜することと、しばしばバッハが行なっていたように、フーガを即興演奏できるようになることが要求されました。

世界各国から非常に数多くの学生を集め、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリア、カナダ、トルコ、極東からも学生を集めました。

1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家でした。

彼らはブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立しました。

ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇にほとんど絶え間なく浸透しました。

コープラン、バークリー、バーンスタイン、ピアソラ、バレンボイム、ホロヴィッツなどなど
大勢の門下生を育てました。

ピアノと管弦楽のための変奏幻想曲
la Fantaisie variée pour piano et orchestre de Nadia Boulanger



田舎の生活

2025-01-29 21:00:00 | ロマン派
先週末に行った井手町。
町役場の道の駅で野菜を買った後、
橘諸兄縁りの井提寺(いでじ)の跡を見てきました。

と言ってもお寺の名残りの石柱が残っているだけです。
長く伝説の中にだけ存在していましたが、2001年に発見されました。

橘諸兄(たちばな の もろえ、684−757年)は、敏達天皇(びだつてんのう、538−585年)の後裔で美努王(みぬおう・みのおう)の子。

橘諸兄・『前賢故実』(江戸後期〜明治の伝記集)より

元の名前は葛城王(かつらぎのおおきみ)でした、

後、母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぎ橘諸兄と名乗りました。
翌年に天然痘が大流行し、当時の政治首班だった藤原四兄弟などが次々と病死し、同年9月の時点で主な公卿が当時従三位参議だった鈴鹿王と諸兄の2人のみとなってしまいました。

そのため冠位を得て
聖武天皇を補佐し、権勢を振るいました。
740(天平12)年の恭仁京造営
恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)
にも関わりました。
しかし、孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が権力を握り引退。

大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もあるそうです。

『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、信憑性をもつものとされています。

ここは橘諸兄が平城京の北部山背国綴喜(現在の綴喜郡井手町)に造営した別荘(玉井頓宮)跡と考えられており、別荘内に母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺として井出寺(井堤寺・廃寺)を建立したとされています。

井手寺(井堤寺)は、東西南北とも約160メートルの規模で塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。

井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した「垂木先瓦」や「軒丸瓦」「軒平瓦」、建物の礎石をおいた跡などが発見され、引き続き調査が行われています。

万葉集に橘諸兄の句が残っています。

あかねさす昼は田 賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹(せり)これ

解釈 昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。

丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹ぞ摘みける

解釈 立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩(は)いたまま、蟹(かに)のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。

墾田永年私財法を作った橘諸兄は激務のために忙しく、仕事が終わった夜になってから農地に入り芹を摘んでいたようです。

権勢を奮っていた彼も、つかの間、自然に触れて癒やされました。
後年、閑職に追われた橘諸兄も、案外田舎の生活を楽しんでいたのかも。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン =ノルウェーベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1869-1871年26歳から28歳に作曲したピアノ曲

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19

1867年グリーグは従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)

とコペンハーゲンで出会い、結婚しました。
新婚のグリーグが憧れ、思い描いた田舎での生活。

1877年には、故郷の東ベルゲンに移住し、1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、そこで生涯をニーナと共に過ごしました。

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19
1.ベルゲン
Auf den Bergen
2..ノルウェーの結婚式Norwegischer Brautzug
3.ここから
Fra






「スペードの女王」

2025-01-28 21:00:00 | ロマン派
山城の森。
26日に行った森。
里山の近くですが、原生林が広がっています。

倒木に見事な苔。

私は近づかないけれど、何を思ったのか倒木の上を歩き出す夫。
何気ないように見えますが、先の方は川が流れていてかなり高いです。
「怖いから帰ってきて!」と思わず叫びました。
普段は穏やかなのですが、時々ギャンブラー。
なんどか驚かされたことがあります。

「スペードの女王」はアレクサンドロ プーシキン(1799-1837年)ロシア帝国モスクワ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
の短編小説です。
1834年雑誌「読書文庫」に掲載され、人気を博しました。

サテン金藤紙を使ったトランプにみるスペードの女王(アドルフ・ヨシフォヴィッチ・

1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地オレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留しました

しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになります
この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士などとともに『スペードの女王』が書かれました

1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきました。

マリインスキー帝国劇場の経営陣は「スペードの女王」。イヴァン・フセヴォロシスキー

に1887年から1888年に草案を起こさせ、オペラの作曲をピョートル チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

に委嘱しました。

当初は依頼を断ったチャイコフスキーでしたが、1889年に承諾することにしました。
台本を作成したモデスト・チャイコフスキー

彼は同年の暮れにかけて劇場の支配人らに会い、題材について議論するとともに一部のシーンの下書きを行うなどしました。

オペラの総譜はフィレンツェでわずか44日間で仕上げられました。

後日、主人公の役を演じることになったテノール歌手と打ち合わせを行い、第7場のゲルマンのアリアに対し異なる調性を用いて2つの版を作成しています。

変更点は印刷譜の第1版と第2版の校正記録と添付の書類により確認できます。

チャイコフスキーは作曲を行う傍ら台本にも手を加え、一部のテクストを変更するとともに2つのアリアに自作の歌詞を追加しています。

作曲者チャイコフスキー(中央)と、初演でゲルマン役を演じたニコライ・フィグネル(左)およびリーザ役を演じたメデア・マイ=フィグネル(右)《1890年撮影》

オペラ「スペードの女王」
平民出身の若者ゲルマンは軍隊での仲間の貴族たちがトランプの賭けをしていても、そばで見ているだけで入ろうとしません。

ゲルマン
駐屯地の近くに住む伯爵夫人は「スペードの女王」と呼ばれています。彼女は賭けで負け知らず。それは昔情事と引き換えに賭けに勝つ秘密を手に入れたと、噂されています。

プーシキンの伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。賭博を好み、晩年は視力が衰えた彼女のため大きな書体のトランプが用意されていたという。またトランプで負債を負った孫に勝ち札を教えて負けを取り戻させたエピソードも実際に伝わっています。

ゲルマンの仲間の1人エレツキー侯爵が伯爵夫人の孫リーザと婚約したと自慢しています。

リーザ、伯爵夫人、エレツキー
リーザは自宅で鬱々としています。
伯爵夫人に婚約を勧められてしまいましたが、実はその横にいたゲルマンに恋していました。

そこにゲルマンがやってきて「あなたが他のやつと婚約したと聞いて自分を拳銃で撃つ所でした。」と言います。
そこに伯爵夫人がやってきたので、ゲルマンを匿います。

夫人が去ると気持ちに負けてゲルマンの抱擁を受け入れてしまいます。

後日エカテリーナ二世の仮面舞踏会の喧騒の中で、リーザはゲルマンにこっそり頼まれていた祖母の部屋の鍵を預けます。

夜中、伯爵夫人の部屋に忍び入ったゲルマンは夫人の帰宅を待ちます。
夫人が寝室で横になったところに姿を現し、賭けに勝つ秘密を教えるように迫ります。

答えない夫人に、拳銃を取り出し脅すと、夫人はそのまま倒れて亡くなります。

そこにリーザがやってきて、自分が心を捧げた恋人は自分より、賭けの秘密の方が大切だったのだと知り、涙に咽びます。

兵舎の自室に帰ったゲルマン。
そこに窓をノックする音が聞こえます。
開けてみると伯爵夫人の幽霊が立っていて、「リーザを守るために秘密を教えなければならない。」と言います。

「3.7.1。」

ゲルマンの手紙にリーザは真夜中の土手にやってきます。
ゲルマンもやってきて、話しますが、ゲルマンは取り憑かれたように「3.7.1」と伯爵夫人の話ししかしません。

リーザはやはりゲルマンは伯爵夫人の秘密にしか興味がないのだ。と絶望し、走り去ったゲルマンを見送った後、自ら命を絶ちます。

賭博場でリーザの元婚約者エレツキーと賭けをするゲルマン。
教わった通りに3を賭けると勝ちます。
財産を7に賭けると、また勝ちます。
勝てると信じたゲルマンは最後に1に全財産を賭けます。
賭けが始まり1に賭けたはずのカードを見るとそのカードはなぜか「スペードの女王」。

伯爵夫人の幽霊の哄笑が響き渡り、ゲルマンは狂い、自ら死にます。

伯爵夫人の幽霊が出てきて賭けの秘密を教えるシーン




「不死鳥」低音のための協奏曲

2025-01-27 21:00:00 | バロック
実家の梅の木。つぼみが膨らんでいました。
花まではまだ早いですが、春はもうそこまで来ているようです。
最高気温12度、来週にはまた寒くなるようです。

うちの裏庭にはジョウビタキ(尉鶲、常鶲)がやってきました。
渡り鳥で西日本では冬の間だけいるそうです。
うちで見たのは初めて。
りんごでも枝に刺しておけばよかった。

ミシェル・コレット(Michel Corrette, 1707 - 1795年)
フランス王国ルーアン生まれ、フランス共和国パリ没

は、フランスのオルガニスト、作曲家、音楽教則本の著者。
父はオルガニストで作曲家でした。

1737年頃から1780年まで、パリのイエズス会の大学でオルガニストを勤めました。
1773年以前にイングランドに旅したことも知られています。

1780年、アングレーム公爵

アングレーム公爵夫人(ルイ16世とマリー アントワネットの娘テレーズ、従兄弟のアングレーム公爵と結婚しました。)
にオルガニストとして仕え、15年後、87歳でパリで亡くなりました。

彼が作曲した、舞台のためのバレエ音楽とディヴェルティメントの中には、
『Arlequin(アルルカン)』『Armide(アルミード)』
『le Jugement de Midas(ミダスの審判)』
『les Âges(時代)』
『Nina(ニナ)』
『Persée(ペルセウス)』
があります。
オルガン協奏曲など多くの協奏曲を作りましたが、その中でも25曲のコミック協奏曲が有名です。
その他にも、ソナタ、歌曲、室内楽器楽曲、クラヴサンのための小品、カンタータ、宗教声楽作品などがあります。

『The Grove Concise Dictionary of Music』にコレットの項目があるが、「彼の音楽のほとんどは安っぽく取るに足らず、彼の作品の多くは通俗的なメロディが使われている」と評価が低く、その後散々な批判がされてきました。

しかし、それは古典派の時代に入っていたにもかかわらずバロック時代のスタイルで作曲し続けたためでは無いか?と思います。

彼の最も大きな音楽史的な功績は
オルガンの演奏や作曲の他に、コレットは演奏会を運営し、音楽を教えたために多数の教則本を書いたことです。

彼は20に近いさまざまな楽器(ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、リコーダー、バソン、クラヴサン、ハープ、マンドリン、声楽などなど)のための音楽教則本を書きました。
タイトルは、『Art de se perfectionner sur le violon(ヴァイオリンを完璧に弾きこなすための技術)』とか、『L'Ecole d'Orphée (オルフェウスの学校)』といったようなもので、フランスとイタリアのスタイルを書いたヴァイオリンの専門書もあります。

そうしたコレットの教育の仕事は「現代の演奏技術に明晰な洞察を与える」という功績を残しました。

「協奏曲 不死鳥」は低音楽器のために書かれました。
作曲年代はわかっていませんが、珍しい楽器編成のせいか演奏機会は現代でも多いです。

4つのヴィオラあるいはチェロ、バスーン、あるいは3つの低音楽器と通奏低音のために書かれています。

CONCERTO LE PHENIX / Michel Corrette




フレンチ玉ねぎスープの頃

2025-01-26 21:00:00 | バロック
長野県民のソウルフード、ミルクパン。

夫が長野出張で買ってきました。ミルククリームがたっぷり入っていて濃厚なのにさっぱりしていておいしかった。

他には

お多福豆

老舗だるまのアウトレットらしいです。潰れた豆で作られていますが、時々固まりがあって味は確かにだるまのお多福豆。
甘いけれどまろやかな甘さでこれ好きです。
他にも甘いものをあれこれ買ってきました。
家でじっとしている身には気晴らしになってありがたいです。
枚方は今日も暖かかったです。

パリのご当地グルメと言えば
フレンチオニオンスープ(スーパ ロニョンsoupe à l’oignon)

ローマ時代からの長い歴史の中で、オニオンスープは形を変えて存在し続けていますが、この人気の料理を改良して広めたのはフランス人でした。

言い伝えでは、ルイ 15 世が狩猟小屋で料理をしているときにこの料理を考案したと言われています。
食糧庫が空になっていることに気が付いたルイ 15 世
(1710-1774年)

が、バターとシャンパンを加えてスープを作りました。
これがフランス中に広まったという言い伝えがあります。
真偽の程はわかりません。

フランスのオニオンスープ、スーパ・ロワニョン( soupe à l’oignon)は、タマネギをバターや油できつね色になるまでじっくりと炒めます。

ブイヨンを注いでことことと煮込みます。

かりっとトーストしたフランスパンの輪切りを一切れスープ皿に入れ、スープを注ぎ、おろしたエメンタールチーズ、グリュイエールチーズまたはパルメザンチーズをふりかけて食べます。

耐熱性の器にスープを注いでからフランスパンを浮かべ、チーズをふりかけてからオーブンに入れ、焼き色がつくまで焼くとスーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)します。

フランスでは二日酔いに効くと言われています。

ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683-1764年)フランス王国ディシャン生まれ、フランス王国パリ没
ルイ14世と15世の治世を生き、その音楽は重用されました。

ヘーベの祝祭または、抒情の才能

1739 年の作品。
プロローグと 3 つの作品(幕) からなるオペラ バレエです。

台本はアントワーヌ・ゴーティエ・ド・モンドルジュ(1707-1768)によって書かれました。この作品は、1739 年 5 月 21 日にパリのパレ・ロワイヤルにあるアカデミー・ロワイヤル・ド・ミュージックの劇場で初演されました。

1679 年のパレ・ロワイヤルの眺め。劇場は東棟 (右側) にありました。

詩(歌)音楽、バレエを三つの愛のエピソードを若さの女神ヘーベが味わう形で表現し、人気を得ました。

プロローグ
オリンポス山を背景にした場所。

ヘーベは望まぬ注目に悩まされています。
キューピッドは、芸術を祝う祭りを見るために 一緒にセーヌ川のほとりに逃げようと提案します。

第1幕: 詩
レスボス島で、二人の詩人サッフォーとアルカイウスの愛が、嫉妬深いテレモスによって傷つけられ、ヒュマス王にアルカイウスを追放するよう説得します。

王が狩りに出かけているとき、サッフォーは王を驚かせ、寓意劇を上演し、それによって真実を知った王はアルカイウスを赦し、恋人たちは喜びます。

第2幕: 音楽
場面:寺院の柱廊
スパルタ王リュクルゴスの娘イフィセは、戦士であるとともに熟練した音楽家であるテュルテウスと結婚する予定です。

神託により、イフィセは「メッセニア人の征服者」と結婚しなければならないと告げられ、テュルタイウスは兵士たちを率いて彼らとの戦いに赴きます。
この戦いはバレエで演じられます。
テュルタイオスが勝利し、大歓喜の中で幕を閉じます。

第3幕: ダンス
背景に集落がある木立。 
華やかな庭園で
ダンスの上手さで有名な羊飼いのエグレが夫を選ぶことになっています。
神マーキュリーは変装して彼女の村を訪れ、彼女に恋をし、羊飼いエウリラスの嫉妬を引き起こします。
エグレはマーキュリーを選び、二人はダンスのミューズである テルプシコールと彼女の信者の助けを借りて祝います。

第1幕詩





天才も人生はままならない

2025-01-25 21:00:00 | 古典
24日午後、ハープの弦が着きました。

切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
まとめると送料無料になるので…少しでも安く買いたい…セコい!

22日の夜営業が終わってからメールで注文して、23日の10:00に確認のメール返信。
24日午後には宅急便で着いたので早いです。
感謝です。

すぐに装着。

グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
こちらの方が少し小型なので、短くなった弦を使えます。
ただし、都合よく同じ弦が切れるわけではないので、あまり使わないレバーハープは3本の弦が切れたまま放置されています。
いつでも使えるようにしておきたいですが…私には贅沢なようです😭💦


ヴォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

はパリでは、稼ぎがよくなく自宅に人々を招いてコンサートを開きますが、称賛は得ますがお金を出してはくれません。

ウィーンに行きコンスタンツェ
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。

コンサートは盛況ですが、あまり稼げないので
ハイドンが彼の才能を認め、ウィーンに留めるためにプラハのオペラの仕事に彼を推薦したりしていますがうまくいきません。
ウィーンでオペラフィガロの結婚を上演しますが、うまくいきません。翌年プラハで上演すると人気が出て一息つきます。

モーツァルトは品行が悪く、浪費癖があり、なかなか高給の仕事には恵まれず、収入は激減。

ピアニストとしてコンサートを開いて収入を得ていましたが、思うようにお客は増えませんでした。
シカネーダーの劇場でオペラを書いて稼ぎました。

魔笛1791年チラシ

モーツァルトは亡くなる3年前にこのような手紙を書いていました。

「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころ、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。

目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。

こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。

僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。

長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。

有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」

天才と人々は言いますが、モーツァルトにすれば、それは長い長い毎日の練習と努力の積み重ねによるもので、人より早く初めただけのことと言いたかったのかもしれません。

そして天才と言われても生きていくために稼ぐのは大変だったのだろうと思います。

ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595

は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
作品目録によれば、1月5日に完成したと記されています。

前作の第26番『戴冠式』(K. 537)から3年間のブランクがあります。

この頃には既にモーツァルトの人気は低迷していて、会員が集まらないために3年以上も予約演奏会を開くことが出来ない状態で、ピアノ協奏曲を作曲するチャンスには恵まれなかったためです。

1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅行中に、ウィーンへ戻った際には再び予約演奏会を開くするつもりで、この演奏会のプログラムを飾るためにこの協奏曲を作曲しました。

しかし、実際に演奏されたのは、1791年3月4日に宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸において催された演奏会においてであり、友人であるクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアから出演依頼を受けたモーツァルトは、1788年に第1楽章を手がけていた本作を完成させて演奏を行いました。

この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会です。

なお、この演奏会ではモーツァルトのかつての恋人で義姉のアロイジア・ランゲ

がモーツァルトのアリアを歌いました。











3人そろった!

2025-01-24 21:00:00 | ロマン派
お久しぶりのセンメルトリオ。
フルート、ヴィオラ、ピアノ全員揃いました。
昨年3月からピアノの坂田さんが入院。やっと復帰されたと思ったら、11月に金重さんが転倒して、ヴィオラの弦を押さえる手を骨折。

2月に出演予定のコンサートには「ピアニカ出でようか?」と言っていた金重さん。
大丈夫。
間に合いました。

3人でトリオできる幸せ。
噛み締めました。 

曲はビゼー作曲、シンプソン編曲「カルメン幻想曲」。
もともとはフルート、ファゴット、ピアノのためですが、金重さんがヴィオラに書き換えてくれています。
なかなかおもしろい編曲です。
「アラゴネーズ」「間奏曲」
「アルカラの竜騎兵」「ジプシーのうた」の4曲組曲になっています。

歌劇「カルメン」の第三幕への「間奏曲」はこの激情的なオペラの中の癒しの一時です。

真面目な官吏ホセがたばこ工場で問題を起こし、捕らわれたジプシーのカルメンに恋をします。
ホセはカルメンに誘惑され、法を破って彼女を牢屋から逃がしてしまいます。

酒場でカルメンと落ち合ったホセは帰営ラッパに帰ろうとしますが、カルメンに激怒され、彼女を追っていきます。

密輸団入るかどうか迷っていると、衛兵隊長が帰還を促しにアジトにやってきます。
心揺れるホセですが、密輸仲間に見つかり隊長は捕らわれ、密輸団に加わることになってしまいます。

この後演奏される第三幕への「間奏曲」。
つかの間のカルメンとの蜜月。

第三幕では「以前ほど愛していない。束縛しないで。」とカルメンはホセに言い放ち、闘牛士のエスカミーリョに心奪われていきます。
そんなカルメンにホセはどす暗い情念にとらわれていきます。




がっくり来た時の曲?!

2025-01-23 20:55:00 | ロマン派
22日から29日の左目の手術準備です。
殺菌する目薬を日に4回さします。
なるべく家にいて人に会わないように言われています。
とは言え、レッスンと合わせが、1回ずつ。
術後もこっちはホントに会えないのでちょっと後が大変になるから…。

練習があるので、退屈はしませんが、ハープの3オクターブ目のC弦が切れました。
1番使うところです。
本番まで待ってくれました。
切れちゃうと弾けるけれど、練習にはあまりなりません。
注文して、届くのは明後日くらいかな。
スムーズに練習できないとストレスがたまります。
それにハープのガット弦は高い!
それなのに昨年2割ほど値上がりしました。
仕方ないのですが、ふところが痛くてストレスです。

それからなぜか更新したらなんと記事が、タイトル写真とハッシュタグ以外飛んでしまいました。
がっくり。
なぜ?!

がっくり来た時のクラッシック音楽と検索するとグリーグのピアノ協奏曲が出てきました。
なぜ?と思ったけれど、
初めの部分ががっくり〜!!のシーンに入れたらぴったりきそう?!

エドヴァルド・グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1868年、作曲者が25歳のときにデンマークのセレレズを

ソレロッド教会を背景にしたオーベロドから見たソレロッド湖(1895 年頃)
訪問している間に作曲されました。

グリーグの初期の傑作です。

グリーグはその後出版社からの依頼を受け、1883年ごろに2番目のピアノ協奏曲を書こうとしましたが書き上げられず(スケッチが残されています)、代わりにこの曲に何度も改訂を行っています。

現在演奏されるのはグリーグの最晩年の1906年から1907年頃改訂され、

グリーグ
1917年に出版されたものです。

初期版と曲想の大きな違いはありませんが、楽器編成が異なり、独奏と管弦楽譜で400か所以上の変更点が見られる。

数あるピアノ協奏曲の中でも、非常に人気の高い曲で、またグリーグの代表的な曲です。

グリーグはシューマンのピアノ協奏曲をライプツィヒ音楽院に留学していた1858年にクララ・シューマン


の演奏で聴いていて、それに大きく影響を受けたと言われています。

1870年にグリーグと会見したリスト

1870年頃のリスト
が、彼の持ってきた手稿譜を初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがあります。






リュートの大家

2025-01-22 22:58:00 | ルネッサンス
びっくり!再掲したら本文消えてしまいました。どこか変なところを触ったのか?
聴き合い会のレポートしたんだけど…。
タイトル写真は素晴らしかったマンドリンの宮澤拓之さん。

ノイジドラーのピアノとビウエラの聞き比べおもしろかったので音楽だけ復元。

ハンス ノイジドラー(ノイジトラーはプレスブルク(現在のスロバキア、ブラティスラヴァ)で生まれ、1530年にドイツのニュルンベルクに定住した際に初めて歴史の記録に登場します。
2月に市議会から居住許可証を発行され、9月にその地で結婚しました。

1531年4月に市民権を取得し、その後すぐにツォテンベルクに家を購入しました。1530年代にはそこでリュートを教え、1536年から1549年の間に8冊のリュート音楽の本を出版し、1550年までには弦楽器製作者としても事業を開始しました。

最初の妻との間に13人の子供をもうけましたが、その結果、莫大な経済的困難に陥り、最終的に借金を返済するために家を売却しました。

1556年1月に妻が亡くなり、5か月後に再婚しました。

2番目の妻は1562年8月に亡くなる前にさらに4人の子供を産みました。

ノイジトラーはニュルンベルクで亡くなりました。

ハンスの息子であるメルヒオール・ノイジトラー(1531年 - 1590年)とコンラート・ノイジトラー(1541年 - 1604年以降)もまた、著名なリュート奏者および作曲家でした。)