音楽の喜び フルートとともに

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「p」ピアノの語源

2022-11-30 09:11:00 | 楽譜
うちの庭に小さな花を植えています。
かすみ草咲きの薔薇。写真ではわかりにくいですが、人差し指の爪の大きさしかありません。
もう10年近く咲いてくれています。

こちらは本物のかすみ草ピンク。

小さな花が好きです。大きな花も好きですが、うちの庭ではいろいろ肥料を入れないとなかなか持ちません。

里山に行くとこれでも大きいくらいです。
今は、なかなか行くことができないので家のお花で楽しんでいます。

音楽用語の「p」ピアノ

音楽用語辞典でみると「弱く」
静かな、単調なと書いてあります。

バロック時代は「p」だけで表現されたので「piu p」より多く弱くなんていう風に書いていましたが、ロマン派になると「pp」ピアニッシモとか「ppp」ピアニシシモが使われるようになりました。

「p」が「piano」(弱く)で、「piccolo」(小さく)ではないのはなぜでしょう?

イタリア語辞典によると
副詞で「ゆっくりと」「慎重に」「小声で」「わかりやすく」「平坦な」

名詞は男性で
「床」「平面」「計画」「見取り図」
と、出てきました。

ラテン語の語源は「planus」
計画する、明瞭な、平らな

小さくも弱くもありません。

ちょっとびっくりですね。

だからって小さくも、弱くもする必要がないという意味では無いと思います。

バッハの無伴奏パルティータの一楽章、長いタンギングばかりのフレーズで呼吸の計画性がなければどうなるか?

ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲の、始まりの長いフレーズをオーケストラをバックに弱く、計画的でない呼吸で吹いたら…?

悲惨なことになりかねません。

「p」という意味に慎重に、明瞭に、計画的にという言葉を頭の中に足しておくのはいろいろな音楽を演奏する時に役に立つに違いありません。

この奏者は、一息で吹ききっていますが、プロでも途中で息を取っている演奏が結構あります。







カストラートの歴史

2022-11-29 10:04:00 | 音楽様式
ノリタケの森ミュージアムのオールドノリタケ。
豪華な中にどこか楚々とした風情のある陶器でした。
お花のせいかな。

大名の庭に痩せたり女郎花
            正岡子規

白い女郎花オミナエシかどうか?
微妙ですが、黄色がオミナエシで白色が男郎花オトコエシという、話もありますが…。
なんだか日本文化を感じてしまいます。

1550年-1600年位ローマに起源があるカストラートは、去勢した男性歌手のことで、英語のcastratoは去勢するという意味です。

思春期前の男児を去勢することにより、変声期をなくし、ボーイソプラノの音域や声質を維持させようとしました。
身長や胸郭は成長し、骨格や肺活量は増え、女性ソプラノでは再現できない野性的な甘い声であったといわれていますが、これは科学的に証明されたことではありません。

カストラート カール スカルツィ(1700-1738年)スカルラッティ、ヘンデルなどその時代の初演のソプラノは彼が務めました。

イタリアを中心に流行し、1650年〜1750年ヨーロッパでピークになりました。
ナポレオンが禁止令を出しましたが廃れませんでした。

主にカトリック教会で継続していました。
教会内では女性は沈黙を保たねばならない。という規則があり、歌を歌うことは許されませんでした。

ほかにも教会内での演劇も、女性は演じることができず、配役が男性だけでは足りなかったことから、去勢された男児が必要となりました。

1878年ローマ教皇レオ13世


が禁止したことから、ようやくブームは終わりました。

7歳から11歳の男子を去勢したカストラートのピーク時は、イタリアで年間4000人で、それは徐々に貧困層に移っていました。

親の一旗揚げたいという欲望のために音楽教育もなく去勢されたり、イタリアの多くの音楽院は孤児院を母体にしていて幼い頃から聖歌を歌うアルバイトをさせられ、葬儀で歌う「少天使」として稼がされ、食事も充分に与えられないところもありました。

その現状に人道的理由によりレオ教皇
が禁止しました。

現在では去勢は行われず、なんらかの先天的理由で変声期をむかえなかった男性が、カウンターテナーとして女性のアルトからメゾソプラノの音域を歌います。

また、ソプラニスタはカウンターテナーの一種で女性のソプラノの音域を歌います。
ファルセットと呼ばれる裏声で歌うこともありますが、地声で歌うこともあります。

これは、現在のソプラニスタの歌声によるモーツァルトです。



アラ パブロワのエレジー

2022-11-28 08:58:00 | 現代
うちのハイビスカスが咲いています。
つぼみがあるので、まだまだ咲きそうです。
花期はこの当たりだと10月までのはずなのですが、

アザレアも4.5月。
今日も暖かく17度まで上がりました。
今日はお約束のピアノ合せ。
午前中みんな頑張りました。
ピアノの坂田さんありがとうございます。

pvの下がる現代曲。

1952年ウクライナ生まれの作曲家アラ パブロワ

モスクワのグネーシン音楽大学に学びます。
1983年ブルガリアのソフィアに移り、ブルガリア音楽協会の仕事やブルガリア国立歌劇場の仕事をします。
1986年から4年間モスクワに戻り仕事をします。
1990年からはニューヨークに住み始め、現在もニューヨーク在住。

交響曲第五番は、2005年にCD発売しました。エレジーという副題がついています。
エレジーは哀しい歌という意味です。
ロマンティックでメロディアスな曲です。




オケゲム ルネッサンスの響き

2022-11-27 08:42:00 | ルネッサンス
今朝は梅田て伊藤公一先生のマスタークラスでした。楽器屋さんはクリスマスツリーを飾っていました。

スケールとアルペジオだけで1時間見てもらいました。まだまだ、深い。

午後からは自宅でレッスン。
発表会があるので、明日ピアノ合せなのでレッスンです。

グルックの精霊の踊りとケーラーの子守唄。
愛らしい曲はシンプルなだけにごまかしがききません。
二人ともよく練習されています。

久しぶりのホールでの発表会なので張り切っています。明日はピアノ合せ。

ヨハネス オケゲム(1410-1497年)
ベルギー エノー伯爵サン=ギラン生まれ、フランス王国トゥール没

詳細については謎ですが、始めの記載はベルギー アルトゥルペンのノートルダム寺院


の教会楽長としてあります。
1446-1448年はフランス ムーランでブルボン公シャルル1世

に仕えています。
1452年パリに移り、フランスの宮廷楽長、トゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任します。
シャルル7世


とルイ11世


に仕えノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも務めました。
1470年にはスペインイザベラ女王

にギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)の婚姻を託されイベリア半島を訪れています。
その後足取りはよくわかっていませんが、トゥールやブルッヘを訪ねており、亡くなった時にはたくさんの作曲家が哀悼曲を寄せています。

ブルゴーニュ楽派とネーデルランド楽派の橋渡し的な存在です。
ミサ曲数曲とモテットが残されています。

Missa l'homme arme Kriye
ミサ曲武装した男
L'homme, l'homme, l'homme armé,
L'homme armé
L'homme armé doibt on doubter, doibt on doubter.
On a fait partout crier,
Que chascun se viengne armer
D'un haubregon de fer.
男よ、男よ、武装した男よ、
武装した男よ。
武装した男に気をつけろ、気をつけろ。
みんなそこらじゅうで叫んでる、
みな武装せよと
鋼の鎧で。

キリエは主よ憐れみ給え

オルガネットorganetto
小さなふいごを左腕で動かしながら演奏する小さなオルガンで15世紀までよく使用されていました。
オルガネットを使ったアンサンブル見つけました。


ロイド ライトの時代

2022-11-26 08:38:00 | 現代
アメリカの建築家のフランク ロイド ライト(1867-1959年)がデザインした食器です。
1923年にライトが建てた帝国ホテル

(犬山市に移築)のレストランで

で使うためにライトが自分でデザインしてノリタケで作らせ、閉館の1967年まで使われました。

1920年世界初のラジオ放送がアメリカであり、他の国にも波及しています。
ジョージ ガーシュウィン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没 

が「ラプソディー イン ブルー」
を初演しています。
ユダヤ系ロシアの移民の家庭に生まれました。
父が兄アイラに買ったピアノで音楽に親しみました。
一方で少年期は不良少年で交際した女性を妊娠させたりしています。
有色人種を差別しない少年でした。

1920年以降は、作詞家となった兄アイラと組んでたくさんのポピュラーミュージックをヒットさせました。

そのガーシュウィンが初めて
ジャズとクラッシック音楽を融合した作品が「ラプソディーインブルー」でした。

1924年多忙なガーシュウィンが兄と息抜きにビリヤードをしていると新聞に「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけました。
翌日、抗議のためにホワイトマンに電話をかけると記事は彼を呼び出すための偽せものでした。
「新聞記事になってしまったから、作ってくれ」とホワイトマンに押し切られ曲を書くことになります。

一週間で書き上げますが、それはピアノ2台のための曲で、オーケストレーションには理解が浅かったので、ホワイトマン楽団のピアニストのファーディ グローフェに編曲を依頼します。
他にもジャズバンド版などいろいろな版が存在します。

1924年、初演はニューヨークのエオリアンホールで行われました。
「新しい音楽の試み」
と題され、ハイフェッツ、クライスラー、ラフマニノフ、ストコフスキー、ゴドフスキー、ストラヴィンスキーが立ち会いました。

ピアノ協奏曲風のクラッシック音楽と、アメリカのジャズを融合させたシンフォニックジャズとして高く評価されます。
日本初演は1955年日比谷公会堂、近衛秀麿指揮、セイモア バーンスタインピアノで行われました。

レオナルド バーンスタインの弾き振り見つけました。


ロミオとジュリエット

2022-11-25 09:15:00 | ロマン派
まだ余韻に浸っています。
ノリタケの森のカフェでランチ。
当たり前ですが、全てノリタケ食器です。



食事用はシンプル。

「こんなお皿に何を盛り付けたらいいのか?わからへんわ。」とミュージアムで何度も母が言いました。

ショップでもお皿を持つと「ようあんた持つな〜!われへんか心配でよう持たんわ。」
ははは!
お茶を習っていると、必ず裏まで見て「結構なお点前で、御銘は?」なんてやっていたのであたりまえ…。先生はお茶碗売ってベンツ買ったとか言われていた。バブル世代です。

私はもちろん買ったことありません!

クリームブリュレ


かわいい紅茶カップに

泡立てたミルクのサービス

がうれしかったです。

「ええもん、見たなぁ!」と母も言っていました。

絵付け体験もしました。
焼き付けて送ってくれます。
こだわりの母と2時間近く粘ってしまいました。
でも、おもしろかった。

絵画と、文学、音楽は強い結び付きがあります。

「ロミオとジュリエット」はシェークスピアの名作ですが、
多くの芸術家を魅了し続けています。

ウォーターハウスのジュリエット ブルーネックレス

フォード マドックス ブラウンのロミオとジュリエット

ドラクロワのキュピレット家の墓前のロミオとジュリエット

プロコフィエフが有名ですが、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

も、幻想交響曲「ロミオとジュリエット」を書いています。

1869年ロシア五人組(キュイ、ムソルグスキー、ラフマニノフ、ボロディン、バラキレフ)のまとめ役だった
ミリィ バラキレフ(1837-1910)

がチャイコフスキーを訪ねてきます。

無料音楽学校を設立したり、帝室宮廷礼拝堂の監督や、帝国音楽協会の指揮者だったバラキレフは、若手の作曲家のまとめ役や、助言を行い発掘もしています。

バラキレフの助言で、チャイコフスキーは「ロミオとジュリエット」を書くことにします。

その後手紙でもやり取りし、主題や調性について具体的に助言します。
さらに、「筆が進まない」というチャイコフスキーに手紙に譜例を書き添えて送ることもありました。

モンタギュー家とキュピレット家の激情的な第一主題。

コールアングレとビオラのロミオとジュリエットの甘美な第二主題。
苦悩のフルート、オーボエでも演奏され、第一主題にまた呑み込まれます。
トランペットの死の暗示。
ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオが毒薬をのみ死んだあと、ジュリエットが目覚めるティンパニの音。
そしてジュリエットが死に、葬送行進曲。
天に召される二人の清らかな音楽。

これがチャイコフスキーの始めての名作になりました。




人気の陶器

2022-11-24 08:56:00 | バロック
名古屋から帰ってきました。
母からLINEで夫にお礼が入っていました。
夫は今日も仕事があると、会社に行ってしまいました。
お疲れさまです。

名古屋2日目はノリタケの森。

タイトルの画像、正面もきれいですが横から見た図。

色絵エナメル金盛婦人文飾壷。1891-1921年まで製造されました。
オールドノリタケの逸品です。

エナメルを宝石のように盛りつけていてゴージャス。

他にもいろいろ。

素敵でした。

1876年森村市左衛門が銀座に立ち上げた貿易商社森村組。
ニューヨークの6番街に弟の豊がモリムラブラザーズを作り、うちわや提灯、陶器を輸出していましたが、人気の陶器に絞り陶器製造を開始しました。

パリ万博で市左衛門はセーブルやマイセンに負けない陶器を目指す。と決意したそうです。

ところで、そのセーブルやマイセンは中国の陶器や、日本の古伊万里を模倣したのが始まりでした。

フリードリヒ アウグスト二世(1670-1733年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ドレスデン生まれ、ポーランド王国ワルシャワ没落

「強王」と呼ばれたこの人は陶磁器のコレクターで1710年錬金術師ヨハン フリードリヒ ベドガーを監禁して硬質陶磁器を作る白磁製法を解明させマイセンを立ち上げました。

ドレスデンのツヴィンガー宮殿には中国、日本の陶磁器のコレクションがあり、マイセンで作らせた陶磁器で満たす「日本宮」の磁器の館、未完のまま亡くなりました。

セーブルはそのマイセンのシャンティ窯で軟質陶器に柿右衛門風の写しを施していたデュポア兄弟がフランスの大蔵大臣オリー ド フリビーに招かれ、1738年にヴァンセンヌに窯を構えたのが始まりです。
その後、フランス国王ルイ15世が出資し、セーブルに移り、フランス王立窯になりました。

ヨーロッパではこの頃
東洋の磁器を飾りたてた「磁器の間」が大流行し、イギリスのハンプトンコート宮殿、
ドイツのツヴィンガー宮殿





やシャルロッテンブルク宮殿




、さらにオーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿などヨーロッパのあちこちで見られました。 

中国の内乱で入手困難になった陶磁器に代わり日本のものが求められるようになりました。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678- 1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

生涯最後の公になっている作品をザクセン選帝侯に献呈しています。

1740年、ザクセン選帝侯の継嗣フリードリヒ・クリスティアン公爵がヴェネツィアを訪問し、ピエタ他各慈善院で盛大な音楽会が催され、一番手となるピエタでの3月21日の音楽会では、宗教曲の挿入曲としてヴィヴァルディの作品が演奏されました。

ピエタから協奏曲3曲(RV 540, 552, 558)とシンフォニア1曲(RV 149)の代金15ドゥカーツ13リラを受け取り、更にザクセンの王子に曲を献呈することで報奨を受け取ったと考えられています。(献呈された曲は1741年にドレスデンで出版されました。)




城門が開けられ騎士たちは森へ

2022-11-23 09:24:00 | ロマン派
名古屋といえば、やっぱり名古屋城。

有名な金の鯱鉾。

なぜか、カラスに人気でした。
1615年徳川家康によって建てられました。

「お城を見たい。天守閣から名古屋の街を見てみたい。」と言う母のオーダー。

かなえました…と思いきや、チケット売り場で「今日は天守閣には入れません」ご了承下さい。
と、いうことでした。
老朽化で耐震補強のためにしばらく閉館。

それでも構わないというので入りました。500円
お庭を見たり、おうすとお菓子を頂いて


なかなかの威容です。

ヨーゼフ アントン ブルックナー(1824-1896年)オーストリア帝国アンスフェルデン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

の「交響曲第4番ロマンティック」は、1874年作曲されました。
と言っても第1稿です。
その後第2稿1877年に全面改訂。
78年1月に3楽章の改訂。78年11月第4楽章改訂。「民衆の祭り」と呼ばれます。
80年第4楽章、修正。

1881年ハンス リヒター

により初演。

この時、リヒターはブルックナーから「これで、一杯やってくれ。」と、1ターラー銀貨を握らされました。
ビール5杯分の価値のあった銀貨をリヒターは使うことができず時計の鎖につけて生涯大切にしていたそうです。

1886年ニューヨーク初演のために再改定。

1888年ブルックナー監修のもと、弟子たちが改訂しましたが、これはうまくいかず改竄版と呼ばれています。

ブルックナーは一曲の曲を何度も推敲するタイプの作曲家であることがわかります。

ロマンティックは唯一標題の付いているブルックナーの交響曲ですが、本人が、つけたかどうかは確認されていません。

ブルックナーは楽譜に

「中世の町-暁の時刻-朝を告げる合図が町の塔からひびいてくる。城門はあけられ,立派な馬にまたがって騎士たちは,野外へと駆って出る。美しい森が彼らを受け入れ,森はささやき鳥は歌う,みごとなロマンティックな情景である...」

と、書いていて、それによってロマンティックと呼ばれています。

ロマンティックという言葉はこの頃、定形的な古典派に対して、ローマ時代の感情表現のおおらかさ、自然豊かさを表現する作品のことを指しています。










火の鳥に乗って

2022-11-22 09:07:00 | 近代
夫が贈ってくれた名古屋1泊母との旅。

母と松井山手で電車に乗ろうとしたら、JR全線不通。

駅員さんに聞いたら、「バスで京都まで行くのが早いですよ。」
「火の鳥に乗ろうと思って」
「それは…!ごめんなさい。」謝られてしまった。

タクシーを呼ぼうとしたら「道で捕まえるほうが早いですよ。」とタクシー会社の人に言われてしまい。
捕まるかどうかわかりません。

路線バスにみんな並んでいるので、わたしたちも並びました。

新田辺駅で、窓口で特急券を買おうとすると、「後2分ですよ。大和八木駅で買って下さい。」走って急行に乗って、乗れました!火の鳥。








今回もバタバタ旅になりそうです。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971年)ロシア帝国オラニエンブルク生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

リトアニア大公国に領土を持つポーランド系小貴族出身ですが、父の頃には没落。
父は財産もなくマリンスキー劇場のバス歌手として有名でした。

両親の希望でサンクトペテルブルク大学の法学部に入り、官吏を目指していました。

本人はリムスキー・コルサコフに出会い、プライベートレッスンを1905年から受け出し、1908年には「幻想的スケルツォ」「花火」を作曲。

この作品がバレエ リュスの主催者セルゲイ ディアギレフの目にとまり、ショパンの「レ シルフィード」を管弦楽に編曲したりしています。

1910年パリオペラ座で彼の作曲したバレエ音楽「火の鳥」が初演されるや大成功し、翌年には「春の祭典」「ペトルーシュカ」が、初演され大成功。

第一次大戦でパリにとどまったまま帰国できず。
さらには第二次世界大戦。
フランスを経てアメリカ合衆国に渡り、そこで亡くなっています。


「火の鳥」はロシアの、2つの民話を元に創作されました。

1つは「イワン王子と火の鳥と灰色狼」
もう一つは「ひとりでに鳴るグースリ」

グースリ


ツァーリの庭に生える黄金のりんごを食べる火の鳥を捕まえるようにイワン王子は命令されます。

イワン王子は、火の鳥を追っているうちに夜になり、カスチェイの魔法の庭に迷いこみます。 

黄金のリンゴの木のところに火の鳥がいるのを王子は見つけて捕らえます。
火の鳥は魔法の羽とひきかえに開放するように懇願します。

王子は火の鳥の魔法の羽を手に入れ解放します。

次に王子は13人の乙女にあい、そのなかの1人、彼女はカスチェイの魔法によって囚われの身となっていた王女ツァレヴナと恋に落ちます。

夜が明けるとともにカスチェイたちが戻ってきて、イワン王子はカスチェイの手下に捕らえられ、魔法で石に変えられようとします。

絶体絶命の王子が魔法の羽を振ると、火の鳥が再び現れて、カスチェイの命が卵の中にあることを王子につげます。

王子が卵を破壊したためにカスチェイは滅び、石にされた人々は元に戻り、王子と王女は結ばれます。



卒業の時に聴かれるメンデルスゾーンの曲

2022-11-21 10:34:00 | ロマン派
今日は樟蔭のホームカミングデイでした。
卒業して初めて行きました。
何週間か前に友だちが声をかけてくれたことで、行く気になりました。
4人で始まる前に近くの喫茶で軽食を食べて、その時点でおしゃべり満開です。
コロナで3年開けなかったそうです。

理事長、現学長、中高校長のご挨拶、中高のダンスクラブの素晴らしいデモンストレーション。
福引で、なんと私たちのグループの2人が4等と特賞に…びっくり!
茅乃舎のだしセットと、ルンバ当たりました。

他にも星野リゾート宿泊券とか、リッツ・カールトンディナー券とかあったのですが、他の人が当たりました。

後は現学舎の見学。

タイトルの写真は記念館。大正建築です。

懐かしい樟古館、なんと昔はマンドリンのクラブハウスとして使っていました。

田辺聖子記念館。
先輩もやはり袴です。宝塚より前のことです。足元は革靴。
大正時代から今も続いています。

私の卒業写真も袴です。
なんでこんな暗い顔してるのか?今考えても全くわかりませんが…。

卒業の時のクラッシック音楽で検索するとメンデルスゾーンのイタリアが出てきました。
なぜ?
スカッとするからかも…。

フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847年)
自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

交響曲第4番は1831-1833年にかけて作曲されました。

イタリア旅行中に書き始められたために「イタリア」と呼ばれています。
1833年ロンドンでメンデルスゾーン自身の指揮により初演されました。

メンデルスゾーンは裕福なユダヤ人の銀行家の息子、カントにも影響を与えた有名なユダヤ人哲学者の孫として生まれ、音楽だけでなく、画家や哲学者が出入りする家で最高の教育を受けて育ちます。

ゲーテもその中の1人でした。
1825年にはゲーテに霊感を受けて作曲し、「ピアノ四重奏曲op3」はゲーテに献呈しています。
才能のある子どもとして認識されていたメンデルスゾーンですが、1829年バッハの「マタイ受難曲」を編曲。

ベルリン ジンクアカデミーが管弦楽と合唱を務め、彼の指揮で上演。
祖母のベラ ザロモンからバッハの楽譜の草稿を手に入れていたのです。

忘れられた作曲家だったバッハがこのあと復活し、「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と言われ、20歳でメンデルスゾーンの評価が高まります。

続く数年間、メンデルスゾーンは人気の中で演奏旅行にでかけます。

1829年にはイングランド、ウィーン、フィレンツェ、ミラノ、ナポリを旅し、後に「フィンガルの洞窟」「スコットランド交響曲」そして「交響曲第4番イタリア」を書きました。

イタリア旅行でローマでは謝肉祭や教皇グレゴリウス16世の


就任式を見て、着想を得たことでこの曲を書き出したことが残された手紙からわかっています。
が、作曲は中断されています。

1832年ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲、演奏会用序曲、声楽曲の作曲依頼を受け、作業再開。

フィンガルの洞窟とともにフィルハーモニック協会に提出しています。

初演の後、改訂講が存在しています。