音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ハープの日

2022-07-31 21:07:03 | バロック
今日は、塚口t-raumでハープ教室の発表会でした。

朝9:30で牧野駅まで送ってもらいましたが、すでに車載温度計36度。


t-raumの猫さんもぐったり…。
グランドハープと言っても、メーカーやグレイドよっていろいろあります。
先生の持ち込んだハープはホルンガッハと言ってハイグレードのハープ。
高くてめったに買えません。
いい音がしますが、私の持っているアオヤマハープと弦の数は同じですが、アールの形が違うので弾く位置が変わっていてつかみにくいです。

金重さんにホルンガツハを弾いてもらいました。
私はアオヤマのベガ。

私の家のアオヤマのオルフェウスとは兄弟なので近いですが、微妙に幅か違います。
落ち着いて弾いたら大丈夫なはずですが、2度目の発表会。
初心者丸出し。

ソロもドキドキ、デュオのパートナーの金重さんはお気の毒。

まあ、笑って赦してもらいました。
みなさんにお聞かせできるようになるにはまだまだかかりそうです。いや、本当に。

世界初のハープ協奏曲は
ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国 ブランデンブルク ハレ生まれ、グレートブリテン イングランド ロンドン没

の作曲、1736年のことでした。
1734年、ライバル貴族オペラに本拠地ヘイルマーケット国王劇場を奪われたために、貴族オペラが倒産する1737年まで、コヴェントガーデン劇場で

オペラを上演しました。
世俗的頌歌(壮麗で手の込んだ抒情詩)「アレキサンダーの饗宴」音楽の力



音楽の女神セシリアを称える内容の2幕ものの、初演の時、第一幕の途中にハープ協奏曲が入れられました。

ほかにも幕間にオルガン協奏曲、カンタータ「チチェーリアよ、まなざしを向け給え」ハ長調の合奏曲が加えられました。

1738年に予約者に楽譜が配られました。
が、その中に加えられた協奏曲は入っていませんでした。

一夜の出し物としては「アレキサンダーの饗宴」だけでは短かったので足されたため、抒情詩としては本編だけでよかったのかもしれません。

この時に使われたのはトリプルハープ


というハープで、ペダルが無く、弦が三列に並んでいます。

ピアノでいう両脇2列が白鍵、中央が黒鍵
100本の弦が張ってあり、真ん中の弦は両方の弦の間から指を入れて弾く必要があり、大変弾きにくかったそうです。


バロックピッチ

2022-07-30 20:58:06 | 音楽様式
夙川公民館でギターの田郷祐樹さんと演奏してきました。
実は川原さんとしようとシューベルトを準備していましたが23日に身内の方がコロナに感染。
27日まで自宅待機に…。
すぐに田郷さんに連絡たらすぐに「癒やしの432Hzでやりませんか?」と、メッセージが来ました。

田郷さんのギターは、恩師から頂いた70年前のドイツのギターです。





年季が入っています。
現代の標準の442Hzまで張ると、駒が緊張で緩んで、狂いやすくなるそうです。

フルートを吹いてみると金属のフルートは442Hzに対応しているため、難しい…432Hzにすると低過ぎて、吹けなくはないですが。

そこで先週榎田先生が貸してくださったドイツのフルート(多分100年位前)

これで吹くのがいいのかも。
いや、絶対これ!
そしてこれで吹くなら、田郷さんと3月にやったバッハが絶対にあうはず!

と、言うことで、シューベルトは封印。
田郷さんに話すと「やりましょう!」
と、急遽バッハ。

但し、このフルートは調整が不充分でE♭を押さえても、キーに隙間ができて音が変わりません。
気合いを入れてギュッと押さえないといけませんが、この曲はE♭だらけ…。

でも、楽器を返しちゃったら二度と吹けないかも…決行しました。

・カンマートーン(Kammer tone)
415Hz ドイツバロック音楽で使われていました。現代のピッチより約半音低い。

・ティーフカンマートーン(Teaf Kammer tone)
392Hz フレンチ バロック ヴェルサイユピッチと呼ばれています。
現代のピッチより全音低い。

・コーアトーン(Chortone)
466Hz 教会、屋外で使われています。半音高い。

・古典派ピッチ
430Hz モーツァルトピッチ、ウィーンピッチ

1711年 音叉の発明 
リュートの調整のためにジョン ショアが発明しました。

1834年 シュトゥッツガルト会議で440Hzが採用されます。

1859年 パリ会議で435Hzが決まります。

1885年 ウィーン会議で435Hzを追認。

1939年 ロンドン会議で440Hzにきまります。

1949年 日本で440Hzが採用されます。

最近は442Hzで演奏されることが多いです。
それでは、E♭ D♯の怪しいヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

のスマホ録画でE♭の怪しい
フルートソナタBWV1035






ホルスト弦楽のための曲

2022-07-29 21:15:10 | 近代
本番前!最後のフルートカルテットの練習でした。
8月7日12:30〜サマーコンサート2020
サンスクエアホール(堺市駅下車徒歩3分)
木村直子先生ヴァイオリン、ヴィオラ金重美代さん、チェロ木村政雄先生、フルート久米素子で出演させて頂きます。
モーツァルトCdurのカルテットK285aをやります。

当然てすが、ヴァイオリンの発表会なのでフルートの曲とは様相が違います。
フルートは、バロック時代とベーム式フルートの発明された1800年代中期以降に隆盛を迎えた楽器なのでバロックと近代の曲は多いですが、古典派からロマン派はあまり曲を残していません。

一方ヴァイオリンは、ルネッサンス以降安定して曲が書かれています。
特にオーケストラが確率してからの古典派ロマン派の曲がたくさんあります。
羨ましい!

グスターヴ・ホルスト(1874-1934年)イングランド チェルトナム生まれ、イングランド ロンドン没

は、近代の作曲家と言えますが、オーケストラや吹奏楽の曲、最も多く書いたのは合唱のための曲を書いています。
それは1896年ウィリアム モリスの作ったハマースミス社会主義協の合唱団の指揮者に迎えられたためです。 
1901年メンバーのイソベル ハリソンと結婚しています。

セントポール女学校の教師の職に付き、傍らで作曲しています。
1912年、防音付きの専用の部屋を与えられ、その感謝のしるしとして「セントポール組曲」を贈っています。
オリジナルは、弦楽のために作曲されています。
後にホルスト自身によって木管楽器を加えた管弦楽版が作られています。

また、第4楽章は吹奏楽のための第2組曲の「第4曲」を編曲したものです。





食卓の音楽

2022-07-28 20:54:15 | バロック
今日はコンサート聞きに行かない?と誘われたけれど、週末本番があったりして感染するわけにはいかないので自粛。
朝のレッスンは70代の生徒さんのご要望でオンライン。
午後からの子どもは来ます。
感染対策に事前消毒、空気清浄器、換気、マスクでやります。

豆乳のきなこムースを作りました。

作るのは簡単!
aお湯50ccでゼラチン5gを溶きます。
きなこ大さじ2、マスコバド糖大さじ3、豆乳200ccを混ぜ、aと一緒に混ぜます。
カップ3つに分け、冷蔵庫で2時間ほど冷やします。
お好みで黒蜜をかけて頂きます。
上白糖ならお砂糖はもっと少なくていいです。

簡単過ぎてお料理というのもおこがましいですが…。

ゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マクデブルク生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市ハンブルク没


の「食卓の音楽」ターフェルムジーク
1733年に予約販売の楽譜として出版されました。

伝道師の父はルター派でしたが、4歳のときに亡くなり、母マリアに育てられます。
彼女は他の学業でも優秀な成績をあげたテレマンの音楽教育に反対でした。
が、ライプツィヒ大学法学部など行く先々で音楽に触れて作曲を行います。

23歳でポーランドの宮廷楽長になります。
戦争で辞し、
27歳でアイゼナハの宮廷秘書。
1709年結婚しますが娘を産んだ後、妻は亡くなります。

売れっ子になり、各地で作曲、演奏します。
1721年自由都市ハンブルクの音楽監督になります。
この頃、バッハより人気があり、はじめクーナウの聖トーマス教会の職にテレマンが招聘されますが、テレマンが忙しくて断り、その後バッハが引き受けています。
テレマンはバッハの音楽の理解者で亡くなるまで親交がありました。

1726年バイロイトの宮廷楽長に任命されますが、ハンブルクから曲を送る方法でなっています。それほど人気者だったのですね。

この頃、「ターフェルムジーク」を予約出版します。
これは食卓、宮廷の宴会で流される
宮廷の宴席で好んで演奏された室内楽を集めたもので三つの曲集からなり、各々の曲集に、管弦楽組曲、コンチェルト、クヮトゥオル、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタといった異なった器楽合奏曲が含まれ、「バロック音楽の百科全書」とも呼ばれています。

他にもシャイン、プレトリウスなども作曲しています。
18世紀にはディベルティメントにとってかわられます。

この作品を販売するに当たり、特別価格での提供と予約者を当作品集の冒頭に記載すると広告したところ、ドイツ国内、海を越えてイギリスからヘンデルが、フランスやロシア、スウェーデンからも予約注文が集まりました。





モーツァルトと野菜

2022-07-27 20:07:37 | 古典
うちで採れたお茄子…嘘です。
うちで採れたのは

こっち。
艶が悪いです。

トマトはきれい。少しすっぱいてすが…。

トゲの形がスライムみたい。

お茄子は、インド原産、中国は5世紀、ヨーロッパへは13世紀に伝わりました。熱帯性植物のため広がりませんでした。
日本は7.8世紀に伝わり、奈良時代には食べられ、品種改良もされていました。

成形図説1804年

きゅうりは
インド北部ヒマラヤ山麓原産、紀元前10世紀には西アジアで、紀元前4000年にはメソポタミアで、日本には、6世紀にヨーロッパは9世紀、フランス14世紀、ドイツ16世紀に伝わりました。

トマトは、16世紀アンデス山脈で栽培されていました。
1519年エルナン コルテスによってスペインに持ち込まれました。
初めはピューターという食器の鉛がトマトの酸味で溶け出し、鉛中毒が発生し、「毒りんご」と呼ばれて観賞用とされましたが、誤解が溶け、品種改良もあいまって1820年以降食用として使われるようになりました。


日本では1868年にはいり、「赤茄子」と呼ばれて広がりました。

トマト、きゅうり、お茄子は1800年代にはいろいろあったけれど世界中で毎日のように家庭で食べられています。

モーツァルトや、ベートーヴェンも食べていて、クラッシック音楽もたくさんあるだろうと思って調べてみましたが…。

野菜にクラッシック音楽を、聞かせたらよく育った。
甘くなった。
時間が経つと腐らずに縮んだなどなど、
クラッシックで育てた野菜のオンライン販売の嵐。
そうかと思うと、全く意味がない!という論文とか。

私としては効果があって欲しいなぁと思ってしまいますが。

18世紀のきゅうりを歌った歌の1つもご紹介できるかと思って書き出したものの…。まったく見つけられない!
あればどうかお教え下さい。

仕方ないのでモーツァルトを聞かせて育てたトマトにちなんでモーツァルトの「アンダンテ」
野菜がすくすく育つ気がします。
科学者でないので、効果については真に受けないように。






バロック奏法

2022-07-26 20:56:02 | 音楽様式
フランスのルイロットの頭部管と、イギリスのコーカスウッドの本体と側部管の古いフルート。
昨日、渡辺橋駅近くのサロン ド プリンシパルのフルートアンサンブルエスカルに

に参加した時に、メンバーの高橋さんが持ってこられたフルートです。
この前、貸していただいたドイツのフルートで私も参加。

ボワモルティエのフルートトリオを木管フルートと、廣坂さんのアルタスPSモデルで吹いてみました。

始める前に、私の木管フルートが出にくい音があると言うと、榎田先生が高橋さんにドライバーを借りてちょこちょこっと触ったら、「このドライバーあかん。」と、「下のファゴットに借りてこよう。」とプリンシパルのオーナーでファゴット奏者の二口さんに道具を借りに行って帰って来ません。

高橋さんにコーカスウッド、ルイロットを吹かせてもらっていると、ようやく帰って来られました。

「良いのがなかったから、道具削らせてもらってた。」と、いうことでだいぶ吹きやすくなって返って来ました。

さて、例によって初見大会。

ボワモルティエ(1689-1755年)
ロレーヌ ティオンヴィル生まれ、ロレーヌ ロワシー アン ブリ没


はバロック時代初めて楽譜を売って生活できた作曲家です。

初めの楽章の16分音符は、イネガル奏法で吹きます。
なぜイネガル奏法で吹くのか?
榎田先生が教えてくださいました。

バロック・ヴァイオリン

と言ってバロック時代に使われていたヴァイオリンの弓(ボウ)は、モダン・ヴァイオリンと違って、弓の形の木部部分が内側に曲がっていました。

モダン・ヴァイオリンは外側に反っています。

それは、弓の張力がバロックの方が弱いことを意味します。

このボウで演奏すると、端の方まで均等な音で演奏するのが難しい。

なのでエガル(均等)ではなくイネガル(不均等)にしか演奏出来なかった。

フルートもそれに合わせて楽譜に書いていなくてもイネガル奏法で演奏したそうです。

イネガル奏法例

このトリオは、装飾音符が多いので装飾の勉強になります。

この時代のフルートは、トーンホールのメカニックがないので下から上にかけるトリルは難しかったそうです。
なので、トリルは、必ず上からかけます。

レ#ミのトリルは
通常下記のように赤いキーを押さえ、青いキーを上下することによって行います


が、少し音が、高くなります。なので、左手の人差し指(B♭キー)を紙一枚挟む位あげます。
すると、音程が下がり音色も良くなります。

バロックフルートで吹いている動画見つけました。イネガル奏法、トリル上からかけています。





日本のオペラ勃興期

2022-07-25 22:10:39 | 日本
大阪 中之島の中央公会堂。
フェニックスホールの途中、淀屋橋の上から写しました。
1909年渡米した株式仲買人の岩本栄之助


が、アメリカの事業家が功成り遂げると社会に還元することから学び、株で儲けた150万円(数十億)を寄付し中央公会堂が建てられました。

その後、岩本は第一次世界大戦の暴落で事業を失敗。
莫大な負債を抱えます。
一部でも返してもらったらという周囲の勧めに「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と断固として断り、1916年ピストルで自殺します。
39歳でした。

中央公会堂のホームページを見ると年表があり、
クラッシック音楽では
1919年ロシア歌劇団来日公演で「アイーダ」を、
1922年三浦環主演プッチーニの「お蝶夫人」
1923年イタリア歌劇団によるヴェルディ「椿姫」と書いています。

他の出し物は記録されていませんが、内外の音楽家が公演し、テレビなき時代、その影響は凄まじかったと思われます。

三浦環(1884-1946年)日本東京都京橋区生まれ、東京帝国大学附属病院没。

東京音楽学校在学中の1903年、日本人歌手による初めてのオペラ公演に出演。卒業後、1911年日本初のクラッシックレコードを吹き込みます。

1913年ドイツ留学、第一次世界大戦の戦火を逃れイギリスへ、そこでプッチーニの「蝶々夫人」を演じ、成功。アメリカへ渡りボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで公演。好評を博します。

1920年ヨーロッパに戻り、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリで客演します。

1922年長崎に帰国、蝶々夫人ゆかりの土地を訪ね演奏会を開きます。
レコードは東京市だけで8万枚を売上たそうです。

1924年再び渡米。サン・カルロオペラ団に出演、その後イタリアで歌手活動を続け、

1936年シチリア島のパレルモで「蝶々夫人」出演2000回を達成します。

これを期に帰国。
リサイタルや、オペラ、レコーディングを重ねますが、1944年太平洋戦争で山中湖に疎開します。


戦後すぐにシューベルトの歌曲でリサイタルを開くなどしていましたが、1946年5月亡くなります。

トッレ デル ラーゴのプッチーニ博物館やローマ歌劇場には歴代のプリマドンナと共に三浦環の写真が今も飾られています。







マンドリン合奏フィオーレ

2022-07-24 21:04:56 | コンサート
今日は「アンサンブル フィオーレ ディ オオサカ」マンドリンコンサートでした。

先週も来たフェニックスホール。




アンサンブルと言っても22人。

1stマンドリン4、2ndマンドリン6、マンドラ4、マンドチェロ3、ギター3、コントラバス1、ピアノ1。
大所帯です。

大阪樟蔭女子大学マンドリン部のOGで結成。第16回目の定期演奏会てす。
私の先輩、後輩、同期…。

コロナで3年間コンサートはありませんでした。
今年は大丈夫といっても、1週間前からキャンセルが相次いだそうです。

マスクは外さずに演奏となりました。

第一部はアマディの英雄行進曲「イタリア」と間奏曲「蝶々」

繊細なピッキングと歌うトレモロ。
マンドリンの魅力あふれる演奏でした。

ミケーリの「ナポリ風組曲」

第二部
アングロの「組曲メキシコ」
同じ組曲ですが、ナポリは
1ボジリボの夜明け 
2ソレントの朝焼け
3サンタ・ルチアの酔っ払いの踊り
情景を思いうがべる音楽。

メキシコは
1ハラべ
2セレナータ 
3クリオーリョのウァパンゴ
4ワルツ
5ポルカ
舞踏のリズムを表した音楽。
コントラバスが大活躍でした。

第三部
モーツァルトのディベルティメントK138
マンドリンで演奏するとチェンバロのようで、よりモーツァルト感が増します。

菅原明朗編曲バッハのパッサカリア
オルガンに作られた曲ですが、低音群の重厚な響きがよかったです。

最後がブランツォーリの「熱情」
ピアノがマンドリンオケの通奏低音を支えるおもしろい編曲てした。

アンコールは、今年生誕120年の中野二郎編曲「浜辺の歌」
マンドラがメロディをとり、ギターが効果的に使われる中野二郎らしい編曲でした。

あまり集まって練習する機会がなかったそうです。
しかし、心を合わせて演奏したと葛原さんがおっしゃっていました。

音楽をし、聴いて下さる方がいるということが、どんなに幸せなことか!とも。
本当にそうです。
ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)
パッサカリアハ短調BWV582
1710年ころ作曲されたものす。

フランスのアンドレ レゾン(1650-1719)フランス王国パリ生没のオルガン奏者で作曲家の「オルガン曲集第1巻」パッサカリア形式によるトリオと、シャコンヌによるトリオの低音の主題を組合せて作った8小節を


20回変奏を変えて繰り返します。

菅原明朗(1897-1998年)兵庫県明石市出身の作曲家。
日本のマンドリン音楽の拡張期に貢献しました。オーケストラのようにフルートやクラリネット、トロンボーン、打楽器を入れた作品を残しました。
ドイツ音楽一辺倒だった日本にフランスやイタリア音楽を入れました。
1963年より関西マンドリン合奏団と出会い、多くの作品をこの楽団のために作曲、編曲しました。








マリア テレジアのお気に入り

2022-07-23 21:29:05 | バロック
昨日のカフェで出てきたミルクポットとシロップサーバー。

シュガーポットとクッキー入れ。

これがどの工房で作られたのかは、目利きでないのでわかりません。

今は亡きオーナーのお母様がヨーロッパ好きで、行くたびに蚤の市で買われたそうです。

1718年マリア テレジア(1772-1807年)在位(1792-1806年)
オーストリア帝国ウイーン生没

が直属の工房にした世界で2番目に古い窯にアウガルテンがあります。

マリア テレジアブルー(1744-1788年)シリーズ


ネオクラシカル(1784-1805年)
伝説の動物グリフィンをモチーフにしたクラージュシリーズ


ピーター マイヤー時代(1805-1964年)
ウィンナーローズシリーズ


などなど現在に至ります。

マリア テレジアは、16人の子どもを生み、

「戦争は他国にさせておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」

という政策を取り、成人した11人の子どもたちを他国の王侯と結婚することにより、繁栄を導きました。

文化や芸術の庇護者の側面もあり、エステルハージ侯爵ニコラウス2世

は、マリア テレジアの最も力のある臣下ですが、
ハンガリーにベルサイユ宮殿に匹敵する(凌駕する?)宮殿を建築します。
それがエステルハーザ宮殿です。








ようやく完成した1773年9月1日、いよいよ主君のマリア テレジアを迎えます。

当時の雑誌「ヴィナー ディアリウム」によると

「女王と従者たちが到着すると、一行は、庭園のなかを、侯爵の15台の壮麗な馬車に護られて進んだ…

夜には、ハイドン喜歌劇『裏切られたまこと』が上演された。これは宮廷からの賓客をいたく感動させ、女王は、『もし私がよいオペラを楽しみたいと思ったら、エステルハーザへ行きますと言ったと伝えられているほどである。

演奏にひきつづいて、城の豪奢な広間では、仮面舞踏会が催された。それから女王は、中国風のあずまやに招じ入れられた。鏡でおおわれたその壁面は、無数の照明やシャンデリアを反射して、部屋は光の洪水であった。

舞台では侯爵のオーケストラが、祭礼用の制服に身をかため、ハイドンの指揮のもとで、彼新しい交響曲マリア・テレジアや、その他の音楽を演奏していた。」

この後、ハイドンは演奏に対して褒美をもらいます。

このときに演奏されたのが交響曲第48番で「マリア テレジア」と呼ばれています。諸説はあるようですが…。







刺繍音

2022-07-22 21:54:47 | 音楽様式
午後、ハープのレッスンの後、仁川のカフェに、金重さんのご紹介でお邪魔しました。
ヘッセルハウス。 


美味しい紅茶を頂いて、二階ではアンティーク市開催中。







それからここで、フルート吹かせて頂きました。

シューベルトの「おやすみなさい」と「セレナーデ」
バリトン歌手のご主人

の前ですが、声楽曲2曲。無伴奏で

よく響いて素晴らしい環境でした。

そして素敵なアンティークのレース編みを一枚安価で買いました。


音楽の上で「刺繍音」というと、ある音から始まって、2度上、あるいは2度下の音を演奏した後に元の音に戻ります。
ハ長調の場合



この2度上、2度下の音のことを刺繍音と言います。

同じ2度上下でもコードの中に入っていると刺繍音とは言わない場合もあります。

ムツィオ・クレメンティ(1752-1832年)教皇領ローマ生まれ、イギリス領イヴシャム没

は、ピアニストで作曲家。
銀細工職人の父とスイス人の母のもと、7人兄弟の長子として生まれます。
9歳でオルガニストの試験に通り、12歳でオラトリオを作曲します。
14歳でサン・ロレンツォ教会のオルガニストの地位を得ます。

しかし、この年、甥に引き取られドーセットで暮らしますが、音楽を学ぶ機会を奪われますが自ら厳しい課題を課し23歳家を出て、ロンドンでチェンバロ奏者として生活します。

27歳で王立劇場で指揮者になり、ソナタ作品2を出版。人気が出て、翌年マリー アントワネットの御前でえんそうします。

翌年フランツ ヨーゼフ2世の前で演奏、ロシアのパーヴェル大公の前で25歳のモーツァルトと競演。

30歳で教師、ピアニスト、作曲家として名を成しベートーヴェンと会い、彼の楽譜を出版しています。

46歳ピアノ製作会社を仲間と設立、運営します。
52歳 - 前年ベルリンで出会ったカロリーネ・レーマン嬢(18歳)と結婚。

53歳 8月8日息子カールが誕生、しかし9日後に妻カロリーネ死亡。

58歳- この年以後はロンドンに定住。弟子からは多くの有名なピアニストを送り出しており、クレメンティは全欧で名声を高めています。

59歳 26歳のエマ・ギズボーン(Emma Gisborne)と2度目の結婚をします。

61歳 ロンドンに在住する音楽家30名がフィルハーモニック協会を設立。

1816年までクレメンティは常任指揮者を務めます。
65歳ピアノ練習曲《グラドゥス・アド・パルナッスム》の第1巻を、以後1819年には第2巻、1826年に第3巻を出版し、今日に残る作品となります。

1832年80歳 死亡します。

ソナチネop36の第3楽章に刺繍音が使われています。
わかるかな?