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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

謎の2楽章

2025-03-29 20:51:00 | 古典
金曜日の朝は久しぶりに長居公園近くの木村直子先生、雅雄先生のカルテットレッスンでした。
ヴィオラの金重美代さんのレッスンで、フルートを吹きます。

今回は、モーツァルトのフルートカルテットGdur、4曲のカルテットを1年一曲仕上げ、4年目最後の曲です。
この曲以外は3楽章ですが、これは2楽章しか伝わっていません.。

直子先生が、「この曲素晴らしいねぇ。この複雑なアンサンブル!モーツァルト晩年の作品みたいですね。」

通説では21歳の時の作品ですが、この曲はわからないことが多いのです。
確かに曲の構造は晩年かもしれないと今更ながら思いました。


ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756−1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1777年のモーツァルト
フルート 四重奏K.285aGdur
は、
21歳の頃、
ボン出身でオランダ東インド会社に勤務した裕福な医師(理髪外科医)フェルディナント・ドゥジャンが200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か作ってくれ。」と頼まれたために作られた3曲の四重奏曲の1つと考えられています。

結局この時は一説によるとアロイジア ウェーバーに夢中で、注文通りに作ることができませんでした。
そのため96フローリンしか報酬を貰えず、父親に不満を訴える手紙を書いています。

父レオポルドはそんな息子を窘め、不十分な仕事を行わず、真面目に励むように書いています。

Gdurのカルテットは1778年1月か2月にマンハイムで作曲されたものと考えられています。

しかし自筆稿が現存せず、モーツァルトの死後まもない1792年に出版された初版は、なぜか第1番 Ddur K. 285の第1楽章の後にこの2つの楽章をつけて3楽章形式とされているなど、妙なことも起きていました。

交響曲第40番1788年、アイネ・クライネ・ナハトムジーク1787年などこの頃はマンハイム楽派を取り入れた作品を書いています。

マンハイム楽派の特徴
■マンハイムクレッシェンド
突然のクレッシェンド、オーケストラ全体で展開されるクレッシェンドとディミヌエンド、

■マンハイム・ロケット
ピアノのリリースを伴うクレッシェンド、(クレッシェンドを伴う上昇するアルペジオの旋律線を伴う、急速に上昇するパッセージ)
あるいはベースラインの最低音域からソプラノラインの最高音域まで急速に上昇する分散和音

■マンハイム・ローラー(オスティナートのベースラインの上に上昇する旋律線を伴う、拡張されたクレッシェンド・パッセージ)、

■マンハイムのため息
(下降するスラー音のペアで最初の2音に重点を置くバロック音楽の慣習を様式化したもの)

■マンハイムの鳥
(ソロ・パッセージでの鳥のさえずりの模倣)

■マンハイム・クライマックス(弦楽器以外のすべての楽器が演奏をやめる高エネルギーの部分で、通常はマンハイム・クレッシェンドが先行する)、

グラン・ポーズ
演奏が一瞬止まり、完全に沈黙した後、勢いよく再開。

この曲の中で扱われているのはマンハイムクレッシェンドとグラン・ポーズですが、それは。より複雑な旋律の重なりの後で洗練された形で使われています。
マンハイム楽派を取り入れて進化してる!
と、私は思うのですが、どうかな?
だから、1787年の一曲ではなくて、もっと後期の作品の可能性も有りと思いますがどうかしら?


ガーデニングムーブメントとモーツァルト

2025-03-27 20:51:00 | 古典
木曜日午後、阪南ギターくらぶのギター北山浩二さんとバッハのフルートソナタBWV1035をうちで合わせる予定でしたが、体調を崩されて来られませんでした。

これに出演しますが、結局1回も合わせられませんでした。
ぜんそくがでたとか…。 
心配です。

みなさんもお身体お大事になさって下さいね。

同じ大阪府内ですが、阪南と枚方は離れていて遠いです。
電車で2時間位かかります。
名古屋行ったほうが早い。

当日主催の方が合わせるための部屋を取ってくれたので、なんとかなるでしょう。

黄梅



木瓜の花

金のなる木

急に空いたので庭仕事しました。
お天気がいいので日焼け止め塗ってやりました。

冬の間放っておいた、生え放題の雑草を抜きました。
写真はうちではなく、実家のお花。
うちでは、寒くて植えて無かったのでパンジーくらいしか咲いてなかった。
残念。

キュー・ガーデンズ (Kew Gardens) は、ロンドン南西部のキューにある王立植物園です。

バーム・ハウス
キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有しています。
2003年世界遺産に認定されています。

キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まります。

その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃(1719-1772年)

によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズ(1773-1796年)

の設計による建築物が何棟か建てられました。

そのうちの1つである1761年建造のグレート・パゴダ

は今日も残されています。

ジョージ3世(1738-1820年)

はウィリアム・エイトン(1731-1793年)

やジョゼフ・バンクス(1743-1820年)

に命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせました。

旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて、王室の子供達を育てる施設としました。

ダッチハウス
この建物は現在キュー宮殿として残されています。

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成しました。
勅使門

■キューの勅使門(天皇のお言葉を伝える使者だけが出入りする門)は、京都の西本願寺唐門を5分の4に縮小して複製したもので、1910年にロンドンで開催された日英博覧会に出展されたものです。

博覧会終了後解体され、キュー植物園に移築されました。周りを日本庭園に囲まれ、今ではキュー植物園の人気スポットの一つになっています。

■日本庭園

勅使門を中心とした面積約5,000㎡の庭園。庭園は3つの空間で構成され、全体構成は回遊式の枯山水庭園となっています。

「静寂の庭」茶庭の露地を思い出させる落ち着いた穏やかな雰囲気。

「躍動の庭」枯山水により滝、山、海洋等の雄大な自然風景を表現。

「調和の庭」上記の静と動を結びつける役割を担っている。

また、植物園には、1980年(昭和55年)に公益財団法人日本花の会から贈られた松前系の八重桜53本が植樹されています。

また1993年(平成5年)には、多くの松前系の八重桜を生み出した浅利政俊

から58品種の桜がウィンザー大公園と共に贈られて植樹され、このうち56品種が活着しています。

そしてキューガーデンやウィンザー大公園が起点となって、これらの桜がイギリス各地に広まっています。

これらの品種のうちベニユタカ(紅豊



やリュウウンインベニヤエザクラ(龍雲院紅八重桜)

など19品種は王立園芸協会のガーデン・メリット賞に選ばれています。

1764年、春。モーツァルト一家はザルツブルグを離れロンドンへと旅立ちました。

4月23日、8歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは父レオポルト、母アンナ・マリア、姉マリア・アンナ(ナンネル)と共にドーヴァー海峡を越えた後、馬車でロンドンに到着しました。

父レオポルドはザルツブルグ宮廷楽団の一員として活躍していましたが、ヴォルフガングのマネージャーとなりウィーン、パリ、ロンドンへ演奏に連れて行っていたのです。

ロンドンへの訪問もモーツァルト兄妹を音楽の神童として公演や私的なパトロンに紹介するという野心的なヨーロッパツアーの一環でした。

モーツァルト一家のロンドンの滞在はトータル15ヶ月に及ぶ長期間でした。

複数の演奏会を行い、大きな成功を収めました。

特に、6月5日にセントジェームスパークのスプリングガーデンズ

で開催された音楽会で、彼らは3時間で100ギニーもの収入を得ました。

6月29日にはロンドンの西側チェルシーのラニラ・ガーデンズのホール

「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)レオボルドの手紙より
でも音楽会があり、自作の曲をオルガンやハープシコードで演奏しました。

その後も多くの演奏会を開き、ロンドンで名声を不動のものにし、たくさんのファンを惹きつけることになりました。

1765年の7月には、大英博物館

を訪問した一家は、ヴォルフガングが父の助けを借りて作曲した最初の宗教音楽作品であり、唯一の英語テキストの作品「神は我らの避難所」のコピーや、パリで出版された2組の鍵盤ソナタのコピーを共に預けました。

大英図書館

にとってモーツァルトは図書館に原稿を提供した最初の作曲家となりました。

モーツァルトはバッキンガム宮殿

に1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820)に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(1735-1782年当時29歳)

が王妃シャーロット(1744-1818年)

の音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ロンドンで作曲されたものに「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのための6つのソナタ」があります。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(Charlotte Sophie, 1744-1818)に献呈されています。

1765年1月に「作品3」として出版されました。
 変ロ長調 K.10、
 ト長調 K.11、
 イ長調 K.12、
 ヘ長調 K.13、   
 ハ長調 K.14、
 変ロ長調 K.15
は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

K.10ロンドンソナタ第1楽章



モーツァルトの友だち再び

2025-03-24 20:59:00 | 古典
日曜日は高校の同窓会でした。
何年も開いてなかったので本当にお久しぶりでした。
お昼に西梅田の「うおまん」をとってくれました。


私は高校生の時にぼうっとしてたので(今も!)覚えているか心配でしたが、会って話しているといろいろ思い出してきて大丈夫でした。

「担任の先生、瞬間湯沸かし器みたいだったねぇ!」とか「〇〇先生にカバンの形が少し違うだけで叱られたよ。」とか「〇〇先生、すぐに怒るから嫌だったけど、また切れられたらみんなと話しできなくなるから、仕方なく傍に座って話しを聞いていたんだ。」とか今だから言える話しが出て、「そうそう!」とか、「そうだったんだ〜。」とか言う話しで盛り上がって、とってもおもしろかった。

「また、会おうね。」と約束して帰りました。

ヨーゼフ・ロイトゲープ(Joseph Leutgebe 1732- 1811年)
ハプスブルク帝国ノイレルフェンフェルト生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

その幼少期についてはあまり分かっていません。

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739 - 1799年)

が、
ロイトゲープは1750年代のはじめの頃にウィーンでヒルトブルクハウゼン公爵

1727-1780年
のために演奏したという記述があります。

1760年代にはロイトゲープのキャリアが花開きます。

「彼は「ウィーンで最も卓越したホルン独奏者で、あらゆるソロ奏者の中でも広く受け入れられていることにかけては指折りの存在だった」
ーダニエル・ハーツ

1761年11月21日から1763年1月28日までの期間に、ブルク劇場

で、レオポルト・ホフマン、ミヒャエル・ハイドン、ディッタースドルフの協奏曲を演奏したという記録が残されています。

1762年にフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

がロイトゲープのためにホルン協奏曲第1番 Hob. VIId/3Dを作曲しています。

1763年7月3日にハイドンの妻がロイトゲープの娘マリア・アンナ・アポローニアの名親になっていることから、両名は友人同士だったと思われます。
最近になって、ハイドンのホルン協奏曲の自筆譜にロイトゲープのサイン書かれていることなわかりました。

1763年2月には当時ハイドンが率いていたエステルハージ家の楽団に一時入団しています。

エステルハージ城オーストリア

ハイドンザール
ロイトゲープは「高い年俸」を得ていましたが、わずか1か月で離職しています。
がその理由はわかっていません。

その年ザルツブルクへ移ると、同市を治めていた大司教の楽団

ジェローム・ヨーゼフ・フランツ・デ・パウラ大司教、コロレド=ヴァルゼーおよびメルス伯爵(1732−1812年)

に加入しました。 

これによりレオポルト・モーツァルト(1719−1787年)
1765年
や、その後同年の内にコンサートマスターのミヒャエル・ハイドン(ハイドンの弟)(1737-1806年)

と同僚になりました。
その時に7歳のヴォルフガングとも友だちになりました。

6歳のヴォルフガング

1763年8月20日)には、ヴォルフガングがレオポルトに会えなくて寂しいと言った人々のリストが掲載されていて、そこに彼の名前も書かれています。

ヴォルフガングも最終的に宮廷楽団に雇われることになり、ロイドゲープの仕事仲間になりました。

レオポルトやヴォルフガングと同じく、ロイトゲープも度々休暇を願い出て他の都市、パリ、ウィーン、フランクフルト、イタリアの諸都市へ演奏旅行に出かけていました。

1773年2月にはこの3人で連れ立ってイタリアへ赴いています。

ミラノではヴォルフガングとレオポルトがザルツブルクの家に宛ててロイトゲープの評判を書き送っていて、彼の大きな成功を予言しています。

1777年にウィーンに戻り、レオポルトに借金をしてアルトレルヒェンフェルトに小さな家を購入しました。

1782年、やはりウィーンに移ったヴォルフガングはレオポルトに宛ててロイドゲープの借金について書いています。

「哀れなロイトゲープに少し辛抱してあげてください。もし彼の状況を知り、彼がどうやってやりくりしているかを見れば、きっと同情するでしょう。

私は彼と少し話をしなければなりませんが、いずれにせよ分割で払ってくれるものと確信しています。」

ウィーンでもホルン奏者として活動を続けましたが、1792年に演奏から身を引いてしまいます。

ロイトゲープはウィーンで生涯を閉じました。

ロイトゲープはモーツァルトお気に入りのホルン奏者でした。

数多くの作品が彼のために書かれています。

ホルン協奏曲 K417、K495、K412/386b(514)

「おそらく」ホルン五重奏曲 K407/386c

も該当すると言われています。

これらは1781年にモーツァルトがウィーンに住んでいた時期の楽曲です。

上記作品はナチュラル・ホルン
バルブの付いてないホルン
を想定して書かれています。

したがって半音階を演奏するためにロイトゲープは高度な口唇のコントロールを行い、並びにゲシュトップフトを駆使する必要がありました。

モーツァルトがロイトゲープと冗談交じりの関係性でした。

K417の献辞には

「ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトがロバ、牡牛、馬鹿のロイトゲープを憐れんで、ウィーンにて、1783年3月27日」

と書かれています。

ある個所では管弦楽パートをアレグロとする一方で独奏パートをアダージョと指定しています。

これはおそらくホルンの音が遅れて出てテンポを引きずることをからかっているとみられています。

その他の例としてはホルン協奏曲第1番があります。

モーツァルト晩年の手紙からはロイトゲープがからかいを意に介さず、2人が良好な友人関係を持っていたことが窺えます。

1791年6月6日にモーツァルトがしたためた手紙には、妻のコンスタンツェが留守にする間、

「[メイドの]レオノーレを解雇してしまったので家に独りぼっちでいることになったでしょうが、それは愉快なものではなかったでしょうから」

と彼がロイトゲープの許に数泊したと書かれています。

その後、オペラ『魔笛』

2006 年のニュージーランド オペラ作品で、パミーナ (ティファニー スペイト) とパパゲーノ (リチャード ブルクハルト) が「幸せな人生を」を歌う
の初演が大きな成功を収め、モーツァルトは何度も友人や親戚を公演に連れて行きました。

ある手紙(10月8-9日)には「ロイトゲープが私に2回目に連れて行ってくれとせがむので、そうしてやりました」と記されています。

パリでのロイトゲープの演奏に関するある紙面講評(「Mercure de France」)は、彼が優れた演奏家であると述べています。
評者はロイトゲープが「上等な才能」を有し、「この上なく芳醇で興味深く、正確な歌唱と同じくらい完璧にアダージョを歌う」能力を有しているとしています。

モーツァルト ホルン協奏曲第2番K.417
1783年作曲
第1楽章 アレグロ・マエストーソ、変ホ長調、4分の4拍子。

第2楽章 アンダンテ、変ロ長調、8分の3拍子。

第3楽章 ロンド:アレグロ、変ホ長調、8分の6拍子。

この曲に「ろば・牡牛・馬鹿のロイトゲープを憐れんで」と書かれています。



6つのレントラー舞曲

2025-03-02 21:13:00 | 古典
土曜日朝は伊藤公一先生のレッスンでした。
1月が目の手術で抜けて、2月のレッスンがご都合が合わず3月1日になってしまいました。
久しぶりにお会いすると、背筋が伸びます。
もっと小さな音の違いに耳を傾けなくては!と自戒の1時間でした。

終わってからから、仙台牛タン麦とろのお店で小鉢ランチ頂きました。
小鉢3鉢は選べます。

これで1200円。
美味しくて、コスパ最高でした~!

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領 ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

6つのレントラー舞曲 (ドイツ語:6 Ländlerische Tänze KV 606 英語:Six dances in the Ländler style : K.V. 606[1])は、1791年2月28日にウィーンでモーツァルトによって作曲されました。

レントラー(独:Ländler)は、3/4拍子の南ドイツの民族舞踊です。
18世紀末頃まで、現在のドイツ、オーストリア、スイスにあたるドイツ圏南部一帯で踊られていました。

13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェッラー(Weller)から発展した民族舞踊です。

2人一組で、飛んだりはねたりもする踊りです。

レントラーの伴奏音楽は、純粋な器楽のこともあれば、ヨーデルのような歌が混ざることもあります。

1897年レントラー
19世紀ヨーロッパで舞踏会が一般的になると、レントラーはより速いテンポになり、より優雅さが追求されるようになり、男性はHobnail(底に釘が打ち付けてある長靴)を身につけるようになりました。

ダンスホールが一般的になると靴を脱ぎ捨てより優雅に踊られるようになりました。
これはワルツの前身だと考えられていますが、系列的にはワルツ、及びウィンナ・ワルツの親戚になります。

クラシック音楽では、ベートーヴェン、シューモーツァルトベルトもレントラーを作曲。
しています
また、ブルックナー、マーラーは自身の交響曲の舞曲楽章で通常のスケルツォの代わりにレントラーを採用しました。

ベルクがヴァイオリン協奏曲で引用したケルンテンの民謡もレントラーで、オペラ『ヴォツェック』の第2幕でもレントラーが演奏されています。

モーツァルトの、他にもハイドンのドイツ舞曲もレントラーを書いています。ブリテンの『ピーター・グライムズ』でも、舞踏会のシーンでレントラーが演奏されています。


シュトゥルム・ウント・ドラング疾風怒濤の時代

2025-02-25 20:57:00 | 古典
三連休最後の日は、西宮今津公民館で西宮ギター練習会でした。

阪神電車に乗って今津駅へお昼ご飯をライフで買って、12:30開場に合わせて行きました。

着いたらギターの渡邉信行さんが、もう準備OK。
ギターを弾きながら待っていてくれていました。

レニャーニのグランドデュオの第1楽章と第3楽章を演奏しますが、これとっても楽しい曲ですが、ギターが超絶技巧。
必死で練習してくれていました。
もちろん、フルートを出して私もすぐ合流。

結局、時間ギリギリまで合わせに使いました。
練習会も無事終わり、阪神電車で大阪まで出て、大阪シティバス

で土佐堀一丁目で降りてすぐの渡辺橋のサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

練習もようやく終わり夜9:30京阪特急の中でブログ書いています。
怒涛の三連休…金曜だから4連チャン。
無事終わってよかったです。

シュトゥルム・ウント・ドラング(独: Sturm und Drang)疾風怒濤は、18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動のことを指します。

晴れ渡る:シチリア島の海岸、アンドレアス・アッヘンバッハ、1847年
この名称は、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー(1752-1831年)

が1776年に書いた戯曲Sturm und Drang

に由来しています。

時期は、1767年から1785年までとする説、1769年から1786年、もしくは1765年から1795年とする説もあります。

典型的なシュトゥルム・ウント・ドラング劇、詩、小説の主人公は、高潔な手段の追求や真の動機ではなく、復讐と貪欲によって行動(多くの場合暴力的な行動)に駆り立てられていきます。

古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、「理性に対する感情の優越」を主張し、後のロマン主義へとつながっていきました。

音楽作品への影響は限られており、音楽をこの傾向に従うものとして分類しようとする多くの試みは根拠が薄いそうです。

ドイツ/オーストリア音楽の中心地であるウィーンは、国際的な文化を持つ国際都市であったため、この時期のハイドンやモーツァルトによるメロディー的に革新的で表現力豊かな短調の作品は、ヨーロッパ全土で起こっていた音楽的発展の広い文脈の中で捉えられます。

シュトゥルム・ウント・ドラング運動との最も明確な音楽的つながりは、オペラや、ハイドンの告別交響曲などの標題音楽の初期の先駆者に見ることができます。

ベートーヴェン、ウェーバー、そしてシューベルトにも、シュトゥルム・ウント・ドラングの要素があります。

音楽のシュトゥルム・ウント・ドラング時代は、1760年代後半から1770年代前半にかけてのオーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの作品によく見られます。
シュトゥルム・ウント・ドラングに関連する古典派音楽( 1750~1800 年)は、主に短調で書かれ、難しい感情や憂鬱な感情を伝えています。

主要テーマは角張ったものになりがちで、大きな飛躍と予測不可能な旋律の輪郭を伴います。

テンポとダイナミクスは、感情の激しい変化を反映するために、急激かつ予測不可能に変化します。

脈打つようなリズムとシンコペーションは一般的で、ソプラノやアルトの音域での疾走するラインも同様です。
弦楽器用の楽曲には、トレモロや突然の劇的な強弱の変化やアクセントが特徴的です。

ハイドンは、シュトゥルム・ウント・ドラングの反合理的な理想を意識的に肯定していたわけではないかもしれませんが、この時期の彼の器楽作品には、当時の音楽劇の流行が影響していたことは確かです。

他にはモーツァルトの交響曲第25番(「小」ト短調交響曲、1773年)は、この作曲家による2曲しかない短調交響曲のうちの1曲です。

この交響曲は、非定型の調性に加えて、リズミカルなシンコペーションと、シュトゥルム・ウント・ドラングに関連するぎこちないテーマが特徴です。

さらに興味深いのは、この曲における管楽器の解放であり、バイオリンがオーボエとフルートの色鮮やかな音がヴァイオリンを圧倒します。

しかし、これはおそらく、ウィーンでモーツァルトの知人でもあったチェコの作曲家ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(モーツァルトの同時代人で知人)による多数の短調作品の影響であり、ドイツの文学運動への自覚的な追随によるものではなく、交響曲第25番のハーモニーとメロディーの実験の原因です。

ヨーゼフ ハイトン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローナウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

交響曲第26番 ニ短調 Hob. I:26 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1768年頃に作曲した交響曲。
『ラメンタチオーネ』(伊: Lamentatione哀歌)の愛称で知られています。

この作品の自筆原稿は残っておらず、正確な作曲年代は不明です。
ハイドンのいわゆる「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」にあたり、この時期には短調の交響曲がいくつか作曲されましたが、これもその一つです。

ハイドンの初期の交響曲には3楽章形式のものが少なくありませんが、1765年以降ではこの曲と第30番『ハレルヤ』の2曲だけです。
この2つの交響曲はどちらも典礼音楽を引用した宗教的交響曲で、通常のようにエステルハージ邸で演奏されたわけではなく、教会で演奏するために作曲されたと考えられています。

現存最古の筆写譜にはすでに「受難と哀歌」(assio et Lamentatio)と記されています。第1楽章には当時のオーストリアの受難劇でよく使われていた音楽を引用しています。
第2楽章にはエレミヤの哀歌の音楽が引用されています。

ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂天井画のエレミア 預言者て「エルサレム滅亡を預言し嘆いています。
シンコペーションのリズムによる感情の表出という手段は、モーツァルトの交響曲第25番と共通しています。

第2主題として第1オーボエと第2ヴァイオリンにグレゴリオ聖歌の受難コラールが現れます。

ニ長調になるのは第2主題が引用であるために短調にしたくなかったようですが、当時の短調の交響曲の第1楽章では再現部が短調になるのが通常であり、長調で終わるのは当時のハイドンの交響曲では他に例がありません(後の交響曲第80番以降は長調で終わります)。

いきなり立ち止まったり、突然な曲想の変化や転調などドラマチックな構成故に、展開部以降の形式的な反復記号を欠いています。



実はアイルランドと関係あり

2025-02-06 21:10:00 | 古典
寒い中、サンルームのいちごは咲き続けています。
実はならないけど…やっぱり養分足りないのかな?
後、サボテンさんも元気です。
びよ〜んと伸びています。

こちらは波平さん?

一本だけひょろひょろと伸びてきました。

自宅療養、退屈だなぁ。と、ダラダラ練習していたら、目が覚めるようなことがありました。

これに出ます。えっ!後17日。
しかも、フルートが足りないと言う異常事態。
2ndとPiccoloを両方吹くという荒業。
どちらも吹いたこと無い😭1stはあるんだけど。

断ろうかな?
と思ったけれど、困るだろうなあ?と声掛けていただいたホルンK氏の顔が頭に浮かび…。

四楽章だけだし…。と言っても20分以上。げ〜!
やばい!練習しなくちゃ。
というわけで絶賛練習中。
本当にやばい!
病院の先生に怒られそうです。
でも、音楽があってうれしい💖

ベートーヴェンの交響曲第9については散々やったので、第7番。
この第4楽章はさあ!さっさと行かなくちゃ!って感じがするので、頑張れそうです。

交響曲第7番
ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1811年から12年にかけて作曲されました。

ベートーヴェンは1802年『ハイリゲンシュタットの遺書』を書き、精神的な危機を乗り越えると次々と名曲を生み出しています。

交響曲第7番イ長調作品92

は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1811年から1812年にかけて、ボヘミアの温泉街テプリッツ

テプリッツ 洗礼者聖ヨハネ教会のある城の広場

で健康を回復するために作曲した4楽章からなる交響曲です。この作品はモーリッツ・フォン・フリース伯爵(1777-1826年)
フランソワ・ジェラール作「伯爵とその家族」
に献呈されています。

1813年12月8日にウィーン大学で初演されたとき、ベートーヴェンはこの作品が彼の最高傑作の一つだと言っています。

第2楽章「アレグレット」は非常に人気があり、聴衆はアンコールを求めました。

ベートーヴェンが交響曲第7番の作曲を始めた頃、ナポレオンはロシアに対する軍事作戦を計画していました。

交響曲第3番(おそらく交響曲第5番も同様)に続き、交響曲第7番は、長年続いたナポレオンの支配からの解放を求めるヨーロッパ戦争

を背景に、ベートーヴェンとナポレオンが音楽的に対峙した作品の一つであると思われます。

この時期のベートーヴェンの人生は、聴力の低下が徐々に悪化したことで特徴づけられています。(1819年以降は「会話ノート」が必要となりました。)

この作品は、1813年12月8日にウィーンで行われたハーナウの戦い(1813年10月30日31日フランス対オーストリア)
ハーナウの戦い、オラース・ヴェルネ作、1824年
で負傷した兵士のための慈善コンサートでベートーヴェン自身の指揮により初演されました。

プログラムには、ナポレオンのフランスに対するイギリスの勝利を讃える愛国的な作品「ウェリントンの勝利」も含まれていました。

7番は大変好評で、聴衆はアレグレット2楽章のアンコールを即座に要求しました。

シュポーアは特に、ベートーヴェンの指揮台上での熱狂的な身振り(「スフォルツァンドが始まると、彼は激しい勢いで両腕を引き裂き、フォルテの入り口で空中に飛び上がった」)や「ベートーヴェンの友人たちがコンサートの再演を手配した」ことに言及し、それによって「ベートーヴェンは金銭的困難から解放された」と記しています。

第7番の第4楽章は彼自身が編纂した「12のアイルランドの歌」の第8番目の「私を墓から救ってください」Save me from the grave and wiseをモチーフに展開しています。

ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1712-1773年)

はスペイン領ネーデルランド メヘレン生まれのパン屋の息子です。
1733年にケルン選帝侯領のボンでクレメンス アウグストの宮廷のバス歌手として雇われました。
そのボンで息子ヨハンを育て、孫のルートヴィヒをもうけました。

彼の故郷メヘレンは、アイルランドの伝道師聖ロンバウツ(Rombout;Rumold)の埋葬の地そして修道院領の中心地でした。

そして孫のルートヴィヒは、このアイルランドの民謡から様々な影響を受けています。

「12のアイルランドの歌」より第8番「私を墓から救ってください。」

交響曲第7番 第4楽章



天才も人生はままならない

2025-01-25 21:00:00 | 古典
24日午後、ハープの弦が着きました。

切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
まとめると送料無料になるので…少しでも安く買いたい…セコい!

22日の夜営業が終わってからメールで注文して、23日の10:00に確認のメール返信。
24日午後には宅急便で着いたので早いです。
感謝です。

すぐに装着。

グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
こちらの方が少し小型なので、短くなった弦を使えます。
ただし、都合よく同じ弦が切れるわけではないので、あまり使わないレバーハープは3本の弦が切れたまま放置されています。
いつでも使えるようにしておきたいですが…私には贅沢なようです😭💦


ヴォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

はパリでは、稼ぎがよくなく自宅に人々を招いてコンサートを開きますが、称賛は得ますがお金を出してはくれません。

ウィーンに行きコンスタンツェ
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。

コンサートは盛況ですが、あまり稼げないので
ハイドンが彼の才能を認め、ウィーンに留めるためにプラハのオペラの仕事に彼を推薦したりしていますがうまくいきません。
ウィーンでオペラフィガロの結婚を上演しますが、うまくいきません。翌年プラハで上演すると人気が出て一息つきます。

モーツァルトは品行が悪く、浪費癖があり、なかなか高給の仕事には恵まれず、収入は激減。

ピアニストとしてコンサートを開いて収入を得ていましたが、思うようにお客は増えませんでした。
シカネーダーの劇場でオペラを書いて稼ぎました。

魔笛1791年チラシ

モーツァルトは亡くなる3年前にこのような手紙を書いていました。

「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころ、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。

目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。

こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。

僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。

長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。

有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」

天才と人々は言いますが、モーツァルトにすれば、それは長い長い毎日の練習と努力の積み重ねによるもので、人より早く初めただけのことと言いたかったのかもしれません。

そして天才と言われても生きていくために稼ぐのは大変だったのだろうと思います。

ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595

は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
作品目録によれば、1月5日に完成したと記されています。

前作の第26番『戴冠式』(K. 537)から3年間のブランクがあります。

この頃には既にモーツァルトの人気は低迷していて、会員が集まらないために3年以上も予約演奏会を開くことが出来ない状態で、ピアノ協奏曲を作曲するチャンスには恵まれなかったためです。

1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅行中に、ウィーンへ戻った際には再び予約演奏会を開くするつもりで、この演奏会のプログラムを飾るためにこの協奏曲を作曲しました。

しかし、実際に演奏されたのは、1791年3月4日に宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸において催された演奏会においてであり、友人であるクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアから出演依頼を受けたモーツァルトは、1788年に第1楽章を手がけていた本作を完成させて演奏を行いました。

この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会です。

なお、この演奏会ではモーツァルトのかつての恋人で義姉のアロイジア・ランゲ

がモーツァルトのアリアを歌いました。











一休さんとフィガロの結婚

2024-12-14 21:27:00 | 古典
今日は久しぶりに母のおつかいデイ。
朝9:30から、まず市役所に行って欠けた印鑑を廃止して新しい印鑑証明を取り、戸籍謄本をとって…。

一休寺がある京田辺市はあちこちに一休さんがいます。
それから京田辺市警察で

障害者駐車証明の更新。
それからいつものお漬物屋さん。

市久さん。『ここのは美味しいのよ。』と生徒さんやお世話になった方に配ります。
それから

銀行によって、お金を出し

小倉山荘で最近亡くなった母の友人にお供えするおかきを買いました。

小倉山荘はお正月仕様

小倉山荘のお隣Chat noirの猫さんがあたふたする私たちを見送ってくれました。

最後は近所スーパーでお買物。

遅昼を頂いて帰ったら5:00すぎていました。

市久さんのしば漬け…私も買ってしまいました。夜ご飯に

一休宗純(1394-1481年)伝 地蔵院(京都市西京区)近く生まれ、一休寺酬恩庵(京田辺市)没

紙本淡彩一休和尚像(重文)
母親の出自は不詳ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇
後小松天皇1377-1433年
の官女で、父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があります。

三島の一休の母と伝えられる墓
一休は地蔵院の近くで生まれた後、6歳で出家するまで母(伊予局という)とともに地蔵院で過ごしたと伝えられています。

幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号しました。
戒名は宗純で、宗順とも書きます。
一休は道号。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられます。

早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となりました。

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改めます。

ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしています。

謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしましたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったといれています。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となります。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、

「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから華叟より一休の道号を授かります。
「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。

華叟は印可状を与えようとしますが、権威を否定する一休は辞退しました。

その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出しました。

以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。

文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会います。

文明6年(1474年)、後土御門天皇

の勅命により大徳寺の住持を任せられました。

寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵


は一休を開祖として創建されました。

また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵

を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われました。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。
満87歳没(享年88)。

臨終の際の言葉は「死にとうない」でした。
墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれますが、宮内庁が管理している陵墓のため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできません。廟所の建物は外部からでも見え。参拝は門の前で行います。

以下のような逸話が伝わっています。

印可の証明書や由来ある文書を火中に投じました。

男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいました。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわりました。

これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものでした。

親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしました。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしました。

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩きました。

こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れだと言われています。

同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。

戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼び、江戸時代には、彼をモデルとした
『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となりました。

一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重されました。

著書(偽書を含む)に、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『一休骸骨』などがあります。

東山文化を代表する人物。
また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られています。

とんちとまでは言いませんが、身分の高いバルトロ伯爵の無理難題をスザンナや伯爵夫人と一緒にあの手この手で切り抜け、全員を幸せに導いていく「フィガロの結婚」のフィガロとスザンナ。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
が、フランスの作家ボーマルシェ(1732-1799年)

が1778年に書いた戯曲を1786年オペラにしました。

オペラ台本
戯曲は封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判し、たびたび上演禁止に遭いました。

特にルイ16世は

1754-1792年
「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」

と激昂しました。
が、この戯曲に魅せられた人々からの強い要請を無視できず、ついには公演許可を出しました。

オペラはウィーンのブルク劇場

で1786年5月1日、モーツァルトが30歳の時に初演されました。

ある程度の好評を得ましたが、原作の貴族批判はおおむね薄められているとはいえ危険視する向きもあり、早々にビセンテ・マルティーン・イ・ソレル作曲によるオペラ『椿事』(Una cosa rara)に差しかえられてしまいました。

こうしてウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、当時オーストリア領だったボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの歌劇場で大ヒットしました。

フィガロの結婚序曲冒頭部

バルトロ伯爵

は自分の領土の娘は結婚前に先に領主が初夜をしても良いという初夜権を復活して、フィガロの婚約者スザンナを狙っています。

フィガロ

スザンナ

困り果てたフィガロは良い案を思いつきます。

村の娘たちをすべて集めて初夜権を一度は廃止したお礼を言いに行かせます。
伯爵は仕方なく今後も廃止することを約束します。

一方マルチェリーナはフィガロの借金を盾に結婚を迫ります。
フィガロに一泡吹かせたい伯爵は彼女と組みます。

まだスザンナを狙っている伯爵に伯爵夫人

伯爵夫人
と組んで、小姓のケルビーノ
ケルビーノに扮したサラ・ベルナール
に女装させ伯爵を誘惑し、動かぬ証拠を掴もうとします。

しかし、そこへ伯爵が登場。
ケルビーノを慌てて隠しますが怪しまれます。

第1幕:伯爵の登場でスザンナの椅子の背後に隠れるケルビーノ(19世紀、作者不詳の水彩画)

すんでのところでスザンナが入れ替わり、ケルビーノは窓から飛び降ります。
それを伯爵の従者に見られますがフィガロがそれは自分だ。スザンナに会いに行ったのだと言いくるめます。

さてマルチェリーナは借金の証文に書かれたフィガロの結婚の約束を裁判にかけ、フィガロは敗訴します。
しかし、そこでフィガロが捨て子であったことを話すと、フィガロがバルトロとマルチェリーナの子どもであることがわかります。

結婚の約束は無効になりマルチェリーナとフィガロは抱き合います。
そこへスザンナがやってきて浮気をされたと誤解しますが、みんなの説明で2人が親子であることがわかり一安心。

さてスザンナと伯爵夫人は一計を編んでいます。
2人は衣装を取替え、伯爵に手紙を書き、暗闇で伯爵夫人はスザンナのフリをして口説かれ、動かぬ証拠をつかみ伯爵を懲らしめてやろうというのです。

フィガロはスザンナが浮気をしているという噂を聞き、嘆きながらも懲らしめようとしていると、伯爵夫人に扮したスザンナに会います。
復讐に伯爵夫人を口説こうと思いますがすぐに声でスザンナだと気づきます。
しかし、知らないフリをして口説き、スザンナを怒らせます。
気づいていることを知らせ、すぐに仲直りします。

一方伯爵は、知らずに伯爵夫人扮するスザンナを口説きます。

伯爵夫人は正体を知らせ、バルトロは謝ります。
伯爵夫人は赦し、フィガロとスザンナは無事結婚することができ、幕となります。

フィナーレ






アンゲラー神父の交響曲

2024-12-09 21:02:00 | 古典
日曜日の御前は京田辺でレッスン。
その後、ピアノのSさんに子どもたちが使う楽器を借りました。
ファミリーポートから借りられたのはタンバリン、トライアングル各1個と鈴が20個。

鈴はOさんがクリスマス用の鈴を作ってくれるので他の楽器を渡したくなりました。
坂田さんに聞いたら、「あるよ〜。」ということでお借りすることにしました。

以前一緒に小学生向けワークショップをしていた時に揃えてくれました。

これでひと安心。
バチとセットのものは返してもらうように気をつけなくちゃ。

午後からはギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」の練習。

ワンニャンの紅茶を買ってきてくれました。
開けてみると、

ティーパックに分かれています。
猫さんたちをお風呂に入れると美味しい紅茶が飲めます。

夫がベトナムで買ってきたお菓子を出しました。
大豆とココナッツミルクとお砂糖を固めたもの。
「懐かしい味!はったい粉みたい。」
はったい粉…わかるかなぁ?

最後に録画してくれました。私のアンドロイドが容量不足でどうしようもなかったので…。
送ってもらおうとしたら13分は送れない。
川原さんをYouTubeデビューさせてしまいました。非公開ですが。
これに1時間。
とっぷり暮れてしまいました。

エドムント・アンゲラーEdmund Angerer(1740 - 1794年)は、有名な『おもちゃの交響曲』を作曲した音楽家として知られています。

オーストリアの神父です。

エトムント・アンゲラーは1740年、オーストリア大公国のチロル地方のザンクト・ヨハン(St. Johann)生まれ、フィーヒト没。

父は小学校の教師で地元の合唱団の指導者でもあったシュテファン・アンゲラー。

父から音楽の手ほどきを受け、さらにインスブルック郊外の町ハルの児童合唱団に入ります。

1758年、ベネディクト会修道士としてインスブルックから東に30キロほどの町フィーヒト(Fiecht)のフィーヒト修道院

に入り、当地で合唱指導者、オルガン奏者、音楽教師として働きました。

エトムント・アンゲラー神父はここで数多くの教会作品やオペレッタ、音楽劇を作曲し、尊敬と名声を得て1794年に同院内で死去しました。

「おもちゃの交響曲」は永らく作曲者がわからず、推測される作曲者としてフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ミヒャエル・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、レオポルト・モーツァルトなどの説が唱えられていました。

エトムント・アンゲラーの名前が世界的に注目されたのは、死後2世紀を経た1992年でした。

チロル地方シュタムス修道院(Stift Stams)

の音楽蔵書の中から、1785年ごろ当院の神父シュテファン・パルセッリ(Stefan Paluselli, 1748年 - 1805年)が写譜した『おもちゃの交響曲』のスコアが発見されました。

そこには同じくチロル出身で、それまで忘れ去られた音楽家エトムント・アンゲラーが1770年ころに作曲したと記されていました。

またタイトルとして "Berchtolds-Gaden Musick"(「ベルヒテスガーデンの玩具店製のおもちゃを使った音楽」といった意味の造語)が付けられていました。

ベルヒテスガーデンはドイツチロル地方の街でおもちゃ作りで有名でした。

パルセッリの写本ではバイエルン州の著名な保養地ベルヒテスガーデンの玩具店製の以下のおもちゃが指定されています。
カッコウ(Kuckuck)、
ウズラ(Wachtel)、
ラッパ(Trompete)、
太鼓(Trommel)、
ガラガラ(Ratsche)、
雌鳥の笛(Orgelhenne)、
トライアングル(Cymbelstern)。
実際の演奏では、雌鳥の笛→ナイチンゲール(水笛)のように適時変更されます。

おもちゃ以外の弦楽器の編成として
ヴァイオリン、ヴィオラ、バス(Violino, e Viola, con Basso)と記されていました。

「おもちゃの交響曲」レオポルド モーツァルト作曲と書かれています。
この動画だけでなくハイドンとなっているものもまだまだ多いです。



ベートーヴェンと同窓

2024-12-01 21:00:00 | 古典
道頓堀ホテルで松江農業工業高校の107回同窓会によんでいただきました。
幹事のFさんとは次男のPTA仲間でした。
107回目とあって、仲の良さが伝わってくる会場のみなさんでした。

ギターの川原久美子さんと地下鉄難波駅で待合せて行きましたが、すごい人出でした。
待っていると人酔いしそう。

イベールの「間奏曲」モーツァルトの「フルートソナタop14-2」ヴィヴァルディの四季より「冬」ピアソラの「リベルタンゴ」を演奏しました。
ホテルでと言うと呑んだり食べたりの最中が多いですが、食事なしの総会、ご挨拶などが終わってお腹すいた頃に演奏。

温かい拍手で迎えていただいて、とても集中して聴いてくださいました。

終演後も温かい笑顔で「よかったよ」とか口々に声をかけてくださって
Fさん、「自慢の先輩たちなんだ!」ってわかります。
半端じゃない包容力でした。
元気をいただいてしまいました。

川原さんと遅昼をいただいて解散。

私はその後東大阪文化芸術劇場での母校樟蔭女子大学マンドリンクラブのコンサートを聴きに行きました。

ロビーで同期のAさんに出会って、一緒に聴きました。
今日はホームカミングデイな日でした。

アントニーン・レイハ(Antonín Rejcha 1770 - 1836年)チェコスロヴァキア プラハ生まれ、フランス共和国パリ没

作曲家、音楽理論家。フランス及びドイツでの活動が長かったことから、フランス名アントワーヌ・ライシャ(またはレイシャ、レシャ、Antoine Reicha)、ドイツ名アントン・ライヒャ(Anton Reicha)とも呼ばれています。

24曲の木管五重奏曲をはじめとする管楽器のための作品を多数残し、この分野での開拓者となりました。

音楽教育面ではパリ音楽院の作曲科教授として、
フランツ・リスト

エクトル・ベルリオーズ


シャルル・グノー


セザール・フランク

らを育てました。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとは同年生まれで、友人です。

理論家としては、19世紀を超えて20世紀に通じる書法を予言していましたが、評価されたのは21世紀に入ってからです。

10歳のときに孤児となり、ドイツでチェロ奏者で作曲家でもあった叔父ヨーゼフ・ライヒャに引き取られ、ニュルンベルク近郊に移ります。

1785年、レイハはケルン選帝侯マクシミリアンの宮廷楽団のフルート奏者としてボンに移ります。

同じ楽団でヴィオラ奏者だったベートーヴェン

と知り合ったのは、このときです。

同年、叔父ヨーゼフが指揮するケルン歌劇場管弦楽団に加わります。

このころにはドイツ語だけでなくフランス語も習得していました。

1789年、ベートーヴェンとともにボン大学に入学。 
しかし、フランス革命軍によってボンが占領され、
宮廷楽団は解体されたためにハンブルクに移り、ピアノ及び作曲の教師となります。    
           
1801年、ウイーンに移り、ベートーヴェンと再会。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

に師事、マンハイム楽派やグルック、モーツァルトなどの影響を受けます。

1808年、38歳の時にパリに移ります。

1817年、パリ音楽院
1795年当時の初代校舎、パリ9区
の作曲科の教授になります。
1829年、フランスに帰化。
1835年、学士院の会員に選ばれます。

1836年、パリで没。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

木管五重奏op88no.2 変ホ長調