音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

バタバタびっくり交響曲

2024-11-22 20:51:00 | 古典
木曜日、金重さんに誘われて坂田さんと京橋でランチしました。

金重さん、先月腕を骨折してヴィオラを演奏できない。1月までギブスをしたまま。
1ヶ月自粛していたけれど、我慢できなくなって「ランチしましょう。」と連絡がありました。

金重さんおすすめのお店。
2100円でステーキランチが食べられました。
キャロットスープ

ステーキ、紫芋、じゃがいものフライ、三度豆、雑穀米のライスがついていました。

どれもいいお味。

デザートも甘さ控えめで美味しかったです。

金重さん、これからの計画をいろいろ練っているようです。
久しぶりにしゃべって
この後、塚口へ移動してハーブのレッスン。

今日はトラ猫さんがいました。



「レッドリバー」とハイドンの「交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94」の2楽章ハーブ独奏版。

「ゆっくり、ゆっくり演奏するように。」と野田先生、にっこり。
何度言われても慌ててしまいます。

それでもおまけで3ヶ月やっていた曲をようやく卒業しました。
ふぅっ〜!

夜は本町に移って

今川さんの発表会で演奏するフルートアンサンブルの練習です。
ハイドンの「ロンドントリオ」をチェロの方も入って今川さんと久米のトリオで、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「ラデツキー行進曲」をフルートカルテットで演奏します。

11月24日(日)12:00開演 岸和田市立自泉会館でやります。

バタバタしていましたが、なかなか充実の1日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)
神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1791年作曲した交響曲です。

イギリス訪問時のロンドンで作曲された『ロンドン交響曲』のうちの1曲で、『驚愕』(または『びっくり』、英: The Surprise, 独: Mit dem Paukenschlag)の愛称で知られています。

ハイドンが長年楽長として仕えてきたエステルハージ侯の死去に伴って、同侯家を去ることになってから2度にわたって経験したロンドン旅行の1回目の滞在期間中の1791年に作曲されています。

「2度にわたるロンドン滞在」で書き上げた『ロンドン交響曲』(ザロモン・セット1791-1795年全12曲)のうちの1曲で、ハイドンが遺した全作品の中でも最も有名な作品の一つに数えられています。

ロンドン滞在1回目の期間中にあたる1792年3月23日に初演されています。

ハンガリー系貴族のニコラウス・エステルハージ侯爵(1670-1795年)

に長らく仕え、同候家お抱えの楽団の楽長として食卓向けの音楽を作るなど創作活動を行ってきたハイドンでしたが、1790年にニコラウス・エステルハージ侯爵が死去することで転機を迎えることとなります。

その後を継いだアントン・エステルハージ侯爵は父親の音楽愛好を受け継がずにお抱えの楽団を解散してしまい、この結果として肩書きだけの楽長と化したハイドンは同侯家を去り、自由な立場の音楽家としてウィーンに赴きました。

そのウィーンでは、ハイドンの噂を聞きつけて赴いてきたボン出身のヴァイオリニストで興行主としても知られるヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815年)ボン生まれ、ロンドン没

と出会います。

ハイドンはそこでザーロモンから、ロンドンに渡ってザーロモン自身が主催する演奏会のため作曲して欲しい、との依頼を受けます。

破格の待遇内容も併せて提示されたハイドンはザーロモンからの依頼を引き受け、1791年から92年にかけて、および1794年から1795年にかけての2度にわたってロンドンに渡航・滞在し、のちに「ロンドン交響曲」(ザロモン・セット)と総称されることになる計12曲の交響曲を書き上げます。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つです。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つとして、ロンドン旅行1回目の滞在期間初年にあたる1791年に作曲され、翌1792年3月にロンドンで初演されています。

この曲に付けられた『驚愕』という愛称は、第2楽章冒頭の主題が最弱音で2度繰り返し演奏された後の16小節目においてティンパニを伴ったトゥッティで不意打ちを食わせるように強く演奏するところから名付けられたもので、作曲者自身が命名したのではなく、初演から間もなくして初演地のロンドンで発行された新聞紙上に掲載された演奏評に由来します。

こうした作曲の仕方を採った背景として、ハイドン自身が1度目のロンドン滞在中に目の当たりにした聴衆のマナーの悪さがあったとされています。

当時、聴衆の中に居眠りをする者が少なからず存在していました。

ハイドンは、持ち前のユーモアさなどを活かし、この作曲を通じて聴衆をたたき起こそうと行動を起こしたのです。 
そして実際の演奏の場で、第2楽章の強奏箇所のところでハイドンはティンパニ奏者に対し力一杯叩くよう指示、狙い通りに聴衆がビックリして飛び上がりました。

愛称の『驚愕』は、英語表記では「The Surprise」と表されます。

一方、ドイツ語表記では「Mit dem Paukenschlag」と表されます。
直訳すると「ティンパニの打奏を伴った」という意味になります。




ベートーヴェンフリーク

2024-10-30 21:00:00 | 古典
先週の日曜日、10月20日のことを書きます。
特別な体験でした。
ベートーヴェンの第九交響曲初演200年記念コンサート。

献堂式
ミサ・ソレムニス
交響曲第九番

という200年前1824年、初演時と同じプログラムの再演。

フェニーチェ堺でプロージット室内管弦楽団に出演しました。
朝9:30集合舞台設営。
合唱団約50名、オーケストラ約50名。ソリストも含め、総勢100名余りの椅子を並べるだけで大騒ぎです。

ひな壇を組んでくださっていたのでその上に階段状に合唱団が並びます。

その前に管楽器群、その前に弦楽器を並べたら、緞帳の位置から最前列のヴァイオリンがはみ出ます。

もう少し後ろと言われましてもオルガンも入るので、ギリギリ。
結局、緞帳は降ろさないで、はみ出たままで行くことになりました。

フェニーチェ堺、響きが良いです。

私は「第九」も「献堂式」も初舞台。なのに何故か?1stばかり。

「ミサ・ソレムニス」は降り番だからいいけれど、めちゃくちゃプレッシャー。

「献堂式」はほぼ吹き詰め、「第九」もソロでオケと対峙する形が多くて気が抜けません。

リハーサルの後も楽屋で管楽器群のみんなに助けてもらって合わせ練習しました。

こんなに助けてもらったのは初めてです。

それから木許裕介先生の温かい言葉。
「不安になったら、僕を見てください。なんとかします。
失敗したら、僕の責任。成功したらみんなの手柄です。」

素晴らしい指揮者、素晴らしいメンバーと演奏できて本当に幸せでした。
いろいろ自分の演奏については課題がありますが…。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1826年『大フーガ』(Große Fuge)変ロ長調 作品133は晩年の弦楽四重奏曲です。

演奏者に対する極度の技術的な要求、内省的な性格で有名です。

ベートーヴェンが完全に聴覚を失った1825年から1826年にかけて作曲されました。
当時の補聴器これをピアノに当てて骨伝導により音を聴いていました。
元来この巨大なフーガは、弦楽四重奏曲第13番の終楽章として作曲されました。

第13番が初演された後、2つの楽章がアンコールに応じて演奏されましたが、終楽章のフーガは取り上げられなませんでした。

ベートーヴェンは納得できず
「どうしてフーガじゃないんだ?」と噛み付き、聞くに堪えない悪口を並べたと言われています。

しかし、このフーガが当時の演奏家にとってはあまりに要求が高く、聴衆にも理解できず不人気だったため、ベートーヴェンはアルタリア出版にせがまれて第13番には新たな終楽章を作曲し、このフーガを独立させ、1827年に出版されました。

ベートーヴェンは強情な人柄、また聴衆の意見や趣味に無関心なことで有名でしたが、このときは出版者の要望に折り合いました。

第13番のフーガと差し替えるために書き下ろされた終楽章は、フーガよりも軽いものとなっています。

19世紀から長い間、『大フーガ』への理解は進まず、失敗作と見なす向きもありました。

ルイ・シュポーアは、ベートーヴェンの他の後期作品と併せて「わけのわからない、取り返しのつかない恐怖」と怯え、ダニエル・グレゴリー・メイソンは「人好きのしない」曲であるとしました。

19世紀末になっても、作曲家フーゴー・ヴォルフは、この曲を含むベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲を「中国語のように不可解である」と評しています。

しかし20世紀初頭ごろからようやく理解され始め、現在ではベートーヴェンの偉大な業績の一つとみなされています。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは、

「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」と述べています。

今日では普通に演奏・録音されるようになり、録音では第13番の後に『大フーガ』が録音されていることが多いです。

2005年10月13日に報じられたところによると、7月にペンシルベニア州ウィンウッドのパーマー神学校
の図書館で、1826年に作成された『大フーガ』の4手ピアノ版(作品134として既存)の自筆譜が発見されました。

それまで115年間にわたって失われたとされた手稿です。

これは2005年12月1日にサザビーズで競売にかけられ、112万ポンド(米ドルにして195万ドル)の価格で落札されました。

1890年に競売目録に載せられ、ベルリンで競り出されて、オハイオ州シンシナティの資産家の手に渡りました。

落札者の娘は、1952年に本作品とモーツァルトの『幻想曲』などの自筆譜を、フィラデルフィアの教会に寄贈しました。

それから発見場所の図書館にどのように伝承されたのかは、わかっていません。



そうしなければならないのか?最後の弦楽四重奏

2024-10-14 21:01:00 | 古典
日曜は鶴見区民ホールでプロージット室内管弦楽団の練習でした。

2度目の地下鉄鶴見緑地線横堤。

いよいよ本振りの木許裕介先生の登壇です。

献堂式、ミサ・ソレムニスを見ていただき、第九。
第1楽章の最後の513小節目から木許先生「ここから地獄の門が開くのです。この低音が苦難の音階です。ベートーヴェンは地獄に降りる覚悟はあるか?と言っているような感じがするのです。」
「バタフライエフェクト…小さな羽ばたきがやがて巨大な山を動かす。耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、小さな、小さな羽ばたきを少しずつ繊細に重ねて行き、やがて大きな動きになる。そんなフォルテの境地に到達しました。」
ベートーヴェンの深みにどんどんハマっていきます。

いよいよ来週末本番です。

フリードリヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135は、ベートーヴェンが1826年に作曲した弦楽四重奏曲です。

死の5か月前に完成しました。
ベートーヴェンが完成させた最後の弦楽四重奏曲で、ベートーヴェンのまとまった作品としても生涯最後の作品です。自身のパトロンであり崇拝者でもあったヨハン・ネポムク・ヴォルフマイヤーに捧げられました。

シュパンツィヒ四重奏団は、ベートーヴェンの死から1年後の1828年3月23日にこの作品を初演しました。

最後に完成された弦楽四重奏曲の楽章は、『大フーガ』の代わりに作曲された、第13番の終楽章でした。

『大フーガ』を除いた後期の四重奏曲の中では最も小規模で、ハイドン以来の古典的な4楽章形式に戻っています。

自筆譜においてベートーヴェンは、最後の楽章「難しい決断」の導入部のゆっくりとした和音の下に、

「"Muss es sein?"そうしなければならないのか」と自筆譜に記しています。
それに対して
「"Es muss sein!"そうしなければならないのだ」と応答しています。

この謎めいた文については深遠な哲理を示すものとの見方もあれば、軽いやり取り(友人から借りた金を返さねばならないか否かなど)に過ぎないという説もあります。

印刷版は1827年9月に出版されましたが、ベートーヴェンはその年の3月にすでに亡くなっていました。

1827 年 4 月 12 日の死後数週間後、アントン シンドラー (ベートーヴェンの秘書)

は、弦楽四重奏曲の出版を担当していたベルリンの出版社シュレジンガーに、次のように書き送っています。

「亡き友人ベートーヴェンが、死の数日前に私に、あなたに手紙を書いて次のことを尋ねるように頼んできました。すなわち、あなたが彼から受け取った最後の四重奏曲の作品番号は何番か、そしてベートーヴェンがすでにこの四重奏曲に献辞を贈っていたかどうかを知ることです。作品番号については、彼は 130 か 131 であると考えていました。献辞については、あなたに送ったかどうか覚えていないので、友人のヨハン ヴォルフマイヤーに捧げてほしいと頼んでいました。」

ヨハン ヴォルフマイヤーは裕福なウィーンの織物商、音楽愛好家、ベートーヴェンの (秘密の) パトロン、友人でした。
ヴォルフマイヤーがベートーヴェンの音楽を大いに賞賛していたことは明らかで、1826 年 8 月の会話帳に、ヴァイオリニストのカール・ホルツがベートーヴェンに宛てて「ヴォルフマイヤーは 25 年前にあなたを擁護し、今や人々がそれに気付いていることをとても喜んでいます」と記しています。

ベートーヴェンは弦楽四重奏曲作品 131 をヴォルフマイヤーに献呈することをすでに検討していましたが、最終的には恩義を感じていたシュトゥッターハイム男爵に決めました。

ヴォルフマイヤーは、死後に作品 135 を献呈することでその埋め合わせをしたが、これはおそらくカール・ホルツの発案によるものであろう。シンドラーが書いているように、重病の作曲家が本当にこの献呈を自ら手配したのだろうか? 疑問が残ります。





鳥よ年ごとに

2024-10-12 20:42:00 | 古典
藤の森駅前の疎水。
金曜日は目の検査で藤の森駅近くの病院に行ってきました。

水鳥のようなものが泳いで来るのが見えたので撮ってみました。
目が悪いので何か見えませんでしたが、帰って写真を見たら川鵜でした。

『鳥よ、年ごとに』(とりよ、としごとに、フランス語:Oiseaux, si tous les ans )K.307(248d) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

1777年21歳のモーツァルト
が作曲したフランス語の歌曲です。

1777年9月、モーツァルトはかねてから犬猿の仲となっていたザルツブルク大司教ヒエロニュムス・フォン・コロレド(1732 - 1812年) に辞表を提出し、新天地を求めるために母アンナ

とパリへ旅行に向かいました。
ミュンヘンを経てマンハイムに着いたモーツァルトは、就職はそっちのけで10月末から翌1778年の3月の半ばまで長く滞在しました。

それはマンハイム楽派のすぐれた音楽家たちと知り合ったことと、16歳のソプラノ歌手アロイジア・ウェーバー(1760-1839年)

に恋したためでした。

そのマンハイム滞在中、この「鳥よ年ごとに」と次の歌曲『寂しく暗い森で』の2曲は、特に親しくなったフルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングという人物の娘エリーザベト・アウグステ・ヴェンドリングの依頼で作曲されました。

エリーザベトは後にミュンヘンでオペラ歌手として活躍し、ハイドンなども美しさと歌唱を絶賛したといわれています。

「鳥よ年ごとに」
鳥たちよ、あなたが毎年
私たちの気候を離れるなら、
悲しい冬が
私たちの木立を剥ぐとすぐに。
それは単に 葉を変えたり、
霜を避けるためだけではありません。

でも、あなたの運命が あなたを愛することを許すのは、 花の季節だけです。
そして彼女が亡くなったとき、あなたは 一年中愛するために 、別の場所で彼女を探します。




ベートーヴェンの戦略?!

2024-10-07 20:59:00 | 古典
日曜日、朝レッスンした後、プロージットオーケストラの練習で東成区民ホールへ。
摂南大学ラッピング京阪電車
今回は、合唱団の他に、4人の声楽ソリスト、ゲストコンマスの友永健二さんも入っての練習でした。
ミサ・ソレムニスはすべて合唱が入っていすが、第九は4楽章のみ。

私はミサ・ソレムニスは降り番なので、後半参加。

合唱、ソリストが入るとまた壮大な感じで熱気が高まってきました。
ソリストかっこいい!

代振りの槙野先生「ベートーヴェンは平和を祈って書いています。戦争なんかやめて花を咲かそうや!って知らんけど。ここでは花を咲かせてください。」

第九 四楽章の後は歌の人を帰して、残りの楽章をやりました。

あれこれ課題満載…私も大変💦
いよいよ追い込み!頑張ります。

プロージット室内管弦楽団10月20日フェニーチェ堺


ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲 ハ長調(Konzert für Klavier, Violine, Violoncello und Orchester C-dur )作品56は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン
が1803年から1804年にかけて作曲した楽曲。通常は三重協奏曲と略して呼ばれています。

ヴァイオリンソナタ第9番『クロイツェル』、ピアノソナタ第21番『ワルトシュタイン』、ピアノソナタ第23番『熱情』、交響曲第3番『英雄』などが書かれた時期の作品です。

当時チェロを伴った協奏曲はほとんどなく、ベートーヴェンの師匠であるハイドンが残した第1番、第2番のチェロ協奏曲などが見られるくらいでした。ベートーヴェン自身もチェロ単独で独奏楽器とした協奏曲を残していません。
ベートーヴェンが残した唯一の、チェロを伴った協奏曲です。 

このような特異な協奏曲を作曲した経緯については不明ですが、ピアノのパートが演出面では効果的でありながら技術面では比較的易しく書かれています。

一方で、チェロにとっては重音奏法や急速な分散和音や音階などを要求される難曲です。

ピアノのパートが易しく書かれている理由は、弟子のアントン・シンドラー 
が、ベートーヴェンのパトロンであったルドルフ大公

による演奏を想定してのことでした。
ベートーヴェンの指導の下で熟練したピアニスト兼作曲家となった大公は、当時10代半ばだったため、ベートーヴェンの戦略により成熟した熟練したソリスト2人がバックアップし、派手で比較的簡単なピアノパートを作ったと言うのです。

しかし、シンドラーは多くの捏造で知られており、この主張の信憑性も低いです。  

出版は1807年。
1808年、初演は復活祭前にライプツィヒで行われ、同年5月にはウィーン初演、夏のアウガルテン宮殿での

演奏会で初演されました。

初演のヴァイオリニストはカール・アウグスト・サイドラー、チェロ奏者はニコラウス・クラフト

で、彼は「卓越した技術」と「澄んだ豊かな音色」で知られていました。 

独奏楽器群がピアノ三重奏的な役割を果たしているので、通常の協奏曲のようなカデンツァはありません


モーツァルト10歳のソナタ

2024-09-15 23:47:00 | 古典
土曜の午後はギターの川原さんと秋冬なコンサートの選曲でした。

10月12日(土)13:00光明寺おてライブ、
11月30日(土)道頓堀ホテルでの依頼演奏、
12月15日(日)10:00西宮ギター練習会コンサート 夙川公民館ホール

ギター川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

紅茶を持ってきてくれました。
アフタヌーンティーの紅茶ブック。
 

いろいろな種類の紅茶が入っていました。
今回はアップルティー。
爽やかなりんごの風味が残暑にぴったり。
至福〜〜〜💖

真面目に選曲はしましたよ。
いつもの定番曲だけでなく、新しい曲にもチャレンジ。
モーツァルトのソナタの第二楽章を演奏することにしました。
練習しなくっちゃ!

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1763年6月9日7歳から1766年11月29日11歳までの約3年半、モーツァルト一家は西方への大旅行をしました。

その中でロンドンで作曲されたのが6曲からなる「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ」です。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(1744-1818年)

ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744年5月19日 - 1818年11月17日[1])は、イギリス国王ジョージ3世の王妃。
1781年、トマス・ゲインズバラ画
に献呈するためでした

1765年1月に「作品3」として出版されました。

これら6曲は(変ロ長調 K.10、ト長調 K.11、イ長調 K.12、ヘ長調 K.13、ハ長調 K.14、変ロ長調 K.15 )で「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

モーツァルトはバッキンガム宮殿を

1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820年)

に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(当時29歳)が王妃シャーロットの音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach, 1735年9月5日 - 1782年1月1日)
そのうちのK.15は
3楽章ともハ長調で、アレグロを2つ続けたあとにメヌエットという構成に工夫がされています。

この曲には舞曲のような雰囲気があります。 第2楽章テーマは、父のレオポルトが病気療養中に、ウォルフガング モーツァルトがさまざまな作曲を試みて書き残した「ロンドンの楽譜帳」の第21曲(K.15v)と同じものです。 第3楽章メヌエットのトリオは「カリヨン(鐘楽)風メヌエット」と題され、鐘の音を真似る工夫をしています。

これら6曲はケッヘル旧全集から第6版まで「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」とされていましたが、新全集では「ピアノ三重奏曲」と位置づけられています。 したがって、この作品は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第9番」または「ピアノ三重奏曲第5番」ということになっています。

もちろん私たちはフルートとギターで演奏します。






しばしの自由

2024-09-11 21:02:00 | 古典
火曜の朝は子育てサロン。
お名前を呼んで、手遊びをした後、
ボールプール。

受けました。
…めっちゃ受けました。
ボールの海でバシャバシャ泳ぐ子、飛び込む子、ボールを投げて遊ぶ子。
小さなブールでしたが、充分でした。

午後からは天満橋ルーシェ音楽院の部屋を借りてチェロの斉藤千秋さんとハイドンのロンドントリオとヘンデルのフルートソナタを合わせました。

ルーシェは天満橋を渡って川沿いに少し戻ったところです。



時間決めのレンタル練習室は、電子錠、料金は封筒に入れてポストインと徹底的に人を介さないシステムでした。

斉藤さんとは以前、エイパでお会いしました。
ようやくねがいがかなって「聴き合い会」でご一緒することができるようになりました。

ロンドントリオはフルート2本ですが、今川さんのご都合が合わなかったので、一人でファーストを吹きました。

大体のテンポを決めて、それで練習してくることにしました。今川さんにも伝えなくちゃ。

それから、ヘンデル。こちらはピアノの坂田さんとのトリオなので坂田さんにも後で伝えます。

8番のテンポを決めたら時間が余ったのでハ長調も急遽やりました。

ハ長調もいい曲!またやろう。


フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ピアノ三重奏曲を45曲書いていました。
大部分は鍵盤楽器(チェンバロまたはピアノ)、ヴァイオリン、チェロによります。
が、Hob. XV:15-17の3曲は1790年にロンドンで出版されたときにヴァイオリンではなくフルートを使っていました。

1780年ごろにはエステルハージ家

の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していきました。

の時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品がまとめて書かれました。

またハイドンはウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版しました。

1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲しましたが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲でした。

1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲されました。

ハイドンは「侯爵が生きている限り、彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」といい、長い間イギリスからの招待も断っていました。

また、ハイドンは次のようにも述べています。

「侯爵は私の全ての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手を惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。」

1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵


が死去。
その後継者アントン・エステルハージ (1738–1794))侯爵

は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまいました。 

ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではありませんでした。

ウィーンに出てきていたハイドンは、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745−1815年)

の招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになりました(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されませんでした)。

ハイドンはエステルハージ家を離れて一時期、自由に作曲活動が行えた時期の作品の1つです。

ピアノ三重奏曲Hob. XY15




初演200周年ベートーヴェン

2024-09-09 21:03:00 | 古典
日曜日はフェニーチェ堺で、プロージット室内管弦楽団の練習です。
「それどこにあるの?」から始まって、うーん駅から歩いて900メートル。
午後3:00集合。
暑そう。
夫と次男が空いています。
頼みました。

半分は私のためではありません。
止めっぱなしのスカイラインを動かすため。と言っても助かります。
牧野から1時間足らずで着きました。

オールベートーヴェンプログラム。
第九初演プログラム再現特別演奏会

10月20日(日)14:15開場15:00開演14:40より指揮者木許裕介氏によるプレトーク

ソプラノ杉浦希未 メゾソプラノ谷田奈央 テノール清原邦仁 バリトン池田昌巳
コンサートマスター友永健二

献堂式は、ベートーヴェンにしてはあまり上演されない曲ですが、1824年5月7日 今からちょうど二百年前に第九初演時にミサ・ソレムニスと共に演奏されました。

この時の演奏会はどんな様子だったのでしょう。

『献堂式』序曲(けんどうしきじょきょく、Ouvertüre „Die Weihe des Hauses“) 作品124は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲した序曲です。ベートーヴェンが純粋管弦楽のために作曲した最後の作品にあたり、1820年代に書かれた唯一の序曲でもあります。

出版:1825年にマインツのショット社より出版。
献呈:ニコラウス・ガリツィン侯爵。

1822年に、ウィーンに新築されたヨーゼフシュタット劇場


ヨーゼフシュタットの kk 特権劇場、1844 年
のこけら落としのために作曲された祝典劇の序曲です。

劇場の支配人カール・フリードリヒ・ヘンスラーは作家のカール・マイスル(Karl Meisl, 1761年 - 1825年)

に劇の制作を依頼し、マイスルが制作した作品は『侯爵の肖像』と『献堂式』の2作品でした。

祝典劇の『献堂式』はかつてブダペストで上演された付随音楽『アテネの廃墟』(コツェブー原作)を翻案することが決まったため、マイスルは内容を一部変更し、同時にベートーヴェンも劇の音楽を改作することになりました(ただし大半は『アテネの廃墟』からの転用でした。)。この改作で生み出された作品が合唱曲(WoO.98)と『献堂式序曲』です。

祝典劇の初演は1822年10月3日に、ウィーンのヨーゼフシュタット劇場でフランツ・グレーザーの指揮で行われた。

また、1824年5月7日に交響曲第9番が初演された際に、ミサ・ソレムニスからの3曲(プログラムには「三つの大賛歌」として記載)とともにこの曲も演奏されています。

ミサ・ソレムニスは 
1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されています。

ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されましたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されませんでした。楽譜の初出版は1827年。

『キリエ』冒頭には「心より出で-願わくば再び-心に向かうよう」にと記され、

自筆、キリエの冒頭、有名な献辞「Von Herzen...」と演奏アドバイス「Mit Andacht」(「献身的に」)付き
『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」
とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれています。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示しています。

『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されています。

ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節があります。

その後の推移ははっきりしていませんが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記していて、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。

年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせると記しています。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していました。
しかし、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まります。

初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場

においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演されました。

ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会いましたが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行いました。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説あります)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成でした。

合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としていますが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」になります。

参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)で、かなり不完全だったといわれています。

ソプラノソロのヘンリエッテ ゾンターク
 
ゾンターク1825年
は18歳、
アルトソロのカロリーネ ウンガー

は21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えています。

さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足でした。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られています)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていました。
 
一方で、初演は大成功を収めました。

『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載があります。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がりました。

1815年ベートーヴェン
ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気づきませんでした。

見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができました。

観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っています。

このように「好評」の逸話が残る初演ですが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話で、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もあります。 

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられています。

シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかったと思われます。

次の再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われています。



男?あるいは女?

2024-08-29 21:01:00 | 古典
旧宅のガレージ…夫が育てている植物やクワガタ、メダカで占拠されています。

水草採集も
何かいる?
蛙が勝手に住みついたみたい。
カエルと言えば、先月預かったクロムウェルツノガエルの小雪姫。
久しぶりに飼い主さんに出会ったら、鳴き出したそうです。

人が見ている時はあまり鳴かないで夜中一匹になった時に鳴いているそうです。

動画送ってくれました。見たい人だけ見てくださいね。
ゲロゲロって、泣くのかと思ったら「わん。」「わん。」
子犬のような鳴き声でした。

そして…

鳴いたと言うことは、

そう男の子でした~🤣💦
小雪王子👑

チャンチャン🎶

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770- 1827年)神聖ローマ帝国ケルン選定公領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

が完成した唯一のオペラ「フィデリオ」op72


「フィデリオ」構想期
『レオノーレ』第1稿

ブイイの原作は.トゥーレーヌで起こった事件を元に書かれました。

これを基に
1798年にピエール・ガヴォーによる『レオノール』、1804年にドレスデンで初演されたフェルディナンド・パエールによる『レオノーラ』が作曲されました。

その頃、ウィーンの主要歌劇場を手中に収めたブラウン男爵が腹心のゾンライトナーに原作をドイツ語に翻訳させ、ゾンライトナーを通じてベートーヴェンに作曲を依頼しました。

何度も書き直すなどの苦労もありましたが、だいたい1年ぐらいで完成され、初演は1805年10月15日に内定しました。

ところが、ナポレオン軍がウィーンに迫った(11月13日に占領)影響で、初演日は11月20日に繰り下げられました。

皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している(画:ダヴィッド

ベートーヴェンは『レオノーレ』というタイトルでの上演を主張しましたが、前2作との混同を避けるため、結局劇場側の推す『フィデリオ』のタイトルに決めました。

アン・デア・ウィーン劇場

でベートーヴェン自身の指揮により3日間上演されました。
しかし、何人かのベートーヴェンの友人と新聞記者を除けば、観客の大半がフランス軍兵士で、ドイツ語を理解できる兵士がいなかったこともあり大失敗に終わりました。

『レオノーレ』第2稿
この初演ののち、ベートーヴェンは友人の勧めに従ってこのオペラを改訂することに決めました。

シュテファン・フォン・ブロイニングの協力を得て、『レオノーレ』を2幕のオペラへと改作し、さらに序曲も新しいものへ差し替えました。

改訂は1805年暮れ頃から年明けにかけて行われ、1806年の3月29日にリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演、4月10日に再演され、いずれも成功を収めました。

しかし、ベートーヴェンとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されませんでした。このときの公演でも、ベートーヴェンのタイトル案『レオノーレ』は受け入れられなませんでした。

『フィデリオ』
第2稿による初演のあと、1810年に『フィデリオ』の楽譜が出版され、しばらく上演されることもありませんでした。
1810年頃からベートーヴェンの作品(例えば『ウェリントンの勝利』)が人気を博すようになり、ウィーンの劇場主や人気歌手がその人気に便乗しようと、ベートーヴェンに『フィデリオ』上演を盛んに打診するようになりました。

その中で、主要歌劇場ケルントナートーア劇場(ケルントネル門劇場)の運営を任されていたトライチュケの申し入れをベートーヴェンが台本の改訂を条件として受け入れ、同時に音楽の改訂も行われました。

改訂は1814年3月から5月の2か月間に行われ、その際、タイトルも『レオノーレ』に強くこだわることをやめて『フィデリオ』を受け入れることになりました。

初演は1814年5月23日に行われました。
当時ベートーヴェンは難聴が急速に進んでいました。
なのでミヒャエル・ウムラウフの手助けを借りながら自身で指揮をしました

序曲は、初演当時は作曲が間に合わず、『アテネの廃墟』序曲で代用されましたが、5月26日の上演から『フィデリオ』序曲を付して上演され、以後ウィーン会議のために来訪した諸侯のための上演を含め、1814年中に何度も上演されました。

オペラ「フィデリオ」op72
あらすじ
舞台は16世紀末、スペインのセビリャから数キロメートルほどのところの刑務所。

第1幕 
フィデリオはレオノーレの変装した姿で権力者ピツァロに抵抗して囚われた夫フロレスタンを救いに刑務所に潜入しています。

フィデリオ(レオノーレ)役のイーダ・ヒードラー

看守の娘マルツェリーネは「もし結婚してくれるなら」と頼むヤキーノに「絶対結婚しない、フィデリオ(レオノーレ)に夢中だから」と返事します。

フィデリオは、修理したばかりの鎖の重い荷物を運びながら入ってきます。看守のロッコはフィデリオの技術を褒めますが、彼の控えめな返答は、自分の娘の気を惹くためではないかと誤解します。

ロッコはフィデリオに、「知事がセビリャに出発したらすぐマルツェリーネと結婚して良い、」と言い、彼はさらに、「金が無ければ幸せになれない」とも言います。

フィデリオは金と同様に重要なものが欲しいとロッコに囚人の情報を聞き出します。

ピツァロが護衛と共に登場し、ロッコはピツァロにメッセージを渡します。
それには、「ピツァロが暴君であるという告発の調査のために、大臣が抜き打ちで明日来所する」と書かれていました。

ピツァロは、監禁されているドン・フロレスタンは死んだと思われているし、大臣が見つけられるはずはない。代わりに「すぐにもピツァロがフロレスタンを殺してやる」と言います。

彼はロッコに金を渡し、フロレスタンを殺すように言うが、ロッコは断ります。

かわりにピツァロは牢獄の中の古井戸の中に墓穴を掘るように命令します。墓穴ができたらロッコは音を出して知らせ、ピツァロは偶然を装って牢獄に入って自分でフロレスタンを殺す、と。

フィデリオはピツァロが筋書きを立てる様子は見ていましたが、声は聞こえず、彼女の心は波立ちますが、夫のことを考えて冷静さを取り戻します。

フィデリオは哀れな囚人たちが気持ちの良い天気を楽しめるよう、庭を散歩させてはどうか、とロッコに提案。

囚人たちはつかの間の自由を非常に喜び、嬉しそうに歌います。

ロッコが再び登場し、ピツァロが娘マルチェリーナとフィデリオの結婚を許し、ロッコの牢獄の巡視にレオノーレの同行も許されたと告げます。

そこへヤキーノとマルツェリーネが駆け込んできて、ロッコに、「ピツァロが、囚人たちの自由を見て怒り狂っている」と言います。

ロッコは、「王の命名日を祝っているのです。」と作り話をして、ピツァロに怒りを収めます。

ピツァロは「墓穴掘りを急ぐよう」に言い、囚人を再び牢屋に入れるように言います。

第2幕
フロレスタンは一人で、牢獄の奥深くの独房にいる。彼ははじめ、神への信頼を歌い、その次にフィデリオが自分を救いにやってくる幻想を見ます。
やがて彼は倒れて眠り込んでしまいます。
ロッコとフィデリオは彼の墓穴を掘りにやってきて、フロレスタンが眠っているのを見つけます。

フロレスタンが目覚め、フィデリオは彼に気づく。フロレスタンは、自分がピツァロに囚われていることを思い出し、自分の妻であるレオノーレ・フロレスタンにメッセージを送ってくれと頼みますが、ロッコはそれは不可能だと返事します。
フロレスタンはフィデリオ(レオノーレ)に気っきませんが、彼女は「天国で報われるだろう」と伝えます。

ピツァロは準備が整ったかを尋ねます。ロッコはそうだと言い、フィデリオに立ち去るように命じます。

ピツァロが短剣を振り回すと、フィデリオが物陰から飛び出してピツァロとフロレスタンの間に立ち、「フロレスタンを殺すならその前に、妻の自分を殺さなくてはならない」と言います。

ドン・ピツァロ(左)に立ち向かうレオノーレ(中央)、そしてフロレスタン。

ピツァロは「二人を一度に殺すチャンスだ」と喜びます。

ちょうどその時、大臣の来訪を知らせるトランペットが聞こえます。

大臣ドン・フェルナンドは暴政は終わったと宣言します。

ロッコが、フロレスタンとレオノーレ(フィデリオ)とともに登場し、彼らを助けて欲しいとドン・フェルナンドに頼みます。

ロッコは、レオノーレが自分の夫を助けるために、変装してフィデリオとして働いてきたことを説明します。
マルツェリーネはショックを受けます。
ロッコはピツァロの殺人計画を話し、ピツァロは牢獄へ入れられます。

レオノーレの手によってフロレスタンが鎖から解き放され、群衆はレオノーレの夫に対する忠節を讃えて歌います。

レオノーレ「神様!なんていう瞬間でしょう。」
民衆のコーラス「良い妻を娶った者は」




きらきら✨

2024-08-28 21:00:00 | 古典
火曜日は朝早く2時間ほど赤ちゃんの、サポート。

おむつを替えて、ミルクをあげて、抱っこして背中をトントン。ゲップ。
歌を歌ったり、お外を見せたり遊んでいるうちにお眠に…。
おしゃぶりをあげると指を捕まれました。しばらく掴んでいるとそのまま寝てしまいました。
至福〜!

家帰って練習。
ガンガンやっていると時間忘れます。

夕方2時間ほど5歳児のサポート。
幼稚園でキラキラのスノーボール(スノーボトル?)作って来ました。
「きれいね〜!」と言うと写真撮らせてくれました。

今日はすごろくを作りました。私もフルーツすごろくを作りました。
2人で夢中になっているうちに時間オーバーしそうになって慌ててお返ししました。5分オーバー。

明日も5歳児は預かります。
「続きは明日。」
「また明日!」

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

のフランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに教えてあげましょう』による12の変奏曲は1781年から82年頃モーツァルト26歳の時にウィーンで作曲されたものと推測されています。

楽譜は1785年に出版され、弟子のヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758-1820年)に献呈されています。

モーツァルトのピアノのための変奏曲は『デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調』(K. 573)を除いて全て生前に出版されていて、変奏曲は非常に人気のあるジャンルでした。

主題に用いられた歌曲は後に童謡『きらきら星』として知られるようになったため、日本では『きらきら星変奏曲』の愛称で呼ばれるようになりました。

が、『きらきら星』の歌詞が書かれたのはモーツァルトの死後のことです。

このテーマの起源は1740年に書かれた無名の田園歌で、比較的最近になって子ども向けの歌詞が付け加えられたそうです。

このメロディーは1761年に初めて出版されました。

歌詞と音楽が印刷された最古の出版物は、1774年にブリュッセル(当時はオーストリア領ネーデルラント)で出版されたシャルル・ド・リュスの『 Recueil de Romances 』第2巻で、「 La Confidence naïve素朴な自信 」という題名でした。
以降いろいろな。歌詞が存在します。

一般的な歌詞
ああ!ママ、何が私を苦しめているのか教えてあげましょうか?

パパは私が 大人のように
理性的に考えることを望んでいます が、私はキャンディーの方が 理性よりも価値があると言います!