音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

実はアイルランドと関係あり

2025-02-06 21:10:00 | 古典
寒い中、サンルームのいちごは咲き続けています。
実はならないけど…やっぱり養分足りないのかな?
後、サボテンさんも元気です。
びよ〜んと伸びています。

こちらは波平さん?

一本だけひょろひょろと伸びてきました。

自宅療養、退屈だなぁ。と、ダラダラ練習していたら、目が覚めるようなことがありました。

これに出ます。えっ!後17日。
しかも、フルートが足りないと言う異常事態。
2ndとPiccoloを両方吹くという荒業。
どちらも吹いたこと無い😭1stはあるんだけど。

断ろうかな?
と思ったけれど、困るだろうなあ?と声掛けていただいたホルンK氏の顔が頭に浮かび…。

四楽章だけだし…。と言っても20分以上。げ〜!
やばい!練習しなくちゃ。
というわけで絶賛練習中。
本当にやばい!
病院の先生に怒られそうです。
でも、音楽があってうれしい💖

ベートーヴェンの交響曲第9については散々やったので、第7番。
この第4楽章はさあ!さっさと行かなくちゃ!って感じがするので、頑張れそうです。

交響曲第7番
ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1811年から12年にかけて作曲されました。

ベートーヴェンは1802年『ハイリゲンシュタットの遺書』を書き、精神的な危機を乗り越えると次々と名曲を生み出しています。

交響曲第7番イ長調作品92

は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1811年から1812年にかけて、ボヘミアの温泉街テプリッツ

テプリッツ 洗礼者聖ヨハネ教会のある城の広場

で健康を回復するために作曲した4楽章からなる交響曲です。この作品はモーリッツ・フォン・フリース伯爵(1777-1826年)
フランソワ・ジェラール作「伯爵とその家族」
に献呈されています。

1813年12月8日にウィーン大学で初演されたとき、ベートーヴェンはこの作品が彼の最高傑作の一つだと言っています。

第2楽章「アレグレット」は非常に人気があり、聴衆はアンコールを求めました。

ベートーヴェンが交響曲第7番の作曲を始めた頃、ナポレオンはロシアに対する軍事作戦を計画していました。

交響曲第3番(おそらく交響曲第5番も同様)に続き、交響曲第7番は、長年続いたナポレオンの支配からの解放を求めるヨーロッパ戦争

を背景に、ベートーヴェンとナポレオンが音楽的に対峙した作品の一つであると思われます。

この時期のベートーヴェンの人生は、聴力の低下が徐々に悪化したことで特徴づけられています。(1819年以降は「会話ノート」が必要となりました。)

この作品は、1813年12月8日にウィーンで行われたハーナウの戦い(1813年10月30日31日フランス対オーストリア)
ハーナウの戦い、オラース・ヴェルネ作、1824年
で負傷した兵士のための慈善コンサートでベートーヴェン自身の指揮により初演されました。

プログラムには、ナポレオンのフランスに対するイギリスの勝利を讃える愛国的な作品「ウェリントンの勝利」も含まれていました。

7番は大変好評で、聴衆はアレグレット2楽章のアンコールを即座に要求しました。

シュポーアは特に、ベートーヴェンの指揮台上での熱狂的な身振り(「スフォルツァンドが始まると、彼は激しい勢いで両腕を引き裂き、フォルテの入り口で空中に飛び上がった」)や「ベートーヴェンの友人たちがコンサートの再演を手配した」ことに言及し、それによって「ベートーヴェンは金銭的困難から解放された」と記しています。

第7番の第4楽章は彼自身が編纂した「12のアイルランドの歌」の第8番目の「私を墓から救ってください」Save me from the grave and wiseをモチーフに展開しています。

ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1712-1773年)

はスペイン領ネーデルランド メヘレン生まれのパン屋の息子です。
1733年にケルン選帝侯領のボンでクレメンス アウグストの宮廷のバス歌手として雇われました。
そのボンで息子ヨハンを育て、孫のルートヴィヒをもうけました。

彼の故郷メヘレンは、アイルランドの伝道師聖ロンバウツ(Rombout;Rumold)の埋葬の地そして修道院領の中心地でした。

そして孫のルートヴィヒは、このアイルランドの民謡から様々な影響を受けています。

「12のアイルランドの歌」より第8番「私を墓から救ってください。」

交響曲第7番 第4楽章



天才も人生はままならない

2025-01-25 21:00:00 | 古典
24日午後、ハープの弦が着きました。

切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
まとめると送料無料になるので…少しでも安く買いたい…セコい!

22日の夜営業が終わってからメールで注文して、23日の10:00に確認のメール返信。
24日午後には宅急便で着いたので早いです。
感謝です。

すぐに装着。

グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
こちらの方が少し小型なので、短くなった弦を使えます。
ただし、都合よく同じ弦が切れるわけではないので、あまり使わないレバーハープは3本の弦が切れたまま放置されています。
いつでも使えるようにしておきたいですが…私には贅沢なようです😭💦


ヴォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

はパリでは、稼ぎがよくなく自宅に人々を招いてコンサートを開きますが、称賛は得ますがお金を出してはくれません。

ウィーンに行きコンスタンツェ
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。

コンサートは盛況ですが、あまり稼げないので
ハイドンが彼の才能を認め、ウィーンに留めるためにプラハのオペラの仕事に彼を推薦したりしていますがうまくいきません。
ウィーンでオペラフィガロの結婚を上演しますが、うまくいきません。翌年プラハで上演すると人気が出て一息つきます。

モーツァルトは品行が悪く、浪費癖があり、なかなか高給の仕事には恵まれず、収入は激減。

ピアニストとしてコンサートを開いて収入を得ていましたが、思うようにお客は増えませんでした。
シカネーダーの劇場でオペラを書いて稼ぎました。

魔笛1791年チラシ

モーツァルトは亡くなる3年前にこのような手紙を書いていました。

「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころ、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。

目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。

こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。

僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。

長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。

有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」

天才と人々は言いますが、モーツァルトにすれば、それは長い長い毎日の練習と努力の積み重ねによるもので、人より早く初めただけのことと言いたかったのかもしれません。

そして天才と言われても生きていくために稼ぐのは大変だったのだろうと思います。

ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595

は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
作品目録によれば、1月5日に完成したと記されています。

前作の第26番『戴冠式』(K. 537)から3年間のブランクがあります。

この頃には既にモーツァルトの人気は低迷していて、会員が集まらないために3年以上も予約演奏会を開くことが出来ない状態で、ピアノ協奏曲を作曲するチャンスには恵まれなかったためです。

1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅行中に、ウィーンへ戻った際には再び予約演奏会を開くするつもりで、この演奏会のプログラムを飾るためにこの協奏曲を作曲しました。

しかし、実際に演奏されたのは、1791年3月4日に宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸において催された演奏会においてであり、友人であるクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアから出演依頼を受けたモーツァルトは、1788年に第1楽章を手がけていた本作を完成させて演奏を行いました。

この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会です。

なお、この演奏会ではモーツァルトのかつての恋人で義姉のアロイジア・ランゲ

がモーツァルトのアリアを歌いました。











一休さんとフィガロの結婚

2024-12-14 21:27:00 | 古典
今日は久しぶりに母のおつかいデイ。
朝9:30から、まず市役所に行って欠けた印鑑を廃止して新しい印鑑証明を取り、戸籍謄本をとって…。

一休寺がある京田辺市はあちこちに一休さんがいます。
それから京田辺市警察で

障害者駐車証明の更新。
それからいつものお漬物屋さん。

市久さん。『ここのは美味しいのよ。』と生徒さんやお世話になった方に配ります。
それから

銀行によって、お金を出し

小倉山荘で最近亡くなった母の友人にお供えするおかきを買いました。

小倉山荘はお正月仕様

小倉山荘のお隣Chat noirの猫さんがあたふたする私たちを見送ってくれました。

最後は近所スーパーでお買物。

遅昼を頂いて帰ったら5:00すぎていました。

市久さんのしば漬け…私も買ってしまいました。夜ご飯に

一休宗純(1394-1481年)伝 地蔵院(京都市西京区)近く生まれ、一休寺酬恩庵(京田辺市)没

紙本淡彩一休和尚像(重文)
母親の出自は不詳ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇
後小松天皇1377-1433年
の官女で、父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があります。

三島の一休の母と伝えられる墓
一休は地蔵院の近くで生まれた後、6歳で出家するまで母(伊予局という)とともに地蔵院で過ごしたと伝えられています。

幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号しました。
戒名は宗純で、宗順とも書きます。
一休は道号。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられます。

早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となりました。

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改めます。

ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしています。

謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしましたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったといれています。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となります。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、

「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから華叟より一休の道号を授かります。
「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。

華叟は印可状を与えようとしますが、権威を否定する一休は辞退しました。

その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出しました。

以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。

文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会います。

文明6年(1474年)、後土御門天皇

の勅命により大徳寺の住持を任せられました。

寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵


は一休を開祖として創建されました。

また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵

を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われました。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。
満87歳没(享年88)。

臨終の際の言葉は「死にとうない」でした。
墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれますが、宮内庁が管理している陵墓のため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできません。廟所の建物は外部からでも見え。参拝は門の前で行います。

以下のような逸話が伝わっています。

印可の証明書や由来ある文書を火中に投じました。

男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいました。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわりました。

これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものでした。

親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしました。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしました。

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩きました。

こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れだと言われています。

同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。

戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼び、江戸時代には、彼をモデルとした
『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となりました。

一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重されました。

著書(偽書を含む)に、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『一休骸骨』などがあります。

東山文化を代表する人物。
また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られています。

とんちとまでは言いませんが、身分の高いバルトロ伯爵の無理難題をスザンナや伯爵夫人と一緒にあの手この手で切り抜け、全員を幸せに導いていく「フィガロの結婚」のフィガロとスザンナ。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
が、フランスの作家ボーマルシェ(1732-1799年)

が1778年に書いた戯曲を1786年オペラにしました。

オペラ台本
戯曲は封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判し、たびたび上演禁止に遭いました。

特にルイ16世は

1754-1792年
「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」

と激昂しました。
が、この戯曲に魅せられた人々からの強い要請を無視できず、ついには公演許可を出しました。

オペラはウィーンのブルク劇場

で1786年5月1日、モーツァルトが30歳の時に初演されました。

ある程度の好評を得ましたが、原作の貴族批判はおおむね薄められているとはいえ危険視する向きもあり、早々にビセンテ・マルティーン・イ・ソレル作曲によるオペラ『椿事』(Una cosa rara)に差しかえられてしまいました。

こうしてウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、当時オーストリア領だったボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの歌劇場で大ヒットしました。

フィガロの結婚序曲冒頭部

バルトロ伯爵

は自分の領土の娘は結婚前に先に領主が初夜をしても良いという初夜権を復活して、フィガロの婚約者スザンナを狙っています。

フィガロ

スザンナ

困り果てたフィガロは良い案を思いつきます。

村の娘たちをすべて集めて初夜権を一度は廃止したお礼を言いに行かせます。
伯爵は仕方なく今後も廃止することを約束します。

一方マルチェリーナはフィガロの借金を盾に結婚を迫ります。
フィガロに一泡吹かせたい伯爵は彼女と組みます。

まだスザンナを狙っている伯爵に伯爵夫人

伯爵夫人
と組んで、小姓のケルビーノ
ケルビーノに扮したサラ・ベルナール
に女装させ伯爵を誘惑し、動かぬ証拠を掴もうとします。

しかし、そこへ伯爵が登場。
ケルビーノを慌てて隠しますが怪しまれます。

第1幕:伯爵の登場でスザンナの椅子の背後に隠れるケルビーノ(19世紀、作者不詳の水彩画)

すんでのところでスザンナが入れ替わり、ケルビーノは窓から飛び降ります。
それを伯爵の従者に見られますがフィガロがそれは自分だ。スザンナに会いに行ったのだと言いくるめます。

さてマルチェリーナは借金の証文に書かれたフィガロの結婚の約束を裁判にかけ、フィガロは敗訴します。
しかし、そこでフィガロが捨て子であったことを話すと、フィガロがバルトロとマルチェリーナの子どもであることがわかります。

結婚の約束は無効になりマルチェリーナとフィガロは抱き合います。
そこへスザンナがやってきて浮気をされたと誤解しますが、みんなの説明で2人が親子であることがわかり一安心。

さてスザンナと伯爵夫人は一計を編んでいます。
2人は衣装を取替え、伯爵に手紙を書き、暗闇で伯爵夫人はスザンナのフリをして口説かれ、動かぬ証拠をつかみ伯爵を懲らしめてやろうというのです。

フィガロはスザンナが浮気をしているという噂を聞き、嘆きながらも懲らしめようとしていると、伯爵夫人に扮したスザンナに会います。
復讐に伯爵夫人を口説こうと思いますがすぐに声でスザンナだと気づきます。
しかし、知らないフリをして口説き、スザンナを怒らせます。
気づいていることを知らせ、すぐに仲直りします。

一方伯爵は、知らずに伯爵夫人扮するスザンナを口説きます。

伯爵夫人は正体を知らせ、バルトロは謝ります。
伯爵夫人は赦し、フィガロとスザンナは無事結婚することができ、幕となります。

フィナーレ






アンゲラー神父の交響曲

2024-12-09 21:02:00 | 古典
日曜日の御前は京田辺でレッスン。
その後、ピアノのSさんに子どもたちが使う楽器を借りました。
ファミリーポートから借りられたのはタンバリン、トライアングル各1個と鈴が20個。

鈴はOさんがクリスマス用の鈴を作ってくれるので他の楽器を渡したくなりました。
坂田さんに聞いたら、「あるよ〜。」ということでお借りすることにしました。

以前一緒に小学生向けワークショップをしていた時に揃えてくれました。

これでひと安心。
バチとセットのものは返してもらうように気をつけなくちゃ。

午後からはギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」の練習。

ワンニャンの紅茶を買ってきてくれました。
開けてみると、

ティーパックに分かれています。
猫さんたちをお風呂に入れると美味しい紅茶が飲めます。

夫がベトナムで買ってきたお菓子を出しました。
大豆とココナッツミルクとお砂糖を固めたもの。
「懐かしい味!はったい粉みたい。」
はったい粉…わかるかなぁ?

最後に録画してくれました。私のアンドロイドが容量不足でどうしようもなかったので…。
送ってもらおうとしたら13分は送れない。
川原さんをYouTubeデビューさせてしまいました。非公開ですが。
これに1時間。
とっぷり暮れてしまいました。

エドムント・アンゲラーEdmund Angerer(1740 - 1794年)は、有名な『おもちゃの交響曲』を作曲した音楽家として知られています。

オーストリアの神父です。

エトムント・アンゲラーは1740年、オーストリア大公国のチロル地方のザンクト・ヨハン(St. Johann)生まれ、フィーヒト没。

父は小学校の教師で地元の合唱団の指導者でもあったシュテファン・アンゲラー。

父から音楽の手ほどきを受け、さらにインスブルック郊外の町ハルの児童合唱団に入ります。

1758年、ベネディクト会修道士としてインスブルックから東に30キロほどの町フィーヒト(Fiecht)のフィーヒト修道院

に入り、当地で合唱指導者、オルガン奏者、音楽教師として働きました。

エトムント・アンゲラー神父はここで数多くの教会作品やオペレッタ、音楽劇を作曲し、尊敬と名声を得て1794年に同院内で死去しました。

「おもちゃの交響曲」は永らく作曲者がわからず、推測される作曲者としてフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ミヒャエル・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、レオポルト・モーツァルトなどの説が唱えられていました。

エトムント・アンゲラーの名前が世界的に注目されたのは、死後2世紀を経た1992年でした。

チロル地方シュタムス修道院(Stift Stams)

の音楽蔵書の中から、1785年ごろ当院の神父シュテファン・パルセッリ(Stefan Paluselli, 1748年 - 1805年)が写譜した『おもちゃの交響曲』のスコアが発見されました。

そこには同じくチロル出身で、それまで忘れ去られた音楽家エトムント・アンゲラーが1770年ころに作曲したと記されていました。

またタイトルとして "Berchtolds-Gaden Musick"(「ベルヒテスガーデンの玩具店製のおもちゃを使った音楽」といった意味の造語)が付けられていました。

ベルヒテスガーデンはドイツチロル地方の街でおもちゃ作りで有名でした。

パルセッリの写本ではバイエルン州の著名な保養地ベルヒテスガーデンの玩具店製の以下のおもちゃが指定されています。
カッコウ(Kuckuck)、
ウズラ(Wachtel)、
ラッパ(Trompete)、
太鼓(Trommel)、
ガラガラ(Ratsche)、
雌鳥の笛(Orgelhenne)、
トライアングル(Cymbelstern)。
実際の演奏では、雌鳥の笛→ナイチンゲール(水笛)のように適時変更されます。

おもちゃ以外の弦楽器の編成として
ヴァイオリン、ヴィオラ、バス(Violino, e Viola, con Basso)と記されていました。

「おもちゃの交響曲」レオポルド モーツァルト作曲と書かれています。
この動画だけでなくハイドンとなっているものもまだまだ多いです。



ベートーヴェンと同窓

2024-12-01 21:00:00 | 古典
道頓堀ホテルで松江農業工業高校の107回同窓会によんでいただきました。
幹事のFさんとは次男のPTA仲間でした。
107回目とあって、仲の良さが伝わってくる会場のみなさんでした。

ギターの川原久美子さんと地下鉄難波駅で待合せて行きましたが、すごい人出でした。
待っていると人酔いしそう。

イベールの「間奏曲」モーツァルトの「フルートソナタop14-2」ヴィヴァルディの四季より「冬」ピアソラの「リベルタンゴ」を演奏しました。
ホテルでと言うと呑んだり食べたりの最中が多いですが、食事なしの総会、ご挨拶などが終わってお腹すいた頃に演奏。

温かい拍手で迎えていただいて、とても集中して聴いてくださいました。

終演後も温かい笑顔で「よかったよ」とか口々に声をかけてくださって
Fさん、「自慢の先輩たちなんだ!」ってわかります。
半端じゃない包容力でした。
元気をいただいてしまいました。

川原さんと遅昼をいただいて解散。

私はその後東大阪文化芸術劇場での母校樟蔭女子大学マンドリンクラブのコンサートを聴きに行きました。

ロビーで同期のAさんに出会って、一緒に聴きました。
今日はホームカミングデイな日でした。

アントニーン・レイハ(Antonín Rejcha 1770 - 1836年)チェコスロヴァキア プラハ生まれ、フランス共和国パリ没

作曲家、音楽理論家。フランス及びドイツでの活動が長かったことから、フランス名アントワーヌ・ライシャ(またはレイシャ、レシャ、Antoine Reicha)、ドイツ名アントン・ライヒャ(Anton Reicha)とも呼ばれています。

24曲の木管五重奏曲をはじめとする管楽器のための作品を多数残し、この分野での開拓者となりました。

音楽教育面ではパリ音楽院の作曲科教授として、
フランツ・リスト

エクトル・ベルリオーズ


シャルル・グノー


セザール・フランク

らを育てました。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとは同年生まれで、友人です。

理論家としては、19世紀を超えて20世紀に通じる書法を予言していましたが、評価されたのは21世紀に入ってからです。

10歳のときに孤児となり、ドイツでチェロ奏者で作曲家でもあった叔父ヨーゼフ・ライヒャに引き取られ、ニュルンベルク近郊に移ります。

1785年、レイハはケルン選帝侯マクシミリアンの宮廷楽団のフルート奏者としてボンに移ります。

同じ楽団でヴィオラ奏者だったベートーヴェン

と知り合ったのは、このときです。

同年、叔父ヨーゼフが指揮するケルン歌劇場管弦楽団に加わります。

このころにはドイツ語だけでなくフランス語も習得していました。

1789年、ベートーヴェンとともにボン大学に入学。 
しかし、フランス革命軍によってボンが占領され、
宮廷楽団は解体されたためにハンブルクに移り、ピアノ及び作曲の教師となります。    
           
1801年、ウイーンに移り、ベートーヴェンと再会。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

に師事、マンハイム楽派やグルック、モーツァルトなどの影響を受けます。

1808年、38歳の時にパリに移ります。

1817年、パリ音楽院
1795年当時の初代校舎、パリ9区
の作曲科の教授になります。
1829年、フランスに帰化。
1835年、学士院の会員に選ばれます。

1836年、パリで没。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

木管五重奏op88no.2 変ホ長調

バタバタびっくり交響曲

2024-11-22 20:51:00 | 古典
木曜日、金重さんに誘われて坂田さんと京橋でランチしました。

金重さん、先月腕を骨折してヴィオラを演奏できない。1月までギブスをしたまま。
1ヶ月自粛していたけれど、我慢できなくなって「ランチしましょう。」と連絡がありました。

金重さんおすすめのお店。
2100円でステーキランチが食べられました。
キャロットスープ

ステーキ、紫芋、じゃがいものフライ、三度豆、雑穀米のライスがついていました。

どれもいいお味。

デザートも甘さ控えめで美味しかったです。

金重さん、これからの計画をいろいろ練っているようです。
久しぶりにしゃべって
この後、塚口へ移動してハーブのレッスン。

今日はトラ猫さんがいました。



「レッドリバー」とハイドンの「交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94」の2楽章ハーブ独奏版。

「ゆっくり、ゆっくり演奏するように。」と野田先生、にっこり。
何度言われても慌ててしまいます。

それでもおまけで3ヶ月やっていた曲をようやく卒業しました。
ふぅっ〜!

夜は本町に移って

今川さんの発表会で演奏するフルートアンサンブルの練習です。
ハイドンの「ロンドントリオ」をチェロの方も入って今川さんと久米のトリオで、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「ラデツキー行進曲」をフルートカルテットで演奏します。

11月24日(日)12:00開演 岸和田市立自泉会館でやります。

バタバタしていましたが、なかなか充実の1日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)
神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1791年作曲した交響曲です。

イギリス訪問時のロンドンで作曲された『ロンドン交響曲』のうちの1曲で、『驚愕』(または『びっくり』、英: The Surprise, 独: Mit dem Paukenschlag)の愛称で知られています。

ハイドンが長年楽長として仕えてきたエステルハージ侯の死去に伴って、同侯家を去ることになってから2度にわたって経験したロンドン旅行の1回目の滞在期間中の1791年に作曲されています。

「2度にわたるロンドン滞在」で書き上げた『ロンドン交響曲』(ザロモン・セット1791-1795年全12曲)のうちの1曲で、ハイドンが遺した全作品の中でも最も有名な作品の一つに数えられています。

ロンドン滞在1回目の期間中にあたる1792年3月23日に初演されています。

ハンガリー系貴族のニコラウス・エステルハージ侯爵(1670-1795年)

に長らく仕え、同候家お抱えの楽団の楽長として食卓向けの音楽を作るなど創作活動を行ってきたハイドンでしたが、1790年にニコラウス・エステルハージ侯爵が死去することで転機を迎えることとなります。

その後を継いだアントン・エステルハージ侯爵は父親の音楽愛好を受け継がずにお抱えの楽団を解散してしまい、この結果として肩書きだけの楽長と化したハイドンは同侯家を去り、自由な立場の音楽家としてウィーンに赴きました。

そのウィーンでは、ハイドンの噂を聞きつけて赴いてきたボン出身のヴァイオリニストで興行主としても知られるヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815年)ボン生まれ、ロンドン没

と出会います。

ハイドンはそこでザーロモンから、ロンドンに渡ってザーロモン自身が主催する演奏会のため作曲して欲しい、との依頼を受けます。

破格の待遇内容も併せて提示されたハイドンはザーロモンからの依頼を引き受け、1791年から92年にかけて、および1794年から1795年にかけての2度にわたってロンドンに渡航・滞在し、のちに「ロンドン交響曲」(ザロモン・セット)と総称されることになる計12曲の交響曲を書き上げます。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つです。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つとして、ロンドン旅行1回目の滞在期間初年にあたる1791年に作曲され、翌1792年3月にロンドンで初演されています。

この曲に付けられた『驚愕』という愛称は、第2楽章冒頭の主題が最弱音で2度繰り返し演奏された後の16小節目においてティンパニを伴ったトゥッティで不意打ちを食わせるように強く演奏するところから名付けられたもので、作曲者自身が命名したのではなく、初演から間もなくして初演地のロンドンで発行された新聞紙上に掲載された演奏評に由来します。

こうした作曲の仕方を採った背景として、ハイドン自身が1度目のロンドン滞在中に目の当たりにした聴衆のマナーの悪さがあったとされています。

当時、聴衆の中に居眠りをする者が少なからず存在していました。

ハイドンは、持ち前のユーモアさなどを活かし、この作曲を通じて聴衆をたたき起こそうと行動を起こしたのです。 
そして実際の演奏の場で、第2楽章の強奏箇所のところでハイドンはティンパニ奏者に対し力一杯叩くよう指示、狙い通りに聴衆がビックリして飛び上がりました。

愛称の『驚愕』は、英語表記では「The Surprise」と表されます。

一方、ドイツ語表記では「Mit dem Paukenschlag」と表されます。
直訳すると「ティンパニの打奏を伴った」という意味になります。




ベートーヴェンフリーク

2024-10-30 21:00:00 | 古典
先週の日曜日、10月20日のことを書きます。
特別な体験でした。
ベートーヴェンの第九交響曲初演200年記念コンサート。

献堂式
ミサ・ソレムニス
交響曲第九番

という200年前1824年、初演時と同じプログラムの再演。

フェニーチェ堺でプロージット室内管弦楽団に出演しました。
朝9:30集合舞台設営。
合唱団約50名、オーケストラ約50名。ソリストも含め、総勢100名余りの椅子を並べるだけで大騒ぎです。

ひな壇を組んでくださっていたのでその上に階段状に合唱団が並びます。

その前に管楽器群、その前に弦楽器を並べたら、緞帳の位置から最前列のヴァイオリンがはみ出ます。

もう少し後ろと言われましてもオルガンも入るので、ギリギリ。
結局、緞帳は降ろさないで、はみ出たままで行くことになりました。

フェニーチェ堺、響きが良いです。

私は「第九」も「献堂式」も初舞台。なのに何故か?1stばかり。

「ミサ・ソレムニス」は降り番だからいいけれど、めちゃくちゃプレッシャー。

「献堂式」はほぼ吹き詰め、「第九」もソロでオケと対峙する形が多くて気が抜けません。

リハーサルの後も楽屋で管楽器群のみんなに助けてもらって合わせ練習しました。

こんなに助けてもらったのは初めてです。

それから木許裕介先生の温かい言葉。
「不安になったら、僕を見てください。なんとかします。
失敗したら、僕の責任。成功したらみんなの手柄です。」

素晴らしい指揮者、素晴らしいメンバーと演奏できて本当に幸せでした。
いろいろ自分の演奏については課題がありますが…。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1826年『大フーガ』(Große Fuge)変ロ長調 作品133は晩年の弦楽四重奏曲です。

演奏者に対する極度の技術的な要求、内省的な性格で有名です。

ベートーヴェンが完全に聴覚を失った1825年から1826年にかけて作曲されました。
当時の補聴器これをピアノに当てて骨伝導により音を聴いていました。
元来この巨大なフーガは、弦楽四重奏曲第13番の終楽章として作曲されました。

第13番が初演された後、2つの楽章がアンコールに応じて演奏されましたが、終楽章のフーガは取り上げられなませんでした。

ベートーヴェンは納得できず
「どうしてフーガじゃないんだ?」と噛み付き、聞くに堪えない悪口を並べたと言われています。

しかし、このフーガが当時の演奏家にとってはあまりに要求が高く、聴衆にも理解できず不人気だったため、ベートーヴェンはアルタリア出版にせがまれて第13番には新たな終楽章を作曲し、このフーガを独立させ、1827年に出版されました。

ベートーヴェンは強情な人柄、また聴衆の意見や趣味に無関心なことで有名でしたが、このときは出版者の要望に折り合いました。

第13番のフーガと差し替えるために書き下ろされた終楽章は、フーガよりも軽いものとなっています。

19世紀から長い間、『大フーガ』への理解は進まず、失敗作と見なす向きもありました。

ルイ・シュポーアは、ベートーヴェンの他の後期作品と併せて「わけのわからない、取り返しのつかない恐怖」と怯え、ダニエル・グレゴリー・メイソンは「人好きのしない」曲であるとしました。

19世紀末になっても、作曲家フーゴー・ヴォルフは、この曲を含むベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲を「中国語のように不可解である」と評しています。

しかし20世紀初頭ごろからようやく理解され始め、現在ではベートーヴェンの偉大な業績の一つとみなされています。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは、

「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」と述べています。

今日では普通に演奏・録音されるようになり、録音では第13番の後に『大フーガ』が録音されていることが多いです。

2005年10月13日に報じられたところによると、7月にペンシルベニア州ウィンウッドのパーマー神学校
の図書館で、1826年に作成された『大フーガ』の4手ピアノ版(作品134として既存)の自筆譜が発見されました。

それまで115年間にわたって失われたとされた手稿です。

これは2005年12月1日にサザビーズで競売にかけられ、112万ポンド(米ドルにして195万ドル)の価格で落札されました。

1890年に競売目録に載せられ、ベルリンで競り出されて、オハイオ州シンシナティの資産家の手に渡りました。

落札者の娘は、1952年に本作品とモーツァルトの『幻想曲』などの自筆譜を、フィラデルフィアの教会に寄贈しました。

それから発見場所の図書館にどのように伝承されたのかは、わかっていません。



そうしなければならないのか?最後の弦楽四重奏

2024-10-14 21:01:00 | 古典
日曜は鶴見区民ホールでプロージット室内管弦楽団の練習でした。

2度目の地下鉄鶴見緑地線横堤。

いよいよ本振りの木許裕介先生の登壇です。

献堂式、ミサ・ソレムニスを見ていただき、第九。
第1楽章の最後の513小節目から木許先生「ここから地獄の門が開くのです。この低音が苦難の音階です。ベートーヴェンは地獄に降りる覚悟はあるか?と言っているような感じがするのです。」
「バタフライエフェクト…小さな羽ばたきがやがて巨大な山を動かす。耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、小さな、小さな羽ばたきを少しずつ繊細に重ねて行き、やがて大きな動きになる。そんなフォルテの境地に到達しました。」
ベートーヴェンの深みにどんどんハマっていきます。

いよいよ来週末本番です。

フリードリヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135は、ベートーヴェンが1826年に作曲した弦楽四重奏曲です。

死の5か月前に完成しました。
ベートーヴェンが完成させた最後の弦楽四重奏曲で、ベートーヴェンのまとまった作品としても生涯最後の作品です。自身のパトロンであり崇拝者でもあったヨハン・ネポムク・ヴォルフマイヤーに捧げられました。

シュパンツィヒ四重奏団は、ベートーヴェンの死から1年後の1828年3月23日にこの作品を初演しました。

最後に完成された弦楽四重奏曲の楽章は、『大フーガ』の代わりに作曲された、第13番の終楽章でした。

『大フーガ』を除いた後期の四重奏曲の中では最も小規模で、ハイドン以来の古典的な4楽章形式に戻っています。

自筆譜においてベートーヴェンは、最後の楽章「難しい決断」の導入部のゆっくりとした和音の下に、

「"Muss es sein?"そうしなければならないのか」と自筆譜に記しています。
それに対して
「"Es muss sein!"そうしなければならないのだ」と応答しています。

この謎めいた文については深遠な哲理を示すものとの見方もあれば、軽いやり取り(友人から借りた金を返さねばならないか否かなど)に過ぎないという説もあります。

印刷版は1827年9月に出版されましたが、ベートーヴェンはその年の3月にすでに亡くなっていました。

1827 年 4 月 12 日の死後数週間後、アントン シンドラー (ベートーヴェンの秘書)

は、弦楽四重奏曲の出版を担当していたベルリンの出版社シュレジンガーに、次のように書き送っています。

「亡き友人ベートーヴェンが、死の数日前に私に、あなたに手紙を書いて次のことを尋ねるように頼んできました。すなわち、あなたが彼から受け取った最後の四重奏曲の作品番号は何番か、そしてベートーヴェンがすでにこの四重奏曲に献辞を贈っていたかどうかを知ることです。作品番号については、彼は 130 か 131 であると考えていました。献辞については、あなたに送ったかどうか覚えていないので、友人のヨハン ヴォルフマイヤーに捧げてほしいと頼んでいました。」

ヨハン ヴォルフマイヤーは裕福なウィーンの織物商、音楽愛好家、ベートーヴェンの (秘密の) パトロン、友人でした。
ヴォルフマイヤーがベートーヴェンの音楽を大いに賞賛していたことは明らかで、1826 年 8 月の会話帳に、ヴァイオリニストのカール・ホルツがベートーヴェンに宛てて「ヴォルフマイヤーは 25 年前にあなたを擁護し、今や人々がそれに気付いていることをとても喜んでいます」と記しています。

ベートーヴェンは弦楽四重奏曲作品 131 をヴォルフマイヤーに献呈することをすでに検討していましたが、最終的には恩義を感じていたシュトゥッターハイム男爵に決めました。

ヴォルフマイヤーは、死後に作品 135 を献呈することでその埋め合わせをしたが、これはおそらくカール・ホルツの発案によるものであろう。シンドラーが書いているように、重病の作曲家が本当にこの献呈を自ら手配したのだろうか? 疑問が残ります。





鳥よ年ごとに

2024-10-12 20:42:00 | 古典
藤の森駅前の疎水。
金曜日は目の検査で藤の森駅近くの病院に行ってきました。

水鳥のようなものが泳いで来るのが見えたので撮ってみました。
目が悪いので何か見えませんでしたが、帰って写真を見たら川鵜でした。

『鳥よ、年ごとに』(とりよ、としごとに、フランス語:Oiseaux, si tous les ans )K.307(248d) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

1777年21歳のモーツァルト
が作曲したフランス語の歌曲です。

1777年9月、モーツァルトはかねてから犬猿の仲となっていたザルツブルク大司教ヒエロニュムス・フォン・コロレド(1732 - 1812年) に辞表を提出し、新天地を求めるために母アンナ

とパリへ旅行に向かいました。
ミュンヘンを経てマンハイムに着いたモーツァルトは、就職はそっちのけで10月末から翌1778年の3月の半ばまで長く滞在しました。

それはマンハイム楽派のすぐれた音楽家たちと知り合ったことと、16歳のソプラノ歌手アロイジア・ウェーバー(1760-1839年)

に恋したためでした。

そのマンハイム滞在中、この「鳥よ年ごとに」と次の歌曲『寂しく暗い森で』の2曲は、特に親しくなったフルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングという人物の娘エリーザベト・アウグステ・ヴェンドリングの依頼で作曲されました。

エリーザベトは後にミュンヘンでオペラ歌手として活躍し、ハイドンなども美しさと歌唱を絶賛したといわれています。

「鳥よ年ごとに」
鳥たちよ、あなたが毎年
私たちの気候を離れるなら、
悲しい冬が
私たちの木立を剥ぐとすぐに。
それは単に 葉を変えたり、
霜を避けるためだけではありません。

でも、あなたの運命が あなたを愛することを許すのは、 花の季節だけです。
そして彼女が亡くなったとき、あなたは 一年中愛するために 、別の場所で彼女を探します。




ベートーヴェンの戦略?!

2024-10-07 20:59:00 | 古典
日曜日、朝レッスンした後、プロージットオーケストラの練習で東成区民ホールへ。
摂南大学ラッピング京阪電車
今回は、合唱団の他に、4人の声楽ソリスト、ゲストコンマスの友永健二さんも入っての練習でした。
ミサ・ソレムニスはすべて合唱が入っていすが、第九は4楽章のみ。

私はミサ・ソレムニスは降り番なので、後半参加。

合唱、ソリストが入るとまた壮大な感じで熱気が高まってきました。
ソリストかっこいい!

代振りの槙野先生「ベートーヴェンは平和を祈って書いています。戦争なんかやめて花を咲かそうや!って知らんけど。ここでは花を咲かせてください。」

第九 四楽章の後は歌の人を帰して、残りの楽章をやりました。

あれこれ課題満載…私も大変💦
いよいよ追い込み!頑張ります。

プロージット室内管弦楽団10月20日フェニーチェ堺


ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲 ハ長調(Konzert für Klavier, Violine, Violoncello und Orchester C-dur )作品56は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン
が1803年から1804年にかけて作曲した楽曲。通常は三重協奏曲と略して呼ばれています。

ヴァイオリンソナタ第9番『クロイツェル』、ピアノソナタ第21番『ワルトシュタイン』、ピアノソナタ第23番『熱情』、交響曲第3番『英雄』などが書かれた時期の作品です。

当時チェロを伴った協奏曲はほとんどなく、ベートーヴェンの師匠であるハイドンが残した第1番、第2番のチェロ協奏曲などが見られるくらいでした。ベートーヴェン自身もチェロ単独で独奏楽器とした協奏曲を残していません。
ベートーヴェンが残した唯一の、チェロを伴った協奏曲です。 

このような特異な協奏曲を作曲した経緯については不明ですが、ピアノのパートが演出面では効果的でありながら技術面では比較的易しく書かれています。

一方で、チェロにとっては重音奏法や急速な分散和音や音階などを要求される難曲です。

ピアノのパートが易しく書かれている理由は、弟子のアントン・シンドラー 
が、ベートーヴェンのパトロンであったルドルフ大公

による演奏を想定してのことでした。
ベートーヴェンの指導の下で熟練したピアニスト兼作曲家となった大公は、当時10代半ばだったため、ベートーヴェンの戦略により成熟した熟練したソリスト2人がバックアップし、派手で比較的簡単なピアノパートを作ったと言うのです。

しかし、シンドラーは多くの捏造で知られており、この主張の信憑性も低いです。  

出版は1807年。
1808年、初演は復活祭前にライプツィヒで行われ、同年5月にはウィーン初演、夏のアウガルテン宮殿での

演奏会で初演されました。

初演のヴァイオリニストはカール・アウグスト・サイドラー、チェロ奏者はニコラウス・クラフト

で、彼は「卓越した技術」と「澄んだ豊かな音色」で知られていました。 

独奏楽器群がピアノ三重奏的な役割を果たしているので、通常の協奏曲のようなカデンツァはありません