音楽の喜び フルートとともに

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キツネ乗りの歌

2021-10-31 21:35:55 | ロマン派
里山に咲いていたキツネノマゴ。シソ科の一年草です。
暑いうちは、隠れていましたが、涼しくなって、あちこちに咲いています。

「キツネ狩りの歌」というと、ポップスの有名な曲が思い浮かびますが、クラシックの世界の「狐」というと、

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)
自由都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没。

1887年、ブレスラウ大学から名誉博士号を授与されました。


ブレスラウ大学は16世紀に設立され神聖ローマ帝国、その後はオーストリア=ハンガリー帝国の大学として繁栄しました。
ドイツ領となり、
第二次大戦後はポーランドになりブツロワフ大学となりました。

祝典用に返礼として作曲された「大学祝典序曲op.80」

この曲には4つの学生歌が使われています。

"Wir hatten gebauet ein stattliches Haus"(『僕らは立派な学び舎を建てた』、民謡に基づく)
"Landesvater"(『祖国の父』)
"Was kommt dort von der Höhe?"(『あそこの山から来るのは何』、狐乗り (Fuchsritt) の歌)
"Gaudeamus igitur"(ガウデアムス』、ラテン語で「いざ楽しまん」)

キツネ乗り
と訳されていますが、新入生を歓迎する時に酔っぱらって歌われる歌で、

あの丘から来るのは何?
やって来るのは、おかしなキツネ

と言った意味の無い言葉遊びのような歌詞の歌です。



この歌を含めて作られた「大学祝典序曲op80」



紅はこべ

2021-10-30 21:57:17 | 音楽
昔、飼っていたセキセイインコの好物でした。
よく採って来てはあげていました。

ハコベ。

本当はコハコベと言うそうです。
昔は街中でも隙間が有れば咲いていました。
調べてみると、人間も茹でて食べていたそうです。
柔らかくて美味しそうだったもの!
食べてみればよかった。

The scarlet pinparenel 「紅はこべ」は、1905年
パドネル オクツィ



(1865-1942)の歴史ロマン小説です。

ハンガリー出身でイギリスで活躍しました。

ハンガリーの由緒のある男爵家に生まれました。
パドネルは男爵の意味です。

父は指揮者のフェリックス オルツィ男爵、母はワォス伯爵家の出身でした。

子どもの頃、リスト、ワグナー、マスネに接して過ごしました。

1867年小作人の反乱が起こりブタペストに移住。

ブリュッセル、パリで教育を受け、ロンドンのヘザリー美術学校に入学。
モンタギュー バーストウと知り合い結婚します。

結婚後、小説を書き始めますが売れず、「紅はこべ」を夫と劇化して上演。
大好評をはくし、四年間のロングラン。
小説化の依頼が殺到します。
「紅はこべ」シリーズとして10年以上の作品になりました。

「紅はこべ」は
1792年フランス革命の最中、理不尽な理由でギロチンに送られる貴族を救い、イギリスへ亡命させる一団が現れます。

犯行時に残される紋章から「紅はこべ」と呼ばれるようになります。


アカバナルリハコベ。

ブロードウェイで劇化されたり、ミュージカルになったり、宝塚歌劇になったり、今に至るまで人気が続いています。

優雅な幻想交響曲の舞踏会が使われています。それが革命歌「マルセイエーズ」によって、かき消されます。







シャミナードと赤毛のアン

2021-10-29 23:06:14 | 近代

紅葉する茎があったので、よく見るとイヌタデ。
小さな秋、見つけました。

先週NHKで「赤毛のアン」を見ていたら、セシル シャミナーデが登場していました。

小説も、映画もアニメも読んでいたはずなのに、このようなシーンがあったことを忘れていました。

同性愛のパートナーを亡くしたダイアナのおばさん主宰の追悼パーティーでシャミナーデの演奏があるので楽しみにするアンとダイアナ。
学校で居場所が無いコールも誘って行きます。

個性豊かな来場者たちの中で、変わり者のアンとコールは、そのパーティーで出会う人たちによって励まされていきます。

ダイアナはピアノを弾くからとシャミナーデに紹介されます。
「将来は演奏家になるの。」と言われて絶句するダイアナ。

良妻賢母を目指す母親に厳しくしつけられたダイアナには考えもつかなかったことでした。

セシル ルイーズ ステファニー シャミナード(1857-1944年)
フランス帝国パリ生まれ、モナコ モンテカルロ没

ブルジョワジーの生まれ、母からピアノの手ほどきを受け、8歳の時に自作の曲をビゼーに見せます。
ビゼーは「小さなモーツァルト」と呼びかわいがります。

パリ音楽院は女性の入学許可を与えていなかったので個人教授でゴダールなどから学びました。

その間、父親は彼女の音楽教育を容認しようとしなかったそうです。

18歳でピアノ演奏会を開き、徐々に認められるようになりました。
1879年、国民音楽協会に迎えられます。

トマは「作曲する女性というより、女性の作曲家というべきだ」と言っています。

人気高まり
1908年、アメリカを訪れています。
セオドア ルーズベルトのいるホワイトハウスで演奏したり、多くの熱烈な支持者と交流しています。
1910年ピアノ曲「スカーフの踊り」を発表すると人気が出て、イギリスの香水会社が彼女の名前をつけた石鹸を出しました。


ミュシャによるシャミナーデの演奏会のポスター。

赤毛のアン、第一巻出版は1908年。モンゴメリーはアメリカで出版しています。
その後のお話し。
カナダのプリンスエドワード島アボンリーにシャミナーデがきたかどうか?わかりませんでしたが、史上初めて女性で成功した作曲家、ピアニストを、誇り高く、自立した輝く女性として描いています。

フルート吹きにとっては、シャミナードのコンチェルティーノは大切なレパートリーでなかなか難曲でもあります。








コペンハーゲンに移住したクーラウ

2021-10-28 22:10:43 | 音楽
いちごの花が元気です。
実はもう少し。

フリードリヒ クーラウ(1786-1832年)

神聖ローマ帝国ユルツェン生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

1795年外出時に転倒して持っていた瓶の破片で右目を傷つけ失明しました。

1810年コペンハーゲンに滞在中に当時住んでいたハンブルクがナポレオン一世により、フランス領に統合されてしまいます。

1811年コペンハーゲンに留まる決意をします。

コペンハーゲンは、1806年フランス革命の余波でイギリス軍の砲撃を受けて破壊されてしまいます。


ところが、復興の気運が高まり、哲学、文学、絵画、音楽。
あらゆる方面で文化が花開きます。
Danish golden age
デンマークの黄金期を迎えます。

例のロイヤルコペンハーゲンのブルーフルーテッド プレインシリーズもその頃考案されたとか…。

26歳のクーラウもその空気を感じ取ったはずです。

ベートーベンの影響を受け、独自の
ロマンチックな名作を作りました。





3人でアンサンブル

2021-10-27 22:06:49 | 音楽
今日はヴァイオリンのSさん、ヴィオラKさんが来てくれて、フルートの私とトリオです。

紅茶とロシアケーキを頂いて、ベートーベンのセレナーデop25を練習。



その後、ランチ。

夕べ作っておいた豚汁を温めて、豚肉を炒めてしょうが焼き。
その後は
フルートトリオ。
Sさん、Kさん、二人とも持ち替えできます。

タッグの黄柘植の頭部管とパウエル洋銀の本体とパウエル14Kは私の持ち物ですが、パウエル10K頭部管と本体オーラマイトはSさんのもの。

黄柘植とオーラマイトを着けてみるとぴったり。

吹いてみると音の立ち上がりが良くて、音の伸びがいいです。木管特有の温かい音色もします。

これは楽しい。

午後から
クーラウのフルートトリオ
op13
2番…いい曲。
調子にのって1番も。

ドボルザークの弦楽セレナードop96も少し。
四人ではないので…。

アンサンブルしたかったのです!

ちょっと遊んでみました。
音鳴ったよ~!






ヘンデルのフルートソナタ

2021-10-26 23:17:48 | 名曲
朝から、ピアノの坂田さんと合わせました。

いちごティラミス持って来てくれました。
いちごクリームの爽やかな甘さがおいしかった!

来月の子育てサロンで演奏する曲を決めて、練習。

他にも動画を撮ってみました。
お題は秋の感じがする曲。

紅葉、里の秋、真っ赤な秋、童謡を入れてみました。
しっとりしたメドレーです。

なので、もう一曲は秋の感じがするしっとりしない、軽快な曲をすることにしました。

ゲオルグ フレドリック ヘンデル(1685-1759年)

神聖ローマ帝国ハレ生まれグレートブリテン イングランドロンドン没

フルートソナタop1-1bの第二楽章を演奏することにしました。

1727年ハノーヴァーからイギリスに移住したヘンデルは王立アカデミーでオペラ上演に格闘していました。

もともと放漫な赤字経営のう上、ライバルから歌手を引き抜かれたりしてなかなかうまくいきません。

経営は破綻。
1737年にはついに心労からか脳梗塞で倒れてしまい、半身不随になります。

その後奇跡的に復活し、オペラを見限りオラトリオで成功することになります。

フルートソナタはその奮闘中の1930年頃のヘンデルの作品です。








ラフマニノフと絵画との関係

2021-10-25 23:41:16 | 近代
多田有里さんの個展「さをり織り」に行きました。

ののはなカフェで、

カモミールティーとシフォンケーキを頂きながら素敵な織物を鑑賞。
色合い豊かな織物の世界に浸りました。
10/30までなので欲しい方はお急ぎ下さい。

絵画と音楽は強い結びつきがあります。
時代の空気と言うものがあってお互いに影響を与えあっています。

いろいろありますが、よく知られている1つに
セルゲイ ヴァシリエヴィチ ラフマニノフ(1873-1943年)ロシア帝国ノブゴロド州セミョノヴァ生まれ アメリカ合衆国ビバリーヒルズ没

1909年32歳の時に書いた
交響詩「死の島」

アルノルト ベックリンの絵画「死の島」の

銅版画からインスピレーションを得て書かれた曲です。

12歳でモスクワ音楽院に入り、在学中にチャイコフスキーに認められたり、同級生のスクリャービンとピアノ科金賞を分かち合うなど輝かしい成績を納め卒業。

しかし卒業後の初演作品は記録的な失敗。
また2年後の作品も批判にあい挫折から神経衰弱を患います。

シャリアピンやチェーホフと親交を深め、徐々に回復。

トルストイに会いますが、国民楽派を気に入っていた彼には不興を買い、さらに落ち込みますが、精神科医の治療を受け回復へ向かいます。

作品で賞をもらい、1902年には従姉のナターリヤ サーチナと結婚して指揮者の職も得て、さらに作曲も邁進するようになっていた頃の作品です。

「島全体が墓地となっている孤島」
「その島に、死体を乗せたらしき小舟が向かっていく」
「小舟には、人型に見える白い棺桶が立像のように乗せられ、手前の漕ぎ手は亡霊のように暈されている」

なぜ、このような陰鬱な曲を、書いたのか?
悩んでいる最中には、混乱して、表現出来なかったことが、後になって落ち着いてやっと言葉になったり、表現することができるようになる。

そうすることで、考えが整理できたり、癒されたりすることがあります。そんなことかもしれません。


ヴィバルディの秋

2021-10-24 21:04:54 | バロック
里山の柿。

秋らしくなってきました。

収穫済みの田んぼ。

秋の曲の代表はやっぱりアントニオ・ヴィバルディ(1678-1741年)ヴェネチア共和国ヴェネチア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア公国ウィーン没

「和声と創意への試み」作品8ヴァイオリン協奏曲集が1625年アムステルダムのミシェル シャルル ル セーヌ社から出版されました。

パトロンのボヘミア貴族ウェンツェル フォン モルツィン伯爵に捧げられています。

12曲の内、第1から第4曲目までが後に「四季」と言われ、3曲目が「秋」です。

ヴィバルディ自身は「四季」と総称したことはないそうです。


ソネットがつけられていますが、本人がつけたのかどうかはわかっていないそうです。

第1楽章 アレグロ(小作農のダンスと歌)
小作農たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒が惜しげなく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。
第2楽章 アダージョ・モルト(よっぱらいの居眠り)
大騒ぎは次第に弱まり、酒はすべての者を無意識のうちに眠りに誘う。
第3楽章 アレグロ(狩り)
夜明けに、狩猟者が狩猟の準備の為にホルンを携え、犬を従える。獲物は彼らが追跡している間逃げる。やがて傷つき獲物は犬と奮闘して息絶える。



樟蔭大学マンドリンクラブ

2021-10-23 21:47:03 | コンサート
懐かしい樟古館。



隣は昭和2年(1927年)に建った記念館。

その昔、樟古館はマンドリンクラブのクラブハウスとして使わせて頂いていた時もありました。


記念館は練習場所としても使わせて頂いていました。


広くて、音響もよかったです。

階段の踊場が好きでした。

大学図書館として使われていた時もあり、閉架式の本を頼むと小さな木のエレベーターで2階のカウンターまで本が運ばれて来ました。
よくお世話になりました。
今では、隣に立派な図書館ができていますが。

今日は、学内ではなく

古い写真が残っていました。
この橋のこちら側に建っている同窓会館をお借りして練習でした。

今日はピッコロを持って行きました。

2年間、新入生の募集がコロナでできていません。

57年続いたマンドリンクラブの存亡の危機に先輩が立ち上がり…毎月他のOGにも声をかけ指導を続け、コンサートを手伝い、募集も手伝い。これまでどれだけ尽力されてきたことか…。

その先輩にして、お手上げの状態です。

学長初め、大学の先生方にお力添えをお願いするお手紙を書かれたそうです。

「57年続いたマンドリンクラブも無くなるかもしれません。今度の定期演奏会にもOGが50人集まって演奏しますが、なんともできません。助けて下さい。」と、

力を貸して下さる約束をしてくださったそうですが、学生さんが入ってくれないとどうにもなりません。

私はお手伝い出来なくてもどかしいですが、どこかで新入生に繋がってくれますように🙏

第55回樟蔭大学マンドリンクラブ定期演奏会
11月13日(土)
2:30開場 3:00開演
東大阪文化創造館 大ホール
近鉄八戸ノ里すぐ 入場無料



エーデルワイス

2021-10-22 22:14:33 | 音楽
エーデルワイスの花はアルプスの高山植物です。
スイスのモンブランの登山列車から見えたエーデルワイスに驚いた覚えがあります。

11/13(土)3時開演
東大阪文化創造館
樟蔭大学マンドリンクラブ
第55回定期演奏会の最後に「エーデルワイス」を演奏します。

ハリウッド映画の「サウンドオブミュージック」のイメージで思っていた花とは少し違っていました。

1965年製作されたこの映画で、ナチスの手を逃れて、故郷オーストリアを後にして、スイスの山を越えるトラップ一家。

オーストリア最後の夜にナチス監視下の緊迫したコンサートで歌われる国歌のような歌。
とても感動しました。
感動してその後のマリアさんの著作も読みました。

ところが、この曲は実はオーストリアではあまり知られていない曲だそうです。

オーストリア国歌は1946年に制定された大河の国、山岳の国だそう。

エーデルワイスと全く違う。

その前の前のはこんな曲です。これの方が結構有名です。
ライヒャがフルート四重奏の最後に変奏曲を作っていたりします。

じゃあエーデルワイスってなんだったのか?と言うと、第二次世界大戦中のドイツ山岳部隊の兵士が中心に歌っていたもので、ヘルムス ニールという人の作詞作曲だそうです。

内容はエーデルワイスを見て恋人を思うというものです。

オーストリアはもともとドイツを含む大帝国だったこともあり、ドイツの国歌は歌詞を変えたオーストリア=ハンガリー帝国国歌。という
ちょっと驚きの事実があったりします。

エーデルワイスはオーストリア第二の国歌どころか、全く知られていないと言うことです。

オスカー ハマースタイン2世、リチャード ロジャースでもなく、それでも映画は感動的だし、名曲だと思います。