音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

トリルキーサイト

2009-04-30 21:19:40 | フルートレッスン

フルートコミュでトリルキーや変え指のサイトを教えてもらいました。英語ですが、いろいろなフィンガリングが網羅されていて、使えます。
http://www.wfg.woodwind.org/flute/fl_tr2_3.html

同じ音のトリルでも、ベーシックな指使い、少し♭(#)気味、音程がいいもの、指が動かしやすいもの、ハーモ二クスを使ったものなど、多いもので5種類くらい紹介されています。

但し、実際に使う時には、普段使わない指使いなので、なかなか難しいものもあります。
そんな時には、私は、ソノリテの最後の課題、跳躍の音階で練習します。

主になる音をトリルで、8拍のばし、次の音を鳴らします。クロマティックで3オクターブということは、36回トリルの音を練習できるだけでなく、全ての音からの移動が経験できます。はじめは頭が痛くなりますが、1回、2分ほど、1週間もやれば、たいていの苦手指使いは克服できます。

試してみてください。


二つの暴力

2009-04-29 20:57:40 | 子ども

今週は子どもへの暴力について、社会的に大きな変化となるだろう事件が2件ありました。

4年の女の子の虐待死で、私が一番ショックを受けるのは、周りの大人たちが気づいていながら、通告を行っていなかったこと。確証がなかった。親に聞いたら、親が否定した。しつけだと言われた。
双子の片方の子どもは実父の下へ逃げ、残った子どもがやられたこと。
確証を求めているうちに、虐待を止める機会はどんどん失われていったこと。
アメリカの虐待防止法では、通報はあらゆる大人の義務で、専門職が、通告を怠れば、罰則規定があります。そして通告は虐待件数の何倍もの誤りがあるそうです。しかし、子どもを救うことが優先されているので、過誤は問われないそうです。

もう一つは体罰の判決。 日本国憲法は非暴力の一つのよりどころでしたが、大変難しいところに来たというのが私の感想です。
教育基本法は、懲戒権を歌ってはいませんが、民法の規定を根拠に教師が子どもの胸倉をつかんで、壁に押し付け、怒鳴るということが、体罰ではなく、指導の一環であると認められました。

体罰かどうかは客観的に判断する。というのですが、判断するのは誰でしょうか?
大人が判断するのではないでしょうか?子どもが暴力を奮いそれをやめさせるために、胸倉をつかみ壁に押し付けて怒鳴った。子どもはその夜からPTSDを発症した。それは体罰でなく指導である。

それでは、子どもが、大人の不当に怒り、胸倉をつかみ、壁に押し付けた場合、客観的に判断し、指導と認められることがあるのでしょうか?あり得ないと私は思います。こういう力や立場の格差によって支えられた判断は、客観的判断ではなく、ある立場を代表する一つの価値観にしか過ぎないと私は思います。先生がそれによって職を奪われることが妥当かどうか?という話をしているのではなく、暴力かどうかの判断を本人の心ではなく、他の基準を用いることが、妥当かどうか?という話をしているのです。

私は、子どもが「怖い」といったり、暗い顔を見せたら、すぐにやめて「ごめんなさい。」といえる大人でありたいし、地位や立場によって二重の基準を持つより、全ての人を対等に尊重する人でありたい。そして教育基本法や、基本的人権はそのことを明確に歌っていると私は信じてきました。
正直言って、がっかりする判決でした。「体罰ではあるけれど、補償の対象とするほどではない。」という判決ならまだ理解できますが、これほどのことを司法を扱う人たちが「体罰ではない」と言い切ってしまうとは。

裁判官が、「しつけです」「あの子は素行が悪くて」という親の話を鵜呑みにした先生と同じに見えてしまいます。本当にショックです。


ブログ一周年

2009-04-28 22:44:25 | 子ども

ブログ一周年記念。このブログを初めて一年が経ちました。ささやかな私事にお付合いくださり、本当にありがとうございます。

テレビやコミック、世間の中にあれほどたくさんのお笑いや、明るさが必要とされるのはなぜでしょう?
「たくさんの愛情に飢えた人たち、物質の豊かさに比べて、心の貧しさは深刻です。」10年以前に日本に来た時にマザーテレサが言った言葉です。

「先生、こいつクライねん!」
「そうや、そうやクラスの中でもクライっていわれてんねんで。」
言ったこどもは何人かで遊んでいます。言われた子どもの表情がたちまち曇りました。

「わからへんなぁ?クライってどういうこと?先生はこの子はクライって思わないけど、どんなことをクライっていうの?」
「えーっとな、みんな笑ってるのに、こいつだけわらえへんねんで。」
「ふーん。それだけ?」
「うん。」
「面白無かっただけちがうの?先生もよくあるよ。」
「ふーん。」
言った子ども達は、もうそれ以上、何もいいませんでしたが、言われた子は、離れて聞いていて近づいてきませんでした。

しばらくして、クライと言われた子どもは、他の子(昨年、泣き虫といわれていた子ども)と私の方にやってきて、
「先生みて、鉄棒でおもしろい遊び方見付けたねんで!」
新しい遊び方を見せてもらいました。二人のその楽しそうなこと。仲間と新しい喜びを見つけた誇りに全身が輝いていました。
笑顔が、本当に美しかったです。
その笑顔をいつまでも心に留めておけるように、ここに書いておきます。感謝とともに


ヒンデミットの時代

2009-04-27 22:14:03 | 近代

朝からフルート三昧。午前中は生徒さんのレッスン、昼からは、ピアニストSさんのお宅でピアノとアンサンブルをしました。

ヒンデミット(1895~1963)の無伴奏「8Stucke」をアンサンブルを始める前に、一緒に弾いてもらいました。フルートではつかみにくかったこの曲のリズミカルな動きのおもしろさ、切れのよさがピアノで弾くと際立って、また一つこの曲への理解が深まった気がしました。Sさんに感謝です。

1934年、ヒンデミットのオペラ「画家マティス」はベルリンフィル、フルトウェングラー指揮で初演、好評にも関らず、ヒトラーにより、上演禁止になります。ヒンデミットがユダヤ人音楽家と弦楽合奏をしていたのを嫌ってのことだといわれています。

フルトヴェングラーはこのことに対して抗議し、結局、ナチスは世界的に人気のあったフルトヴェングラーに擦り寄る形で、上演を赦します。しかし、ヒンデミットはその年にスイスに亡命。その後アメリカへ移ります。
フルトヴェングラーは、その後もベルリンフィルで指揮し続けますが、敗戦直前にはやはり亡命しています。

トスカニーニは戦争のはじめに、ナチスの音楽家になるなんてと、フルトヴェングラーと大喧嘩をして、袂を分かっていますが、このヒンデミット事件を通して、フルトヴェングラーの複雑な立場が浮かび上がってきます。

「大半の人はフルトヴェングラーかなぁ。」Sさんとヒンデミットをツマに話します。あらゆる中間管理職。父と子の間の母親、学校と子どもの間の先生。
「トスカニーニインタビューを見たときには、フルトヴェングラーはナチスに加担した、力の使い方を間違えた人と思ったけれど、こうしてみると、私達の大半はフルトヴェングラーの位置だよね。白薔薇のように戦った人は10%、積極的ナチス党員も10%、後の大半は沈黙し、傍観していていた一般市民。彼は音楽活動のことしか考えていなかっただけ。」

ヒンデミットの時代は、厳しいです。フルトヴェングラーはまだ、ヒンデミット擁護しただけ声をあげた人かもしれません。自分ならそのような状況で、声をあげられたでしょうか?命まではとられない今の時代であっても、傍観することで、子どもを取り落としてはいないでしょうか?まだまだ、修行が必要です。


リペア

2009-04-26 20:51:26 | 楽器アクセサリー

昔は、この辺りにもシャガの花、北向きの沢の近く、半日陰の藪などに、自生していました。

まだ、暖かいコンサートの余韻が残っています。昨日、コンサートの後、梅田ドルチェ楽器で、楽器のメンテナンスをしてもらいました。
パウエルの無料調整会。東京のパウエルジャパンからリペアマンが来て、パウエルの調整をしてくれます。
F E Dkey がこの前から、ペタペタとトーンホールにくっついて、気持ち悪い。
そのことを伝えると、分解して、綿棒にアルコールを浸して、タンポの汚れをふき取って、サンドペーパーでトーンホールの汚れを落として、もう一度、組み立てて息をタンポに直接吹きかけて様子をみる。
そんなことを2,3度繰り返しながら、「グシュン!」

「お風邪ですか?」
「いやあ、そうなんです。」
「東京から風邪で移動とは、きついですね。」
「はい。根性です。明日もやらないけませんからね。」
「たいへんですね。」お疲れ様です。お仕事とは言え、病気をおしてまで、来てもらえて感謝です。

こすっても、磨いてもぺたぺたがとれないので、結局、タンポをあきらめて、 E Fkeyのタンポを変えてくれました。他にもLow Ckeyを取り替えて。

「どうぞ。」
吹いてみると、「ああ、滑らか。」気持ち良い。
特に低音は、どうも鳴りが悪く、苦しんでいたのが、嘘のようになります。
単純なものです。これだけで、朝から気分が良いです。肩こりも半減。ならないと必死になってkeyにしがみついていたんですね。
気分爽快本当にありがたいです。

追記 アルコールで紙を浸したもので、タンポを拭くのは、汚れがひどいと思ったときに、自分でやってもOKだそうです。お試しください。



豊中シティマンドリンアンサンブル10周年記念コンサート

2009-04-25 21:05:39 | コンサート

豊中シティマンドリンアンサンブル10周年記念コンサート本番でした。
メンバーは24歳から94歳imagesリハーサルの写真です。
マンドリンの群れは私がマンドリンクラブに入って初めて、演奏させてもらった曲で本当になつかしかった。当時はマンドリンプレクトラムなのでフルートではなくギターで参加でしたが。
ギターアンサンブルはヴィヴァルディーとニューシネマパラダイス心にしみる美しさでした。

下の写真左、司会の大石映子さん池田ケーブルTVのお仕事の他、FMおおさか16時55分の番組http://fmosaka.net/driveporter/
で活躍中です。番組リクエストで紹介されると5000円ゲットできるそうです。さわやかですっきりとした司会でした。 右は主宰で指揮者、プロのソロマンドリニストの葛原睦子さん
http://plectrum-web.hp.infoseek.co.jp/cd/kuzuhara.html 
images
カラーチェのⅡプレリュードは、マンドリンの魅力を余すところなく表現されて素晴らしい演奏でした。こんな演奏が聴けるなんて、来てよかった。

フルートは「時の踊り」一曲。席についてすぐ、Aの音を1stマンドリンの三野さんにもらおうとしたら、94歳の小栗さんが席に着くのを助け、マンドリンを渡して楽譜をセットして…その間の、メンバーのみなさんや、会場のみなさんの間に流れている時間が、限りなく
、暖かく尊敬に満ちていること。
これが、この楽団のよさなんだんなぁと思いました。演奏も本当に楽しかった。

テノールの清原邦仁さんとアンサンブルの共演http://www.sutv.zaq.ne.jp/infinito/
imagesimages
風邪引いて調子悪いなんて嘘みたいな、のびやかで美しいテノール。「カタリ カタリ」では会場で口を動かしている人が何人もいました。アンコールの「フニクリ フニクラ」は手拍子が出て、大盛り上がり
5月2日に河内長野で喋々夫人のゴローをされます。詳しくは清原さんのHPをご覧下さい。

もう一人お写真はないのですが、賛助コントラバスの安河内大介さん通称めだかくん。普段はジャズをされているそうですが、本当に楽しそうに演奏されるので、見ているほうも幸せになりました。高槻ジャズストリートに5月4日に出演予定だそうです。どのバンドか聞く前に帰ってしまいました。ご存知の方、コメント下さい。高槻ジャズストリートのホームページはこちら。http://www.0726.info/

音楽は本当にいいです。また仲間が増えました
豊中マンドリンアンサンブルのみなさん、葛原さん、共演のみなさんご一緒できて本当にたのしかったです。ありがとうございました。


耳鼻咽喉科

2009-04-24 20:46:56 | 日記

雪柳と木瓜。雪柳を見ると、緑の指という漫画を思い出します。不思議な緑の指を持つ子ども、触れると全ての植物が芽吹き、生長します。街中が花だらけになる。そんな、お話。お行儀悪く、先までびっしりちいさな花がついているからかもしれません。

明日本番を前にして、耳の調子が悪いです。先週練習してて、耳がごそごそして、ぼわーんとなって聴こえにくい。
今日になっても治らないしだんだんひどくなるので、さっき、耳鼻咽喉科にいってきました。

ごそごそするのは、右耳の鼓膜に細かい耳垢がついているから(不潔にしていたわけではありません。機械でないと取れないところにたまたまくっつくことがあるそうです。念のため)と、機械で吸引。

でもまだぼわーん。精密検査をして、鼓膜は大丈夫。
「花粉症で鼻が炎症を起しているから、耳管の内圧が上がっているのかもしれない。
風邪でそうなる時もあるよ。」とよくわからないらしい。とりあえずインタールの点鼻吸引をし、薬ももらってかえりました。

帰り際に先生「頬の筋肉が使いすぎで、炎症して耳管が炎症することもあるよ。鼻の状態がよくなれば治るよ。フルートは僕やったら吹かんなあ。」
「はい。」と神妙にいいながら、心の声は『これぐらいなら大丈夫。絶対に吹くし。』

それにしても、歳かしら?いくら吹いても今までこんな状態になったことはないのに
低音を吹くと、ゴーゴー耳の中でなっています。耳栓をして吹くと、少し良い見たい。
聴こえないわけではないし、耳が遠い方が、フルートは良く鳴るので、明日の本番は大丈夫ですよ~。


見つけたよ。

2009-04-23 20:54:50 | 子ども

今年初物のたけのこ。近所の友人にいただきました。実は、毎年頂きます。友達から頂きものだそうですが、土付きのたけのこを皮むいて、ゆがいて袋に入れてくれるのはその友人です。その手間と時間がわかるのは、やったことのある人だけ。
今夜、たけのこを細かく刻んで、豆板醤と生姜、もやしと白菜と、ミンチ肉で中華風いためと、ジャガイモ、大根、にんじんの煮物。セリをのせて頂きました。たけのこがほんのりあまかった。おいしゅうございました。ありがとう!本当に感謝です。

子どもはいろんなものを見つけてきます。
小さなバッタや、蛙はあたりまえ、シデ虫、ガガンボは孵った途端発見されてしまいます。
今日は、ハサミムシを見つけて大騒ぎ。「なんや、こいつ!」「おい、みんな早よきて!へんなやつがおる!」

5つ葉のクローバーを見つけたのは3年の女の子、びっくりしていたら、またもう一枚。今日は2年生の女の子が虫食いの5つ葉のクローバーを見せてくれました。

1年生の女の子は「つるつるの石」白や黄土色、毎日きれいな石を一つくれます。

1年の男の子はカラスエンドウ。剥いて中味を出して見せてくれました。本当にきれいな黄緑色の豆。「宝石みたいにつやつやで、いい色だねぇ。」というと、「先生にもあげる。食べたらおいしいねんで。」とくれました。「ありがとう。」というと、帰るまでにどっさりとってくれました。今日会ったら、「先生、あれ食べた?」「ううん。まだ」「あれなぁ、食べたら毒やねんて。食べたらあかんねん。」
あら、そうだったの。良かった。まだ食べる前で、教えてくれてありがとう。」

「先生、これ見て」
「何?」
折り紙のウラには地図の絵
「迷路?いやちがうな。これはひょっとして宝の地図?」
「うん。Aちゃんが書いてくれてん。今から探しにいくねん。」

子どもたちは、喜びや幸せは特別な何かや、お金がなければ発見できないものではなく、すぐそばに当たり前にあることを教えてくれます。本当に子どもに学びたいです。
簡単には喜んだり、感動したりしないぞ!と構えている、さびしい、気難しい大人になるより、よく笑い、喜び、感動する大人になった方が、ずっと幸せにじゃないかな?


信号

2009-04-22 22:40:36 | 子ども

ペルー、ブラジル、中国、韓国。人数は少ないですが、多様な国籍の子ども達が来ています。

言葉を理解するのも早く、たいていの場合子どもが家族の中で一番よく日本語を話せます。
大人たちは、どこから来たか知っているので、びっくりするくらいうまいと思ってしまいますが、子どもの集団の中では、やっぱりハンディがあります。

いろいろな規則を説明するのも、日本語。なぜ守らないといけないかを説明するのも日本語。
先月まで自由に保育園や、幼稚園で遊んでいたのに、勉強、宿題、座席、決められた時間。
それはストレスだろうと思います。

全てが窮屈に、押し付けがましく感じられるのかもしれません。少しでも、守りやすくと思って、

「信号をみんなが守らなかったら、あぶないでしょ。ルールはみんなの安全のためにあるんだよ。」というと、「ペルーには信号がないから、ぼくわからない。」
「えーっ、そんなわけないじゃない。」うそだと思って言ってしまった。

家にかえって、夫に話すと、「信号、ないかもしれないよ。」
「ええーそうかな?」
「そうだよ、韓国でも、中国でも信号があるのは、都会だけだよ。少し田舎に行ったら信号なんかないよ。」あちこち仕事で行く夫の実感らしい。
「そうなの?」
「ペルーも田舎から来たんだったら、見たことないかもしれないよ。子どもはあちこち移動しないし。」

今日、職場に行ってその話しをしたら、「そうかもしれない。日本でも、石垣島に行ったら、信号は一つもなかったわ。」という人がいたり、「そうそう、私も田舎やったから、信号は町に一つしかなかったわ。」

ああ、恥ずかしい。私って本当に無知。自分の尺度で人を測ってはいけません。
子どもを嘘つきにしてしまった。本当に、ごめんなさい。もっと、気をつけます。


蛙の季節

2009-04-21 22:03:05 | 子ども

今日も雨あまり仕事に行かないのに、最近雨が多いです。遊びやイベントの時に晴れるので晴れ女だと、長年思ってきましたが、これも雨女というのかな?
今日は体育館が借りられて、ほっとしました。広い体育館で、ドッジボールをしたり、大縄跳びをしたり、動きたくない子は部屋で、本を読んだり、決められた屋根のある場所で砂遊びをしたり。

蛙のシーズンになりました。運の悪い蛙が5匹ほど、つかまって、泥水の水溜りに入れられたり、カップ面のケースに入れられて、捕まえられたり、なでられたり、ひっぱられたり。
「俺の蛙や。」「ちがうで、俺やで!」とか愛されている蛙は大変です。
靴箱の中に入れておいて、お持ち帰りの蛙は、下校時間になると必ず「おれへん!」と大騒ぎする子がいたり。蛙が嫌いな保護者と子どもで、「放しなさい!」「いやや、持って帰る!」とおおもめの元になったり。
忘れられて、干物になったり、蛙にとっては災難としか思えない状況が繰り広げられます。

大切ししているつもりなのに、殺してしまった。かわいがろうと思って傷つけてしまった。
無邪気や、無知というものが、害になる場合があるということ、命が永遠ではないことを、学んでくれればと願います・・・。蛙の尊い犠牲のもとに