音楽の喜び フルートとともに

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ラインという名の交響曲

2024-07-05 21:01:00 | ロマン派
子育てサポートで週2回各1時間ほど預かっている5歳児とお買物ごっこのカードを作って4日。

まだ、遊べません。
カード増殖。
お札とコインも…。
「UFOキャッチャーも作ろう。」と言い出して…割り箸とリボン、ゼムクリップを出したら…う〜んUFOキャッチャーというよりも釣り。

こちらは景品。
グミやクッキー。
上機嫌で5分だけ釣りしました。
今日は暑かったので水辺が恋しい!

壮大なお買物ごっこになりました。
まだまだ拡大しそうです。

ロベルト シューマン(1810-1856年)
プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

29歳のころのシューマン。ヨーゼフ・クリーフーバー(1800年 - 1876年)によるリトグラフ。1839年

は1840年にクララ

と結婚した彼はピアノ曲から歌曲に創作分野を転換しています。

さらに翌年には交響曲第1番に着手。
1845〜1846年交響曲第2番。
1851年交響曲第3番。
1832年にツヴィッカウ交響曲を書きますが、2楽章まで書いた後、止まってしまいます。
完成した交響曲は3曲。

交響曲第3番は「ライン」と呼ばれてぃす。
1850年に作曲され、1851年2月6日にデュッセルドルフにおいてシューマン自身の指揮によって初演されました。

1847年5月に長男を失い、11月、盟友のフェリックス・メンデルスゾーン

の死によって、シューマンは打撃を受けました。

しかし、フェルディナント・ヒラーの後任としてドレスデンの男声合唱団の指揮をすることになり、シューマンはこれを混声合唱団に拡大するなどして力を注ぎました。

1849年5月にドレスデンで革命蜂起(ドレスデン五月蜂起)

が起こると、シューマンは心情的には自由主義の立場にあったが、精神障害や家族の安全のこともあってマクセンに避難します。
この間、革命的な音楽や行進曲を作曲しています。

さらに、8月のゲーテ生誕100年記念祭に向けて、『ゲーテのファウストからの情景』の作曲をすすめ、ピアノ曲集『森の情景』を完成させました。

1850年、再びヒラーの後任としてデュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれます。

1850年頃のシューマン《ダゲレオタイプにて写真撮影》

9月に同地に到着したシューマン夫妻は盛大な歓迎を受けます。
シューマンはライン川沿岸を好んで散歩し、9月と11月にはライン川上流に位置するケルンにも足を延ばしました。

壮麗なケルン大聖堂に感銘を受け、折しもこの時期に挙行されたケルン大司教ヨハネス・フォン・ガイセル

の枢機卿就任式の報に接し、交響曲の霊感を得ました。

シューマンは同11月にチェロ協奏曲を完成させると、ただちに交響曲の作曲に取りかかって、12月には完成しています。

「ライン」の副題は、シューマン自身が付けたものではありません。
しかしシューマンがライン川の川下りやそれを取り巻く環境に大いに触発されたことは間違いありません。

第1楽章生き生きと(Lebhaft)
(ローレライ)

ライン川にそびえるローレライ

ローレライ像

第2楽章スケルツォ きわめて中庸に(Sehr mäßig)
(コブレンツからボン)

コブレンツの街並みとライン川

第3楽章速くなく(Nicht schnell)(ボンからケルン)

ボンとライン川

第4楽章荘厳に(Feierlich)
(ケルンの大聖堂)

第5楽章フィナーレ 生き生きと(Lebhaft)
(デュッセルドルフのカーニヴァル


1829年5月、初めてライン川を見たシューマンが母ヨハンナに宛てて手紙を書いています。

「老いて堂々とした父なるラインの初めて見せる光景を、冷静な心全体で受け止めることができるように、ぼくは目を閉じました。

それから目を開いてみますと、ライン川はぼくの前に古いドイツの神のようにゆったりと、音も立てず、厳粛に、誇らしげに横たわり、それとともに、山や、谷のすべてがぶどうの楽園である、花が咲き緑なすラインガウのすばらしい全景が広がっていたのです」





愛するご当地グルメ

2024-07-04 21:03:00 | 古典
家族が買ってきました。
「パインパン」
昨年阪神タイガースの岡田監督のおかげで大ヒットして、こんなもの作っていたのですね。
普通に生地がパイン味のパンでした。

それから塩こんぶパン
実は塩こん部長の工場は枚方にあります。

チーズ味

クリームチーズが挟んであって、なかなかおいしかったです。

アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


の生誕地ザルツブルクは「塩の城」と呼ばれた塩の名産地でした。

同量の金と同等の価値があるとされた塩をめぐり、教皇の直轄地として繁栄を極めました。

保存食として食品の塩漬けが広く浸透していました。
小さな町にもかかわらず、この時代には二十数軒の仕出し屋があったとされています。

オバウアー1500年代から営業されている仕出し屋現レストラン

1782年8月31日、離れて暮らす父親に宛てた手紙が残されています。

「先日、お世話になっているヴァルトシュテッテン男爵夫人とザルツブルクの牛タンが素晴らしいという話で盛り上がりました。夫人が“いつか食べてみたいわ”と言ってくれたので、ぜひ送ってほしい」

その10日後くらいに書かれた手紙には、「お父さん4本も送ってくれてありがとう!2本は夫人にあげたけど、残りの2本は私と妻で食べちゃった!」と書かれています。

モーツァルトが愛した、ザルツブルク地元のご当地グルメ、「牛タンの塩漬け」。

モーツァルトが活躍していた時代は、現在のように流通がしっかりと整備されていたわけではないので、ザルツブルクから230km離れているウィーンに荷物を送る場合、5日間ほどかかっていたそうです。

5日もかかると、食材が傷んでしまいます。なので牛タンは塊のまま大量の塩やタイム、オレガノなどのハーブと一緒に擦りこんで、塩漬けにしていました。

それをスライスして、ホースラディッシュというローストビーフなどに添える西洋わさびと、卵黄、サワークリームなどで作るソースをかけて食べていたそうです。

このホースラディッシュソースは、ヨーロッパの伝統的なソースです。

ザルツブルガー ツンゲ レシピ


牛タン 1本(1500g)
塩 大さじ1
--- (b) ---
水 300ml
塩 40g
黒砂糖 20g
玉ねぎ(薄切り) 40g
にんじん(薄切り) 40g
ローリエ
ブラックペッパー
---------------
①牛タンに手で塩をよくすり込む。これを大きめの容器に入れて落としぶたと重石をして冷蔵庫で汁が上がるまで2~3日漬け込みます。

鍋に(b)を入れて煮立ったら、すぐに火からおろして冷まします。
(1)の汁気を切ってよくふいて容器も洗う。牛タンと冷ました汁を入れて落としぶたと重石をしてさらに冷蔵庫で1週間漬け込む。

(2)の牛タンをさっと洗い、圧力鍋にローリエ、ブラックペパーを加え、牛タンがかぶるまで水を入れ、加圧後30分程煮ます。
その後、寸胴鍋に移してさらに30~40分程煮る。(竹ぐしを刺して澄んだ汁が出ればOK) 汁ごと冷まして冷蔵保存します。(ハウス食品)

ホースラディッシュのソース


ホースラディッシュ250g
塩ひとつまみ
オリーブオイル30g
パン(mollica白い所)100g
砂糖15g
白ワインビネガー150g

すべて混ぜてミキサーにかけ、ピューレ状にするだけ。(クックパッド)

1782年7月モーツァルトはオペラ「後宮よりの誘拐」を上演しています。
オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の依頼により作曲されました。

1781年7月30日に台本を受け取ったのちに作曲を開始しました。

同年9月にウィーンを訪問するロシアの大公の歓迎式典で演奏される予定でしたが、大公の訪問が11月に延期され、別の曲が使われることになったため、モーツァルトは曲の構成を練り直して翌1782年5月19日に完成。

そして7月16日、ウィーンのブルク劇場で初演されました。

8月3日にはコンスタンツェ ウェーバー(1762-1842年)

と結婚しています。

オペラ「後宮よりの誘拐」
海賊に誘拐されたコンスタンツェは太守に売られます。
太守に求愛され拒みますが、後宮に入れられてしまいます。
婚約者のベルモンテはなんとか後宮からコンスタンツェを救おうとしますが、失敗します。
残忍な太守でしたが、2人の嘆きをみて改心し、赦し、解放することにします。

イェニチェリの合唱「偉大な太守を歌で讃えよう」太守が登場する時に歌われます。


世界樹の異変

2024-07-03 20:59:00 | ロマン派
シマトネリコの木、最近関西でもよく見かけます。
新しい家の庭に植えられていることが多いです。

調べてみたら、日本ではもともと沖縄以南に分布していたのが、気候変動で、このあたりでも植えられるようになったそうです。
この木、何故かカブトムシが好物でたくさんよってくるそうです。
それだけならいいのですが、本来樹液を吸うカブトムシが樹皮をかじるそう。
本来会わないはずのものが出会ってしまって特異な反応を起こす例だそうです。
しかも夜行性のカブトムシがその木についたものだけ昼間も行動するそうです。
不思議です。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没

楽劇「ニーベルングの指輪」は1846(33歳)-1873 年(61歳)にわたって書いた壮大な楽劇で、上演時間約15時間、4日にわけて上演されます。

序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold):2時間40分
第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre):3時間50分
第2日 『ジークフリート』(Siegfried):4時間
第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung):4時間30分

1876年バイエルン王のルートヴィヒ2世の後援で建てられたバイロイト祝祭劇場で全曲初演。

バイロイト祝祭劇場1882年

バイロイト祝祭劇場の内部

ここでの主な上演作品になっています。

この楽劇はもともと北欧神話を下敷きに描かれています。
登場するのは北欧の神々と人間の間に生まれた半神のような存在や人間、巨人や小人、妖精や竜などです。

その神話の中では、ユグドラシル(トネリコ)は世界を体現する巨大な木であり、アースガルズ(神々の国)ミズガルズ(人間の国)ヨトゥンヘイム(巨人の国)ヘルヘイ(死者の国)などの九つの世界を内包する存在です。

英語で "World tree"、日本語では、世界樹(せかいじゅ)とか宇宙樹(うちゅうじゅ)と呼ばれています。

北欧神話における世界図
中心の木がユグドラシル。
『スノッリのエッダ』の英語訳本(1847年)の挿絵
ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』における「神々の黄昏」の冒頭「ワルキューレの岩」で、第一のノルン(運命の女神)が

「一人の大胆な神ヴォータンが水を飲みに泉にやって来て 永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました そして世界樹のトネリコの木から枝を一本折り その枝から槍の柄(つか)を作りました 長い年月とともに その枝の傷は 森のような大樹を弱らせました 葉が黄ばんで落ち 木はついに枯れてしまいました」と歌います。

第2のノルンが続きます。
世界を支配したヴォータンの槍も、今や1人の勇者によって打ち砕かれた。
ヴォータンは枯れてしまったトネリコの木を根こそぎ倒して、薪にしてしまった。
その薪はヴァルハル城の周囲を取り囲むように高く積み上げられている。

 第3のノルンは未来を憂いています。
薪が燃える時、神々の終末が訪れてしまうだろうと、ノルンたちは恐れます。
終末を少しでも遅らせるべく必死に運命の綱を紡ぐのだが、手繰り寄せた綱が切れてしまう。3人は永遠の知恵の終焉を悟り、地の底に降りていきます。

これが、長い楽劇の初めの部分です。
神々の世界の終焉…世界樹が燃え上がる。
予言の成就までの愛と欲望の物語でもあるのです。

ヴォータンが、指輪を奪うために人間との間に産ませた兄妹ジークリンテとジークムント。

トネリコの樹に刺した剣ノートゥングを引き抜いた者がジークムントで、英雄としてジークリンデを得て、指輪を手に入れるというヴォータンの計画のもとに、ジークムントはノートゥングを引き抜きます。しかし…。


バレエで知られている音楽家

2024-07-02 21:02:00 | ロマン派
アガパンサスが近所の路上に咲いていました。


南アフリカ原産。
「アガパンサス (Αγάπανθος)」はギリシャ語の ἀγάπη(アガペー「愛」)と ἄνθος(アントス「花」)の2語の組み合わせであることから、花言葉は「愛」や「恋」「恋の訪れ」なのです。

7月になりました。
が、今日はまだ梅雨。日本中あちらこちらで大雨が降っていました。
どうか被害が少なく収まりますように。

音楽では注目されないのに、バレエ音楽としてバレエの世界で知られている作曲家に
レオン ミンスク(1826-1917年)ボヘミア王国ブルノ近郊生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

がいます。
主にロシア帝国で活躍しました。
作曲家・劇場指揮者・ヴァイオリニスト。19世紀のバレエ作曲家では最も人気のある一人。本名はルートヴィヒ・アロイジウス・ミンクス(Ludwig Aloisius Minkus)といい、ポーランド人とチェコ人の血筋。

振付師マリウス・プティパ(1818-1910年)フランス王国マルセイユ生まれ、ソビエト連邦クリミア グズノフ没

1870年プティパ
の協力を得て、20年近くにわたってペテルブルクのロシア帝室バレエ(現マリインスキー・バレエ)のために舞踊音楽を作曲しました。

ミンクスの最も著名なバレエ音楽には、「ドン・キホーテ」(1869年)、
主人公キトリを演じるE・スポカイデ
「ラ・バヤデール」(1877年)

ニキヤ役を初演したE・ヴァゼム

ソロル役を初演したL・イワノフ
「パキータ」(1881年)
デルデヴェスによるピアノ楽譜の表紙。1847年。
の3曲があり、これらは今日でも世界中で、プロフェッショナルのバレエ団の基本の演目となっています。

また、1884年にアドルフ・アダン(1803-1865年)フランス共和国パリ生まれ、パリ没

の「ジゼル」

T・カルサヴィナとV・ニジンスキーによる『ジゼル』(1910年)
を、1885年にはフェルディナン・エロール(1891-1933年)
フランス王国パリ生まれ、フランス王国ヌイ シユル セーヌ没

の「ラ・フィユ・マル・ガルデ(リーズの結婚) 」
ゴールスキー版 『ラ・フィユ・マル・ガルデ』 の一場面。左からシモーヌ役のG・リャプツェフ、コラ役のM・モルドキン、リーズ役のS・フョードロワ。1915年頃、マリインスキー劇場にて。
を改作しました。この2曲のミンクス版は、現在でもロシアバレエの人気の演目です。

バレエ音楽「パキータ」
第1幕
サラゴサ郊外の谷間。

戦役で権力者となったデルヴィリ伯爵は、息子を総督ロペスの妹と縁組させようとしていますが、リュシアンは愛情を感じないセラフィナとの結婚には気乗りがしていません。
総督ロペスもまた自国に攻め込んできたフランス人どもを心密かに憎んでいました。

このときイニゴの率いるジプシーの一団が山から下ってきました。
この中にジプシーらしからぬ雰囲気のパキータがいます。
プティパの復活劇でパキータを演じるエカテリーナ・ヴァゼム(1881年)

リュシアンは彼女に惹きつけられます。
イニゴも以前からパキータに好意を抱いていたので、リュシアンに対して激しく嫉妬します。

プティパの復活公演(帝国バレエ団)におけるパキータ役のマリア・ゴルシェンコワ、イニーゴ役のフェリックス・クシェシンスキー、リュシアン・デルヴィイ役のパベル・ゲルト(1892 年)
2人は衝突しそうになりますが、総督のとりなしで何とかその場は収まります。

イニゴがリュシアンに敵意を抱いていることを見てとった総督ロペスは、イニゴを雇ってリュシアンを暗殺することを思いつきます。

第2幕
第1場
ジプシーの住居の中。
パキータは昼間出会った将校リュシアンのことが忘れられず思い悩んでいます。そこに仮面をつけたロペスと、イニゴが現れます。リュシアン暗殺が計画されていることを知ったパキータは慄然とし、何とかこれを阻止したいと考えます。

やがてリュシアンがやってきました。食事と共に毒酒が出されますが、パキータが何とか飲ませまいとします。

そのうちリュシアンも様子がおかしいことに気付きます。
パキータは一瞬の隙をついて杯を入れ替え、イニゴはそれを飲んで倒れこんでしまいます。


第2場
サラゴサのフランス軍司令官邸。
デルヴィリ将軍と、総督ロペスらを囲んで舞踏会が行われています。

リュシアンがパキータを連れて現れ、襲撃を危うく免れたことを話し、自分を救ったパキータを紹介します。

その場でリュシアンは求婚しますが、身分の違いからパキータはそれを拒みます。
パキータは総督ロペスを見て、仮面をつけてイニゴとともにやってきた男だと見破ります。
悪事が露見したロペスは連行され、ようやく危機は去ります。

舞踏会が始まり、パキータは肖像画を見るや、自分の胸に下げているメダイヨンの絵と同じであることに気付きます。 
彼女は行方不明となっていたデルヴィリ将軍の亡き弟の娘だった事が分かります。晴れて家族として受け入れられ、喜びの中で祝いの舞踏会が始まります。

17歳で日本人史上2人目マリンスキー劇場に入団し、プリマドンナとして活躍中の永久メイさんの「パキータ」ヴァリエーション。




ギターで有名な作曲家

2024-07-01 21:00:00 | 近代
夙川公民館ホールで西宮ギター練習会のコンサートでした。
曇り時々雨。
朝9:15集合。
枚方からだと7:50出発。
なかなかハードです。

出番は3:15以降ですが、早めに行ってお手伝い。それに岡山さんとの合わせできるかな?と思って。

何せ難曲ボルヌの「カルメン幻想曲」

オペラ「カルメン」の曲をうまく繋いて変奏を加えて金属のフルートがいかにいろんなことができるようになったか?をアピールするための音楽です。

超絶技巧。
でも、おもしろくてワクワクします。
もともとはピアノとフルートの為に作られました。

編曲譜面を見つけて岡山さんに送ったら、演奏しにくいところをさらに編曲して作っておいてくれました。
というのもギターを知らない人が作ったようで、曲の途中でG弦を1音下げるなどと書いてあります。

ギター2本置いておいて、替えるしか無い!
置いておくと調弦も狂うし、あまり良くないということで、初めから1音下げた調弦で初め、最後までそれで演奏するという…音が変わらないフルートという楽器をやっている私にすれば発狂ものの編曲です。
が、岡山さん涼しい顔で弾いてくれました。

ジュリアーニの「協奏的大二重奏曲op85」の方は、川原さんと、長い演奏会の最後に演奏させて頂きました。

第1.2.4楽章ですが、最後の最後になってコロナの咳の虫が…。
必死でこらえてなんとかごまかして吹きました。
最後の10小節やばかった!

がなんとか吹ききって川原さん「なんとか行ったね!」とすぐに声かけてくれました。

いろいろご心配おかけしましたが、まあ成功と言っていいかと思います。

この前買ったドレスも着ました!


今回はポンセの特集もありました。
マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1943年)メキシコ サカテカ生まれ、メキシコメキシコシティ没

サカテカス州フレスニージョで生まれましたが、生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。
地方の聖堂で教育を受け、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。

1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。 
メキシコ革命の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在します。

この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカに作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結びます。
短期間ナディア・ブーランジェにも師事しています。
1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみました。
1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去しました。

翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名されました。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセはヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名です(詞も彼自身による)。

新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されており、ギター演奏家に人気があります。

ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いました(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いています。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

ソナタ第三番は1927年セゴビアのために書かれました。