音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

マリーナビアンキ華麗なるオペラ演出の世界

2023-02-28 21:09:00 | レクチャー、マスタークラス
今日はピアノの坂田さんと枚方市文化芸術センターイベントホールで「華麗なるオペラ演出の世界」マリーナ ビアンキ トークイベントに行って来ました。
坂田さんは午後から仕事で

帰りに1人ランチ

t-siteの8階のタコライス。
お天気がよく眺望の良いテラス・デッキで1人ランチも気持ちよかった!

マリナ ビアンキさんは


ミラノスカラ座の座付き演出家です。
スカラ座でのすべてのオペラ公演に関わっています。


講習では
オペラ演出家の奥村啓吾さんから、座付き演出家の説明がまずありました。

オペラの準備、原作をなぜ作曲者が選んだか?から、作品のコンセプトを考え、指揮者、制作、芸術監督と共有し、歌手を決めます。
ここまでで2年間かかるそうです。

リハーサルは立ち稽古、オーケストラ稽古、仕込み稽古、舞台稽古、オーケストラ付き舞台稽古をやってからゲネプロになります。

ゲネプロは本番と同じようにすることで、スカラ座では合唱ユニオンが強いので途中で止めることは許されないそうです。(たぶん時間が延びると労働時間が延びるから…。)

会場や国に合わせていろいろ考えるそうです。
例えば、昨年枚方市で行ったノマド「カルメン」では反響板にプロジェクターでマッピングを行いましたが、この劇場の反響板だからできたそうです。
ヴェネツィアでは船で会場に行くのですが、すべての大道具を船で運ぶので、分解できて船に乗らなくてはいけません。



ヴェローナではローマの遺跡コロッセオを半分使ってオペラをやります。
半分は客席で3万人入りますが、5階建ての高さですが、下から歌っても最上階まで声が聴こえます。


大きな舞台なのでクレーンで毎晩終演後から明け方まで掛かって移動させ、その後ゲネプロ。ディスカッションしてから本番という激務でした。

ここからマリーナさんの話し

オペラ演出家というのは劇場内のすべてを把握しなくてはいけません。

有名なダンテ フェレッティ

が美術をしましたが、絵を描くだけで動かすのはすべてマリーナさんです。

マリーナさんは芝居出身だそうですが、芝居、合唱、ダンス、ソリスト、オーケストラすべてを含む総合芸術がオペラです。

演出家はカリスマ性をもたなけれはいけませんが、molt Aggressive(とっても攻撃的)ではなく、自分の考えを持ち、魅惑させるだけでもなく、人の考えも受け入れるバランスが大切です。

ジョジョ ソレルが1980〜1981年に演出をしましたが、彼は一度演出しただけで本番にも来ません。
押さえておくとお金がかかるので、本番、その後の公演の演出を行うのは座付き演出家マリーナさんです。

オマーンでモーツァルトの「フィガロの結婚」をされた時の話し。
まず、台本作詩ダ・ポンテの研究です。
彼はヴェネツィアでヘブライ人として生まれました。
カトリックに改宗し、借金をして、ヴェネツィアを追い出され、ナポリやローマで司祭になり教義を教えていましたが、愛人を作りそこも追い出され、アメリカに渡り、そこでも借金を作っています。

台本作家と作曲家を繋ぐ線を探します。

「フィガロの結婚」はラ・フォル・ジュルネ(ばかげた1日)という副題がついていてこのオペラはスザンナとフィガロの結婚前の1日の出来事です。

第1幕 朝の屋根裏 照明だけでなく背景に窓から太陽光が、入る絵を描いています。

第2幕 伯爵の部屋で昼間 太陽光が明るく見えています。

第3幕 音楽の部屋 奥行きがあり、傾斜がついていて奥は描かれた絵の錯覚により遠く見えます。1番奥のダンサーは15.6歳の子どもたちに依頼したそうです。
最後は革命が、起きるので照明を冷たい色にかえます。

第4幕 庭 スザンナの変装、変装は当時の流行でした。
登場人物のカップルがもとに戻ります。
伯爵は伯爵婦人に謝り、伯爵夫人は赦します。
伯爵夫人の赦しは人間としての赦しで宗教的なものです。
歌い終わると舞台照明が降り、客席側のシャンデリアも降りてきて光に包まれます。

この頃は2ヶ月の舞台稽古がありましたが、今は経済的に逼迫していて行えません。

パルマで、ヴェルディの「仮面舞踏会」を上演したときの話し

1913年ジュゼッペ ガンヴィニアーニが描いた舞台背景の幕が発見されました。
破れたり、変色していた幕を修復し使いました。

序曲で舞台の緞帳に修復時の様子をプロジェクターで映し、出来上がった幕を映像で広げると緞帳が上がり、本物の修復済みの幕が重なって映り、映像が消え、本物の幕がはっきりと見えオペラが始まりました。

不吉な予言をする占い師の元へリッカルドが行きますが周りはすべて敵対勢力の人々で占い師が「初めに握手した人に殺される」という占いに誰も握手しないでいると、親友のレナートが入ってきて握手します。

アメーリアも占い師に自分のレナートへの恋心を消してくれるように頼みます。
ここで原作にはない介添人の女性に手を引かせて登場させます。
アメーリアの不安がより伝わります。

第4幕の始まりは通常は緞帳が上がってリッカルドが官邸の部屋で歌いますが、カンビアーニの幕は大広間の絵なので、緞帳を降ろしたまま執務室の机や椅子で演技したあと幕があいて、大広間になります。

嫉妬にかられリッカルドを仮面舞踏会で刺し殺すレナート。

この時の話ではありませんが質問に答えて
パバロッティの時は大変でした。
マリーナさんが座るべき椅子に座って、友だちと電話で話したり、やりたい放題。
階段の上で死ぬことになっていましたが、太り過ぎて階段では足りず、ソファを運び込んで、そこで死ぬことにしました。

マリーナさんが演出した「フィガロの結婚」の動画ありました。
長いですが、各幕のラストシーンを見て頂くとマリーナさんの言っていることがわかりやすいと思います。











フルートとギター

2023-02-27 21:03:00 | ロマン派
土曜日は、西宮ギター練習会でギターの岡山友樹さんとフルート久米素子で演奏してきました。

先生にお借りしたバスフルートを持って行ったら…。

スーツケースにコンサートフルートと譜面台、HERCULESのクラリネットとフルートとピッコロが挿せるスタンド、水筒を入れて、バスフルートをケースごとスーツケースの上に自転車用の網で括り付けて出発!

今回は乗換えが楽な

阪神電車一択!

クラリネットスタンドに輝くバスフルート!

榎田先生にお借りしたものですが、本番でつかいました。
ファリャの7つのスペインの踊りからアストリアーナとをバスフルートで吹きました。
コンサートフルートでは、カルッリの「セレナーデ」op109の1番を演奏しました。


フェルディナンド カルッリ(1770〜1841
ナポリ王国ナポリ生まれ、フランス帝国パリ没

ナポリの上流階級の家に生まれました。父は未ミケーレ、有名な文学者でナポリ管轄圏の代表者の秘書でした。

彼が初めに教わったのはチェロでしたが、20歳の時にギターを出会い、ギターの研究と進歩に人生を捧げました。
当時、ナポリにはプロのギター教師がいなかったため、カルッリは独自の演奏スタイルを開発しました。

ナポリンの彼のコンサートは非常に人気があり、すぐヨーロッパのツアーを始めました。
フランス人のマリー ジョセフィーヌボワイエと結婚し、息子グスタボをもうけました。

パリでのツアーが大成功を収めた後、そこに引っ越しました。当時、この町は世界の「音楽の中心地」と知られていました。

パリではギター教室として大成功を収めました。彼の作品の大部分が出版されたのもここでした。

後にはカルリは自費出版社を経営、フィリップ グラ二ャーニを含む他の著名なギタリストの作品を出版しました。

まだ楽器製作の実験を開始し、パリの弦楽器製作者ルネ ラコートと協力して10弦楽器デカコルドを開発しました。

カルリは多作な作曲家でギターのために400以上の作品。ギターを含む様々な楽器との組み合わせの作品書きました。
息子のグスタボ(1801〜1876年)と共同でも作曲しています。

1810年に出版された「方法と作品27」には今でもクラシックギターの学習者を訓練するために広く使用されている曲が含まれています。



バッハ子どもたちのために

2023-02-26 21:00:00 | バロック
今週は子育てサポートで集団託児の保育サポートが続きました。

お母さんが連続講習で学んでいる間、子どもを預かると言うものです。
5日間ありますが、そのうち2日位出るのかと思っていたら、予約は3日。
あら?と思っていたら、前日に電話がかかってきて、「予定の方が急にご都合が悪くなってお願いできませんか?」…。

引き受けました。

どうも、サポーターが減っているようです。
コロナで養成が難しかったみたいです。
講座は自治体や時期によって違うみたいですが、大体6日間の子育てサポーター養成講座を受講して、保育園に2日ほど実習に行き修了証が発行されます。
講座の内容は子育ての現状をしったり、コミュニケーションスキル、万一の時の救急救命法、関連施設の方のお話を聞いたり、と普段の生活にも活かせるような内容になっていて、自治体の負担で受けられてお得です。(私見ですが…。)
誰でも自治体で受講できます。すきま時間でサポートしませんか?
サポーター養成講座は不定期ですので、自治体の子育て支援センターにお問合せください。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685〜1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選定侯領ライプツィヒ没

初めの妻
1707年結婚したマリア バルバラ
との間に7人の子どもがいました。

そのため、生活は楽ではなく、常に良い条件の職場を探し求めていました。生活の足しにするために短い曲を作曲しては、それを1曲、3ターラー程度で売るという仕事もしていました。
また、ある時には5つの仕事を同時に引き受けていました。

1708年ミュールハウゼンのオルガニストを辞め、ワイマールに移り、ザクセン=ヴァイマール公国もの領主ヴィルヘルム=エルンスト公
の宮廷オルガニスト兼宮廷楽士となりました。

この時、前職85フローリンの倍近い150フローリンを得ることになりました。
少しは楽になりましたが、それでもまだ足りず。1712年ハレの聖母教会オルガニストに応募しました。

この時はザクセン公が昇給と昇進を提案し、引き止められました。

1717年ケーテンに移りとケーテン公国の宮廷楽長になりました。

この時、それを不服としたヴァイマール公はバッハを投獄しています。

アンハルト=ケーテン候レオポルト


は400ターラーという大金でバッハを雇っています。

しかし、1720年レオポルト侯についてカールズバートに行っている7月7日に妻のマリア バルバラが亡くなってしまいます。

7人の子どもを抱えた。バッハはそれでも仕事を続けていますが、1721年9月にアンナ マグダレーナ ヴィルケ

と再婚します。

アンナは宮廷ソプラノ歌手で有能な音楽家で結婚後もケーテンの宮廷に務め、夫の半額の200ターラーにも及ぶ収入を得ていました。

アンナはバッハとの間に13人の子どもをもうけていますが、多くは幼い頃になくなります。成長した4人の子ども達は、いずれも音楽家として活躍しています。

バッハが結婚した頃、レオボルト侯も結婚しました。
お相手のフリーデリケ妃
は音楽嫌いで、レオポルトの音楽に対する出資は減少し、ケーテンの宮廷楽団の規模も縮小されるようになり、バッハの収入も減少しました。

しかし、やはりたくさんの子どもたちを育てなければならないバッハは1723年すぐに就職活動に入り、聖トーマス教会


のトーマス カントルに就任します。

教理問答と、ラテン文法の授業を担当し、教会音楽も作曲しなくてはならないという激務でした。
さらにライプツィヒの音楽監督にもなり、教会音楽家として活動していました。
王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求め、カトリックのミサ曲も作曲しています。

1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命されました。

1949年バッハは脳卒中で倒れ、1750年亡くなります。

11男9女の子どもをもうけましたが、10人は夭折し、成長したのは男子6人と女子4人の10人でした。

記述の残っている
マリア バルバラとのこども
長男のヴィルヘルム フリーデマン(1710〜1784年

ハレのバッハ
遺産を相続しオルガンやバイオリン演奏もたくみでした。
父親の後押しで高い地位にも着きましたが、亡くなったことでその職を辞しました。財産管理が不得手でその後公職には着くことはありませんでした。

イ短調のシンフォニアやフルートのための二重奏など多くの作品を残しました。
 
カール フィリップ エマニュエル(1714〜1788年)



フリードリヒ大王の宮廷でチェンバロを演奏しているのがカール
生前はバッハよりも有名で世俗的な成功を収めました。テレマンの影響を多く受けています。
父を尊敬していて、「ベルリンのバッハ」とも呼ばれています。

ヨハン ゴッドフリート ベルンハルト(1715〜1739年


第4子ミュールハウゼン、ザンがーハウゼンで教会オルガリストを務めますが、イェーナで法学を学ぶために音楽活動を中断した矢先、急逝しました。24歳

マグダレーナとのこども
ゴッドフリート ハインリヒ(1724〜1763年
父ヨハン セバスチャンと共にいくつかの小品の編曲を手がけたと言われています。チェンバロ演奏に才能を示しますが、長ずるにつれて精神病、あるいは知的障害の兆候が現れ、生活力がないことが分かりました。

ヨハン クリストフ フリードリヒ(1732年〜1795年

ビュッケブルクのバッハ
職人的な資質の音楽を作曲し、交響曲20番が知られています。

ヨハン クリスティアン(1735〜1782年)


末っ子でイタリアでデビューした後、ロンドンに移住し、バッハ一族の中では唯一のオペラ作曲家として活躍しました。「ロンドンのバッハ」
モーツァルトと2度会っていて、亡くなった時にモーツァルトが「音楽界にとっての損失」と追悼曲を書いています。
クリストフ バッハのモテット(聖書の言葉に曲をつけたもの)です。




花時計

2023-02-25 20:56:00 | 現代
焼き海苔が来たので、二男を連れて行って、実家で母と手巻き寿司をしました。


タラの芽とふきのとうが売っていたので、天ぷらにしました。
まだまだ寒かったけど、もう春ですね。

ジャン フランセ(1912〜1997年
)フランス共和国ル・マン生まれ
、フランス パリ没

音楽学者作曲家ピアニストの父声、楽教師の母の下で生まれました。6歳で作曲を始め、1922年最初の出版作品はナディア ブーランジェの注目を集めました。
ブーランジェはフランセに音楽活動を薦めました。
自作の「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」は20歳の時にバーデンバーデンで初演されました。

フランセは若い頃から洗練された。ピアニストでパリ音楽院ピアノ科では首席で、ソリストや伴奏者としての道を模索したこともありました。

フランシス プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」で、プーランクとピアノを共演することもありました。

しかし、やはり主な業績は作曲活動でした。生涯を通じて多作で
1981年には「いつでも作曲している」と公言していました。
別々の作品を掛け持ちでかきあげるのが常でした。

モーリスラベルはフランセの少年時代に両親に次のように述べています。

「この子の才能のうちで、私は見る限り一人の芸術家として、最も将来が有望視されるのは旺盛な好奇心に恵まれているということです。
くれぐれも親御さんがかけがえのないこの才能を潰したり、坊ちゃんの感受性を潰したりしませんように」

新古典主義者として無調性や無形式の迷宮を退け、過去の偉大な前例に倣っています。

作曲様式は軽快さと機知にあり、自ら目指したところは「喜びを与えること」でした。

旋律線同士のやり取りも目立っています。取り入れたものは自らの確たる美学へとまとめ上げています。

1959年フランセは「花時計」を作曲しています。 
この曲をフランセに委嘱して、1961年に初演したのはオーボエ奏者のデ・ランシーでした。

分類学の父カール フォン リンネ(1707〜1778年)スウェーデン=バルト帝国スモーランド生まれ、スウェーデン=バルト帝国ウプサラ没
リンネ草を持ったリンネ
が1750年作ったリンネの花時計。

この時計は咲く時刻の異なる花が配置されていて、その時刻になるとその花が咲きます。
30分と狂わなかったとか…。

音楽はリンネの
7楽章からなるオーボエと管弦楽のための一曲です。

楽章の名前が咲く花と時刻になっています。

午前3時 毒いちご Galant-de-Jour

翻訳は毒いちごですが仏語はジャスミンの一種です。

午前5時 青いカタナンセ  Cupidone blue

cupid's dart flowerのことらしいです。
直訳は青いキューピット、英名はキューピットの矢、矢車菊かも。

午前10時 大輪のアザミ Cierge a grands fleurs

日本語翻訳はあざみになっていますが、直訳は大輪のろうそくと言う意味で、サボテンの花で、大輪の花を咲かせると1日の終りにはしぼんでしまいます。

正午   マラヴァアのジャスミン Nyctantthe du Malabar

Malabarはインド半島南西部のアラビア海に面した海岸のことです。
ちょっとエキゾチックな感じがするジャスミンということでしょうか。

午後5時 ハシリドコロ Belle-de-Nuit

翻訳ではハシリドコロ、あるいはベラドンナと訳していることもあるようですが、直訳は夜のベル(鐘) 調べてみると、どう見てもオシロイバナ!
日本や東南アジアに咲く花で、ヨーロッパでは珍しいそうです。

午後7時 嘆きのゼラニウム Geranium triste

ゲラニウム、ゼラニウムとも言われヨーロッパに広く分布しています。tristeはフランセがくっつけた名前で嘆きのという意味です。

午後9時 夜咲く虫取りなでしこ Silene noctiflore
ナデシコ科ですが、ヨーロッパ原産。
夜開花キャッチフライ、夜開花シレンと呼ばれる野草です。
夜になると咲き、芳香を放ち蛾を惹きつけ蜜を飲ませて受粉するのでこの名がつけられたのではないかと思われます。

正確に言うと、リンネの花時計とは同じでは無いので、この花時計では時刻が計れません。
大体1日しか咲かない花では元々無理です。

リンネには時刻を花で刻むという科学的目的があり、 フランセには作曲の目的、聴いた人に「喜びを与えること」に合う意味があるのだと思うのです。


バードコール

2023-02-24 20:58:00 | 楽器
実家の隣の家の梅、紅千鳥かな?が満開です。
うちのは枝垂れ梅。
蕾がかわいいです。




紅葉に刺したりんごにメジロがきていました…けど写真に撮れたのはヒヨドリ。
かわいいけどヒヨドリが来ると小さな小鳥たちはいなくなっちゃうんだよね〜。
と、思ってたら、ヒヨドリが去って

また、来ました。



かわいいなぁ。

バードコールという楽器は、鳥の声を再現するために考え出されました。

楽曲に使うだけでなく、鳥を呼ぶのにも使われます。

こんなのとか、
これかわいいです。
次はナイチンゲール限定。


こちらはバードホイッスル水笛です。

オットリーノ レスピーギ(1879ー1936年)イタリア王国ボローニャ生まれ、イタリア王国ローマ没

の交響詩「ローマの松」は1924年作曲です。

レスピーギは、
「ローマの街で私は記憶と幻想を呼び起こす出発点として自然を用いました。
極めて特徴的にローマの風景を何世紀も支配している樹木はローマの生活の歴史的事件の証人になっています。」

と、1926年フィラデルフィア管弦楽団で指揮をする時に上記のように書いています。

そして第4楽章のジャニコロの松では
「夜風がそよぎ、月光がほのかにそそぐ松林、どこからかナイチンゲールの声が聞こえてくる…」

この描写をレスピーギは、音楽に合わせて鳥の声のレコードをかけるよう楽譜に指示しています。

以前はレコードをかけることもあったようですが、最近ではいろいろなバードコールを組み合わせて使っているそうです。
さて、何を組み合わせているか、
あなたは聞き分けられるでしょうか?



青いゆりのために

2023-02-23 20:46:00 | 現代
オリエンタルリリー。
実家の玄関に母が生けました。


2012年5月9日サントリービジネスエキスパート㈱と新潟県農業総合研究所
が青いゆりを開発したと発表しました。

「ゆりには青色色素デルフィニジンを作るために必要な青色遺伝子フラボノイド3'.5'水酸化酵素の遺伝子が存在しないので青い百合は存在しませんでした。

6年間かけてピンク色のユリにカンパニュラの青色遺伝子を導入し、機能させることで花弁にデルフィニジンを含む青い百合の開発に成功しました。」


デルフィニウムからデルフィニジンを抽出
と、記事にありますが、

写真では青紫という感じです。
もっと青みを増やすようにこれからも開発していきます。と書いています。

サントリーは2009年には青いバラを開発しています。


ホアキン ロドリーゴ ビドレ(1901〜1999年)スペイン王国ザグント生まれ、スペイン マドリード没

3歳の頃に悪性ジフテリアにかかり、視力を失いました。
8歳でピアノとバイオリンの学習を始めます。
パリのエコールノルマル音楽院でポール デュカスに作曲を、モーリス エマニュエルに音楽学を学び、アンドレ ピロに学びました。
1924年に管弦楽曲子どものための5つの小品により、スペイン国家賞を授与されます。

1933年バレンシアでトルコ出身のスペインのユダヤ人ピアニストのヴィクトリア カムヒ(1905ー1997年

と結婚します。

1939年パリでアランフェス協奏曲を作曲し、これが代表曲になりました。
この曲がきっかけとなり、ジェームズゴールウェイやジュリアン ロイド ウェーバーなどから協奏曲の依嘱が行われました。

1941年長女のセシリアをもうけます。

1947年よりマドリード総合大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当しました。

1991年スペイン国王ファンカルロスにより貴族に列せられ、アランフェス庭園侯の爵位を授かります。
また、アストリアス王太子賞を授与され、フランスの芸術文化勲章も獲得しました。

1999年マドリードで老衰のため亡くなりました。97歳でした。

交響詩「青い百合のために」は1934年33歳の時に作曲されました。
カムヒと結婚して新婚生活を送っていた頃の作曲です。

この交響詩は中世バレンシアの伝説に基づいています。

ある国の王が病気になります。

3人の息子たちがその病を治す霊力を持つとされる「幻の青いユリ」を探す旅に出ます。
末の息子がそのユリを発見します。

しかし彼は野心に燃える兄達に殺されてしまいます。



図書館へ行こう!

2023-02-22 20:53:00 | バロック
昨日は朝は京都。
18:00からフルートアンサンブルで渡辺橋サロン ド プリンシパルでした。
朝撮った鴨川は桂川に合流し、うちの隣の八幡市辺りで桂川は木津川、宇治川と三川合流し、

淀川になり、都島区付近で淀川本流、大きくは大川、安治川、堂島川に別れて大阪湾に流れ込みます。

大川は海につく前に、さらに土佐堀川と別れ、もう一度合流し、安治川と木津川に別れます。
この合流地点までにできたのが中之島。

ここに

中之島公園

中央公会堂

中之島図書館
他、美術館、科学博物館、フェスティバルホールなど文化施設が並んでいます。

最古の図書館の記述はアッシリア、アッシュルバニバル

大英博物館収蔵アッシュルバニバルの収蔵品
紀元前7世紀、粘土板に書かれていた書物30000点近くがアッシリア滅亡時に地下に埋められました。
ここでギルガメシュ叙事詩が発見されました。

紀元前3世紀にはアレキサンドリア図書館

4万巻から70万巻のパピルス文書が収蔵され、ホメロス叙事詩などがありました。
830年アッバース朝ではバグダードに「知恵の館」

が建てられました。
イベリア半島アンダルス朝でゴルドバには7つの図書館があり、カリフの図書館だけで40万点の蔵書があったそうです。

ザフラー宮殿には40万巻の蔵書があった
中世ヨーロッパは修道院に図書館があり、羊皮紙書かれた本が鎖に繋がれておいてありました。
羊皮紙一枚で家が買えたそう。

1367年フランス シャルル5世が図書館を、建築。
フランス国立図書館になりました。

リシュリー通り18世紀の図書館
1445年グーテンベルクが活版印刷を発明し、印刷技術が進むと図書館は誰でも無料が広まりました。
1452年イタリアのマラティスティアーナ図書館 誰でも利用できる市民図書館でした。

エントランス
1602年イギリス ポドリアン図書館


近代には多くの図書館が建てられ、現代はweb上で検索できるところも多いです。
ゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マクデブルク生まれ、神聖ローマ帝国自由都市ハンブルク没

の12の無伴奏ファンタジーはブリュセルの王立音楽院


の図書館で発見されました。
1813年建築の図書館にテレマンのファンタジーがどうやって来たのか?
また、発見されるまでなぜわからなかったのか?
詳しいことは何一つわかりません。


しかし、今日この曲が残り、演奏できるのは図書館が集め、守ったからです。



カメラータ、オペラの萌芽

2023-02-21 21:07:00 | バロック
今朝は京都今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。

バッハのBWV1034を見てもらいました。
今日は1楽章だけでしたが、やっぱりバッハは深いです。

京阪三条で進々堂のレストランでランチしました。
シャンピニョンスープ



サラダとパン食べ放題でした。

この鋲打の椅子が私のツボです。

この照明も!
昭和のアンティーク感。

池田屋のすぐ隣の隣

三条小橋から

三条大橋

京都は街と自然と近い感じがいいです
それはこの川と神社仏閣によるものです。御所も見ようによっては大きな森です。

ヨーロッパに古都はたくさんありますが、音楽で言えばイタリアのフィレンツェが、古都にふさわしいですね。

フィレンツェにはカメラータと呼ばれる貴族を中心とした文化人グループがありました。
有名な天文学者の父で音楽家であったヴェンチェンツィオ ガリレイ(1520ー1595年)


作曲家のカッチーニ(1550-1618年)

宮廷楽長だったペーリ(1561-1633年)

オラトリオの創始者として知られるカヴァリエリ(1550-1600年)
詩人のリヌッチーニ(1562-1621年)
がそのメンバーでした。

カメラータはそれまでの中心的な技法であったポリフォニックな技法への反発から生まれました。

従来の方式では多声部にわたる各声部が輻輳し、言葉によって表される詩、そのものが犠牲にされてしまいます。

そこで、その欠点を抑え、言葉をもっと音楽の中に生かしていこうとしたのです。

彼らはギリシャ悲劇に理想を求め、音楽の劇的表現というものを目指しました。
朗唱式(レチタティーヴォ)または表現式(ラプレンゼンタティーボ)を用いました。

詩を朗唱、歌と話し言葉の中間を行くような旋律で歌い、それを和音的に支える伴奏楽器で行うという形でしました。
詩のリズムと内容が音楽より優位に立つという形式です。これがモノディー方式と呼ばれます。

1597年にはリヌッチーニのセリフにペーリが作曲した最初の劇音楽「ダフネ」ついで、「エウリデュケ」がかかれました。

しかしまだ歌劇とは言わず、音楽のための劇「ドラマ ベル ムジカ」と言っていました。
カッチーニの独唱曲集に、新音楽「ヌオヴォ ムジケ」と題されたことから、この時代の音楽を新音楽と呼ぶこともあります。
この新音楽が、現在のオペラの萌芽でした。



上演禁止作品

2023-02-20 22:06:00 | ロマン派
小学校区の苔テラリウム本番でした。コロナで3年間行事が開けなかったからか、40人の枠を30人に減らしての開催でしたが、予約は一瞬で埋まってしまいました。
何人かはお断りしました。…ごめんなさい。

金曜日にプロジェクターを試しに来て、そちらはアップルのパソコンをウィンドウズに変えても信号を受信せず、結局、教頭先生がCD-romとリーダーを持ってきて下さって、資料を書込み。
落としたものを学校の機材で読み込むことになりました。
どうも学校の古い年式のプロジェクターは古い端子のついたパソコンからしか読み込めないというのが結論でした。
何時間もかかり、行ったり来たりもしましたが、他にも荷物が多くCD1枚で済んで助かりました。

同じ材料でも子どもたちや地域の大人の人が作るものはそれぞれ違っておもしろい!
いろいろ想像が広がりました。



蓋をしたら、お水もほとんどスプレーするだけで育ちます。
乾いたら、スプレーで水を少しかければいいそう。

ガラスが曇ったら、蓋をあけます。
夏は窓際では光が強すぎるそうです。
LEDライトで充分だそうです。
この時期は部屋の窓辺で充分だそう。

内部の温度を一定にとどまるようにしたガラスやプラスチックフィルムなどで、作られた建物を温室と言います。

前漢(紀元前206年~208年)の第10代皇帝元帝(紀元前74〜紀元前33年)によって南陽郡太守に任じられた召信進は紀元前33年、宮廷内で季節を外れた野菜を育てて食べるのは健康に悪いので、温室に使う燃料を削減するように上奏しています。

ヨーロッパでは、一世紀のローマ皇帝ティベリウスがアルメニアキュウリを食べていた記録があります。

「博物詩」を記したプリニウスによれば、キュウリはカートに入れられ、太陽が当たる日は外に置かれ、夜などは暖かい家に入れられました。

この家は油を塗った透明石膏セレナイトの板で作られていました。

ガラスの整数に技術が報道した。17席以降になるとヨーロッパの上流階級で熱帯の果物を育てるのがオランジェリー。

野菜などを育てるのがウインターガーデン、温室と呼ばれるようになり流行しました。

ベルギーのラーケン王宮温室1873年レオポルド2世のためにアルフォンス バラットが建てました。





ベルサイユのオランジェリー

イギリス リッチモンドのキューガーデンは
1759年、テュークスベリーのケーブル卿が熱帯植物を集めたにはを作ったことに始まります。
ジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人オーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム チェンバーズの整形による建築物が何棟か建てられました。
1761年建設のグレートパゴダ

は今も残されています。
ジョージ3世はウィリアム エイトンやジョセフ バンクスに命じて庭園の植物を充実させ、旧キュー パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチハウスを買上げ、王室の子ども達を育てる施設としました。これがキュー宮殿として残されています。


奏楽する皇太子と皇女たち
パームハウスが1848年 

に建てられました。

温室は鉄とガラスの時代の最先端でした。

この頃はヴィクトリア朝 
この頃活躍したのはアーサー シーモア サリヴァン(1842-1900年)
イギリス イングランド ロンドン生まれ、イギリス イングランド ロンドン没

父親は軍楽隊の隊長、アーサーは8歳で父のバンドで使う楽器を器用に操るようになっていました。

ベースウォーターの私立学校に行った後、王室礼拝堂の合唱隊への加入を認められ、チェイニーウォークにある合唱隊の学校に通うようになりました。その頃、讃美歌や歌を作曲し始めました。

1856年サリバンはメンデルスゾーン賞を授与され、王立音楽アカデミーに学生として2年間在籍します。
1858年にライブツィヒに旅行し、そこで勉強を継続して、指揮法を学びました。

1862年ロンドンに帰り、クリスタルパレスで演じられたシェイクスピアのテンペストの付随音楽を作曲します

18606年交響曲ホ長調アイリッシュの演奏会が開かれました。

1866年オペレッタ「コックスとボックス」の総譜を出版しました。
1867年ジョージ グローブとウィーンへ旅行し、未発見のシューベルトの楽譜を持ち帰りました。

1871年からオペレッタ「テスピス」などをかきました。
「ペンザンスの海賊」はニューヨークで書きました。
1883年ビクトリア女王からナイトの称号を授かります。

1885年コミック オペラ「ミカド」
を作曲。
サヴォイ劇場で初演。
ウィリアム ギルバートの脚本
1885-1887年 日本展で人気が出た


ギルバート撮影の日本村
ジャボニズムに影響を受けて書きました。


ミカドのポスター
日本のチチブーの死刑執行大臣ココの屋敷に一人の見知らぬ旅芸人がやってきました。彼の名はナンキ・ブー身分を隠していますが、実は日本の若くハンサムな皇太子です。

許嫁のカティーシャとの結婚が嫌で家出してきたのです。

ココの被後見人で婚約者のヤムヤムと出会い恋に落ちます。
ナンキ・ブーが結婚できないことでがっかりしていると、ココとヤムヤムが「いちゃつきの罪」で、死刑を宣告されます。

ナンキ・ブーは自殺を考えてしまいます。そのことを知ったココは死刑の代役を頼みます。

ヤムヤムを助けるために代役になるのはいいけれど、死後にココと結婚するのがおもしろくないナンキ・ブーは1ヶ月の間ヤムヤムは自分と新婚生活を送るという条件をつけます。

ミカドがやってきて
 
死刑が少ないとココに死刑執行を命じます。

ナンキ・ブーの許嫁のカティーシャが死刑執行名簿にかれの名前があるのを見つけます。
しかし、ヤムヤムとの色恋沙汰を知り、逆にナンキ・ブーを死刑にしようと画策します。

ココは死刑執行が嫌なので執行をしたと嘘をつきます。

ミカドはナンキ・ブーの所在を尋ね、死刑になったと聴いて激怒し、チチブー市民全員を死刑にすると宣告します。
街はパニックになり、ココはナンキ・ブーに1ヶ月後、死刑になるのをやめて欲しいと頼みます。

しかしナンキ・ブーはカティーシャと結婚するのが嫌なので生きることをためらいます。

すると街のみんながカティーシャとココが結婚することを提案します。
ココ以外は全員賛成します。
その後ココはカティーシャが好きになり、ミカドにナンキ・ブーが生きていることを伝え、カティーシャとココの結婚のゆるしを得ます。
めでたし、めでたし。

2年間のロングランになり、当時の駐英日本大使は、日本の天皇を笑い者にしていると上演禁止を試みましたが成功しませんでした。
実際は架空の人々を借りて英国政府や上流階級を批判したものです。






ブラジルへ渡った作曲家とフルートの神様

2023-02-19 23:15:00 | ロマン派
梅田で伊藤先生のレッスンでした。
写真は梅田で1人ランチ。

必ずスケールとアルペジオを聴いていただきます。
集中してしっかりと「音」と向きあう時間です。

次に歌う曲をじっくりと演奏します。
「音」と向き合う静かな時間が過ぎていきます。

お手本を吹いて下さいますが、ほんの1音を吹くだけでもすごい集中力。
先生の白刃を振るうような真剣さを学んでいる気がします。

世界中のフルーティストのマスタークラスを体験して来ましたが、他のどの先生にも無い濃厚な時間で、
1時間のマスタークラスでクタクタになります。
そして、なんともお伝えできません。
スタイルやノウハウと言うものはなく、言葉もほとんどなく、出てきた「音」だけがすべて。
充実した時間。

伊藤先生の「マルセル・モイーズ賛」

京都中京区のカフェ モンタージュで聴けます。
3月18日(土)20:00〜 3000円
チケットはwww.cafe-montage.com

1973年モイーズのマスタークラスを伊藤先生は受講されたそう。
その時、トゥルーの「グランソロ」を吹いたそうです。

聴き終わったモイーズ立ち上がって「あなたの演奏が聴けてとても幸せだ。」と言われたそうです。

マルセル モイーズ(1889〜1984年)フランス ジュラ領サンタムール生まれ、アメリカ没


1889年からパリ オペラ座管弦楽団の首席奏者アドルフ アンヌバンに師事。

14歳でパリ音楽院へ入学して、ポールタファネルのクラスで学びました。
3年後に首席でフルート課の勉強を終え、デビューリサイタルを開きました。

その後もタファネルとフィリップ ゴーベルに師事しました。

1932年から1940年までパリ国立音楽院の教授を務めました。
その後、1946年から1948年までジュネーブのコンセルヴァトワールの教授を務めました。


1960年代にはスイスアメリカイギリス、日本でも教育を行いました。
晩年は指導も行っています。1984年アメリカで亡くなりました。、

20世紀最大のフルート奏者の1人とも称されます。
フルート奏法のフランス的様式の体現者と目され、世界中に多くの影響を与えました。

さらに捧げられた曲は多くジャック イベールのフルート協奏曲(1934年)などがあります。


パリ音楽院卒業後、バドルー管弦楽団パリ音楽院管弦楽団の首席奏者を務め、1913年からオペラコミック座1922年からストララム管弦楽団の首席奏者を歴任しました。

「フルートの神様」、現代フルート奏法の確立者として神格化された存在です。

ウィリアム ベネット、トレバー ワイ、オーレル ニコレを指導しました

日本への影響も大きく。吉田雅雄、高橋利夫らが研究しています。

練習用教本を数多く書き、それらは今なお多くの人々に愛用されています。

管楽器の最大の弱点を克服するための「ソノリテ」はフルートを学習するものが必ず勉強しなくてはならない課題です。


モイーズの考えに従えば、全ての音の響きを均一に統制することが可能になると多くの有名なフルーティストが「ソノリテ」を使用しています。

「私の死後も、音楽への敬意をフルートを吹く人々に残してゆきたい」
     マルセル モイーズ

詳しくは、マルセル モイーズ研究室 をご覧下さい。
マルセル・モイーズ研究室

マルセル・モイーズ研究室

フルート奏者マルセル・モイーズの足跡を辿るサイト

マルセル・モイーズ研究室

マシュー アンドレ ライヒェルト(1830-1880年)
オランダ マーストリヒト生まれ、

ベルギーの放浪音楽家の子どもとして生まれたライヒェルトはフルートの才能がありました。
14歳の時にブリュッセルのカフェで演奏していたところを見出されて、ブリュッセル王立音楽院に入学を許可されました。

3年後にはヨーロッパ中の都市やアメリカまで演奏旅行をするようになります。

1859年皇帝ペドロ2世に


宮廷演奏家として招待されリオデジャネイロに渡りました。

ライヒェルトの活躍の舞台は南米リオデジャネイロに移りました。
プロビソリオ劇場の第一フルート奏者になります。南米各地を演奏旅行をし、成功しています。

当時はまだ木製のフルートが中心だったブラジルでベーム式のフルートを使い反発にあっています。

1870年に作曲されたファンタジーメランコリックは自作の主題による作品です。
彼の代表作でもあり、オリジナルのスコット版では全音のモイーズによる版と配置が違い、バリエーションの数も多くなっています。

桁違いにスケールの大きい演奏家であったライヒェルトは望郷の念を込めてこの曲を作曲しました。
彼は終生、飲酒など品行の面での失敗を繰り返したようですが、演奏になると大変強い印象を聴衆に与えました。