音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

対決!エラールvsプレイエルハープ編

2025-01-31 09:17:00 | 近代
病院最後の日の朝食。
薄い食パン、牛乳、パイナップル。オムレツ…かな?ミンチ肉がうっすら入っていました。

7日午前中に退院ということで、帰りました。
途中、上賀茂神社でお礼参り。
「手術無事終わりました。ありがとうございました。」
三条通り商店街の町中華、台湾風

エビチリ定食1380円
サラダと

大根餅もついてます
でお昼を頂いて帰りました。
「あ〜!娑婆に帰ってきた気分。」
とは言っても、まだ無理はできません。
安定するまで走るな飛ぶな
特に転ぶな〜っ!です。
つまり安静に。

こういう時は、やっぱり音楽!

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没

フランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれました。

生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しています。

ラヴェルの生家
母マリー(1840年 - 1917年)はバスク人、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)はスイス出身の発明家兼実業家でした。

同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれました。

左からエデュアール、母マリー、モーリス、父ジョゼフ
ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論がありましたが、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったといいます。 

サン・ジャン・ド・リュズのラヴェルの休日
成人になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりしました。

やがてパリ音楽院へ入学。
音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学びました。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となりました。

1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなりました。

1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされました。 その中の一曲
『序奏とアレグロ』(Introducción et allegro, )
は、1905年に作曲した、ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲。

エラール社のダブル・アクション方式のペダルつきハープの普及のために、依嘱された室内楽曲です。

初演は1907年2月22日に、フランス写真協会主催の演奏会においてパリで行われました。

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)

がハープと弦楽合奏のために作曲した『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』とほぼ同時期の作品です。

ドビュッシーの作品の方はプレイエルの新型の半音階ハープの普及のために作曲された作品で、エラールはこのプレイエルの動きに対抗するためにラヴェルに依頼しました。

『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』が実はエラールのハープでも演奏可能だったのに対し、『序奏とアレグロ』をプレイエルのハープで演奏するのはまったく不可能でした。

エラールのハープ

1820年エラール社のハープ(7音を半音ずつ上げることと下げることができます)
が現代のハープの原型となったのに対して、プレイエル

プレイエル社クロスストラングハープ、弦を増やすことで半音を出そうとしましたが演奏するのが難しかった
の発明品は忘れ去られてしまいました。

『序奏とアレグロ』は変ト長調、単一楽章のソナタ形式ふうの作品で、美しい2つの旋律主題を軸に繰り広げられています。

序奏は4/4拍子、主部はワルツ風の曲調となり3/4拍子。

ハープのやや長めの印象的なカデンツァも挿入されていて、室内楽編成によるハープ協奏曲のようです。


教育で力を発揮した音楽家

2025-01-30 21:00:00 | 近代
病院のWi-Fiのせいか、なぜかログアウトし、その後はまたしてもログインできず、帰ってアンインストールをして、ログインしたら入れました。
手術の夜も下書き保存していたのに投稿9:00にできず😭💦
今頃になってしまいました。

1月29日は左目の手術でした。
朝、次男が京都の病院まで送ってくれました。 
8:30から入院手続きなので、
7:00に出発。
6:59日の出。
今日も快晴です。
失敗率の少ない手術とは言え、やっぱりどきどきします。
今回は12:30から手術。
次男は「めしは手術の後だな。」と言ってでていきました。

コロナで面会は手術当日でも30分までだから。
また、流行っているみたい。

前回は2時からだったので、ゆっくりだったのですが、診察。
手術前の目薬16回。
お昼は先にでてきました。
「途中だったら温め直しもあるので食べててくださいね。」

と、言うことで食べました。
…なんと前回と全く同じ!
曜日で決まっているのかなぁ?
まあ、最後までしっかり食べて、結局1番過ぎに移動。
「病院あるあるやな。」と後で次男。

「早く呼び出しといて待たされる。」まあね。

手術は「ちょっと心配だったけど、まあうまく行きました。」と先生。

よかった。
30日10:00には退院します。

「2回目なのでちゃんと動かさないでくださったので、やりやすかったですよ。」ですって、だって1回目は「上むいて、上!」とか「違うそっちは右!後1ミリ下!」とか立て続けに言われて視界はぼやけてるしどこをどう見ているのか?自分でもわからないのに、どうすればいいんだ〜!って感じ。
最後の方に「反対の目と同じところ明かりの方を見てくれたらいいんです。」って言われてやっと納得。
先生ってコミュ力いるなぁ!私も生徒さんに同じことしてるんではないか?と3週間考えた末の今回。 
音楽の教え方も同じ。
以前学んだ師匠出口和世さんのお話し。

1相手が変わるという確信がない、(理解できるように言えないと思う時は)言わないこと

2.批判は一度目は親切、2回目はおせっかい、3回目は余計なお世話、4回目は暴力。

3、誰かが叱られているときは、それに重ねて言わない。集団でいうのは暴力

などなど他にもいろいろあったような気がしますが、レッスンの時には特にこの3つは思います。
なかなかコミュニケーションは難しい。
まだまだ修行しなければ。

ナディア ブーランジェ(1887-1979年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

実家は代々音楽家の家庭で、
父エルネスト・ブーランジェ(1815年 - 1900年)は、パリ音楽院で1835年にローマ大賞を受賞したオペラ作曲家でした。

エルネストは母校で教鞭を執り、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世(1179-1146年)

の子孫)門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚しています。

ライサはエルネストの43歳年下でした。2人の間に1888年に生まれたのが長女ナディアで、1893年に生まれたのが夭折した次女リリでした。

1897年、10歳でパリ音楽院に入学し、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドール

とガブリエル・フォーレ

に、伴奏法をポール・ヴィダルに師事しました。

在学中は和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏、フーガで首席になり1904年卒業。

長年の目標としてきた1908年のローマ大賞では次点に終わりました。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していません。

1908年の提出作品は騒動を起こしました。
声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏曲を提出しました。

カミーユ・サン=サーンス

などの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれています。
ブーランジェがローマ大賞に挑んだのはそれきりでした。

ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていました。

6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアでした。 

リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時も、姉の手引きを受けていました。

ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていました。

姉妹の父エルネストが1900年に没したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのですが、今度はリリが1918年に急逝すると、ナディアは作曲を辞めました。

リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していましたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていました。

ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》があります。

《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョ(1852-1914年)

のために作曲されましたが、自信不足や極度の自己批判のために、数多くの改訂を加えています。

プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られています、 

後者は1914年の上演が計画されていましたが
同年にプニョが他界したためと、第1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わりました。

1912年に指揮者としてデビューを果たしました。

主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団やボストン交響楽団、ハレ管弦楽団、BBC交響楽団などを指揮しました。

ソリストとしても活動し、1925年にアメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドに委嘱した《オルガンと管弦楽のための交響曲》の初演でオルガンを弾きました。

1907年にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920年より、アルフレッド・コルトーのエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執りました。
1921年には、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院
で和声法の教授に就任して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎されました。

ブーランジェはジャズやストラヴィンスキーなど新しい音楽にも態度を開き、学生一人一人が自ら才能を発揮できるように仕向けたので、多くの生徒が彼女の門をたたくようになりました。

ブーランジェは最終的に1948年に院長に昇格しています。
またアメリカのロンジー音楽学校でも教鞭をとりました。

第二次世界大戦中はアメリカに過ごして、ウェルズリー大学、ラドクリフ大学、ジュリアード音楽院の教壇に立っています。

1946年から1957年までパリ音楽院のピアノ伴奏科で教授を務め、晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979年に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送りました。

1979年、パリで92歳で逝去しました。
歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じ墓に葬られています。

ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法(ソルフェージュの応用)などです。

しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》

を暗譜することと、しばしばバッハが行なっていたように、フーガを即興演奏できるようになることが要求されました。

世界各国から非常に数多くの学生を集め、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリア、カナダ、トルコ、極東からも学生を集めました。

1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家でした。

彼らはブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立しました。

ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇にほとんど絶え間なく浸透しました。

コープラン、バークリー、バーンスタイン、ピアソラ、バレンボイム、ホロヴィッツなどなど
大勢の門下生を育てました。

ピアノと管弦楽のための変奏幻想曲
la Fantaisie variée pour piano et orchestre de Nadia Boulanger



ベルガマスク組曲ダマーズ編曲

2025-01-07 21:10:00 | 近代
6日は今年初合わせ。
1月19日のハープの発表会で演奏するドビュッシーの「ベルガマスク組曲」メヌエットです。
ダマーズの編曲でフルートとヴィオラとハープ版。
昨年はプレリュードをやったのでメヌエットは第2曲です。

ヴィオラは金重さん、ハープは鈴木健さん。

メヌエットはハープが超絶技巧。
「野田先生に指使い聞いてみたいです。もっと練習しときます。」と鈴木さんは言っていましたが、ほぼ完成していました。

駅まで、送っていいって
金重さんのハープと私のフルートでビゼーの、『アルルの女』の「メヌエット」
私の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「間奏曲」はヴァイオリンの渡邊さんが弾いてくれますが、代わりにヴィオラで弾いてくれました。
簡単なのに…全くダメ。
私こそ練習しま〜す!

写真は金重さん作のキツネのマフラー。かわいいですね~💖

クロード ドビュッシー(1862−1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

「ベルガマスク組曲」は1890−1905年ピアノ独奏曲として作曲されました。

タイトルの「ベルガマスク(「ベルガモの」、あるいは「ベルガモ舞曲」の意味です)」は、ポール・ヴェルレーヌ(1844−1896年)

の詩集『艶なる宴』(Fêtes galantes)

に収録されている詩「月の光」(Clair de lune)の、"Que vont charmant masques et bergamasques"
(現われたる艶やかな仮面喜劇者たちとベルガモの踊り子たちは)という一節に使用されている言葉です。

またこれに基づくガブリエル・フォーレの歌曲『月の光』(1886年-1887年)があり、その伴奏の一部に似た音形が『ベルガマスク組曲』の「前奏曲」に登場することなどから、ドビュッシーがヴェルレーヌやフォーレを意識したことを窺わせます。

同じ詩にはドビュッシーが初期に単曲として歌曲を作曲し、当時彼の心を射止めていたヴァニエ夫人
に献呈されています。

そしてその歌曲は改訂され、ヴェルレーヌの詩集による歌曲集「艶なる宴」に収録されました。

ただしこの組曲内の「月の光」は、この歌曲版とは全く異なる音楽です。

当初、ドビュッシーは『仮面』(Masques)(前述の詩に基づく)および『喜びの島』(L'Isle joyeuse)をこの『ベルガマスク組曲』の中に加えようとしましたが、出版社の都合でそれぞれ単独で出版されました。

ジャン=ミッシェル ダマーズ(1823−2003年)フランス共和国ボルドー生まれ、

ハープ奏者ミシュリーヌ・カーン(フランス語版)を母にもち、幼少時より音楽の才能を発揮。
エコールノルマル音楽院を経て13歳でパリ音楽院に入学し、アルフレッド・コルトーにピアノ、アンリ・ビュッセルに作曲、マルセル・デュプレに和声・対位法をそれぞれ師事しました。

1943年にピアノ科で一等賞を受賞して卒業する(この年には後にオリヴィエ・メシアンの妻となるイヴォンヌ・ロリオも同時に首席卒業者となっている)。

1947年、カンタータ『そして美女は目覚めた』(et la belle se réveilla)でローマ賞を受賞します。

以後、作曲家・ピアニストとして積極的に活動するほか音楽教育にも力を入れ、パリ音楽院の副院長もつとめました。
2013年4月21日に死去しました。

ダマーズは主として室内楽曲をはじめとする器楽曲の作曲で知られ、フルートを用いた作品のほか、ハープ奏者の母親の影響もありハープを用いた作品も多い。

ダマーズは20世紀後半に主流だった前衛的な現代音楽の流れに反し、新古典主義音楽に基礎をおいた優美な旋律を特徴とする作風を展開しました。

そのため20世紀においてはあまり評価を受けられない状況が続きましたが、近年は複数の作品集がCDとして発売され、再評価が高まりつつあります。

ベルガマスク組曲
第1曲 「前奏曲」 (Prélude)
第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
第3曲 「月の光」 (Clair de Lune)
第4曲 「パスピエ」 (Passepied)

第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
イ短調、Andantino、4分の3拍子。
冒頭部分のスタッカートを中心とした軽快な主題は、教会旋法の一種であるドリア旋法
(古代ギリシャの音楽理論に由来、
音階(D E F G A B C D)で構成されます。全音と半音の並び方が全-半-全-全-全-半-全となります。)で書かれています。

ダマーズ編曲フルート ヴィオラ ハープによるベルガマスク組曲「メヌエット」



箒を持って踊るヒロイン

2024-12-30 20:49:00 | 近代
年賀状を出そうと近所の郵便局に行こうと、歩いていると椿の花が咲いていました。

季節を感じます。
うちでは小さな葉牡丹の寄せ植えを買ってきて植えました。

大きさ一つ3センチ位。
お正月飾りは以上。
とにかく貯めに貯めた机の上のあれやこれやを片付け、水回り、台所トイレ、洗面所、お風呂をせっせと洗い。
長男がなぜかくれたコーティング剤をぬりました。
これ、なかなかきれいです。
しかも汚れにくいらしいです。
塗って6時間待たないといけませんが…。

夫がコンクリートの駐車場を高圧洗浄機で掃除。一皮むけたみたいです。

しかし、1年まめた汚れはまだ落ちません。

明日は実家の掃除です。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト演奏モスクワ没
作曲のバレエ音楽「シンデレラ」は1840年「ロミオトジュリエット」の成功を経てキーロフ劇場から作曲依頼がありました。

しかしドイツのソ連侵攻やオペラ『戦争と平和』の作曲によって作業は中断され、完成は1944年、初演は1945年までずれ込みました。
台本はニコライ・ヴォルコフ、振付はロスチスラフ・ザハロフ、美術はピョートル・ウィリアムス、ガリーナ・ウラノワでした。

初演は成功し、プロコフィエフは1946年交響曲第5番ピアノソナタ第8番などと併せてスターリン賞受賞しました。

貴族の娘シンデレラは、母を亡くします。その後やってきた義母は連れ子の姉2人とシンデレラを召使いのようにこき使います。

その国の王子は、結婚相手を見つける舞踏会を開きます。姉たちは着飾って出かけますが、シンデレラは家を掃除するように言われ残ります。
そこに魔法使いが現れ、かぼちゃを馬車に、ネズミを騎手に変え、シンデレラにドレスを着た姿に変えお城に送り込みます。

シンデレラは舞踏会で注目の的になり、王子の心を捉えます。
しかし魔法は12:00の鐘が鳴ると解けてしまいます。
慌てて帰るシンデレラはガラスの靴を片方落として帰ります。
王子は「ガラスの靴を履けた人と結婚する。」とお触れを出し、シンデレラを探します。
城下の娘たちはみんなガラスの靴を試します。
シンデレラの姉たちも試しますが失敗。
最後にシンデレラが試すと靴はぴったり入ります。
王子と再会したシンデレラは彼と結婚し、末永く幸せになりました。

このバレエ音楽では、珍しく箒を持って踊るシーンがあります。






もう家の無い子どもたちのクリスマス

2024-12-21 21:00:00 | 近代
金曜日くずはモールで私たちの仲人さんにやっとお歳暮…お年賀?を送りました。
もう熨斗無し。
いつも干支飾り。
他のものを送ったこともありますが、他のものは要らないそうです。

例年ならもう今頃は売切れですが、蛇は人気がないのか、まだたくさんありました。
それでも、人気のものはさすがに在庫が少ない。現品限り、最後の1個をゲットしました。
贈ってもらうようにお願いしたら、送料が本体の半額!
高っ!
でも仕方ないものね。時間も無いし…。
お願いしてきました。

AIさんに聞いたら、巳年は、蛇が脱皮を繰り返して再生し、餌を食べなくても生き続ける強い生命力を持つことから、新しい挑戦や変化に対して前向きな姿勢を示す年。

蛇は金運の象徴、「豊かさ」や「繁栄」を意味します。

巳年生まれの人は、努力家で、物事を成し遂げるための粘り強さを持っています。また、冷静沈着で分別ある判断ができ、感情を抑えて常識的な行動をとるため、内面では感受性が強く、人の気持ちを察して行動をとることも得意です。

ですって!亡くなった父が、巳年でしたが、確かに努力家で粘り強かった。
田舎の農家から、二宮金次郎ばりの努力で医学部に入ったそうです。
せっかく入ったのにアルバイトしながら勉強。
やり過ぎて体を壊し、お金のかかる医学部は断念し、教師になる道を選んだそうです。

来年はみんなにとっていい年になりますように🙏

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマ

の息子(エンマの連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、ドビュッシーは戦争を恐れるようになりました。

ドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難しましたが、1か月後にパリへと戻ります。

この時すでにドビュッシーの身体は病に侵され、大腸癌を発病していました。

この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手しますが、完成したのは3曲のみでした。

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出します。  

3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っています。 
これから数年後の
フォッシュ通りからの眺め。
1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取りました。55歳。

1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅でした。

1915年第一次大戦中の陰鬱な時代に
「もう家のない子供たちのクリスマス(Noël des enfants qui n'ont plus de maison)」は作曲されました。

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Bien sûr! papa est à la guerre,
Pauvre maman est morte
Avant d'avoir vu tout ça.
Qu'est-ce que l'on va faire?
Noël! petit Noël! n'allez pas chez eux,
N'allez plus jamais chez eux,
Punissez-les!

Vengez les enfants de France!
Les petits Belges,les petits Serbes,
Et les petits Polonais aussi!
Si nous en oublions,pardonnez-nous.
Noël! Noël!
Surtout,pas de joujoux,
Tâchez de nous redonner le pain quotidien.

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!
Noël! écoutez-nous,
Nous n'avons plus de petits sabots:
Mais donnez la victoire aux enfants de France!


わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
おとうさんは戦争に行ってしまい
おかあさんは、死んでしまった
この残虐な仕打ちを見ることなく
これからどうすればいいの?
メリー・クリスマス。クリスマス。
やつらの家にはもう祝福がありませんように。
神様、やつらを罰してください。

フランスの子供たちよ。復讐を!
ベルギーの子も、セルビアの子も
ポーランドの子たちも。
かれら仲間たちを忘れてました お許し下さい。
メリー・クリスマス。クリスマス。
プレゼントのおもちゃはもうないけれど
日々のパンだけはどうかお恵みください

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!
メリー・クリスマス。神様、お聞きください
わたしたちにはもう、履く靴すらないけれど
フランスの子供たちに、勝利をお授けください
美しい歌声ですが、子どもたちに深い心の傷を負わせた第一次世界大戦が、ドイツへの重い賠償責任を負わせ、第二次大戦でのホロコーストを産み、その傷がさらにガザの空爆に繋がり…。終わらない暴力の連鎖の中に未だにいる世界を思わずにはいられません。

本当の強さでお互いを赦し合う日は来るのでしょうか?
来なければ、行きつく先は
ああ!本当に来年はいい年にしなければ!






子育てサロンのクリスマスコンサート

2024-12-12 23:21:00 | 近代
火曜日は。いよいよ子育てサロンのクリスマスコンサート本番でした。
8:30集合で会場設営。

サロンのクリスマス飾りは地域の人からの寄付です。

電子ピアノも布とモールでスタッフのYさんか飾りつけてくれました。

驚いたことに10:00前には親子でたくさん来てくれていました。
いつもは10:15くらいからしか集まらないのですが…。

小さな子どものとのお出かけはいろいろ大変なのに…!!

『音楽のお姉さ〜ん!』
と、元気な声
「は〜い!」
歌の翼を吹いた後はバスフルートで

ブラームスの子守唄。

グラナディラ=アフリカンブラックウッドの頭部管でヘンデルのソナタと、絵本のコラボ。

ハンドベルを持ってもらって「きよしこの夜」をフルートと合奏。
Oさん手作りのクリスマスベルで「ジングルベル」フルートとピアノの拍子をとって

元気に演奏してくれました。

坂田さんから借りた楽器で「あわてんぼうのサンタクロース」
最後はグノーの「アヴェ・マリア」で

パラバルーン。

そしておたのしみ。
サンタクロースがサロンにプレゼントを持ってやってきてくれました

サンタさんありがとう💖
楽しんでくれたかな?
サロンに来てくれてありがとう💖

ブリテン男爵エドワード・ベンジャミン・ブリテン(1913-1976年)イギリス ローストフト生まれ、オールドバラ没

1943年「キャロルの祭典」op28を作曲しました。
ベンジャミン・ブリテンが作曲したクリスマスのための長編合唱曲で、三部合唱、独唱、ハープ用に作曲されています。

11楽章から成るテキストは、ジェラルド・ブレット編著『 The English Galaxy of Shorter Poems 』から取られています。

主に中期英語で書かれており、一部にラテン語と初期近代英語が使われています。

1942年に出版されたオリジナルの作品は、SSA(ソプラノ、ソプラノ、アルト)児童合唱団のために書かれました。 

1943年には、混声合唱団用にSATB(ソプラノ、アルト、テナー、ベース)の編曲版が出版されました。

楽章の多くは、子供たちの演奏のために歌詞がシンプルになるように、書かれています。

1942年にカナダからイギリスへ帰る船旅の途中で「聖セシリアへの賛歌」
と同様な形式の「7つのクリスマス・キャロル」を作曲しました。
後者は同年12月にノリッジ城図書室で初演されています。

その後、ブリテンはいくつかの曲を変更・追加して、1943年に「キャロルの祭典」を完成・出版しました。

初演は1943年12月4日、ロンドンのウィグモア・ホールて行われました。

「クリスマスの祭典」op28
1. 入堂 Procession

2. 主の降誕を歓迎! Wolcum Yole!

3. そのようなバラはない There is no Rose

4a. あの幼児が That yonge child

4b. 子守り歌 Balulalow

5. 四月の露のように As dew in Aprile

6. この赤子が This little Babe - 聖Robert Southwell, 1595

7. 間奏曲 Interlude - ハープ独奏

8. 凍りつく冬の夜に
In Freezing Winter Night - 聖Robert Southwell, 1595

9. 春のキャロル Spring Carol

10. 神に感謝 Deo Gracias

11. 退堂 Recession

音楽的過激主義な組曲

2024-12-06 21:00:00 | 近代
うちのサンルームでいちご🍓の花が咲いています。
植えっぱなし…でも花季は4-6月のはず。おかしいなぁ。

かわいいからいいけれど。

今日は12月10日(火)のクリスマスの絵本の製本をしました。
色画用紙で裏張りしてⅠ枚ずつボンドで貼り合わせて

背表紙の布をやはりボンドでつけて完成!

クリスマスコンサートで読んでくれる同じスタッフのOさん宅に渡しに行ってようやくホッとしました。

Oさん、手作りのクリスマスのジングルベル作ってくれていました。

私はその間に子育て支援センターに楽器、タンバリンや鈴の貸出しを申込み。
土曜日に借りに行って、10日当日返却します。
ハンドベルは以前コミュニティで買ってもらったものがあります。
準備していると練習時間が少なくなります。

12月15日(日)西宮ギター練習会でドップラーのハンガリー田園幻想曲を演奏します。

12月26日「聴き合い会」にはピアノとクラリネットと組曲「ドリー」とテレマン2曲とおそらくクーラウも。

1月19日(日)ハープの発表会が塚口t-raumであります。
これは本当にやばいです。
合奏発表会なので、ヴァイオリンと共演します。
お相手してくれる人を探していましたが、今日ようやく引き受けてもらえました。

ハープは初心者なので申し訳ない感じですが、いつもギター伴奏してくれる渡邊さんがヴァイオリンもされてて引き受けてくれました。

あと、フルートと金重さんのヴィオラ、鈴木さんのハープでドビュッシーの「ベルガマスク」組曲のメヌエット。

金重さんのハープに合わせてビゼーの「アルルの女」のメヌエットをフルートで演奏します。

フルートはまだいいんだけど…。
ハープは…練習、練習。

絵本を渡したら、「当日のスケジュールはどうするの?とサロンのグループLINEが…ダメダメ追いついてない💦

明日は富久田先生のレッスン。
ドップラーの練習はどうするんだ〜!!

ということで日が暮れていきます。
忙しい音楽と言えばバレエ音楽「アラとロリー」が検索で出てきます。

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

1918年プロコフィエフ
1914年、ディアギレフ(1872-1928年)


は、ロシアの季節のためのバレエ音楽の制作に、将来有望な若手作曲家プロコフィエフを参加させることにしました。

彼はプロコフィエフが提案したオペラ『遊び人』(ドストエフスキーの小説による歌劇)を拒否し、ディアギレフのロシア・バレエ団のためにバレエ『アラとロリー』を発注しました。

プロコフィエフは 1914 年の秋から 1915 年の冬にかけてバレエの音楽に取り組みましたが、この曲は完成しませんでした。

この台本は、スキタイ(紀元前〜4世紀頃までカスピ海南岸に存在したイラン語を話す民族)の英雄ロリウス、古代スラブ神話に基づいたもので、セルゲイ ゴロデツキー(アクメイズム=言葉の正確性を追求した一派)


によって編纂されました。

バレエの制作は振付師のボリス・ロマノフに委託されました。

しかし、1915年にローマで作曲家と会ったとき、興行主はプロコフィエフの最初のバレエの上演を拒否しました。

この組曲は 1915 年 9 月 2 日に完成し、A. I. シロティはこの作品をマリインスキー劇場の 1915/16 シーズンのコンサート プログラムに組み入れました。

作曲家と彼の親しい友人であるミャスコフスキーとアサフィエフは、「スキタイ組曲」を「彼がこれまでに書いたオーケストラ作品の中で最大かつ最も重要なもの」とみなしましたが、

「大衆は依然としてそれを音楽的過激主義の表れ」と認識していました。

1916年1月16日(同29日)の『スキタイ組曲』の初演は、第2回ピアノ演奏会以上に騒々しいスキャンダルと抗議活動を引き起こしました。

音楽評論家らはスキタイ組曲は間違いなくイーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』の音楽の影響を受けていることに同意しています。

1.ヴェレス(太陽神)と彼の娘アラへの崇拝 ( Allegro feroce )
野蛮で色彩的な音楽は、スキタイ人の太陽信仰を表しています。兇暴な部分は太陽神ヴェレスを、柔和な部分はその娘アラを表しています。

2.邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り (アレグロ・ソステヌート)
スキタイ人がアラに生贄を捧げていると、7匹の魔物に取り囲まれた邪神チュジボーグが野卑な踊りを舞い始めます。

3.夜 (アンダンティーノ)
邪神チュジボーグは夜陰に乗じてアラを襲う。月の女神たちがアラを慰める。

4.ロリーの栄えある門出と太陽の行進勇者ロリーがアラを救いに現れます。太陽神ヴェレスがロリーに肩入れして、チュジボーグを打ち負かします。勇者と太陽神が勝ち、日の出を表す音楽によって組曲が終わりとなります。












クラリネットとトリオ

2024-12-04 21:01:00 | 近代
聴き合い会にオーケストラで出会ったクラリネット吹きさんを誘ったら、「やりたい!」と言うことです。
「何を吹きたい?」と聞くと「久米さんと合奏したい。」うれしいことを言ってくれます。
前回聴き合い会に来てくださったピアニストさん

を誘ったらこちらも快いお返事で、3人でトリオをすることにしました。

imslp(楽譜インターネット図書館)で楽譜を探したら、フルート、クラリネット、ピアノのトリオは数が少なくあまり選べませんでした。

編曲ものでフォーレの組曲「ドリー」から楽譜のあった3曲を選びました。

そして初合わせ。
お茶を飲んで、お菓子を食べてスタート。

クラリネット…いい音です。合わせも楽しかったです。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

1870年代フォーレ
『ドリー』(Dolly)作品56は、ガブリエル・フォーレが作曲したピアノ連弾のための6曲からなる組曲です。

フォーレが妻のマリーを通じて親しくなった銀行家で正式な夫シズスモン・バルダックの妻エンマ・バルダック(1862-1934年)
(後年のドビュッシー夫人)。

彼女の娘で、1892年に生まれたエレーヌの誕生日祝いに毎年曲を贈っていました。
その曲を中心に編まれたのが組曲「ドリー」です。

タイトルの「ドリー」というのはエレーヌの愛称で、フォーレはこの曲集をレジーナ=エレーヌ バルダック(1892-1935年)に献呈しています。

フォーレとピアノを弾くロンバール夫人、
1913年にルガーノ湖畔のトレヴァーノで、作曲家が主人と女主人の娘である若いロンバール嬢のプリモに第2番を演奏しているところです。フォーレはよく子どもたちと演奏しています。
1898年にアルフレッド・コルトーとエドゥアール・リスラーの連弾によって初演され、翌年には初演者コルトー
の手によるピアノ独奏版が、1906年にはアンリ・ラボーによる管弦楽編曲版が出版され、原曲に加え編曲版も有名になっています。
現在もいろいろな楽器に編曲されている人気の演目です。

フォーレとエンマの関係は友人と言うよりも愛人関係だったらしく、実はエレーヌもフォーレの子ではないかという説も強く語られています。

6つの曲で構成されています。

組曲「ドリー」
第1曲 子守歌(Berceuse)
1864年友人の娘スザンヌ・ガルニエのために書かれました。この曲のみ先行して1894年に単独で出版されています。

第2曲 ミ・ア・ウ(mi-a-ou)
1894年にエレーヌの2歳を祝う作品として作曲されました。
フォーレが元々与えたタイトルは「ムシュー・アウル(Messieu Aoul!)」で、エレーヌが兄のラウルを呼ぶ時に、幼児だったのでミアウと呼んだのをおもしろかってつけました。

ところが出版社のジュリー アメルがが猫の鳴き声を示すこの名前をつけました。

第3曲 ドリーの庭(Le jardin de Dolly)
1895年作曲。エレーヌ3歳の誕生日に贈られました。
自作のヴァイオリン・ソナタ第1番から最終楽章の主題が引用されています。

第4曲 キティー・ヴァルス(Kitty-valse)
1896年作曲。エレーヌ4歳の誕生日に贈られました。
これもジュリー アメルがタイトルを付けました。

フォーレが元々与えたタイトルは「ケティ・ヴァルス(Ketty Valse)」。

ケティとはラウルの飼い犬です。

第5曲 優しさ(Tendresse)
1896年に作曲された「テンドレス」は、もともと音楽出版者の妻アデラ・マディソンに捧げられました。

第6曲 スペインの踊り(Le pas espagnol)
組曲はスペイン舞曲で終わります。
これはフォーレの友人エマニュエル・シャブリエのスペイン風の、生き生きとした絵画的な情景描写です。

フルート、クラリネット、ピアノによる組曲「ドリー」




洋梨のかたちをした

2024-11-21 20:51:00 | 近代
いちごの鉢から、なぜか蔓で出てきました。 抜こうかな?と思っていたら花が咲きました。

調べてみたら、ゴーヤかすいか。

なぜ?
サンルームに入れっぱなしなのに。

まさか実はならないと思いますが、しばらく育ててみたいです。

エリック サティ(1866-1925年)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

いつも同じ色と形の服を着てこうもり傘を持って歩いていました。真っ黒いジャケットと山高帽子、こうもり傘がサティのスタイル。
死後こうもり傘が100本も家から出てきました。

「インテリアのような音楽」を目指していました。 

変わった名前の曲を量産しています。
1903年に作曲したピアノ4手のための「梨のかたちをした3つの小品」もその1つです。

1898年のサティ

当時、サティはクロード・ドビュッシーに「形式的な作品を作ってみては」と忠告され、調性、拍子、形式を明確にした曲を作曲することにします。

結果、この「梨の形をした3つの小品morceaux en forme de poire」が完成することになりました。

しかし、
フランス語の「梨(西洋梨)」という単語にはもう一つ「まぬけ」や「うすのろ」といった意味があります。

poireは
プログレッシブ辞典によれば
[女性名詞]

➊ ナシ(の実);⸨特に⸩ 洋ナシ.
➋ 洋ナシ形のもの.
➌ ナシブランデー,ポワール.
➍ ⸨話⸩ 間抜け,だまされやすい人.
➎ ⸨俗⸩ 顔;頭.
━[形容詞] ⸨話⸩ 間抜けな,お人よしの.

また、3つの小品となっていますが、実際には7つの小品からなっています。

しかし、最初から明らかな軽蔑が示されているにもかかわらず、形式はしっかりと存在しています。
調性があり、拍子があり、
作品の全体的な構造は完全に対称的です。
2つの作品紹介
3 つの作品
2つの最終部分


オリジナル版の表紙 ( Rouart-Lrolle et Cie、1911 年)
第1曲 始め方
4分の4拍子。
終止線もある。3小節単位の動機が終止線まで繰り返されます。

第1曲は元々は1891年に劇付随音楽「星たちの息子」の曲として作曲され、その後1897年頃に「グノシエンヌ」と改題された後、さらにこの作品へ流用されました。

第2曲 同じものの延長
4分の2拍子、ニ短調。

第3曲 小品Ⅰ
4分の2拍子、ハ短調。  

第4曲 小品Ⅱ
4分の2拍子 - 4分の4拍子、ハ長調 - ト長調 - 変イ長調。
快活な舞曲。再び最初の舞曲に戻っています。

第5曲 小品Ⅲ
4分の4拍子。
激しい曲想。明確なリズムが特徴的。 

第6曲 つけ加えて
4分の4拍子。
全体的に変化のない作り。プリマは単旋律的に演奏されます。 

第7曲 言い直し
4分の3拍子、変ロ長調
緩やかで優雅な旋律の舞曲で終わります。


ブエノスアイレスの秋

2024-11-13 21:00:00 | 近代
第二火曜日の10:00〜は、子育てサロンです。
今日はスタッフで元保育士のOさんが手遊びをしてくれました。

「さつまいも ホクホク、パクパク食べちゃった。」と歌ってくれると子どもたちも楽しそうに身体を動かしていました。

「ぽっぽくらぶ」の歌を振り付きで歌いました。
ずっと前にスタッフの1人が、作ってくれました。それをみんなで歌い継いでいます。

手作りのボックスシアターを2人でしてくれました。

緑色のもみじが、「あき、あき、秋の色」

と歌っている間に赤い葉っぱになります。

不思議でしょう?

それから今日はお母さんたちでヒノキの粉を袋に詰めて、ヒノキエッセンスを振りかけてサシェを作りました。

子どもたちはスタッフと遊んでいます。

サシェとっても簡単ですがいい香りがして、防虫効果も期待できるそうです。

スタッフの1人しまさんが、絵本を出しました。
チャイルドブックに載っています。
「どんぐりさんぽ」

幼稚園児対象なので、サロンの子どもたちには難しいので簡単にしながら読んでくれました。
短くしても子どもたちよく見ていましたよ。

アストール ピアソラ(1921-1992年)アルゼンチンマル・デル・プラタ生まれ、アルゼンチン ブエノスアイレス没

のブエノスアイレスの四季はEstaciones Porteñasポルテーニャス駅と言う題名でした、
アストール・ピアソラによって書かれた4曲のタンゴ作品のセットです。

元々は1つの組曲ではなく別々の作品として考えられ、扱われていました 
が、ピアソラは時折それらを一緒に演奏していました。

ヴァイオリン(ビオラ)、ピアノ、エレキギター、コントラバス、バンドネオンの五重奏団のために作曲されました。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれた人々を指す形容詞「ポルテーニョ」を用いることで、ブエノスアイレスの四季を印象づけています。

ピアソラが「エスタシオネス・ポルテーニャス」につけた演奏順は、
Otoño(秋)
Invierno(冬)
Primavera(春)
Verano(夏)

Verano Porteño (ブエノスアイレスの夏)
1965 年に書かれ、元々はアルベルト・ロドリゲス・ムニョスの劇「メレニタ・デ・オロ」の付随音楽として書かれました。

Invierno Porteño (ブエノスアイレスの冬)1969 年に書かれました。

ブエノスアイレスの春Primavera Porteña ( Buenos Aires Spring )
1969 年に初演されました。

ブエノスアイレスの秋『Otoño Porteño』 1969 年初演されました。

ブエノスアイレスの秋