音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

甘美な慰め

2025-02-28 20:57:00 | バロック
生徒さんにいちごいただきました。
お散歩コースにいちご農家さんがあるそうで、ひかりという品種のいちごだそうです。

その名の通り香り高く、甘くそして爽やかな味。
自然の恵み。
ありがとうございました。


ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

1725年教会カンタータ『甘美な慰め、我がイエスは来る』 BWV 151を作曲しました。

バッハは、1725年後半、ライプツィヒのトーマス教会
トーマス教会
のカンターに就任して3年目に、第3カンタータ・サイクルの一部として、この独奏カンタータをライプツィヒで作曲しました。

彼は、クリスマスの3日目に祝われる福音記者ヨハネの祝日の教会礼拝のためにこの曲を書きました。
トーマス合唱団
現在もあるトーマス合唱団
は、3日連続の祝日のためのバッハの他の作品と同様に、最終楽章でのみ使用されました。

祭日の規定の朗読は、ヘブライ人への手紙(ヘブライ人への手紙 1:1–14 )

パピルス 13 、西暦 3 世紀または 4 世紀、コイネーギリシャ語の原文で書かれたヘブライ人への手紙が記されています
と、ヨハネによる福音書
パピルス52(表; 西暦150年頃)のヨハネ18:31–33
の序文(言葉への賛歌とも呼ばれる)(ヨハネによる福音書 1:1–14)でした。

バッハは、この手紙にインスピレーションを受けたゲオルク・クリスティアン・レームス(1684-1717年)
カンタータのテキストの作者、ゲオルク・クリスティアン・レームス
のテキストを選びました。

最終楽章は、 1560年に出版されたニコラウス・ヘルマン

作詞・作曲のクリスマスキャロル「Lobt Gott, ihr Christen alle gleich」(すべてのキリスト教徒は平等に神を称えよ)の最終節に曲を付けたものです。

バッハはこのカンタータを1725年12月27日に初めて演奏しました。
1728年から1731年にかけても再演されました。
自筆楽譜とパート譜は現在ドイツのコーブルク音楽院

に所蔵されています。

1. アリア
甘美な慰めよ、私のイエスが来られる、
イエスは生きて生まれました!
心も魂も喜び、
私の最愛の神が私を持っているからです
今は天国に選ばれています。

2.レチタティーヴォ
3.アリア
4.レチタティーヴォ
5.コラール



女性の影が無い?!

2025-02-27 20:54:00 | バロック
月曜日の夜はフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
お休みが多く久しぶりにポップス初見大会しました。
頭の体操になります。
ヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」もやりました。
2ndソロがお休みなので代吹きしました。

榎田先生
「バッハ好きな人。」
「はい!」と何人か手を挙げました。私も!
「変わってるねぇ。バッハは女々しくてしつこいんだよ。昨日神戸でブランデンブルクの3番やったんだけど、何度も何度も繰り返しでね。
それに比べたらヘンデルとベートーヴェンは、はっきりしてる。生涯独身だけれどゲイってわけじゃない。女性と付き合ってはいるけれど
「(音楽に)女の影が無いんだよ。だからスッキリしてて俺の性にあってるんだ。」
先生の個人的見解です。

スッキリ、シンプルに直線的に大胆に演奏するようにと言うことでしょう。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685- 1759年)神聖ローマ帝国マクデブルク公国、ブランデンブルク=プロイセン ハレ生まれ、イングランド王国ミドルセックス州ウェストミンスター没

1723年のヘンデル バルタザール画

の理容外科医の父ゲオルグ
ゲオルク・ヘンデル(1622–1697)
と妻アンナには5人の子どもたちがいました。
(ドロテア・エリザベート、ゴットフリート、クリストフ、アンナ・バルバラ、カール、ゾフィア・ロジーナ)

アンナは1682年に亡くなり、1年以内に60歳のゲオルクは、今度はギービヒェンシュタインの聖バルトロマイ教会のゲオルク・タウスト牧師の娘ドロテアと結婚しました。

タウスト牧師自身も代々続くルター派牧師の家系の出身でした。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはこの結婚で1685年に生まれた2番目の子どもです。
ヘンデルが洗礼を受け、フリードリヒ・ザッホとヘンデルがオルガン奏者として演奏したハレのマルクト教会
最初の息子は死産でした。

その後、1687年10月6日に生まれたドルテア・ゾフィアと1690年1月10日に生まれたヨハンナ・クリスティアーナ(1709年死去)という2人の妹が生まれました。

『快活の人、沈思の人、温和の人(L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato)HWV 55

ジョン・ミルトン(1609-1674年)

の詩をもとにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1740年に作曲しました。

全3部からなる英語の独唱・合唱曲で世俗音楽です。
「田園的頌歌」と呼ばれることもあります。

『快活の人』(L'Allegro)と『沈思の人』(Il Penseroso)はミルトンの初期の傑作のひとつで、学生時代の1631年の作と推定されています。

トマス・コール「快活の人(イタリアの夕暮れ)」1845年
2つの詩は対照的な内容をもっています。

前者では憂鬱を追いはらい、田園風景と音楽や酒宴の喜びを描き、また都市の人々の歓楽を描いています。

後者は喜悦をまやかしとして退け、修道女やギリシア悲劇をたたえ、夜や学問の世界を快楽としています。

1736年の『アレクサンダーの饗宴』の成功以来、ヘンデルは17世紀の詩をしばしば音楽化しました。

ヘンデルの支持者であったジェイムズ・ハリスは『快活の人』と『沈思の人』に曲をつけるようにヘンデルに提案しました。

ヘンデルはチャールズ・ジェネンズ(1700-1773年)

に翻案を依頼しました。

ジェネンズの台本では最初の2部は『快活の人』および『沈思の人』の詩を分割し、組み合わせることによって構成していて、原詩の328行中の225行を利用しています。

短い第3部「温和の人」の詩はジェネンズ本人によってつけ加えられています。

ヘンデルは1740年1月19日に作曲を開始し, 2月4日に完成しました。
2月27日、リンカーンズ・イン・フィールズ劇場で初演され、シーズン中に5回上演されました。
翌年にも再演されました。

第1部では歓楽(Mirth)と幽愁(Melancholy)の女神の名を呼び、田園の自然や村人の生活をたたえます。

無気味な低音楽器の伴奏によるアッコンパニャートにはじまり、笑い声の模倣(第5曲)、
フルート伴奏による鳥の声の模倣(第13曲)、
狩りのホルン(第14曲)など、描写的なアリアが登場します。

最後は下降音階による鐘の音の模倣で若者たちの踊りについて歌いますが、急に静かになり、人々は眠りにつきます。

第2部では夜の星々とそれにまつわるギリシア悲劇について歌われた後、朝が来て都市の賑やかさがトランペットとティンパニつきで歌われます(第27曲)。

人は宴会や演劇の楽しみを歓楽の女神に求め、また天上へと導くオルガンの響きや静かな隠者の生活の楽しみを幽愁の女神に求めます(第38曲、フーガ風の長い合唱で終わる)。

第3部では行き過ぎた快楽は苦痛に変わるとして、中庸(Moderation)の神に呼びかけ、節度や質素や安楽を美徳とする。二重唱と合唱で中庸をたたえて曲を終わります。

第1部快活な人
「夜の朝を盗むように」
朝から夜を盗むように、
そして影を溶かして消し去ります:
それで真実は幻しの魅力を溶かすのか、
そして上昇する理性が暴走する
心を引き起こした煙には、
知的な日々を取り戻す。「魅力はすぐに溶けてしまう、
そして朝が夜を盗むにつれて、
闇を溶かして 湧き上がる感覚
まとわりつく無知な煙を追い始めます。





フォークを採取した作曲家

2025-02-26 21:00:00 | 国民楽派
月曜日、久しぶりに1日家にいました。
ハーブを練習して、お昼食べたらくたびれていたのか少し眠ってしまいました。
午後からはフルート練習。
結構な大曲が3曲とバッハのソナタなど吹く機会があります。

夕方次男が帰ってきて郵便をチェックしたら、オリエンタルカレーから何か来ていました。

「当たってる!」と次男。
開けてみると

オリエンタルカレーの金のキャラフォーク。(メッキ)
持ち歩く時の袋付きです。
前回はハズレ。

で、これ送ってきたそうです。
この箱についているマークを送るとまた応募できるみたい。
「エンドレスだね。」
「フォークときたらスプーンがいるだろう。」

まだ、やる気みたいです。

フォークが出てくるクラッシック音楽を探したら、民族音楽のフォークがヒットしました…やっぱりそう来るだろうね。

バルトーク ベーラ(1881-1945年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ナジセントミクローシュ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン没

ルーマニア民俗舞曲(ルーマニアみんぞくぶきょく、Sz.56)は、バルトークが1915年に作曲した6曲からなるピアノの小品の組曲です。

1917年、自身の手により小管弦楽に編曲(Sz.68)されました。
バルトークの最もよきルーマニアの友人であり、また最も民謡採集に協力した人物であるイオン・ブシツィアに献呈されました。

ハンガリー王国の一部だったトランシルヴァニア各地の民謡を題材にしたものです。

民謡であるため全体的に旋法的であり、民俗的な音楽の原型を保った民謡編曲作品の一つですが、その他の編曲作品と同じように、独特な和声を用いています。 
民謡という素材に新たな生命が与えられています。

ピアニストだったバルトーク自身もコンサートの際にはよく演奏していました。

原曲の民族音楽的な要素をより強く感じさせる彼自身の編曲も、今では小オーケストラのためのレパートリーの一つとして定着しています。

他にも、ハンガリー弦楽四重奏団の主宰者でバルトークと親しかったヴァイオリニストのセーケイ・ゾルターン
セーケイと フョードル・シャリアピン(左)
によるヴァイオリンとピアノによる編曲版(1926年)、アーサー・ウィルナーによる弦楽合奏版、管楽アンサンブル版などが存在します。

1.棒踊り(ルーマニア語Jocul cu bâtă採譜地:Voiniceni)
Allegro moderato イ調。

2.帯踊り(ブラウル舞曲。ルーマニア語:Brâul,採譜地:Igriș)
Allegro 二調。

2.踏み踊り(ルーマニア語:Pe loc,採譜地:Igriș)
Andante ロ調バルトーク

3.角笛の踊り(ブチュム舞曲 ルーマニア語:Buciumeana,採譜地:Bucium)
Moderato(一部の版ではMolto moderato) イ調。

4.ルーマニア風ポルカ(ルーマニア語:Poarga Românească,採譜地:Beiuș)
Allegro ニ調。チェコの影響を感じさせるリズム的には面白い楽章。バルトークは8拍を一単位とする独特なポルカのフレーズを律儀に2拍子と3拍子の交替で記譜しています。オリジナルは村の青年によるヴァイオリン演奏です。

5.速い踊り(マルンツェル舞曲 ルーマニア語:Mărunțel,Aprózó,採譜地:Beiuș, Neagra)
Allegro - Piu allegro(管弦楽版ではL'istesso tempo - Allegro vivace)イ調。別々の場所で採譜されました、相互に関係のない二つの舞曲のメドレーです。
ヴァイオリンとピアノ編曲版で



シュトゥルム・ウント・ドラング疾風怒濤の時代

2025-02-25 20:57:00 | 古典
三連休最後の日は、西宮今津公民館で西宮ギター練習会でした。

阪神電車に乗って今津駅へお昼ご飯をライフで買って、12:30開場に合わせて行きました。

着いたらギターの渡邉信行さんが、もう準備OK。
ギターを弾きながら待っていてくれていました。

レニャーニのグランドデュオの第1楽章と第3楽章を演奏しますが、これとっても楽しい曲ですが、ギターが超絶技巧。
必死で練習してくれていました。
もちろん、フルートを出して私もすぐ合流。

結局、時間ギリギリまで合わせに使いました。
練習会も無事終わり、阪神電車で大阪まで出て、大阪シティバス

で土佐堀一丁目で降りてすぐの渡辺橋のサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

練習もようやく終わり夜9:30京阪特急の中でブログ書いています。
怒涛の三連休…金曜だから4連チャン。
無事終わってよかったです。

シュトゥルム・ウント・ドラング(独: Sturm und Drang)疾風怒濤は、18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動のことを指します。

晴れ渡る:シチリア島の海岸、アンドレアス・アッヘンバッハ、1847年
この名称は、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー(1752-1831年)

が1776年に書いた戯曲Sturm und Drang

に由来しています。

時期は、1767年から1785年までとする説、1769年から1786年、もしくは1765年から1795年とする説もあります。

典型的なシュトゥルム・ウント・ドラング劇、詩、小説の主人公は、高潔な手段の追求や真の動機ではなく、復讐と貪欲によって行動(多くの場合暴力的な行動)に駆り立てられていきます。

古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、「理性に対する感情の優越」を主張し、後のロマン主義へとつながっていきました。

音楽作品への影響は限られており、音楽をこの傾向に従うものとして分類しようとする多くの試みは根拠が薄いそうです。

ドイツ/オーストリア音楽の中心地であるウィーンは、国際的な文化を持つ国際都市であったため、この時期のハイドンやモーツァルトによるメロディー的に革新的で表現力豊かな短調の作品は、ヨーロッパ全土で起こっていた音楽的発展の広い文脈の中で捉えられます。

シュトゥルム・ウント・ドラング運動との最も明確な音楽的つながりは、オペラや、ハイドンの告別交響曲などの標題音楽の初期の先駆者に見ることができます。

ベートーヴェン、ウェーバー、そしてシューベルトにも、シュトゥルム・ウント・ドラングの要素があります。

音楽のシュトゥルム・ウント・ドラング時代は、1760年代後半から1770年代前半にかけてのオーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの作品によく見られます。
シュトゥルム・ウント・ドラングに関連する古典派音楽( 1750~1800 年)は、主に短調で書かれ、難しい感情や憂鬱な感情を伝えています。

主要テーマは角張ったものになりがちで、大きな飛躍と予測不可能な旋律の輪郭を伴います。

テンポとダイナミクスは、感情の激しい変化を反映するために、急激かつ予測不可能に変化します。

脈打つようなリズムとシンコペーションは一般的で、ソプラノやアルトの音域での疾走するラインも同様です。
弦楽器用の楽曲には、トレモロや突然の劇的な強弱の変化やアクセントが特徴的です。

ハイドンは、シュトゥルム・ウント・ドラングの反合理的な理想を意識的に肯定していたわけではないかもしれませんが、この時期の彼の器楽作品には、当時の音楽劇の流行が影響していたことは確かです。

他にはモーツァルトの交響曲第25番(「小」ト短調交響曲、1773年)は、この作曲家による2曲しかない短調交響曲のうちの1曲です。

この交響曲は、非定型の調性に加えて、リズミカルなシンコペーションと、シュトゥルム・ウント・ドラングに関連するぎこちないテーマが特徴です。

さらに興味深いのは、この曲における管楽器の解放であり、バイオリンがオーボエとフルートの色鮮やかな音がヴァイオリンを圧倒します。

しかし、これはおそらく、ウィーンでモーツァルトの知人でもあったチェコの作曲家ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(モーツァルトの同時代人で知人)による多数の短調作品の影響であり、ドイツの文学運動への自覚的な追随によるものではなく、交響曲第25番のハーモニーとメロディーの実験の原因です。

ヨーゼフ ハイトン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローナウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

交響曲第26番 ニ短調 Hob. I:26 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1768年頃に作曲した交響曲。
『ラメンタチオーネ』(伊: Lamentatione哀歌)の愛称で知られています。

この作品の自筆原稿は残っておらず、正確な作曲年代は不明です。
ハイドンのいわゆる「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」にあたり、この時期には短調の交響曲がいくつか作曲されましたが、これもその一つです。

ハイドンの初期の交響曲には3楽章形式のものが少なくありませんが、1765年以降ではこの曲と第30番『ハレルヤ』の2曲だけです。
この2つの交響曲はどちらも典礼音楽を引用した宗教的交響曲で、通常のようにエステルハージ邸で演奏されたわけではなく、教会で演奏するために作曲されたと考えられています。

現存最古の筆写譜にはすでに「受難と哀歌」(assio et Lamentatio)と記されています。第1楽章には当時のオーストリアの受難劇でよく使われていた音楽を引用しています。
第2楽章にはエレミヤの哀歌の音楽が引用されています。

ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂天井画のエレミア 預言者て「エルサレム滅亡を預言し嘆いています。
シンコペーションのリズムによる感情の表出という手段は、モーツァルトの交響曲第25番と共通しています。

第2主題として第1オーボエと第2ヴァイオリンにグレゴリオ聖歌の受難コラールが現れます。

ニ長調になるのは第2主題が引用であるために短調にしたくなかったようですが、当時の短調の交響曲の第1楽章では再現部が短調になるのが通常であり、長調で終わるのは当時のハイドンの交響曲では他に例がありません(後の交響曲第80番以降は長調で終わります)。

いきなり立ち止まったり、突然な曲想の変化や転調などドラマチックな構成故に、展開部以降の形式的な反復記号を欠いています。



トリオの日

2025-02-24 21:09:00 | 近代
日曜日は六甲の里夢でセンメル カルテットの演奏でした。
朝牧野駅で坂田さんと待合せ、出発。その後阪急大阪駅で金重さんと待合せ。
六甲徒歩5分里夢。
カルメン幻想曲に合わせて赤と黒で統一してみました。

今回のテーマは三位一体。
トリオです。
他にもいろいろなトリオ。
木管、弦楽、声楽など出演されました。

三重奏 トリオ- 3人が同時に演奏するアンサンブルのうち、各パートを1人ずつ演奏するもののことです。

トリオ・ソナタ - 17世紀末から18世紀初頭に人気を博した音楽形式でした。

複合三部形式の楽曲で、主部とその後に反復される主部の間に挿入される中間部を指します。

当該部が2つの独奏楽器と伴奏楽器群の3パートで演奏される作品が多いです。

また特定のパートが含まれる三重奏をトリオと称する場合があります。

オルガン、ドラムス、ギターなど3種のパートで編成する「オルガントリオ」、バイオリン3人またはそれ以上の重奏などで編成する「バイオリントリオ」などがあります。

ガブリエル・フォーレ( 1845- 1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

1905年

の作曲したピアノ三重奏ニ長調op120
ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための室内楽曲。
1922年9月から1923年2月にかけて作曲されました。

1922年1月、ニース滞在中のフォーレにピアノ三重奏曲の作曲を提案したのは、彼が出版契約を結んでいたデュラン社の社主ジャック・デュランでした。

デュランは、モーリス・ラヴェルが第一次世界大戦前夜に作曲したピアノ三重奏曲(1914年)のような音楽を書いてみてはと勧めました。

この年の1月から8月にかけて、フォーレの創作力は完全に失われていました。
1月20日付け妻マリーに宛てたフォーレの手紙には、「今の状態が長く続かないことを願っています。なぜなら、私は猛烈に仕事がしたいのです。」と書き、
2月2日付けの手紙では、「老いよ、消え失せろ!」と自らを叱咤しています。

しかし、3月4日付けの手紙では「恥ずかしい話ですが、私は毎日をわらじ虫のように家の中に閉じこもって過ごしています。まったく何もしていません。ニースに来てから、書くに値するような音符はまだ二つと見つけていないのです。私の才能は涸れてしまったのでしょうか……。」と悩みを打ち明けています。

友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた同年4月21日付けの手紙では、フォーレはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から一節を引用しつつ、ユーモアと自嘲を交えながら、「私はこの4ヶ月間で、ワーグナーのグルペット(グルペットは16世紀イタリアで流行した装飾音の一種)に負けないくらい歳を取りました。」と述べています。

また、悩まされてきた聴覚障害に視力の衰えや歯のトラブルも加わり、フォーレは次第に孤立していきました。

次男のフィリップ・フォーレ=フレミエは、このころのフォーレについて次のように述べています。

「相手をどれだけ思いやり、尊敬していようとも、父には、周りの調子に合わせて普通の会話をするのは不可能でした。

食卓で、周りの人たちの関心が直接自分に注がれなくなると、たちまち父は不安そうな様子を見せました。
そして目を凝らして、人々の顔の表情からその心を読み取ろうと努めました。
父はこうした努力に疲れ果てたましたが、かといって、自分の存在を人に押し付けるようなことは好みませんでした。

何も言わずに、人々の関心が自分のところに戻ってくるのを待っていました。」
— フィリップ・フォーレ=フレミエ

フォーレがようやく新曲のスケッチに取りかかったのは4月にパリに戻って以降で、1922年の5月から6月にかけてと見られます。

1922年7月からほぼ一月の間、生まれ故郷パミエに近いアルジュレスに滞在したものの、気管支肺炎にかかったフォーレはこの地ではほとんど仕事ができなくなりました。

このときフォーレは次男フィリップにパリの家の机の上に忘れてきた原稿を探すように頼んでおり、それがピアノ三重奏曲の第2楽章の中間部のスケッチでした。

8月9日からアヌシー=ル=ヴュー

に移り、約2ヶ月デュナン館で過ごします。

アヌシー=ル=ヴューは1919年以来2度目の滞在でした。

8月26日にこの地でフォーレ・フェスティバルが開かれ、翌27日、教会でフォーレの『小ミサ曲』が演奏されるなどの歓迎を受けました。

フォーレの創作力はここで回復し、妻マリー
1889年マリーとフォーレ
に宛てて次のように報告しています。

「クラリネット(あるいはヴァイオリン)、チェロ、ピアノのための三重奏曲に取りかかっています。
主要な楽章は一月前に書き始め、終了しました。
残念ながら、私は連続して長い間仕事をすることができません。
私にとってもっともつらいのは、絶え間なく続く疲労感です。」

— 1922年9月26日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙

アヌシー=ル=ヴューで書かれたのは第2楽章と見られる。第1楽章と第3楽章は10月にパリに戻ってからヴィーニュ通り32番地の自宅で書かれ、1923年2月中旬に完成しました。

この間、1923年1月にフォーレはレジオンドヌール勲章(勲一等)を授与されています。

作曲時にフォーレが言及していたクラリネットを含む三重奏曲という構想は、完成時には消え去っていますが、その正確な理由は分かっていません。

しかし、フォーレはほとんどすべての管弦楽作品でクラリネットを使用しているほか、ウェーバーの『協奏的二重奏曲』の楽譜を所有しており、サン=サーンスのクラリネットソナタ(作品167、1921年)や友人ダンディのクラリネット三重奏曲(1888年)などを聴いているなど、クラリネットの響きを好んでいました。

ネクトゥーによれば、この曲においてヴァイオリンをクラリネットに替えてもなんら問題はない。
ネクトゥーは「クラリネットとチェロとの対話はむしろ特別な性格を持ち、この二つの楽器とピアノの音のバランスも実に納得のゆくものなのである。」としています。

フォーレのピアノ三重奏曲



オーケストラは古代ギリシャの劇場が始まり

2025-02-23 21:01:00 | 音楽様式
ベアリン。狭山市のゆるキャラみたいです。

巨大です。
土曜日オペラパークオーケストラ本番でした。

前日合わせと当日リハーサルのみで本番。
無茶苦茶集中しました。
当日リハーサルの後、堀口梨絵先生手作りのお弁当が出ました。
すごい!
ハンバーグや、だし巻き卵、お野菜も充実。堀口先生が作ったものを当日朝8:00に合唱の方が集まって詰めてくださったそうです。

すごくない?!
おいしいお弁当を頂いて力出ました!

このコンサートは若手にソロの機会を子どもたちにオケをバックに歌う機会を提供するために堀口先生中心に開かれました。

ソロも若手で、
一般のコーラスの方たちに混じって子どもたち小学生や中学生もいます。
一緒に大きな声で歌ってくれました。
演奏はフルート1stのTさんが抜群の包容力でリード。
とても吹きやすかったです。


そして問題の方向音痴、私は今回は迷わずに着けました!
牧野〜枚方市〜北浜〜天下茶屋〜北野田〜大阪狭山市
覚えました!
パチパチ!
そして帰りはクラリネットのIさんが北浜までご一緒してくれました。
休み時間も和気あいあいと、このオケ大好きです。

呼んでくださって、機会をくださって本当にありがとうございました。

オーケストラ( Orchestra)は、管弦楽を多重編成で演奏する団体のことをいいます。 

「Orchestra」は、古代ギリシアのギリシャ語のオルケーストラ(ορχηστρα)に由来しています。
これは舞台と観客席の間の半円形のスペースを指し、(そこにコロス(合唱隊。)が配置され)、舞踊、器楽、合唱などが行われました。

近代になり、「Orchestra」は劇場の平土間席(1階の舞台正面の席)の呼称になりました。

また、オペラの上演などでは、舞台と観客席の間で奏する器楽奏者のグループも「Orchestra」と呼ばれるようになりました。


古代ギリシア劇には最大50人ほどのコロス(合唱隊)が付き物で、朝から夕方まで音楽を伴う韻文で劇を上演しました。

演劇を行う場所は単純な半円形の空間「オルケーストラ (orchestra)」で、そこでコロスが踊り歌いました。

オルケーストラの大きさは直径が78フィート(約24メートル)前後で、丘の麓の平らな場所を使い、丘の斜面を「テアトロン (theatron)」と呼ばれる観客席としました。

合唱隊も含めて大人数が舞台に上がり、観客も最大14,000人ほど収容できるようにするため、劇場はかなり大きなものになりました。

そうした劇場の建設にあたっては数学が重要であり、設計者は音響も考慮して演者の声が最後列の観客席まで含めた劇場全体に響くようにする必要があり、古代ギリシアの音響技術は現代の最先端と比較しても勝るとも劣らないものでした。

当初の観客席は木製だったが、紀元前499年ごろに丘の斜面に石のブロックを埋め込むようになり、恒久的なしっかりした席が作られるようになりました。そのような観客席を "prohedria" と呼び、神官や最も尊敬される市民がそこに座りました。

近代になり、「Orchestra」は劇場の平土間席(1階の舞台正面の席)の呼称になりました。

また、オペラの上演などでは、舞台と観客席の間で奏する器楽奏者のグループも「Orchestra」と呼ばれるようになりました。

さらに時代が下ると、器楽奏者のグループがオペラから独立して演奏する場合でも「Orchestra」と呼ばれるようになりました。

現在では、ロマン派音楽の頃に多かったオーケストラ編成が「標準的な編成」とされています。

古典的な作品の演奏ではこれよりも若干小規模となります。

それに対し近代的な作品の演奏ではより大規模なオーケストラとなる場合があります。

弦楽器パート一式(一般に第1および第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの5パートからなります=弦五部)と主要な管楽器の員数によって二管編成、三管編成、四管編成などに打楽器が加わります。

さらに時代が下ると、器楽奏者のグループがオペラから独立して演奏する場合でも「Orchestra」と呼ばれるようになります。

弦5部
アルビノーニのアダージョ


弦5部二管編成
ハイドンのロンドン交響曲Hob.99 第一楽章

弦5部九管編成
ベルリオーズ『葬送と勝利の大交響曲』op15


迷子のネズミ

2025-02-22 20:59:00 | 現代
金曜日夜はオペラパークスオーケストラのリハーサルでした。
大阪狭山市駅6分。

京阪牧野から淀屋橋で御堂筋線に乗り換え、終点。中百舌鳥、おっと難読漢字なかもずと読みます。
そこから南海高野線で大阪狭山市駅へ
駅に着いてググろうと思っていたら、後ろからに
サックスのTさんが声かけてくれました。
「SAYAKAホールどこかな?」
と迷っていると
またまた後ろから「どこかお探しですか?」と美しい女性が声をかけてくれました。

「SAYAKAホールに行きたくて」と言うと行き方を教えてくださいました。
狭山市民優しい!
ホールに着いたら声楽家家の皆さんがお手製のかつサンドを用意していてくださいました。

これがおいしい!絶品!
今回は吹いたこと無い2ndパートとピッコロの持ち替え。
心配で今食べたサンドが胸まであがってきそうでした。
が、お隣の1stフルートのTさんが、「大丈夫、大丈夫!」と励ましてくれて、リハ一回目。
指揮の高橋先生。ベーレンライター版にあちこち音を足されました。
ドキドキ。
1箇所フルートの入りを間違えた😱
Tさんが「大丈夫!私も一緒だから、私を見て!」と頼もしいお言葉。

ピッコロも最終部分、オケとの噛み合いが違うような気がして「私の版違います?」と聞いたら「大丈夫、大丈夫!バッチリあってるよ!」
と励ましてくれて…。
はあ〜!なんとか2回目はノーミスで乗り切りました。

帰り道は簡単…と思ったら夜道で迷いました。グーグルもあらぬ方向を指し見つけた交番でお巡りさんに聞いたら、「駅まで一緒に行きましょう。」と送ってくれました。
本当に狭山市民優しいです。
帰りは駅であったクラリネットIさん、ヴァイオリン譲、ファゴットくんに教えてもらって堺筋線北浜まで一緒に帰りました。
みんなに助けられた1日でした
ありがとうございます。

明日いよいよ本番です。
まず、迷わずに行くこと…これが第一の課題です。

リロイ・アンダーソン(1908 - 1975年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ、アメリカ合衆国コネチカット州ウッドベリー没

は、短く軽快なコンサート用の小品を作曲したアメリカの作曲家です。その多くはアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス・オーケストラによって発表されました。
ジョン・ウィリアムズは彼を「アメリカの軽快なオーケストラ音楽の偉大な巨匠の一人」と評しました。

フィドル・ファドルは、リロイ・アンダーソンが作曲した2/2拍子の楽曲です。
軽いクラシック音楽の楽曲と考えられており、「クラシック・ポップス」音楽と呼ばれることもあります。

フィドル・ファドルは1947年1月1日に出版されました。
アーサー・フィードラー(1894-1979年)

は1947年3月30日、ボストン旧オペラハウスからのコンサートラジオ放送でこの作品を初演しました。
1951年6月29日にデッカレコードのためにフィドル・ファドルをモノラル録音しました。
アンダーソンは1959年6月11日にもデッカレコードのためにフィドル・ファドルのステレオ録音を行いました。

アンダーソンは、アーサー・フィードラー
1969年にボストン・ポップス・オーケストラを指揮するフィードラー
とボストン・ポップス・オーケストラが長年にわたって指揮した数々の作品のうちの 1 つとしてこの曲を作曲しました。

完成したこの曲は、すぐに聴衆とアーサー・フィードラーの両方に人気となりました。 
フィードラーはポップスのコンサートでこの曲を頻繁にプログラムしたため、ポップスの聴衆はこれを「フィードラー・ファドル」と呼び始めました。

この曲は、古典的な「歌と三重奏」の形式で書かれており、子どものころの童謡「三匹の盲ネズミ」に基づいています。

この曲は、1940 年代後半から 1950 年代前半にかけて、さまざまな音楽アンサンブルによって何度も録音されました。

この曲ではバイオリンが目立ち、トリオ セクションと見られる部分では、 ピチカートで 16 分音符が繰り返されます。

この曲はコンサートや劇場のオルガン用に編曲されたほか、ピアノ連弾用としても編曲されています。

童謡「三匹の盲ネズミ」
三匹の盲目のネズミ。三匹の盲目のネズミ。
彼らがどのように走るか見てください。
彼らがどのように走るか見てください。
彼らは皆、農夫の妻を追いかけました。
彫刻刀で尻尾を切り落とした人たち。
あなたは人生でこのような光景を見たことがありますか
三匹の盲目のネズミとして?

アンダーソンのフィドル・ファドル


〇〇ではなく水蒸気…霧?

2025-02-21 22:57:00 | ロマン派
ピアノの調律をしていただいている間に、音の出せない作業を決行。


この前ピッコロを待ちながらユザワヤさんで買った布をザクザク切って、
2つ折りにして直線縫い。
端を、ジグザグミシンで押さえて。

棒を突っ込んて、端を挟んでひっくり返したら

出来上がり。
これ何?ってフルートの中を分解しないで一気に拭ける道具。
タンポが濡れていると破れやすい。タンポ変えるの高いんです😭

写真に写っているのは先生が黒板を指すときの指示棒てす。
23センチから1.2メートルまで伸びます。
こんなに長くは要らなかったのですが、85センチのものは太すぎるし重たかった。

これでちょうど良いです。
こうやって譜面台にも洗濯バサミでかけられます。

黒の長い掃除布を2枚とりあえず作りました。後はまた今度。
これでしばらく安心です。

ちなみに水はツバではなく息のぬくもりと外気温との温度差でできる水蒸気です。
ここ大事です!

カール・アウグスト・ニールセン( 1865 - 1931年)デンマーク ソルデルング生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

ニールセン、 1908年頃
貧しい農民の12人兄弟の7番目として生まれました。

ニールセンの生家
父のニールス・ヨルゲンセンは、塗装工で伝統音楽家であり、バイオリンとコルネットの才能があり、地元の祝祭では引っ張りだこでした。
ニールセンは、幼少時代に民謡を歌っていたと記憶している母は、船長の裕福な家庭の出身で、異父叔父の一人ハンス・アンデルセン(1837年 - 1881年)は才能ある音楽家でした。

ニールセンは6歳のときに母親からバイオリンをもらいました。 彼は子供の頃にバイオリンとピアノを学び、8歳か9歳のときに最初の曲を書きました。

両親は彼が音楽家として将来性があるとは信じていなかったため、14歳のときに近くの村の店主に弟子入りさせました。
店主は真夏までに倒産し、ニールセンは家に帰らざるを得なくなりました。
そこで金管楽器の演奏を学んだ後、 1​​879年11月1日にオーデンセの陸軍第16大隊のバンドでラッパ手とアルトトロンボーン奏者になりました。

1879年、オーデンセのニールセン(14歳頃)
ニールセンは大隊に所属している間もバイオリンを手放さず、家に帰って父親とダンスパーティーで演奏する時もバイオリンを弾き続けました。
軍は2年半の間、5日ごとに3クローネと45オーレとパン一斤を彼に支払いました。
その後、彼の給料はわずかに上がり、バーンダンスパーティーで演奏するのに必要な民間の服を買うことができました。

1881年、ニールセンはヴァイオリン演奏に真剣に取り組むようになり、オーデンセ大聖堂の聖堂管理人カール・ラーセンに個人的に師事しました。

コペンハーゲン王立音楽院
の院長ニールス・W・ゲーデ

に紹介されます。
ゲーデから好評を得たニールセンは、軍楽隊を急遽解任され、1884年初頭から音楽院で学びました。

1884年ニールセン
ニールセンは、優秀な生徒ではなかったけれど、ヴァルデマール・トフテ(1832-1907)のもとでヴァイオリンを順調に上達させ、ヨハン・ペーター・エミリウス・ハルトマンやオルラ・ローゼンホフ(1844-1905)から音楽理論の基礎をしっかりと学びました。
また、作曲をゲーデのもとで学んだが、友人としては好きだったものの、音楽的には好きではなかった。コペンハーゲンの同級生や文化的な家族との交流も同様に重要になり、そのうちの何人かは生涯の友人となりました。

田舎育ちによる不完全な教育により、ニールセンは芸術、哲学、美学に対する飽くなき探究心を持つようになりました。
彼は1886年末にアカデミーを去りましたが、すべての科目で優秀ではあったものの傑出した成績ではありませんでした。

その後、彼はまだ自力で生活費を稼げる状態ではなかったため、引退したオーデンセの商人イェンス・ゲオルク・ニールセン(1820-1901)とその妻のスラゲルセゲードにあるアパートに滞在しました。
そこで、彼は彼らの14歳の娘エミリー・デマントと恋に落ちました。この情事はその後3年間続きました。

1887年9月17日、ニールセンはチボリコンサートホールでヴァイオリンを演奏し、弦楽のためのアンダンテ・トランキーロとスケルツォが初演されました。その後間もなく、1888年1月25日には、弦楽四重奏曲ヘ長調が私設室内楽協会の私的な公演で演奏されました。
ニールセンは弦楽四重奏曲ヘ長調をプロの作曲家としての公式デビュー作と考えていたが、それよりはるかに大きな印象を与えたのは弦楽組曲でした。

1888年9月8日にコペンハーゲンのチボリ公園で演奏されたこの曲は、ニールセンによって作品1とされました。

1889年9月までに、ニールセンはヴァイオリンの上達が著しく、当時ヨハン・スヴェンセンが指揮を執っていたコペンハーゲンの王立劇場で演奏する名門デンマーク王立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者の地位を得ました。

この役職で、彼はヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を経験しました。
この仕事はニールセンにかなりのフラストレーションを与えることもありましたが、1905年までそこで演奏を続けました。
1906年にスヴェンセンが引退した後、ニールセンは指揮者としての役割を増やしていきました(1910年に正式に副指揮者に任命されました)。

卒業してからこの役職を得るまでの間、彼はヴァイオリンの個人レッスンでささやかな収入を得ながら、イェンス・ゲオルク・ニールセンだけでなく、オーデンセで工場を経営していたアルベルト・ザックス(1846年生まれ)とハンス・デマント(1827年 - 1897年)といったパトロンからの継続的な支援を受けていました。
ロイヤル劇場で1年も経たないうちに、ニールセンは1,800クローネの奨学金を獲得し、数か月間ヨーロッパを旅行する資金を得ました。

旅の途中で、ニールセンはリヒャルト・ワーグナーの楽劇を発見しては嫌悪し、ヨーロッパの一流オーケストラやソリストの演奏を数多く聴き、音楽と美術の両方に対する意見を研ぎ澄ませました。
バッハやモーツァルトの音楽を尊敬していたものの、19世紀の音楽の多くについては相反する感情を抱いていました。

1891年、ライプツィヒで作曲家でピアニストのフェルッチョ・ブゾーニ

と出会い、2人は30年以上文通を続けることになりました。

1891年3月初旬にパリに到着して間もなく、ニールセンは同じく奨学金を得て旅をしていたデンマークの彫刻家アン・マリー・ブローデルセンと出会いました。

アン・マリー・カール・ニールセンと彼女の夫が、1903年にアテネのアクロポリス博物館で彼女のテュポンの複製の前で撮影された写真。

2人は一緒にイタリアを旅行し、1891年5月10日にフィレンツェのセント・マーク・イングリッシュ教会で結婚し、デンマークに戻りました。

アン・マリーは才能ある芸術家であり、「意志が強く現代的な考え方を持ち、自分のキャリアを切り開こうと決心した女性」でした。この決心はニールセン夫妻の結婚生活に負担をかけることとなりました。
アン・マリーは1890年代から1900年代にかけて何ヶ月も家を留守にし、彼女の不在中に他の女性と不倫関係を持ったカールは、作曲と王立劇場での職務に加えて、3人の幼い子供たちの育児を強いられました。

ニールセンは、結婚生活に対する怒りや不満を、多くの音楽作品に昇華させました。

最も顕著なのは、1897年から1904年の間であり、彼はこの期間を「心理的」時期と呼んでいました。

「この時期に、人間の性格の背後にある原動力に対する彼の関心は、オペラ『サウルとダビデ』、交響曲第2番(『四つの気質』)、カンタータ『愛の讃歌』 『愛の歌』に結晶化した」と言われています。

カールは1905年3月に離婚を示唆し、新たなスタートを切るためにドイツに移住することを検討していましたが、何度か長期間の別居があったにもかかわらず、ニールセン夫妻は生涯を通じて結婚生活を続けました。

ニールセンには5人の子供がいました。
そのうち2人は私生児でした。

アンヌ・マリーと出会う前の1888年1月に、すでにカール・アウグスト・ニールセンという息子がいました。

1912年には私生児の娘、ラヘル・ジークマンが生まれましたが、アンヌ・マリーはそのことを知ることはありませんでした。

ニールセンは妻との間に2人の娘と1人の息子をもうけました。

1915年ニールセンと家族
長女イルメリンは父親に音楽理論を学び、1919年12月に医師のエゲルト・メラー(1893–1978)と結婚しました。
メラーはのちにコペンハーゲン大学教授、国立病院総合診療科長となりました。
次女のアンヌ・マリー

はコペンハーゲン芸術アカデミーを卒業し、1918年にハンガリーのヴァイオリニスト、エミール・テルマーニ(1892–1988)

と結婚しました。彼はヴァイオリニストとしても指揮者としてもニールセンの音楽の普及に貢献しました。
ニールセンの息子ハンス・ボルゲは髄膜炎のため障害を負い、人生の大半を家族と離れて過ごした。1956年にコリング近郊で亡くなりました。

『母』作品41(1920年)は、南ユトランド半島とデンマークの再統一を祝うために書かれたもので、1921年に初演されました。この機会に書かれた愛国的な詩を曲にしたものです。

劇音楽『母』op41
霧が晴れていく
The fog is lifting .



ファーストペンギンで同性愛

2025-02-20 20:52:00 | バロック
夫の買い物。
イワトビペンギン。
実は2匹目。

コウテイペンギンもいます。
他にも小さいペンギンがあちこち…。
なんでやねん!と
かわいいからいいけど。

水曜日午後からヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子さんとカルメン幻想曲の合わせ練習でした。

「もより市で電車待っている間に、安かったから買ってしまったわ。帰りでは絶対無くなると思って!と金重さん。
いいなぁ!
きれい。
練習は真面目にやりましたよ!

ペンギンは、ペンギン目(Sphenisciformes)に属する鳥の総称です。ペンギン科(Spheniscidae)のみが現生しています、

北半球では
ペンギン型キャラクターは、古くは、背が黒色、腹が白色であることから、タキシードまたは燕尾服を着用した紳士になぞらえられることが多かったです。

有機化合物C10H14Oペンギノンは、平面構造式がペンギンに似ていることから名づけられました。


ペンギンは托卵されると同性同士で子給餌を仕合い、卵をかえし子育てを行うことから
同性愛の象徴とされています。

2006年にアメリカで同性愛ペンギンの絵本 And Tango Makes Three が出版され、波紋を呼びました。
この絵本はアメリカのニューヨーク市セントラルパーク動物園に実在した、オス同士のペンギンのカップルを題材にしていまふ。

ペンギンに同性愛行動はほかにも存在しています。

2006年、ノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界初の「生物の同性愛」がテーマの展示会が催され、同性愛自体が自然界でも珍しいことではないという事実が研究で確認されています。
同性同士のペアのペンギンは、ドイツの動物園や日本の登別マリンパークニクスなどで存在が確認できます。

ファーストペンギン
集団で餌を求めて海に飛び込む際に、最初に飛び込むペンギンは「ファーストペンギン」と呼ばれます。

転じて「リスクのある新分野に最初に挑戦する人」のことを指します。

17世紀において最も影響力のある作曲家であるアルカンジェロ・コレッリは、枢機卿ピエトロ・オットボーニからの寵愛を受けていたゲイの芸術家の一人でした。

オットポーニが有力者だったため、コレッリはある程度自由にゲイロマンスを楽しむことができていました。

コレッリはカンチェリアという男子音楽学校に滞在していた際に、バイオリニストのマッテオ・フォルナーリと恋愛関係にあったと言われています。
二人の関係は20年にも及んだそうです。

アルカンジェロ コレッリ(1653-1713年)教皇領フジニャーノ生まれ、教皇領ローマ没

若い頃のことは知られていません、
13歳でボローニャに出てきました。
コレッリの経歴が明確になるのは、17歳でアカデミア・フィラルモニカ (1666年に設営された音楽機関)

の会員となってからのことです。
コレッリの家系についてもあまり多くのことは知られていませんが、善にも悪にもつよい個性的な血族であったようです。
コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されましたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などを輩出しています。
彼の実家は裕福だったようですが、後に作曲家の系図に関するいくつかの架空の記述が主張するように、貴族ではなかったことはほぼ間違いありません。

コレッリが生まれる数週間前に父が亡くなっていたため、コレッリは母サンタと彼女の実家で4人の兄弟とともに育てられました。

幼少時はファエンツアの教会で教育を受けたと見られています。

その後ウーゴに渡り、1666年に当時イタリアの器楽音楽発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成しました。

彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニ(1657-1716年)という人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明です。

有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えました。

コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っていますが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようです。

コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得ました。

22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位につきました。

1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮しました。

フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ(1637-1710年)

ガエターニ
の3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記しました。

その後、コレッリはパリからドイツへ移ります。
1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていました。

この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていました。

この時期が最も脂がのり、1681年の作品1「トリオ・ソナタ集」を皮切りに作品番号を記した代表作を世に放ち、器楽曲の作曲家としての名声を高めていきました。

1685年にはコレッリはローマにいて、そこでスウェーデン女王クリスティーナ

のための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)(1610-1691年)

フランチェスコ・トレヴィザーニによるピエトロ・オットボーニ枢機卿の肖像画。イギリス、ダラム州バーナード・キャッスル、ボウズ博物館

の寵臣でした。

1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリを気前よく遇しました。

1700年にローマで作品5「ヴァイオリン・ソナタ集」を出版すします。
この作品集はヨーロッパ中の宮廷で評判となり、幾たびも再版や再出版が重ねられるベスト・セラーとなりました。

1706年、コレッリはローマのアルカディア・アカデミーの会員に選出されました。
彼はアルコメロ・エリマンテオというアルカディア名を授かりました。
彼は「新しいオルフェウス」、「音楽家の王子」などと呼ばれるようになっていました。
1708年に彼はローマに戻り音楽活動からの引退を宣言し、以後オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らしました。同年には、国王の招きでナポリを訪れています。

1713年にコレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金のほかにブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有していましたが、これが彼の享受した唯一の贅沢でした。

彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲りましたが、友人は気前よくもその財産をコレッリの親類に返還しました。
コレッリはローマのパンテオンに埋葬されました。

その影響はヴァイオリンにおいてはコレッリの方法を基本奏法とし、指揮法、作曲はヨハン セバスチャン バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、クープラン、トレッリ、ジェミニーニ、マルチェッロなとま他多数の作曲家にモデルとされました。

ヴァイオリン協奏曲op6No.8で



偉大なピアノと作曲家とピアニスト

2025-02-19 21:00:00 | 近代
今火曜日午前中はピアノの、調律師さんにきてもらいました。

蓋を開けて


ハンマーで一音ずつ叩いて
掃除機でホコリを吸い取って


「点検してください。」
だいたい大丈夫ですが、Cの幅が高音に行くに従って外れていきます。
「ちょっとCが…。」と言うとすぐに「わかりました!」と治してくれました。

2年同じ方がきてくれていますが、音感も良いし、誠実な仕事にいつも感心しています。

午後からピアノの坂田恭子さんとフルートの角谷雅一さんとフルート久米でドップラーのアンダンテとロンド合わせました。
坂田さん、「やっぱり、調律したせいで音がいつもより広がって深い音がするわ!」ですって、やった〰️!

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ( Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов, vɐˈ]、(1873- 1943年)ロシア帝国ノブゴロドスタロルースキイ郡セミョノヴァ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没

1900年
1909年、ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30は彼が作曲した3番目のピアノ協奏曲です。

1909年の夏に作曲され、同年11月にニューヨークで初演されました。
ピアノ協奏曲第2番と同様に、ラフマニノフの代表作のひとつで、演奏者に課せられる技術的、音楽的要求の高さで有名な作品です。

1909年の夏にタンボフ州イワノフカの別荘
イワノフカでピアノ協奏曲第3番の作曲に取り組むラフマニノフ
で、同年秋に予定していた第1回アメリカ演奏旅行のために作曲されました。

全曲の完成は同年9月23日のことでした。
時間の制約からラフマニノフはこの作品をロシア内で練習することができず、アメリカ合衆国に向かう船の中に音の出ない鍵盤を持ち込んで練習を仕上げました。
11月にアメリカで初演されました。
後、1910年にグートヘイリ社により出版され、作品はヨゼフ・ホフマンに献呈されました。

後にラフマニノフはこの曲をカットして演奏するようになりました。
1939年から翌年にかけて行われた録音でも、カットした版で演奏しています。
かつては他のピアニストもこれに倣って一部をカットして演奏することが多かったそうです。

初演は1909年11月28日にラフマニノフ自身のピアノと、ウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団との共演によりカーネギー・ホール

で行われました。

さらに1910年1月16日にはグスタフ・マーラー指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとの共演により二度目の演奏が行われました。

リハーサルの際、当時スラヴ系の音楽の演奏・解釈に不慣れだった楽団員がざわついたために、マーラー(1860-1911年)
1909年マーラー
が「静かにしなさい。この曲は傑作だ。」と言ってオーケストラをなだめ、この演奏の為に時間になっても団員を帰さず、完璧を目指して長時間の練習を続けました。

そのマーラーの根気にラフマニノフも感銘を受け、後にオスカー・フォン・リーゼマンに「ニキシュ(アルトゥール・ニキシュ1855-1922年ウィーン、ブタペスト、ライプツィヒ、ボストン、ロンドン、ベルリンなど名だたる交響楽団を指揮した)と同列に扱うに値する指揮者はマーラーだけだ。」と語りました。

この作品を「私の曲」と呼んで愛奏したのはウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989年)でした。

アメリカ・デビューとなった1928年1月のコンサートの4日前にはラフマニノフと初対面を果たし、この作品を2台のピアノのための版で演奏しました(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持ちました)。以後この二人のピアニストは親しく交流するようになりました。
作曲家自身がホロヴィッツの演奏を聴いた後ステージに駆け寄って「私よりうまくこの曲を演奏する」と感動を伝えたそうです。

1930年にはホロヴィッツはアルバート・コーツ指揮によるロンドン交響楽団との共演でこの曲の世界初録音を行いました。

そのホロヴィッツが愛用していたピアノはスタンウェイのピアノです。

スタインウェイ・アンド・サンズ(英: Steinway & Sons、通称: スタインウェイ)は、1853年にアメリカ合衆国ニューヨークでドイツ人ピアノ製作者ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(後のヘンリー・E・スタインウェイ)によって設立されたピアノ製造会社です。

スタインウェイは1857年から126のピアノ製作における特許を与えられていました。
最高級グランドピアノ市場のスタインウェイ社の市場占有率は一貫して80パーセントを超えています。

1930年ホロヴィッツの演奏でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番