音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

オペラ以外のビゼー

2025-02-08 08:53:00 | ロマン派
7日午後からセンメルトリオの練習でした。
2月23日六甲の里夢で「おとただまの会」コンサートに出ます。
フルート久米素子、ヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子で出演します。
曲はビゼー「カルメン幻想曲」トリオ編曲版。
金重さんが怪我をしていた上、私の目の手術で思うように合わせられず、今月になって詰めて練習です。 
目の方は思ったより視力がでず、しばらく投薬治療になりましたが、前に比べると楽譜は見えるようにはなっていますが…。

気をつけなくっちゃ。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

1860年頃に撮影されたビゼーの写真。
ビゼーと言えば歌劇「カルメン」。現代において最も演奏されている歌劇。
そして「アルルの女」の組曲、
「真珠採り」、レアな人で「ジャミレ」が知られていますが、その他の曲はあまり知りていません。
しかしビゼーはオペラ以外の曲も書いています。

ビゼーは芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度であるローマ賞(1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続しました。)に2回挑戦しています。

一度目1856年18歳の時には優勝該当者無し、二度目1857年カンタータで優勝。

ローマ・ボルゲーゼ庭園内のメディチ荘 (Villa Medici)。今日でも奨学生が寄宿している。
5年分の奨学金が支給され、彼ははじめの2年間をローマのフランスアカデミーで、3年目をドイツ、そして最後の2年間をパリで過ごすことになりました。

しかし、ドイツには行かず仕舞いになったものの、ローマには1860年7月まで逗留していました。

パリにまっすぐ引き返す代わりにイタリア中を旅行して、1858年と1859年には行かなかった土地に向かいましたが、ヴェネツィア入りした頃に母親が重病であるとの知らせを受けて、直ちに帰国します。

『ローマ』は、このイタリア留学がきっかけとなって作曲されました。

リミニ

に滞在中、初めて、4つの楽章にそれぞれイタリアの別々の都市(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ)の名を冠した『イタリア交響曲』という案を練っています。
1860年8月のビゼーの書簡にその記述が見られます。

この頃には初期の草稿がいくらか出来上がっていた可能性がありますが、楽譜は現存していません。

1861年までに書き上げられたスケルツォ楽章「ヴェネツィア」(ローマ留学中に作曲された作品に手を加えたものと考えられているは同年11月に非公開で初演され、2年後の1863年1月11日にジュール・パドルーの指揮によってシルク・ナポレオン(Cirque Napoléon)において公開初演が行われました。

演奏は低調で、多くの聴衆は敵意に満ちた反応を示しましたが、1月18日に国立美術協会で行われた再演では、ずっと前向きな反応が得られました。

このスケルツォ楽章は、現在でも全体の中で出来が良いと認められています。

1866年までにビゼーは全曲の初稿を書き上げましたが、不満を覚えて全体の改訂に着手しました。
この際に変奏曲だった第1楽章は主題だけを残して全面改訂され、第3楽章には終楽章のテーマが挿入されました。

1868年6月に完成した第2稿は、1869年2月28日に交響的幻想曲『ローマの思い出』のタイトルで、またもやパドルーの指揮で上演されました。

この時はスケルツォ以外の3つの楽章が演奏され、それぞれに「オスティの森の狩」、「行列」、「ローマの謝肉祭」という標題的な題名がつけられていました。ただし、これらがビゼーによる命名かどうかは不明です。

第2稿にもビゼーは満足できず、作品にもう一度手を加えた。最終稿となる第3稿はどうやら1871年までにはビゼーの手を離れたと思われます(ビゼーが他の企画に没頭していたからです)。

1875年にビゼーは36歳で早世します。
生前には最終稿による『ローマ』の全曲演奏は行われず、その初演はビゼーの死から5年経過した1880年10月、パドルーによって行われました。

その際のタイトルは『ローマ - 4部からなる交響曲』とされていましたが、1880年にシュダーン社から出版されるにあたり、『ローマ - 演奏会用の第3組曲』と変更されました。

シュダーン社は『ローマ』を、『アルルの女』第1、第2組曲につぐ第3の組曲にしようとしたものと考えられます。 

出版譜はおそらく1871年にされた変更を採用していて、各楽章のタイトルは「序奏とアレグロ」、「アンダンテ」、「スケルツォ」、「カーニヴァル(謝肉祭)」とされました。

現在の出版譜では各楽章のタイトルは全て削除されています。

第1楽章
アンダンテ・トランクイロ ― アレグロ・アジタート(ハ長調) Andante tranquillo - Allegro agitato

第2楽章
「スケルツォ」アレグレット・ヴィヴァーチェ(変イ長調) Scherzo: Allegretto vivace

第3楽章
アンダンテ・モルト(ヘ長調) Andante molto

第4楽章
「終曲」アレグロ・ヴィヴァチッシモ(ハ長調) Finale: Allegro vivacissimo






没後100年伝統的な概念を打破

2025-02-07 21:02:00 | 近代
6日、病院に行ってきました。
診察終えて、母に会ってきました。
元気そうでした。
話し出すと止まらなくて、お昼ごはんが届いて冷めそうになりました。

駅から病院に行くまでに鷺が2羽
母のお琴の師匠中島警子先生が今年数えで100歳になられるそうです。
その記念演奏会、宮城道雄を偲ぶ夕べ第50回…大阪新音の人と約束の50回。

宮城道雄先生が亡くなられて新音の方がそのお話しを持ってこられた時に「50回はやりましょう。」と約束されたそうです。

「ちょうど区切りの年やね。」と、母はそのお話しで頭がいっぱいみたいです。
中島先生、
さすがに弾かれはしませんが、企画に余念がないそう。
恐るべし100歳。 
母は数えで85歳。
でも、休んではいられないのでしょう。

今年2025年は
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、1866 - 1925年)
フランス共和国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

没後100年です。

サティと言えば、ピアノ曲で有名ですが、『パレード』は、レオニード・マシーンが振付し、エリック・サティが音楽を作曲し、ジャン・コクトーが脚本を書いたバレエです。

このバレエは、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929年)

のバレエ・リュスのために1916年から1917年にかけて作曲されました。

このバレエは、1917年5月18日金曜日にパリのシャトレ座で初演され、衣装と装置のデザインはパブロ・ピカソ(1881-1973年)、

ピカソ、ヴィラ・レ・クロシェットの絵画『愛好家』(バーゼル美術館)の前に立つ、1912 年夏
振付はレオニード・マシーン(1896-1979年)

(ダンサーも担当)、
オーケストラの指揮はエルネスト・アンセルメ(1883-1969年)

が担当しました。

このバレエのアイデアはジャン・コクトー(1889-1963年)

が考案したものです。

彼はコンサートでサティの「洋ナシの形をした3つの小品」を聴き、そのような音楽に合わせてバレエのシナリオを書こうと考えました。

サティはバレエ音楽を作曲するというアイデア(それまで作曲したことはなかった)を歓迎しましたが、以前に作曲した曲をこの機会に使うことは許可しませんでした。

そこでコクトーはシナリオを書き始め(テーマは3組のサーカス芸人が屋内公演に観客を呼び込もうとする宣伝パレード)、

それに合わせてサティが音楽を作曲しました。

この作品の制作は第一次世界大戦のさなかに始まり、コクトーは企画と製作段階の間、ベルギーの戦場を何度も往復しました。

ピアノ曲の最初のバージョンはミシアに捧げられ、1916年に上演されました。

結局、他の計画(とさらなる陰謀)が中止された後、ディアギレフの支持が得られ、振付は、戦争勃発の直前にパリを去ったワツラフ・ニジンスキーの後任として、バレエ・リュスのプリンシパル・ダンサーでディアギレフの恋人となったばかりのレオニード・マシーンに託されました。

舞台装置と衣装デザインは、当時キュビズムの画家だったパブロ・ピカソに託されました。

衣装デザインに加え、ピカソは公演前の晩餐会に出席する一団の出演者を描いたカーテンもデザインしました。

イタリアの未来派芸術家ジャコモ・バッラは、カーテンやその他の『パレード』のデザインを手伝いました。

1917年2月、サティを除くすべての協力者がローマに集まり、 『パレード』の制作を開始した。

初演は1917 年 5 月 18 日、パリのシャトレ座
で行われました。

劇用の大きなカーテン、舞台装置と衣装はパブロ・ピカソ。


マリア・チャベルスカの写真はハリー・ラックマンが撮影。

詩人のギヨーム・アポリネールは1917年にプログラムノートを書いた際、『パレード』を「一種のシュルレアリスム」(une sorte de surréalisme 無意識の精神を表現できるようにすることを目指し、非論理的または夢のような場面やアイデアを描写しました。アンドレ・ブルトンによると、その意図は「以前は矛盾していた夢と現実の状態を絶対的な現実、超現実、つまりシュルレアリスムに解決すること」)と表現しており、パリでシュルレアリスムが芸術運動として出現する3年前にこの造語が作られたことになります。

バレエ・リュスによる『パレード』のイギリス初演は1919年11月14日にロンドンのエンパイア劇場で上演され、文化イベントとなりました。

『パレード』 の筋書きは、パリのミュージックホールやアメリカの無声映画など、当時の大衆娯楽を取り入れています。

パリの正式な劇場の外、パリの街路を描いています。
ミュージックホールや遊園地など、日常生活のさまざまな要素を再現しています。

『パレード』以前は、大衆娯楽の素材を使用することは、バレエというエリートの世界には不適切であると考えられていました。

ピカソのキュビズム的な衣装のいくつかは厚紙で作られ、ダンサーは最小限の動きしかできませんでした。

楽譜にはいくつかの「騒音を出す」楽器(タイプライター、霧笛、牛乳瓶の詰め合わせ、ピストルなど)が含まれていました。
これらはコクトーによって追加されたものでした(このことはサティはややがっかりさせました)。
クトーは数年前にスキャンダルを引き起こしたイーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」に匹敵する成功を生み出そうとする彼の熱意を示すものと考えられています。

『パレード』は、一般的なストリート エンターテイメントをエリート層にもたらしたという点で非常に革命的でしたが、観客からは軽蔑され、批評家からは賞賛されました。

『パレード』に含まれる ラグタイムは、後にピアノ独奏用に編曲され、独立したピアノ曲としてかなりの成功を収めました。

バレエの初演は数々のスキャンダルを巻き起こしました。

観客の一部はブーイングをし、非常に騒々しく、熱狂的な拍手にかき消されるまで暴動を起こしそうになりました。

反対の多くはピカソのキュービズム的なデザインに集中しており、「sale boche」(汚い工作)という叫び声で迎えられました。

画家のガブリエル・フルニエによると、最も記憶に残るスキャンダルの一つは、『パレード』に否定的な批評を書いた音楽評論家のジャン・プーイ(1876- 1958年)の間の口論でした。

サティは評論家に

「Monsieur et cher ami – vous êtes un cul, un cul sans musique! Signé Erik Satie」

(「親愛なる友人よ、あなたは音楽のない馬鹿だ! 署名、エリック・サティ」)

と書いたポストカードを書きました。
評論家はサティを訴え、裁判でコクトーは法廷で何度も「馬鹿」と叫んだとして警察に逮捕され、殴打されました。
また、サティは8日間の禁固刑を言い渡されました。

2013年、コンプレックス誌のデール・アイジンガーは『パレード』を史上最高のパフォーマンスアート作品の20位にランク付けし、「これまでにもバレエやオペラのコラボレーションはあったが、20世紀初頭のこのアーティスト集団ほど伝統的な形式の概念を打ち破ったものはなかった」と書いています。

サティ作曲「パレード」ピカソの舞台衣装によるプロモーション



実はアイルランドと関係あり

2025-02-06 21:10:00 | 古典
寒い中、サンルームのいちごは咲き続けています。
実はならないけど…やっぱり養分足りないのかな?
後、サボテンさんも元気です。
びよ〜んと伸びています。

こちらは波平さん?

一本だけひょろひょろと伸びてきました。

自宅療養、退屈だなぁ。と、ダラダラ練習していたら、目が覚めるようなことがありました。

これに出ます。えっ!後17日。
しかも、フルートが足りないと言う異常事態。
2ndとPiccoloを両方吹くという荒業。
どちらも吹いたこと無い😭1stはあるんだけど。

断ろうかな?
と思ったけれど、困るだろうなあ?と声掛けていただいたホルンK氏の顔が頭に浮かび…。

四楽章だけだし…。と言っても20分以上。げ〜!
やばい!練習しなくちゃ。
というわけで絶賛練習中。
本当にやばい!
病院の先生に怒られそうです。
でも、音楽があってうれしい💖

ベートーヴェンの交響曲第9については散々やったので、第7番。
この第4楽章はさあ!さっさと行かなくちゃ!って感じがするので、頑張れそうです。

交響曲第7番
ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1811年から12年にかけて作曲されました。

ベートーヴェンは1802年『ハイリゲンシュタットの遺書』を書き、精神的な危機を乗り越えると次々と名曲を生み出しています。

交響曲第7番イ長調作品92

は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1811年から1812年にかけて、ボヘミアの温泉街テプリッツ

テプリッツ 洗礼者聖ヨハネ教会のある城の広場

で健康を回復するために作曲した4楽章からなる交響曲です。この作品はモーリッツ・フォン・フリース伯爵(1777-1826年)
フランソワ・ジェラール作「伯爵とその家族」
に献呈されています。

1813年12月8日にウィーン大学で初演されたとき、ベートーヴェンはこの作品が彼の最高傑作の一つだと言っています。

第2楽章「アレグレット」は非常に人気があり、聴衆はアンコールを求めました。

ベートーヴェンが交響曲第7番の作曲を始めた頃、ナポレオンはロシアに対する軍事作戦を計画していました。

交響曲第3番(おそらく交響曲第5番も同様)に続き、交響曲第7番は、長年続いたナポレオンの支配からの解放を求めるヨーロッパ戦争

を背景に、ベートーヴェンとナポレオンが音楽的に対峙した作品の一つであると思われます。

この時期のベートーヴェンの人生は、聴力の低下が徐々に悪化したことで特徴づけられています。(1819年以降は「会話ノート」が必要となりました。)

この作品は、1813年12月8日にウィーンで行われたハーナウの戦い(1813年10月30日31日フランス対オーストリア)
ハーナウの戦い、オラース・ヴェルネ作、1824年
で負傷した兵士のための慈善コンサートでベートーヴェン自身の指揮により初演されました。

プログラムには、ナポレオンのフランスに対するイギリスの勝利を讃える愛国的な作品「ウェリントンの勝利」も含まれていました。

7番は大変好評で、聴衆はアレグレット2楽章のアンコールを即座に要求しました。

シュポーアは特に、ベートーヴェンの指揮台上での熱狂的な身振り(「スフォルツァンドが始まると、彼は激しい勢いで両腕を引き裂き、フォルテの入り口で空中に飛び上がった」)や「ベートーヴェンの友人たちがコンサートの再演を手配した」ことに言及し、それによって「ベートーヴェンは金銭的困難から解放された」と記しています。

第7番の第4楽章は彼自身が編纂した「12のアイルランドの歌」の第8番目の「私を墓から救ってください」Save me from the grave and wiseをモチーフに展開しています。

ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1712-1773年)

はスペイン領ネーデルランド メヘレン生まれのパン屋の息子です。
1733年にケルン選帝侯領のボンでクレメンス アウグストの宮廷のバス歌手として雇われました。
そのボンで息子ヨハンを育て、孫のルートヴィヒをもうけました。

彼の故郷メヘレンは、アイルランドの伝道師聖ロンバウツ(Rombout;Rumold)の埋葬の地そして修道院領の中心地でした。

そして孫のルートヴィヒは、このアイルランドの民謡から様々な影響を受けています。

「12のアイルランドの歌」より第8番「私を墓から救ってください。」

交響曲第7番 第4楽章



悪評で一度は破棄

2025-02-05 21:07:00 | ロマン派
2月4日さっき、母の手術が終わりました。
付き添いたかったけれど、家で安静中。男たちは仕事でいない。
もう少しずらしてって言ったのに…。

看護師の妹が仕事の合間に手術に立ち会ってくれました。
自分の病院だからね。
会議やら何やらあったみたいだけど、なんとか都合つけてくれたみたい。
無事終わったと連絡ありました。

首の後ろの付け根に肉腫ができていてそれをとる手術です。
良性みたいだけれど、だんだん大きくなってきたから、先生が取りましょうということ、決行しました。
写真送ってくれましたが顔色も悪くない。
土曜日辺り退院です。
それは行くつもり。
少し安心しました。

ジャン・シベリウス( Jean Sibelius )(1865- 1957年)

『カレリア』(Karelia, フィンランド語:Karjala)は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの管弦楽作品。

当初は劇音楽として作曲されました。その後改訂を重ね、現在の形になりました。

1892年にアイノ・ヤルネフェルト
1888年頃
と結婚したシベリウスは、新婚旅行にカレリア地方を訪れました。

カレリアは、フィン人(北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国があります。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族です。)の発祥の地。

シベリウスはカレリア地方の民謡や伝説に、作曲のインスピレーションを得ました。
『カレワラ』(Kalevala、カレヴァラ) は、カレリアとフィンランドの民族叙事詩。[1]19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot, 1802年 - 1884年)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つ

翌1893年、シベリウスはヘルシンキ大学のヴィープリ(ヴィボルグ、現ロシア領)出身の学生の団体から、その年の秋に行う野外歴史劇のための音楽を依頼されました。

歴史劇は、カレリア地方
カレリア 国境線西側のフィンランドには北カレリアと南カレリアが広がる。白海、オネガ湖、ラドガ湖、フィンランド湾など水域が多い
の13世紀から19世紀までの歴史を7つの場面で描くものでした。

野外劇は1893年11月13日にヘルシンキで上演され、音楽はシベリウス自身の指揮で演奏されました。

アレクサンダー帝国大学
「音楽の音は一音も聞こえず、全員が立ち上がって歓声をあげ、拍手していた。」
— ジャン・シベリウス、弟クリスティアンへの手紙より

発表後の評判は悪く、シベリウスはこれを失敗作として廃棄しました。
しかし、「たいそう優れたものだった」という評価もあります。

この劇音楽のうち1曲を序曲として残し、他に8曲を選びそれを組曲としました。

これらは劇の上演から6日後の演奏会で演奏されました。

組曲はさらに3曲に絞ることにした。

このため『カレリア』は最終的に「序曲」作品10と

「組曲」作品11の2つの作品として1906年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版され、今に残ることになりました。

「カレリア」序曲 作品10
組曲と比較して演奏の機会は少ないです。中間部に組曲の第1曲「間奏曲」と共通の主題が現れる。

「カレリア組曲」作品11
3曲から構成されています。
シベリウスの管弦楽曲のうち比較的よく演奏される作品で、第3曲「行進曲風に」は単独で演奏されることも多いです。

第1曲:間奏曲
劇の第3景、リトアニア公爵ナリモンド

がカレリアの住民から税を取り立てていた時代の場面の音楽。ほぼ1つの主題の繰り返しからなります。

第2曲:バラード
劇の第4景、ヴィープリの城内で吟遊詩人が歌う場面の音楽。
コールアグレのソロが有名です。

ヴィボー城 スウェーデン王国の拠点1293年建築

しかし、この旋律は原曲ではバリトン独唱とホルンが担当しています。

第3曲:行進曲風に(アラ・マルチャ)
劇の第5景、16世紀の場面の音楽。2つの主題からなる行進曲。

劇音楽版の復元
1893年の初演後まもなく、シベリウス自身はこの曲の譜面を廃却しましたが、初演を担当したヘルシンキ交響楽団の首席指揮者であったロベルト・カヤヌスが、自筆譜の一部などを保存していました。

後年、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホによって不足分の譜面が補筆され、1997年にBISレコードによって全曲が世界初録音されました。

それによると、作品全体は序曲および全8幕(第7幕と8幕は続けて上演)10曲で構成され、途中2曲で声楽が導入されています(第1幕で男性民謡歌手による重唱、第4幕でバリトン独唱=組曲版の第2曲に相当)。なお、この序曲は作品10とほぼ同一ですが、劇音楽の方が概してテンポ指定が速いなど、若干の違いがあります。




ジーグを踊りたい

2025-02-04 20:54:00 | バロック
3日月曜日、洗髪のために近所の美容院に行ってきました。
目に水が入ったら化膿するかもしれないので、洗髪はまだ自分でできません。
お風呂は良いのですが…。
4日目もう我慢も限界。

ここは火曜、水曜定休なのですが、月曜日は営業しています。
そして安い。
洗髪とブローで1650円。
予約は要らないし、温かい雰囲気で、「シャンプーだけで申し訳ないです。」と言ったら
「全然大丈夫ですよ。そんなん言わないでください。」と言われて丁寧に洗っていただきました。
それにヘッドマッサージ、ブロー前には肩もほぐしていただきました。

本当にありがたい!
すっきり、頭が軽くなったようです。
ジーグでも踊りたい気分です。

ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully', 1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没

『狂えるオルランド』(くるえるオルランド、Orlando Furioso)は、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533年)レッジョ公国モデナ生まれ、フェラーラ公国フェラーラ没
によるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌、3万8736行に及ぶ大長編でルネサンス文学の代表作です。

ジョン・ハリントン訳『狂えるオルランド』第3版(1634年)の表紙。初版は1591年
サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュとパラディンの活躍を背景にオルランド(ローラン仏語)の失恋と発狂、エステ家の起源が語られています。

フィリップ・キノー(1635-1688年)

台本によるオペラ。

ローランの楽譜
1685年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でパリ・オペラ座により初演。

1682 年頃のヴェルサイユ宮殿、アダム・ペレルによる版画
1685年3月8日から同劇団のパリの公立劇場であるパレ・ロワイヤル劇場で上演されました。

1761年にパレ・ロワイヤルで再演されたリュリの『アルミード』
リュリは自分の壮大なオペラを上演するためこの劇場に新しい舞台装置を設置させました。

寓話的なプロローグと5幕からなる音楽悲劇の形式をとっています

プロローグ
妖精の王デモゴルゴンがルイ14世を讃え、リュリ

有名な騎士ローランの物語を見たいと頼みます。

カール大帝の甥のローランがカタイ王の娘アンジェリークを愛していますが、実は彼女はアフリカ軍の兵士メドールに恋をしています。

第1幕
ローランが愛の証としてアンジェリークに魔法の腕輪を贈ります。

第2幕
アンジェリークは森の中の愛の泉に近づきます。ローランを見ると、彼女は魔法の指輪を使って姿を消し、ローランは絶望してさまよい立ち去ります。

その後メドールが現れ、アンジェリークに恋しており、自殺しようとしているとつぶやきます。
その時、アンジェリークは姿を現し、彼への愛を告白します。

しかし彼女は、ローランがそれを知ったら激怒するのではないかと心配しています。

第3幕
アンジェリークとメドールはすぐに結婚し、


ローランから逃げる計画を立てます。

第4幕
アンジェリークがどこにも見当たらず、ローランが絶望します。
彼は洞窟の壁にアンジェリークとメドールの名前が刻まれているのを見つけます。

近くで村の結婚式の音が聞こえ、村人たちはメドールとアンジェリークの脱出について話します。
また、村に泊めてくれたお礼に2人がくれたローランのブレスレットを見せます。
ローランは狂気に陥ります。

最終幕
妖精ロジスティルの影響で、眠っているローランに古代の英雄たちの夢が訪れ、アンジェリークへのむなしい愛を捨ててキリスト教軍に戻るよう促します。

ローランは目覚め、理性と栄光への欲求を取り戻し、戦いへと出発し勝利します。

オペラ「ローラン」よりジーグ

ジーグはバロック時代の組曲を構成する舞曲の形式の一種。
発祥地は、グレートブリテン島やアイルランド島と考えられています。

giga(伊、古独)とよばれる中世の擦弦楽器の名称とその奏者の名前か、もしくはgiguer(古仏)の跳躍するという説があるものの、明らかになっていません。 

フランス式ジーグ
多くの場合、複合3拍子(8分の6拍子、4分の6拍子)となり、付点リズム、跳躍などを設け、複雑なアクセントやフーガ的書法が用いられ、サラバンドのすぐ後ろに置かれます。

イタリア式
フーガ的書法をとらずに、基本和声の上に急速に駆け巡る経過句的形式で書かれます。単純明快で分散和音的なつくりになっています。

リュリ 歌劇「ローラン」よりジーグ




東西の鬼

2025-02-03 21:00:00 | ロマン派
2月2日は節分。
うちではいわしの煮付けと、小さな鰯の唐揚げを食べました。
恵方巻も今年は切り分けた巻き寿司一本を3人で分けておしまい。

節分(せつぶん、せちぶん)は雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことだそうです。

節分は「季節を分ける」ことも意味しているそうです。

江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多いです。

太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていました。

旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになります。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていました。

葛飾北斎画:『北斎漫画』
『節分の鬼』豆撒き
宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていました。

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去されました。

平安時代頃から行われている「追儺」から生まれました。
中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となりました。

『吉田神社追儺』 - 都年中行事画(1928年)
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まっています(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」(この年、天下諸国に疫病あり。多くの民が死に、はじめて土牛を造り大儺(だいだ)す)。

曾我蕭白《雪山童子図》(鬼)(1764年)。
これが室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となっていきました。

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、
当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)

を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになりました。

鬼を撃退するためにタントラを唱える空海を描いた葛飾北斎 (1760–1849) の肉筆画
西洋音楽の中で鬼と言うとゴブリンやトロール。

ゴブリンは、洞穴、木立に住み、幼い子を食べる、概して邪悪なものです。

「死者とともに現れ、人間へ妖精の食物を食べるよう誘惑します」
醜く不愉快な小鬼
悪戯好きな家付きの妖精
教会の墓地の地下や岩の裂け目、古い木の根元に住む妖精
を指し、彼らはピレネー山脈の割れ目から発生し、ヨーロッパ全土へ広まったといわれています。


森のトロール (テオドール・キッテルセン, 1906).
トロールは、北欧の国、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種です。

当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として描かれました。

変身能力があるのでどんな姿でも変身できます。

鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。
別格のトロールたちには二つまたは三つの頭があります。

ノルド語の「Troll」は、怪物や妖精を指す一般名詞で、『巫女の予言』ではスコルについて「トロッルの姿」をしていると表現され、『エッダ』(神話)では「トロッルは天の輪を呑みこむ」とあります。

腕力が強く、魔術を使います。

ノルウェー国旗の盾を持つバイキング姿のトロール(マグネット製)
一般的なトロールについてのイメージは、巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せます。
醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くない。凶暴、もしくは粗暴で大雑把、というものです。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェーベルゲン没

1867年イプセンの依頼により彼の戯曲「ペール・ギュント」にグリーグが音楽をつけました。

イプセンからグリーグへの手紙(1874年1月23日)
戯曲「ペール・ギュント」のあらすじ
落ちぶれた豪農の息子で、母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントは、かつての恋人イングリを結婚式から奪取して逃亡します。

しかしイングリに飽きたら彼女を捨て、たまたま出会った緑衣の女(トロルの娘)と婚礼寸前まで行くが逃げ出します。

密かに帰宅しましたがその場で病床のオーセは息を引き取ります。

再び逃亡したペールを追ってきた純情な女ソルヴェイと恋に落ちますが、そこへ緑衣の女が奇怪な小児を連れて現れたので、ペールはソルヴェイを待たせたまま放浪の旅に出ます。

山師のようなことをやって金を儲けては無一文になったり、精神病院で皇帝になったり遍歴した後に老い、身一つで帰郷します。

死を意識しながら故郷を散策していると、ボタン職人と出会いますが、彼は天国に行くような大の善人でもなく地獄に行くほどの大悪党でもない「中庸」の人間をボタンに溶かし込む役割の職人でした。

「末路がボタン」というのだけは御免だと、ペール・ギュントは善悪を問わず自分が中庸ではなかったことを証明しようと駆けずり回りますが、トロルの王も「やせた男」もそれを証明してくれませんでした。

彼は最後の証人として会ったソルヴェイに子守唄を歌ってもらいながら永眠します。

ペール・ギュントが訪れる山の王の宮殿でトロールたちが踊ります。  

アーサー・ラッカム山の王の城にて




放埒な王が愛したタルト

2025-02-02 21:00:00 | バロック
京都三条若狭家

の稚児餅。
祇園祭の時期に食べるお餅です。
病院の帰りに通っただけ、買ってませんが、白味噌の餡を求肥で包んだお菓子。
美味しそう!

神馬堂の焼き餅は買って帰りました。
180円。味も変わっていません。
トースターで温め直していただきました。

家で安静2日目。
2月になりました。
左目はまだ赤いですが、身体は元気になってきました。

メイズ・オヴ・オナー・タルト(英語: Maids of Honour tart)はイングランドの伝統的な焼き菓子で、甘みをつけたチーズカードをつめたパイ生地を用いたタルトです。
別名メイズ・オヴ・オナー・ケーキ(Maids of Honour cake)。

薄いパイ生地にバターシロップをつけ、中にレモンカードなどを用いたクリームを入れたお菓子です。
カッテージチーズやクリームチーズを用いるレシピもあります。

ジャムやアーモンド、ナツメグを加える場合もあります。

ベイクウェルタルト

ショートクラスト生地を敷いた上にジャムやフランジパーヌの層をのせ、さらにトッピングとしてアーモンドフレークを加えたイングランドの砂糖菓子
など他のイギリスの伝統菓子に似た製法で作られ、生地やフィリングについてはいくつかバリエーションがあります。

伝説によると、このタルトはヘンリー8世(1491-1547年)


の時代までさかのぼると言われています。

このタルトについて広く知られている俗説として、王妃のメイド・オヴ・オナー(女官たち)がケーキを食べているところを見て、そのケーキを食べてみたいと王が所望したという逸話があります。

王はこのケーキを美味しいと思い、女官たちにちなんだ名をつけました。

さらに、そのタルトを作った女官は監禁されて王のためだけに菓子を作らねばならなくなったという物語もあります。

また別の話として、このタルトはその時女官であり、ヘンリー8世のために菓子を作ったアン・ブーリン(1501-1536年)

平民から王の愛人、王妃になりましたが、1000日で廃位、罪を得て処刑されました(男児を産めなかったからとも言われています)

ロンドン塔のアン(19世紀画)

にちなんで名付けられたという伝承もあります。

しかし逸話はいずれも伝承で、正確なことはよくわかっていません。

サリー州のキュー、キュー植物園の近くにあるニューウェンズのティールームは「元祖メイズ・オヴ・オナー」("The Original Maids of Honour") を名乗っています。
1850年にレシピを買い取って営業を始めたと言われています。

最初にこのタルトが「メイズ・オヴ・オナー」という名称で印刷物に記載されたのは1769年頃のことで、18世紀末のレシピも残っています。

ヘンリー8世の頃のイングランドの音楽家と言えば、

トマス・タリス(Thomas Tallis, 1505 - 1585年)は、
イングランド王国の作曲家、
オルガン奏者。

青年期にはロンドンの教会やウォルサム・アビー修道院(1536年頃 - 1540年)
のオルガン奏者をつとめ、カンタベリー大聖堂


での職を経た後、1542年より王室礼拝堂のオルガン奏者となっりました。

1572年からは弟子のウィリアム・バード(1543?-1623年)

も王室礼拝堂に着任し、同僚として共に働きました。

タリスの仕えた国王は、テューダー朝のヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世とエリザベス1世の4人です。

カトリックとプロテスタントが激しく対立する宗教改革の時代に生きたため、ラテン語および英語による作品が残されています。

残された作品の数は少ないですが、素朴で美しく慎ましい感情が表現されています。 

タリス自身はカトリックでしたが、多くはプロテスタント向けの英語の詞で作曲されています。

1575年にタリスとバードは、エリザベス女王から五線紙に音楽を印刷するための許可を得ました。

タリスはまた、エリザベス女王によって年30ポンド相当の収入が得られる土地を与えられました。

この時期のオルガンはショート・オクターブ(初期の鍵盤楽器(チェンバロクラヴィコードオルガンにおいて、低音域を拡張するために変則的に鍵に音を割り当てる方法)もまだ用いられていた時代なので、器楽作品は地味で目立たない印象を与えることが多いです。

タリスが名声を決定的にしたのは「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」のような過剰多声楽曲です。

和声的には単純でも、聴取の限界を超えた声部が幾重にも重なり、他にない荘厳さを生み出します。

後半、バス声部の完全四度進行の反復が宗教的な瞬間の創出に成功しており、数度のゲネラルパウゼ(一時停止)で聴神経が一挙に引き締まります。

この時代には当然和声理論は確立しておらず、同時代のイタリアのルネサンス音楽よりも簡素な対位法の下で自由に旋法内の音を選べたのでできた表現でした。

1567年に書かれた「大主教パーカーのための詩編曲」の第3曲の旋律は、後にヴォーン・ウィリアムズが「トマス・タリスの主題による幻想曲」に用いたため、特に有名になりました。また、この第9曲は「タリスのカノン」という別名を持っています。

40声のモテット
「我、汝の他に望みなし」
Spem in alium

あなたの他に何も望みを持たず

私は、あなたの他に何も望みを持たず、

イスラエルの王よ、あなたは時に怒り、時に慈悲深くあり、
そして、人がすべての罪に苦しんでいることから解放してくださいます。

主なる神よ。天と地の創造主よ。
かえりみて下さい。
卑しき私たちを。





アントレ行列の曲

2025-02-01 20:54:00 | バロック
7日にお参りした上賀茂神社。
お社の奥の神山に神が降臨されたことで神山をお祀りしている世界遺産。


葵が御神紋で源氏物語で、光源氏が葵祭の主役勅使代(天皇の命を伝える役割)を務めたことが書かれています。

葵の御神紋
大學のゼミの出席扱いになるので葵祭を見学に行ったことも…。
葵の花を飾って平安時代と変わらない装束で行列が行きます。

御所を出発して下鴨神社を経由して終点が上賀茂神社です。
葵祭は4月。冬は静かです。
節分祭の準備中でした。

レオポルド モーツァルト(1719-1787年)神聖ローマ帝国自由帝国都市アウクスブルク生まれ、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク没

1719年、アウクスブルクで製本師の父ヨハン・ゲオルク・モーツァルト(Johann Georg Mozart 1679年-1736年)と母アンナ・マリア・ズルツァー(Anna Maria Sulzer 1696年-1766年)の長男として生まれました。
父方は代々石工職人、母方は代々織師でした。

1737年、ザルツブルク大学に入学。哲学と法律を学ぶはずでしたが、音楽に熱中して1739年に退学となりました。
ザルツブルクの名門貴族トゥルン=ヴァルサッシナ・タクシス伯爵家の従僕兼楽士として採用され、以後、本格的に音楽家としての道を歩み始めます。

1743年、ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者(無給)に採用され、以後ザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach) 1753年 - 1771年


の元で仕えます。

1747年、アンナ・マリア・ペルトゥル(Anna Maria Pertl 1720年-1778年)

と結婚。
7人の子供をもうけますが、成人したのは三女の愛称ナンネル(Nannerl 1751年-1829年)

と三男のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年-1791年)

のみでした。

1747年、ザルツブルク宮廷室内作曲家に就任。
1757年、宮廷作曲家の称号を授与されます。

1758年、ザルツブルク宮廷楽団第2ヴァイオリン奏者に就任。
1763年、宮廷副楽長に昇進。この後死ぬまでこの地位に留まりました。

1785年、ウィーンへ赴きヴォルフガングと再会。これが2人の最後の別れとなりました。
この時、息子の勧めでフリーメイソンに入会しています。

1787年、ザルツブルクでナンネル夫妻らに看取られて68歳で死去し、聖セバスティアン教会の墓地に埋葬されました。

ザルツブルク・聖セバスティアン教会にあるレオポルトの墓石(右)。中央はコンスタンツェの墓石。

ザルツブルク司教と決別していたヴォルフガングは臨終の床に立ち会わず、葬儀にも参列できませんでした、

友人のゴットフリート・ジャカン(Gottfried Jacquin)宛の手紙で
「最愛の父が死んだと知らされた。僕の心境を察してくれるだろう!」と悲しみの情を吐露しました。

アントレ Entree -はバレエの始まりに演奏される曲で、この曲に乗って行列して入場します。