音楽の喜び フルートとともに

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兵士たち

2025-01-19 21:00:00 | 現代
今日もこもってハープの練習。
何時間もやりましたが、ちっとも解決しませんが…
仕方ありません。これで行くしかありません。
16日に母とランチをしようと歩いた藤森駅のちかくには「軍人湯」という銭湯があります。

外から見ても何の変哲もない感じですが、名前の由来は、向いにある現在の聖母女学院本館に





かつて「第16師団本部司令部」があり、当時の軍人たちが汗を流した銭湯=軍人湯ということだそうです。

今でも師団街道、第一軍道、第二軍道という名前が残っている通り伏見は戦前、軍都でした。

「第16師団本部司令部」と言うと1905年日露戦争の時に、本土を守るために設営されました。
1919年には満州に駐在。
1937年には日中戦争が始まり、参戦。

太平洋戦争では1941年(昭和16年)11月6日に第14軍戦闘序列に編入。
緒戦のフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯しました。

1944年(昭和19年)8月からは第35軍隷下となりレイテ島に移駐。この年の10月20日に連合国軍がレイテ島に上陸。大本営はレイテ島での決戦を予定しましたが第16師団は壊滅しました。

当初13,000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死。

師団長牧野四郎中将も1945年(昭和20年)8月10日に自決しました。

ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918-1970年)ドイツ ブリースハイム生まれ、ドイツ ケーニヒスドルフ没

はドイツの現代音楽の作曲家です。

途中戦争による中断がありましたがケルン音楽大学とケルン大学で学んだのち、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加、ルネ・レイボヴィッツからセリエリズムの影響を受けます。

1956年にISCMドイツのプレジデントに昇格。

1957年に母校の音大でフランク・マルタンの後任として作曲科の教授を勤め、篠原眞やヨハネス・フリッチェなどを育て、後年のシュトックハウゼン(1923-2007年)

体制の橋渡しをします。
晩年には最後の作品である

『私は私を望んでいる、そして私は太陽の下ですべてを許さない』

の楽譜を完成させて から5日後、謎のピストル自殺を遂げています。

1965年オペラ「兵士たち」を作曲しています。

オペラ「兵士たち」
商人の娘マリーはストルジウスと付き合っていますが、若い貴族のデスポルテスに誘惑されます。

デスポルテスは少しの間、付き合った挙句マリーを漁場番に与え、マリーは暴行を受けます。

マリーは行方不明になり、ストルジウスは傭兵に変装し、デスポルテスに近づき彼を毒殺。
自らも毒を飲み死にます。

マリーは物乞いとなり、街をさすらっています。
そこに父親が通りがかり、娘とは知らずにお金を与えます。

最後のシーンは幻影的です。
父親は奴隷にされ、戦死した兵士たちの果てしない行列に加わり、酔っ払った将校たちも参加します。
行列は地獄の光景へと盛り上がります。
人間同士も、個人も、集団の良心も、軍の力によって強姦されると終幕。



2024-12-20 21:02:00 | 現代
京都医療センター藤森駅で降りるとに、晴れていたのに小雨、というより霙(みぞれ)。
傘を持っていかなかったのでコートのフードをかぶって行きました。

寒い!

前に来た時、川にいた鴨の姿も見えませんでした。

学校帰りの小学生が年嵩の男の子に「雪降って寒いから、お前んち寄っていってもいい?」と聴いて「お前の家の方が近いやん。」と断られていました。
ぶっと吹いてしまった。
けれどなんだか気持ちはわかるなぁ。
寒いと人恋しいんだよね。
雪はあっという間にやみました。

武満徹(1930-1996年)日本東京都生没

1961年
1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれます。

父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めました。

山口県出身の母麗子は祖父が漢学者。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と積極的に文通したり、軍部批判を声高にしゃべったりする女性でした。

父は玉突きやダンスの得意な、かなりの放蕩者だった。会社へはあまり行きたがらず、「将来、徹を絶対に会社員にしてくれるな」と口にしていました。
武満が後年会社員を目指したのは、父の言葉への反発からでした

生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡ります。

1937年(昭和12年)、小学校入学のために単身帰国、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学、終戦まで7年間にわたって叔母の家で育てられました。

1938年(昭和13年)に父が病死。母は、父が亡くなった後上京するも、生計を立てるため武満とは別に暮らしたました。

叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、株屋だった叔父はほとんど家に帰らず、道楽に明け暮れました。

年上の従兄が4人同居していて、下の2人に武満は影響を受けました。

叔母は生田流箏曲の師匠で、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られるます。

1943年(昭和18年)、旧制の私立京華中学校に入学。
額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」でした。

在学中の1945年(昭和20年)に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員されます。

軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)を耳にして衝撃を受けます。

また戦争中は予科練を受験。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年でした。

戦後最初はサラリーマンを志していましたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめました。

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接しました。

やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学でした。

京華中学校卒業後、1949年(昭和24年)に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)

作曲科を受験。

この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在します。

1950年(昭和25年)に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューします。

この曲は当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評されます。

この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとりました。 

瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表しました。

「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけました。

これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレート(人や動物の声、鉄道や都市などから発せられる騒音、自然界から発せられる音、楽音電子音楽曲などを録音、加工し、再構成を経て創作されます)の手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられています。

前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっています。

この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)
と1954年に結婚しました。

病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨

は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住しました。 

1957年(昭和32年)、早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキー

が偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となりました。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、フルート、テルツギター、リュートのための「リング」(1961年)などを発表します。

大阪御堂会館


で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになります。

この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがあります。

この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてインターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズでグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がりました。

1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ています。

1962年(昭和37年)にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲しました。

1963年作曲「雪」Le neige
1963年は武満の「うた」がたくさん生み出された年でした。

この曲は映画「白と黒」の主題歌でフランス語の詞。詞を書いたのは美術評論家の瀬木慎一で、映画では岸洋子によって歌われました。

『白と黒』(しろとくろ)は、1963年の日本のミステリー・サスペンス映画。橋本忍のオリジナル脚本を堀川弘通監督が映画化しました。

雪 La Neige
Il neigeait, il neigeait
Quand il se fut eloigne
Elle pleure de nouveau
Apres la nuit blanche
Une autre nuit blanche

雪が降っていた、雪が降っていた
おとこが離れていったとき
おんなはまた泣き出す
白い夜のあとの
もうひとつの白い夜
**:**


ガーシュインのララバイ

2024-12-18 21:46:00 | 現代
火曜日久しぶりに赤ちゃんのサポートでした。
実は赤ちゃんのお兄さんがインフルエンザから肺炎になり入院。
その後、赤ちゃんは腸炎にかかりという具合でお兄さんを保育園に送っている間赤ちゃんの保育という任務ができなくなっていました。

病児保育は制度上できないので、残念でした。
本当は子どもが病気の時こそ、助けが欲しいのにね。

ジョージ ガーシュイン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。

初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」でした。

父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ぃましたが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになりました。

13歳の時から正式にピアノを習い始め、また、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。

しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。

彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーにあった楽譜出版社
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。

出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザー(1895-1986年)


との共作になる1919年の歌曲「スワニー」
アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。

この頃ガーシュインは「子守歌」(こもりうた、Lullaby)を作曲しました。
弦楽四重奏のための作品。
訳さずに「ララバイ」とも呼ばれています。 

ガーシュインは、学生の課題曲として「子守唄」を 作曲しました。

彼の教師であるハンガリー移民のエドワード・キレニは、彼にクラシック音楽理論の徹底的な講義を授け、シェーンベルクやドビュッシーなど当時のヨーロッパの作曲家を紹介しました。

「子守唄」はガーシュインの最初の「本格的な」作品でした。

兄のアイラ・ガーシュインは、このカルテットが音楽仲間のプライベートな集まりで何度も演奏され、「いつも歓迎された」と回想しています。

この曲の主題歌は、1922年の失敗作ミュージカル『ブルーマンデー』のアリア(「誰か私のジョーを見た人はいるか」)の冒頭に使われました。

ミュージカル「ブルーマンデー」CD

このショーは失敗に終わりましたが、おそらくこのショーがきっかけでポール・ホイットマンが 1924年に『ラプソディ・イン・ブルー』を作曲することになりました。

約40年後、アイラは『子守唄』の原稿をハーモニカの名手ラリー・アドラーに見せ、アドラーが編曲したハーモニカと弦楽四重奏曲は1963年のエディンバラ音楽祭で演奏されました。

この曲は1967年にジュリアード弦楽四重奏団によってアメリカ議会図書館で初演され、弦楽オーケストラによる演奏も時折聞かれます。

New York: New World Music Corporation, 1968. Plate NW-1006-24(10)

この曲は多彩なハーモニーとシンコペーションのリズムが使われブルースや、ラグタイムを思わせます。

作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン
ジョージとアイラ
は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。


中世風小組曲

2024-12-16 20:56:00 | 現代
日曜日は夙川公民館ホールで西宮ギターのコンサートでした。

この会とのお付き合いも長くなりました。今回は川原久美子さんとフランツ ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を演奏しました。

本庄さん、Hさんのギターデュオでリサフォンの「三千院」。

コントラバス安福さんとギター渡瀬さん

岡山からフルートとギターで参加のIさんご夫妻で「中世風舞曲」。
東京から参加のギター高木さんと「ニュー・シネマ・パラダイス」、

田郷さんとピアソラの「カフェ1960」を草津から参加のフルートOさんがデュオで。

サックスの増川啓寛さん、ピアノ古橋まりこさん、ギター古橋さんのトリオでアランフェス協奏曲。

などアンサンブルの出演者も増えて楽屋裏も和気あいあいとおしゃべりに花が咲き楽しかったです。

フランシス=ポール・デュミラック(1917−2014年)は

1917年5月20日、エニス・ジェミルとしてパリに生まれました。

1973年3月24日よりフランシス=ポール・デュミラックと名乗るようになりました。

パリ音楽院などで学び、ヴァイオリンをフィルマン・トゥシェに、指揮をイオン・コンスタンティネスコとビゴに、和声と作曲をオーベールとロパルツに師事しました。

第二次世界大戦以前は、パリ交響楽団、コンセルヴァトワール・コンサート協会、モーリス・ヒューイット四重奏団の第二ヴァイオリンとして活躍しました。

戦後は、バグダッド芸術アカデミー(1947-8年)、パリ国際音楽院(1948-51年)で教鞭を執りました。

さらに、いくつかの音楽院の院長に任命されました。
さらに、サン・ブリューク(1951-60)、ル・マン(1960-68)、クレルモンフェラン(1968-76)、サン・テティエンヌ(1976-81)の各音楽院の院長に就任しました。

シャトゥー、2000年代、左から右へ:マリー=フランソワーズ・ギレム(作曲家ルイ・オベールの孫娘)、彼女の父ピエール・ルドン(作曲家の義理の息子)、ルドヴィク・フロラン、音楽学者、エリアーヌ・ルジューヌ=ボニエ(音楽教師、オルガン奏者) )、巨匠フランシス=ポール・ドゥミラック(別名エニス・ジェミル)、作曲家、音楽院院長、ルイ・オベールの生徒、友人。

フルートとギターのための「中世風小組曲」
Petite suite medievale pour flute et guitare

第1楽章:シシリエンヌ
第2楽章:鐘の音
第3楽章:ロンサールの詩による一葉から亡き乙女に
第4楽章:ロンド



不思議の国のアリス

2024-11-23 21:01:00 | 現代
木曜日、梅田の阪急百貨店の前を通りかかったら、ショーウィンドウがすっかりクリスマス仕様。

今年は
「Meets the wonder Christmas」

これは?

仕掛けがあって動いています。

「不思議の国のアリス」のようで

もあり、違うようでもあり

不思議な世界。

たくさんの人がお立ち台に登って写真を撮っていました。

不思議の国のアリス』(ふしぎのくにのアリス、英: Alice's Adventures in Wonderland)は、イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドドソン がルイス・キャロルの筆名で書いた児童小説です。1865年刊行。

『子供部屋のアリス』表紙 / 絵はエミリー・ガートルード・トムソン

姉妹が昼下がり、川辺の土手で読書をしていると妹アリスの目の前に服を着た人の言葉をしゃべるうさぎが現れます。
そのうさぎを追いかけているうちに、アリスはうさぎ穴に落ちてしまいます。

そこには不思議な世界が広がっていました。
飲むと身体が大きくなる薬を飲んでしまったり、

3月うさぎのティーパーティー

に参加したり、
ハートの女王にクロッケーに誘われたり
裁判にかけられたりして

気がつくと姉のそばに戻っていました。

「黄金色の昼下がりに…」 (All in the golden afternoon ...) :巻頭に掲げられている献呈詩です。 

この物語成立の発端となった1862年7月24日のボート遊びと、そこで3人姉妹にお話をせがまれた情景を詠んでいます。

不思議の国のアリス』におけるアリス。テニエルの挿絵の彩色版。頭と腰のリボンはもとのモノクロの挿絵にはない
ディズニーが映画化したのは1951年。この詩に
サミー フェイン(1902-1989年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

が音楽をつけました。


7歳のアリス・リデル / キャロルによる1860年のポートレート。















調整と無調性

2024-11-15 20:57:00 | 現代
フルートの調子が良くなくて、調整。してもらおうといつもの所に連絡したら、コンサートシーズンで1ヶ月先の予約になりました。

富久田先生にそう言ったら、谷町六丁目駅近くの矢田工房さんを紹介していただきました。

火曜日子育てサロンの後に行ってお見せするとなんと翌日4時には仕上げてくださると言うので

また、電車に乗っていくとキーを全部分解してきれいに全体も拭き上げて置いてくださいました。

全部のオーバーホールに出したような感じ。
しかも、鳴ります。
タンポは6個も破れていて!全て交換していてくださいました。
「半年に1回は見せてください。」って半年に1回は見せていたのになぁ…。

前回よそで5月に調整していただいて11月。半年経ってました。

「タンポが濡れると破れるので、濡らさないように、冬は15分に1回は中を、拭いてください。」
「水は頭部管で止めてください。」とにこにこしながら教えていただきました。

ガンガン吹くので仕方ないと思っていましたが、こまめに中を拭くことでタンポを長持ちさせることができるそうです。
はあ〜!こんなことも知らなかったなんて恥ずかしい。
先生方、そういえばよく拭くなぁ?と思っていました。

しっかり拭いてタンポ長持ちさせようっと。
6個も替えるとさすがにお財布が痛いし…。

楽器の調整が無いと楽器はあっという間にうまく鳴らなくなりますが、
音楽上で調性の破壊は19世紀新しい潮流となって押し寄せました。

無調、無調性(英語: atonality, ドイツ語: Atonalität)とは、調性のない音組織のことです。

無調は単なる調性の否定でなく、
①調的な中心音(特定の主音・終止音)がない、

②和声的な分類体系(トニカ‐サブドミナント‐ドミナント)が働かない。

③全音階的でないといった特色から、旋法性とも分類されます。

西洋音楽の歴史の中で数世紀の時間をかけて築き上げられた「調性」という名の調的な主従・支配関係に基づく音組織を否定し、19世紀末期から20世紀初頭にかけて新たに形成された音組織の概念です。

調性のない音楽のことを無調音楽といいます。

無調に規律と秩序を与えようと創り出されたものに、「移調の限られた旋法」と「十二音技法」があります。

※全音音階は、移調の限られた旋法の一種です。

その一方で、
多調性(複調性・複旋法性)のように、複数の調的・旋法的な音階を同時使用することにより、調的な中心を曖昧にして、伝統的な調性感が働かないように楽曲構成することもあります。

調性感のある音楽は、15世紀後半まで遡ります。

機能和声法(三和音(主和音、和音記号を中心とする和声法)に基づく調性音楽は、17世紀に実践的に形成され、18世紀に理論化されて発達を遂げ、19世紀に様々なかたちで高度に応用されるようになりました。

見方を変えると、19世紀は調体系の変質・崩壊の時期でもあり、エンハーモニック(異名同音)転調と準固有和音・借用和音(他の調の和音を使うこと)・偶成和音の多用(シューベルト、ショパン)、不協和音の解決の遅延または未解決(ワーグナーのトリスタン和音)、旋法(教会旋法・民族旋法)による旋律線と半音階的和声法の結合(ショパン、ロシア五人組、グリーグ、フォーレ)によって、調性の概念が拡張されていきました。

たとえばフレデリック ショパン(1810-1849年)

の《スケルツォ第3番》の導入部のパッセージや《ピアノ・ソナタ第2番》のフィナーレは、「調性の破壊・否定」が意図されたわけではないシェーンベルク にせよ、結果的には調性感がほとんど生じない。伝統的な調性からの逸脱と言われています。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)

の楽劇『トリスタンとイゾルデ』(1859年)や、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、シェーンベルクの『浄められた夜』(1899年)の場合も、破壊や否定の意図があったわけでなく、何らかの衝動によって豊かな表現の可能性を追究した結果、調性の拡張・簡略化が付随しました。

意図的な調性破壊の試みは、移調の限られた旋法と同じものが用いられたリスト(1811-1886年)

の『調性のないバガテル』(1885年)に始まります。作品は周知されることなく眠っていました。

本格的に調性が崩壊したのは、20世紀初頭、シェーンベルクら新ウィーン楽派の作曲家が出現した時期です。

《室内交響曲 第1番》(1906年)や《弦楽四重奏曲第2番》(1907~8年)がこの例です。

シェーンベルク

の完全な調性の放棄は、連作歌曲集『架空庭園の書』に始まり、『月に憑かれたピエロ』(1912年)においては、無調と歌唱の実験(シュプレッヒシュティンメ)とが結び付けられています。

シェーンベルクの始めた実験は、その弟子アルバン ベルク(1885-1935年)


のオペラ『ヴォツェック』(1922年)や、 
アントン ウェーベルン(1883-1945年)

の一連の器楽曲や歌曲においても受け継がれます(この3人をまとめて「新ウィーン楽派」と呼ばれています)。

シェーンベルク以外にも、アレクサンドル スクリャービン(1872-1915年)
の後期のピアノソナタ群における神秘和音の使用、クロード ドビュッシー(1862-1919年)


の『帆』(前奏曲集第1巻)における全音音階の使用など、1900年代初頭には、広い意味では無調ともいえる試みがいくつか見られます。

ベラ バルトーク(1881-1945年)

は一時期、ストラヴィンスキーの原始主義音楽とシェーンベルクの無調音楽の両方に影響を受けて、尖鋭的な音楽語法を取っていました(バレエ音楽『中国の不思議な役人』など)。

シェーンベルクが無調に到達すると、「アトーナル」(atonal[e])という言葉が盛んにその説明に使われるようになりましたが、シェーンベルクはこの言葉に、額面通りの「無調」という意 味だけでなく、「没音楽」という揶揄する含みがあることを知っていました。

このためシェーンベルクは、より即物的な「不協和音の解放」という表現を好みました。
「“無調”音楽でなく、無調“音楽”を」とも語っています。

ドイツ語で Atonalität と atonale Musik はほとんど同義ですが、後者の言い方はシェーンベルクの発想をよりいっそう尊重したものとなっています。

アーノルド シェーンベルク(1874-1951年)オーストリアハンガリー帝国ウィーン生まれ、アメリカ合衆国ロサンゼルス没

シェーンベルク(1906年)リヒャルト・ゲルストル作

《室内交響曲 第1番》
1906年に書かれました。
15人の奏者による編成で、管楽器が弦楽器の数を倍も上回ります。
これは当時の常識では考えられないほどに斬新でした。

全奏では非常に鋭い音色になるのが特徴的です。

初演時は非難の嵐でしたが、聴衆の中には新しい響きを評価する者も少なからずいて、居合わせたマーラーなどは毅然とした態度で拍手を続け、野次を飛ばす人をたしなめるあまり、喧嘩になりかけたほどでした。

もっとも、マーラーは「曲のよさはわからないが、おそらくシェーンベルクが正しいだろう」とこの帰途に妻アルマに感想を述べています。

初演は1907年2月8日にウィーンで、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーと、ロゼー弦楽四重奏団によって行われました。




85歳現役の作曲家

2024-10-15 20:54:00 | 現代
月曜祝日は西宮ギター練習会。
今津公民館。
阪神電車に乗ろうとしたらアニメ「タッチ」のラッピング。
甲子園100周年記念列車でした。
今日は試合が無いので甲子園辺りは静かでした。

ギター川原久美子さんとフルート久米素子でヴィヴァルディの「冬」の第2楽章、モーツァルトのフルートソナタop14第2楽章、イベールの「間奏曲」、ピアソラの「リベルタンゴ」を変奏しました。

「冬」にしては暑かった。
最高気温27度。半袖のカーディガンを着て、ちょっと動いて脱ぎました。

西神中央で来週コンサートをされる高橋政一さん、バリオスのワルツ熱演でした。ブローウェル好きの鈴木さんは魅惑の瞳を演奏。
シューベルト歌曲特集の渡邊さん。
アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」の河口さんの演奏も素晴らしかったです。
川原さんはソロでジュリアーニの「ヘンデルの主題による変奏曲」を見事に演奏されました。他のみなさんも熱演が続きました。

11月9日(土)13:30〜神戸市垂水区のカフェ ティンカーベルでお義姉さまと姉妹コンサートをされます。
そちらもぜひおいで下さい。

レオ・ブローウェル(Leo Brouwer、1939年3月1日 - )は、キューバ ハバナ生まれ、

作曲家、ギタリストで指揮者。本名はフアン・レオビヒルド・ブローウェル・メスキーダ(Juan Leovigildo Brouwer Mezquida)。

彼の祖母は作曲家のエルネスティーナ・レクオーナ・イ・カサド(1882-1951年)。

アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びます。
ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペ(1962-1972年)
に師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、
ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。
  
ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲です。

ギター協奏曲を初め40本以上の映画音楽も手がけています。
ハバナ国際ギターコンクールにも関わっています。




パリ万博で作曲

2024-09-27 20:56:00 | 現代
三連休の最後に出会ったトーマス列車。
いつもは交野線を走っていますが、夜遅くなると京阪本線を走っているみたい。しかも快速急行。

私は初めてでしたが、3月から走っていたようです。
新キャラアジア系のアシマ

もちゃんといました。

おなじみのパーシー。

1日重たいバスフルートを背負ってコロコロにコンサートフルートや譜面台を入れて兵庫、大阪をウロウロしてお疲れ〜でしたが、急に元気になって写真を撮りまくりました。

ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ポリチカ生まれ、スイス ジュネーブ没


靴屋を営む両親のもとに生まれました。
両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されており、教会の鐘楼塔に住んでいました。

マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
親は音楽家ではありませんでしたが、父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手の靴職人を同居させてもいて、文化的な環境に恵まれてはいました。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。 
プラハ音楽院に入学しましたが、ここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。

その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。1922年スークのマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っていました。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセルに対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。

1929年、故郷ブルノの音楽院ヤン・クンツから作曲科の教授にと招聘を受けますが、これを断り、作曲に専念します。

この頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります。

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚します。

1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなかった。1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載ったことを知ったピエール・フルニエやルドルフ・フィルクスニーの勧めでパリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

Le train hante, H. 258
憑いている列車
1937年Le Train hanté (幽霊列車) H.258 は、1937 年のパリ万国博覧会




のために作曲されました。実際の鉄道輸送に特化したパビリオンもありましたが、この作品はアトラクション パークのさまざまなジェットコースターのような乗り物をテーマにしています。






海の詩

2024-09-17 21:00:00 | 現代
三連休の最終日、ようやく家族と過ごす日が来ました。
と言っても次男は友だちと飲み会。
午後近くなってから、夫と「海が見たいなあ。」と和歌山方面にドライブ。

途中岸和田パーキングエリアでお昼ごはん。

唐揚げ定食と

ライスバーガー、だし巻きたまごとフィッシュフライが入っています。

「道の駅に行こうか。」とググりながら行くと岬パーキングエリアが道の駅らしい。

淡輪、みさきの丘の灯台がコンセプトの建物。
海が見えます。
新鮮な野菜と、やっぱりお魚が安い!

生タコと
雑魚…小さな鯛が入った袋200円! 
買った後は、その近所のダイソーでアルミの保冷袋を買って氷もセットしました。 
「もう一つ道の駅あるみたい。」
行ってみました。

トットパーク小島。車を停めて
「あれ?ここは?」

海に突き出した巨大な鉄橋を行くと

左側の景色

右側
大きな釣りをする施設。
この先は有料の釣り突堤。
絶景でした。
それからまた海辺を目指してドライブ。

深日港の市場。

立ち寄って見ていると、漁師さんがとってきたばかりの魚をビクからドサドサっと箱に開けて行きます。

まだ生きてます。
「これとこれ。」と言うと締めて袋に入れてくれます。
海老2匹と、カサゴを一匹もらいました。
海老は生きたまま。

後は浜辺に降りて海にタッチ。
貝殻をひろって帰りました。
夜は魚祭。
タコとカサゴは唐揚げで、鯛と海老は焼きで、次男も帰ってきて魚を捌いてくれました。 
美味しゅうございました。
しまった!写真を忘れました。
締めのシラス丼だけ


残った鯛は干物に。

エルネスト ブロッホ(1880-1959年)
スイス ジュネーブ生まれ、アメリカ合衆国ポートランド没

ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイほかに師事します。

その後フランクフルト・ホーホ音楽学校にも学びます。
1916年に渡米するまでヨーロッパ各地を転々としました。
1924年に合衆国市民権を取得。
教育者としてアメリカ各地の音楽学校から引く手あまたで、ジョージ・アンタイルやロジャー・セッションズ、クインシー・ポーターらが門人にいます。


1920年12月に、新設されたばかりのクリーブランド音楽学校の首席音楽監督に就任、1925年までその任を務めます。

その後、1930年代はほとんどスイスに帰省していましたが、後にアメリカに戻ります。
オレゴン州ポートランドにて癌により永眠しました。

1922年ブロッホはピアノ曲「海の詩」を書いています。

Waves 波
Chanty 船頭などが歌う労働歌
at sea 海で












細川ガラシャの戯曲1689年

2024-09-06 21:04:00 | 現代
京丹波に出張した夫が、栗を買ってきました。
バーキングエリアから入れる道の駅「味夢の里」
最近できたみたい。
「野菜は?」と聞くと
「帰りの時間が遅かったから、茄子とゴーヤしかなかった。」残念。
仕事だから仕方ないね。
栗だけは行きにトイレに寄った時に買ったそうです。

栗の袋も…丹波栗。
昨日の栗だから安かったそうです。帰りに見たら当日のは倍の値段!
びっくり。
栗の最高級だものね。 

福知山城も外から見たらしい。
明智光秀の城
光秀自販機


明智光秀

の娘 玉

全像本朝古今列女伝
はキリスト教に改宗しました。
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していました。

そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されました。

この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)
1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演されました。

脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウト(1654-1712年)が作曲しました。

アドルフは、この戯曲の要約文書[において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べています。
さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」

の独訳本の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」だったことをも明記しています。

戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれています。 夫の君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きだそうです。

この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれました。

マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1680-1741年)

マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ ((1683-1754年)

マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1689-1743年)

さすがにこの音楽は見つけることができませんでした。
台本はバイエルン州立図書館にデジタル化されて残されています。

2014年上智大学で(抜粋上演)
2023年東京音楽学校奏楽堂で再演されたことはあるようですが…。

細川ガラシャの辞世の句

散りぬべき 時しりてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ

鈴木静一(1907-1980年)

東京府出身。幼時よりオルガンや謡曲に親しみ、中学教師より作曲法と和声法を学びました。

父親の希望により慶應義塾に入学しました。
しかし、在日イタリア人の声楽家アドルフォ・サルコリにマンドリンと作曲を師事し、大学を中退。

作曲家・マンドリニストとして活動を開始します。

1927年には「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の第1回マンドリンオーケストラ作曲コンクールで『空』が1位なしの2位を獲得し、翌年の第2回コンクールでも『北夷』が1位なしの2位を獲得しました。

このころ新交響楽団常任指揮者ヨゼフ・ケーニヒより指揮法を、声楽家ヘルマン・ヴーハープフェニッヒより和声を学びます。

戦中・戦後には黒澤明監督の『姿三四郎』を始めとする数多くの映画音楽や流行歌を手掛け、マンドリン音楽界から遠ざかります。

しかし1966年頃からマンドリン界に復帰し、その死に至るまでの十数年間に数多くのマンドリンオーケストラ曲を作曲しました。

1968年に作曲した劇的序楽「細川ガラシャ」はマンドリンオーケストラにフルート、打楽器が入った壮大な曲になっていて、日本のマンドリンオーケストラの古典になっています。