音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

行く春を惜しむ

2024-06-30 20:45:00 | ロマン派
土曜日、朝は梅田で伊藤公一先生のレッスンでした。
基本の基本。スケールとアルペジオを聴いていただくだけで、脂汗ものです。
オクターブH-H-Bと、三音を吹いて下さるのにどんなに集中して音を出されるか。本当にそれだけで美しい。

先生の音の作り方。音楽の積上げ方を目の当たりにできて本当に幸せです。
すぐ牧野に帰って、車で松井山手へ。

今度は生徒さんのレッスン。
なかなか先生の域には達しませんが、学んだことを少しでもお伝えできればうれしいです。





6月末。スーパーの駐車場の隣家に、いっぱい。
もうそろそろ紫陽花の時期も終わりです。

アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラホゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没



1875年オーストリア帝国政府からの奨学金を受け、少額の支援を受けなんとか糊口を凌いで来ましたが、ブラームス

が彼の才能を認めて楽譜出版のジムロック社を紹介します。

フリッツ ジムロック(1873-1901年)

は「ハンガリー舞曲集」の成功を見ていて、彼に「スラブ舞曲集」の出版を持ちかけます。
1878年に出版されたのが「スラブ舞曲集第1集」作品46番です。

ピアノ連弾として作曲されましたが、人気が出たためドボルザークはすぐに管弦楽版の編曲を作っています。

第1集が成功したため、ジムロック社は次なる舞曲集の作曲を早くからドヴォルザークに要望していました

ドヴォルザークはすでに作曲家としての名声を確立し、次々と大作を手掛けつつあり、また前作をしのぐものを書くことは難しいと思っていて、その作曲には当初は消極的でした。

しかし、1886年6月になって突然創作意欲が湧き、1ヶ月でピアノ連弾版の全8曲を完成しました。

これが『スラヴ舞曲集』第2集 作品72です。

管弦楽編曲も同年11月から翌1887年1月にかけて行われ、両版ともその年の内に出版されました。

管弦楽版は第1、2、7番が1887年1月6日にプラハでドヴォルザーク自身の指揮により行われています。

第2集ではチェコの舞曲は少数にとどめ、他のスラヴ地域の舞曲を取り入れているのが特色です。

スラブ舞曲第2集より第2番
私には行く春を惜しむように聞こえるのですがどうでしょうか?



音楽の神様

2024-06-29 21:12:00 | バロック
今週末6月30日(日)11:00〜
夙川公民館ホール
西宮ギター練習会のコンサートで演奏します。

川原久美子さんのギター久米のフルートでジュリアーニの「グランドデュオコンチェルタントop.85」と
岡山友樹さんとボルヌの「カルメン幻想曲」をします。

出番は第4部と第5部で、3:00以降ですが、皆さん熱演揃いですので、ぜひご来場、応援お願いいたします。

そんなわけで今週コロナの後遺症で不調の中、岡山さんとの合わせがぶっ飛び。
咳、鼻水残る中、かなり心配ですがなんとかなると信じています。
音楽の神様、よろしくお願いします🙏


聖セシリア(2世紀頃、生没年不詳)あるいは聖チェチリアは、キリスト教(カトリック教会・聖公会・正教会)の聖人。
特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされています。記念日は11月22日。
聖セシリア』(ラファエロ・サンティによる1516-1517年の絵画の部分
ローマ生まれ。ローマ帝国の貴族。

彼女が改宗させた夫や友人たちとともに、230年頃の皇帝アレクサンデル・セウェルス

の時代に殉教しました。

伝説によれば、セシリアは斬首刀の3打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたといわれています。

ローマのトラステヴェレ地区には、セシリアを称え、サンタ・チェチーリア教会が5世紀頃に建築されました。



その後820年にはローマ教皇パスカリス1世によってさらに壮麗に建て替えられ、1599年にはスフォンドラーティ枢機卿によって再び改築されました。

パスカリス1世は、サン・カリストのカタコンベ (en) に葬られたセシリアの聖遺物を、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に移しました。
サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ聖堂
この聖堂の建つ場所に生前の邸宅があったという伝説により5世紀ごろ掲題の名称で呼ばれるようになりました。
聖女の遺骸は当初カタコンベに埋葬されていましたが、9世紀にパスカリス1世により、現在まで続く聖堂の建立とともに聖堂内に移葬されました。以降、何度も改装されていますが、現存する後陣のモザイクは創建当時の姿をとどめています。
この教会は、ルネサンスの彫刻家ステファノ・マデルノによる聖セシリアの大理石像で知られています。
聖セシリアの殉教』(ステファノ・マデルノによる1600年の彫刻)首に斬られた痕がある
像の前の石板には「聖女の墓が開けられたときに見た遺体をそのままの姿で写した」というマデルノの宣誓が刻まれています。

この宣誓が真実だとすれば、1599年に墓が開けられた際、聖女の遺体は千数百年を経てなお生々しく保存されていたことになります。
写実的に表現されたマデルノの彫刻は、スフォンドラーティ枢機卿の依頼によって制作されました。

セシリアは、伝説によると神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと言い伝えられており、これが様々な芸術分野において霊感の出所となってきました。

ラファエロ

やルーベンス

のほか、チョーサーのカンタベリー物語(『第二の尼の話』)やジョン・ドライデンの有名なオードがあります。

セシリアを称える音楽作品あるいはセシリアの祝日のミサ曲は、パーセルやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデル、リスト、グノー、パリーなどが作曲しています。

ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、サンタ・チェチーリア音楽院もセシリアにちなんでいます。

ヘンリー パーセル(1659-1695年)
イングランド共和国ウェストミンスター生まれ、イングランド王国ウェストミンスター没
1683年、パーセルは、他のプロの音楽家や裕福なアマチュアのグループとともに音楽協会を設立し、なぜかイギリスでは定着していなかった大陸の伝統的な習慣を模倣して、毎年「聖セシリア祭」を推進しました。

ロンドンでは、音楽を讃える説教を含む合唱祭、この日のために作曲されたオードの初演を含む演奏会、そして食卓の音楽を伴う盛大な晩餐会という3つの祝祭が行われました。

この音楽祭は、パーセルにとって急速に成長したビジネスへの最初の重要な挑戦のひとつとなりました。

聖セシリアの祝日のためのオード



ショパンが愛したスイーツ

2024-06-28 21:05:00 | ロマン派
マーブルチョコレート。
5歳児がお母さんに持たされていたおやつです。

すみっコぐらしのスティックキャンディ付き。
帰園後8:00までうちで保育なので、お腹すくかと思われたようです。
別に困りはしなかったのですが、「マーブルチョコレート一本は多い気がするから、自分でお皿にいるだけだしてね。」というと、お皿に今日食べるだけを出してくれました。

懐かしいですね。マーブルチョコレート。
字の書いている当たりと無いハズレを当てっこしたり、「赤と青どっちが勝つと思う?」と対戦させたり、充分楽しんで食べました。

18世紀にはチョコレートは貴族のおしゃれな飲み物に。
ヴェネツィアの画家ピエトロ・ロンギの絵画「朝のチョコレート」(1775-1780)

ショパンは毎朝「ショコラ・ショー」chocolat chaudという、チョコレートと牛乳で作るホット・チョコレートを飲むのが日課でした。
スミレの花の砂糖漬け(クリスタリゼ)をショコラ ショーに入れるのが好きだったそうです。

花がいっぱい活けられた部屋で高価なマホガニーの家具に囲まれ、毎朝お気に入りの陶器のカップでスミレの砂糖漬け入りのショコラ・ショーを飲むなが習慣だったショパン。

恋人のジョルジュ・サンドは、数々の男性と浮き名を流す肉食系女子でしたが、ショパンとつきあい始めると彼の健康を気遣い、細やかな心配りをしました。
毎朝ショコラ・ショーを作ってベッドまで運んだそうです。
(ontomo室田尚子さんより)


ショコラ ショーの作り方
チョコレートを刻みます

鍋に入れ、
ココアパウダー、牛乳を加えて絶えず混ぜながら沸騰直前まで温めます(決して沸騰させない。)

火を止めてラム酒(入れなくてもいい)を加えます。


(森永乳業)

すみれの砂糖漬け
1.スミレの花は優しく洗い、キッチンペーパーで水気をふきとっておきます。

2.軽く切るように卵白をほぐし、お好みでバニラエッセンスを加えます。

3.卵白を刷毛でスミレの両面に塗り、グラニュー糖をまぶします。

4.日陰で2~3日、乾燥させてできあがり。


(キナリノ)

フレデリック ショパン(1810-1849年)ワルシャワ公国ジェラゾラ・ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没

ワルツ第19番AminorB150遺作は
1843-48年シャーロット・ド・ロチルド(英語ロスチャイルド)夫人あるいはその娘のために作曲されました。

初版は、ショパンによるこのワルツのスケッチ(裏面に『夜想曲第21番 ハ短調 KK. IVb-8』の自筆草稿と清書譜、『夜想曲 ハ短調』の製版用自筆譜を所持していたシャルロット・ド・ロチルドが私家版で出版しました「ナタニエル・ド・ロチルド男爵夫人によるピアノのための4つの小品」(パリ、ジャック・マオ社)

1847年にショパンがシャルロットの父ジェムス・ド・ロチルド男爵のフェリエール宮殿滞在中にシャルロットに作曲の手ほどきをしていたときに書かれた作品であり、この作品を含む「4つの小品」が1870年から1872年に出版されたと推定されます。

1872年には「4つの小品」のうちこのワルツ(第3曲)と第4曲の編曲が「ナタニエル・ド・ロチルド男爵夫人によるピアノとチェロのための2つの小品」(パリ、ジャック・マオ社)として私家版で出版され、オーギュスト・フランショームに献呈されました。


シャルロット・ド・ロチルドの死後、所持していた自筆譜は1901年に遺族によりパリ国立音楽院図書館に寄贈され、1964年以降はフランス国立図書館音楽部門の所蔵となりました。

清書譜には "Walec" [sic], "Allegretto" のタイトルと速度記号が付され、全56小節が片面に書かれています。

作曲年の1847年は28歳の時に出会ったジョルジュ サンドとの10年に渡った交際が終わった年です。


街の賑わいの中で

2024-06-27 21:01:00 | ロマン派
ガーベラの花が寝ている間に満開に。
これは一昨年植えたものです。
切花のガーベラはすぐ枯れてしまいますが、鉢物のガーベラは花持ちがよく、しかも何年も植えっぱなしで長く楽しめます。

それでも一度にたくさん咲くことはなく、今年はどうしたの?という感じです。

今日は子どものサポートが朝早くと夕方少しありました。
朝は赤ちゃん。
赤ちゃんはほぼ寝ていました。

夕方は幼稚園児。
しっかりした子で数字が大好きで、カードゲームを作ったりして遊んできましたが、「ひょっとしたら?」と思って「お買物ごっこをしようか?」と、誘ってみると、見事にはまりました。

昨日は紙のお金を作って、商品を作るだけで終わってしまいました。

今時だなと思うのは、対面販売の八百屋さんとか、果物屋さんから買うのかと思ったら、黒いボックスを立てて、「ここで払うの、ここからお金が出てくるの。」

「売る人は?」
「売る人は、透明人間。」
わからないでいるとやって見せてくれました。

売る人が透明人間。

黒い衝立からお金が出てくる。

わかりますか?

スーパーマーケットとセルフレジ。
時代は変わってしまったのですね。
コロナ禍育ちの5歳児は対面販売を知らないみたいです。

そりゃそうですよね。
軽くショックでした。

レオ ドリーブ(1836-1891年)フランス王国サルト県サン・ジェルマン・デュ・ヴァル生まれ、フランス共和国パリ没

父は郵便配達人で、彼の母親は才能のあるアマチュア音楽家でした。
父が1847年に死亡してからは、母親と叔父の手によって育てられました。

1871年、35歳の折、彼はレオンティーナ エステル デナインLéontine Estelle Denainと結婚しました。

パリ国立高等音楽・舞踊学校(パリ音楽院)でアドルフ・アダンに師事し、作曲を学びます。
1853年には聖ピエール・ド・シャイヨ教会オルガン奏者を務めます。

『ラクメ』(Lakmé)は、レオ・ドリーブ作曲による3幕のオペラ。台本はエドモン・ゴンディネ(Edmond Gondinet)


とフィリップ・ジル(Philippe Gille)


によるもので、
原作はピエール・ロティ


の自伝的小説『ロティの結婚』(Le Mariage de Loti)です。

オペラ「ラクメ」

イギリスが支配するインド。
バラモン教の寺院で祭祀ニラカンタの娘ラクメとイギリス人ジェラルドが出会いお互いに惹かれ合います。


神聖な寺院をそうとは知らず汚してしまったジェラルドは
インド人や中国人の売り手の声が響く街の市場の喧騒の中で復讐に燃える祭祀のニラカンタに刺されます。


ラクメはジェラルドをかくまい治療します。
傷がいえたジェラルドはラクメのもとにとどまろうと思っていましたが、同僚が迎えに来て婚約者のことを思い出させます。

動揺したジェラルドを見たラクメは全て終わったことを悟ります。
そして屈辱の中で生きるよりも名誉ある死を選び、有毒のチョウセンアサガオの葉を食べます。

ジェラルドと聖水を飲み交わすと永遠の愛を誓います。

そこへラクメの父ニラカンタが入ってきて、ジェラルドを殺そうとします。

ラクメは毒の回った体で残った力を振り絞って止めに入り、この人は自分と聖水を飲み交わした仲だと伝えます。
そして「神への償いは自分の死をもって果たされる。」と言い、息絶えます。

第2幕ニカランタはインドの街の喧騒の中にラクメを連出し、鐘の歌「インドの娘はどこに行く?」を歌わせます。歌声に惹かれてまんまとジェラルドをおびき出すことに成功します。
これはソプラノの超絶技巧の難曲になっています。




クィーン オブ ハート

2024-06-26 21:31:00 | ロマン派
火曜日隔離期間が終わりました。
部屋から出て居間で食事。
溜まりに溜まった洗濯を実行中。
洗濯は洗濯機がするのでその間ハープを弾いてみたら別人のよう。
もともとそううまくはありませんが、余計にたどたどしい。
思いついて島崎陶人先生に頂いた紐を使ってみたら、
あれ?
やっぱり別人のよう。
今度は良い方に。
紐理論恐るべし。 

しかしフルートは、後遺症か、肺が半分しかまだ使えてない感じ…。
30日までに間に合うのか?不安です。

側でみる裏庭のペチュニア。
アモーレシリース クィーン オブ ハーツ

ピンク色の所がハート型。
夫が買ってきてくれた時には色合いのあまりの派手さに「ぎょっ!」としましたが、よく見てみると「なかなかおしゃれ。」と思っています。

ジョキアーノ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領ペーザロ生まれ、フランス帝国パリ没

ロッシーニの肖像画ヴィンチェンツォ・カムッチーニ

オペラ セリア『イングランドの女王エリザベッタ』は、1815年にナポリ・サン・カルロ劇場向けに作曲されました。

原作はソフィア・リーの小説『議会休会(The Recess )』(1785年)に基づくカルロ・フェデリーチの戯曲『レスターの小姓Il paggio di Leicester 』(1814年)です。

台本はジョヴァンニ・フェデリーコ・シュミット

イギリス王室のエリザベス1世のスキャンダルを描くのが流行っていました。
レイチェステルはロバート ダドリー(レスター伯)

のことを指していることが当時の人は容易に類推することができました。
ロバートは彼女の寵臣で一時期不倫関係にありました。


あらすじ
第1幕第1場
王宮の玉座にある謁見室
スコットランドとの戦争に勝利したレイチェステル
を宮廷の人々が称賛しています。
しかし、ノルフォルクは親友でもあるレイチェステルの成功へ妬みを隠し切れません。 

そこへ女王エリザベッタ

テューダー・ローズの紋様とオコジョの毛皮で飾った即位衣を纏うエリザベス1世。
が現れ、レイチェステルの勝利を祝います。
女王は、密かにレイチェステルを愛していて、彼との結婚を望んでいます。

エリザベス女王とレスター伯(ダドリー)の肖像画(ウィリアム・フレデリック・イームズ画

そこへレイチェステルが戦勝報告に現れます。
報告に満足した女王は、彼に勲章を与え、宮廷の人々を従え退出します。

1人になったレイチェステルは、貴族たちの間に男装した妻マティルデを見つけます。

マティルデは、夫と女王の恋の噂に我慢できず、ロンドンに出てきたのでした。
しかも、マティルデは女王の宿敵であるスコットランド女王マリーア・ストゥアルダ(メアリー ステュアート)の血筋です。
レイチェステルは、結婚していることも、マティルデの血筋も、女王に知られるとまずいと妻を諭します。

そこで、マティルデに同行していた義弟のエンリーコに妻を託し去っていきます。マティルデは嘆き悲しみます。

第1幕第2場 王宮の一室
レイチェステルは、親友と信じるノルフォルクに、マティルデとスコットランドで結婚したことを告白します。

1560年代に描かれたレスター伯の肖像画

しかし、ノルフォルクは親友を裏切り、この秘密を女王に告げ口します。

ウィリアム・シーガーまたはジョージ・ガワーが描いたエリザベスの肖像(1585年)

女王はレイチェステルの裏切りに怒り、グリエルモにレイチェステルとスコットランド貴族たちを連れてくるように命じます。

左右から現れたレイチェステルとマティルデは戸惑います。
女王は、マティルデをレイチェステルの妻と見抜きますが、それと知りつつ彼に王座を受けるように言います。

レイチェステルは驚き、辞退します。すると女王は、マティルデの腕をつかみ、悪人の不忠は見破ったと叫び、レイチェステル、マティルデ、エンリーコの逮捕を命じます。

第2幕第1場 王宮の一室

女王はマティルデを召喚します。
レイチェステルとの結婚を放棄することと引き換えに、レイチェステル、マティルデ、エンリーコの命を許すが、拒否すれば死刑に処すと脅します。

マティルデは、そのようなことはできないと一度は拒むが、夫と弟を救うために女王の要求を飲み、夫と別れる旨の書類を書きます。

そこへレイチェステルが現れます。女王はマティルデが書いた書類を見せ、彼女はあなたの命の恩人であると言います。書類を見たレイチェステルは、彼女を犠牲にして命を助かりたくないと、書類を破り捨てます。
激怒した女王は、2人を衛兵に連行させます。

そこへグリエルモが現れ、ノルフォルクが謁見を求めていると伝えますが、女王は友人を裏切る男は宮廷から追放するとし、宮廷を去るよう命じます。

第2幕第2場
ロンドン塔に接した部屋
人々がレイチェステルが囚われていることを嘆き悲しんでいます。
そこへノルフォルクが現れ、レイチェステル救出を叫び、民衆を扇動します。

第2幕第3場 ロンドン塔の地下牢
囚われのレイチェステルは、妻の幻を見ます。
そこへノルフォルクが現れ、民衆を味方につけて、女王への反乱を起こすよう煽ります。そして、連れてきた兵士にマティルデのいる隣の牢獄の壁を打ち壊させます。

しかしその時、女王が護衛を連れて地下牢へやってきます。ノルフォルクはあわてて隠れます。

女王は、「議会がレイチェステルに死刑を決定した。女王として執行命令にサインしたが、エリザベッタ個人としてはあなたを逃がしたい、秘密の通路から逃げなさい」と言います。

エリザベス女王1600年頃
その中で、ノルフォルクがレイチェステルとマティルデのことを告発したと打ち明けるので、レイチェステルは怒ります。

彼は、ノルフォルクが今ここに来て、女王への反逆を自分に勧めたことを告げます。

女王は、ノルフォルクを逮捕すると言うや否や、ノルフォルクは女王に斬りかかります。

その様子を見ていたマティルデとエンリーコが、ノルフォルクに飛びかかって武器を奪い、レイチェステルは女王を庇います。
女王はノルフォルクを逮捕させます。

ノルフォルクが連行されると、
レイチェステル、マティルデ、エンリーコを許します。


この時、レイチェステルの命乞いを求める民衆が流れ込みます。

女王は、汝らの将軍を汝らに返してやると言い、民衆は感謝します。

背景に描かれているスペイン無敵艦隊に対する勝利(1588年)を祝うエリザベス1世の肖像画。エリザベスの手は地球儀に置かれ、彼女の国際的な力を象徴している。

そして、女王は恋を捨て女王として生きることを自分に言い聞かせ、玉座に戻ります。
女王を讃える声で幕が下ります。




仏桑花の頃

2024-06-25 20:54:00 | ルネッサンス
旧宅のハイビスカスが咲いたらしいです。
旧宅の庭に詰め込んであるメダカの水槽や花の手入れをしにいって送ってくれました。
「ハイビスカス買ってたんだ。」という私はノータッチ。
夫と次男が世話しています。

ハイビスカスは熱帯の花と思っていましたが、仏桑花と言ってアオイ科フヨウ属、原産地不明だそうです。
中国南部、インド洋諸島の説もあるにはありますが…。
日本では1610年薩摩藩主島津家久(1576-1638年)

が琉球産仏桑花を徳川家康(1543-1616年)


に寄進したという記録が最古だそうです。

この辺りでは冬越しないので部屋に入れたりしますが、なかなか2年目は無理。
これはどうかな〜?

ハイビスカスがヨーロッパにいつ導入されたかを特定するのは特に困難ですが、
1678 年にはヴァン リードによって図解されています。

ヘンドリック ファン リード トット ドレイクスタインによるHortus Indicus Malabaricusの植物図

1731 年にイギリスのチェルシー薬草園に導入された痕跡も見つかりました。

イタリアの文献では 1546 年にハイビスカスについて記述されています。
新しい研究では、ハイビスカスは 13 世紀からすでにスペイン南部のムーア人(イスラム)の庭園に導入されていたと考えられます。

1820年パリ オード社


1856年Louis Benoit van Houtte(1810-1876ベルギーの園芸家)の刊行した「ヨーロッパの温室と庭園の植物誌 」のアオイ科 フヨウ属 Hibiscus marmoratus Ch.Lem ハイビスカス

19世紀以降は品種改良も盛んに行われていて、約8000種が確認されています。

スサート・ティーレマン、

スサートの正確な出生地は不明ですが、一部の学者は、彼の名前(スサトは「de Soest」、つまりゾーストの町の意)から、彼はウェストファリア(現ドイツ北西部)の同名の町、またはオランダの ゾーストの町の出身である可能性があると考えています。

彼の初期の人生についてはあまり知られていませんが、1530年頃のアントワープの記録に、書家として、また楽器奏者として活動していたことが記されています。

彼が所有していた楽器として、トランペット、フルート、テナーパイプなどが記載されています。

1543年、彼は低地諸国(ネーデルラント)で可動式楽譜活字を使用した最初の音楽出版社を設立しました。
スサートがアントワープに印刷所を設立するまで、楽譜の印刷は主にイタリア、フランス、ドイツで行われていました。

その後すぐに、ルーヴェンのペトルス・ファレシウス1世

1547 年にファレシウスが出版した『Des chansons reduictz en tabulature de lut...』の表紙
とアントワープのクリストファー・プランタン

1569年クリストファー・プランタン出版の聖書

がスサートに加わり、低地諸国は音楽出版の地域中心地となりました。

スサートは楽器事業も営んでいた可能性があり、他の出版社との提携を何度か試みたが、どれも成功しませんでした。

1561年、1564年に息子のヤコブ・スサートが出版事業を引き継いだようです。
しかし、ティールマン・スサートはまず北ホラント州のアルクマールに移り、後にスウェーデンに移りました。
彼に関する最後の記録は1570年のものもあります。

スザートは優れた作曲家でもありました。彼は、当時の典型的な模倣多声音楽のスタイルでミサ曲やモテットの曲集を数冊書き、出版しました。

また、若くて経験の浅い歌手が歌うことを特に目的としたシャンソンの曲集も 2 冊書きました。

これらは 2 声または 3 声のみで歌われます。彼の作品の中で、流通と影響力の点で最も重要なのは、
クレメンス・ノン・パパ(1510年頃 - 1515年- 1555年または1556年)の
「サウテルリーデケンス(詩篇歌)」です。 
これは、ポピュラーソングの旋律を使ってオランダ語で韻律的に詩篇を編曲したものです。
これらは 16 世紀のネーデルラントで非常に人気がありました。

スサートは器楽音楽の作曲家としても多作で、その多くは今日でも録音され演奏されています。

1551年に彼はダンス音楽集『Het derde musyck boexken ... alderhande danserye』を出版しました。これはシンプルですが芸術的な編曲の小品で構成されています。これらの小品のほとんどはダンス形式 (アルマンド、ガリアードなど) です。


1551年出版の
「ダンス音楽集第16番」から「ムーア人のロンド」この曲は現代でも人気が高く、特に編曲されて吹奏楽のナンバーの1つになっています。

動画は作曲当時の再現でネーデルラントの衣装。
フィドル、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー四重奏、クルムホルン四重奏

クルムホルン リード楽器

コルナムソ四重奏(バロック・オーボエに近い民族楽器)

リュート、バスク太鼓(現タンバリン)

、テボナズトリ

などの古楽器で演奏されています。
SUSATO, Tielman: Danserye 1 Altniederländisches Tanzbüchlein vom Jahre 1551

2024-06-24 21:00:00 | ロマン派
雨の裏庭。
実はコロナで寝ています。
他に撮れるものも無いので二階の窓から見えた庭を撮りました。

狭っ…。スダチの木が庭のほとんどを占めています。

ニチニチソウ

ベゴニア
5日間、月曜日まで隔離です。
身体も辛いですが、特効薬モルヌピラビルが国の補助が無くなって3万円というのも辛いです。それに診断費、検査料5千円プラス。
先生「よかったね~。治療薬があって。」
うっ!もう二度となりたくない…涙💧
特効薬飲んで4日目。となると熱も下がって楽になってきました。
その間生徒さん、先生、子育てサポート、オケの練習、ギターの合わせさまざまご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。

本番がなかったのが救いですが、6月30日西宮ギター練習会コンサート
夙川公民館ホールでの岡山さんとの「カルメン幻想曲」本番前合わせ一発になりました。
岡山さん、本当にごめんなさい。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
1869年シェークスピアの「ロミオとジュリエット」をもとに幻想序曲を作曲しした。
その第2曲目として1873年「テンペスト」を取り上げました。
ロシア5人組の1人ウラデイミール スターソフ

に勧められたということです。
彼は他にもウォルター スコットや、ゴーゴリも勧めたそうです。
チャイコフスキーはこの流れに続くものとして後に幻想的序曲「ハムレット」も書いています。

初演は1873年12月19日にモスクワで、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行なわれました。

チャイコフスキーは当初
「私の最も輝かしい作品の一つ」と語っていましたが、後になるとこの曲に幻滅を感じていたと伝えられています。
しかし、フォン・メック夫人が後年チャイコフスキーを援助したのは、この初演を聴いて感激したのがきっかけだったというエピソードは知られています。

また色彩的な響きと抒情的な美しい旋律はリムスキー・コルサコフらも高く評価しています。

シェークスピア「テンペスト」嵐

ナポリ王アロンゾー、ミラノ大公アントーニオ、ファーディナンド(アロンゾーの息子)らを乗せた船が大嵐に遭い難破、一行は絶海の孤島に漂着します。

ジョージ ロムニー画テンペスト1797年
ナポリ王アロンゾーは、弟ミラノ公アントーニオや宮廷人とともに難破し、プロスペローの魔法の島にたどり着きました。1856年から1858年に出版されたシェイクスピアの作品の版のためにロバート・ダドリーがデザインしたクロモリトグラフ。

その島には12年前にアントーニオによって大公の地位を追われ追放された兄プロスペローとその娘ミランダが魔法と学問を研究して暮らしています。

船を襲った嵐はプロスペローが復讐のため手下の妖精エアリエルに命じて用いた魔法の力によるものでした。

プロスペローと妖精エアリアル ウィリアム ハミルトン1797年
王の一行と離れ離れになったナポリ王子ファーディナンドは、プロスペローの思惑どおりミランダに出会い、2人は一目で恋に落ちます。

ファーディナンドとミランダの求愛ウィリアム ホガーズ1736年頃
プロスペローに課された試練を勝ち抜いたファーディナンドはミランダとの結婚を許されます。

一方、更なる出世を目論むアントーニオはナポリ王アロンゾーを唆して王殺害を計り、また島に棲む怪物キャリバンは漂着したナポリ王の執事と道化師を味方につけプロスペローを殺そうとします。
しかし、いずれの計画もエアリエルの力によって未遂に終わります。

魔法によって錯乱状態となるアロンゾー一行。
だが、プロスペローは更なる復讐を思いとどまり、過去の罪を悔い改めさせて赦すことを決意します。
和解する一同。王らをナポリに送り、そこで結婚式を執り行うことになります。

魔法の力を捨てエアリエルを自由の身にしたプロスペローは最後に観客に語りかけます。
「自分を島にとどめるのもナポリに帰すのも観客の気持ち次第。どうか拍手によっていましめを解き、自由にしてください。」と。




南の島のできごと

2024-06-23 21:00:00 | 古典
最近流行っているハワイアンカフェアロハテーブル。
この前川原さんと練習の後入りました。

パンケーキが眼玉のようです。
南の島への憧れは昔もありました。

ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

の書いた
Hob. XXVIII : 9 歌劇「無人島(L’isola disabitata)もその1つです。

1779年の自筆譜の断片が現存しています。


1779年12月6日にエステルハーザで初演された記録が残されている小規模音楽劇。

ニコラウス1世候(1714-1790年)

の聖命名祝日を祝うために作曲されました。

初演の2週間前にエステルハージ宮のオペラ劇場が火事で焼けてしまったため、急遽マリオネット劇場で上演されました。

台本は、ピエトロ・メタスタージオ(1698-1782年)イタリア出身のエステルハージ家宮廷詩人

によります。


この台本は人気があり、ハイドンが曲を付ける以前および以後において、多数の作曲家が曲を付けて上演されています。(ジュゼッペ ポンノ、グルック、ベンダなど)

あらすじ
場所は、大西洋に浮かぶ無人島。

13年前に、新婚旅行中のコスタンツァとジェルナンドの夫妻およびコスタンツァの妹のシルヴィアが乗っていた船が嵐に遭い、無人島にたどりつきました。

ところが、ある日、コスタンツァとシルヴィアが寝ている間にジェルナンドや仲間が海賊に連れ去られてしまいました。

コスタンツァは島にジェルナンド達に、置き去りにされたと思い込み、嘆きながら妹のシルヴィアと二人で日々を暮しています。

第一幕
無人島の海辺の岩場で。
コスタンツァは、もう自分の人生を終わらせようと決意し、岩に彼女の不幸な運命の物語を刻んでいました。

そこへ、逃げ出した子鹿が戻ってきたという喜びに満ちたシルヴィアが現れます。

そしてシルヴィアが、「お姉様は、なぜいつもそのように悲しそうにしているの?」と尋ねます。 

まだ幼い頃にこの島へやってきて、
他の場所に住んだことのないシルビアには「失った物を考えに入れることができない。」とコスタンツァは言い、続いて、「遥か彼方の国には、女に対して酷いことをする男達がいるのよ。」と言って立ち去りました。

シルヴィアが、姉を慰めることが出来なかったことを悔やんでいると、島に船が近づいて来るのが見えました。
そして、海岸に到着した船から二人の男が降りてきました。


二人は、ジェルナンドと彼の友人エンリーコでした。
シルヴィアは、彼らを見て藪の中に隠れました。 

ジェルナンドは、エンリーコに、この島は、あの日、自分が来た島だと確信していると話しています。そして「もう何年も経っているので、ここでコスタンツァを見つけられるという望みはほとんどない。少なくとも彼女の墓を見つけられるかもしれない。」と話しています。
シルヴィアは、藪の中に隠れたまま、「今見ている二人の男は、いったい誰なんだろう?」と考えています。そして、エンリーコに対して、恋心が芽生えてきました。

第二幕
ジェルナンドは一人で、コスタンツァの痕跡を求めて島中を探し回ります。そのうちにコスタンツァが岩に刻んだ文章を発見しました。
そこにエンリーコが現れ、ジェルナンドはコスタンツァが死んだと告げます。途中まで書かれた文章を見てジェルナンドは、「それは、彼女が最後まで文章を彫る力がなくなったからだ。」と、思い込み。
島を去るよう促すエンリーコに「私はここで日々を過ごし、人生を終えるつもりです。」と言って、その場を去っていきます。

エンリーコは、船員たちにジェルナンドを捜して力づくでも船に乗せるよう命じます。
そこへ、コスタンツァを捜しているシルヴィアが現れます。
彼女の美しさに魅かれたエンリーコは、彼女に声をかけます。
「コスタンツァが死んだときに、あなたはどこにいたのですか?」するとその質問に驚いたシルヴィアは、「コスタンツァは死んでいません。生きています!」と、答えました。

エンリーコは、驚き、「それならば、急いでジェルナンドに知らせなければなりません。」と、二人は手分けしてコスタンツァとジェルナンドを捜します。 

その頃、コスタンツァが、再び岩に文字を刻んでいると、そこにジェルナンドが通りかかります。二人は、再会にたいへん驚き、ジェルナンドは彼女を抱きしめようとしますが、あまりにも驚いた彼女は彼を恨みながらも興奮し気絶してしまいます。


ジェルナンドは彼女に水を飲ませ、意識を取り戻した彼女は、やってきたエンリーコとジェルナンドを非難しましたが、彼らは今までの経緯を彼女に説明し、ようやく誤解が解け、再会を喜び合います。
そして、シルヴィアとエンリーコも結婚を誓いあい、最後は歓喜の四重唱で幕になります。

シルヴィアのアリア、島に船に乗ってやってきたのは誰だろう?と隠れて見ています。






弟切草の物語

2024-06-22 21:00:00 | ロマン派
オトギリソウ日本漢名は「弟切草」と書きます。
くずはモールの中庭に植えられていました。

10世紀の平安時代、花山天皇のころ、この草を原料にした秘伝薬の秘密を弟が隣家の恋人に漏らしたため、鷹匠である兄が激怒して弟を切り殺し、恋人もその後を追ったという伝説によるものです。

あるいは、鷹匠である兄が秘密にしていた鷹の傷の妙薬としてこの草を秘密にしていたが、弟が他人に漏らしたため、激怒した兄に切り殺されたという伝説に由来するという説もあります。

この不吉な伝説のため、付けられた花言葉も「怨念」「迷信」。
言い伝えでは、オトギリソウの葉に見られる黒い油点は、斬り殺された弟の飛び血とされています。

別名、ヤクシソウ、アオグスリともよばれます。中国植物名は「小連翹」(しょうれんぎょう)。

怖い伝説がある弟切草てすが、
茎や葉は血止め薬。花は煎じてうがい薬に使うそうです。

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901年)フランス帝国タロ地区レ・ロンコーレ村生まれ、イタリア王国ミラノ没

1850年
1851年に『リゴレット』を初演、成功させた38歳のヴェルディの作曲の筆はそこからしばらく止まります。

1839年の『オベルト』以来、年間1作以上のペースで作曲を続けてきた彼にとっては珍しい事態でした。
1851年6月の母の死、ジュゼッピーナ・ストレッポーニ


との同棲生活に対するブッセートの街の人々の冷ややかな眼、そこからの逃避の意味もあって近郊サンターガタでの農園購入とその経営(ヴェルディは単なる不在地主ではなく、農地管理の些事にまで干渉していた)など、作曲以外の雑事に忙殺されていました。

これからの暮らしには困らない収入も得て、この頃の彼はどこの劇場の委嘱も受けず、自ら選んだ題材を好きなだけ時間をかけてオペラ化する、という大家ならではの作曲作法が可能となっていました。

そして作られたのが、オペラ『イル・トロヴァトーレ』です。
イル・トロヴァトーレは吟遊詩人という意味です。

『イル・トロヴァトーレ』の原作『エル・トロバドール』はスペインの劇作家アントニオ ガルシア グティエレス(1813-1884年)スペイン チクラナ・デ・ラ・フロンテーラ没、スペイングラナダ没

によって書かれ、1836年にマドリードで初演された舞台劇です。

台本はサルヴァトーレ カルマーノ

1852年に亡くなり、3幕の途中からレオーネ・エマヌエーレ・バルダーレが書きました。

オペラ「イル・トロヴァトーレ」

15世紀始め。スペインのビスカヤおよびアラゴン地方。

第1幕
ルーナ伯爵の居城の一角で、警備の兵士たちにフェルランドが昔話を始めます。

ルーナ伯爵

「先代のルーナ伯爵には実は2人の息子がいた。そのうちの弟君に呪いをかけた容疑でジプシーの老婆を火刑に処したが、それと同時に弟君は行方不明となり、火刑台から子供の白骨が発見された。現伯爵はその白骨が弟であることを信じず、今でもその行方を捜している。」

場面はかわって城の庭園。美しい女官レオノーラがマンリーコを待っています。
そこへレオノーラに想いを寄せるルーナ伯爵が登場。
暗さゆえレオノーラは間違ってルーナに抱きついてしまう。そこにマンリーコが登場。

アルフレド・エーデル・コロルノによる、1883 年のスカラ座公演のマンリーコの衣装のスケッチ
当惑するレオノーラ、自分が愛されていないことを知り激怒するルーナ伯爵、レオノーラを赦し伯爵を挑発するマンリーコによって三重唱が歌われます。
伯爵とマンリーコは決闘を行うが勝負は付かない。レオノーラは気絶してしまいます。

第2幕
夜明け。ジプシーの一団が陽気に酒を酌み交わし、鍛冶の仕事に精を出しています。

アズチェーナは息子のマンリーコに彼女の昔話をします。

「母親が火刑に処せられた時、自分は伯爵の子供を誘拐して火にくべた。しかし気付いてみるとそれは自分の実の息子だった。」

自分の出自を訝しく思うマンリーコでしたが、アズチェーナは「お前は自分の実子だよ。伯爵に復讐してくれ。」と焚きつけます。

前幕の決闘でマンリーコが落命したと思い込んでいるレオノーラは修道院入りを決心します。
ルーナ伯爵は彼女を誘拐しようとしますが、マンリーコが阻止します。

第3幕
アズチェーナは伯爵の軍勢に捕らえられ、マンリーコをおびき出す人質とされてしまいます。

マンリーコとレオノーラは教会で結婚式を挙げようとしているその最中、部下がアズチェーナ捕縛の報をもたらします。

マンリーコは怒りに燃え、母の救出と伯爵への復讐を誓い、自分の軍勢を率い進軍します。


第4幕
戦いは伯爵軍の勝利に終わり、マンリーコは城の牢獄に捕われの身となります。
レオノーラは伯爵に、自分の体と引換えにマンリーコの命を救うことを提案、伯爵はそれを受け入れ釈放命令を出します。
レオノーラは隙を見て服毒します。

レオノーラは牢獄へ赴き、マンリーコを解放しようとします。
マンリーコは彼女が貞操を犠牲にしたことを非難します。
しかしレオノーラの飲んだ毒が効目を現し始め、彼女は愛するもののために死を選択した心情を訴えます。

ルーナ伯爵も登場、虫の息のレオノーラを見て自分が騙されたことを悟り、マンリーコの即時処刑を命令します。

アズチェーナはマンリーコの処刑を確認し、伯爵に「あれはお前の弟だよ」と告げ、「母さん、復讐は成った!」と狂乱の叫び声を上げます。


ミゼーレ 毒を飲んだレオノーラがマンリーコの牢の前で最後の別れを告げます。 ヴェルディが亡くなった時、トスカニーニ指揮によりこのミゼーレが演奏されました。



フランスバロックの最高峰

2024-06-21 21:03:00 | バロック
日曜日の発表会の会場のラ サーラ ディ オルフェオ
榎田先生の根拠地です。



先生のコレクション。リュートとラモー。

ルノワールとセザンヌ。

コントラバスフルート

ドガの描いた「オペラ座のオーケストラ」フルートはアルテ。

先生の趣味が炸裂しています。
200本あるフルートのコレクションは別の所にあります。

音楽に人生をかけてきた榎田先生の生き様を彷彿とする会場です。

神戸エスカルはこちらで月2回練習しています。

ジャン=フィリップ・ラモー(1683- 1764年)フランス王国ディション生まれ、フランス王国パリ没


は、バロック時代のフランスの作曲家・音楽理論家。
父親がディジョン大聖堂のオルガニストだったので、幼児期からクラヴサン(チェンバロ)

演奏に親しんでいた可能性があります。

しかしながらもともとは法学を学んでいて、はじめ音楽と音楽研究は情熱の対象にすぎませんでした。

青年時代をイタリアやパリにすごした後、父親の足跡に続いてクレルモン大聖堂


の教会オルガニストに就任しました。

その後パリ、ディジョン、リヨンなどでもオルガニストを務め、1723年よりパリに定住、財務官アレクサンドル・ド・ラ・ププリニエールの後援を得ます。

作曲の分野において名声を勝ち得るようになるのは、40代になってからです。
1733年にフランソワ クープラン(1668-1773年)フランス王国パリ生没

が他界するまでには、当時のフランス楽壇の指導的作曲家になっています。その頃からラモーは専らオペラに没頭するようになります。

フランス語オペラの作曲家としてジャン=バティスト・リュリ(1632 - 1687年)トスカーナ大公国フェレンツェ生まれ、フランス王国パリ没


に取って代わりましたが、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年)ジュネーブ共和国ジュネーブ生まれ、フランス王国エルムノンヴィル没

によって攻撃されることとなりました。

数々のオペラでヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエ(1694- 1778年)フランス王国パリ生没
と共作し、とりわけ《ナヴァールの姫君 La Princesse de Navarre》によってラモーは「フランス王室作曲家」の称号を獲得しました。

また、根音や転回形といった概念を用いて機能和声法と調性を体系的に理論化した最初の音楽理論家としても有名です。
ハーモニーという語を和音や和声の意味で用いる習慣は、ラモーにさかのぼります。
(『自然の諸原理に還元された和声論 (Traité de l'harmonie)』〔1722年〕、

『音楽理論の新体系 (Nouveau système de musique théorique)』〔1726年〕)。

ナヴァラの姫君
第1幕
カスティーリャ王ドン・ペドロはナバラ王女コンスタンスを捕虜にしました。
彼女は変装して牢獄から脱出し、ドン・モリロのもとに身を寄せますが、若いアラミールに見破られてしまう。アラミールはコンスタンスに恋し、ドン・モリロの娘サンシェットを拒絶します。
この幕は、戦士、ジプシー、占星術師が領主や貴婦人たちを楽しませる踊りで終わります。

第2幕
国王はコンスタンスの帰還を要求しますが、アラミールは彼女を守ると誓います。
アラミールの軍隊はフランス軍と同盟を組み、カスティーリャ軍を破ります。

コンスタンスはアラミールにますます恋心を抱くようになりますが、サンシェットを傷つけることをためらい、アラミールが貴族の生まれではないことが二人の結婚の障害になると考えます。
美神たちは気晴らしで彼女の気を紛らわせます。

第3幕
アラミールは戦いから勝利を収めて戻り、フォワ公爵だと正体を明かします。
彼とコンスタンスは結婚することができ、劇はピレネー山脈を背景にキューピッドが率いるディヴェルティスマンで終わります。