音楽の喜び フルートとともに

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霧に想うこと

2008-09-29 23:56:09 | Weblog

霧の噴水、温暖化防止効果があるそうです。

ピアノではドビュッシーの前奏曲集2の「霧」が有名ですが、フルートでは、カミュのシャンソンとパディヌリのシャンソンの部分が私は霧の中を歩いているような感じがします。

レイ・ブラッドベリーの「霧笛」は印象的です。霧の濃い海に、霧笛が鳴り響き、それに誘われて深い海の底からやってくる世界でただ一頭のこった恐竜。彼は霧笛の音に絶滅した仲間の鳴き声を聴いたのだ…。

その土地の自然と、文化や芸術は深く結びついています。

ここ、枚方は淀川の沿岸で、くらわんかの宿場として有名ですが、淀川は樟葉から八幡に入ると、男山と瀬山にはさまれ、急に霧がちになります。川霧は普段は住宅地まではあがってきませんが、時によって町全体を覆います。川より低い土地が続いていることを、思い出すことは、今では、ほとんどありませんが、
逆境を生き抜く、庶民の底知れないパワーと自治の精神は、今でも脈々と続いています。

そしてここでも、私達が気づかないうちにも、何かが生まれているのかもしれない。それは、大昔の誰かの作ったものではなくて、私達一人一人が主人公。この場所で、この時に。ぼやぼやしていると、見逃してしまうかもしれない。隣にいる天才を。


花咲き山

2008-09-29 01:23:25 | Weblog

彼岸花を見ると、花咲き山を思い出します。何回か前の「音楽であそぼう!」で滝平二郎さんの切り絵の絵本でを使って、こどもたちに音をつけてもらいました。

誰かのために何かを犠牲にしてつくしてあげると、花咲き山の花の花が一つ咲く。
この世のようでこの世でない、目に見えない世界のお話だろうとおもうのですが、その創造の花に滝平さんは、彼岸花のような形を与えていました。

俗名が多く、曼珠沙華、狐花、幽霊花、死人花、幽霊花、地獄花、剃刀花など、あまりありがたくない名前が多いのは、根っこに毒があってたべると強い中毒性があり、死に至ることもからだそうです。お彼岸に咲き、死を思わせる花が花咲き山では美しい行いの象徴としてイメージされています。

こどもたちは、花が咲く音に、トライアングルや、鈴をつかって、音をつくってくれました。

「ぽっ、また一つ花が咲いた」
チリリン

真剣そのもの。たった一つの音を鳴らす瞬間を、じっと待って。自分達で協力して何かを作り上げる時の集中力はすごいです。

絵本や空想の世界だと、すぐ軽く考えてしまいがちですが、大人のわたしにこそ、こういう絵本が必要なんじゃないかと思います。物や金を欲しがり、新しいものを追いかけ、形に惑わされ、見た目の美しさを追い求め、来たものに対処するだけで、一生が終わってしまいそう。いつもいつも、美しい行いや言動をしている暇がない。
でも、一方で、飢えから家族を救うために一杯の水を我慢しあう人や、危険を顧みず、難民を助けたり、紛争地域で医療活動を行ったり、死に行く人を看取ったりを、黙々と行っている人は大勢います。

道徳教育は私や、大人、地位の高い人、経済的成功を手に入れた人、発言力のある人にこそ必要じゃないのかな?何兆円も、投資家と呼ばれる人の失敗のためにつぎ込み、バイオ燃料といっては、大切な食糧を高騰させる。学力低下を憂うのも自分達の老後が心配なだけで、子ども達の幸福なんか考えていないんじゃあないかな。世界が競争で動いているから、戦える戦士が欲しい。というわけ。
命がけで手をつなごうとしている人のいる隣りで。


またまたまたしゃぼん玉遊び

2008-09-28 02:00:07 | 音楽で遊ぼう

今月のSさんと私の「音楽であそぼう!」は、しゃぼん玉遊び。
子ども用のビニールプールの真中に、立ってもらって、しゃぼん液のついたフラフープを足元から引き上げます。すると、大きなしゃぼん玉の中にすっぽりと入れます。

しゃぼん玉おじさんも、私の友達。大手技術系サラリーマンですが、自分の子どもと遊ぶために、しゃぼん玉遊びを開発。日夜しゃぼん液の研究を重ね。子どもが成長した後も、ボランティアで、いろんな小学校、幼稚園、お祭りをまわって子ども達としゃぼん玉遊びをしています。もう、4年くらい一年に一回来てもらっています。

今日は風が強く、なかなか巨大しゃぼん玉ができない。何回も途中で割れ、やっとできたときには歓声があがります。順番待ちの後、
お行儀よく並んで待っていたのは、はじめのうちだけで、そのうちプールに手をつっこみたがって、何度言ってもやめません。みんなが、シャボン玉の中に入リ終わって、やっと、手を入れるの解禁になったら、パワー炸裂。
大きなわっかを手に、液につっこんで夢中で振ります。できたシャボン玉をつぶしたり、追いかけたり。息を吹きかけて2重玉をつくったり。今年は、団扇の骨を寄付してもらい、それを振ると、四方一面が小さなしゃぼん玉だらけになります。これに夢中になる子が続出。運動場が泡だらけに。

洗濯糊が入っているので、つぶれると、煙のようなかすがでて、頭に降り注ぎ、手をつっこんで、揉むと白いパックのようになります。全く平気。どろどろ、ズルズルの宴たけなわ。
泡を立てると、「しゃぼん玉ができにくくなるから」と気をつけていたのもつかの間。
泡だらけ。泡をすくっては捨ててもらっていたらそっちの方が、楽しくなってしまい。土と泡を混ぜてコーヒー色のぐちゃぐちゃを作って遊びだします。

「音楽で遊ぼうと、しゃぼん玉って関係あるの?」って聴かれるから、
「無いよ。子どもと遊ぶのが、楽しいの。」
「Kさんと、Sさんが仲よしで、音楽であそぼうとか、しゃぼん玉で子どもと遊ぶのがたのしいんだね。」
「そうそう。」

こんなことで何になるんだろう?とか、ふと思う時もあるけれど、ぐちゃぐちゃとか、どろどろとか大好き。
音楽も、子どもと遊ぶためのツール。音を聴いて絵を描いたり、子どもの好きな曲を聞いてベルで演奏してもらったり。嫌いな子はいつ帰ってもいい。
4年やっていると、時々、中学の校庭で大きくなって、ブラスバンドに入ってフルートをしているという子に出会ったりしますが、これがつながっているのかどうかわからないし、対効果なんか計れない。

協力しあう大人がいて、叱られない、強制されない、みんなで遊ぶ楽しい時間があると、子どもは幸せ。幸せな子どもを見るのは幸せ。ただ、それだけ。


文化祭

2008-09-27 01:18:48 | Weblog

大雨の後は、気温が下がり秋の風。すすきが目に入ってきました。

中学の文化祭に行ってきました。
私の頃の文化祭といえば、金曜日から土、日と3日間かけ、展示、演劇、合唱と、クラスと文科系クラブの発表の場でした。ノストラダムスの大予言が流行って、世界の終末を映画にしたり、学園ものドラマの台本を書いて、自作自演をビデオにとって映画にしてみせたり。学校の花壇をつかって、庭を作成したり、とにかく自分達で何をするか立案し、企画、運営、発表までを全てやりました。

ところが、ここ数年息子の中学では、文化祭と言えば、合唱と決まっています。子ども達は、クラスごとに好きな曲を選び、発表します。それでも昨年までは、いろんな扮装をしたり、踊りをつけたり、ちょっとした漫才を合唱の前にしたりして、自分達の創造の余地を残していましたが、それが、ふざけているとして全面廃止。

課題曲が決められ、後自由曲一曲。審査員が並び、合唱コンクールになりました。服装は乱れていれば減点の対象になります。もちろん、全員がきっちりと制服を着て、練習を重ね、きっちりと整列して発表。

誤解しないで欲しいのは、合唱を真面目に一生懸命練習して発表するのが悪いと思っているのではないのです。この中でも前向きの捉えて、素晴らしい創造性を発揮する子ども達もいるかもしれまん。

しかし、もう少し子どものパワー、エネルギー、考える力。創造力を自由に発揮する場が一つ位あっても良いのではないかと思うのです。
企画、立案を任す、選択を尊重する以上に、子どもへの信頼を示すのに良い方法はないと思います。話し合い調整するのは大変です。それでも、子ども達は自分達の企画なら、がんばってやり遂げます。

もちろん文化祭だけではなく、いろんな場面でそういう選択が、赦され、体験から学ぶことは大切だと思います。しかし、これほどの大勢の自主的な力が結集され、いろんな形で発揮することを赦される場は、現段階に他にはないのではないかと思います。

学校で音楽を学びながら、これほどそれぞれにしか音楽を楽しめない時代もないのではないかと思います。それは、こうやって無理矢理、決められた枠の中に入れられ、一つの価値観のものさしで測られることへの嫌悪が合唱や、クラッシック音楽への抵抗となって現れているような気がするのは、読みすぎでしょうか?


記憶への挑戦

2008-09-26 01:01:10 | Weblog

モーツァルトは一度聞いた曲をすぐ再現できたといいます。
ほとんどの民族楽器は長く、楽譜がなく、聴き取りで伝承されていました。
友達になった、横琴を弾く中国の女の子は、一回聴いたら覚えてしまうので、はじめから、ちゃんと演奏したものをきかないと、変なニュアンスまでおぼえてしまう。と言っていました。
私の母のお琴の師匠は盲目ですが、やはり、記憶の中だけで素晴らしい演奏をしておられます。
人間国宝の菊原先生は彼女だけが口伝で伝承している数え歌に対して国宝があたえられたそうです。

レッスンを受けても記憶力が良ければ、後戻りが少ないだろうと思います。

どうしたらより早く鮮明に覚えられるのか?

記憶力の弱い私は、そればかり考えていました。
一つわかったのは、先生の言葉を翻訳したり、まとめて要約したり、検討していいとこどりしようとしている間は、そちらに意識が行って覚える効率が落ちる。ということです。

昔はどんな技術も弟子入りして、師匠と生活をともにして、覚えましたが、それは、体で覚えると言うことの他に、先生の目を通して見る。先生が何を見、何を聞き、何を考え、何を思って、そのようにしたかを、生活をともにすることによって、理解しようとすると言うことではないかと思います。
言葉や、文字や楽譜で伝えられることは情報の一部でしかありません。その時の先生の体、息遣い、香り、いろんなことを、写真のように、CDのように丸写しする。「学ぶ」は「真似ぶ」と言われたそうです。

帰って検討したり練習したりする前に、その場で覚える。できるだけ、早く復元する。検討したり、解釈したりすると別のものになってしまいます。

その瞬間に目を覚まして、瞬間に生きているか?

検討するのは再現できた後で、構わないんです。それでも、私の場合は次のレッスンまで一週間あれば、最後の2日位しか足せません。5日間は再現できるか。もう一度再現できるか?自分のものになったか?で終わってしまいます。
私は効率が悪いかもしれません。そして、これだけやっても、レッスンに行ったらやっぱり戻っています。
でも、何割かは残って、積み重なっていきます。
記憶は血となり肉となり、骨となって、初めて自由に扱えるようになります。特殊な才能を持たない私のやり方です。


お誕生会

2008-09-25 02:35:27 | Weblog

今日は、児童会室のお誕生会。
「かっこいい曲がいいとリクエストされたので、私が知っている中で一番かっこいい曲を吹きます。みんなはどう思うかわからないけれど聴いてください。」

オネゲルの「雌山羊の踊り」
「何かでてきそう。お化け~」
「すげー!」演奏中から元気のいいコメントが。

「Love so sweet」は、打ち合わせ無しのぶっつけ本番。5人の3年生が見事なダンスを踊ってくれました。

「ポニョ」は大合唱。いつも斜めに見ている3、4年生も大きな声で歌ってくれました。

「先生、びっくりしたわ。」「練習したん?難しい?」「すごいはやいとこあったわ。」「もう一回吹いて。」

フルート一本で音楽会なんて不安いっぱいだったけど、なんとかうまくいったみたい。

大人はコンサートへ足を運ぶかどうか選べるけれど、子どもたちは、選べない。大人が選んだ物を食べ、大人が選んだ場所に住み、大人が選んだものを着ます。
音楽だって、教育だって、遊びだって自分で選べない。
大人は、いつだって善意に決まっているけれど、本当は迷惑なことだってあるかもしれない。
無理矢理学校に来ている子もいるかもしれない。

そう思うと、本当に聴いてくれてありがとう。みんなの将来の幸せに繋がれるようにこれからも、考えてがんばるよ。


時間

2008-09-24 02:22:16 | 哲学

春、何の花かわからなかった木に、スダチができました。4ヶ月のもやもやにスッキリ。

21日はダーウィン展の最終日。何とかすべりこみセーフで見ることができました。
ビーグル号の模型や、ダーウィンの部屋の模型、フィンチの嘴。ガラパゴスのイグアナ。海がめのレプリカ。
鉄製から真鍮に作り変えられた大砲。妻エマや、子どもたちの写真。

音楽は時間の芸術と言われていますが、ダーウィンの時間の感覚は、私にはとても長く感じられました。
まず、ビーグル号での有名な航海は1831年から36年まで5年を費やしています。そして、37年には進化論の概論を得て、44年には結論も得ていましたが、いろいろ理由はありましたが、公表したのは、57年。12年もかかっています。フジツボの研究には7年。

ダーウィンが生まれたのは1809年、メンデルスゾーンが同年生まれ。シューベルト、シュトラウス、ショパン、シューマン、リスト、ワーグナー、ベルディ、ドボルジャーク。
おそらく、彼らの時代の持つテンポとリズム、音の重さと質は、私たちのそれとは違うのだろうと思います。

メールを書くと一瞬でつく。
インクや、墨をすり、貴重な紙を使って、書き、馬や、歩きで何日もかかって届ける。
CDや、DVDでなんども再生し、何種類も目の前にあり、大量に、音楽を消費する。
一回きりのコンサートに行き、その時きりもう二度と聴けないかもしれない音楽に耳を傾ける。聴衆も、演奏家もそのことを知っている。

私たちは当時に比べ、本当に質の高い、大切な時間をすごしているのでしょうか?


20世紀

2008-09-23 01:06:26 | 哲学

黄花コスモスが咲いていました。まだまだ、暑いけれど、秋の気配。
今夜は20世紀梨と巨峰を食べました。

20世紀と言う響きに期待と希望を寄せた時代がありました。
1800年後半から始まった無調性音楽は、20世紀に全盛を迎えました。20世紀は科学の目覚しい進歩の時代でした。世界の一部の国では、飢餓を克服し、いくつかの深刻なウィルスを押さえ込み、物資がいきわたりました。また、世界大戦の世紀でもありました。2度の世界大戦、それに続く冷戦。戦争は大量破壊の時代を迎え、世界は世界を破壊する兵器を持ちました。

人類の叡智を単純に信じられた時代も終わりました。人は弱くて強い。ちっぽけな欲望や、野心、プライド、保身のために、あらゆる蛮行をし、世界を破壊するかもしれない。そのことをがけっぷちまでいき、目の当たりにし、何とか踏みとどまった時代でもありました。

こういう時に、従来の調和の音楽がもう意味がなくなったように感じられたのは、ある意味当然だったのかもしれません。

腹をえぐるような、不協和音。小節線さえ意味がなく、美しいメロディーを期待した聴衆は裏切られ、音楽の作り出す、奇妙な空間に投げ出される。そのうち、これが世界だとわかってくる。調和のないカオス、一瞬たりとも安定することなく、動き続ける社会。翻弄される個人。

このカオスを見つめ、とことん扱おうとチャレンジした時代だったのかもしれません。
興味深い時代です。



イベールのフルート協奏曲

2008-09-22 00:39:29 | 名曲

ジャック・イベール(1890-1962)のフルートコンチェルトは1934年に、ゴーベールの指揮、パリ音楽院管弦楽団、マルセル・モイーズのフルートと言う考えられないほど、豪華な組み合わせで初演されています。

44歳のイベールは前年に、父を亡くしています。この曲の2楽章は、悲しみと平安に満ちています。
遠い世界への憧憬か、過去の思い出が鮮やかに浮かび上がってきては、また消えていく、そんな感じがします。

肉親の死は、死が現実の世界の続きにあり、命が有限であることを思い起こさせてくれます。
深い喪失感とともに。「いかに生き、いかに死ぬか?」と言う問いも突きつけられてきます。
私たちは必ず死ぬ。死なない自由はない。私という生命体、個人にとって、時間は有限です。
その中で、選択できることは、限られています。

真実をしると、人間というものは、落ち着くようです。腹がすわるというのか。

第3楽章は、力強い生命感に満ちあふれています。この生命感は2楽章の悲しみによって、より鮮やかに、立つ。そんな気がします。
何かを選びきった時、人間は素晴らしい力を発揮します。死という限界がその迷いを払拭させ、背中を押したのか。
イベールもその時、何かを悟ったのかもしれません。イベールだけが実現したイベールの音楽。
考えられない音の組み合わせ、でも美しい。彼らしい特徴の出た音楽となりました。


さんぽ

2008-09-21 02:52:43 | Weblog

初めて、幼稚園でトトロの「さんぽ」を演奏したのは、10年以上前のこと。クラッシックやディズニーを演奏して、子どもたちはずっと聴くだけ、そして最後のプログラム。前奏を演奏しだした途端、子どもたちの目がきらっと光り、お尻がむずむずしだすのが見えます。そして、びっくりするほどの大合唱。
この曲の持つパワーには本当に感動させられます。大きな声で、うれしそうに歌う姿に、涙がでそうになりました。

学校へ行く前の子どもたちには、比較と言う概念がありません。
みんなよりへただから、小さな声で歌うとか、うまいから最前列でとか、普通に適当にとか。
全く考えない。

ただ、自分が歌いたいから。楽しいから。うれしいから。
自分たちが知っている大好きなトトロの歌だから。

比較は目に見えにくい暴力だといわれています。じんわりと仲間を分断していきます。
比較はそれぞれの違いを、表現することを赦さなくなっていきます。
比較は一番を決めたがり、それ以外を排除します。

子どもたちを見てください。人と同じでも、違っていても、全くOK。
だから、「ともだち いっぱい うれしいなー♪」