音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ゴージャスな城

2024-05-31 21:00:00 | バロック
木曜日は午前中レッスン。
そのあと神戸三ノ宮まで行きました。
梅田のドレス「エメ」を通りかかったらに予約制の安売りがあるというので予約してもらいました。
安売りは助かるし嬉しいです。

最近はSNSで投稿されるので同じドレスばかりだと言われます。
タキシードで演奏したい…けどそれも楽しみの1つと言われて…。

こんなのとか、

あんなのとか、
はたまたこんなのとか

さんざん試させて頂きました。

いくつになっても、ドレス着るとやっぱりテンション上がります。

アクセサリーやストゥールも合わせてもらうとやっぱりお店のドレスに合わせて作られているので似合います。

嬉しくなって買いそうになる所をぐっとこらえてドレスだけ買って帰りました。
行きは阪急、帰りは阪神で…。

阪神百貨店で次男のお弁当に入れるKYKのとんかつとエビフライ買って帰りました。
人多かった!

でも演奏が肝心!2日は6月16日のエスカル発表会のピアノ合わせ。頑張ろう!…ここではドレス着ませんが…。

6月9日「から騒ぎ」コンサートは金重さんとおそろいの着物ドレス。

たぶん今日買ったのは6月30日の西宮ギター練習会コンサートで着ます。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランドロンドン没
オラトリオ「ソロモン」
は、旧約聖書の列王記第1巻・歴代誌第2巻と、歴史家フラウィウス・ヨセフスによる古代ユダヤ伝の賢明王ソロモン

ソロモン(紀元前971-紀元前931年代)
の伝記に基づいています。

初演はロンドンのコヴェント・ガーデン劇場で1749年3月17日に行われました。

コヴェント・ガーデン劇場
イタリア語でオラトリオを書き、成功を収めていたヘンデルですが、イギリスの繁栄に従って英語でのオラトリオの制作をするようになります。

英語オラトリオ『ソロモン』は、当時のイギリス人にジョージア朝イギリス帝国(ジョージ王朝時代(1714~1837年*)はジョージ1世からジョージ4世までの4人のジョージと、ジョージ4世の弟ウィリアム4世に統治された時代をさします。ヘンデルはジョージ1世(在位1714-1727年)

の戴冠前から彼に仕え、ジョージ2世(在位1727-1760年)


治世中に、亡くなっています。)への祝福として受け止められました。

宮廷画家のジェームズ・ソーンヒルが描いた、家族に囲まれたジョージ1世
膝に手を置いているのは皇太子で、後のジョージ2世。
グリニッジの旧王立海軍学校にあるペインテッド・ホールの天井画の一部

これはソロモンは智慧と正義を象徴する王であり、当時のイスラエルは強大で繁栄していたと思われていたからです。

オラトリオ「ソロモン」

第1幕
ソロモン王と人々がエルサレムでお祭り騒ぎを催しています。

ソロモンは(数百の妻や妾を持っていたと記載されている聖書のソロモンとは異なり)彼の妻と結婚して幸福のあまり喜び、妻のために宮殿を建てることを約束します。

彼らは互いの愛を表現し、花の香りのそよ風に誘われ、夜のために退場します。ナイチンゲールが歌を休むように。

第2幕
ひとりの赤ん坊についてそれぞれが自分の子どもであると主張する2人の遊女の物語です。

ソロモンの審判 ニコラ ブッサン18:49年
そこでソロモンの叡智が示されます。
ソロモンは剣で赤子を切り分けて、それぞれに与えることを提案しながら剣を抜きます。
アントワン・コワペル作  1661-1722年
片方の女が「それなら相手に渡す方がいい。」と泣き崩れ、ソロモンは「泣き崩れた女こそ、真の母親だ。」と断定します。

ルーベンス
遊女とコーラスは、ソロモンの判決を大合唱で称賛します。

第3幕
シバの女王がソロモンの王国へ公式訪問します。

シバの女王とソロモン「ジョバンニ・デ・ミン作 1789-1859年
王と民は音楽で彼女を楽しませ、仮面舞踏会が始まります。
壮大なコーラスの穏やかな音楽が軍事的栄光を褒め称え、不幸な恋人の絶望の嵐をなだめ、賢明な支配者ソロモンによるイスラエルの平和、幸福、繁栄の黄金時代を祝います、
シバの女王はソロモンを試しに来たのですが、国の繁栄とソロモンの叡智に感じ入ります。

シバの女王エドワード・スロークーム作  1850-1915年

「ソロモン」より「シバの女王の入城」




から騒ぎ最後の大作

2024-05-30 21:00:00 | ロマン派
水曜日、ヴィオラの金重美代さんが、練習に来てくれました。

6月9日(日)13:00 
里夢SATOM(阪急六甲駅徒歩6分)
コンサート「からさわぎ」ーNew Meー
にホフマイスターの「フルートとヴィオラの二重奏第1番」出演します。

前日に富久田先生に見ていただいた所を共有。
簡単なお昼ご飯を作って、おしゃべりしながら一緒に食べて、再開。
写真忘れました。

ホフマイスターおもしろくなってきました。

エクトル・ベルリオーズ(1803-1869年)フランス共和国ラ コート サンタンドレ生まれ、フランス共和国パリ没

1868年ベルリオーズ
1860年の夏、ベルリオーズはバーデン=バーデンの音楽祭で、音楽祭の主催者でカジノの支配人、
エドゥアール・ベナゼから、新たに建設される劇場のための短いオペラの作曲を依頼されました。

ベルリオーズはこの依頼を受けると、ローマ留学を終えて間もない1833年に書き出しそれきりになっていた『空騒ぎ』のオペラ化を実現することに決めます。

パリへ戻るとただちに作曲に取りかかります。
持病や評論の仕事、本作以前に完成していたオペラ『トロイアの人々』の上演交渉などで作曲はしばしば中断しましたが、約1年半後の1862年2月に完成しました。

初演は1862年8月9日、バーデン=バーデンの新劇場で、ベルリオーズの指揮により行われました。

『ベアトリスとベネディクト』は
「ファースト・フォリオ」(1623年)から『空騒ぎ』の表紙の複写
はウィリアム シェークスピア(1564-1616年)イングランド王国ストラスフオード アポン エイボン生没

の喜劇「空騒ぎ」が原作でベルリオーズは作曲家よりもシェークスピアから大きな影響を受け、台本(リブレット)も自身で書いています。

ベルリオーズ最後の大作となりました。

ベアトリスとベネディクト


アルフレッド・エルモアによる 『空騒ぎ
第1幕 メッシーナ総督の宮殿の庭

アラゴンの王子、ドン・ペドロはムーア人に勝利し、
シチリア島では祝祭ムードで彼の帰還を待っています。

彼は2人の友人や仲間の兵士であるクラウディオとベネディクトとメッシーナを訪れ、メッシーナの知事でレオナートとその娘エロー、姪のベアトリスに出迎えられます。

エローは婚約者のクラウディオの無事と、彼の活躍への報酬を伴った帰還を待っています。

ベアトリスとベネディクトはお互いにからかったり、あざけったりしています。
あげくベネディクトは「自分は結婚しない。」と友人に誓います。

しかし、クラウディオとドン・ペドロ、レナート、エロー、ユルシュールはベネディクトとベアトリスを結婚させようと企んでいます。

レオナートは、ベネディクトに聞かれていることを確かめて、「ベアトリスがベネディクトを愛している。」とペドロに話します。

それを聞いたベネディクトは「ベアトリスの愛が報われなくてはいけない。」と、彼女にアプローチすることを決めます。

一方、エローと彼女の付き人であるユルシュールは、ベアトリスに「ベネディクトが彼女を愛している。」と吹き込みます。
そしてエローはクラウディオと一緒になれる幸せに浸っています。

第2幕 メッシーナ総督の宮殿の広間

レオナートは棚上げになっていたエローとクラウディオの結婚を祝うために、仮面舞踏会を開催します。

宮廷楽師ソマローネが夜の結婚式のために皆に合唱の指導をしています。

やがてベネディクトが現れ、ベアトリスと会話を交わします。
しかし、互いに自らの愛情を隠し、素直に表現できません。

やがて公証人が現れ、クラウディオとエローの厳かな結婚式を挙げます。

そしてレオナートは計画した通り、ここには別のもう一組のカップルがいるはずだから、前方に来るようにと求めます。

ベネディクトはベアトリスに彼の愛を宣言するための勇気を奮い起こします。
そして、2人は互いが「全く愛していない。」ことを確認し合い、結婚するのは「ただ同情と憐みから、お情けで結婚してやる。」という強い気持ちを伝えあいます。

2人は結婚式の契約に署名し、「結婚した男、ベネディクトここにあり。」と剽軽な悲痛さを帯びた皮肉な歌が大合唱されます。
最後に「今日は休戦に署名しよう、明日は再び敵になるでしょう」の言葉で終わります。





楽譜出版だけじゃない

2024-05-29 21:00:00 | 古典
京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
夕べから大雨。

早めに出たけど、踏切に立入りがあり、安全確認のため停車。
「やっぱり〜。」と思っていたら3分で動きました。

バス停は少し距離があります。
豪雨でやっぱりスニーカーの中まで水が侵入してきました。
おまけにバスは、側溝のちょうど水が溜まっている前で停まりました。

試験かな?高校生が多勢いて黒い革靴でダボダボ入って乗っています。
彼らの靴は多分もうすでにビショビショ。

私は敷石に乗ってステップに乗ってなるべく濡れないようにしましたが…やっぱり靴下は前半分が濡れてたので、先生のお宅のスリッパを汚さないように靴下をぬぎました。

ホフマイスターの「フルートとヴィオラの二重奏」を見て頂きました。

楽譜には書いていなくても、スタカートで演奏したり、スラーにした方が良いところなど、時代に合わせた演奏をしましょう。

出町柳大橋やばかった。

フランツ アントン ホフマイスター(1754-1812年)南西ドイツ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)のロッテンブルク・アム・ネッカー生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

14歳のとき、彼は法律を学ぶためにウィーンに向かいました。しかし、学業を終えた後、彼は音楽家になる決心をし、1780年代までには、広範かつ多様な作品を残し、ウィーンで最も人気のある作曲家の一人となりました。

1785年までにウィーンの音楽出版を初めました。

ホフマイスターは自作や多くの当時重要な作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなど)の出版を行いました。

モーツァルトは弦楽四重奏曲第20番
をホフマイスターに捧げ、

弦楽四重奏第20番1786年
フルート四重奏曲第4番
の変奏曲にホフマイスターの歌曲の主題を使っています。

フルート四重奏曲イ短調第1楽章ホフマイスターの歌曲「自然に寄す」の主題による変奏1786年

またベートーヴェンは手紙の中でホフマイスターを“もっとも愛しい兄弟”と綴っています。

ホフマイスターの出版活動は1791年にピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしました。

彼のオペラの多くは1790年代はじめに作曲・上演されましたが、ビジネスセンスの欠如と相まって、作曲数も減っていきました。

1799年にホフマイスターとフルート奏者のフランツ・トゥルナーは遠く離れたロンドンまでのコンサートツアーに出発します。

しかし、ライプツィヒ郊外まで来ると、2人は“1年以内に”音楽出版業で提携する約束をし、
Bureau de Musique(ビュロー・ドゥ・ミュジック)を設立しました。
(のち1814年に買収されてペータース社となり、現在も著名な楽譜出版社として存続しています)。

ペータース版ベートーヴェン ピアノソナタ
彼らの出版物の中には1802年に出版されたバッハの鍵盤楽曲集第1巻もありました。

1805年までホフマイスターはウィーンの会社とライプツィヒの新しい出版社を行き来していましたが、同年3月にビュロー・ドゥ・ミュジックの独占的な所有権をキューネルに譲渡しました。

ホフマイスターの関心は危機にあったウィーンの会社にあり、1806年には作曲の時間を取るためにChemische Druckerey(ケーミッシェ/ヒェーミッシェ・ドゥルッケライ)に売却したと言われています。

ホフマイスターの膨大な作品の中でも特に目立つのはフルート作品で、25曲以上の協奏曲やフルートを主役にした室内楽作品などがあります。

これらの作品の多くは、ウィーンで増加していたアマチュア音楽家を念頭に置いて作曲されたもので、彼らにとってフルートは最も好まれた楽器の1つでした。

ホフマイスターはまた、少なくとも8曲のオペラ、50曲以上の交響曲、多数の協奏曲(よく演奏されるビオラ協奏曲を含む)、大量の弦楽器室内楽、ピアノ曲、および数曲の歌曲集を作曲しました。

「フルート四重奏」op18No1第1楽章



アレンジで大ヒット!

2024-05-28 21:02:00 | 現代
月曜日は渡辺橋近くのサロン・ド・プリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習でした。
6月16日発表会なので、練習にも力が入ります。

ドビュッシーの小組曲全曲と大阪組だけて「宝島」を演奏します。
榎田先生は8時までで、そのあと残って9時まで練習。


「宝島」は1986年和泉宏隆作曲
フュージョンバンドTHE SQUAREの11個のアルバム 「S・P・O・R・T・S」の中の一曲です。
世界的にアナログ機材からデジタル機材に移行する過渡期に制作された作品で、シンセサイザーや、デジタル楽器を使ったアルバムになっています。

神戸から来たSさん、この紋所は…ト音記号とへ音記号と♭
真島俊夫が吹奏楽に編曲し、全国に広まり、ロングヒットとなりました。

オーケストラ編成での『宝島』。
サックス奏者のYUCCO MILLERのアレンジ版
宮川成治編曲による20人むけのバンドスコア
鍵盤ハーモニカのアレンジ。
エレクトーンアレンジなどなと
様々なアレンジが存在しています。

また、アニメ「響けユーフォニアム」の中でも、演奏されたそうです。

さて、フルートアンサンブルによる私たちの演奏はどうなるのでしょうか?

ピッコロ、コンサートフルート3本、アルトフルート、バスフルートのフルート六重奏。

私はといえば、いつものクラッシックとは違うアドリブに苦戦。
本番までには解決しておきますので

ぜひ、おいでください。
6月16日(日)ラサーラ ディ オルフェオ(神戸六甲ライナー センター前下車5分)
13:00〜

真島俊夫(1949ー2016年)
山形県鶴岡市生まれ。  
神奈川大学工学部中退。
吹奏楽に在籍、トロンボーンを担当していました。
兼田敏に作曲を学びます。

全日本吹奏楽コンクール課題曲をはじめとする数多くの吹奏楽曲を作曲しているほか、二十数年以上にわたり「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」にスコアを提供、代表的な編曲としては「宝島」「オーメンズ・オブ・ラブ」「チュニジアの夜」等、そして「ドラゴンクエスト」シリーズの全吹奏楽編曲を担当。吹奏楽界のジャズ・ポップスの啓蒙に努めます。

2006年、フランスのリールで開催されたクー・ド・ヴァン国際交響吹奏楽作曲コンクールに於いて『鳳凰が舞う』がグランプリを受賞。

2008年8月、オリジナル作品のCD『真島俊夫作品集』がキングレコードより発売されています。

2013年2月3日より、シンフォニックジャズ&ポップスコンテストの大会総監督に就任。

2016年4月21日、がんのため逝去。67歳没。

指揮 真島俊夫による「宝島」吹奏楽アレンジ版



芍薬とベル・エポック

2024-05-27 21:01:00 | ロマン派
日曜日の朝は実家でレッスンでした。
母の活けた芍薬、水揚げがうまくいっていない。
この花は難しくて、切り口をミョウバンでこすったり、蕾についた蜜をお湯で優しくお湯につけて拭いて、新聞紙で巻いて、お湯につけて一晩。
木槌で茎を叩いたり、葉もできるだけ落としたほうがいいようです。

しかし!
「切り口を焼くわ。」と、焼き出します。 
「お湯で揚げたり、新聞紙で巻いて、葉も落としたほうがいいみたい。」と言っても「もう焼いたからいい。」
と聞きません。
水揚げ法のサイトをLINEで送って、レッスン。

終わってから見たら

葉は少し落としたみたい。
まだ多いけど…。
咲くといいなあ~。
帰りにムサシに寄って昨日の続き、サロンのお母さんに作ってもらえそうなものを探しましたが
なかなか適度なものがありません。
流行りの革細工は手がかかり過ぎ、羊毛フェルトも大変。つまみ細工ももうやりました。
粘土は色を揃えるのにお金がかかり過ぎ…デコパージュは良かったけれともう道具も置いてない。
簡単で安く作れるもの無いかなあ?

芍薬はシベリア、中国、モンゴルの原産。日本には古く中国から渡来し、薬用、観賞用に栽培されています。 

ボタンの台木として使用されますがシャクヤク自体の花も美しく、中国で、宋代には育種が始まっています。江戸時代には「茶花」として鑑賞され、
品種改良も行われた古典園芸植物です

また熊本藩では武士の素養として園芸を重要視し、奨励されました。

特に六種類の植物が盛んに栽培、育種され、これを「肥後六花」と総称するが、キク、朝顔、椿等と共にシャクヤクもそこに加わっています。この熊本で育種された系統を「肥後芍薬」と呼びます。

近代に入り西洋にも紹介され、19世紀には特にフランスで品種改良がなされ、豪華な千重咲き大輪の品種群が生まれました。

明治時代以降の日本では、神奈川県農事試験場(現:神奈川県農業技術センター)がこれらを導入し従来の日本の品種群との交配を重ねて、新たな一群が作られました。

その後日本でも切り花用品種の育成が続いているほか、伊藤東一によりボタンの黄花品種との交配により濃黄色の品種がいくつか生まれ、世界的にも注目されました。

また20世紀後半にはアメリカでの育種が進み、いくつかの近縁種との種間交雑も試みられ、従来にない花色を備えたものもいろいろと現れています。

芍薬「サラ・ベルナール」


サラ・ベルナール
(1844-1923年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没
1880年
舞台女優。
フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られています。

1864年
普仏戦争前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。

1865年
ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ったが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられています。

ジャン・コクトーは「聖なる怪物」と呼びました。
キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。

国際的な人気を博した「最初の国際スター」と言われています。
また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物でした。
当たり役の1つ「椿姫」

ラ・プリュム誌の表紙サラ・ベルナール1896年


アルフォンス ミュシャ(1860-1939年)オーストリア帝国モラヴィアイヴァンチツェ生まれ、 ドイツ国ベーメン・メーレン保護領没

が彼女のポスターを描き、一躍時代の寵児に躍り出ました。
「ジスモンダ」のポスター ミュシャ

「トスカ」1899年


1896年「椿姫」

1896年「メディア」


1898年「ロレンザッチオ」

「ハムレット」1898年


ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュッセル没

のオペラ「トスカ」から、「歌に生き、恋に生き」







愛すべき野獣

2024-05-26 21:01:00 | バロック
土曜日の朝は梅田ドルチェ楽器で伊藤公一先生のマスタークラスでした。
スケールとアルペジオだけで45分。
レガートに吹いているつもりでも、先生の耳からすれば、まだまだ。
奥が深いです。
草津の音楽祭に出演されるそうです。
ぜひ、聴きたいなあ。

子育てサロンの手作りのヒントはないかとダイソーに行ったけれど、手作りの目新しいものはなく、推し活グッズコーナーなどが目を引きました。

ユザワヤにも行ってみたけれど、今度は手がかる刺繍などが人気らしい。
推し活人形の手作りとか…。

サロンの短い時間の中では到底無理。
デコパージュや、プラ版のアクセサリー、レジンも、あんまり流行らないみたい。どうしたものか?

考えながら何も買わずにブラブラ。
阪急三番街の端がフードコートになっていて、いろいろなお店が出ていました。

仙台牛たん麦とろで
ランチを食べて帰りました。
安いので助かります。
「味が薄いので、濃いのがお好きな方はおつけ下さい。」と言われて、とろろにお醤油を刺しました。(しないと何もかかってない。)

他の小鉢は私にはまあまあ塩味が強かったです。
矢場とんが出来ていたのでお土産に串カツ5本買いました。


名古屋からあちこち進出しているみたいですが、私の通るルートでは初めて。
夜、夫と次男と、韓国の石の板で焼き肉。端っこで矢場とんヒレかつ串も焼いて食べました。

久しぶりの赤味噌たれで美味しかったです。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルグ選帝侯領ハレ生まれ、グレート・ブリテン王国イングランドロンドン没

ヘンデルは床屋兼医師の父のもとに生まれました。
父は彼を法律家にしたいと考えていました。
ヘンデルは父の目を盗んで、屋根裏部屋でクラヴィコードを弾いていたそうです。

隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)

1697年父が亡くなり、経済的支援も無くしハレ大学で法律を学びます。同時にハレ大聖堂のオルガニストとしての1年契約を結びます。
1703年どちらも辞め、ハンブルクへ出てヴァイオリニストとして採用されます。
1704年借金の取り立てを、避けるために逃げたヴァイセンフェルスに代わってオペラを作曲すると20回も演奏される大成功を収めます。

1704年のリブレット「アルミーラ」

1706-1710年にはフェルディナンド大公の誘いを受けイタリアに行っています。
スカルラッティ、コレッリに会っています。
ここでオペラ「アグリッピーナ」を発表すると人気になり27回も演奏されています。

1710年ハノーファー選定公の宮廷楽長になります。

1710年25歳のヘンデル
しかし、ロンドンに渡りオペラを上演した所、大成功し、一度はハノーファーに帰りますが、またロンドンに出掛け帰りませんでした。
そうこうする内にハノーファー公が1714年イギリス王ジョージ一世
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃
として即位します。

王の随行員として「王宮の花火の音楽」を上演したりしています。

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)

ロンドンは投機熱が高まっていて、ヘンデルは「王室音楽アカデミー」の中心人物として、ヨーロッパ大陸に渡り、歌手と契約したり、プロデューサーのような仕事をしながらオベラを上演しています。

ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンシェイクスピアの本が紙屑として売られています。

アカデミーでは
シルバーチケットを貴族たちは購入し、21年間オペラをフリーパスで聴くことができたそうです。
結局9年後、1728年破綻します。

しかしヘンデルはすぐに「アカデミー」を建て直し、イタリアの歌手と契約し直しオペラを上演します。

「貴族オペラ」が設立されヘンデルと競合します。
1734年「貴族オペラ」が倒産するまでその関係は続きます。
その年ヘンデルは脳卒中を起こし、半身不随になりますが、アーへンで温泉治療を行い、奇跡的に復活します。

その後後世に残る名作を多産しています。
しかし、当時はオペラブームが去っていて大流行することはありませんでした。
そんな中オラトリオ「メサイア」

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。1741年9月6日
をダブリンで発表すると起死回生の大人気になります。
ロンドンではあまり流行りませんでしたが…。

1749年には「王宮の花火の音楽」
アーヘンの和約を祝賀する1749年の花火大会
を、上演。
1950年に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。
収益を全額寄付しました。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となりました。

その夏、ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。 

その後ロンドンに戻りますが、1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、左目失明者となります。間もなく右眼の視力も悪化します。

そのような中で『イェフタ』を完成させますが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなりました。
その後も演奏活動だけは続けていました。

1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けましたが、失敗。
1759年4月74歳で亡くなりました。

ヘンデルは浮き沈みはありますが、音楽だけでなくビジネスとして音楽興行を成功させることにも長けていました。
亡くなった後、現在の貨幣価値で2億円以上の蓄財があり、高額絵画や調度が残されていたそうです。


『愛すべき野獣』(1754年)
ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーのカリカチュア[。
ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにしました。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていました。
1日に6回も食事をしていた時もあり、「この愛すべき野獣」は紛れもなく「豚」〜〜〜。

1735年作曲のオペラ「アルチーナ」
アルチーナは魔法の島に住む魔女です。
魔力で男を誘惑して島で暮らさせますが、自分が飽きると男たちを獣の姿に変えてしまいます。 

島に住む動物たちは、皆もとアルチーナの恋人です。

アルチーナの現在の恋人はルッジェーロ。
ルッジェーロには婚約者がいましたが、今はアルチーナの魔力のとりこです。

その婚約者ブラダマンテは男装し、
ルッジェーロの家庭教師で賢者のメリッソと共に、ルッジェーロ救出のために魔法の島に乗り込みます。

メリッソの力でアルチーナの魔力から解放されたルッジェーロは、
ブラダマンテへの愛を思い出し、
彼らと共に島を逃げ出します。

今まで自分から男を捨てるばかりだったアルチーナは、
初めて自分が捨てられる立場になります。
肝心の魔力も、本気で愛してしまったルッジェーロには効かず、
恋人の心を取り戻すことはできません。

アルチーナは悲嘆にくれ、「Ah! mio cor」(ああ!我が心よ)を歌います。

ああ! 我が心よ、
お前はだまされたのだ
星よ、神々よ、愛の神よ!
裏切り者! こんなにもあなたを愛しているのに、
私を一人、涙の中に残してゆくの?
ああ神よ、置き去りにされるのですか、
ああ神よ、なぜ?



柳の歌

2024-05-25 21:00:00 | ロマン派
バラが終わったので剪定。
バラを切るだけで午前中使いました。

薔薇の花は苗を弱らせるので種を取らないのなら、切らないといけません。
四季咲きなので、切り戻しておけばまた咲きます。
ほとんど何もお手入れしませんが、選定だけはきっちりしないと、花が咲きません。

代わって、小さな鉢てすが、メキシコハコヤナギが咲いてきました。

この鉢、白い花だけだったはずですが、なぜかピンクの花も…。
ハコヤナギと言っても柳ではなく、ミソハギ科。
そしてどの資料を見ても耐寒性が無い、5度以下で枯れると書いてあります。
5度以下になって、葉もなくなり枯れてしまったかと思っていましたが、復活。
得した気分です。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813-1901年)フランス帝国タロ地区レ・ロンコーレ生まれ(現イタリア)、イタリア王国ミラノ没

ヴェルディの肖像(J.ボルデイーニ作)(1886年)
1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられます。

早速ミラノに行き話し合いを行いました。
しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結びませんでした。

そこでリコルディ
ジュリオ リコルディ(1840-1912年)楽譜出版リコルディ社の社長(1888年より)
は一計を案じ、ボーイト

アッリーゴ・ボーイト(1842-1918年)詩人、台本作家、音楽評論家
と共作で『シモン・ボッカネグラ』改訂版制作を提案しました。

大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演を行いました。

この公演はかつてとは打って変わって大盛況を得ました。
1879年、イギリスの雑誌『バニティ・フェア』に掲載されたヴェルディの肖像。
そして『オテロ』は動き始めましたが、なかなか順調に物事は進みませんでした。

リコルディとボーイトがサンターガタ
を訪問し台本を詰めました。

しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けます。

さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、

ワーグナー(1813-1883年)
「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き、ヴェルディは沈みました。

彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもありましたが、その才能は認めていました。

そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せませんでした。

それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかりました。

ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組みした。

特にヴェルディは登場人物「イアーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていきました。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成しました。

1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演しました。

スカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立ちました。

歌劇「オテロ」
ウィリアム シェークスピア(1564-1616年)イングランド王国ストラスフォード アポン エイボン生没

の、悲劇「オテロ」によります。

15世紀のキプロス
人々が勝利を待ちわびる中、イアーゴ
イヴェルディのオペラ「オテロ」でイアーゴを演じるフランス人バリトン、ヴィクトル・モーレル
は昇進したカッシオへの嫉妬を募らせています。
酒に弱いカッシオ

を酔わせて、暴力沙汰を起こさせます。
そこへトルコ艦隊に勝利したオテロ


オテロに扮したマリオ・デル・モナコ

オテロの帰還1799年
トーマス ストサード
が凱旋し、カッシオを罷免します。

イアーゴはオテロの愛妻デズデモーナ

デズデモーナ役ポーリン ヴィアルト。
に取りなしを頼めと助言。
庭で2人が話している所をオテロに見せ、不倫をしているように思わせます。
その後、デズデモーナがカッシオの復職を頼みますが、オテロは心中穏やかではなく、断ります。

イアーゴの妻はデズデモーナのハンカチをひらいます。イアーゴをそれを取り上げ、持ち去ります。

またしてもイアーゴにそそのかされ、カッシオの様子を遠くから見ています。
カッシオを友人と他の女性との恋を話していますが、遠くてよく聞こえないオテロはデズデモーナとの恋話しと誤解しています。

そのうち、イアーゴが仕込んだデズデモーナのハンカチを取り上げ、イアーゴをからかいますが、オテロはすっかりデズデモーナとの不倫の証拠を見たと確信してしまいます。

そしてイアーゴがカッシオを殺し、オテロはデズデモーナを殺すことにします。

イアーゴの策にのるオテロ

そのうち、使者が来てオテロのヴェネツィアへの帰還が決まり、後任はカッシオになったと告げます。

嫉妬に燃えるオテロはデズデモーナを殺します。

1803 年の劇オセロとデズデモーナ。第五幕第二場。

そこへ「カッシオがロデリーゴを殺した!」と声が聞こえてきます。
イアーゴに殺人を頼まれたロデリーゴは返り討ちにあったのです。

人々がオテロのもとへやってくるとデズデモーナが殺されているのを発見します。

イアーゴの妻が「夫がハンカチを取り上げ、仕組んだ。」と話し、オテロは絶望し、自らの身体に剣を刺し、デズデモーナに接吻を求めつつ絶命します。

デズデモーナがオテロに責められ、死を予感しながら歌う

「柳の歌」
The poor soul sat sighing by a sycamore tree,
哀れな娘はサカモアの木のそばに座り、ため息をつきました。

Sing all a green willow: 
歌って、みんな、緑の柳よ

Her hand on her bosom,her head on her knee,
胸に手を当て、頭を膝において

Sing willow,willow,willow: 
歌え、柳、柳、柳

The fresh streams ran by her,and murmur'd her moans; 
清い流れが、嘆きを低く呟く、彼女の傍を、

Sing willow,willow,willow; 
歌え、柳、柳、柳

Her salt tears fell from her,and soften'd the stones; 
塩辛い涙が滴り、石さえも柔らかにする

Sing willow,willow,willow;
歌え、柳、柳、柳

Sing all a green willow must be my garland. 
歌って、みんな、緑の柳は私の花輪よ

I'd called my love false love,but what did he say? 
恋人を不実だと私は呼んだの、そしたら彼はなんて言ったと思う?

Sing willow,willow willow,
歌え、柳、柳、柳

If I court moe women,you'll couch with moe men!
俺が女たちと遊ぶなら、お前もたくさんの男たちと寝ればいい!





シュトラウスと競合

2024-05-24 21:22:00 | ロマン派
萩原天神と



線路の間の道を少し行くと「いつもの処」があります。
反対側は

萩原天神駅
踏切の側には

ナツグミの木。
少し渋いですが食べられます。
食べたこと無いですが…
金重さんが「たくさん食べるとお腹壊すのよ。」
たくさん食べたことあるのかな?
アキグミというのもあるそう。
アキグミは、渋みが強いので生食できるけど食べずにお酒に漬けて、果実酒にするそうです。

さくらんぼみたいにかわいくて、美味しそうです。

一個くらい試させて貰えばよかった。  食い意地のはった私です。
いや、好奇心…かも。

ヨーゼフ ランナー(1781-1843年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


シュトラウス一家に先立ってウィンナ・ワルツの様式を確立させたため、「ワルツの始祖」と呼ばれることがあります。  

そして後にはヨハン・シュトラウス1世と対決しつつワルツを磨き上げていきました(ワルツ合戦)。

ワルツ、ポルカ、ギャロップ、レントラーなど400曲以上の舞曲などを作曲しました。

特に『シュタイアーマルク風舞曲』と『シェーンブルンの人びと』は、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』にそのモチーフが採り入れられています。ショパンやスメタナ、リヒャルト・シュトラウスなどの作品にも影響を与えました。

ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートにおいては、シュトラウス一族でない作曲家としては最も頻繁にその作品がプログラム上に取り入れられています。

ランナーは手袋職人の家に生まれました。

ランナーの生家

父親がよく行き、マイケル・ペイマーが演奏していた近くのバーで、彼のヴァイオリンを聴いて、音楽の道を志しました。

若いランナーはヴァイオリンを弾きたがったので、父は彼を教師として迎えました。

ペイマーはすぐに彼を自分のバンドに加えました。

当初、父親は息子がヴァイオリンを演奏することを不快な目で見ていましたが、フランスとの戦争で負傷し帰国し、国の経済的困難により破産したときも、息子の邪魔をすることはありませんでした。

18 歳でランナーは独立し、カールとヤン・ドラハネクとともに自身のトリオ (ヴァイオリン 2 本とギター ) を設立しました。

彼らは1819 年にウィーンのプラーター公園で最初の公演を行いました。年末に、ランナー18歳は別のメンバーである15歳のヨハン・シュトラウス一世を受け入れました。

2人はこれにより自分達のワルツを作曲し始めました。


1835年ヨハン シュトラウス一世

彼は徐々にバンドの規模を拡大し続け、1824 年にはすでに 12 人のメンバーを擁していました。その後、彼はバンドをいくつかの団体に分割し、夜通し彼らを率いることはなくなり、彼らの間を行き来しました。

人々は「足を躍らせ、しかも目には少し涙をにじませる」と言いました。

当時の音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックは、ランナーの音楽を「スミレの香りのするメロディー」と褒め称えています。

ランナーのワルツはたちまち広く認められ、次々と出版されるようになりました。

エドゥアルト・ヤーコプは、「ランナーによってワルツにもロマン時代が始まった」と評しています。

彼の人気はウィーンで急速に高まりました。

1829「宮廷レドゥーテンザール音楽指揮者」に就任しました。

ランナーは愛すべき人物でしたが、汗をかいたとゾフィー大公妃


の面前で燕尾服を脱いだり、酔っ払って指揮台に乗ろうとするなど、礼儀欠いたことから、すぐに罷免されました。

やがて楽団が大きくなり過ぎ、半分に割り、片方をシュトラウスに指揮させました。

すると人々がシュトラウスの方に集まり、二人の間にヒビが入るようになりました。


ランナーとシュトラウスの銅像。右がランナー。

口論があったとか噂されていますがはっきりとはわかりません。

ただ競合関係になり、そのことでワルツと音楽は発展したのでした。

彼は1843年発疹チフスで亡くなりました。


ランナーの葬送行列。1843年


ウィーン中央墓地にあるランナーの墓。

ランナーの主な貢献は、ワルツの 8 小節を繰り返すテンプレート (当時のダンス ワルツの典型) を放棄し、互いに流れ込むさまざまなモチーフを作曲し始めたことです。

シュトラウスは海外にも進出しましたが、ランナーはほとんどウィーンの中で演奏したのであまり外国では知られていません、しかし、今だに人気の曲が多く残っています。

1835年作曲した「蒸気ワルツ」op94






オルガン試奏のための曲

2024-05-23 21:00:00 | バロック
水曜日萩原天神近くの「いつもの処」でヴィオラの金重さんと6月9日の本番の合わせ練習をしようとやってきました。
町家「いつもの処」を金重さんが、オーナーさんから借りて月2回フリースペースとしても開けています。

牧野の自宅から、電車徒歩で1時間50分。
御堂筋線の終点中百舌鳥駅まで行って、南海高野線に、南海に乗るのはこのときくらいです。

着いたら、開いてない。
あれ?間違えたかと思って手帳を見たら、ちゃんと11:00と書いています。
「何時頃来る?」と聞かれて「11:00」と答えたのを覚えています。
少し待って、やはり来ないので電話してみました。

「今日練習でした?」と聞いたら「そうやよ。今ちょっと家に帰っているだけ、すぐに行くわ。」
ちょっと帰っているってとういうこと?
約束の時間だよね。

中に入ってしばらく練習していたら、メッセンジャーで

「いま、ホットビスケット焼いています。
いつも、母のところから帰るのが10:30頃で鍵をいれています。
皆さん集まる時間はバラバラですが、〇〇さんがだいたい開けてくれています。
私はケーキを焼きながら準備して12:00〜12:30ぐらいにはいっています」

あれれ?それじゃ約束の時に言って欲しいけれど、あ、そうか金重さんの中ではちゃんと時間の約束していないことになっているから、無理だ。

口約束では、今更言ってたかどうかわからないよね。

追伸が来ました。
「12:00には着けると思います。」

楽譜もっと持ってくればよかった。
仕方ないなぁ。
と、ブログの下書きしています。

無事12:00〜合流。合わせ練習できました。
曲はホフマイスターのフルートとヴィオラの二重奏。 

お昼ご飯を食べてもう一度合わせていると、河上さんが来て、フルート二重奏の合わせ。 

来ると聞いていなかったのになぜか譜面持ってました。他の人も来るかもしれないと今朝突っ込んでいました。
河上さんから、6月11日牧野の「聴き合い会」でやろうとリクエストされました。
ファッシネイションとか、バルカローレなど小品のアラカルト。
変わったアレンジでちょっとおしゃれです。

後は6月の堺市都市緑化センターで金重さんと河上さんも演奏するとかで、昭和のヒットソングをギターと、ヴィオラで。

いい感じ。
金重さんが買っていたアールグレイ煎茶を飲みながらほっこり。

金重さん作のクッキーパン。

小麦粉とホイップクリーム、チョコチップでできるそうです。
「簡単なんよ。」…それにしても手間がかかるでしょう。すごいです。
焼き立て美味しかった!

金重さんに編物を習っているNさんも来ていて、アンサンブルをきいているうちに、完成しました。
ハート型。

左下がお手本。
私も作ってみたいけれど、目が辛くて今はできません。

Nさんもリコーダーを取り出し、最後にみんなでバッハのトッカータを合奏して帰りました。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

バッハはオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していました。
聴覚に優れていて、教会堂やホールの音響効果を精緻に判別できたそうです。

そのため、各地でオルガンが新造されたり改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスと併せて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられています。

『故人略伝』が伝える有名な逸話として、1717年、ドレスデンでフランスの神童と謳われたルイ・マルシャンと対戦することになった際、マルシャンはバッハの余りに卓越した演奏に恐れをなして対戦当日に逃げ出し、バッハの不戦勝となったといわれています。

バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた「コラール編曲」と、コラールに基づかない「自由作品」(前奏曲、トッカータやフーガなど)の2つに分類されます。

30曲余りの自由作品と、コラール前奏曲の4つの集成(オルガン小曲集を含む)、いくつかのコラール変奏曲が残されています。

トッカータ(伊: toccata)は、主に鍵盤楽器による、速いパッセージや細かな音形の変化などを伴った即興的な楽曲で、技巧的な表現が特徴的です。

toccataは動詞toccare(触れる)に由来します。

オルガンやチェンバロの調子、調律を見るための試し弾きといった意味が由来です。最初期の鍵盤用トッカータは16世紀中ごろに北イタリアで現れました。
オルガンのためのトッカータBWV538 Ddur


成功した?音楽家

2024-05-22 21:01:00 | ロマン派
火曜日は、次男の脚の検診。

CTとレントゲンを撮って、診てもらいました。
やはり、3ヶ月目でチタンを抜くと言われました。
思い切って疑問をぶつけました。
「1年と言われていたのに、3ヶ月でいいのでしょうか?」

「今日見たらチタンは抜けていないので、着けていてもいいですが、もし抜けて来たりして、痛みや炎症が出るようでしたら、抜きましょう。
ということで、また様子を見ることになりました。

やっぱり、しっかりついていないといけないところ、なんとかついていますが、ゆるゆるみたいです。
なので、早く取ってしまいたかったみたいです。

まあ、なんとか順調に回復して来ているようなので、信じて様子を見ながら回復を待ちましょう。

私は昨日治療してもらった歯が痛く、電話したら「午後から来てください。」ということで、今日は病院のはしごでした。

こちらも、「歯があたったら痛い。」と言うと、やり直す程ではないと5日間の抗生剤と痛み止めで「様子を見てください。」ということで帰ってきました。

痛み止めが効くまで、フルートを吹く気にもなれず、寝てました。
夕方、収まってきて3時間程練習。

大曲の本番が3曲ほどと、ヴィオラとの二重奏、初参加のオケのベートーヴェン2曲、それともう一つのオケの慣れてないピッコロ3曲が気になって仕方ありませんが、3時間では一度ずつ通すこともできません。

目もやばいし、今年になってからいろいろ身体問題で足を引っ張られていますが、なってしまったことは仕方ありません。
手を打ちながら、病いと共生、付き合うしかありませんもっとも。

作曲家でも、病まなかった人、傷つかなかった人は一人もいません。
生前に音楽家として成功したからといって、なんでも思い通りになったなんてこともありません。

そう思えば生きていればあたりまえのことかも。

生きているうちに大成功した作曲家と言えば、

ヨハン・シュトラウス2世( 1825 - 1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


最も稼いだ作曲家と言われています。
子どもの頃は、厳格な父に罵詈雑言を浴びせられ、暴力を振るわれていました。
子どもの頃のことを聞いた親友に「それは辛い思い出だ。」と答えたそうです。
ピアノを父から学ばされました。
ヴァイオリンをやりたかったヨハンは8歳の時にピアノを教えで稼いたお金でようやくヴァイオリンを買いました。

鏡の前に立ってこっそりヴァイオリンの練習をしていたところ、父に見つかってしまいます。
父は激怒してヨハンの手からヴァイオリンを取り上げ、叩き壊してしまいした。

ヨハン シュトラウス一世(1838-1916年)
そんな父はその頃愛人を作り、生活費も入れず、その愛人のもとで暮らすようになってしまいます。
母アンナ 
マリア・アンナ(1801-1870年)
は対抗心からか、ヨハンにすぐにヴァイオリンを買い与えています。

ヨハン17歳
ヨハンはウィーンのダンス音楽の覇権を掌握していました。
息子が挑戦してきたことに父は強い危機感を覚えました。
それだけでなく、息子のデビューを妨害すべく、父はウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員には息子に味方することを禁じ、さらには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとすらしました。

ヨハンも負けじと対抗しました。
まだ父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピールし、そして埋もれた有能な若手を中心とした音楽家の発掘に努め、さらに提灯記事を書いてくれる新聞社とも契約を結びました。

当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければなりませんでしたが、ヨハンはまだ18歳。

そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです。」と涙ながらに訴えました。
これには頑固な役人も首を縦に振りました。
おまけに、家族を助ける青年音楽家という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれました。
そんなわけでデビューコンサートは大成功。
『Der Wanderer』誌上でフランツ・ヴィーストは、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉を残します。

しかし、そのコンサートの最後を飾ったのは父の曲でした。
宮廷音楽家にまでなっていた父を無視することはできませんでした。
そしてその年のうちにアンナは夫に、離縁状を叩きつけました。

1828年父が亡くなると、ウィーンの仕事がすべてヨハンに集中するようになります。
200人を超えるヨハン・シュトラウス楽団も経営することになりますが、革命運動に関わったこともあり、宮廷音楽家としての地位は奪われてしまいました。

その後、何度も皇帝に曲を献呈し、宮廷との関係を修復しようとしましたが、それは何年もかかり、1863年まで就任できませんでした。

過労になるほど働き、弟たちに音楽の仕事に誘います。
結局3人の弟たちは全員音楽で食べていくようになります。

ロシアでは、大盛況で大金が入ります。
しかし、ヨーゼフは若くして亡くなります。

ヨーゼフ(1827-1870年)
落込み、書けなくなりますが、妻に勧められてオペレッタを書くと、またこれが流行ります。

アメリカボストン公演では二万人の演奏者に10万人の聴衆100人の副指揮者で行われ、10万ドルが払われました。

ボストン世界平和記念祭

歳を取ってもヨハンは、黒々とした髪、ゆたかな髭、若々しい肌、伸びた背筋を保っていました。

そのためヨハンはしばしば「永遠の若者」と呼ばれましたが、髪の黒さは染め粉、髭はポマード、肌は紅、背筋は燕尾服の下のコルセットのおかげでした。

人々の前では元気にふるまいながらも、家に帰れば疲れ果てた様子でソファーに倒れこむような状態でした。
老いは確実にヨハンの体を蝕んでいたました。

1899年の5月下旬、劇場で自作曲の指揮をしていたヨハンはひどい悪寒をおぼえ、数日後に無理を押してサイン会を開いた後、その晩から寝込んでしまいました。肺炎でした。

書きかけのバレエがよほど気になっていたようで、作業を中断せざるをえない悔しさを幾度となく口にし、肺炎に侵された体をむりやり起こし、作曲の筆をとろうとしました。

6月3日、前の晩から付きっきりで看病していた妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら……」と言われたヨハンは、微笑んで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」と答えて亡くなりました。

3人目の妻アデーレ(1887 - 1899年)と
初めの妻ヘンリエッテ(1862 - 1878年)
歌手時代のヘンリエッテ
は11歳年上で1878年に亡くなります。
2番の妻アンゲリカ


は(1878 - 1882年)20歳、ヨハン47歳。
彼女はすぐに「老いぼれ!」と罵るようになり、浮気をし、5年目にウィーン劇場の若い音楽監督と駆け落ちしました。
アデーレは献身的でした。
どの妻とも子どもは無くアデーレの連れ子アリーチェをかわいがったと言われています。

「ウィーン気質」ヨハンシュトラウス2世1899年初演。これは、最初から既成の舞踏曲を使う企画として進められ、途中でシュトラウスが亡くなったため友人のアドルフ・ミュラー2世が仕上げたものです。