火曜日は、次男の脚の検診。
CTとレントゲンを撮って、診てもらいました。
やはり、3ヶ月目でチタンを抜くと言われました。
思い切って疑問をぶつけました。
「1年と言われていたのに、3ヶ月でいいのでしょうか?」
「今日見たらチタンは抜けていないので、着けていてもいいですが、もし抜けて来たりして、痛みや炎症が出るようでしたら、抜きましょう。」
ということで、また様子を見ることになりました。
やっぱり、しっかりついていないといけないところ、なんとかついていますが、ゆるゆるみたいです。
なので、早く取ってしまいたかったみたいです。
まあ、なんとか順調に回復して来ているようなので、信じて様子を見ながら回復を待ちましょう。
私は昨日治療してもらった歯が痛く、電話したら「午後から来てください。」ということで、今日は病院のはしごでした。
こちらも、「歯があたったら痛い。」と言うと、やり直す程ではないと5日間の抗生剤と痛み止めで「様子を見てください。」ということで帰ってきました。
痛み止めが効くまで、フルートを吹く気にもなれず、寝てました。
夕方、収まってきて3時間程練習。
大曲の本番が3曲ほどと、ヴィオラとの二重奏、初参加のオケのベートーヴェン2曲、それともう一つのオケの慣れてないピッコロ3曲が気になって仕方ありませんが、3時間では一度ずつ通すこともできません。
目もやばいし、今年になってからいろいろ身体問題で足を引っ張られていますが、なってしまったことは仕方ありません。
手を打ちながら、病いと共生、付き合うしかありませんもっとも。
作曲家でも、病まなかった人、傷つかなかった人は一人もいません。
生前に音楽家として成功したからといって、なんでも思い通りになったなんてこともありません。
そう思えば生きていればあたりまえのことかも。
生きているうちに大成功した作曲家と言えば、
ヨハン・シュトラウス2世( 1825 - 1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
最も稼いだ作曲家と言われています。
子どもの頃は、厳格な父に罵詈雑言を浴びせられ、暴力を振るわれていました。
子どもの頃のことを聞いた親友に「それは辛い思い出だ。」と答えたそうです。
ピアノを父から学ばされました。
ヴァイオリンをやりたかったヨハンは8歳の時にピアノを教えで稼いたお金でようやくヴァイオリンを買いました。
鏡の前に立ってこっそりヴァイオリンの練習をしていたところ、父に見つかってしまいます。
父は激怒してヨハンの手からヴァイオリンを取り上げ、叩き壊してしまいした。
ヨハン シュトラウス一世(1838-1916年) そんな父はその頃愛人を作り、生活費も入れず、その愛人のもとで暮らすようになってしまいます。
母アンナ
マリア・アンナ(1801-1870年)
は対抗心からか、ヨハンにすぐにヴァイオリンを買い与えています。
ヨハン17歳ヨハンはウィーンのダンス音楽の覇権を掌握していました。
息子が挑戦してきたことに父は強い危機感を覚えました。
それだけでなく、息子のデビューを妨害すべく、父はウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員には息子に味方することを禁じ、さらには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとすらしました。
ヨハンも負けじと対抗しました。
まだ父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピールし、そして埋もれた有能な若手を中心とした音楽家の発掘に努め、さらに提灯記事を書いてくれる新聞社とも契約を結びました。
当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければなりませんでしたが、ヨハンはまだ18歳。
そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです。」と涙ながらに訴えました。
これには頑固な役人も首を縦に振りました。
おまけに、家族を助ける青年音楽家という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれました。
そんなわけでデビューコンサートは大成功。
『Der Wanderer』誌上でフランツ・ヴィーストは、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉を残します。
しかし、そのコンサートの最後を飾ったのは父の曲でした。
宮廷音楽家にまでなっていた父を無視することはできませんでした。
そしてその年のうちにアンナは夫に、離縁状を叩きつけました。
1828年父が亡くなると、ウィーンの仕事がすべてヨハンに集中するようになります。
200人を超えるヨハン・シュトラウス楽団も経営することになりますが、革命運動に関わったこともあり、宮廷音楽家としての地位は奪われてしまいました。
その後、何度も皇帝に曲を献呈し、宮廷との関係を修復しようとしましたが、それは何年もかかり、1863年まで就任できませんでした。
過労になるほど働き、弟たちに音楽の仕事に誘います。
結局3人の弟たちは全員音楽で食べていくようになります。
ロシアでは、大盛況で大金が入ります。
しかし、ヨーゼフは若くして亡くなります。
ヨーゼフ(1827-1870年) 落込み、書けなくなりますが、妻に勧められてオペレッタを書くと、またこれが流行ります。
アメリカボストン公演では二万人の演奏者に10万人の聴衆100人の副指揮者で行われ、10万ドルが払われました。
ボストン世界平和記念祭 歳を取ってもヨハンは、黒々とした髪、ゆたかな髭、若々しい肌、伸びた背筋を保っていました。
そのためヨハンはしばしば「永遠の若者」と呼ばれましたが、髪の黒さは染め粉、髭はポマード、肌は紅、背筋は燕尾服の下のコルセットのおかげでした。
人々の前では元気にふるまいながらも、家に帰れば疲れ果てた様子でソファーに倒れこむような状態でした。
老いは確実にヨハンの体を蝕んでいたました。
1899年の5月下旬、劇場で自作曲の指揮をしていたヨハンはひどい悪寒をおぼえ、数日後に無理を押してサイン会を開いた後、その晩から寝込んでしまいました。肺炎でした。
書きかけのバレエがよほど気になっていたようで、作業を中断せざるをえない悔しさを幾度となく口にし、肺炎に侵された体をむりやり起こし、作曲の筆をとろうとしました。
6月3日、前の晩から付きっきりで看病していた妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら……」と言われたヨハンは、微笑んで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」と答えて亡くなりました。
3人目の妻アデーレ(1887 - 1899年)と 初めの妻ヘンリエッテ(1862 - 1878年)
歌手時代のヘンリエッテ
は11歳年上で1878年に亡くなります。
2番の妻アンゲリカ
は(1878 - 1882年)20歳、ヨハン47歳。 彼女はすぐに「老いぼれ!」と罵るようになり、浮気をし、5年目にウィーン劇場の若い音楽監督と駆け落ちしました。
アデーレは献身的でした。
どの妻とも子どもは無くアデーレの連れ子アリーチェをかわいがったと言われています。
「ウィーン気質」ヨハンシュトラウス2世1899年初演。これは、最初から既成の舞踏曲を使う企画として進められ、途中でシュトラウスが亡くなったため友人のアドルフ・ミュラー2世が仕上げたものです。