メキシカン・セージは、名前からすると、ハーブのようですが、香りません。サルビア属シソ科はこういうのが多いみたい。花の色と質感が特徴的で、アメジストセージ、ベルベットセージなどとも呼ばれているそうです。
今日は、11月3日の手と手ジョイフルコンサートの最終練習。
午前中、生徒さんとピアノのSさんと伴奏合わせ。午後からは、ピアノのKさん、フルートのKさんとトリオの練習。
生徒さんたちも今回は、がんばりました。なかなか良い演奏ができてきています。
本番が楽しみです。
スーパー買った巻き寿司とコロッケを食べて、1時からのトリオ練習の前に、ブルチアルディとドルメルスマンの曲集をどこまでやれるか初見大会をしようと持ち込みましたが、どれも1曲15分近い曲ばかり、結局、30分ほどしか取れず、「アイーダ」と「ローエングリン」をやったところで、Kさんたち到着。
結婚行進曲は、耳なじみがあって、バリエーションも聴きやすい。おもしろいっ。「アイーダもいいけど、知らない人が多いかな?
続きは2日。
きょうは、「リギの思い出」に、ベルを入れてもらうために、ピアノのSさんにも残ってもらいました。
ドップラーがスイス旅行をしたときの思い出を元に作った曲。
アルトフルートで吹く旋律は、スイスの角笛のイメージ。フルートは牧場でさえずる小鳥、ベルは牛の首から下がっているカウベルのようなイメージです。
Sさんは譜めくりをしながら、ベルを鳴らしてくれます。
4人が揃うと、やっぱりいいです。
絵画の最後の一筆が入って完成した感があります。
楽しい演奏会になりそうです。
出張ばかりしている夫が、台湾でもらってきました。街のレストランで食べていたら、いきなりそこで結婚式が始まって、一緒に拍手していたら、頂いたそうです。結婚式のマシュマロ。
夫が結婚式に出会っているとき、私は、梅田のササヤさんで、ブリチアルディの「ローエングリン ファンタジー」を手に入れました。
ローエングリンと言えば、そう。「結婚行進曲」!
「食べて良い?」と言う次男の餌食になる前に、せっかくなので、一緒に撮りました。
もって帰るときにトランクの中でちょっとつぶれてしまいましたが、かわいいでしょ。
結婚行進曲に祝われて結婚した物語の中のエルザと白鳥の騎士は、「素性を問うてはならない」という誓いを破ったエルザの、問いで、破られてしまいます。
幸福に暮らしました、めでたしめでたしと終わるハッピーエンドも考えたワーグナーは、結局批判にもめげずに、騎士が去り、エルザは倒れて息絶えるという悲劇を選びました。
「問い」を立てるというのは、アダムとイブの時代から、神への反抗、神からの自立。
科学の始まりは、楽園から追われ、時には死をもってつぐなうべきことらしい。
不吉な結末にもかかわらず、世界中で、この曲で結婚するカップルが後を絶たないのは、本当にめでたいことです。
まじないや、迷信、神が支配する世界が、終わりつつある証拠のように感じます。
宗教のことではありません。
宗教は本来は人を支配したりはしません。人を幸福にするために発明されたと思っています。発言したために殺されるなんて、宗教ではありません。
しかし、今でも、意見を持っただけで殺され、宗教の名を借りて殺す人々は存在しています。
ワーグナーは、民主化運動に参加したこともありますが、国王の庇護を受け、死ぬまで音楽界に君臨しました。後には、ヒトラーに「ドイツの国土のために剣をとれ!」と言うこの楽劇の中の台詞が利用されました。
宗教や音楽を、幸せな結婚を祈ることに利用する世界が続いて欲しいと願わないではいられません。
実家に植わっていたので、「サザンカ?椿?」と母に聞くと、「お茶の木。おばあちゃんが持ってきたんやわ。」って祖母が亡くなって、16年。私が知らない内にも、そこにあって育っていたのでした。
お茶の木は、ツバキ科。中国種と、インド、アッサム種に大別されるそうですが、元は同じお茶の木で、そのまま乾燥させると、緑茶、半発酵させると烏龍茶、完全に発酵させると紅茶になるそうです。
そのうち、葉を摘んで、お茶にして飲んでみたい。おばあちゃんのこと、思い出しながら。
発表会まで後1週間。
ヘンデルのGdurのソナタと格闘中のEさん。
リズムが苦手。特に、弱拍が絡むと、弱い。
長いロングトーンの間、数えていますが、次の入りがわからなくなってしまいます。
原因は、練習中正確にリズムをとらえようと、4分の4拍子を、8分音符一拍で数えて、それが中々大きなリズムに戻そうとしても戻らない。
2分音符なら、1.2.3.4。
2小節も、のばそうものなら1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.と、とってしまうので、途中でわからなくなってしまいます。
理屈ではわかっているのですが、むずかしいところや、緊張したりすると、また戻ってしまいます。
今日は、いろいろ対処法を考えましたが、後1週間。理屈を言っても、とても間に合いません。
手で4拍子の指揮を振ってもらい、口で歌うのがいいかと思いやって見ましたが、歌を歌っているうちはいいですが、笛を持つと、手を振れないので、やっぱり元に戻ってしまいます。
それではヨシッと、笛を吹きながら踊ってもらうことにしました。
スクエアーダンスは、四角の頂点を一歩づつ足を進めて揃えてとやりますが、ややこしくすると、またわからなくなるので、左右だけにして、右一歩、揃え、左一歩、揃え、右一歩、揃え、左一歩、揃え。で、4拍。イット、ニィト、サント、シィト。
揃える方が弱拍になるので、アップビートと、ダウンビートの違いが出ていいのです。
ヘンデルの2楽章をこれで、一緒にやってみると、かなりきつい。「しんどなってきたわ。先生。」と休符のときにいうので、「ダイエットになるよ、ダイエット!」と叫び返して。何とか、最後まで。
これでやると、問題の箇所だけでなく、全ての音符が整理されて、キャラクターがはっきりしてきます。
「おもしろくなってきたわ。」
「そうそう、ヘンデルの曲は、もともと踊りのリズムが多いから。楽しいでしょ。」
解決の希望が見えてきました。あと一週間、がんばろう!
土曜日、ボタニカルアートの展覧会に行ってきました。
母の友人が出展されていて、昨年も行ったのですが、今回も母に誘われました。
先生以外は全て門下の生徒さんの作品です。
ボタニカルアートは、薬草や毒草など、植物を見分けるために、中国やエジプトではじまったといわれる絵画のジャンルで、特に、19世紀イギリスで流行して広まったと言われています。
鉛筆で縁取りし、透明水彩絵の具で彩色されます。
このハイビスカスは、母の友人、86歳のYさんの絵です。
80歳を過ぎたころに、思い立って始められたそうです。
会場で出会って、ランチを一緒に頂きました。
「私はね、へたくそなんだけどね。どこへ行っても最高齢だから、みんなに、珍しがられるの。ウフフッ。」
「こんなのね、いまさら描いてもうまくならないんだけどね。」
「そんなこと。それより90歳になったら、個展をひらいてくださいよ。」と、私が言うと、「いや、じつはね。これより、俳画をながくやっていてね。もう、何千点もあるの。」
「じゃあ、俳画展ですね。」
「俳画ってねえ、おもしろいのよ。俳句を自分で考えて、それに合った絵を描くんです。でもね。ルールが一つだけあって、俳句の中に使っている言葉そのものを絵に使ってはいけないっていうのよ。だからね、『もみじ』って言葉を使ったら、もみじを使わずに、秋らしい雰囲気の絵を描く。これが難しいの。」
あくなき、美への追求。86歳のパワーとエネルギーに圧倒されてしまいました。
90歳の個展。ぜひ見てみたい!
長男がバイクを買いました。京田辺の祖父母の家に住み、アルバイトで繋ぐ日々。
お金を貯めて、未成年なので親の許可がないと買えないからと頼まれてバイク店に。
「保険は、任意保険で、対人、対物の無限保障です。21歳までは、保険料は高いですが、皆さん入っておられます。」
「いらんのと違う?」と言う息子に、「絶対にだめ。」
「ヘルメットは後で買います。」というのも、「だめ。今買って。それが許可する条件。」
なんだか急にドキドキしてきました。
何かあったらどうしよう?止めても聞かないし。もう良いっていっちゃったし。
20代以下が死亡事故が一番多いってことなのに。
帰りの車の中で、今更ながら安全運転を説教していると、
「原付なんか大したこと無いよ。」
そのお気楽さが、また不安。
赦しておいて、文句言うなんて最低。と思いながらも、湧き上がってきた心配をどうにもできない。
本当に、親ってバカ。
このかぼちゃはハープのTさんに頂きました。でかいです。テレビのリモコンが小さく見えます。「なんていうかぼちゃ?」と聴くと「知らない。」
調べてみると、「雪化粧」と言う品種らしいです。甘いみたい。
「冷凍して食べるといいよ。」食べ方まで教えてもらって帰りました。ありがたいです。
今日はヘルマンハープのIさん、Tさんと打ち合せ。
引越した家を、初お披露目。昨夜、山ほどリビングにあった。片付かない荷物を、とりあえず2階の押入れに移動。練習できるスペースを何とか確保して、お招きしました。
ヘルマンハープは、制約の多い楽器なので、一緒に演奏するためには楽譜を作らないていけません。
パッヘルベルの「カノン」を単純化して、4小節5パターンの追いかけっこに作り直してみました。音域も2オクターブと、L版3オクターブの間に押し込みます。フルートも上げたり下げたり。
モーツアルトの「恋の悩み知る君は」は、ハープが伴奏を弾くのが普通ですが、消音機能がないので、アルペジオを早く弾いてみると音が混じって和音がにごってしまいます。音を抜いて弾いてみると、今度はダラーンとした感じ。
フルートが伴奏のアルペジオを吹くことになりました。ピアノ譜を整理して、単旋律の伴奏に書き直し、Bdurの原曲を、ハープの音域がはまるCdurで演奏してみましたが、ぴんと来ない。あれこれ試して、結局Gdurで演奏することにしました。
こうなると、移調してあがりすぎた音をオクターブ下げたり、進行を変えたりハープに合う音域に移動しないといけないので、単純に移調してOKというわけには行きません。
朝からお弁当持参で集まって、あっという間に3時過ぎ。
ちょっと面倒ですが、楽しみには苦労がつきもの。いや、3人でやっていると、これもまた楽しい。もうすぐできあがります。
午前中、フルートのKさん、ピアノのKさんと合わせ。
フルートの他に、ピッコロや、アルト、バスフルートを使います。
私はアルト初デビューなので、いつもよりドキドキ、ワクワクしています。
低音を担当するなんて、フルートだけをやっているとほとんどできない体験なので、それだけでも毎回楽しいです。
直管で、歌口も少し大きくてアンブシャをフルートよりもボウッとさせ、より身体を使って演奏する感じです。
その分唇を締めなくても、音がでやすいので、フルートに持ち替えると、身体が脱力することを覚えて、音が伸びる感じがします。
こうしなければ、音が出ないと知らず知らずに思い込んでいたことにも気がつかされます。
いろんな角度からアプローチしているつもりでしたが、他の楽器を演奏することで、得られることは、思ったより大きいし、やってみないことにはわからない。
バスや、ピッコロも演奏してくれるフルートのKさんは、バスや、ピッコロも担当してくれるので、どんな世界を知っているのだろう?と考えずにはいられません。
本当におもしろい。3日が楽しみです。
あちこち走って帰ってきたら、金木犀のドアー飾りがついていました。
秋も深まってきましたが、気温の高い日が続きます。
10月から転居したために、異動した児童会は、自宅から3キロ近く離れていて、通うのが大変。しかも坂。車は禁止。自転車で通うのが、つらくなってきました。
子どもたちは、どんぐりでままごとしたり、すすきの穂を振り回して叱られたりしています。子どもたちといると、ほとんど屋外で過ごし、季節を抱きしめる感じがします。走ったり、転んだり、土を触ったり、日光に照らされたり、雨に降られたり。
当たり前のことですが、大人だけいると、移動する以外は部屋の中、移動も電車や車でほとんど景色を見る機会もありません。
どの学校に行っても。土があり、植物があり、ビオトープがあります。
土地や、家屋、道路。みんな持ち主が決まっていますが、その人たちは、売ったり買ったり、貸したりする時か、所有しているために管理するための看板をつけたり、ちょっと掃除をする時だけそれを持っていて、
小さな路地のすみにどんな草がさいているか?田んぼの土手、小さな池にどんな生物がいるか?電信柱の何番目に傷があるとか。知っているのは子どもたちで、町にあるいろんなものを思う存分使い尽くしていて、町や季節を本当に持っているのは、子どもたちではないか?と思うときがあります。
人は所有しようとする。しかし、それよりも、重要なことは「こうありたい。」という
「ありかた」なのだ。とフロムは言っています。
それは、お金や、地位や、名誉を持っても、安心になるばかりか、むしろ、いつかなくなるかもしれないという不安がより増すばかりで、満足するということがない。
それよりも、いま親切であったり、謙虚であったり、貢献する自分であることを追及するほうが、幸せになれる。
子どもたちを見ていると、そんなことを思ったりします。
ミニバラ フォーエバー社のアンチベスです。ピアノのSさんの夫が育てています。ミニバラと思えない存在感と気品です。
今朝はボーンズ オブ ライフ。
苦手なことに取り組む時、何をつぶやきんながら、しますか?
「いややなぁ。」
それとも
「おもしろい」
「おもしろい」とつぶやかない限り、学びの効率は下がります。
それは、そういいながら学べないなら、学ぶことをあきらめた方が良いくらい。なぜなら、そのストレスは、自分を苦しませ、痛ませ、最後には、命をうばうかもしれません。
そして、その苦しみは見ている周りの人、家族や友人を巻き込み、心も痛ませます。
あらゆる教師は生徒の幸福を願って教えるものです。
「学ぶ」時には、ストレスはありますが、そのストレスを、教師が取り除くことはできません。「いややなあ。」と感じることを選ぶのも、「おもしろい。」と感じることを選ぶのも自分です。
100%自分の責任。
教育は、生きていくための選択肢を増やすことであって、自由を増やすために受けるものです。
学ぶことも、学ばないことも今の日本では赦されています。
学びの瞬間にも、自由が保障されています。
我慢して、不自由な状態で学んでいるとしたら、不自由になる学習を日々重ねているようなものです。
それぐらいなら、学ぶのをあきらめた方が、幸福に生きられます。
「学ぶ」ことは、将来のために今をあきらめることではありません。
そのこと自体が、「喜び」ととらえる人々は大勢いて、決して特別なことでは無い。誰でも、そうとらえることができるのです。
自分を振り返ってみれば、「学ぶ」ことは、我慢であり、将来のためにするもの。
と言うとらえ方をしてきたことが、わかります。
大嫌いな数学。丸暗記した英単語。単位を落とさないため、将来のため、いやいや何とか乗り切った。
でも、ある時、塾に行って、みんなと同じ公式で、いくつもいくつも問題を解いていると、ある瞬間から、大嫌いなはずの数学が楽しくなった。
大嫌いなはずの数学に楽しみ、喜びがあったことを発見しました。
しかし、せっかく得た喜びがなぜ起きたのか?塾と学校の何が違ったのか?
そういうことを考えなかったので、塾が終わったら、自分にその喜びを保障することができなかった。
数学は苦行で、ギリギリの及第点を得るだけの教科に戻り、そうやって学ぶことが自分にとっては自然なことで、苦行の方が当たり前。というとらえ方にしがみついたまま、私の数学の分野での成長は学業期が終わるとともに、終わってしまった。
そういう自分の「学び」のとらえ方を打破しない限り、どんな分野で取り組んでも、ギリギリ及第点の成長しか見込めない。
そうか、自分の「学び」の効率が悪かったのは、このとらえ方のせいだったんだ。
そのことがわかったことが、今日の大きな収穫でした。
今日は朝から、ヘルマンハープのTさん、Iさんと打ち合わせ。Tさんとお弁当もちで、Iさんのお宅にお邪魔しました。
ヘルマンハープはまだ新しい楽器で、楽譜があまりありません。フルートとあわせる楽譜など無いので、一緒にしようと思うと、作らないといけません。
アンドレ・ギャニオンの「めぐりあい」、ハープとフルートですると、とても良い感じ。午後のけだるい暖かさ。
夕焼け小焼けは、フルートがオブリガートに回って、のんびりした夕焼け。
パッヘルベルの「カノン」は、かなり加工。M版と、それより一オクターブ音域が広いL版、フルートを駆使して、カノンの追いかけっこを表現するのは大変。
ちょっと、マジックのような荒技をやってみることにしました。
最後は、モーツアルトのフィガロの結婚の「恋の悩み知る君は」
ハープで伴奏系を弾いてみると、残響が残りすぎて16分音符が難しいので、8分音符にしてみると、なんとも間延びしておかしい。フルートが伴奏に回って、ハープに旋律をしてみることにしました。そうなると、また、ハープを作り直し。
スーパーで買ってきたお弁当を食べて、おやつとお茶も、楽譜の中で食べ、プロジェクトはまだまだ続きます。
ところで、Iさん宅の庭。雑誌に出てくるような素敵な庭でした。
白い柵、枕木のオブジェがあっています。
ご主人との手作りで、このブロックの上にタイルを貼る予定だそうです。
中央部の壁やタイルも手作り!ここに、プロジェクターで映画を映す予定だそうです。
反対側には、月桂樹の木が植わっています。
好みはいろいろあるけれど、テーマを決めて、こう作ろうというテーマと、方向性を感じました。
ついつい、店でみたり、雑誌で見たりすると、欲しくなって買ってしまい、後で他のものと合わなくなって、それでももったいないからとおいてみたり。
刺激、反応で、方向性なくなってしまいがちな私は、反省。
どういう方向でいくかはともかく。人生も、音楽も方向性は持たなくてはと、自戒もこめて、アップしてみました。