音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ニンナ・ナンナ

2025-03-07 21:00:00 | バロック
木曜日午前中、子育てサロンの卒会記念のコルクボードの準備をしました。

布をハートや星に切って、裏側に両面テープを貼ります。

コルクボードの枠に貼る布も裏側は両面テープ。
子どもの写真を挟む木製洗濯バサミに貼る布を切ってやはり両面テープ。

両面テープをくっつけるラフィアは地域の方のご寄付です。
押しピンには100均のビジューをセット。
ヨーヨーキルトは、以前作った残りです。

それにも裏に両面テープを貼ってお母さんたちに自由に貼ってもらいます。

子どもたちがスタッフと遊んでいる間にお母さんたちに仕上げてもらいます。

「来るだけで、こんな物をもらえるなんてやり過ぎじゃない?」という意見もあります。

「物じゃ無くて、子どもたちと一時離れて楽しむ時間を持ってもらうんです。」と言いました。

たかだか20分位の短い時間。
それも離れない子もいます、泣いたら気になって中断しながらの製作です。
短い時間で仕上げられて、素敵に出来たらお母さんたちうれしいんじゃないかなぁ?

子育てサロン
ぽっぼくらぶ
第2火曜日
次回3月11日
会館との2 10:00〜11:30
申込不要、無料 保護者と子どもたち 妊婦さん

Ninna Nanna
ニンナ・ナンナ
イタリア語で子守唄のことです。
バロック時代から伝わる子守唄ですが作者はわかりません。

アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ(Artemisia Lomi Gentileschi、1593 - 1652年)ローマ生まれ、ナポリ没

イタリア、カラヴァッジオ派の画家でフィレンツェの美術アカデミーにおける初の女性会員。

1610年聖母子
ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナにあげたら
彼女はそれを一週間抱っこするつもり

黒人に渡したら
彼はそれを1年間抱っこするつもりです

ニンナ・ナンナ
そんな赤ちゃんは私のために!




ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナに渡せば
彼女はそれを一週間保管するつもりだ
ブラックウルフに渡せば
彼はそれを1年間抱っこするつもりです
それをホワイトウルフに渡せば
彼はそのこを長く抱っこするつもりはありませんよ

ニンナ・ナンナ
誰にもあげませんよ

カウンターテナーのフィリップ ジャルスキーと古楽器アンサンブル 
タの演奏です。





お茶を愛でた王室

2025-03-05 20:57:00 | バロック
日曜日に行った茶源郷和束町で買った煎茶ドレッシング。

生野菜のサラダにかけて… !
甘い!酸味少しとお茶の香りはさすがですが。
味醂やお酒の甘さでいい甘さですが、サラダより、豚しゃぶか、デザートにかけて食べたい感じでした。
井手町の薄揚げ。

これがおいしいんです。

豚肉と野菜のあんかけに入れたら絶品でした。
しかも大きいので、お味噌汁に入れたりまだまだ使えます。

イギリスが東インド会社によって中国から紅茶を輸入したのはジョージ3世(1738年~1820年)の頃でした。

「ファーマー王」と言われていて政治にはあまり興味がありませんでした。
現在のドイツ北部に存在したメクレンブルク=シュトレーリッツ公国に生まれたシャーロットを妻に迎えました。

ほぼ無名のシャーロットを選んだのはプロテスタントで跡継ぎを生んでくれる女性だぅたからだそうです。

期待通り彼女は14人の子どもを産みました。

ジョージ3世と子どもたち

紅茶を飲む風習も定着し、この頃には王妃は紅茶陶器の「ウェッジウッド」のクリームウェア(磁器ではなく陶器)を支援し、
シャーロット王妃が絵柄のクリームウェア
夫婦でコッツウォルズの近くに保養に行き、音楽会の帰りに寄ったウースターの街のウースター窯でシャーロット王妃が「ローヤルリリー」というティーセットを購入。
日常のティータイムに使われていたそうです。

ローヤルリリー
ゴールデン・ジュビリー( golden jubilee)とは重要な出来事の50周年記念日のことです。
また、それを祝賀して開催される祝典のことです。英語圏での呼び名ですが、50年の節目の祝典は世界各地で行われます。

ジョージ3世は、実際に即位50周年となる1810年に先立ち、1809年10月25日に祝賀されています。


花火が打ち上げられ

ロイズの北側正面のイルミネーション

ヴォクスホール ガーデンは、高さ 70 フィートを超える、忠誠の輝かしい神殿を思わせるように配置された、さまざまなランプ。ちょうど 50 個展示され、皇帝の王冠やその他の王家の紋章で飾っていました。

音楽は「神は王を守る」が聖歌隊によって合唱され、鐘が音楽のように1日中鳴らされたと言われています。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

はすでに亡くなっていますが、その後の王室で戴冠式や式典には必ずヘンデルの司祭ザドクや戴冠式アンセムが演奏されたことから、この時も楽団によって演奏されたと思われます。

ジョージ2世「戴冠式アンセム」より『主よ、王はあなたの力に喜びたり』HWV 260








甘美な慰め

2025-02-28 20:57:00 | バロック
生徒さんにいちごいただきました。
お散歩コースにいちご農家さんがあるそうで、ひかりという品種のいちごだそうです。

その名の通り香り高く、甘くそして爽やかな味。
自然の恵み。
ありがとうございました。


ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

1725年教会カンタータ『甘美な慰め、我がイエスは来る』 BWV 151を作曲しました。

バッハは、1725年後半、ライプツィヒのトーマス教会
トーマス教会
のカンターに就任して3年目に、第3カンタータ・サイクルの一部として、この独奏カンタータをライプツィヒで作曲しました。

彼は、クリスマスの3日目に祝われる福音記者ヨハネの祝日の教会礼拝のためにこの曲を書きました。
トーマス合唱団
現在もあるトーマス合唱団
は、3日連続の祝日のためのバッハの他の作品と同様に、最終楽章でのみ使用されました。

祭日の規定の朗読は、ヘブライ人への手紙(ヘブライ人への手紙 1:1–14 )

パピルス 13 、西暦 3 世紀または 4 世紀、コイネーギリシャ語の原文で書かれたヘブライ人への手紙が記されています
と、ヨハネによる福音書
パピルス52(表; 西暦150年頃)のヨハネ18:31–33
の序文(言葉への賛歌とも呼ばれる)(ヨハネによる福音書 1:1–14)でした。

バッハは、この手紙にインスピレーションを受けたゲオルク・クリスティアン・レームス(1684-1717年)
カンタータのテキストの作者、ゲオルク・クリスティアン・レームス
のテキストを選びました。

最終楽章は、 1560年に出版されたニコラウス・ヘルマン

作詞・作曲のクリスマスキャロル「Lobt Gott, ihr Christen alle gleich」(すべてのキリスト教徒は平等に神を称えよ)の最終節に曲を付けたものです。

バッハはこのカンタータを1725年12月27日に初めて演奏しました。
1728年から1731年にかけても再演されました。
自筆楽譜とパート譜は現在ドイツのコーブルク音楽院

に所蔵されています。

1. アリア
甘美な慰めよ、私のイエスが来られる、
イエスは生きて生まれました!
心も魂も喜び、
私の最愛の神が私を持っているからです
今は天国に選ばれています。

2.レチタティーヴォ
3.アリア
4.レチタティーヴォ
5.コラール



女性の影が無い?!

2025-02-27 20:54:00 | バロック
月曜日の夜はフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
お休みが多く久しぶりにポップス初見大会しました。
頭の体操になります。
ヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」もやりました。
2ndソロがお休みなので代吹きしました。

榎田先生
「バッハ好きな人。」
「はい!」と何人か手を挙げました。私も!
「変わってるねぇ。バッハは女々しくてしつこいんだよ。昨日神戸でブランデンブルクの3番やったんだけど、何度も何度も繰り返しでね。
それに比べたらヘンデルとベートーヴェンは、はっきりしてる。生涯独身だけれどゲイってわけじゃない。女性と付き合ってはいるけれど
「(音楽に)女の影が無いんだよ。だからスッキリしてて俺の性にあってるんだ。」
先生の個人的見解です。

スッキリ、シンプルに直線的に大胆に演奏するようにと言うことでしょう。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685- 1759年)神聖ローマ帝国マクデブルク公国、ブランデンブルク=プロイセン ハレ生まれ、イングランド王国ミドルセックス州ウェストミンスター没

1723年のヘンデル バルタザール画

の理容外科医の父ゲオルグ
ゲオルク・ヘンデル(1622–1697)
と妻アンナには5人の子どもたちがいました。
(ドロテア・エリザベート、ゴットフリート、クリストフ、アンナ・バルバラ、カール、ゾフィア・ロジーナ)

アンナは1682年に亡くなり、1年以内に60歳のゲオルクは、今度はギービヒェンシュタインの聖バルトロマイ教会のゲオルク・タウスト牧師の娘ドロテアと結婚しました。

タウスト牧師自身も代々続くルター派牧師の家系の出身でした。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはこの結婚で1685年に生まれた2番目の子どもです。
ヘンデルが洗礼を受け、フリードリヒ・ザッホとヘンデルがオルガン奏者として演奏したハレのマルクト教会
最初の息子は死産でした。

その後、1687年10月6日に生まれたドルテア・ゾフィアと1690年1月10日に生まれたヨハンナ・クリスティアーナ(1709年死去)という2人の妹が生まれました。

『快活の人、沈思の人、温和の人(L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato)HWV 55

ジョン・ミルトン(1609-1674年)

の詩をもとにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1740年に作曲しました。

全3部からなる英語の独唱・合唱曲で世俗音楽です。
「田園的頌歌」と呼ばれることもあります。

『快活の人』(L'Allegro)と『沈思の人』(Il Penseroso)はミルトンの初期の傑作のひとつで、学生時代の1631年の作と推定されています。

トマス・コール「快活の人(イタリアの夕暮れ)」1845年
2つの詩は対照的な内容をもっています。

前者では憂鬱を追いはらい、田園風景と音楽や酒宴の喜びを描き、また都市の人々の歓楽を描いています。

後者は喜悦をまやかしとして退け、修道女やギリシア悲劇をたたえ、夜や学問の世界を快楽としています。

1736年の『アレクサンダーの饗宴』の成功以来、ヘンデルは17世紀の詩をしばしば音楽化しました。

ヘンデルの支持者であったジェイムズ・ハリスは『快活の人』と『沈思の人』に曲をつけるようにヘンデルに提案しました。

ヘンデルはチャールズ・ジェネンズ(1700-1773年)

に翻案を依頼しました。

ジェネンズの台本では最初の2部は『快活の人』および『沈思の人』の詩を分割し、組み合わせることによって構成していて、原詩の328行中の225行を利用しています。

短い第3部「温和の人」の詩はジェネンズ本人によってつけ加えられています。

ヘンデルは1740年1月19日に作曲を開始し, 2月4日に完成しました。
2月27日、リンカーンズ・イン・フィールズ劇場で初演され、シーズン中に5回上演されました。
翌年にも再演されました。

第1部では歓楽(Mirth)と幽愁(Melancholy)の女神の名を呼び、田園の自然や村人の生活をたたえます。

無気味な低音楽器の伴奏によるアッコンパニャートにはじまり、笑い声の模倣(第5曲)、
フルート伴奏による鳥の声の模倣(第13曲)、
狩りのホルン(第14曲)など、描写的なアリアが登場します。

最後は下降音階による鐘の音の模倣で若者たちの踊りについて歌いますが、急に静かになり、人々は眠りにつきます。

第2部では夜の星々とそれにまつわるギリシア悲劇について歌われた後、朝が来て都市の賑やかさがトランペットとティンパニつきで歌われます(第27曲)。

人は宴会や演劇の楽しみを歓楽の女神に求め、また天上へと導くオルガンの響きや静かな隠者の生活の楽しみを幽愁の女神に求めます(第38曲、フーガ風の長い合唱で終わる)。

第3部では行き過ぎた快楽は苦痛に変わるとして、中庸(Moderation)の神に呼びかけ、節度や質素や安楽を美徳とする。二重唱と合唱で中庸をたたえて曲を終わります。

第1部快活な人
「夜の朝を盗むように」
朝から夜を盗むように、
そして影を溶かして消し去ります:
それで真実は幻しの魅力を溶かすのか、
そして上昇する理性が暴走する
心を引き起こした煙には、
知的な日々を取り戻す。「魅力はすぐに溶けてしまう、
そして朝が夜を盗むにつれて、
闇を溶かして 湧き上がる感覚
まとわりつく無知な煙を追い始めます。





ファーストペンギンで同性愛

2025-02-20 20:52:00 | バロック
夫の買い物。
イワトビペンギン。
実は2匹目。

コウテイペンギンもいます。
他にも小さいペンギンがあちこち…。
なんでやねん!と
かわいいからいいけど。

水曜日午後からヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子さんとカルメン幻想曲の合わせ練習でした。

「もより市で電車待っている間に、安かったから買ってしまったわ。帰りでは絶対無くなると思って!と金重さん。
いいなぁ!
きれい。
練習は真面目にやりましたよ!

ペンギンは、ペンギン目(Sphenisciformes)に属する鳥の総称です。ペンギン科(Spheniscidae)のみが現生しています、

北半球では
ペンギン型キャラクターは、古くは、背が黒色、腹が白色であることから、タキシードまたは燕尾服を着用した紳士になぞらえられることが多かったです。

有機化合物C10H14Oペンギノンは、平面構造式がペンギンに似ていることから名づけられました。


ペンギンは托卵されると同性同士で子給餌を仕合い、卵をかえし子育てを行うことから
同性愛の象徴とされています。

2006年にアメリカで同性愛ペンギンの絵本 And Tango Makes Three が出版され、波紋を呼びました。
この絵本はアメリカのニューヨーク市セントラルパーク動物園に実在した、オス同士のペンギンのカップルを題材にしていまふ。

ペンギンに同性愛行動はほかにも存在しています。

2006年、ノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界初の「生物の同性愛」がテーマの展示会が催され、同性愛自体が自然界でも珍しいことではないという事実が研究で確認されています。
同性同士のペアのペンギンは、ドイツの動物園や日本の登別マリンパークニクスなどで存在が確認できます。

ファーストペンギン
集団で餌を求めて海に飛び込む際に、最初に飛び込むペンギンは「ファーストペンギン」と呼ばれます。

転じて「リスクのある新分野に最初に挑戦する人」のことを指します。

17世紀において最も影響力のある作曲家であるアルカンジェロ・コレッリは、枢機卿ピエトロ・オットボーニからの寵愛を受けていたゲイの芸術家の一人でした。

オットポーニが有力者だったため、コレッリはある程度自由にゲイロマンスを楽しむことができていました。

コレッリはカンチェリアという男子音楽学校に滞在していた際に、バイオリニストのマッテオ・フォルナーリと恋愛関係にあったと言われています。
二人の関係は20年にも及んだそうです。

アルカンジェロ コレッリ(1653-1713年)教皇領フジニャーノ生まれ、教皇領ローマ没

若い頃のことは知られていません、
13歳でボローニャに出てきました。
コレッリの経歴が明確になるのは、17歳でアカデミア・フィラルモニカ (1666年に設営された音楽機関)

の会員となってからのことです。
コレッリの家系についてもあまり多くのことは知られていませんが、善にも悪にもつよい個性的な血族であったようです。
コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されましたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などを輩出しています。
彼の実家は裕福だったようですが、後に作曲家の系図に関するいくつかの架空の記述が主張するように、貴族ではなかったことはほぼ間違いありません。

コレッリが生まれる数週間前に父が亡くなっていたため、コレッリは母サンタと彼女の実家で4人の兄弟とともに育てられました。

幼少時はファエンツアの教会で教育を受けたと見られています。

その後ウーゴに渡り、1666年に当時イタリアの器楽音楽発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成しました。

彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニ(1657-1716年)という人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明です。

有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えました。

コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っていますが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようです。

コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得ました。

22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位につきました。

1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮しました。

フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ(1637-1710年)

ガエターニ
の3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記しました。

その後、コレッリはパリからドイツへ移ります。
1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていました。

この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていました。

この時期が最も脂がのり、1681年の作品1「トリオ・ソナタ集」を皮切りに作品番号を記した代表作を世に放ち、器楽曲の作曲家としての名声を高めていきました。

1685年にはコレッリはローマにいて、そこでスウェーデン女王クリスティーナ

のための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)(1610-1691年)

フランチェスコ・トレヴィザーニによるピエトロ・オットボーニ枢機卿の肖像画。イギリス、ダラム州バーナード・キャッスル、ボウズ博物館

の寵臣でした。

1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリを気前よく遇しました。

1700年にローマで作品5「ヴァイオリン・ソナタ集」を出版すします。
この作品集はヨーロッパ中の宮廷で評判となり、幾たびも再版や再出版が重ねられるベスト・セラーとなりました。

1706年、コレッリはローマのアルカディア・アカデミーの会員に選出されました。
彼はアルコメロ・エリマンテオというアルカディア名を授かりました。
彼は「新しいオルフェウス」、「音楽家の王子」などと呼ばれるようになっていました。
1708年に彼はローマに戻り音楽活動からの引退を宣言し、以後オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らしました。同年には、国王の招きでナポリを訪れています。

1713年にコレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金のほかにブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有していましたが、これが彼の享受した唯一の贅沢でした。

彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲りましたが、友人は気前よくもその財産をコレッリの親類に返還しました。
コレッリはローマのパンテオンに埋葬されました。

その影響はヴァイオリンにおいてはコレッリの方法を基本奏法とし、指揮法、作曲はヨハン セバスチャン バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、クープラン、トレッリ、ジェミニーニ、マルチェッロなとま他多数の作曲家にモデルとされました。

ヴァイオリン協奏曲op6No.8で



コルクの木

2025-02-18 20:46:00 | バロック
火曜日もこもって練習のはずでしたが、子育てサロンのスタッフYさんからLINE。
「コルクボードと段ボール一緒に取りに行きましょう。」
3月は卒会。
こどもの写真を貼るコルクボードのデコレーションをします。
昨年の残りの8枚。
段ボールの中にはデコレーションするための布が入っています。
会館との2の倉庫にふだんは置いてあるので車でYさんをひらって取りに行きました。
ありました。

例年100円で調達してきたコルクボード。
15は用意しておきたいところ。
後7枚。
Yさんと近くのセリアに行ってみたら、100円のものは小さくなっていて大きなコルクボードはありません。

ダイソーとキャンドウがくずはモールにあります。
モールに車を置いてダイソー。
大きなコルクボードありますが300円からでしかも大き過ぎです。
初めの8枚と差があり過ぎてはいけません。
そこから駅ビルの中のキャンドゥへ。
ありました。ただし200円。
まだ安いとは思うけれど倍は物価もあがって無いと思うのだけど、仕方ないので買いました。
6枚。
1枚足りませんが在庫ありませんでした。
たぶん14枚あればいけるでしょう。ということでうちはいっぱいです。

オケとコンサートがひとまず片付く24日以降取り組みたいと思います。

コルクは、コルク樫から剥いだ樹皮のことです。コルクは地中海沿岸に成育するコルク樫の樹皮であり、その大半はポルトガルで収穫されています。
ポルトガルの気候がコルクの成育に理想の環境となるため、ポルトガル産のコルクが最高品質と言われています。

コルク樫が成木となる樹齢20年から寿命となる樹齢200~300年までの間、伐採することなく9年周期で再生されるコルク樹皮を収穫します。

成木となり初めて収穫するコルクはバージンコルクと表され、2度目の収穫がセカンドコルク、3度目以降に収穫されるコルクは良質なコルクとしてアマディアコルクと表されています。

バージンコルクとセカンドコルクは樹皮の凹凸が激しく硬いため、ワイン栓として使用できず、粉砕して壁材や床材等の建材として利用されています。

3度目以降に収穫されたアマディアコルクは最も需要の高いワイン栓を打ち抜き、残りの屑も廃棄することなく副産物の生産に用いられています。

コルクは、小さく分割された空気に満たされた細胞構造で構成されています。
1立法センチメートルあたり2,000万~4,000万個の独立した細胞で構成され、低級脂肪酸を結合材とした細胞質でできています。

そなため、比重が0.1~0.2と非常に軽い天然素材です。

樹齢20年で幹の直径が20cmになり、最初の剥皮を行います。以降9年周期で皮を剥いで加工したものはさまざまな用途に使用され、樹齢250年くらいまで伐採することなく収穫が可能です。
コルクの森は南欧の砂漠化を防止し、イベリア山猫のような希少種を含む動植物の生態を支え、コルク樫の実であるドングリはイベリコ豚の飼料にもなります。
また、コルクの森は温暖化防止にも大きく貢献しています。皮剥ぎされたコルク樹は二酸化炭素を通常の3~5倍も吸収します。ポルトガルのコルクの森だけで年480万トン、地中海全域では1,400万トンもの二酸化炭素を吸収すると言われています。
コルクは、紀元前550年頃において中国では既に知られていたと言われています。

古代ギリシャ・ローマ時代には、既に数種類のコルク製の道具(漁網の浮き・甕の蓋・履物)として使用されており、コルク生産国の建物では数世紀にわたって住居の床や屋根などにコルクの板が利用されていました。

コルクの需要は、16世紀のガラス瓶の出現により、17世紀に入って急激に増加しました。

そして1760年のスペインでは、コルク量産化のためにコルク樹の育成栽培が始められました。

日本では、江戸時代末期、諸外国から持ち込まれた洋酒類に使われていたコルク栓を再製し、目薬瓶の栓として利用したのがコルク加工のはじまりと言われています。

1729年のセビリア条約で、エリザベッタの念願であった実子カルロスのパルマ公位獲得が認められました。
加えて、ポーランド継承戦争(この戦争の際にフランスと「第1回家族協定」を結んで関係改善を図っている)の結果、カルロスはナポリ及びシチリアの王位も獲得しました。
代償としてパルマを放棄することを余儀なくされましたが、そのパルマもオーストリア継承戦争の結果、カルロスの弟フェリペが公位に就くことで回復しています(フェリペの家系はブルボン=パルマ家と呼ばれる)。

スペインの政情が落着き、繁栄の時期に入ったこととコルクの木の育成は無関係ではありません。現在でもワインのコルク栓の生産のほとんどをスペインでまかなっています。

フアン・バウティスタ・ホセ・カバニーリェス(1644-1712年)スペイン帝国アルヘメシ生まれ、スペイン帝国バレンシア没

カバニーリェスの経歴は、おそらく地元の教会の聖歌隊の歌手からはじまったものと思われます。
後にバレンシアの大聖堂

で聖職者になるための勉強を始めましたが、勉強の中には音楽のレッスンも含まれていました。

1665年5月15日、カバニーリェス20歳の時、バレンシア聖マリア大聖堂のオルガニスト助手に名を連ねました。



こ1年後、前任者の死でカバニーリェスは首席オルガニストになりました。

1668年9月22日、カバニーリェスは司祭に任命されました。

首席オルガニストの地位は45年間守り続けましたが、1703年からしばしば健康を害し、代わりを探す必要が出てきます。

1675年から1677年には、大聖堂聖歌隊の子供たちを教える仕事を引き受けていました。

カバニーリェスの作品の多くは、当時としてはヴィルトゥオーソ的で先進的でした。
多くのカバニーリェスの手稿がバルセロナのカタルーニャ図書館(en:Biblioteca de Catalunya)に保管されています。

オルガンのための作品(ティエント(en:Tiento)、トッカータ、パッサカリアなど)、最高13部の合唱作品が多数現存しています。

オルガン曲 第一の完全な誘惑
Tiento Lieno de premier



蹄鉄屋の息子

2025-02-17 20:58:00 | バロック
日曜日ですがピッコロ必死にさらっています。
写真も無いので
家にある夫の…招き猫。

何年か前に弘法市で買ってきました。
中国出張の時に招き猫を持っていくと喜ばれるとか言って探しては買っていましたが、(あげるのは新品)この子はうちに置いています。

ずっと直に置いていましたが、昨日出張の帰りにくずはモールに迎えに行ったら刑務所の人が作った作品の即売会やっていました。
そこで小さな畳を買っていたので何に使うのかと思っていたら、猫さんの座布団でした。

この猫さんは背中に
こんな穴が空いているので
弘法市のお店の人によると穴が空いていると骨董的価値は無いみたいですが、右手を上げている猫さんは金運を招くとか…江戸時代に流行った迷信だそうです。

すると横から夫が、「これは焼くときの穴。空いてないと割れるんだ。」
ホントかな?ググってみたらどちらも無かった。
お金が貯まる風水招き猫貯金箱。
って言うのはたくさん売っていたのだけれど。

変な風習だなぁ?と思っていたらヨーロッパにもありました。

馬蹄
ヨーロッパでは定番の幸運モチーフで、魔除けの意味もあります
馬蹄の形が幸運を呼び込んで逃がさないと言われています。

扉に飾る風習もあります。
ケルト人がダーナ神族を鉄器と騎馬で打ち倒したことから、妖精や邪鬼などの異界の住人は鉄を嫌うと伝承され、幸運をもたらすとされた説。

後にカンタベリー大司教となった鍛冶屋の聖ダンステンが悪魔から馬の蹄鉄を修理するよう頼まれた際、悪魔の足に蹄鉄を打ち付け、痛がる悪魔に扉に蹄鉄が留められているときは絶対中に入らないという約束を取り付けようやく蹄鉄を取り外してやったことから悪魔除けとされたという説があります。

6ペンスコイン
イギリスの古い硬貨で、富と繁栄のシンボルとされています。

1967年に発行が終了しており、現在は生産・使用されていません。

花嫁の左靴の中に6ペンスコインを入れると幸せになれる
花嫁の結婚の繁栄を願うものとされており、一生お金に困ることがないようという願いが込められているます。

英国の伝承童謡「マザーグース」
挿絵画家アーサー・ラッカムのリトグラフで、1913年刊行の自著のための表紙絵である。画題は「ヘイ・ディドゥル・ディドゥル」
の中の一つに、幸せな結婚のための「サムシング・フォー」という歌があり、その中に「6ペンスコイン」が登場します。

マザーグース「サムシング・フォー」
Something old, something new,
something borrowed, something blue,
and a sixpence in her shoe.

なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、
そして靴の中には6ペンス銀貨を。

指貫 シンブル
ヨーロッパでは指貫は裁縫に使われるだけでなく、装飾品としての役割も持ち、収集品としても人気を集めています。

指貫は贈答品にもされ、『不思議の国のアリス』

ドードーは指ぬきをアリスにプレゼントします(カラー彫刻)
(The Dodo presents Alice with a thimble (colour engraving))
ジョン・テニエル
『ピーター・パンとウェンディ』

などの文学作品には指貫が贈り物にされる場面が書かれています。

クリスマスプディング

に指貫を入れて蒸し上げる習慣があり、指貫が入ったプディングを食べた人には幸運が訪れると言われています。

ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773年)神聖ローマ帝国ハノーファー選帝侯領ニーダーザクセン州ゲッティンゲン近郊オーバーシュテン生まれ、神聖ローマ帝国ポツダム没
クヴァンツは、ハンス・ヨヒム・クヴァンツとして生まれました。

父アンドレアス・クヴァンツは鍛冶屋蹄鉄職人でしたが、
ハンスが11歳にもならない時に亡くなりました。

死の床で、父は息子に自分の跡を継ぐようにと言いのこしました。
クヴァンツは自伝の中で、9歳の時から鍛冶屋としての訓練を受けていたと書いています。
父の死により、彼は自分の進路を選ぶ機会を与えられ、1708年から1713年にかけて、メルゼブルクの町の音楽家であった叔父のユストゥス・クヴァンツについて音楽の勉強を始めました。

また、一時期、従兄弟の夫でオルガン奏者のヨハン・フリードリヒ・キーゼヴェッターにも学びましだ。

1714年以降、クヴァンツは作曲を徹底的に研究し、多くの巨匠の作品を熱心に研究して彼らのスタイルを取り入れました。

1716年にドレスデンの町の楽団に入り、1717年にヤン・ディスマス・ゼレンカに対位法を学びました。

1718年3月、ザクセン選帝侯でポーランド王のアウグスト3世
(1670-1733年)

のために新設されたドレスデン・ポーランド礼拝堂のオーボエ奏者に任命されました。

ポーランド礼拝堂でオーボエ奏者として昇進できないことが明らかになったため、クヴァンツはフルートの道に進むことを決意し、1719年に王立管弦楽団の首席フルート奏者ピエール=ガブリエル・ビュファルダンに短期間師事しました。

1724年から1727年にかけて、クヴァンツはヨーロッパをフルート奏者として「グランドツアー」をして教育を終えました。
ローマではフランチェスコ・ガスパリーニに対位法を学び、ナポリではアレッサンドロ・スカルラッティに会い、パリではフルート奏者のミシェル・ブラヴェと親しくなり、ロンドンではヘンデルに勧められて留まりました。

1728年のカーニバル中に皇太子フリードリヒ

アントワーヌ・ペスネによるプロイセンの皇太子としての24歳のフリードリヒの肖像画(1736年、ハウスドールン、オランダ)
がドレスデンを訪れ、ピゼンデルとクヴァンツに会ったりリハーサルをしました。
4月、皇太子フリードリヒはうつ病に苦しみ、ほとんど何も食べませんでした。
父王は彼の命を心配していました。

1728年5月、クヴァンツはアウグスト2世のベルリン公式訪問に同行しました。

フリードリヒの母プロイセン女王ソフィー ドロテア 

は彼の演奏に感銘を受け、息子のために彼を雇いたいと考えました。
アウグスト2世は断りましたが、年に2回ベルリンとバイロイトにクヴァンツが旅行することを許可しました。

1730年6月、彼はツァイタイナー・ルストラーガーミュールベルク(近郊の大野営、ツァイタインの歓楽野営とも呼ばれ、アウグスト強王の壮大な閲兵式と王家の栄華の披露を組み合わせたもので、1730年5月31日から6月28日まで、 ツァイタインの町、グラウビッツの町、シュトロイメンの町の間のリーザとグローセンハインの町の近くで行われました。)に参加し、ベルリンへ旅しました。

ツァイタイン近くの野営地、ヨハン・アレクサンダー・ティーレ作1730 年

クヴァンツは後に作家フリードリヒ・ニコライを訪問、 
ある日、フリードリヒの横暴な父が息子の髪型、音楽の勉強、いかがわしい本、派手なガウンを認めず激怒したため、彼とハンス・ヘルマン・フォン・カッテはクローゼットに隠れなければならなかったと語っています。

クヴァンツは1737年にアンナ・ロジーナ・カロリーナ・シンドラーと結婚しましたが、結婚生活は幸せではなく、妻が彼を横暴に扱っていたことはベルリン中で知られていました。
1741年までクヴァンツはドレスデンのザクセン宮廷に留まりました。

1740年にフリードリヒ2世がプロイセン王になると、クヴァンツはついにフルート教師、フルート製作者、作曲家の地位に就きました。

サンスーシ宮殿でフルート協奏曲を演奏するフリードリヒ大王、チェンバロを弾くCPEバッハ、右側の壁にもたれるクヴァンツ。アドルフ・メンツェル作、1852年
その後の人生をそこで過ごしました。

少なくとも1739年からフルートを製作し、例えばイントネーションを助けるために第2のキー(標準のD#に加えてEb)を追加するなど、フルート設計の革新者でした。
フリードリヒ大王はクヴァンツ製のフルートを11本所有していました。

彼は、主にフルートのための何百ものソナタや協奏曲を書いただけでなく、トラヴェルソ・フルートの演奏に関する論文『トラヴェルソ・フルートの演奏について』(1752年)(英語では『フルートの演奏について』)の著者としても今日知られています。

これは、18世紀の演奏方法とフルートのテクニックに関する貴重な参考資料です。

クヴァンツは彼のオーケストラには参加せず、ベルリン・ミッテ区(クローネン通り)
現在のミッテ区
に住んでいましたが、1773年に亡くなるまでフリードリヒの宮廷で演奏していました。

1755年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルグの『音楽活動に関する歴史的批判的考察』に伝記が掲載され、1762年にはイタリア語で別の伝記が出版されました。

1877年には甥のアルベルト・クヴァンツが長編伝記を出版しました。

クヴァンツの2本のフルートのための協奏曲 Gminor QV6-8



アレクサンダー大王と聖セシリアの日

2025-02-13 20:59:00 | バロック
月曜日は1ヶ月ぶりに渡辺橋近くのサロン・ド・ブリンシパルで、フルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
ドボルザークの「セレナーデ」ヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」、それから、軽音シリーズ「テイク・ファイブ」と「煙が目にしみる」を練習しました。

1ヶ月休んだたげでみんなうまくなっています。
私も頑張らないと! 
しかし、休んでいる間にドボルザーク2ndから1stに移動になってた!?
あちゃ〜!これから練習です。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)ローマ神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国ロンドン没

1736年
聖セシリアの日(11月22日2世紀頃に殉教したカトリックの
音楽の聖人)を祝うためジョン・ドライデン(1631-1700年)

によって書かれた「アレクサンダーの饗宴」の頌歌(1697年)を原作とし、ティモテオスが音楽によってアレクサンドロス3世
(BC356-BC323年アレクサンドロス大王)

をさまざまな感情に導く様子を音楽で描写します。

ヘンデルは1736年1月17日に作曲を完了し、同年2月19日にコヴェント・ガーデン
コヴェントガーデンにあるロイヤルオペラハウス
で初演されました。作品は大きな成功をおさめ、翌日の新聞報道によると初演には少なくとも1300人が集まりました。

初演ではアンナ・マリア・ストラーダ


とセシリア・ヤング(のちにトマス・アーンと結婚)
のソプラノ、ジョン・ビアード

のテノール、エラードのバスで歌われました。

もともとの詞が音楽の力を描写することに意を用いており、ヘンデルはホルン、チェロ、トランペット、ファゴット、フルート、ハープなどのさまざまな独奏楽器を用いています。
またアリアやコーラスはティモテオスの歌の内容に応じて変化に富んでいます。

初演では頌歌そのものに加えて、曲の途中で3つの協奏曲が演奏されました。

第1部の途中で有名なハープ協奏曲(ハープ、リュート、リリコードその他のための協奏曲、
オルガン協奏曲作品4の6の異稿にあたります。HWV 294a)が、
第2部の最後の合唱(ハミルトンによって追加された詞による、現在は歌われないことが多い)の前にはオルガン協奏曲(作品4の1、HWV 289)が演奏されました。
幕間にはイタリア語のカンタータ「チェチーリアよ、まなざしを向けたまえ」(Cecilia, volgi un sguardo、HWV 89) と

ハ長調の合奏協奏曲HWV 318を演奏し、後者は『アレクサンダーの饗宴』協奏曲として知られています。

『アレクサンダーの饗宴』のフル・スコアは1738年に出版され、150人の予約者に配布されました。ただし協奏曲は含まれていません。

『アレクサンダーの饗宴』はその後もしばしば再演され、ヘンデル生前の20年間近くに25回の上演回数を重ねましたが、かなりの改作を経ています。

1742年にダブリンで演奏されたときにはハミルトンの詞による短い第3部を追加しています。1751年3月1日の再演では劇『アルチェステ』のための付随音楽をもとにした『ヘラクレスの選択』という作品が第3部として加えられました。

アレクサンドロスとタイス、ルドヴィコ・カラッチ画(1611年)
アレクサンダーの饗宴
第1部
アレクサンドロス王はペルシア王を破った記念の宴会を開き、ティモテオスがリラを弾きながら歌います。

まず、アレクサンドロスを生き神としてたたえます。ついで酒神バッカスをたたえる歌を歌います。

悲しい曲調に変わり、ダレイオス王の死を哀悼します。

『アレクサンドロス大王の前に出たダレイオスの家族』パオロ・ヴェロネーゼが1565年から1570年頃アレクサンダーはイッソスの戦いでペルシャアケメネス朝ダレイオス王を破りましたが、彼の家族を寛容に遇しました。

ふたたび主題が変わり、タイスの愛が歌いあげられます。

第2部
トランペットとティンパニを加えた激しい伴奏による合唱で軍楽が模される。ティモテオスは戦いに倒れたギリシア人兵士たちについて歌い、復讐の怒りを奮い立たします。王はたいまつを手にとり、タイスが先導してペルシアの破壊に向かいます。

リコーダーの伴奏で、テノールはティモテオスが音楽によってさまざまな感情を抱かせることができたことを述べます。

ついで合唱がセシリアをたたえ、「ティモテオスは人を天上にあげ、セシリアは天使を地上に降ろした」と歌って曲を終えます。

幕間で演奏される
合奏協奏曲ハ長調「アレクサンダーの饗宴」HWV318


雨も雪もむなしくふることなく大地を潤し

2025-02-09 21:38:00 | バロック
土曜日、夕べから降り出した雪は枚方では植栽か日陰に少し残っている程度。道路は通常運行できそうです。

朝母退院。というわけで、夫の運転で牧野出発…と思いましたが、京都は雪が積もっているだろうと、松井山手に置いてあるスカイラインなら、オールシーズンタイヤなので、取りに行ってから出発しました。

車で20分、隣りの市とは言え府境を越えると寒いです。
スカイラインも雪が残っていました。
さてアクアを置いてスカイラインで出発。

ちょっと降って来ました。
第二京阪の側道は日が当たらないのでやばい!

事故ってる!
それからもう少し行くともう1台。歩道の木に突っ込んできました。
怖いなぁ…。
しかし、車線変更をした途端、車がコントロールを失ってクルッと回って歩道の植込みと桜の木に衝突して止まりました。

『あ〜あ、やっちまった…。』

でも他の車は巻き込んでいないし、歩道も誰もいなかった。
エンジンをかけると動きました。
気を取り直して再度出発。

よく考えたら二車線あっても誰も左車線を走っていない。
よく知っている人は他の車の跡をついていくのですね。

さて、母を迎えに行かくちゃ。とそのまま行きましたが、病院の駐車場て見たら


バンパー結構壊れてました。
ありゃ〜!
しかし、先に母を連れ帰らなくちゃ。
無事送り届けたら、家に帰って夫警察に電話。
事故証明取りに伏見警察と現場に戻って現場検証。
桜の木を支えていた木の柵が折れていたそうです。
後で弁償の話があるかも。
がっくり。
雪の日はやっぱりスタッドレスにチェーンつけましょう。それか、使わない。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハアイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

                の「雨と雪が天から降るように」(BWV 18)は、教会カンタータです。彼はおそらく1713年頃に ワイマールで六十年祭(のためにこれを作曲しました。

バッハは1708年以降ワイマール宮廷に勤めました。

1714年3月2日、彼はコンサートマスターに任命されました。
この地位での彼の任務には、城の教会で演奏される教会カンタータを月に一度作曲することが含まれていました。

バッハはこのカンタータを、六十祭四旬節前の最後から2番目の日曜日である六十週目の日曜日のために作曲しました。

指定された朗読は、聖書のコリント11:19 – コリント12:9 LUTとルカ伝8:4–15 LUT、種まき人のたとえ話でした。

バッハは、エルトマン・ノイマイスター( 1671年5月12日 ウイヒテリッツ生まれ、1756年8月18日ハンブルク没)

のテキストに曲を付けました。

このテキストは、彼がアイゼナハの宮廷のために書き、1711年にゴータで『霊的な歌と演奏』というコレクションとして出版していたものです。
(ゲオルク・フィリップ・テレマンは以前にすでにこの曲に曲をつけていました。)

次の文では、詩人はマルティン・ルター(1483年、 マンスフェルト県アイスレーベン生まれ、1546年、アイスレーベン没)

アウクスブルクのトーマス・カエターノ枢機卿の前のルター、彩色木版画、1557年
の連祷の一節を使って、神の言葉を脅かす危険についての警告を挿入しています。

最後のコラールは、ラザロ・シュペングラー(1479年、 ニュルンベルク生まれ、1534年ニュルンベルク没)

の賛美歌「アダムの堕落によってすべての腐敗が起こった」(1524年)の第8節です。

1715年頃に作曲されました。

バッハは1724年にライプツィヒでこのカンタータを、楽器編成を拡大し、異なる調で再演しました。
この作品は、当時新たに作曲されたカンタータ『軽妙な歌劇』とともに演奏されたと考えられます。

「雨と雪が天から降るように」(BWV 18)
シンフォニア
レチタティーヴォ(バス):
雨も雪も天から降るとむなしく戻ることはなく、大地を潤し実り豊かに生い茂らせ、そうして蒔く人には種を与え、食べる人にはパンを与えます。

それと同じように、私の口から出る言葉も、むなしく私のもとに戻ることはなく、私の望むことを成し、必ず私が与えた目的を果たします。

レチタティーヴォとコラール(連祷)(テノール、バス、合唱):私の神よ、ここに私の心があります。あなたは私にあなたの精神と力を与えてくださいます。

アリア(ソプラノ):
私の魂の宝は神の言葉です

コラール:
主よ、私は心の底から祈ります




ジーグを踊りたい

2025-02-04 20:54:00 | バロック
3日月曜日、洗髪のために近所の美容院に行ってきました。
目に水が入ったら化膿するかもしれないので、洗髪はまだ自分でできません。
お風呂は良いのですが…。
4日目もう我慢も限界。

ここは火曜、水曜定休なのですが、月曜日は営業しています。
そして安い。
洗髪とブローで1650円。
予約は要らないし、温かい雰囲気で、「シャンプーだけで申し訳ないです。」と言ったら
「全然大丈夫ですよ。そんなん言わないでください。」と言われて丁寧に洗っていただきました。
それにヘッドマッサージ、ブロー前には肩もほぐしていただきました。

本当にありがたい!
すっきり、頭が軽くなったようです。
ジーグでも踊りたい気分です。

ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully', 1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没

『狂えるオルランド』(くるえるオルランド、Orlando Furioso)は、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533年)レッジョ公国モデナ生まれ、フェラーラ公国フェラーラ没
によるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌、3万8736行に及ぶ大長編でルネサンス文学の代表作です。

ジョン・ハリントン訳『狂えるオルランド』第3版(1634年)の表紙。初版は1591年
サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュとパラディンの活躍を背景にオルランド(ローラン仏語)の失恋と発狂、エステ家の起源が語られています。

フィリップ・キノー(1635-1688年)

台本によるオペラ。

ローランの楽譜
1685年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でパリ・オペラ座により初演。

1682 年頃のヴェルサイユ宮殿、アダム・ペレルによる版画
1685年3月8日から同劇団のパリの公立劇場であるパレ・ロワイヤル劇場で上演されました。

1761年にパレ・ロワイヤルで再演されたリュリの『アルミード』
リュリは自分の壮大なオペラを上演するためこの劇場に新しい舞台装置を設置させました。

寓話的なプロローグと5幕からなる音楽悲劇の形式をとっています

プロローグ
妖精の王デモゴルゴンがルイ14世を讃え、リュリ

有名な騎士ローランの物語を見たいと頼みます。

カール大帝の甥のローランがカタイ王の娘アンジェリークを愛していますが、実は彼女はアフリカ軍の兵士メドールに恋をしています。

第1幕
ローランが愛の証としてアンジェリークに魔法の腕輪を贈ります。

第2幕
アンジェリークは森の中の愛の泉に近づきます。ローランを見ると、彼女は魔法の指輪を使って姿を消し、ローランは絶望してさまよい立ち去ります。

その後メドールが現れ、アンジェリークに恋しており、自殺しようとしているとつぶやきます。
その時、アンジェリークは姿を現し、彼への愛を告白します。

しかし彼女は、ローランがそれを知ったら激怒するのではないかと心配しています。

第3幕
アンジェリークとメドールはすぐに結婚し、


ローランから逃げる計画を立てます。

第4幕
アンジェリークがどこにも見当たらず、ローランが絶望します。
彼は洞窟の壁にアンジェリークとメドールの名前が刻まれているのを見つけます。

近くで村の結婚式の音が聞こえ、村人たちはメドールとアンジェリークの脱出について話します。
また、村に泊めてくれたお礼に2人がくれたローランのブレスレットを見せます。
ローランは狂気に陥ります。

最終幕
妖精ロジスティルの影響で、眠っているローランに古代の英雄たちの夢が訪れ、アンジェリークへのむなしい愛を捨ててキリスト教軍に戻るよう促します。

ローランは目覚め、理性と栄光への欲求を取り戻し、戦いへと出発し勝利します。

オペラ「ローラン」よりジーグ

ジーグはバロック時代の組曲を構成する舞曲の形式の一種。
発祥地は、グレートブリテン島やアイルランド島と考えられています。

giga(伊、古独)とよばれる中世の擦弦楽器の名称とその奏者の名前か、もしくはgiguer(古仏)の跳躍するという説があるものの、明らかになっていません。 

フランス式ジーグ
多くの場合、複合3拍子(8分の6拍子、4分の6拍子)となり、付点リズム、跳躍などを設け、複雑なアクセントやフーガ的書法が用いられ、サラバンドのすぐ後ろに置かれます。

イタリア式
フーガ的書法をとらずに、基本和声の上に急速に駆け巡る経過句的形式で書かれます。単純明快で分散和音的なつくりになっています。

リュリ 歌劇「ローラン」よりジーグ