音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ジーグを踊りたい

2025-02-04 20:54:00 | バロック
3日月曜日、洗髪のために近所の美容院に行ってきました。
目に水が入ったら化膿するかもしれないので、洗髪はまだ自分でできません。
お風呂は良いのですが…。
4日目もう我慢も限界。

ここは火曜、水曜定休なのですが、月曜日は営業しています。
そして安い。
洗髪とブローで1650円。
予約は要らないし、温かい雰囲気で、「シャンプーだけで申し訳ないです。」と言ったら
「全然大丈夫ですよ。そんなん言わないでください。」と言われて丁寧に洗っていただきました。
それにヘッドマッサージ、ブロー前には肩もほぐしていただきました。

本当にありがたい!
すっきり、頭が軽くなったようです。
ジーグでも踊りたい気分です。

ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully', 1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没

『狂えるオルランド』(くるえるオルランド、Orlando Furioso)は、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533年)レッジョ公国モデナ生まれ、フェラーラ公国フェラーラ没
によるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌、3万8736行に及ぶ大長編でルネサンス文学の代表作です。

ジョン・ハリントン訳『狂えるオルランド』第3版(1634年)の表紙。初版は1591年
サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュとパラディンの活躍を背景にオルランド(ローラン仏語)の失恋と発狂、エステ家の起源が語られています。

フィリップ・キノー(1635-1688年)

台本によるオペラ。

ローランの楽譜
1685年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でパリ・オペラ座により初演。

1682 年頃のヴェルサイユ宮殿、アダム・ペレルによる版画
1685年3月8日から同劇団のパリの公立劇場であるパレ・ロワイヤル劇場で上演されました。

1761年にパレ・ロワイヤルで再演されたリュリの『アルミード』
リュリは自分の壮大なオペラを上演するためこの劇場に新しい舞台装置を設置させました。

寓話的なプロローグと5幕からなる音楽悲劇の形式をとっています

プロローグ
妖精の王デモゴルゴンがルイ14世を讃え、リュリ

有名な騎士ローランの物語を見たいと頼みます。

カール大帝の甥のローランがカタイ王の娘アンジェリークを愛していますが、実は彼女はアフリカ軍の兵士メドールに恋をしています。

第1幕
ローランが愛の証としてアンジェリークに魔法の腕輪を贈ります。

第2幕
アンジェリークは森の中の愛の泉に近づきます。ローランを見ると、彼女は魔法の指輪を使って姿を消し、ローランは絶望してさまよい立ち去ります。

その後メドールが現れ、アンジェリークに恋しており、自殺しようとしているとつぶやきます。
その時、アンジェリークは姿を現し、彼への愛を告白します。

しかし彼女は、ローランがそれを知ったら激怒するのではないかと心配しています。

第3幕
アンジェリークとメドールはすぐに結婚し、


ローランから逃げる計画を立てます。

第4幕
アンジェリークがどこにも見当たらず、ローランが絶望します。
彼は洞窟の壁にアンジェリークとメドールの名前が刻まれているのを見つけます。

近くで村の結婚式の音が聞こえ、村人たちはメドールとアンジェリークの脱出について話します。
また、村に泊めてくれたお礼に2人がくれたローランのブレスレットを見せます。
ローランは狂気に陥ります。

最終幕
妖精ロジスティルの影響で、眠っているローランに古代の英雄たちの夢が訪れ、アンジェリークへのむなしい愛を捨ててキリスト教軍に戻るよう促します。

ローランは目覚め、理性と栄光への欲求を取り戻し、戦いへと出発し勝利します。

オペラ「ローラン」よりジーグ

ジーグはバロック時代の組曲を構成する舞曲の形式の一種。
発祥地は、グレートブリテン島やアイルランド島と考えられています。

giga(伊、古独)とよばれる中世の擦弦楽器の名称とその奏者の名前か、もしくはgiguer(古仏)の跳躍するという説があるものの、明らかになっていません。 

フランス式ジーグ
多くの場合、複合3拍子(8分の6拍子、4分の6拍子)となり、付点リズム、跳躍などを設け、複雑なアクセントやフーガ的書法が用いられ、サラバンドのすぐ後ろに置かれます。

イタリア式
フーガ的書法をとらずに、基本和声の上に急速に駆け巡る経過句的形式で書かれます。単純明快で分散和音的なつくりになっています。

リュリ 歌劇「ローラン」よりジーグ




放埒な王が愛したタルト

2025-02-02 21:00:00 | バロック
京都三条若狭家

の稚児餅。
祇園祭の時期に食べるお餅です。
病院の帰りに通っただけ、買ってませんが、白味噌の餡を求肥で包んだお菓子。
美味しそう!

神馬堂の焼き餅は買って帰りました。
180円。味も変わっていません。
トースターで温め直していただきました。

家で安静2日目。
2月になりました。
左目はまだ赤いですが、身体は元気になってきました。

メイズ・オヴ・オナー・タルト(英語: Maids of Honour tart)はイングランドの伝統的な焼き菓子で、甘みをつけたチーズカードをつめたパイ生地を用いたタルトです。
別名メイズ・オヴ・オナー・ケーキ(Maids of Honour cake)。

薄いパイ生地にバターシロップをつけ、中にレモンカードなどを用いたクリームを入れたお菓子です。
カッテージチーズやクリームチーズを用いるレシピもあります。

ジャムやアーモンド、ナツメグを加える場合もあります。

ベイクウェルタルト

ショートクラスト生地を敷いた上にジャムやフランジパーヌの層をのせ、さらにトッピングとしてアーモンドフレークを加えたイングランドの砂糖菓子
など他のイギリスの伝統菓子に似た製法で作られ、生地やフィリングについてはいくつかバリエーションがあります。

伝説によると、このタルトはヘンリー8世(1491-1547年)


の時代までさかのぼると言われています。

このタルトについて広く知られている俗説として、王妃のメイド・オヴ・オナー(女官たち)がケーキを食べているところを見て、そのケーキを食べてみたいと王が所望したという逸話があります。

王はこのケーキを美味しいと思い、女官たちにちなんだ名をつけました。

さらに、そのタルトを作った女官は監禁されて王のためだけに菓子を作らねばならなくなったという物語もあります。

また別の話として、このタルトはその時女官であり、ヘンリー8世のために菓子を作ったアン・ブーリン(1501-1536年)

平民から王の愛人、王妃になりましたが、1000日で廃位、罪を得て処刑されました(男児を産めなかったからとも言われています)

ロンドン塔のアン(19世紀画)

にちなんで名付けられたという伝承もあります。

しかし逸話はいずれも伝承で、正確なことはよくわかっていません。

サリー州のキュー、キュー植物園の近くにあるニューウェンズのティールームは「元祖メイズ・オヴ・オナー」("The Original Maids of Honour") を名乗っています。
1850年にレシピを買い取って営業を始めたと言われています。

最初にこのタルトが「メイズ・オヴ・オナー」という名称で印刷物に記載されたのは1769年頃のことで、18世紀末のレシピも残っています。

ヘンリー8世の頃のイングランドの音楽家と言えば、

トマス・タリス(Thomas Tallis, 1505 - 1585年)は、
イングランド王国の作曲家、
オルガン奏者。

青年期にはロンドンの教会やウォルサム・アビー修道院(1536年頃 - 1540年)
のオルガン奏者をつとめ、カンタベリー大聖堂


での職を経た後、1542年より王室礼拝堂のオルガン奏者となっりました。

1572年からは弟子のウィリアム・バード(1543?-1623年)

も王室礼拝堂に着任し、同僚として共に働きました。

タリスの仕えた国王は、テューダー朝のヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世とエリザベス1世の4人です。

カトリックとプロテスタントが激しく対立する宗教改革の時代に生きたため、ラテン語および英語による作品が残されています。

残された作品の数は少ないですが、素朴で美しく慎ましい感情が表現されています。 

タリス自身はカトリックでしたが、多くはプロテスタント向けの英語の詞で作曲されています。

1575年にタリスとバードは、エリザベス女王から五線紙に音楽を印刷するための許可を得ました。

タリスはまた、エリザベス女王によって年30ポンド相当の収入が得られる土地を与えられました。

この時期のオルガンはショート・オクターブ(初期の鍵盤楽器(チェンバロクラヴィコードオルガンにおいて、低音域を拡張するために変則的に鍵に音を割り当てる方法)もまだ用いられていた時代なので、器楽作品は地味で目立たない印象を与えることが多いです。

タリスが名声を決定的にしたのは「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」のような過剰多声楽曲です。

和声的には単純でも、聴取の限界を超えた声部が幾重にも重なり、他にない荘厳さを生み出します。

後半、バス声部の完全四度進行の反復が宗教的な瞬間の創出に成功しており、数度のゲネラルパウゼ(一時停止)で聴神経が一挙に引き締まります。

この時代には当然和声理論は確立しておらず、同時代のイタリアのルネサンス音楽よりも簡素な対位法の下で自由に旋法内の音を選べたのでできた表現でした。

1567年に書かれた「大主教パーカーのための詩編曲」の第3曲の旋律は、後にヴォーン・ウィリアムズが「トマス・タリスの主題による幻想曲」に用いたため、特に有名になりました。また、この第9曲は「タリスのカノン」という別名を持っています。

40声のモテット
「我、汝の他に望みなし」
Spem in alium

あなたの他に何も望みを持たず

私は、あなたの他に何も望みを持たず、

イスラエルの王よ、あなたは時に怒り、時に慈悲深くあり、
そして、人がすべての罪に苦しんでいることから解放してくださいます。

主なる神よ。天と地の創造主よ。
かえりみて下さい。
卑しき私たちを。





アントレ行列の曲

2025-02-01 20:54:00 | バロック
7日にお参りした上賀茂神社。
お社の奥の神山に神が降臨されたことで神山をお祀りしている世界遺産。


葵が御神紋で源氏物語で、光源氏が葵祭の主役勅使代(天皇の命を伝える役割)を務めたことが書かれています。

葵の御神紋
大學のゼミの出席扱いになるので葵祭を見学に行ったことも…。
葵の花を飾って平安時代と変わらない装束で行列が行きます。

御所を出発して下鴨神社を経由して終点が上賀茂神社です。
葵祭は4月。冬は静かです。
節分祭の準備中でした。

レオポルド モーツァルト(1719-1787年)神聖ローマ帝国自由帝国都市アウクスブルク生まれ、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク没

1719年、アウクスブルクで製本師の父ヨハン・ゲオルク・モーツァルト(Johann Georg Mozart 1679年-1736年)と母アンナ・マリア・ズルツァー(Anna Maria Sulzer 1696年-1766年)の長男として生まれました。
父方は代々石工職人、母方は代々織師でした。

1737年、ザルツブルク大学に入学。哲学と法律を学ぶはずでしたが、音楽に熱中して1739年に退学となりました。
ザルツブルクの名門貴族トゥルン=ヴァルサッシナ・タクシス伯爵家の従僕兼楽士として採用され、以後、本格的に音楽家としての道を歩み始めます。

1743年、ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者(無給)に採用され、以後ザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach) 1753年 - 1771年


の元で仕えます。

1747年、アンナ・マリア・ペルトゥル(Anna Maria Pertl 1720年-1778年)

と結婚。
7人の子供をもうけますが、成人したのは三女の愛称ナンネル(Nannerl 1751年-1829年)

と三男のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年-1791年)

のみでした。

1747年、ザルツブルク宮廷室内作曲家に就任。
1757年、宮廷作曲家の称号を授与されます。

1758年、ザルツブルク宮廷楽団第2ヴァイオリン奏者に就任。
1763年、宮廷副楽長に昇進。この後死ぬまでこの地位に留まりました。

1785年、ウィーンへ赴きヴォルフガングと再会。これが2人の最後の別れとなりました。
この時、息子の勧めでフリーメイソンに入会しています。

1787年、ザルツブルクでナンネル夫妻らに看取られて68歳で死去し、聖セバスティアン教会の墓地に埋葬されました。

ザルツブルク・聖セバスティアン教会にあるレオポルトの墓石(右)。中央はコンスタンツェの墓石。

ザルツブルク司教と決別していたヴォルフガングは臨終の床に立ち会わず、葬儀にも参列できませんでした、

友人のゴットフリート・ジャカン(Gottfried Jacquin)宛の手紙で
「最愛の父が死んだと知らされた。僕の心境を察してくれるだろう!」と悲しみの情を吐露しました。

アントレ Entree -はバレエの始まりに演奏される曲で、この曲に乗って行列して入場します。



「不死鳥」低音のための協奏曲

2025-01-27 21:00:00 | バロック
実家の梅の木。つぼみが膨らんでいました。
花まではまだ早いですが、春はもうそこまで来ているようです。
最高気温12度、来週にはまた寒くなるようです。

うちの裏庭にはジョウビタキ(尉鶲、常鶲)がやってきました。
渡り鳥で西日本では冬の間だけいるそうです。
うちで見たのは初めて。
りんごでも枝に刺しておけばよかった。

ミシェル・コレット(Michel Corrette, 1707 - 1795年)
フランス王国ルーアン生まれ、フランス共和国パリ没

は、フランスのオルガニスト、作曲家、音楽教則本の著者。
父はオルガニストで作曲家でした。

1737年頃から1780年まで、パリのイエズス会の大学でオルガニストを勤めました。
1773年以前にイングランドに旅したことも知られています。

1780年、アングレーム公爵

アングレーム公爵夫人(ルイ16世とマリー アントワネットの娘テレーズ、従兄弟のアングレーム公爵と結婚しました。)
にオルガニストとして仕え、15年後、87歳でパリで亡くなりました。

彼が作曲した、舞台のためのバレエ音楽とディヴェルティメントの中には、
『Arlequin(アルルカン)』『Armide(アルミード)』
『le Jugement de Midas(ミダスの審判)』
『les Âges(時代)』
『Nina(ニナ)』
『Persée(ペルセウス)』
があります。
オルガン協奏曲など多くの協奏曲を作りましたが、その中でも25曲のコミック協奏曲が有名です。
その他にも、ソナタ、歌曲、室内楽器楽曲、クラヴサンのための小品、カンタータ、宗教声楽作品などがあります。

『The Grove Concise Dictionary of Music』にコレットの項目があるが、「彼の音楽のほとんどは安っぽく取るに足らず、彼の作品の多くは通俗的なメロディが使われている」と評価が低く、その後散々な批判がされてきました。

しかし、それは古典派の時代に入っていたにもかかわらずバロック時代のスタイルで作曲し続けたためでは無いか?と思います。

彼の最も大きな音楽史的な功績は
オルガンの演奏や作曲の他に、コレットは演奏会を運営し、音楽を教えたために多数の教則本を書いたことです。

彼は20に近いさまざまな楽器(ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、リコーダー、バソン、クラヴサン、ハープ、マンドリン、声楽などなど)のための音楽教則本を書きました。
タイトルは、『Art de se perfectionner sur le violon(ヴァイオリンを完璧に弾きこなすための技術)』とか、『L'Ecole d'Orphée (オルフェウスの学校)』といったようなもので、フランスとイタリアのスタイルを書いたヴァイオリンの専門書もあります。

そうしたコレットの教育の仕事は「現代の演奏技術に明晰な洞察を与える」という功績を残しました。

「協奏曲 不死鳥」は低音楽器のために書かれました。
作曲年代はわかっていませんが、珍しい楽器編成のせいか演奏機会は現代でも多いです。

4つのヴィオラあるいはチェロ、バスーン、あるいは3つの低音楽器と通奏低音のために書かれています。

CONCERTO LE PHENIX / Michel Corrette




フレンチ玉ねぎスープの頃

2025-01-26 21:00:00 | バロック
長野県民のソウルフード、ミルクパン。

夫が長野出張で買ってきました。ミルククリームがたっぷり入っていて濃厚なのにさっぱりしていておいしかった。

他には

お多福豆

老舗だるまのアウトレットらしいです。潰れた豆で作られていますが、時々固まりがあって味は確かにだるまのお多福豆。
甘いけれどまろやかな甘さでこれ好きです。
他にも甘いものをあれこれ買ってきました。
家でじっとしている身には気晴らしになってありがたいです。
枚方は今日も暖かかったです。

パリのご当地グルメと言えば
フレンチオニオンスープ(スーパ ロニョンsoupe à l’oignon)

ローマ時代からの長い歴史の中で、オニオンスープは形を変えて存在し続けていますが、この人気の料理を改良して広めたのはフランス人でした。

言い伝えでは、ルイ 15 世が狩猟小屋で料理をしているときにこの料理を考案したと言われています。
食糧庫が空になっていることに気が付いたルイ 15 世
(1710-1774年)

が、バターとシャンパンを加えてスープを作りました。
これがフランス中に広まったという言い伝えがあります。
真偽の程はわかりません。

フランスのオニオンスープ、スーパ・ロワニョン( soupe à l’oignon)は、タマネギをバターや油できつね色になるまでじっくりと炒めます。

ブイヨンを注いでことことと煮込みます。

かりっとトーストしたフランスパンの輪切りを一切れスープ皿に入れ、スープを注ぎ、おろしたエメンタールチーズ、グリュイエールチーズまたはパルメザンチーズをふりかけて食べます。

耐熱性の器にスープを注いでからフランスパンを浮かべ、チーズをふりかけてからオーブンに入れ、焼き色がつくまで焼くとスーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)します。

フランスでは二日酔いに効くと言われています。

ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683-1764年)フランス王国ディシャン生まれ、フランス王国パリ没
ルイ14世と15世の治世を生き、その音楽は重用されました。

ヘーベの祝祭または、抒情の才能

1739 年の作品。
プロローグと 3 つの作品(幕) からなるオペラ バレエです。

台本はアントワーヌ・ゴーティエ・ド・モンドルジュ(1707-1768)によって書かれました。この作品は、1739 年 5 月 21 日にパリのパレ・ロワイヤルにあるアカデミー・ロワイヤル・ド・ミュージックの劇場で初演されました。

1679 年のパレ・ロワイヤルの眺め。劇場は東棟 (右側) にありました。

詩(歌)音楽、バレエを三つの愛のエピソードを若さの女神ヘーベが味わう形で表現し、人気を得ました。

プロローグ
オリンポス山を背景にした場所。

ヘーベは望まぬ注目に悩まされています。
キューピッドは、芸術を祝う祭りを見るために 一緒にセーヌ川のほとりに逃げようと提案します。

第1幕: 詩
レスボス島で、二人の詩人サッフォーとアルカイウスの愛が、嫉妬深いテレモスによって傷つけられ、ヒュマス王にアルカイウスを追放するよう説得します。

王が狩りに出かけているとき、サッフォーは王を驚かせ、寓意劇を上演し、それによって真実を知った王はアルカイウスを赦し、恋人たちは喜びます。

第2幕: 音楽
場面:寺院の柱廊
スパルタ王リュクルゴスの娘イフィセは、戦士であるとともに熟練した音楽家であるテュルテウスと結婚する予定です。

神託により、イフィセは「メッセニア人の征服者」と結婚しなければならないと告げられ、テュルタイウスは兵士たちを率いて彼らとの戦いに赴きます。
この戦いはバレエで演じられます。
テュルタイオスが勝利し、大歓喜の中で幕を閉じます。

第3幕: ダンス
背景に集落がある木立。 
華やかな庭園で
ダンスの上手さで有名な羊飼いのエグレが夫を選ぶことになっています。
神マーキュリーは変装して彼女の村を訪れ、彼女に恋をし、羊飼いエウリラスの嫉妬を引き起こします。
エグレはマーキュリーを選び、二人はダンスのミューズである テルプシコールと彼女の信者の助けを借りて祝います。

第1幕詩





養育費を稼いだ作曲家

2025-01-21 20:56:00 | バロック
相変わらずキャベツは高いですが、アスパラ菜というものが安かったので買ってきました。


癖がなくおいしかったです。
太い幹はアスパラのようなのかな?と思ったのですが、香りの薄い菜花の茎のようでした。
これはこれでアリ!

うちはみんなアスパラが好きなので、アスパラと思うと少し違うのですが。

月曜日はおとなしく家で練習。
厄介なハープの発表が終わったので少し落ち着いています。

しかし、明日1月21日(火)
「第21回聴き合い会」を開きます。
プログラムを作ってますが、体調を崩してドタキャンする人が…。

みなさん、お身体お大事にしてくださいね。

これのお世話をした翌日から、左目手術の準備が始まります。
目薬を入れて雑菌を減らして、体温記録。
風邪ひかないようにしなくっちゃ!

バロック時代にも元気な作曲家がいました。
バーバラ ストロッツィ(1619-1677年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、ヴェネツィア共和国パドヴァ没

「ガンバを弾く女」
バルバラ・ストロッツィがモデルを務めたと推測される絵画。あたかも高級娼婦のように描かれていますが、これは当時ヴェネツィア社会の「自立した女性」のイメージでした。

は、当時の最も優れた歌手、最も多作な作曲家の 1 人として称賛されています。

1677 年に亡くなるまでに 8 冊の歌曲集を出版しました。

1644年最初の曲集『Il Primo Libro de Madrigali』

これは、当時の最も有名な作曲家の作品よりも出版された作品数が多いことになります。

有名な詩人ジュリオ・ストロッツィ(1583-1660年モンテベルディの台本作家)

ジュリオ ストロッツィ(ベルナルド ストロッツィ(伯父)画)
の娘(養女、おそらく私生児)であり、フィレンツェで最も有力な一族の 1 つに生まれました。

父ジュリオの音楽討論サークルに歌手や会員として参加し、これは実質的にはストロッツィ邸に集まってバルバラの歌を聴く会であったようです。

バルバラは少なくとも1634年、15歳の頃から「インコニティ」の集会で非公式に歌を披露していましたが、それが余興に収まらなくなってきて、彼女は「ウニーゾニ」の会員ではなく「女主人」として、集会で皆にお題を出したり、賞を与えていたりしていたことが記録されています。

またフランチェスコ・カヴァッリ(1602-1670年)


に作曲を師事。

父親の死後に作曲と作品の出版を精力的に続け、出版譜の献辞から、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世(1578-1637年)


や、リューネブルク公国后妃ゾフィーが初期のパトロンであったと察せられています。

作品の大半はソプラノと通奏低音のために作曲されています。

これらはストロッツィ自身が歌うために作曲されたものと推測されています。

ストロッツィの作風は、モンテヴェルディ(1567-1643年)


の作品によって具体化された「第2の作法」(厳格対位法重んじ不協和音を制限する第一作法から離れて、より自由な表現を重んじる初期バロック音楽を擁護し、これを第二作法と名付けました。)に固く根を下ろしていますが、声それ自体の表現力を基礎として、より叙情性が強調されています。

後半生において、おそらく経済的困難から音楽活動に行き詰まり、音楽界から身を退きました。

その後の消息と没年については長らく不明とされてきましたが、近年になって、養育費の必要から高利貸しを営んでいたことが明らかにされています。

たくましい!

彼女の創造力は実に強力で、カンタータという音楽ジャンル全体の創始者と称されることもあります。 


『Arie, Op. 8』(1664)収録の

「何ができようか」

Che si può fare op. 8


恋の苦悩を歌っています。






ヨーロッパにおける紅茶の始まり

2025-01-14 21:00:00 | バロック
「これ何かなぁ?」
夫が出張でもらってきた韓国のお土産。悩んでいると、
夜勤明けの次男が
「写メ撮ってLENSや。」

やってみました。
お茶みたい。
これはナッツ茶。
もう一種は薬膳茶。
入れてみました。

薬膳茶は、トウキ、天弓、シナモン、甘草、白芍薬、黄耆、熟旨黄。甘い!
養命酒を煮詰めた感じかな。

ナッツ茶はアーモンド、クルミ、ナツメ、ヒマワリの種。
こちらは香ばしい感じでおいしかったです。カップに残ったナッツがいい感じにふやけてておいしいので残さず食べました。

ハープを何時間も練習してしまいましたが、なかなかうまくなりません。
目は見えるようになったので楽譜は読みやすいのですが…。
ガードのついた保護メガネが邪魔。

1679年東インド会社

がロンドンで中国から来た3樽のボヘア茶(武夷茶、ホビー茶とも言われていますがはっきりはわかっていません)をオークションにかけました。

これがヨーロッパにおける紅茶の始まりだそうです。

1712年頃にはイギリス東インド会社が中国茶のヨーロッパへの輸入を独占するようになりました。

1717年にはトーマス・トワイニング
(1675-1741年)

が紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」
ロンドンのストランドにあるトワイニングの店舗入口
を開業して成功を収めています。

また、1765年には砂糖革命が起き、砂糖を入れた紅茶は中産階級への普及が進みました。

ゲオルク フリードリヒ ヘンデル(1685-1795年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレードブリテン王国イングランド ロンドン

ハノーファーでジョージ1世に引き留められたにも関わらず無視して、イタリアなどを2年間回り、イギリスに渡ります。

そこに、ジョージ1世がイングランド王になりやってきます。
そこで彼に仕えるようになります。
オペラや水上の音楽などジョージ1世の王宮での曲を作曲しています。

トワイニングが1706年に紅茶をゴールデンライオンで販売を初め、1717年には三店舗にも拡張しました。

その頃ヘンデルが作曲したのはHWV389 トリオ・ソナタ フルート、ヴァイオリンと通奏低音のための曲です。

ジョージ1世の食事やお茶の時間にも演奏されていたかもしれません。



4大元素カオス

2025-01-13 21:00:00 | バロック
連休中日、さすがに家で過ごしました。
やることはいっぱいあります。
ハープの発表会が19日にあるので練習もあるし、フルートは何曲も持っています。
次男は休日出勤、おまけに夜勤。
インフルエンザでお休みする人が出て
代わりに出勤。
インフル増えているようです。みなさんも気をつけてくださいね。
昨日行った近江八幡市の八幡堀。
日牟禮神社の鳥居の横から入れますが、今回は橋の上から左右を見るだ。



ここに来たらこれを見なくちゃ帰れません。
そう言ったら
車を少し停めて『待ってるから撮っておいで。』と夫が言ってくれました。

八幡堀の現在の文化的景観は1585年(天正13年)豊臣秀次(1568-1595年)秀吉の甥

が八幡山城を築城し、城下町を建設したことを起源として形成されました。

豊臣秀次は安土城下などから商人・職人を呼び寄せるとともに、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削しました。

昨日ロープウェイで昇る時に見えた西の湖

1595年(文禄4年)八幡城は廃城となったものの町は残され、この地を根拠地とした近江商人は八幡堀の地の利を活かして商業を行い、町は江戸時代を通じて繁栄しました。

近江八幡の商家町(日牟禮八幡宮境内地、八幡堀を含む)は、近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。

戦後汚染が進んで埋め立て計画も持ち上がりましたが、1975年商工会の青年会議所が埋め立て反対を表明し、自主的に清掃をし署名を集めます。
『よみがえる近江八幡の会」が設立され、4年にわたる清掃、掘削工事を経て景観を甦らせます。

ジャン=フェリ・ルベル(Jean-Féry Rebel, 1666- 1747年)フランス帝国パリ生没


フランス盛期バロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト。

ルベルは、ルイ14世

の私設礼拝堂のテノール歌手、ジャン・ルベルの最も有名な子供で、幼いころからバイオリンの天才として活躍しました。

後に彼は、偉大なバイオリニスト、歌手、指揮者、作曲家であるジャン=バティスト・リュリ
の弟子になりました。

1699年、33歳でルベルは王立音楽アカデミー(オペラ座としても知られる)

の第一ヴァイオリン奏者となりした。

1700年にスペインを訪問。 
1705年に帰国後まもなく、宮廷楽団の一つ「王の24人のヴァイオリンLes Vingt-quatre Violons du Roy」に入団しました。
 
1716年に音楽長に選ばれました。

1726年に宮廷で最も重要な役職は室内楽作曲家で、その称号を授かりました。
ルベルはルイ14世の宮廷作曲家やアカデミーの音楽長を務め、コンセール・スピリチュアルを指揮しました(1734~1735年)。


1865 年のチュイルリー宮殿。中央パビリオンの 2 階でコンサート スピリチュエルが開催されました。
ルベルはイタリア風のソナタを作曲した最初のフランス人音楽家の一人です。
彼の作品の多くは、複雑な対リズムや大胆なハーモニーなど、当時の聴衆にはあまり理解されなかった独創性に富んでいます。

彼の作品『ダンスの特徴』は、フランスの伝統であるダンスと音楽を融合させ、革新的な韻律の発明を提示しました。

この作品は人気があり、1725年にロンドンでゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの指揮で上演されました。
ルベールは師に敬意を表して『リュリ氏の墓』(文字通りには「リュリ氏の墓」、比喩的には「リュリへの賛歌」)を作曲しました。

ルベルの作品のいくつかは、振り付けされた「交響曲」と評されています。

彼の最も大胆なオリジナル作品の一つに、世界の創造を描いた「Les Élémens(4大元素)」があります。

4大元素
1.Le cahos(彫刻された楽譜からの綴り)または混沌
L’Eau - L’Air - La Terre - Le Feu [00:00​]​

この楽章はダンスのない器楽作品です。「Le cahos」は、聖書の創世記の創造物語に記述されている世界の創造の 7 日間を示す 7 つの部分に分かれています。不協和音のクラスターで始まります。

フルートの「l'eau」(水)は下降する旋律の動きで表現され、その後、規則的なジョイント値で徐々に上昇する。ピッコロの「l'air」(空気)は高い B♭ トリル(音楽)で表現される。これは、高いジャークで表現されるバイオリンの「le feu」(火)と同時に発生する。第 2 カオスの最後のテーマはベース楽器の「la terre」(地球)で、次の小節では長い音符で表現される。これらのテーマは、次のカオスで展開される。より短い第 7 カオスは、一般的にはより穏やかで、以前のカオスのようなハーモニーやリズムの不規則性がなく、ニ長調の長い終止音楽で終わります。

2.ルールI: 大地と水
3.シャコンヌ:火
4.暴走: 空気 
5.ロシニョール 
6.ルーレ II 愛の空気 
7.タンバリンI & II 水
8.シシリエンヌ ロンド:愛の歌
9.カプリス

冒頭の「Le Chaos」は驚くほど現代的です…というか、私は度肝を抜かれました。
本当にバロック時代に書かれたのか?!
本当は八幡堀に因んで『水』を取り上げようと思ったのですが、これを聞いて第1番『カオス』





鯉、猫、鹿

2025-01-06 21:03:00 | バロック
連休最終日。さすがに家で静かにしていました。
近所に買物には行きましたが、
ハープやフルートを練習しながら、
お正月に出会った生物たちを思い出していました。
観音寺の鯉。





美しい生物です。

浄瑠璃寺の猫さんたち



それから
奈良の鹿さんたち















ウィリアム・ロウズ(1602-1645年]
チェスター近郊ロウトン・ヒース生まれ、


は、作曲家・宮廷楽師。
王党派として清教徒軍と戦い、戦死した。
ソールズベリー大聖堂

の聖歌助手トマス・ローズの次男。
長男ヘンリーも作曲家。

ハートフォード伯エドワード・セイマー(1539-1621年)

の庇護を得て、作曲家ジョン・コプラリオ( 1570年ごろ - 1626年)に師事。

おそらくこのことから、早くから皇太子チャールズと接触する機会を持つ。皇太子がチャールズ1世(1600-1649年)


として即位すると、兄ヘンリーとともに宮廷楽団に採用されます。
1635年には、リュート奏者および声楽家の一人として常勤音楽家に任命されますが、それ以前から宮廷音楽の作曲を手懸けていました。

成人してから全ての日々を、宮廷における任務に捧げ、世俗音楽やマスクのための歌曲を作曲し(間違いなくその上演に加わり)、またチャールズ1世の礼拝堂のためにアンセム(教会の聖歌、交唱賛美歌)やモテット(ミサ曲以外の宗教歌曲)を作曲しました。

現在ローズは、3人から6人までの奏者によって演奏されるガンバ・コンソート(ヴィオラ・ダ・ガンバの入った合奏)のための精巧なセット(組曲)によって名を残しています。

対位法やフーガの利用に加えて、牧歌的な主題に風変わりで辛辣な主題をつぎはぎする傾向があります。

ローズのコンソート組曲は、イギリスの古楽器アンサンブルを中心に再評価され、近年になって演奏・録音されるようになりました。

チャールズ1世と議会との不和からイングランド内戦が勃発すると、ローズは王党派(王制を支持する政治党派)の軍勢に加わり、近衛兵に任命されました。

これは、ローズが危険に身を晒さぬことを望まれているということでした。にもかかわらず、議会派による王党派の大虐殺の際にローズは「ふと撃ち殺されました」。

ローズの墓碑銘の最後のくだりは、彼が王権神授説の否定派の手にかかって死んだという事実をほのめかしています。

Will. Lawes was slain by such whose wills were laws.
ウィル・ローズは倒される、意志(ウィル)こそが法(ロー)だとする者たちによって。

「猫」
他の生き物と同じように、猫も威張ったり、愛を交わしたりすることがあります。

そして、暗くて寒い夜には、
これらのジェフリー・ライオンズ(リチャード1世は獅子心王と呼ばれていたことから隠喩)は戦いに使用します。
それから彼らは「ニャー」「ニャー」と鳴きます。

しかし、最も残酷な戦いは、最近テンプルバー(メアリー1世とスペインフェリペ2世の結婚した場所)で行われました。
そこの家々のタイルの上に。
ボロ・サー・ボア・キャットがこう誓うのを聞いた場所。

「私の娘に求愛する奴隷は死ぬでしょう。」

シャープ・ネイル卿(鋭い爪卿)が嘘をついた相手。
それから彼らは「ニャー」「ニャー」と鳴きます。 

それで彼らは二人とも密かに参加したのですが、
「あなたのコートと私のコートは誰が着ますか?」
「あなたと私」こうして彼らは「ニャー」と鳴きます、
それでも彼らは「ニャー」と鳴きます。






慈悲巡礼

2025-01-04 21:00:00 | バロック
3日は南山城のお寺を回りました。
タイトル写真は浄瑠璃寺の三重塔
計画的に行ったわけではなく、2日に妹と姪、母、次男と京田辺市の観音寺に行ったら

国宝、十一面観音様(白鳳時代645-710年時代)にすぐ前まで入らせて下さって

鯉とたわむれて、こんなリーフレットいただいて、
地図を片手に

寿宝寺に

十一面千手千眼観音(平安時代794-1186年)さまがいらっしゃるはずなのですが、拝観には事前予約が必要だということでお顔を拝見することはできませんでした。
がっかりした顔の妹たちに
「蟹満寺だったらよく行くよ。」
というと妹が「行く!」というので蟹満寺へ、拝観終了3分前に到着したにも関わらず、
銅造釈迦如来坐像さま(685年?あるいは8世紀)に
会わせていただきました。
撮影禁止なのでパンフの写真です。
で、3日は続き。
海住山寺

国宝の鎌倉時代の五重の塔
重要文化財の十一面観音(平安時代)さま

は見られませんでしたが



木津川を見下ろす絶景を見て、
常念寺へ

平和観音さま、

巨大です。こちらも重要文化財の菩薩形立像 - 平安時代前期(9世紀は予約無しでは拝観できません。、

浄瑠璃寺はお庭が有名です。

吉祥天女像1212年や四天王像、阿弥陀さま、がいらっしゃるそうですが、


この奥にいらっしゃる木造薬師如来坐像

が、坐っていらっしゃるのを暗闇の中で見えたような見えなかったような…目が悪いから見えない。

美しいお庭でした。
九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)平安末期や四天王立像 四躯(国宝)は拝観できませんでした。
南山城のお寺はまだまだたくさんあるようです。

キリスト教ではピエタという像があります。
ピエタは慈悲という意味で、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことです。

ミケランジェロ プオナローティ(1475-1564年)フィレンツェ共和国カプレーゼ生まれ、教皇領ローマ没

の4体のピエタは特に有名です。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年 - 1500年、サン・ピエトロ大聖堂)


『フィレンツェのピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成

『パレストリーナのピエタ』(1555年? フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成


『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられています。

観音さまは慈悲を体験していますが、キリストを抱くマリアさまも慈悲に溢れています。

スターバト・マーテル ( Stabat Mater)は、13世紀のフランシスコ会で生まれました。

カトリック教会の聖歌の1つです。
詩の作者は明らかでなく、ヤコポーネ・ダ・トーディ、インノケンティウス3世、ボナヴェントゥラらが候補としてあげられています。

題名は最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)からとられています。
日本語では「悲しみの聖母」「聖母哀傷」と訳されています。

わが子イエスが磔刑に処され、十字架の傍らに立っていた母マリアが受けた悲しみを思う内容となっています。

前半はマリアの嘆きを、後半は「どうかその悲しみを担わせて下さい。」という内容になっています、

この中でも古楽・バロックではペルゴレージ、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ハイドン。

近現代ではロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランク、カロル・シマノフスキ、アルヴォ・ペルト、クシシュトフ・ペンデレツキなどの作品が著名です。

『聖歌四編』に含まれたスターバト・マーテルの旋律はジュゼッペ・ヴェルディの最晩年の作品です。

2025年は、世界中に慈悲の心が広がることを祈ります。

ジョバンニ バディスト ペルゴレージ(1710-1736年)教皇領イェージ生まれ。ナポリ王国ポッツウォーリー没

幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院

に入学します。
1731年卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わりました。

1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めました。
1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された
『奥様女中 La Serva Padrona』
『奥様女中』
が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。

1734年にはナポリ楽長に就任。

1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演。
失敗しナポリへ戻ります。

この頃から結核のため体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになります。
1736年にはナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に療養に移ります。
ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『スターバト・マーテル Stabat Mater』(悲しみの聖母)

を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳で死去しました。