日曜日ですがピッコロ必死にさらっています。
写真も無いので
家にある夫の…招き猫。
何年か前に弘法市で買ってきました。
中国出張の時に招き猫を持っていくと喜ばれるとか言って探しては買っていましたが、(あげるのは新品)この子はうちに置いています。
ずっと直に置いていましたが、昨日出張の帰りにくずはモールに迎えに行ったら刑務所の人が作った作品の即売会やっていました。
そこで小さな畳を買っていたので何に使うのかと思っていたら、猫さんの座布団でした。
この猫さんは背中に
こんな穴が空いているので
弘法市のお店の人によると穴が空いていると骨董的価値は無いみたいですが、右手を上げている猫さんは金運を招くとか…江戸時代に流行った迷信だそうです。
すると横から夫が、「これは焼くときの穴。空いてないと割れるんだ。」
ホントかな?ググってみたらどちらも無かった。
お金が貯まる風水招き猫貯金箱。
って言うのはたくさん売っていたのだけれど。
変な風習だなぁ?と思っていたらヨーロッパにもありました。
馬蹄
ヨーロッパでは定番の幸運モチーフで、魔除けの意味もあります
馬蹄の形が幸運を呼び込んで逃がさないと言われています。
扉に飾る風習もあります。ケルト人がダーナ神族を鉄器と騎馬で打ち倒したことから、妖精や邪鬼などの異界の住人は鉄を嫌うと伝承され、幸運をもたらすとされた説。
後にカンタベリー大司教となった鍛冶屋の聖ダンステンが悪魔から馬の蹄鉄を修理するよう頼まれた際、悪魔の足に蹄鉄を打ち付け、痛がる悪魔に扉に蹄鉄が留められているときは絶対中に入らないという約束を取り付けようやく蹄鉄を取り外してやったことから悪魔除けとされたという説があります。
6ペンスコイン
イギリスの古い硬貨で、富と繁栄のシンボルとされています。
1967年に発行が終了しており、現在は生産・使用されていません。
花嫁の左靴の中に6ペンスコインを入れると幸せになれる
花嫁の結婚の繁栄を願うものとされており、一生お金に困ることがないようという願いが込められているます。
英国の伝承童謡「マザーグース」
挿絵画家アーサー・ラッカムのリトグラフで、1913年刊行の自著のための表紙絵である。画題は「ヘイ・ディドゥル・ディドゥル」
の中の一つに、幸せな結婚のための「サムシング・フォー」という歌があり、その中に「6ペンスコイン」が登場します。
マザーグース「サムシング・フォー」
Something old, something new,
something borrowed, something blue,
and a sixpence in her shoe.
なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、
そして靴の中には6ペンス銀貨を。
指貫 シンブル
ヨーロッパでは指貫は裁縫に使われるだけでなく、装飾品としての役割も持ち、収集品としても人気を集めています。
指貫は贈答品にもされ、『不思議の国のアリス』
ドードーは指ぬきをアリスにプレゼントします(カラー彫刻)(The Dodo presents Alice with a thimble (colour engraving))
ジョン・テニエル
『ピーター・パンとウェンディ』

などの文学作品には指貫が贈り物にされる場面が書かれています。
クリスマスプディング

に指貫を入れて蒸し上げる習慣があり、指貫が入ったプディングを食べた人には幸運が訪れると言われています。
ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773年)神聖ローマ帝国ハノーファー選帝侯領ニーダーザクセン州ゲッティンゲン近郊オーバーシュテン生まれ、神聖ローマ帝国ポツダム没
クヴァンツは、ハンス・ヨヒム・クヴァンツとして生まれました。
父アンドレアス・クヴァンツは鍛冶屋蹄鉄職人でしたが、
ハンスが11歳にもならない時に亡くなりました。
死の床で、父は息子に自分の跡を継ぐようにと言いのこしました。
クヴァンツは自伝の中で、9歳の時から鍛冶屋としての訓練を受けていたと書いています。
父の死により、彼は自分の進路を選ぶ機会を与えられ、1708年から1713年にかけて、メルゼブルクの町の音楽家であった叔父のユストゥス・クヴァンツについて音楽の勉強を始めました。
また、一時期、従兄弟の夫でオルガン奏者のヨハン・フリードリヒ・キーゼヴェッターにも学びましだ。
1714年以降、クヴァンツは作曲を徹底的に研究し、多くの巨匠の作品を熱心に研究して彼らのスタイルを取り入れました。
1716年にドレスデンの町の楽団に入り、1717年にヤン・ディスマス・ゼレンカに対位法を学びました。
1718年3月、ザクセン選帝侯でポーランド王のアウグスト3世
(1670-1733年)

のために新設されたドレスデン・ポーランド礼拝堂のオーボエ奏者に任命されました。
ポーランド礼拝堂でオーボエ奏者として昇進できないことが明らかになったため、クヴァンツはフルートの道に進むことを決意し、1719年に王立管弦楽団の首席フルート奏者ピエール=ガブリエル・ビュファルダンに短期間師事しました。
1724年から1727年にかけて、クヴァンツはヨーロッパをフルート奏者として「グランドツアー」をして教育を終えました。
ローマではフランチェスコ・ガスパリーニに対位法を学び、ナポリではアレッサンドロ・スカルラッティに会い、パリではフルート奏者のミシェル・ブラヴェと親しくなり、ロンドンではヘンデルに勧められて留まりました。
1728年のカーニバル中に皇太子フリードリヒ
アントワーヌ・ペスネによるプロイセンの皇太子としての24歳のフリードリヒの肖像画(1736年、ハウスドールン、オランダ)がドレスデンを訪れ、ピゼンデルとクヴァンツに会ったりリハーサルをしました。
4月、皇太子フリードリヒはうつ病に苦しみ、ほとんど何も食べませんでした。
父王は彼の命を心配していました。
1728年5月、クヴァンツはアウグスト2世のベルリン公式訪問に同行しました。
フリードリヒの母プロイセン女王ソフィー ドロテア

は彼の演奏に感銘を受け、息子のために彼を雇いたいと考えました。
アウグスト2世は断りましたが、年に2回ベルリンとバイロイトにクヴァンツが旅行することを許可しました。
1730年6月、彼はツァイタイナー・ルストラーガーミュールベルク(近郊の大野営、ツァイタインの歓楽野営とも呼ばれ、アウグスト強王の壮大な閲兵式と王家の栄華の披露を組み合わせたもので、1730年5月31日から6月28日まで、 ツァイタインの町、グラウビッツの町、シュトロイメンの町の間のリーザとグローセンハインの町の近くで行われました。)に参加し、ベルリンへ旅しました。
ツァイタイン近くの野営地、ヨハン・アレクサンダー・ティーレ作1730 年クヴァンツは後に作家フリードリヒ・ニコライを訪問、
ある日、フリードリヒの横暴な父が息子の髪型、音楽の勉強、いかがわしい本、派手なガウンを認めず激怒したため、彼とハンス・ヘルマン・フォン・カッテはクローゼットに隠れなければならなかったと語っています。
クヴァンツは1737年にアンナ・ロジーナ・カロリーナ・シンドラーと結婚しましたが、結婚生活は幸せではなく、妻が彼を横暴に扱っていたことはベルリン中で知られていました。
1741年までクヴァンツはドレスデンのザクセン宮廷に留まりました。
1740年にフリードリヒ2世がプロイセン王になると、クヴァンツはついにフルート教師、フルート製作者、作曲家の地位に就きました。
サンスーシ宮殿でフルート協奏曲を演奏するフリードリヒ大王、チェンバロを弾くCPEバッハ、右側の壁にもたれるクヴァンツ。アドルフ・メンツェル作、1852年その後の人生をそこで過ごしました。
少なくとも1739年からフルートを製作し、例えばイントネーションを助けるために第2のキー(標準のD#に加えてEb)を追加するなど、フルート設計の革新者でした。
フリードリヒ大王はクヴァンツ製のフルートを11本所有していました。
彼は、主にフルートのための何百ものソナタや協奏曲を書いただけでなく、トラヴェルソ・フルートの演奏に関する論文『トラヴェルソ・フルートの演奏について』(1752年)(英語では『フルートの演奏について』)の著者としても今日知られています。
これは、18世紀の演奏方法とフルートのテクニックに関する貴重な参考資料です。
クヴァンツは彼のオーケストラには参加せず、ベルリン・ミッテ区(クローネン通り)
現在のミッテ区
に住んでいましたが、1773年に亡くなるまでフリードリヒの宮廷で演奏していました。
1755年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルグの『音楽活動に関する歴史的批判的考察』に伝記が掲載され、1762年にはイタリア語で別の伝記が出版されました。
1877年には甥のアルベルト・クヴァンツが長編伝記を出版しました。
クヴァンツの2本のフルートのための協奏曲 Gminor QV6-8