音楽の喜び フルートとともに

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ビオラと合奏

2022-01-31 21:36:10 | 音楽
今日はピアノ、ビオラ
フルートのトリオ練習でした。
ドビュッシーのベルガマスク組曲プレリュード、月の光、メヌエット、パスピエを合わせ、バッハを少しチェロの通奏低音をビオラで読むのは難しいので。

坂田さんが持って来てくれたドライオレンジ。

紅茶に入れて食べたら香りが移って柔らかくなって美味しかったです。

お昼ごはんに金重さんがパンを焼いて来てくれました。

それに今日は

白みそのお汁と鶏肉のグリル焼きを作って食べてもらいました。

後半は小品の編曲集を試してみました。
色々やったけれど、モーツァルトのディベルティメントだけ、ページ数が多いので飛ばしました。

ウォルガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)

16歳のモーツァルトが書いた弦楽四重奏のためのディベルティメント K136。


度々行っていたイタリア旅行での影響やハイドンの影響を受けています。

ディベルティメントは以前にも書きましたが、貴族の家の中で祝いごとの食事の席で演奏される曲…バックミュージックのようなものです。

モーツァルト自身がこの曲をディベルティメントと呼んでいなかったとする説が有力です。

シンフォニックな感じ、当時不可欠とされていたメヌエットがないなどから支持されています。

編成は、ヴァイオリン2、ヴィオラ、バスと書いてあってバスがチェロなのか指定はありません。

弦楽四重奏と考えられていますが、多くの楽器を加えて弦楽合奏で演奏されることも多いです。








マーラーの交響曲

2022-01-30 20:51:42 | 音楽
今日も寒かったですが、引きこもって練習、練習。

グスタフ マーラー(1860-1911年)は


オーストリア帝国ボヘミア王国カリシュト生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没。

マーラー生家

14人兄弟の二人目の子どもとして生まれました。
が、一人目の長男が早世し、長男として育てられました。
7人しか成人しませんでした。
弟のエルンストは盲目で心臓水腫で苦しみましたが、亡くなる前の数ヵ月ベッドの側で世話をしたそうです。

父のベルンハルトは行商をしています。
本をよく読み「御者台の学者」と呼ばれています。
母マリーは石鹸工場の娘でした。心臓が悪く、片足が不自由でした。

ユダヤ人であった一家は比較的民族的対立の少ないイーグラウに移住して、子どもたちはそこで教育を受けています。
15歳でウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。この年エルンストが亡くなります。

17歳でブルックナーに出会い和声楽の講義を受けて、深い付き合いが始まります。
1886年ライプツィヒ歌劇場で楽長になります。
この年「子どもの不思議な角笛」を作曲します。

1888年交響曲第1番(巨人…題名はのちにマーラーによって削除)を作曲。
ブタペスト 王立歌劇場 の芸術監督となります。
89年 相次いで両親をなくします。
1891年ハンブルク歌劇場の楽長になります。

1894年交響曲第2番(復活マーラー自身がつけたのではない)完成
翌年 弟のオットーが21歳で自殺します。

1896年交響第3番 を書きます。

1900年 交響曲第4番完成。
1902年アルマ シンドラーと結婚。


交響曲第5番完成。
長女マリア アンナ誕生。

1904年交響曲第6番(悲劇的)

1905年交響曲第7番(夜の歌この題名も後世のもの)

1907年マリア アンナ死去
交響曲第8番(千人の交響曲…興業主ミール グートマン名付け)完成。

1908年大地の歌テノールとアルト、オーケストラのための交響曲

1909年交響曲第9番

1910年死去。交響曲第10番未完成。

悲しい時、うれしい時マーラーは音楽を書いています。
生涯11曲の交響曲を書いてますが、お好きな交響曲はありますか?






愛されたピアノ協奏曲

2022-01-29 21:37:47 | ロマン派
京都カフェ モンタージュで伊藤公一先生のコンサートでした。ピアノは水野久美先生。

ゴーベールのソナタ全曲、第1番から第3番までを演奏されました。
本当に美しい。
オーナーが調律されてすぐのピアノ、ヴィンテージスタンウェイでの演奏。

日本最高、いや世界最高の奏者による演奏。

曲目はオーナーのリクエストです。
オーナーのフルートへの愛、ゴーベールへの愛リスペクトが伝わってくるプログラムです。

冬の京都は寒い…けれど会場は熱かった。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)

1860年頃
ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没。

彼のピアノ協奏曲第1番はニコライ ルビンシュテイン

に献呈しようと、1974年のクリスマスに聴かせたところ「この作品は陳腐で不細工、役に立たない代物で、貧弱、演奏不可能なので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい。」と言われました。

チャイコフスキーはセルゲイ タネーエフに献呈することを目指し、オーケストレーションを完成させた後、結局指揮者のハンス フォン ビューロー


に献呈しました。
1875年、ビューローはピアノのベンジャミン ジョン ラングとアメリカ ボストンで初演。
大成功をおさめました。ビューローはチャイコフスキーにその事を電報で知らせています。

ロシア初演はその一週間後、サンクトペテルブルクで行われました。

酷評したニコライ ルビンシュテインは、モスクワ初演を指揮者として受け持ち、その後何度もピアノを引き受け、この曲を広めました。

1779年夏、1788年12月にチャイコフスキー自身によって改定され、冒頭のアルペジオを分厚い和音にしています。

第二次世界大戦後、アメリカではトスカニーニとホロヴィッツの共演盤や、チャイコフスキーコンクールでヴァン クライバーンが優勝したこともあって、この曲は空前の盛り上がりを見せ、ポップアルバムチャートで7週連続一位を獲得した唯一のクラシック作品となりました。




アルス ノヴァのギョーム

2022-01-28 21:09:21 | 中世
寒い日が続きます。

アルス ノヴァは14世紀のフランスで栄えた音楽様式のことです。

シンコペーション(強拍と弱拍のパターンを変えて効果をもたらす技法。)やイソリズム(旋律を反復される一定のリズムに埋め込んで、それを楽曲の基礎とする技法)
など、今では当たり前なリズム技法が発達し、それに伴い記譜法も改良がすすみました。

宗教音楽が多かったですが、世俗的な音楽も発展しました。

そのアルス ノヴァの有名な作曲家
ギョーム ド マショー(1300年頃-1377年)


自然の女神から祝福を受けるマショー
フランス王国シャンパーニュ地方ランス生まれ、ランス没

ボヘミア王ルクセンブルク伯ヨハン(1296-1346年)

の秘書となり、兵とともに、イタリア、ハンガリー、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニア各地に赴きました。

ヴェルダン、アラス、サンカンタン、ノートルダム大聖堂参事会員の名誉職を得ました。

1346年、百年戦争のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、彼の娘ポンヌにつかえ、1364年フランス国王ノルマンディー公シャルル(フランス王カール5世)、フィリップ豪胆王、ナバラ王カルロス二世、サヴォイア伯アメデーオ6世、ペリー公ジャンなど多くのパトロンに仕えました。

1349年のペストの流行の時に自作品をまとめ、「マショー写本」として残っています。

ノートルダムミサ曲が有名ですが、聖職者にも関わらず多くの世俗的な曲を残しています。


シューベルトのセレナーデ

2022-01-27 21:51:37 | 名曲
珍しく仕事帰りに夫がケーキを買って来ました。
三木市宿原のペンギン飼ってるカフェのケーキ。
一見他のケーキ屋さんと変わり無いように見えますが、中にはさつまいもなど野菜を使ったケーキ。
これが最高に美味しいです。
酒呑みでケーキなど食べなかった夫が一度食してから、度々ここのケーキを買って帰るようになりました。
美味しいです。

韓国ドラマを見ていたら、シューベルトのセレナーデが使われていました。

主人公と相手が引かれあい、会話するシーンでピアノで演奏されていました。

フランツ シューベルト(1797-1828年)

オーストリア神聖ローマ帝国オーストリア大公国 リヘテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没。

白鳥の歌D957の

第4曲セレナーデ
ルードヴィヒ レルシュタープ(1799-1860年)
神聖ローマ帝国ベルリン生まれ、プロイセン王国ベルリン没。

の詩に曲をつけたものです。
ピアニストで音楽雑誌に寄稿する音楽評論家でもあり、ベルリンにおいて多大な影響力を持っていました。

1825年ベートーベンに託されたのですが亡くなってしまい、助手のアントン シンドラーによってシューベルトに回って来ました。

結局、31歳でシューベルトも亡くなり、死後白鳥の歌として友人たちによってまとめられました。

白鳥は死ぬ直前に美しい声で歌うというギリシャ神話由来の伝説にちなみ友人たちによって名前をつけられた曲集です。

恋人よきておくれと言うような詩です。



シモネッティのマドリガル

2022-01-26 21:56:04 | 近代
グランドハープを買いました。レバーハープは、転調する時に1音ずつ、手でレバーを上げないといけないので、曲によって演奏不可能なものがあります。
それで、グランドハープをと思いますが、高くてなかなか買えません。

友だちに「安く欲しいなぁ。」と話していたら、FBで中古を売ってる人がいると紹介してくれました。

神奈川のハーピストさんで、20年ものですが、先生にも写真をみてもらったら、きれいでお買い得!と言って下さったので、思いきって連絡してみると、神奈川から車で運んできて設置してくれました。
なかなかいい音です。
これでやっとペダルの練習もできます。

やる気も出て来ました。

アキッレ シモネッティ(1858-1928年)
イタリア トリノ生まれ、イギリス ロンドン没

ヴァイオリン奏者で作曲家として活躍しました。

ニコロ パガニーニの最後の弟子カミッロ シヴォリに学びました。
1891年イギリスに渡り、トリオ奏者として活躍します。
1912年からロンドンアイリッシュ音楽アカデミーでヴァイオリン教授として務め、多くの生徒を教えています。

マドリガルは14世紀北イタリアのロンバルディア地方の宮廷で演奏されていました。

多声音楽で詩節3つを繰り返すなど形式が厳しく、すぐに廃れてしまいました。

16世紀になると自由な形式のマドリガルが現れあらゆる音楽形式で作られました。

17世紀に入ると
宗教マドリガーレ、マドリガルコメディ、イングリッシュ マドリガルなど派生も多いです。

シモネッティのマドリガルは、形式にとらわれずバロック時代への郷愁を込めた叙情的な音楽になっています。

ヴァイオリンで演奏するように作曲されましたが、フルートで演奏される機会も多いです。



愛好家の選んだ交響曲ベスト10

2022-01-25 20:58:45 | 音楽

クラシック愛好家が選んだ交響曲ベスト10というランキングをネットで見つけました。

好みはそれぞれ、選んだ人が聴いて欲しいランキングかな?

たくさん交響曲を聴いている人の推し。と思えば、興味が出てきました。

第1位ベートーベンの第9番
第2位ブラームス第4番
第3位ベートーベンの第7番
第4位ドボルザークの新世界
第5位チャイコフスキーの悲愴
第6位ベートーベンの英雄
第7位ベートーベンの運命
第8位ブラームスの第1番
第9位マーラーの第9番
第10位モーツァルトのジュピター

ベートーベンどれだけ好きやねん!というツッコミが…。
私も好きですが。

交響曲の父ハイドンや、シベリウス、ブルックナー、ショスタコーヴィチはいずこに?なんて無粋なことを言ってはいけません。

たまたまアンケートに参加できた愛好家の皆さまの推し。

ちょっと意外な気がするのは
第2位ブラームスの第4番。
恐ろしい導入部を持つ第1番ではなくて、哀しいメロディの1楽章を持つ第4番。
やっぱり寄り添い、癒されたいのかな?その後勇気を鼓舞され立ち上がる感じ。
いい曲ですね。
珍しくカラヤンがシェアできました。



日本クラシック創成期の作曲家

2022-01-24 21:47:00 | 日本
椿の木がきれいな花をたくさん咲かせていました。



尾高尚忠(1911-1951年)

東京生まれ、名古屋没
旧制高等学校成城文科を半年で中退、1931年ウィーンに留学。ピアノと音楽理論を学んだ後、一時帰国し武蔵野音楽学校で教鞭を取ります。
1934年ウィーンに戻り、ピアノ、指揮、作曲を学び、1938年ウィーン交響楽団、ベルリン フィルハーモニー交響楽団の指揮をしたり自作を披露するなどして活躍します。

1940年帰国、41年新交響楽団を指揮。
新交響楽団が日本交響楽団に改組、山田和男とともに専任指揮者になります。

戦前、戦中、戦後と日本交響楽団の指揮を各地でふりつづけましたが1951年1月12日名古屋公演の後、倒れ、39歳で死にました。

ハードワークぶりは日響機関誌の寄稿でよく知られていて、NHKが糾弾され、その後日本交響楽団はNHK交響楽団となり、「尾高賞」がもうけられるなど楽団の待遇改善に務めました。

フルート協奏曲1949年
小編成オーケストラ版が初演され、オーケストラ版への改定がすすめられましたが、尾高の死去で未完に終わりました。

フルート奏者の森正の依頼で作曲をはじめ、助言を受けながら2ヶ月で完成。

オーケストラ版は作業がはかどらず1951年2月16日の尾高は他界します。


弟子の当時19歳の林光が完成しました。
吉田雅夫のフルートで追悼演奏会で初演されました。

後に尾高惇忠によってピアノ伴奏版も作られています。


椿姫

2022-01-23 13:58:04 | ロマン派
肥後椿は紅白の割合が美しいです。

椿姫はアレクサンドラ デュマ フィス(1824-1895年)

の小説です。
父はアレクサンドラ デュマ、三銃士やモンテ・クリスト伯を書きました。

父と区別するために小デュマと呼ばれています。

小デュマはパリで大デュマの私生児として生まれます。

7歳で認知され、母と引き離されパリ9区で最高の教育を受けて育ちます。

20代は父の財産で遊び暮らします。

20歳で1844年クルチザンヌと呼ばれる高級娼婦マリー デュプレシと出会います。

彼女は7人のパトロンを持っていたと言われています。
しかし出会ってすぐに彼女は23歳で肺結核で病死してしまいます。

1848年、彼女との思い出を小説に書き出版すると、すぐに戯曲化を勧められ、1850年舞台で上演され、大成功します。

以来、アカデミー フランセーズに入り、経済的にも文学界でも大きな力を持ちました。

1851年オペラ「椿姫」は、ジュゼッペ ヴェルディ(1813-1901年)がこの戯曲を見て感激し作ったものです。


当時歌手ジュゼッピーナ ストレッポーニと
同棲していたヴェルディは、故郷の人々や、パトロンに冷たい目を向けられていました。
彼女にはすでに三人の私生児がいて、「椿姫」にヴェルディが共感したのは彼女がいたからではないかと言われています。

娼婦が主人公だと検閲が通らないので「トラヴィアータ」(堕落した女)とさげずむ要素を題名に加えたことで通したということです。

愛するアルマンから椿姫は身を引いて、死んでしまい、小説ではアルマンは絶望して墓守りのような生涯を送っています。

ジュゼッピーナはフランス語のできないヴェルディに代わって交渉を行い、生涯ヴェルディを支え続け、死後の資料管理も徹底していたそうで、ヴェルディの成功に多大な影響を与えました。

一方小デュマの方も、ロシア貴族の妻を迎え、子どもを二人もうけ、子孫が今も活躍しています。
















キャンディード

2022-01-22 21:18:01 | 現代
アオキの実がなっていました 
かわいいです。

オペレッタ「キャンディード」あるいは楽観主義説はヴォルテール(フランソワ マリー=アリエ)のカンディード(キャンディード)を元にレナード バーンスタイン(1918-1990年)が作曲しました。

ヴォルテール(1694-1795年)は


フランスの哲学者で文学者、歴史家。
カンディードは1759年ピカレスク小説(悪漢小説)と言われるものです。
当時流行っていたゴットフリート ライプニッツの
楽天主義
「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」
どんなことが起きても、それは神の起こしたことなので最善である…みたいな…この命題は正しいか?

1755年11月1日リスボンで起きた大地震の大惨事に衝撃を受けたヴォルテールが神が起こすことはすべて最善であると受け入れる楽天主義に疑問を持ったヴォルテールの書いた小説。

主人公のカンディード(真っ白なという意味)が理不尽だったり、予想外の出来事に遭遇し、時にはずる賢く、時には人殺しをしたりしながらも生き抜き、落ちぶれた貴族の娘ギュネゴンドと結婚するまでの物語です。

バーンスタインは最後にキャンディードに
と歌わせています。