音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

世界を巡ってきた舞楽

2024-11-26 21:00:00 | 日本
月曜日、母の友人の方が出演される「第52回天王寺楽所雅樂公演会 雅亮会百四十年」がフェスティバルホールで上演されるということで、  

土曜日に母と前回は夕食を一緒に食べてから行ったのでそうしようとしたら、返事が二転三転。

「あれ?」と思って聞いたら
「その日は。お琴の先生方との会合でお昼アゴラで食べてくるから、夜になってもおなかいっぱい。」だって!
「ええなぁ〜。」
結局約束しないで当日。

食事は諦めて、家族の夕飯を用意して準急でゆっくり座っていこうと、時間を計算してLINEしたら、なかなか既読つかない。

仕方ないのでそのつもりで牧野駅に着いたら「守口から乗った。」
はあ?
しばらくしたら「もう着いた。」
仕方ないので、枚方市で準急を降りて特急に乗り変えました。

枚方市駅でみた交野線ラッピング電車
「特急は混むから嫌なんだけどな〜。」
「座ってゆっくり行くはずだったのに…。」
と心の中で叫びながら…。

しかもヤフー路線見てもでないと思っていたら、京橋で中之島線乗り換えたら牧野からのっていた同じ電車でした。

あ〜あ!そのまま乗ってればよかった。座っていけたのに…。これは私のミス。

母は渡辺橋駅のホームの椅子に座って待っていました。 

フェスティバルホールの赤階段 クリスマスツリー
今日の演目は天王寺楽所。
1500年前から伝わる舞楽。

聖徳太子が開創し、明治維新で天皇陛下が舞人を東京にお連れになった時に、存続の危機が訪れました。
その時小野松蔭が人々をまとめ上げ、楽所を建て直しました。そ
とき作ったなが雅亮会だそうです。
その雅亮会の140周年記念公演。

第二の危機は第二次世界大戦。
四天王寺は空襲で焼け落ち、貴重な衣装や楽譜が失われ、舞人たちも戦場に出て何人も亡くなりました。

小野樟蔭の息子せつ龍が立て直しをはかり、なんとか演目を復活させたそうです。

戦後、美智子さまの御前公演や、アメリカのカーネギーホールで出張公演を行ったりしています。

カーネギーホールでのポスター
しかし最近では大阪市の支援が減り、クラウドファンディングや篤志家の寄付に頼っているそうです。
この公演でもチケットを売り、なんとか自主運営を図っているそうです。 

今回は聖徳太子の頃から伝わり、またカーネギーホールでも公演された舞楽が披露されました。

本来は神仏に奉納される舞いです。
分かりやすいように浪曲師の春野恵子さんと落語家桂吉坊さんが狂言回しのように間に演じながら歴史をレクチャーしてくれました。
終演後お客さんの何人かが「わかりやすかったね」などと話されているのが聞こえてきました。

私が「あっ!」と思ったのは、オスマントルコの軍隊の軍楽隊の行進曲「チェッディン デデン」が、聖徳太子の戦勝祈願の曲と似ていたこと。

「舞楽陪臚」(バイロ)
パンフレットには天平年間に来日した林邑国(りんゆうこく)の仏教僧「仏哲」が伝えた「林邑楽」の中の一曲と書かれています。

林邑国は2世紀末〜7世紀初めにベトナムの広南省にあった王国です。

聖徳太子は物部守屋と対決した時にこの曲を演奏したところ戦勝したということです。
6世紀にトルコはまだないですが、小アジアにはイスラム教の国が起こり、その後東西に分裂しています。
仏哲がその影響を受けていても不思議ではありません。
東に渡ったこの曲が日本に来て聖徳太子と出会い、西に行ったものがオスマントルコを通してウィーンに伝わり「トルコ行進曲」に影響を与えたと思うとなんだかワクワクしてきました。
トルコ軍楽隊行進曲「チェッディン デデン」

舞曲「陪臚」2時間10分頃から「チェッディン デデン」に似ていると思ったところ。


女郎花オミナエシの頃

2024-10-04 21:03:00 | 日本
実家の色紙も秋の女郎花(オミナエシ)
女郎花の花、最近見かけませんが、
お能に「女郎花」という演目があります。

作者不詳。
場面は男山八幡の麓。ここ枚方から3駅京都寄り。

紀貫之(866-945年)

の「古今和歌集仮名序」が典拠とされています。

世阿弥の頃にはもうあったそうです。

九州松浦潟に住む僧が都を見ようと思い立ち、筑紫潟を通り、ついに京都の山崎まで至ります。

ここで故郷の宇佐八幡宮と御一体という石清水八幡宮へ参詣しようと男山へ向かえば、野辺には女郎花の花が咲き乱れていました。

僧は女郎花の花を一本、土産に手折ろうとすると花守なる老人が現れ、これを制止します。

僧と老人は花を折ることの是非について、互いに古歌を引き合い論じ合いますが、やがて僧は諦めます。

すると老人は僧を認め、八幡宮へ案内します。

男山の麓に連なる家々や放生川の魚、
御旅所への参拝が謡われ、続いて、三つの袂に影うつるしるしの箱を納めた神宮寺、巌松そびえ山そびえ谷めぐり諸木の枝を連ねる有様や、本殿参拝については朱(あけ)の玉垣、みとしろ(神前の御戸帳)の様子などが謡われます。

岩清水八幡宮本殿
参拝が済む頃にはすでに夕暮れとなり、その別れ際、僧は女郎花と男山の関係について質問します。

老人は山の麓の男塚と女塚まで僧を案内し、男塚が小野頼風

八幡市民図書館に近い和菓子店「志゙ばん宗」の裏にある小さな五輪石塔「頼風塚」「男塚」


松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を「女郎花塚」「女塚」
女塚は都の女の墓であると説明します。

しかし今は誰も弔う人が居ないと嘆き、夢の如く老人は消えてしまいます。

その夜、僧が同じ場所で読経すると、頼風夫婦の亡霊が現れます。

女は、自分が都の者で、かつて頼風と契りをこめたと言えば、男は、どうして少しの契りに罪があろうか、暫く離れていたことを真に受けるのか、とこたえます。


すると女は、深い恨みの心から放生川
現在の放生川
に身を投げた顛末を語ります。

これを聞きつけた男が泣く泣く女を葬ったところ、塚より一本の女郎花が咲きました。

男は妻が女郎花になったと思い、花の色になつかしさを感じ、花へ立ち寄った。しかし花は退き、また男が立ち退けば、花はもとにもどるのでした。

この様子を紀貫之は「男山の昔を思って、女郎花の一時をくねる」と書き、後世まで懐かしまれるようになったのだといいます。

さて頼風は女を哀れみ、これもひとえに自分の咎であるから同じ道にゆこうとつぶやき、同じく放生川に身を投げ、共に葬られることとなりました。

「女塚に対して男山ともいう、その塚はこれであり、その主は自分であり、幻ながら来たのである、どうかあとを弔ってください」と頼風の亡霊は僧に願うのでした。

そのころ頼風と女は地獄で邪淫の悪鬼に責められていました。
頼風が剣の山の上に恋しい人をみつけ、喜んで行きのぼれば剣は頼風を貫き、磐石が骨を砕く。いったいどんな罪のなれの果てだろう。

国立能楽堂 能の図 女郎花
一時の情欲をむさぼり、恋慕に沈んだことも今思えばつまらぬことであったと頼風は、成仏を願って僧に訴え続けるのでした。









赤蜻蛉の詩 三木露風

2024-09-25 21:02:00 | 日本
三連休最終日、午後から西宮ギター練習会に参加した後、渡辺橋サロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

今津公民館から阪神で梅田に出てバスで移動

彼はやっぱり甲子園で降りました
11月10日に定期演奏会があるので必死ですが、私のバスフルートが鳴りません。
結局、キーの不具合が見つかってようやく自分の吹き方せいでは無いことが判明しました。

ネジが緩んでキーが浮いてしまう箇所があって、締めても少し吹くとまた緩みます。
榎田先生「ネジを締めてマニュキアか、アロンアルファで止めなさい!」となりました。

それからタッピングでパコパコ音がするということですが、それはタッピングしているせいではなく離した時にキーがどこかにあたって音がするのですが…
Cのキーが浮いているのでCを出そうとすると思い切り叩かないとキーが締まりません。…やっぱりタッピングしているか😅💦まいったなぁ〜!
終わったら小指が痛いです。

定演のアンコールの楽譜を初めて渡されました榎田先生編曲の「赤とんぼ」

この編曲は販売していなくて終ると回収されるのでここでしか聞けません。
ぜひ定演いらしてください!

「赤とんぼの歌詞の意味知ってるかな?」と榎田先生。

若いメンバーは歌を聞いたこと無いそうです。
「外国の例えばマーラーの「亡き子をしのぶ歌」なんて大げさなんだよ。
日本の「しゃぼん玉」なんかは悲しいんだけれど、亡くなった子どもをしゃぼん玉に託して風、風吹くな、と奥ゆかしいんです。」
「歌詞の意味を考えたら、そう簡単な演奏はできないはず」

「山田耕筰は東京の人だったから赤とんぼの「あ」が上に来るイントネーションであっているんです。」
「誰か歌詞を書いて送ってくれませんかね。」
ということで浅学ですが、調べてみました。

三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)兵庫県龍野町生まれ、埼玉県三鷹市没

日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。

異父弟に映画カメラマンの碧川道夫。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行しました。

早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)。

1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれました。

生家跡兵庫県たつの市
5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられました。

小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していました。

1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を、1909年(明治42年)には20歳で代表作『廃園』

を出版し、北原白秋とともに注目されました。

龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)

で一年学んだ後、中退して上京。早稲田大学および慶應義塾大学で学びました。

1918年(大正7年)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛けます。

『赤い鳥』創刊号表紙1918年

1921年(大正10年)には童謡集『真珠島』を出版しました。本書に収録された童謡「赤とんぼ」は、山田耕筰
(1886-1965年)

によって作曲されました。

1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院

で文学講師を務めました。
その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになりました。

キリスト教の信仰に基づく詩集のほか、『日本カトリック教史』や随筆『修道院生活』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与されました。

1928年(昭和3年)より、東京都三鷹市牟礼に在住。以来1964年(昭和39年)に死去するまでの36年間、この地に居を構えます。

当時の三鷹は、桑畑や雑木林が連なる武蔵野の農村で、牟礼田んぼに霞がかかる田園地帯でした。この地の自然を愛した露風は、出身地である龍野町(現・たつの市)にある龍野城が別名「霞城」
と呼ばれたことから、牟礼に新築した自宅を「遠霞荘」と名付けていました。

旧居宅は1990年(平成2年)まで現存していましたが、現在は庭の松の木だけが残り、三鷹市により「三木露風旧居跡」として案内板が設置されています。

三木露風旧居跡
1963年(昭和38年)に紫綬褒章受章。

翌1964年(昭和39年)12月21日午前9時15分頃、三鷹市内の下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはね飛ばされ頭蓋骨骨折で病院に運ばれ意識不明の重体となり、その8日後の12月29日午後3時35分頃に脳内出血により75歳で死去しました。

「赤蜻蛉」は、

赤とんぼ石碑(兵庫県たつの市)
三木露風が故郷の兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれています。
同年8月に雑誌『樫の木』
に最初に発表しました。
その後、12月に童謡集『真珠島』

で一部修正します。

この詩に、1927年(昭和2年)、山田耕筰が曲をつけました。

露風は1920(大正9年)、函館のトラピスト修道院の講師に就任します。
トラピスト修道院の初代院長であるジェラール・プーリエ院長(のちに、帰化が認められ、岡田晋理衛を名乗ります。)
岡田晋理衛(1859-昭和22年)
が、三木露風に講師を依頼しました。

同年、三木露風は婦人とともに函館にやってきて、函館トラピスト修道院講師に着任しました。翌1921年(大正10年)に2人は洗礼を受け、
「ふるさとの」詩碑除幕式での撮影
後列大塚徹、八木好美
前列吉川則比古、露風、なか夫人
この年に三木露風は「赤とんぼ」の詞を書いています。


1 夕焼け、小焼けの あかとんぼ
負われてみたのは いつの日か。

2 山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか。

3 十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた。

4 夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先。

三木自身が『赤とんぼの思ひ出(日本童謡全集S12)』に「・・・姐やとあるのは子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである・・・」と書いています。
また、森林(もりりん)株式会社の広報誌に寄稿された 「赤とんぼのこと」 と題した三木露風の随筆に、

「これは私の小さいときのおもいでである。赤とんぼを作ったのは大正10年で、処は、北海道函館付近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後4時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。

静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。

家で頼んだ子守り娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の広場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われている私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。

だいぶん大きくなったので、子守り娘は、里へ帰った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。山の畑というのは、私の家の北の方の畑である。」


なので「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことです。

「お里のたより」は、諸説あって女中の故郷からこの家に送られてくる便り、または、故郷に帰った女中からの便りなどの解釈、女中を介して実母から届く便りなどといった説があります。

「十五で姐やは嫁に行き」は姐や自身が15歳になった時にお嫁に行ったという説と露風が15歳になった時に姐やは嫁に行ったという説があります。

姐やは売られたという説は今はあまり取られていません。

しかし、貧しい家の娘は自分の意思で相手を選ぶことなど発想にも無く、嫁とは言っても子を成す道具で、同じように貧しい家の働き手として日々の労働に追われるまま、奴隷のように働き続け、手紙さえ書けなくなったということが「お里のたよりも絶えはてた」という歌詞に暗示されているような気がします。

最後に、「夕焼け小焼け」は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詩に使われている他に使用例があまりなく、語調を整えるために使われたもので意味はないということと、(『日本国語大辞典13』(小学館) (p362))
夕やけがだんだん薄れること
『新明解国語辞典』(三省堂) (p1427)の二説ありました。

今年8月31日の東京混声合唱団
田中信昭(1928年1月1日〜2024年9月12日)さん96歳の指揮、最後の演奏会での「赤とんぼ」





宮城道雄BBCでの演奏

2024-09-03 21:13:00 | 日本
晴れています。
今朝は懸案のこの生地。丈夫で軽いポリエステル。

母に貸したら返してくれないミシン。
返してもらおうかと思ったら「あれを作ろうと思って…。」
「これに襟をつけようと思って…。」
といろいろ言ってくるので、面倒になって私が実家に行って、自分のミシンを使っています‥

裁断だけは夕べうちでやって

飾りのレースと内ポケットをつけ
その後は写真を撮る余裕がなくなって、夕方には家に帰つまて練習しなくちゃ。

そのうち母が帰宅。
お花やお菓子や記念品?をたくさんもらっているのでどうしたのか?
聞いたら、
宮城道雄の弟子たちで作っている箏曲の全国組織の宮城会の理事会の送別会。
いよいよ定年退職だそうです。
85歳定年。

お疲れ様でした。

しばらく世間話しをしながら、私の製作を見ていましたが、夕方かかりつけ医院に行くとかで出かけていきました。

私は製作を続け、夕方までになんとか完成できました。


フルートがちょうどぴったり入ります。
ピッコロとA4楽譜も入れられます。
譜面台と水筒も!
中身だけで重いのです。

昔使っていたバッグのカンを再利用。
持ち手の長さも調整できます。
大きい!…でも、軽いです。
持ち手は共布にして太くしたのは肩がこらないため。
きっと、威力を発揮してくれるでしょう。

宮城道雄(1894-1956年)兵庫県神戸市生まれ、愛知県豊田病院没



1953年(昭和28年)夏、フランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得しました。

この旅ではまた、イギリスのロンドンにも寄り、そこで、即興的に作曲した「ロンドンの夜の雨」を英国放送協会BBCより放送初演しました。

・・・目あきには 見物の邪魔になるが、 盲音楽家にとっては、 音に聞こえ 肌に感ずる雨は、 むしろ詩情を 誘うものであった。

「ある夜、 一晩中降り読いたこと があって、 その音が いかにも印象的だった。 高い建物から 伝わって落ちる雫を、 銀色の球のように 想像した。 濡れた大地を 走る車の音にも 情緒を感じた。 私は、 昔から数多く出た 英国の詩人のことなどを よもすがら 想像しながら 作曲した。」 ・・・

「ロンドンの夜の雨」宮城道雄自身の演奏です。



遺作

2024-07-29 21:00:00 | 日本
土曜日は久しぶりにお琴と合わせでした。

母の指令です。

曲は宮城道雄作曲「浜木綿」と「春の海」

尺八の代わりにフルートでということです。

偉い尺八の先生と合わす前に私で練習しておこうというのです。

しかし、私の頂いた五線紙のフルート譜。 間違いがちらほら。
こういう譜面多いです。
専門ではない人が尺八譜を五線譜に移すため、仕方ないのです。
尺八の譜面は、お琴の人は読めません。
尺八の譜面はお琴の人は読めません。
三味線も独自の譜面があります。

お琴の譜面の横に尺八譜が書いてありますが、読める人がいないのでリズムを確認するくらいしかできません。

結局、西洋式の五線譜に書き起こした譜面を見ながらやるしかありません。

ヨーロッパは陸続きで言語人種の違う人々が、交錯し、合奏しなければならないことから、早くから共通の楽譜が開発され、発達しました。

それぞれの家元が流派を守ってきた日本の音楽界とは成り立ちが違います。

早くからそのことに気づき、いろいろな楽器を取り入れた合奏を行った宮城道雄の一番の功績はその家元の壁を破ったことかもしれません。

五線譜の歌とピアノのスコアをにらんで、ほとんどの合わせを訂正に費やし、終わりました。

「春の海」は、初めからたくさん譜面がでているので、ドレミ楽器の「31選」フルートとピアノ合奏用のフルートパート譜で合わせられます。

お琴ソロのハーモニクスに合わせて創作された2小節だけは省かねばなりませんが…。

終わって家を出る時も、みんなで玄関まで来てくださって「暑いから気をつけて」とか服を治してくれたり、子どもをみるような眼差しで見送ってくださいます。

子どもの頃から見知った仲、思春期の頃は遠ざけたく思ったこともありますが、今はひたすら温かく、ありがたいです。

宮城道雄(1894~1956年)兵庫県神戸市生まれ、愛知県刈谷市没
 
白浜、平草原(へいそうげん)にある紀州博物館の前に、宮城道雄の銅像と詩碑が立っています。

そこには宮城道雄の遺作の歌曲「浜木綿(はまゆう)」の詩が書かれています。

紀州の名士・実業家の小竹林二氏と親交があり、たびたび白浜を訪れた宮城道雄は、「浜木綿」と題した白浜をうたう詩を作り、この詩に自ら曲をつけました。

8歳で失明した宮城道雄。
詩には匂いや音や触感や体全体で感じ取った白浜が歌われています。

宮城道雄が詩を作った曲はこの「浜木綿」だけで、他にはありません。

この歌曲の初演は昭和31年(1956)6月4日、白良浜ホールでの「宮城道雄先生詩碑除幕祝賀記念演奏会」です。

この演奏会に先立ち、平草原で詩碑の除幕式が行なわれました。

この公演の20日後、6月25日未明。

公演のため大阪へ向かう途中、宮城道雄は東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」
急行銀河
から転落し、その日の午前7時15分、刈谷の病院で死去しました。享年62歳。

「浜木綿」が遺作となり、白良浜ホールでの演奏が最後の公演となりました。
没後15年に、詩碑のそばに宮城道雄の銅像が建てられました。 


「浜木綿」
温泉の匂ひほのぼのと
もとおりきたる鉛山の
これの小径いくめぐり
今平草原にわれはたたずむ
かぐわしき黒潮のいぶき
妙なる浜木綿の花のかおり
うずいして一握の砂を掌に掬べば
思いはかの千畳敷三段壁
はては水や空なる微茫の彼方につらなる
ああ常春のうるわしき楽土よ
時に虚空にあって聡に鳶の笛澄む
朝もよし木の国の白良浜やこれ


お花見のルーツ

2024-04-10 09:01:00 | 日本
第2火曜日10:00からは会館との2で子育てサロンです。

コロナ以来利用者が減っていましたが、4月新しい年度になったからか、人が戻ってきました。

今回はたまたまおやすみだったというお父さんも来ていました。
それから、8月出産予定の妊婦さんも。

サロンをやっていて、「お父さんも、来てくれたらいいのになあ。」といつも言いあっていますが、初めて。
とっても爽やかでお母さんたちともこだわりなくお話しされていて、大げさかもしれませんがサロンにも新しい時代が来たような気がしました。

たくさんのお父さん、お母さんが子どもを連れて来てくれるとうれしいなぁ。
もちろん妊婦さんや、おじいちゃん、おばあちゃん、保護者の方、誰でもお子さんと来てください。大歓迎です。
事前申込み不要、無料です。

来月はふれあい遊び、絵本の他、透明うちわを子供たちと作ります。
ぜひ、おいでください。

片付けも、打合せも終わって、帰ろうとしたら、玄関に桜の花びらが





会館前の桜でした。

散る花を 惜しむ心や とどまりて
また来ん春の たねになるべき
        山家集 西行

日本人の花見好きのルーツは、西行にあると私はみています。

つい最近まで謡いや地歌を嗜む人は多くいました。

結婚式などでは、近所に上手な謡い好きのおじさんが1人はいて「高砂」を頼まれたりしたそうです。

「日本の文化を大切に。」とかいう偉い方たちに、年に一度も邦楽や能を聴きに行ったことのない人が多くいて笑ってしまいますが、そういう私も情けないことに謡いの1つも歌えません。

芸術はどこの国のものも大切。

人の生命を生き生きさせるものならば


西行(1118-1190年)京都府京都市生まれ、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川(紀伊国田仲荘(紀の川市)説もあります。)
北面の武士として活動していましたが、1140年22歳の時に出家して僧侶になります。

戦乱の時代にあって、戦うことを放棄して各地に草庵を結び、何度も放浪の旅に出ています。
和歌を約2,300首読み。
勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。



家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があります。

世阿弥(1363-1443年)
は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれてます。

世阿弥像 正法寺像 
世阿弥作「西行桜」

都の外れ、西山にある西行の庵は桜の美しいことで有名でした。

毎年、花見の客が訪れ、賑わいました。西行は、静かな隠遁生活が破られることを快く思わず、能力(従者)に花見を禁止する旨を周知させるよう命じます。

ところが、禁止令を知ってか知らずか、都の花見客が訪れ、案内を乞うてきました。

西行も無下に断れず、庭に入るのを許します。

しかし静かな環境を破られてしまったという思いから、


花見んと群れつつ人の来るのみぞ、

あたら桜のとがにはありける


(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)と歌を詠みました。

その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に老人が現れました。


老人は、「草木には心がないのだから、花に罪はないはずだ。」

と先ほどの西行の詠歌に異議を唱えてきます。

西行は納得し、「そういう理屈を言うのは、花の精だからであろう。」と老人に語りかけました。

老人は、「自分は老木の桜の精であり、花は物を言わないけれど、罪のないことをはっきりさせたくて現れたのだ。」と明かします。

桜の精は、西行と知り合えたことを喜び、都の花の名所を紹介し、

「春の夜の一時は千金に値する。」と惜しみながら、舞を舞いました。

やがて時は過ぎ、春の夜が明け初めるなか、西行は夢から覚め、桜の精の姿は、散る花とともに静かに、跡形もなく消えていきました。





世界遺産「雲中供養菩薩」の演奏

2024-03-02 21:00:00 | 日本
平等院に行ってきました。
牧野から1時間ほど電車に乗れば、着くのですが、なかなか行けません。
小学校の写生会で行った覚えもあるところです。

10円玉の建物は平等院鳳凰堂のこのアングルです。

年末にGさん、Mさんに伏見稲荷に誘われたのだけれど、骨折していたため参加できずお断りしたのに、また、懲りずに誘ってくれたのでした。

その間にコロナにかかり、次男が骨折したので「ついでに八幡で厄落としもしたら良いよ。」と、誘ってくれたのでした。

曇っていましたが、宇治橋から見た宇治川。

中は写せませんが、池の向こうの2階の丸窓から阿弥陀如来坐像さまのお顔が見えるようになっています。
1053年藤原頼通によって建てられました。


中には阿弥陀如来坐像を中心に頭上に絢爛豪華な美しい天蓋と壁には52躯の雲中供養菩薩像がいらっしゃいます。
これも写せませんがクリアファイル買って帰りました。

これは黒くて地味ですが、当初は豪華な色がついていました。
すべて檜で彫られているそうです。

柱にも極彩色の柄が描かれているそうです。
なぜこの柄を買ったかというと、菩薩様の1人が笛を吹かれているからです。

もう一枚はやっぱり

雲中供養菩薩像は人が亡くなる時、天上から楽器を演奏しながら菩薩たちがやってきて天上世界に迎え入れられる。という信仰に基づいて作られています。

当時の楽器の姿が見られます。

箏(そう こと)


曲頸(きょっけい)琵琶

腰鼓(ようこ)


揩鼓(かいこ、すりつづみ)
 
この楽器は、皮をこすって音をだしますが、現代中国にももう失われて、正倉院に一つ残されているだけだそうです。

鼓、

排簫


簫、鈴、

鉦鼓(しょうこ)

桴(バツ)、
鐃鈸

編鉦、
箜篌(クゴ)、



拍板

、笙、鼗、楽太鼓。

『信西古楽図』(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵) 図の右上の楽器は写真で紹介された腰鼓、その下には揩鼓が描かれています。

日本に伝えられて平等院鳳凰堂に響くことになるのは、下の地図の赤丸のあたりにある涼州*(りょうしゅう)という所の「西涼楽(せいりょうがく)」、それにさらに西方の音楽が融合した「胡部楽(こぶがく)」とよばれる音楽なのだそうです。

*現在の中国甘粛省武威市


敦煌第220窟壁画


敦煌の壁画に同じような楽器が描かれています。

シルクロードが日本まで繋がっていたことを彷彿とする世界遺産です。

「越天楽」は唐楽と言われる
雅楽の曲の中では最も有名な曲です。舞はかつて存在したが廃絶し、曲のみ伝わっています。

楽器は正式には龍笛、篳篥、笙、箏、琵琶、鞨鼓、鉦鼓、楽太鼓の8種類で合奏されます。

唐楽の曲で古くは曲名を「林越天」また「林鐘州」とも称しました。

『楽家録』では中国前漢の皇帝文帝
の作曲、「一説」に高祖劉邦の軍師張良

の作であると伝えられています。(巻之二十八・楽曲訓法、巻之三十一・本邦楽説)

しかし日本で作られた曲ともいわれ、実際のところその由来については定かではありません。
本来は盤渉調の曲だったといわれていますが、『和名類聚抄』では平調の曲としています。

『扶桑略記』康保3年(966年)10月7日の条には、宮中で公卿たちが退出するとき「越殿楽」が奏されたとあり、また古くは法会の際に、盤渉調の曲として用いられていました。

『扶桑略記』
平調の『越天楽』に、

「春の弥生の曙に 四方(よも)の山辺を見渡せば 花盛りかも白雲の かからぬ峰こそ無かりけれ」慈円(1155-1225年)

の歌詞をつけて唄うのが『越天楽今様』(えてんらくいまよう)です。

鳳凰堂の雲中供養菩薩が持つすべての楽器があるわけではないですが、雅楽の「越天楽」が966年には日本で演奏されていたことから

このような音楽を菩薩が演奏すると考えられていたかもしれないと想像するのもそう遠くないと思うのです。

「呪能」天王寺舞楽

2023-11-28 21:02:00 | 日本
フェスティバルホールで四天王寺さんの「呪能」を拝見しました。
「青海波」は雨乞いの舞、「二の舞」は振りすぎた雨を治めるための舞で、ユーモラスなもので卑賤のものが舞うとされ、「二の舞を踏む」という語源になった舞です。

四天王寺では聖徳太子が自ら作ったという龍笛と高麗笛が収められています。その笛に、太子をお迎えするための舞「蘇利古

お帰りになる時の舞「太平楽急」

これは、槍や刀を振り回して舞われますが、平和を祈って振るので刀や弓は逆さまについているそうです。

舞の終わりの方で抜刀すると篝火か点灯し、太子の魂はお社にお帰りになられます。

5世紀の笛が残っていることが驚きですが、それが現役で活躍することはもっと驚きです。

室町時代、この笛を見たいと、後花園院が京都へ運ばせたところ粉々になり、四天王寺に持ち帰ると元に戻っていたという伝承から「京不見御笛(きょうみずのおふえ)」と呼ばれています。

舞や音楽、衣装もその頃インドなどから入ってきてそのままの形で受け継がれています。

おそらく本国では失われたのではないでしょうか?

ゆっくりとしたリズムは四拍子ではじめから終わりまで全く変わりません。

しかし、丹田に力が込められ、惹きつけられて目が離せません。

源氏が舞ったという舞や、厳島神社にも同じ舞が残っていたり、おそらく春日大社にも…長い歴史を感じます。

ガムランや、トルコの軍隊の音楽の響きも含まれているような(おそらくあちらの方は変化してしまった)不思議な感じです。
金銀に朱色や濃い緑、藍色など色彩豊かな衣装や舞台にも魅せられます。
しかも、あのお面!あれは何??

楽しかった〜!調べても記述のないものばかり。


砧物

2023-09-04 21:01:00 | 日本
日曜日の朝は実家でレッスン。


9月に入りましたが、一向に気温が下がりません。
母は出かけていました。お稽古です。

机の上にコンサートのチラシ置いてありました。

10月15日(日)10:00〜
箏曲宮城会近畿支部演奏会
大阪日本橋 国立文楽劇場
きぬた、虫の武蔵野、秋の初風、花紅葉などなど秋の曲が並んでいます。
まだまだ、秋の気配も無いですが…。

「きぬた」砧は1928年宮城道雄(1894ー1956年)34歳の時に作曲されました。
8歳で失明、生田流2代中島検校に入門し、11歳で免許皆伝。

仁川で家計を助けるために箏曲を教えます。
1913年喜多仲子の入り婿となり、宮城姓を名乗ります。

1926年32歳で帰国しますが、すぐに、妻が亡くなります。
その2年後「きぬた」を作りました。

砧とは、洗濯して生乾きの布を台にのせて、棒や槌で叩いて柔らかくしたり、シワを伸ばすための道具のことや、その作業のことを言います。

台の方を絹板キヌイタと呼んでいたものが「きぬた」になったと言われています。1900年代半ばまで砧を打つ音があちらこちらに聞こえていたそうです。

漢詩に詠まれてきましたが、百人一首にも

み吉野の 山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く 衣打つなり
         参議雅経

と、読まれました。

葛飾広為「月下砧打美人」

室町時代には世阿弥の能「砧」でそのイメージが広がり、音楽や詩に「砧物」というジャンルが確立していきます。

能「砧」

都に3年いる芦屋何某が侍女夕霧に、故郷九州にもう帰るので先に行って妻に知らせて来るようにと命じます。

帰国した夕霧は妻に会います。
妻は田舎暮らしの寂しさを訴え、「すぐ帰るという夫の言葉を頼りに待つ私の心は愚かだ。」と言います。

そこに砧の音が聞こえてきます。
中国の故事に因んで寂しい気持ちを砧に託して落ち着かせましょうと、夕霧が砧を打ち、それに合わせて妻が舞います。

舞い終わりに近づいて来た時に、夕霧が、新しく来た伝言を伝えます。
「この年の暮れにもお帰りにならない」と言うと、妻は「ああせめて年の暮れにはと、苦しい心をいつわって待っていたのに…。」と病にふせってやがて息絶えてしまいます。

芦屋何某は、知らせを聞いて故郷に帰ります。
しかし時すでに遅く、梓弓(古くから霊を呼び戻せる巫具と思われていました)を鳴らして死者の声を聞こうとします。

すると妻が亡霊となって表れ、「恨みは葛の葉の…。」と舞い始めます。
「夜寒の砧を打ったのにうつつにも夢にも思い出してくれたでしょうか」と恨みごとを言います。

夫が心から悔いて、合掌すると妄執が晴れ、「打ちし砧の声のうち、開くる法の華心、菩提の種となりにけり」と謡い、妻の霊は成仏して終幕となります。



恩師

2023-08-24 21:10:00 | 日本
今日午後から、ギターの米谷俊子さんと本番前、最終合わせでした。

レニャー二編
曲のオペラ「エルナーニ」から3つの歌。

大学のマンドリンオーケストラの時の先輩なのでお茶をしながら、部活時代の話しをしていたら、指導くださっていた川口優和先生が、今年1月31日に亡くなられていたことを知りました。
89歳だったそうです。

厳しい先生でしたが、フルートを気に入ってくださり、卒業してからも先生主催の関西マンドリン合奏団に呼んで頂いたこともありました。

先生の恩師の菅原明朗先生の曲を演奏したことを覚えています。
指揮でも厳しい指導についていこうといつも必死でした。
とっても追いつけなかったですが…。

「樟蔭マンドリンクラブの30周年の指揮、私でした。」というと米谷さん驚いておられました。

本当にいろいろ遠くなりました。

川口先生の在りし日の指揮の動画ありました。関西マンドリン合奏団の定演。1分少しほどです。ご冥福をお祈りします。