29日、児童会の仕事納めも終わり、後は家の中のことだけと思っていたら、Mさんから、メール。「大根とカブをもらってくれない?」喜んで伺うと、「おはぎももらって。作りすぎて、ちょっと焦がしたあんこなんだけど。」って、こんな量、初めから作り過ぎないって!今年もお世話になりっぱなしで終わりました。ありがとうMさん!
昨日の運動場は、
日差しがあり、暖かかった。それだけでありがたい。
あやとりの毛糸は大人気。手品や、五段ばしご。伝統の遊びは生きています。
怒鳴ったり、脅したりしないで、子どもを躾けるのは、大変なことです。
アメと鞭で躾けるのは当たり前だと思われている社会で、私たちは長く生きてきました。
未だに、賄賂や、交換条件、罰や褒美、涙や、なだめたりするのは戦略だと思われています。
さて、それ以外の方法って?
私には、さっとは浮かびません。
考えなければ、学びなおさなくてはわからない。
褒めるのではなく、努力していることを認める。結果ではなく、プロセスを認めて、勇気付ける。
それは、音楽そのもののように思えます。
その瞬間、瞬間を喜ぶ。うまくいった、いかなかった。なんてことではなく。
生まれた音の命を慈しむ。
どんな音であろうとも、アメージング!
私たちは子どもに急いで結果を求めすぎていないだろうか?
しかし、放任や、過保護では子どもたちはたちまち方向を見失い。野獣のようにお互いを傷つけあう。
自分や、人に対する暴力は決して赦してはいけない。
しかし、それを本当に伝えられているだろうか?
ルールはより幼き者を、より弱い立場の人を守るためにあるのだと、私はちゃんと理解できているだろうか?
自分自身がルールを軽んじていながら、子どもに押し付けようとしていないだろうか?
今年も、迷い多き一年でした。しかし、悩み続けることからしか、希望は生まれない。絶望の中に希望がある。
できないことを知ること。それが、知恵の始まりだと信じたい。
音楽にも、正解や、固定化された模範演奏などないように。
いよいよ、年も押し詰まってきました。
フローリングにワックス掛けをします。生協さんで買った植物性ワックス。
100%天然素材。家具にもいけます。原液でもいけますが、あまり汚れていないので、1ℓにキャップ一杯。これを100均で買ってきたスプレーボトルに入れて、シュッシュッとしながら、フローリングワイパーにワッフルペーパーをつけて、ゴシゴシ。においもほとんどなく、乾燥時間も要らない。ピッカピカになって、これで、気持ちよく年始を迎えられそうです。
1月9日のコンサートのために、月、火、水はピアノのSさんと練習。
火曜日にはS先生に見てもらうために、一緒に梅田まで行きました。
24日のカルメンのおかげで、合わせられなかったので、先生に聞いてもらう前に、
月曜日練習してから行きました。
曲は、ドゥメルスマンのウェーバーのオベロンの主題による「グランドファンタジー」
有名な「人魚の歌」や、「Fatima Lied 女奴隷の歌」などが入っていますが、初めのピアノのDdurの前奏の後、GmollのFatimaの歌の始まりアウフタクトのDは、その前にピアノが弾く和音に入っているDの音をとってはいけない。
次に始まるGmollのDなので、少し高めにとる。
une peu Animezは転調している、雲が移ろうように、2小節ごとで転調。AS 、Aの音を気をつけて。フェルマータの後の、42小節目は、32分音符が入った後にブレス。ピアノは少し待つ。
54小節目のrall.スタカートは音をポンポンと飛ばすように、4つずつ連らなっている音の一番目の音の後で区切るように。
人魚の歌は、歌うように、テンポが遅くなり過ぎない。
カデンツァは、32分音符で書いてあっても、自由にと言う意味。空間もあけて良い。ずっと吹いてばかりだとおもしろくない。音の無いところは緊張。緊張があるから、音が出だして緩むところも出てくる。よく考えて。
フィナーレは、ボレロのリズム。3拍目をしっかり踏みしめて。201小節目はスラー。舌を動かさないように。
最後のアレグロビバーチェは、初めから飛ばさない。241小節位からテンポを上げて。
ピアノの間奏は、少しテンポを上げて演奏するのが普通。それと関係なくフルートは入る。
いろいろ変わってたので、急遽、水曜日に練習時間を取って一緒に練習しました。
年始のコンサートはいつも大変です。
Sさん、今年もありがとう。来年もよろしくお願いします。
11月3日にした手と手ジョイフルコンサートの、DVDがようやく完成しました。
経費が潤沢にあるわけでもなく、安く上げるために、撮るのも作るのも、自分たちの手で行っています。今年は、3時間ちょっと、3枚組になってしまいました。
ジャケットをつくったり、焼くのを引き受けていますが、SDカードからパソコンに取り込んで、編集。できるだけ、出入り、設営などのシーンをカットして容量を減らすのに、3日。トップページの背景を選び、タイトル、チャプターをつけるのに、一晩、原版を一枚つくるのに5.6時間、それを3枚。それぞれのDVDを15枚づつ、計45枚焼くのに、5晩。
DVDのレーベルと、ジャケットを作って焼くのに3晩。
途中でアクシデント。CANONのソフトが、DVDとAVCHDを選ぶようにできていて、選ばないとAVCHDになってしまいます。DISC2をボーっとしていて、AVCHDで作ってしまいました。15枚、AVCHDで焼いてしまいました。二晩とDVDがパー!
ブルーレイリーダーなら、読み取れるのですが、まだそう普及していないので、やり直し。
昼間はできないので、夜だけコツコツとやって、やっと年内に間に合いました。ふーっ。
25日のクリスマスには、両親と、妹の姪を招いて、転居後、お披露目パーティー。オーストラリアからホームステイをしていたギルバートも、もう、帰国するので、ステイ先から、やってきてくれました。
クリスマスをするつもりはなかったのですが、オーストラリアでしていたら、さびしいかな?と思って、ツリーを旧宅に探しに行ったらどんなにさがしても無い。
どうも夫が捨てたらしい。例によって、捨てたかどうかも覚えていない。
仕方ないので、ポインセチアを買ってきて寄せ植え。
これなら、クリスマス気分はでるし、その後も楽しめます。
白妙菊と、ミニバラ ホノラパティオと言う種類だそうです。四季咲きなので、冬が終わっても一年中花が咲きます。一回植えるだけで、ずっ~と・・・このフレーズに弱い私です。
鉢はカラーが枯れてから、ずっと放置してあったこれ。ものを捨てられない~。
ひっくり返して、ざるでふるったら、鉢底に入れる大粒の鹿沼土とごろ石はつかえそうです。残った土と、赤玉土と、腐葉土を3分の1ずつ混ぜて・・・。
はい、できあがり。鉢カバーをつけて、大丈夫。古い鉢も風情がある。
ところで、ギルバートは中国系オーストラリア人。
カトリックでもないし、クリスマスは全く何もしないそうでした。チャンチャン。
でも、パーティーはみんな楽しんでくれましたよ。
土曜日は、2011年最後のコンサート。T小学校でのクリスマスコンサートです。
Sさんとの、変形「音楽であそぼう!」
1年生から、6年生まで年齢はバラバラ。このあと、地域の人たちによるクリスマスパーティがあり、ビンゴ大会に、おやつが用意されています。
なぜか、男の子が多い。ビンゴとおやつに釣られてきたのかな?
50名ほどで、音楽室は一杯。
ヘンデルの「シバの女王の入場」情景を説明して、演奏しだすと、聴くつもりで来てなかった子どもたちも、びっくりしてきいてくれました。
ボルヌの「カルメン」ファンタジーは12分。子どもたちには長い。
やり始めると、空調の風でそれまでうごかなかった楽譜が飛んで、一瞬とまってしまいました。
これはまずい!
しかし、そのまま何事も無かったように、続行。
なんとか最後まで演奏すると、大きな拍手をくれました。
少しざわざわしたけれど、ちゃんと座って最後まで聴いてくれた。
最後は、やっぱり「音楽で遊ぼう!」は参加してもらわなくちゃ。
代表10名に、音楽室の楽器を持ってもらい、他の人には手拍子。
「何がおきるのかな?」と言う顔の子どもたちに、フルートとピアノで、飛び込んで「そりすべり」を演奏したら、低学年の子どもたちは身体も動かして手拍子、楽器拍子。おすましの高学年も、心ならずも乗ってしまって、楽しいクリスマスコンサートになりました。
休日の朝、ゆっくり目を覚ましたら、ピアノのSさんから携帯に着信が入っていました。
「なんだろう?」と思って、電話したら、「Fさんがピアノを売ったんだけど、椅子まで引き取ってもらえなくて、高さの調整できる椅子が、そこにあったら、私が助かるんだけど。もらってくれない?」
「もちろん!」
お昼ごろになって、子育てサロンのスタッフTさんが、自転車でやってきて、サロンで使う童謡の楽譜を届けてくれました。それから「これ、取れたから。」・・・サニーレタスとゆずがゴロゴロと。
「うれしい!ありがとう、ゆず大好き!」
夕方、長男から、電話。「おばあちゃんに年賀状をパソコンでつくってあげたんだけど、途中でプリンターが壊れて印刷できなくなってしまったんだ。そっちの使わせて。」
Fさんに連絡がついて、夜、椅子を取りに行くことになりました。
長男と母を迎えに行ってパソコンを使っていると、とっぷり暮れて、夕食をうちで食べていくことに。
もらったレタスに、ハム、根菜の豚ミンチあんかけ、もらった出し昆布でお味噌汁。食後に、やっぱりいただきもののみかん。
さっそく、Tさんのゆずの皮で、母とゆず茶をつくって飲んで。お肌つるつる。
二人を送っていくついでに、Fさん宅により、椅子を頂いて、ゆずを少しおすそ分け。
ぐるぐると、愛のサークルが回っている気がする。
世の中は、今日あったみんなのおかげで、まだまだ美しい。感謝。
よく見るサザンカもいろいろな品種があります。これは、夕陽(せきよう)というそうです。冬の街並みの貴重な彩りです。
今日の運動場は格別に寒かった。フリースを2枚来て、ヒートテックの下着、パンツに巻きスカート、ダウンジャケットに手袋。
曇り空に、風が一吹きするだけで、防寒具全て意味が無くなって、終業式後の長い放課後、子どもたちは元気に外で遊んでくれました。
「学ぶ」は「真似ぶ」からきたそうです。
楽譜の無い時代。音楽を伝えるのは、人から人へ、口伝え。先生が奏でた音楽をそのまま繰り返して覚えます。
「そのまま」って、難しい。
子どもが覚えるのが速いのは、自分の中に判断して振るい分ける規準が無いから。
情報の全ては興味深い。おもしろい。
大人は情報を自分の生きてきた規準で、これは有益、これは無益。とか、判断して切り分けて処理してしまいます。
それは、日常生活を生きていくのに大切な能力です。しかし、音楽の演奏のような、普通に生活していては、蓄積していかないような種類の知識や技術を手に入れようとする時、全く今までと違う、新しい基準を学ばないといけません。
その時、自分なりの規準を一度、脇に置いて、新しい基準でものを見るチャレンジをする。
しかし、これが大変。力のある人、成果をあげてきた人ほどたいへん。
大人であると言うこと、それぞれの生き方で、良きにつけ、悪きにつけ成果を上げてきたということ。そういう人が、経験のないことにチャレンジするというのは、それだけで勇気があるということ。
しかし、新しい経験にチャレンジすると選びきって入門する人は、まれです。
選びきっていれば、全ては興味深いし、不要な経験はないはず。
ところが、私なんか、先生の話を途中で、「これって必要な練習なのかしら?」とか、「なぜ、こんなことしなくちゃいけないの?」とか、「もっと、簡単な方法おしえてくれないのかな?」とか、心の中でぶつぶつつぶやいてしまいます。
その聞き方で、成功するわけが無い!
必要かどうか?なぜしないといけないのか?近道をしていいのかどうか?
を、先生の域に達していない、私がわかるわけがないのです。
考えている判断の規準は今の私の知識、経験、情報で、先生はそれ以上の豊富な経験、情報を持っていて、私に何が必要かを判断しているのですから、それ以上の判断を私が出せることは無い。
しかも、ぶつぶつと考えている間中。レッスンへの集中力は下がり続けているわけですから、成果が上がるわけが無いのです。
レッスンのルールは、先生が提供する情報や経験を、受け取り、味わう。
そこで、受け取るかどうか?検討していたのでは、うまくなれない。
ルールどおりの経験を味わえた人が、先生の教える型を、覚え、意味を知ることになります。
そこで、免許皆伝。
型を使いこなし、それを破った人が、そこを離れ、今度は新しい家元をつくる。
どんなお稽古も型が大切。どんな、新しい芸術も、古い型を破ることから始まります。と、いうことは初めに型があった。ということです。
「守、破、離」とは、まず、守り、そして破り、それから離れる。とい世阿弥の言葉です。
誰にでも、破る可能性がある信じたい。大人にだって、いくつになっていようと。子どもにだってもちろん。
ローズマリーと、ラベンダー。これは、引っ越して初めに植えた鉢植えです。植えて3ヶ月。料理に使ったり、香りを楽しむのは、まだまだ先みたい・・・でも、ローズマリーは待てなくてこんな小さいのを、すでに一度、ちぎって食べてしまった。
どうも私は、お花は好きなのですが、どちらかというと花より団子みたいです。実はこのあとバジルも植えて食べた・・・。
今日は、ボーンズレッスン。
ボーンズは、身体の均一性を目指す。ということらしいです。
どういうことかというと、身体の一部に強いところがあって、それだけを使えば無理したら到達点に届くかもしれない。一般的に、外から見ればそれで「クリアー」「できている」という評価がつきます。
しかし、それは無理しているので、できていても身体がガタガタだったり、本人の中では、バランスが悪かったり、できたのは瞬間だったり。
ボーンズは、2番目に強いところや、弱いところを少し底上げすることで、身体が全体に均一性を増す。
到達点に達するために、身体を鍛えたりするのではなく、今持っている自分の身体を認識することによって、身体の全体としての機能を増す。
例えば、私は、ちょっとなれない動きをして、今、右の腰が痛い。
普通で考えれば、右の腰が弱い。と言います。
ボーンズ的に考えれば、右の腰を痛めるような使い方をしていた私は、右が強い。得手なので、右ばかり使っていた。わざわざ無理をして傷めるような使い方をしていたのかもしれない。
翻って左は、不得手ということで、使える可能性の何%も使わないでいる。
まあ、左をサボらせていた。そもそも、もう少し両方を均一に使っていれば、傷みの前で止められたかもしれない。
しかし、傷みを出さないためにとか、腰を治すためにボーンズを使うと、本来の意味から遠ざかる。
なぜなら、目的地や到達点を設定すると、脳はその目的に有益、無益か?良いか、悪いか?の判断をしだす。
判断を下した途端、有益を取り上げ、無益を切り捨てる。良い自分を褒め、悪い自分を罰する。
全体としての認識にフィルターがかかることになります。
科学者が、予断をもって現象を見たら、どうなるか?
いくら、外側は同じことをしていても、自分の一部を切り捨てたり、褒めたり、罰したりしていたら、身体の均一性からは遠ざかるばかりです。
これは、人から「そうなっているよ」と教えてもらえなくては、ほとんどわかりません。
自分の後頭部は誰も見えない。それに自分としては、当たり前にそれで、成功して生きてきたから。
でも、より可能性を広げたかったら、レッスン、レッスン。
寄せ植えにはあわなかったけれど、ガーベラが、あまり可愛かったので買ってきてしまいました。仕方ないので、黒い鉢にガーベラだけ植えました。でも、良い色。鉢も似合っているでしょ。ガーベラも2000種以上あるそうですが、これは、調べたけれどわかりません。悔しい。
月曜日の朝は、Sさんと24日のクリスマスコンサートの練習。
ヘンデルの「シバの女王の入場」、ボルヌの「カルメンファンタジー」。クリスマスキャロルメドレーをします。
ボルヌは、Sさんと何度かやっていますが、まだまだ、やることがあります。
ドラマティックなピアノのオープニング。
カルメンの悲劇を暗示します。
そのあと、16分のスラーで動くフルートに対して8分で動くピアノ。
ここのリズムが全く合いません。
テンポが速いので、あわないのかと思ったら、よくピアノを聴いてみると、私が、2分一拍のリズム、16拍というフレーズで小節の頭の音の後までで、メロディをとらえているのに対し、Sさんは8分1拍。小節線でフレーズを切っているので、ゴチャゴチャになっていたのです。
お願いして、拍と、フレーズのとり方を変えてもらうとスッキリ。
テンポもいくらでも上げられそう。いやいや、こんなところから飛ばすと後で大変。
不吉な占いのシーン。弦の細かいトレモロの中で、コントラバスが、低音のピチカートで「ボン、ボン」と打つところ。
ピアノの右手でトレモロをしながら、ベースをピチカート。
トレモロはペダルでつなげたいのに、ベースは切りたい。ベース弦のように響きが無いので、ある程度長く押さえておきたい。両方を指だけでやろうとすると、とても難しいことになってしまいます。
二人で、いろいろ試して、ピチカートを犠牲にして、ペダルを踏んだまま、指を早く離したほうが、なんかそれらしい緊張感がでるということがわかり。これで行くことにしました。弦の表現をピアノでしようとなると、楽譜に書いてあるアーティキュレーションを真面目にやっているだけでは、うまくいきません。
オーケストラや、オペラの編曲ものは、余計にそうです。
たとえ、ピアノのような、万能に思える楽器でも同じです。
楽譜をみだりに変更してはいけませんが、楽譜に込められた緊張感や、恐怖、悲しみ、喜びなど思いを読み取り、表現するために、スタカートをどうやって表現するか?という選択をすることは演奏者に赦されていると思います。
だから、おなじ曲ですが、今回もいろいろ発見があり、課題もあり。で、とっても、おもしろい!
24日楽しみになってきました。
日曜日、Iさんのお勧めハンギングカバーをやっと買い、Tさんにも選んでもらった花苗をやっと植えました。背の高い葉牡丹を真ん中に、パンジーや、桜草を植えました。Iさんがやっていたように、花屋さんのかごの中で並べて置いたので、植える時に、「あれ?こんなはずじゃなかった。」と言うことが無く、とってもスムーズ。
人の言うことを聞くと、いつもと違う結末と、体験が待っています。
なんだか、気持ちよかった。ありがとう、Iさん、Tさん。ちゃんと、かっこよく植えられたよ!
週末はもりだくさん。
レッスンしたり、クリスマスコンサートの打合せと練習。買い物をして、寄せ植えをして、年末恒例、枚方市民の演奏、合唱によるヘンデルの「メサイア」を聴きにいきました。
フルートの生徒さんが合唱団の一人て出演。今年で、2年目。
キリストの受難を描いたメサイアは、上演時間3時間近く。
4人のソリスト、市民合唱団、枚方市交響楽団。
高校生ボランティア、市民ボランティアによる運営。
客席も舞台も熱かった。
受難の最後に、でてくる「ハレルヤ」の開放感。
フリードリヒ大王も客席から立ち上がって歌ったといいます。
アンコールは、やはり「ハレルヤ」で客席も立ち上がって歌いました。
年末「ハレルヤ」癖になりそうです。