音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

〇〇ではなく水蒸気…霧?

2025-02-21 22:57:00 | ロマン派
ピアノの調律をしていただいている間に、音の出せない作業を決行。


この前ピッコロを待ちながらユザワヤさんで買った布をザクザク切って、
2つ折りにして直線縫い。
端を、ジグザグミシンで押さえて。

棒を突っ込んて、端を挟んでひっくり返したら

出来上がり。
これ何?ってフルートの中を分解しないで一気に拭ける道具。
タンポが濡れていると破れやすい。タンポ変えるの高いんです😭

写真に写っているのは先生が黒板を指すときの指示棒てす。
23センチから1.2メートルまで伸びます。
こんなに長くは要らなかったのですが、85センチのものは太すぎるし重たかった。

これでちょうど良いです。
こうやって譜面台にも洗濯バサミでかけられます。

黒の長い掃除布を2枚とりあえず作りました。後はまた今度。
これでしばらく安心です。

ちなみに水はツバではなく息のぬくもりと外気温との温度差でできる水蒸気です。
ここ大事です!

カール・アウグスト・ニールセン( 1865 - 1931年)デンマーク ソルデルング生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

ニールセン、 1908年頃
貧しい農民の12人兄弟の7番目として生まれました。

ニールセンの生家
父のニールス・ヨルゲンセンは、塗装工で伝統音楽家であり、バイオリンとコルネットの才能があり、地元の祝祭では引っ張りだこでした。
ニールセンは、幼少時代に民謡を歌っていたと記憶している母は、船長の裕福な家庭の出身で、異父叔父の一人ハンス・アンデルセン(1837年 - 1881年)は才能ある音楽家でした。

ニールセンは6歳のときに母親からバイオリンをもらいました。 彼は子供の頃にバイオリンとピアノを学び、8歳か9歳のときに最初の曲を書きました。

両親は彼が音楽家として将来性があるとは信じていなかったため、14歳のときに近くの村の店主に弟子入りさせました。
店主は真夏までに倒産し、ニールセンは家に帰らざるを得なくなりました。
そこで金管楽器の演奏を学んだ後、 1​​879年11月1日にオーデンセの陸軍第16大隊のバンドでラッパ手とアルトトロンボーン奏者になりました。

1879年、オーデンセのニールセン(14歳頃)
ニールセンは大隊に所属している間もバイオリンを手放さず、家に帰って父親とダンスパーティーで演奏する時もバイオリンを弾き続けました。
軍は2年半の間、5日ごとに3クローネと45オーレとパン一斤を彼に支払いました。
その後、彼の給料はわずかに上がり、バーンダンスパーティーで演奏するのに必要な民間の服を買うことができました。

1881年、ニールセンはヴァイオリン演奏に真剣に取り組むようになり、オーデンセ大聖堂の聖堂管理人カール・ラーセンに個人的に師事しました。

コペンハーゲン王立音楽院
の院長ニールス・W・ゲーデ

に紹介されます。
ゲーデから好評を得たニールセンは、軍楽隊を急遽解任され、1884年初頭から音楽院で学びました。

1884年ニールセン
ニールセンは、優秀な生徒ではなかったけれど、ヴァルデマール・トフテ(1832-1907)のもとでヴァイオリンを順調に上達させ、ヨハン・ペーター・エミリウス・ハルトマンやオルラ・ローゼンホフ(1844-1905)から音楽理論の基礎をしっかりと学びました。
また、作曲をゲーデのもとで学んだが、友人としては好きだったものの、音楽的には好きではなかった。コペンハーゲンの同級生や文化的な家族との交流も同様に重要になり、そのうちの何人かは生涯の友人となりました。

田舎育ちによる不完全な教育により、ニールセンは芸術、哲学、美学に対する飽くなき探究心を持つようになりました。
彼は1886年末にアカデミーを去りましたが、すべての科目で優秀ではあったものの傑出した成績ではありませんでした。

その後、彼はまだ自力で生活費を稼げる状態ではなかったため、引退したオーデンセの商人イェンス・ゲオルク・ニールセン(1820-1901)とその妻のスラゲルセゲードにあるアパートに滞在しました。
そこで、彼は彼らの14歳の娘エミリー・デマントと恋に落ちました。この情事はその後3年間続きました。

1887年9月17日、ニールセンはチボリコンサートホールでヴァイオリンを演奏し、弦楽のためのアンダンテ・トランキーロとスケルツォが初演されました。その後間もなく、1888年1月25日には、弦楽四重奏曲ヘ長調が私設室内楽協会の私的な公演で演奏されました。
ニールセンは弦楽四重奏曲ヘ長調をプロの作曲家としての公式デビュー作と考えていたが、それよりはるかに大きな印象を与えたのは弦楽組曲でした。

1888年9月8日にコペンハーゲンのチボリ公園で演奏されたこの曲は、ニールセンによって作品1とされました。

1889年9月までに、ニールセンはヴァイオリンの上達が著しく、当時ヨハン・スヴェンセンが指揮を執っていたコペンハーゲンの王立劇場で演奏する名門デンマーク王立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者の地位を得ました。

この役職で、彼はヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を経験しました。
この仕事はニールセンにかなりのフラストレーションを与えることもありましたが、1905年までそこで演奏を続けました。
1906年にスヴェンセンが引退した後、ニールセンは指揮者としての役割を増やしていきました(1910年に正式に副指揮者に任命されました)。

卒業してからこの役職を得るまでの間、彼はヴァイオリンの個人レッスンでささやかな収入を得ながら、イェンス・ゲオルク・ニールセンだけでなく、オーデンセで工場を経営していたアルベルト・ザックス(1846年生まれ)とハンス・デマント(1827年 - 1897年)といったパトロンからの継続的な支援を受けていました。
ロイヤル劇場で1年も経たないうちに、ニールセンは1,800クローネの奨学金を獲得し、数か月間ヨーロッパを旅行する資金を得ました。

旅の途中で、ニールセンはリヒャルト・ワーグナーの楽劇を発見しては嫌悪し、ヨーロッパの一流オーケストラやソリストの演奏を数多く聴き、音楽と美術の両方に対する意見を研ぎ澄ませました。
バッハやモーツァルトの音楽を尊敬していたものの、19世紀の音楽の多くについては相反する感情を抱いていました。

1891年、ライプツィヒで作曲家でピアニストのフェルッチョ・ブゾーニ

と出会い、2人は30年以上文通を続けることになりました。

1891年3月初旬にパリに到着して間もなく、ニールセンは同じく奨学金を得て旅をしていたデンマークの彫刻家アン・マリー・ブローデルセンと出会いました。

アン・マリー・カール・ニールセンと彼女の夫が、1903年にアテネのアクロポリス博物館で彼女のテュポンの複製の前で撮影された写真。

2人は一緒にイタリアを旅行し、1891年5月10日にフィレンツェのセント・マーク・イングリッシュ教会で結婚し、デンマークに戻りました。

アン・マリーは才能ある芸術家であり、「意志が強く現代的な考え方を持ち、自分のキャリアを切り開こうと決心した女性」でした。この決心はニールセン夫妻の結婚生活に負担をかけることとなりました。
アン・マリーは1890年代から1900年代にかけて何ヶ月も家を留守にし、彼女の不在中に他の女性と不倫関係を持ったカールは、作曲と王立劇場での職務に加えて、3人の幼い子供たちの育児を強いられました。

ニールセンは、結婚生活に対する怒りや不満を、多くの音楽作品に昇華させました。

最も顕著なのは、1897年から1904年の間であり、彼はこの期間を「心理的」時期と呼んでいました。

「この時期に、人間の性格の背後にある原動力に対する彼の関心は、オペラ『サウルとダビデ』、交響曲第2番(『四つの気質』)、カンタータ『愛の讃歌』 『愛の歌』に結晶化した」と言われています。

カールは1905年3月に離婚を示唆し、新たなスタートを切るためにドイツに移住することを検討していましたが、何度か長期間の別居があったにもかかわらず、ニールセン夫妻は生涯を通じて結婚生活を続けました。

ニールセンには5人の子供がいました。
そのうち2人は私生児でした。

アンヌ・マリーと出会う前の1888年1月に、すでにカール・アウグスト・ニールセンという息子がいました。

1912年には私生児の娘、ラヘル・ジークマンが生まれましたが、アンヌ・マリーはそのことを知ることはありませんでした。

ニールセンは妻との間に2人の娘と1人の息子をもうけました。

1915年ニールセンと家族
長女イルメリンは父親に音楽理論を学び、1919年12月に医師のエゲルト・メラー(1893–1978)と結婚しました。
メラーはのちにコペンハーゲン大学教授、国立病院総合診療科長となりました。
次女のアンヌ・マリー

はコペンハーゲン芸術アカデミーを卒業し、1918年にハンガリーのヴァイオリニスト、エミール・テルマーニ(1892–1988)

と結婚しました。彼はヴァイオリニストとしても指揮者としてもニールセンの音楽の普及に貢献しました。
ニールセンの息子ハンス・ボルゲは髄膜炎のため障害を負い、人生の大半を家族と離れて過ごした。1956年にコリング近郊で亡くなりました。

『母』作品41(1920年)は、南ユトランド半島とデンマークの再統一を祝うために書かれたもので、1921年に初演されました。この機会に書かれた愛国的な詩を曲にしたものです。

劇音楽『母』op41
霧が晴れていく
The fog is lifting .



フルートとギターの協奏的二重奏曲

2025-02-12 21:07:00 | ロマン派
10日午前中は、ギターの渡邉信行さんと合わせ練習でした。

この楽譜ミュゼスコアというソフトで渡邉さんが手書き譜から起こしてくれました。
見やすい!

これは総譜(スコア)なので、見て演奏すると言うより、動きを確認するために見るので細かいてす。

こちらはフルートパート譜。
めっちゃくちや見やすくなりました。

だって元はこれレニャーニのフルートとギターのための二重奏協奏曲op23



出版年はわかりませんが、おそらくレニャーニの生きた1790-1877年の間にイタリアの楽譜出版社アルタリアから出版されたと思われます。

ルイジ レニャーニ(1790-1877年)

は、イタリアの名手ギタリスト、歌手、作曲家、弦楽器製作者でした。

彼は声楽歌としてキャリアを初め、ロッシーニやドニゼッティのオペラでテノールを演じました。
1819年ウィーンでマウロ ジュリアーニの後継者として認められ賞賛されました。

ギター演奏家としてイタリア、ドイツ、スイスを演奏して回りました。

40歳頃からパガニーニと友人となります。
ニコロ・パガニーニ(1782-1840年)

は、ルイージ・レニャーニを当時のギターの第一人者とみなしていました。
パガニーニ自身も熱心なギタリストで、弦楽器とのアンサンブルでギターの曲を作曲しました。

この二人の巨匠は、1836年にトリノでデュオとしてリサイタルを行う計画を立てていましたが、ヴァイオリニストの健康状態が悪かったため、予定日の直前にキャンセルされました。

1850 年、ギタリストはコンサートから引退してラヴェンナに住み、バイオリンとともに愛用していた楽器の製作に取り組みました。ネックの調整ネジを特徴とする有名なギター「レニャーニ モデル」は、中央ヨーロッパで広く模倣されました。
ルイジ レニャーニは、ラヴェンナで 87 歳で亡くなりました。

レニャーニは 250 曲を超える作品で、クラシック ギターのレパートリーに多大な貢献をしました。
これらの作品には、ギター独奏曲、ガタイア奏法の指導、幻想曲、ポプリ、カプリッチョ、有名なオペラのテーマの変奏曲、ギターの二重奏曲、協奏曲などが含まれています。

特に人気のものは、すべての長調と短調で書かれた 36 曲のカプリースで、おそらくパガニーニのヴァイオリンのための 24 曲のカプリースに触発されたものです。

また「レニャーニモデル」は19世紀半ばまで人気でした。
ヨハン・シュタウファー・テルツ・ギター (c.1820-1830)
CF マーティン シニア作ウィーン シュタウファー スタイル ギター) (1834-1835)
マーティン・シニアがスタウファーズで働いていたときのルイジ・レニャーニモデルです。

レニャーニ 36曲のカプリースNo.7



オペラ以外のビゼー

2025-02-08 21:00:00 | ロマン派
7日午後からセンメルトリオの練習でした。
2月23日六甲の里夢で「おとただまの会」コンサートに出ます。
フルート久米素子、ヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子で出演します。
曲はビゼー「カルメン幻想曲」トリオ編曲版。
金重さんが怪我をしていた上、私の目の手術で思うように合わせられず、今月になって詰めて練習です。 
目の方は思ったより視力がでず、しばらく投薬治療になりましたが、前に比べると楽譜は見えるようにはなっていますが…。

気をつけなくっちゃ。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

1860年頃に撮影されたビゼーの写真。
ビゼーと言えば歌劇「カルメン」。現代において最も演奏されている歌劇。
そして「アルルの女」の組曲、
「真珠採り」、レアな人で「ジャミレ」が知られていますが、その他の曲はあまり知りていません。
しかしビゼーはオペラ以外の曲も書いています。

ビゼーは芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度であるローマ賞(1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続しました。)に2回挑戦しています。

一度目1856年18歳の時には優勝該当者無し、二度目1857年カンタータで優勝。

ローマ・ボルゲーゼ庭園内のメディチ荘 (Villa Medici)。今日でも奨学生が寄宿している。
5年分の奨学金が支給され、彼ははじめの2年間をローマのフランスアカデミーで、3年目をドイツ、そして最後の2年間をパリで過ごすことになりました。

しかし、ドイツには行かず仕舞いになったものの、ローマには1860年7月まで逗留していました。

パリにまっすぐ引き返す代わりにイタリア中を旅行して、1858年と1859年には行かなかった土地に向かいましたが、ヴェネツィア入りした頃に母親が重病であるとの知らせを受けて、直ちに帰国します。

『ローマ』は、このイタリア留学がきっかけとなって作曲されました。

リミニ

に滞在中、初めて、4つの楽章にそれぞれイタリアの別々の都市(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ)の名を冠した『イタリア交響曲』という案を練っています。
1860年8月のビゼーの書簡にその記述が見られます。

この頃には初期の草稿がいくらか出来上がっていた可能性がありますが、楽譜は現存していません。

1861年までに書き上げられたスケルツォ楽章「ヴェネツィア」(ローマ留学中に作曲された作品に手を加えたものと考えられているは同年11月に非公開で初演され、2年後の1863年1月11日にジュール・パドルーの指揮によってシルク・ナポレオン(Cirque Napoléon)において公開初演が行われました。

演奏は低調で、多くの聴衆は敵意に満ちた反応を示しましたが、1月18日に国立美術協会で行われた再演では、ずっと前向きな反応が得られました。

このスケルツォ楽章は、現在でも全体の中で出来が良いと認められています。

1866年までにビゼーは全曲の初稿を書き上げましたが、不満を覚えて全体の改訂に着手しました。
この際に変奏曲だった第1楽章は主題だけを残して全面改訂され、第3楽章には終楽章のテーマが挿入されました。

1868年6月に完成した第2稿は、1869年2月28日に交響的幻想曲『ローマの思い出』のタイトルで、またもやパドルーの指揮で上演されました。

この時はスケルツォ以外の3つの楽章が演奏され、それぞれに「オスティの森の狩」、「行列」、「ローマの謝肉祭」という標題的な題名がつけられていました。ただし、これらがビゼーによる命名かどうかは不明です。

第2稿にもビゼーは満足できず、作品にもう一度手を加えた。最終稿となる第3稿はどうやら1871年までにはビゼーの手を離れたと思われます(ビゼーが他の企画に没頭していたからです)。

1875年にビゼーは36歳で早世します。
生前には最終稿による『ローマ』の全曲演奏は行われず、その初演はビゼーの死から5年経過した1880年10月、パドルーによって行われました。

その際のタイトルは『ローマ - 4部からなる交響曲』とされていましたが、1880年にシュダーン社から出版されるにあたり、『ローマ - 演奏会用の第3組曲』と変更されました。

シュダーン社は『ローマ』を、『アルルの女』第1、第2組曲につぐ第3の組曲にしようとしたものと考えられます。 

出版譜はおそらく1871年にされた変更を採用していて、各楽章のタイトルは「序奏とアレグロ」、「アンダンテ」、「スケルツォ」、「カーニヴァル(謝肉祭)」とされました。

現在の出版譜では各楽章のタイトルは全て削除されています。

第1楽章
アンダンテ・トランクイロ ― アレグロ・アジタート(ハ長調) Andante tranquillo - Allegro agitato

第2楽章
「スケルツォ」アレグレット・ヴィヴァーチェ(変イ長調) Scherzo: Allegretto vivace

第3楽章
アンダンテ・モルト(ヘ長調) Andante molto

第4楽章
「終曲」アレグロ・ヴィヴァチッシモ(ハ長調) Finale: Allegro vivacissimo






悪評で一度は破棄

2025-02-05 21:07:00 | ロマン派
2月4日さっき、母の手術が終わりました。
付き添いたかったけれど、家で安静中。男たちは仕事でいない。
もう少しずらしてって言ったのに…。

看護師の妹が仕事の合間に手術に立ち会ってくれました。
自分の病院だからね。
会議やら何やらあったみたいだけど、なんとか都合つけてくれたみたい。
無事終わったと連絡ありました。

首の後ろの付け根に肉腫ができていてそれをとる手術です。
良性みたいだけれど、だんだん大きくなってきたから、先生が取りましょうということ、決行しました。
写真送ってくれましたが顔色も悪くない。
土曜日辺り退院です。
それは行くつもり。
少し安心しました。

ジャン・シベリウス( Jean Sibelius )(1865- 1957年)

『カレリア』(Karelia, フィンランド語:Karjala)は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの管弦楽作品。

当初は劇音楽として作曲されました。その後改訂を重ね、現在の形になりました。

1892年にアイノ・ヤルネフェルト
1888年頃
と結婚したシベリウスは、新婚旅行にカレリア地方を訪れました。

カレリアは、フィン人(北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国があります。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族です。)の発祥の地。

シベリウスはカレリア地方の民謡や伝説に、作曲のインスピレーションを得ました。
『カレワラ』(Kalevala、カレヴァラ) は、カレリアとフィンランドの民族叙事詩。[1]19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot, 1802年 - 1884年)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つ

翌1893年、シベリウスはヘルシンキ大学のヴィープリ(ヴィボルグ、現ロシア領)出身の学生の団体から、その年の秋に行う野外歴史劇のための音楽を依頼されました。

歴史劇は、カレリア地方
カレリア 国境線西側のフィンランドには北カレリアと南カレリアが広がる。白海、オネガ湖、ラドガ湖、フィンランド湾など水域が多い
の13世紀から19世紀までの歴史を7つの場面で描くものでした。

野外劇は1893年11月13日にヘルシンキで上演され、音楽はシベリウス自身の指揮で演奏されました。

アレクサンダー帝国大学
「音楽の音は一音も聞こえず、全員が立ち上がって歓声をあげ、拍手していた。」
— ジャン・シベリウス、弟クリスティアンへの手紙より

発表後の評判は悪く、シベリウスはこれを失敗作として廃棄しました。
しかし、「たいそう優れたものだった」という評価もあります。

この劇音楽のうち1曲を序曲として残し、他に8曲を選びそれを組曲としました。

これらは劇の上演から6日後の演奏会で演奏されました。

組曲はさらに3曲に絞ることにした。

このため『カレリア』は最終的に「序曲」作品10と

「組曲」作品11の2つの作品として1906年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版され、今に残ることになりました。

「カレリア」序曲 作品10
組曲と比較して演奏の機会は少ないです。中間部に組曲の第1曲「間奏曲」と共通の主題が現れる。

「カレリア組曲」作品11
3曲から構成されています。
シベリウスの管弦楽曲のうち比較的よく演奏される作品で、第3曲「行進曲風に」は単独で演奏されることも多いです。

第1曲:間奏曲
劇の第3景、リトアニア公爵ナリモンド

がカレリアの住民から税を取り立てていた時代の場面の音楽。ほぼ1つの主題の繰り返しからなります。

第2曲:バラード
劇の第4景、ヴィープリの城内で吟遊詩人が歌う場面の音楽。
コールアグレのソロが有名です。

ヴィボー城 スウェーデン王国の拠点1293年建築

しかし、この旋律は原曲ではバリトン独唱とホルンが担当しています。

第3曲:行進曲風に(アラ・マルチャ)
劇の第5景、16世紀の場面の音楽。2つの主題からなる行進曲。

劇音楽版の復元
1893年の初演後まもなく、シベリウス自身はこの曲の譜面を廃却しましたが、初演を担当したヘルシンキ交響楽団の首席指揮者であったロベルト・カヤヌスが、自筆譜の一部などを保存していました。

後年、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホによって不足分の譜面が補筆され、1997年にBISレコードによって全曲が世界初録音されました。

それによると、作品全体は序曲および全8幕(第7幕と8幕は続けて上演)10曲で構成され、途中2曲で声楽が導入されています(第1幕で男性民謡歌手による重唱、第4幕でバリトン独唱=組曲版の第2曲に相当)。なお、この序曲は作品10とほぼ同一ですが、劇音楽の方が概してテンポ指定が速いなど、若干の違いがあります。




東西の鬼

2025-02-03 21:00:00 | ロマン派
2月2日は節分。
うちではいわしの煮付けと、小さな鰯の唐揚げを食べました。
恵方巻も今年は切り分けた巻き寿司一本を3人で分けておしまい。

節分(せつぶん、せちぶん)は雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことだそうです。

節分は「季節を分ける」ことも意味しているそうです。

江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多いです。

太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていました。

旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになります。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていました。

葛飾北斎画:『北斎漫画』
『節分の鬼』豆撒き
宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていました。

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去されました。

平安時代頃から行われている「追儺」から生まれました。
中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となりました。

『吉田神社追儺』 - 都年中行事画(1928年)
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まっています(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」(この年、天下諸国に疫病あり。多くの民が死に、はじめて土牛を造り大儺(だいだ)す)。

曾我蕭白《雪山童子図》(鬼)(1764年)。
これが室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となっていきました。

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、
当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)

を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになりました。

鬼を撃退するためにタントラを唱える空海を描いた葛飾北斎 (1760–1849) の肉筆画
西洋音楽の中で鬼と言うとゴブリンやトロール。

ゴブリンは、洞穴、木立に住み、幼い子を食べる、概して邪悪なものです。

「死者とともに現れ、人間へ妖精の食物を食べるよう誘惑します」
醜く不愉快な小鬼
悪戯好きな家付きの妖精
教会の墓地の地下や岩の裂け目、古い木の根元に住む妖精
を指し、彼らはピレネー山脈の割れ目から発生し、ヨーロッパ全土へ広まったといわれています。


森のトロール (テオドール・キッテルセン, 1906).
トロールは、北欧の国、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種です。

当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として描かれました。

変身能力があるのでどんな姿でも変身できます。

鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。
別格のトロールたちには二つまたは三つの頭があります。

ノルド語の「Troll」は、怪物や妖精を指す一般名詞で、『巫女の予言』ではスコルについて「トロッルの姿」をしていると表現され、『エッダ』(神話)では「トロッルは天の輪を呑みこむ」とあります。

腕力が強く、魔術を使います。

ノルウェー国旗の盾を持つバイキング姿のトロール(マグネット製)
一般的なトロールについてのイメージは、巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せます。
醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くない。凶暴、もしくは粗暴で大雑把、というものです。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェーベルゲン没

1867年イプセンの依頼により彼の戯曲「ペール・ギュント」にグリーグが音楽をつけました。

イプセンからグリーグへの手紙(1874年1月23日)
戯曲「ペール・ギュント」のあらすじ
落ちぶれた豪農の息子で、母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントは、かつての恋人イングリを結婚式から奪取して逃亡します。

しかしイングリに飽きたら彼女を捨て、たまたま出会った緑衣の女(トロルの娘)と婚礼寸前まで行くが逃げ出します。

密かに帰宅しましたがその場で病床のオーセは息を引き取ります。

再び逃亡したペールを追ってきた純情な女ソルヴェイと恋に落ちますが、そこへ緑衣の女が奇怪な小児を連れて現れたので、ペールはソルヴェイを待たせたまま放浪の旅に出ます。

山師のようなことをやって金を儲けては無一文になったり、精神病院で皇帝になったり遍歴した後に老い、身一つで帰郷します。

死を意識しながら故郷を散策していると、ボタン職人と出会いますが、彼は天国に行くような大の善人でもなく地獄に行くほどの大悪党でもない「中庸」の人間をボタンに溶かし込む役割の職人でした。

「末路がボタン」というのだけは御免だと、ペール・ギュントは善悪を問わず自分が中庸ではなかったことを証明しようと駆けずり回りますが、トロルの王も「やせた男」もそれを証明してくれませんでした。

彼は最後の証人として会ったソルヴェイに子守唄を歌ってもらいながら永眠します。

ペール・ギュントが訪れる山の王の宮殿でトロールたちが踊ります。  

アーサー・ラッカム山の王の城にて




田舎の生活

2025-01-29 21:00:00 | ロマン派
先週末に行った井手町。
町役場の道の駅で野菜を買った後、
橘諸兄縁りの井提寺(いでじ)の跡を見てきました。

と言ってもお寺の名残りの石柱が残っているだけです。
長く伝説の中にだけ存在していましたが、2001年に発見されました。

橘諸兄(たちばな の もろえ、684−757年)は、敏達天皇(びだつてんのう、538−585年)の後裔で美努王(みぬおう・みのおう)の子。

橘諸兄・『前賢故実』(江戸後期〜明治の伝記集)より

元の名前は葛城王(かつらぎのおおきみ)でした、

後、母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぎ橘諸兄と名乗りました。
翌年に天然痘が大流行し、当時の政治首班だった藤原四兄弟などが次々と病死し、同年9月の時点で主な公卿が当時従三位参議だった鈴鹿王と諸兄の2人のみとなってしまいました。

そのため冠位を得て
聖武天皇を補佐し、権勢を振るいました。
740(天平12)年の恭仁京造営
恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)
にも関わりました。
しかし、孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が権力を握り引退。

大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もあるそうです。

『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、信憑性をもつものとされています。

ここは橘諸兄が平城京の北部山背国綴喜(現在の綴喜郡井手町)に造営した別荘(玉井頓宮)跡と考えられており、別荘内に母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺として井出寺(井堤寺・廃寺)を建立したとされています。

井手寺(井堤寺)は、東西南北とも約160メートルの規模で塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。

井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した「垂木先瓦」や「軒丸瓦」「軒平瓦」、建物の礎石をおいた跡などが発見され、引き続き調査が行われています。

万葉集に橘諸兄の句が残っています。

あかねさす昼は田 賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹(せり)これ

解釈 昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。

丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹ぞ摘みける

解釈 立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩(は)いたまま、蟹(かに)のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。

墾田永年私財法を作った橘諸兄は激務のために忙しく、仕事が終わった夜になってから農地に入り芹を摘んでいたようです。

権勢を奮っていた彼も、つかの間、自然に触れて癒やされました。
後年、閑職に追われた橘諸兄も、案外田舎の生活を楽しんでいたのかも。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン =ノルウェーベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1869-1871年26歳から28歳に作曲したピアノ曲

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19

1867年グリーグは従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)

とコペンハーゲンで出会い、結婚しました。
新婚のグリーグが憧れ、思い描いた田舎での生活。

1877年には、故郷の東ベルゲンに移住し、1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、そこで生涯をニーナと共に過ごしました。

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19
1.ベルゲン
Auf den Bergen
2..ノルウェーの結婚式Norwegischer Brautzug
3.ここから
Fra






「スペードの女王」

2025-01-28 21:00:00 | ロマン派
山城の森。
26日に行った森。
里山の近くですが、原生林が広がっています。

倒木に見事な苔。

私は近づかないけれど、何を思ったのか倒木の上を歩き出す夫。
何気ないように見えますが、先の方は川が流れていてかなり高いです。
「怖いから帰ってきて!」と思わず叫びました。
普段は穏やかなのですが、時々ギャンブラー。
なんどか驚かされたことがあります。

「スペードの女王」はアレクサンドロ プーシキン(1799-1837年)ロシア帝国モスクワ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
の短編小説です。
1834年雑誌「読書文庫」に掲載され、人気を博しました。

サテン金藤紙を使ったトランプにみるスペードの女王(アドルフ・ヨシフォヴィッチ・

1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地オレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留しました

しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになります
この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士などとともに『スペードの女王』が書かれました

1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきました。

マリインスキー帝国劇場の経営陣は「スペードの女王」。イヴァン・フセヴォロシスキー

に1887年から1888年に草案を起こさせ、オペラの作曲をピョートル チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

に委嘱しました。

当初は依頼を断ったチャイコフスキーでしたが、1889年に承諾することにしました。
台本を作成したモデスト・チャイコフスキー

彼は同年の暮れにかけて劇場の支配人らに会い、題材について議論するとともに一部のシーンの下書きを行うなどしました。

オペラの総譜はフィレンツェでわずか44日間で仕上げられました。

後日、主人公の役を演じることになったテノール歌手と打ち合わせを行い、第7場のゲルマンのアリアに対し異なる調性を用いて2つの版を作成しています。

変更点は印刷譜の第1版と第2版の校正記録と添付の書類により確認できます。

チャイコフスキーは作曲を行う傍ら台本にも手を加え、一部のテクストを変更するとともに2つのアリアに自作の歌詞を追加しています。

作曲者チャイコフスキー(中央)と、初演でゲルマン役を演じたニコライ・フィグネル(左)およびリーザ役を演じたメデア・マイ=フィグネル(右)《1890年撮影》

オペラ「スペードの女王」
平民出身の若者ゲルマンは軍隊での仲間の貴族たちがトランプの賭けをしていても、そばで見ているだけで入ろうとしません。

ゲルマン
駐屯地の近くに住む伯爵夫人は「スペードの女王」と呼ばれています。彼女は賭けで負け知らず。それは昔情事と引き換えに賭けに勝つ秘密を手に入れたと、噂されています。

プーシキンの伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。賭博を好み、晩年は視力が衰えた彼女のため大きな書体のトランプが用意されていたという。またトランプで負債を負った孫に勝ち札を教えて負けを取り戻させたエピソードも実際に伝わっています。

ゲルマンの仲間の1人エレツキー侯爵が伯爵夫人の孫リーザと婚約したと自慢しています。

リーザ、伯爵夫人、エレツキー
リーザは自宅で鬱々としています。
伯爵夫人に婚約を勧められてしまいましたが、実はその横にいたゲルマンに恋していました。

そこにゲルマンがやってきて「あなたが他のやつと婚約したと聞いて自分を拳銃で撃つ所でした。」と言います。
そこに伯爵夫人がやってきたので、ゲルマンを匿います。

夫人が去ると気持ちに負けてゲルマンの抱擁を受け入れてしまいます。

後日エカテリーナ二世の仮面舞踏会の喧騒の中で、リーザはゲルマンにこっそり頼まれていた祖母の部屋の鍵を預けます。

夜中、伯爵夫人の部屋に忍び入ったゲルマンは夫人の帰宅を待ちます。
夫人が寝室で横になったところに姿を現し、賭けに勝つ秘密を教えるように迫ります。

答えない夫人に、拳銃を取り出し脅すと、夫人はそのまま倒れて亡くなります。

そこにリーザがやってきて、自分が心を捧げた恋人は自分より、賭けの秘密の方が大切だったのだと知り、涙に咽びます。

兵舎の自室に帰ったゲルマン。
そこに窓をノックする音が聞こえます。
開けてみると伯爵夫人の幽霊が立っていて、「リーザを守るために秘密を教えなければならない。」と言います。

「3.7.1。」

ゲルマンの手紙にリーザは真夜中の土手にやってきます。
ゲルマンもやってきて、話しますが、ゲルマンは取り憑かれたように「3.7.1」と伯爵夫人の話ししかしません。

リーザはやはりゲルマンは伯爵夫人の秘密にしか興味がないのだ。と絶望し、走り去ったゲルマンを見送った後、自ら命を絶ちます。

賭博場でリーザの元婚約者エレツキーと賭けをするゲルマン。
教わった通りに3を賭けると勝ちます。
財産を7に賭けると、また勝ちます。
勝てると信じたゲルマンは最後に1に全財産を賭けます。
賭けが始まり1に賭けたはずのカードを見るとそのカードはなぜか「スペードの女王」。

伯爵夫人の幽霊の哄笑が響き渡り、ゲルマンは狂い、自ら死にます。

伯爵夫人の幽霊が出てきて賭けの秘密を教えるシーン




3人そろった!

2025-01-24 21:00:00 | ロマン派
お久しぶりのセンメルトリオ。
フルート、ヴィオラ、ピアノ全員揃いました。
昨年3月からピアノの坂田さんが入院。やっと復帰されたと思ったら、11月に金重さんが転倒して、ヴィオラの弦を押さえる手を骨折。

2月に出演予定のコンサートには「ピアニカ出でようか?」と言っていた金重さん。
大丈夫。
間に合いました。

3人でトリオできる幸せ。
噛み締めました。 

曲はビゼー作曲、シンプソン編曲「カルメン幻想曲」。
もともとはフルート、ファゴット、ピアノのためですが、金重さんがヴィオラに書き換えてくれています。
なかなかおもしろい編曲です。
「アラゴネーズ」「間奏曲」
「アルカラの竜騎兵」「ジプシーのうた」の4曲組曲になっています。

歌劇「カルメン」の第三幕への「間奏曲」はこの激情的なオペラの中の癒しの一時です。

真面目な官吏ホセがたばこ工場で問題を起こし、捕らわれたジプシーのカルメンに恋をします。
ホセはカルメンに誘惑され、法を破って彼女を牢屋から逃がしてしまいます。

酒場でカルメンと落ち合ったホセは帰営ラッパに帰ろうとしますが、カルメンに激怒され、彼女を追っていきます。

密輸団入るかどうか迷っていると、衛兵隊長が帰還を促しにアジトにやってきます。
心揺れるホセですが、密輸仲間に見つかり隊長は捕らわれ、密輸団に加わることになってしまいます。

この後演奏される第三幕への「間奏曲」。
つかの間のカルメンとの蜜月。

第三幕では「以前ほど愛していない。束縛しないで。」とカルメンはホセに言い放ち、闘牛士のエスカミーリョに心奪われていきます。
そんなカルメンにホセはどす暗い情念にとらわれていきます。




がっくり来た時の曲?!

2025-01-23 20:55:00 | ロマン派
22日から29日の左目の手術準備です。
殺菌する目薬を日に4回さします。
なるべく家にいて人に会わないように言われています。
とは言え、レッスンと合わせが、1回ずつ。
術後もこっちはホントに会えないのでちょっと後が大変になるから…。

練習があるので、退屈はしませんが、ハープの3オクターブ目のC弦が切れました。
1番使うところです。
本番まで待ってくれました。
切れちゃうと弾けるけれど、練習にはあまりなりません。
注文して、届くのは明後日くらいかな。
スムーズに練習できないとストレスがたまります。
それにハープのガット弦は高い!
それなのに昨年2割ほど値上がりしました。
仕方ないのですが、ふところが痛くてストレスです。

それからなぜか更新したらなんと記事が、タイトル写真とハッシュタグ以外飛んでしまいました。
がっくり。
なぜ?!

がっくり来た時のクラッシック音楽と検索するとグリーグのピアノ協奏曲が出てきました。
なぜ?と思ったけれど、
初めの部分ががっくり〜!!のシーンに入れたらぴったりきそう?!

エドヴァルド・グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1868年、作曲者が25歳のときにデンマークのセレレズを

ソレロッド教会を背景にしたオーベロドから見たソレロッド湖(1895 年頃)
訪問している間に作曲されました。

グリーグの初期の傑作です。

グリーグはその後出版社からの依頼を受け、1883年ごろに2番目のピアノ協奏曲を書こうとしましたが書き上げられず(スケッチが残されています)、代わりにこの曲に何度も改訂を行っています。

現在演奏されるのはグリーグの最晩年の1906年から1907年頃改訂され、

グリーグ
1917年に出版されたものです。

初期版と曲想の大きな違いはありませんが、楽器編成が異なり、独奏と管弦楽譜で400か所以上の変更点が見られる。

数あるピアノ協奏曲の中でも、非常に人気の高い曲で、またグリーグの代表的な曲です。

グリーグはシューマンのピアノ協奏曲をライプツィヒ音楽院に留学していた1858年にクララ・シューマン


の演奏で聴いていて、それに大きく影響を受けたと言われています。

1870年にグリーグと会見したリスト

1870年頃のリスト
が、彼の持ってきた手稿譜を初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがあります。






アルルの女のメヌエットの原曲

2025-01-18 21:45:00 | ロマン派
金曜日は、塚口近くのt-raumで発表会前最後のハープの合わせでした。
午後7:30〜
渡邊信行さんのヴァイオリンとハープ久米で「カヴァレリア ルスティカーナ」の「間奏曲」。
退院してから毎日4時間は練習していますが、ホントにちっとも上手くなりません。

先生「ゆっくりしましょう。」とニッコリ。

渡邊さんも「弓が足りないなぁ。」と言いながらも、ゆっくり弾いてくれました。

せめて一拍40位ではやりたいのですが、30でもようやっと…。

合わせるどころではありません。
ハープは難しい!

8:00からは鈴木健司さんのハープ、ヴィオラの金重美代さんと久米のフルートでベルガマスク組曲〜「メヌエット」超絶技巧のハープを鈴木さん、ちゃんとインテンポにしてきました。すごい!
野田先生にアドバイス頂いてもちゃんとすぐに演奏が変わります。
さすがです。
これは楽しめそうです。

最後に9:00から金重さんのハープと久米のフルートで「アルルの女」の「メヌエット」ピアノも入りますが、今回は当日のみ。
金重さん昨年11月から腕を骨折していたので練習できていません。かわいそう!
私はこれは「どんなになっても合わせるからね。」と余裕の言葉。
安心して弾いてもらいたいから。

でも、本当のところこの曲は大変難しいです。
超絶技巧というわけではありませんが、フルートという楽器の特性上、音程が特に取りにくいのです。
ゆっくりすれば、ゆっくりするほどアラが目立ちます。
基礎ができているか?が試される曲です。
試練になりました。

t-raumの猫さん

明後日 21日本番です。
頑張ろう!
特に私はハープ!

組曲「アルルの女」は
エルネスト ギロー(1837-1892年)

が4曲を選んで構成したものです。

有名な「メヌエット」は、ビゼーの「美しきバースの娘」という歌劇の中の音楽から採ったものです。
ややこしい。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)

1875年ビゼー

『パースの美しい乙女』は、全4幕のオペラで、台本はジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アデニが、サー・ウォルター・スコットの1828年の小説『パースの美しい乙女』に基づいています。

この作品は、1867 年 12 月 26 日にパリのテアトル・リリック(テアトル・リリック・アンペリアル・デュ・シャトレ)で初演されました。

観客は大変感激し、半数の客が作家たちに次回作の制作を依頼するチップを残しました

14世紀、内乱期のスコットランドの王都パースが舞台。
婚約を間近に控えたキャサリン

とスミスが、些細なトラブルが元で互いに不貞を働いたと誤解してしまいます。

2人のいさかいは領主やジプシーの女王らを巻き込んで一大事となってしまいますが、最後は誤解が解けて結ばれます。

美しきバースの娘」の中で領主のロスセー公爵とジプシーの女王マブが歌う二重唱。
「ここにいる私たちは。孤独です。」
組曲「アルルの女」のメヌエットにギローが編曲する前の曲です。
こちらは、「アルルの女」のメヌエット。