音楽の喜び フルートとともに

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ウェーバーのフルートトリオ

2024-12-17 21:06:00 | ロマン派
コンサートが一つ終わって、ずっと練習していたドップラーをとりあえず棚上げに。
次は。26日にやるフォーレのドリーから3曲、

クーラウのフルート二重奏op85第1楽章、ドップラーのアンダンテとロンド、またまたクーラウのトリオop119
、「カルメン」トリオ編曲、ウェーバーのトリオに未定の曲。

それから1月にはハープの発表会でフルートでビゼーのアルルの女のメヌエットとベルガマスク組曲、ハープとヴァイオリンで「カヴァレリアルスティカーナ」…遊んでは居られません。
とは言え基礎練。
頑張りま〜す。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826年)神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティーン生まれ、イギリス ロンドン没 

フランツ・アントン・フォン・ウェーバーとウィーン出身の歌手であった2度目の妻ジェノヴェーファ・ウェーバーの3人の子どもの長男として生まれます。
ウェーバーは先天性の股関節障害を持って生まれ、4歳になるまで歩き始めませんでした。しかし、その頃にはすでに、彼は有能な歌手でありピアニストでした。

ウェーバーが生まれた次の年、父フランツは劇団を結成します。
そのため、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなりました。

幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せませんでした。
しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼンでヨハン・ホイシュケルから本格的な音楽教育を受け、才能を見せます。

その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(1737-1806年)

(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]

にも師事しています。

ザルツブルクでのカールの日々は、1798年3月13日に結核で亡くなった母ジェノヴェーファと、1798年12月29日にミュンヘンで1歳になる妹アントネッタの死によって暗い影を落としました。母の死後、父方の叔母アデライデがカールの世話を引き継ぎました。

1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲します。楽譜は、翌1800年に火事で消失しています。

1803年半ば、ウェーバーはウィーンで、マンハイム、ストックホルム、ダルムシュタットの重要な音楽学校の創設者であるアベ・フォーグラーのもとで勉強を続けました。
そこでジャコモ・マイアベーアとして知られるヤコブ・マイヤー・ベーアで、ウェーバーの親友となった。手紙の中で彼らはお互いを「兄弟」と呼んでいました。

1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、会計操作の問題に巻き込まれ、裁判では認められたものの、
民事法では借金を背負うことになり、2年後には楽長を退きます。

冷静になる副作用として、ウェーバーは日記をつけ始め、支出や通信をリストアップし、特別な出来事について時折コメントするようになりまし。

この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声が出せなくなりました(声を失うまではかなりの美声だったと言われています)。
その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とします。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力します。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させました。

1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)

に移ります。
1817年11月4日シルヴァーナのタイトルロールを創作した歌手カロリーネ・ブラント

と結婚しました。

当時宮廷ではイタリア・オペラが主流でしたが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑みます。

結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。
また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行いました。

1821年、ベルリンで『魔弾の射手』


が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。

この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われています。

この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場

の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
を作曲します。

そのとき彼は結核を患っていましたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していました)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳でした。

コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されましたが、
18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還しました。

フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259は1818-1819年に作曲されました。

1817年34歳のウェーバーは、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移り、放浪生活から脱出、ここからウェーバーの快進撃が、はじまります。その頃の作品です。


ブラームスが交換したがった曲

2024-12-11 21:00:00 | ロマン派
月曜日の夜は渡辺橋近くのサロン・ド・ぷりんしぱるでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

定期演奏会が終わり、次の選曲入っています。
前回候補のドボルザークの「セレナーデ」は神戸で練習した時に榎田先生。

「他の楽章はうまくなる気がしねぇんだよ。だから第1楽章だけにします。」

大阪エスカルで練習した後も
「いい曲なんですよ。これはドボルザークにしては泥臭くなくて。それをこんなふうに演奏するなんて!」とお冠りですが、第1楽章はまあ練習は続けることになりました。

もう一つの候補はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。

「この曲はね。ブラームスが聴いたときに、『僕が作ったすべての曲と交換してもいい!』と言ったぐらいの名曲なんですよ。」

初見でやってみたら、「この編曲者はフルートのことを知らないなぁ。」
これを続けるかどうか?未定になりました。

フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809- 1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

1839年
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。

『フィンガルの洞窟』(フィンガルのどうくつ)作品26は、メンデルスゾーンが1830年に作曲した演奏会用序曲です。

原題は『ヘブリディーズ諸島』(: Die Hebriden)です。

ヘブリディーズ諸島
日本語では通称の『フィンガルの洞窟』の方が多く用いられています。

メンデルスゾーンが初めてイングランドを訪れたのは、20歳の誕生日を祝ってドイツ人貴族グリンケンの招待にされた時でした。
イングランド旅行に続いて、メンデルスゾーンはスコットランドに進み、その地で交響曲『スコットランド』を着想します。 

スコットランド旅行中にメンデルスゾーンは、嵐の夜のヘブリディーズ諸島を訪ねてスタファ島
スタファ島
に辿り着き、観光客に人気のフィンガルの洞窟で霊感を受けました。

当時フィンガルの洞窟は35フィートの高さと200フィートの水深があり、玄武岩の色とりどりの石柱からなっていました。

メンデルスゾーンはその後直ちに序曲の創作を開始。
主題を書き下ろし、それを姉ファニーに書き送って次のように書き添えました。

「僕がヘブリディーズ諸島にどんなにひどく感銘を受けたか分かってもらえるように、頭に思い浮かんだものを姉さんに届けようと思います」

メンデルスゾーンを嫌っていたリヒャルト・ワーグナーさえもこの作品を「一流の風景画のような作品」として絶賛していました。

作品は1830年12月16日に完成されました。

当初は『孤島』(Die einsame Insel )と題されていました。

1830年
その後、メンデルスゾーンは譜面に手を入れ、1832年6月20日に改訂作業を終えると、『ヘブリディーズ諸島』と改名しました。

にもかかわらず、『フィンガルの洞窟』という通称も使われました。

パート譜には『ヘブリディーズ諸島』と題されていましたが、総譜には作曲者自身によって『フィンガルの洞窟』と題されていたためです。

総譜フィンガルの洞窟1832年
初演は1832年5月14日にロンドンで行われ、演奏会用序曲『夏の夜の夢』も併せて上演されました。

自筆譜はオックスフォード大学ボドリー図書館に保存されています。

この作品は、序曲と題されていますが、単独で完結した作品として意図されています。

物語性はなく、標題音楽に分類することはできません。この作品ではむしろ、気分やいくつかの光景を描き出しており、いわば描写的な標題音楽の先駆けに位置付けられています。

作品は2つの主題で構成されています。

冒頭の主題は、メンデルスゾーンが洞窟を訪れた後に書き付けた主題で、主にヴィオラ、チェロ、ファゴットによって呈示されます。

この情緒的な主題は、洞窟の力強さと心打つ美景を想起させつつ、侘しさや孤独感を表出することが意図されています。

一方の第2主題は、海の動きや「逆巻く波」が描写されています。

標準的なソナタ形式で作曲されており、コーダにおいて最初の主題が戻ってきて結びとなります。
……………………………………………………………、
初めての一人旅でスコットランドを訪れた、メンデルスゾーン。まずエディンバラで歴史に思いを馳せ、スコットランド交響曲の冒頭を書きました。そして次に向かったのは、大自然あふれるハイランド地方でした。

中世からスコットランドの首都として栄えていたエディンバラを訪ねたメンデルスゾーンは、非常に文化的で、深い歴史をもつ都市に大きく感銘を受けました。7月31日、メンデルスゾーンはエディンバラの南部を訪ねたのち、北に向けて出発します。

次の目的地、スターリング(Stirling)では、具体的にどこへ立ち寄ったのかは語られていませんが、スコットランドの歴史において重要な位置を占めるスターリング城に立ち寄ったのではないかと言われています。

スターリング城
丘の上に建てられており、13世紀からの歴史をもちます。 

翌8月1日には、スコットランド高地へ向かい、自然にあふれた森へ足を踏み入れます。ここでは大雨に見舞われながらも、シェイクスピア『マクベス』でも言及されている「バーナムの森」を含むさまざまな場所でスケッチを楽しみました。

バーナムの森(メンデルスゾーン作、1829年8月2日)
船酔いに苦しみながらたどり着いたフィンガルの洞窟
8月6日まで、ハイランドの険しい自然を体感したのち、8月7日にスコットランドの港町オーバン(Oban)へ到着します。この地は、1794年に開業したウィスキー蒸留所によって発展した小さな港町です。

到着した日に早速、オーバンの古城であるドゥノリー城をスケッチし、そのまま船に乗って隣のマル島(Isle of Mull)へ向かいます。

ドゥノリー城(メンデルスゾーン作、1829年8月7日)©︎Mendelssohn in Scotland

ドゥノリー城

スコットランド西部のヘブリディーズ諸島の中でも、かなりの規模を誇るマル島ですが、いくつかの港町は栄え、それ以外の地はほとんど手付かずの荒れた自然が広がっていました。

8月7日、蒸気船でマル島のトバモリー港に到着したメンデルスゾーンは、家族へ次のように宛てています。

「小さい頃から、ヘブリディーズ諸島とヘスペリデス諸島を混同していたよ。

この島には、果実が実っている木なんてどこにもないし、もしオレンジがあったとしても、ホット・ウィスキー・トディ(スパイス入りのホットウィスキー)の中にしか入っていないよ!(中略)
しかし、ヘブリディーズ諸島は本当に素晴らしいところだ。そこで浮かんできた音楽を送るから、ここがどれだけ素晴らしくて、僕がどんな印象を抱いているのかをぜひわかってほしい。」

ヘスペリデス諸島とは、ギリシア神話内に登場する、女神たちが住む世界の西の果てにある島で、オレンジや黄金のリンゴなどの果物が育つ果樹園があるとされています。

スペインのカナリア諸島がモデルになったと言われていますが、メンデルスゾーンはこの島とヘブリディーズ諸島を昏倒していました。

そしてこのときに、両親に宛てた手紙の中で書いた音楽が、まさに演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》冒頭のスケッチでした。

実はこの曲の冒頭は、洞窟とは関係がありませんでした。

演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》のスケッチ
当初は《孤島》というタイトルが付けられていましたが、のちに作曲者自身によって《ヘブリディーズ諸島》や《フィンガルの洞窟》と改名されました。

港町で1泊し、一行はさらに離れた無人島のスタッファ島(Isle of Staffa)へ行きます。

スタッファ島こそ、フィンガルの洞窟のある場所でした。
無人島のため桟橋がなく、メンデルスゾーンは、島の近くまでは蒸気船で向かい、そのあとは手漕ぎボートで島へ向かいました。

フィンガルの洞窟は、波の侵食によって削られてできた洞窟で、火山のマグマが急激に冷えることでできる六角形の柱によって形成されています。

メンデルスゾーンは、フィンガルの洞窟から戻ってきてから、
 
「前回の手紙からどれだけのことがあったか! ひどい船酔い、スタッファ島への旅、見事な風景……クリンゲマンがすべて説明してくれていると思うので、短いメモ程度にとどめておきますが、これだけは言っておかなければいけません」と両親に送り、手紙を書く気にもなれなかったことがわかります……。

フィンガルの洞窟(海から)

洞窟内から
スタッファ島周辺の海域は、メンデルスゾーンの時代からすでに野生のツノメドリやアザラシが生息していました。

ハイランドや湖沼地帯を巡ったあと、
8月15日、グラスゴーに戻ったメンデルスゾーンは、両親へスコットランドからの最後の手紙を送ります。

「スコットランドの自然はとても厳しかった。 

木々が倒れ、岩が崩れるほどの大雨が突然降り、現地の新聞では毎日そのことばかりが取り上げられている。

田舎の惨めさや孤独さをここに書いても、絶対に時間が足りない。

そして10日間、旅行者が絶対に足を踏み入れないような大自然を歩き続けた。
現地に住む人間は非常に排他的で、何を質問しても「ノー」としか返答がなく、よそ者扱いされ、冷たくあしらわれる。

飲み物はどこに行ってもウィスキーしかない。教会も大通りも庭園もない。多くの建物が廃墟になっている。

この地が憂鬱な場所だと言われるのは、当然のことでしょう。

それでも、私たち二人は本当に楽しい時間を過ごした。笑い合い、スケッチし、食べられるものはすべて食べ、大自然に向かって大声で叫び、毎日12時間泥のように眠りました。

この日々の思い出は、死ぬまで決して忘れることはないでしょう。」、
(ontomo 大井駿より抜粋)


かなえられた乙女の祈り

2024-12-08 21:24:00 | ロマン派
土曜日朝、京田辺の母からLINEで「テレビ捨てに行きたい。」とお呼び出し。
ちょうど出張していた夫も関空からリムジンバスで京田辺に帰ってくると言うので迎えに。

その前にファミリーポートひらかたによってクリスマスで使う楽器を借りました。
「久米さん、ちょうどよかった!」とレタスをいただきました。
ポートのお隣の農家さんからいただいたそう。
ボランティアも時々良いことがあります。

それから、次男と実家に行くと、母はリストを持って待っていました。

お買物と保険などの手続き。
いろいろたまっていたようです。
夫をひらってから、と言うとお昼ご飯を作ってくれました。
夫をひらって3人でお昼をいただきました。

それから粗大ごみセンターに使えなくなったテレビをお持ち込み。

「今までありがとう。」と、テレビを置いて来ました。

こちらはみんなが持ち込んだクーラー。
みんな、今まで私たちのために働いてくれてありがとうございました。

ゴミと音楽と言えば、ゴミ収集車の音楽。

前に住んでいた寝屋川市では「赤とんぼ」でしたが、枚方市は無音。
調べてみたら、家庭ごみ「おさるのかごや」プラごみ「草競馬」も言うところも。

「グリーン・スリーブス」
「乙女の祈り』(バダジェフスカ)
『エリーゼの為に』(ベートーヴェン)
『好きです かわさき 愛の街』(山本直純)
『ヨコハマさわやかさん』
「五木の子守唄」
「1週間」ロシア民謡
「やぎさん郵便」
『エーデルワイス』(ロジャース)
『ます』(シューベルト)
『故郷の空』(スコットランド民謡
「しゃぼん玉」
「小鳥が来る街」
「おうま」

「赤とんぼ」が多いのは
「ノボル電機」1945年に大阪市東成区で創業し、ホーン型スピーカーの設計や製造を手掛け、2018年に大阪府枚方市に本社工場を移転しています。

この会社がゴミ収集車用の音響を早くから手がけ、
利用者は標準的に提供されていた8つの定番曲

「赤とんぼ」、「五木の子守歌」、「おさるのかごや」、「エリーゼのために」、「乙女の祈り」、「故郷の空」、「おうま」、「草競馬」

の中から1曲を選択して注文する形になっていたそうで、「赤とんぼ」を選ぶ自治体が多かったようです。

台湾では、ゴミ収集車は「エリーゼのために」だそうです。
ドイツから贈られたゴミ収集車を使ったことから、ドイツの作曲家ベートーヴェンに敬意を込めて「エリーゼのために」だそうです。

エリーゼのためには前に書いたので

「乙女の祈り」

テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカ(1823 - 1861年)ポーランドムワヴァ生まれ、ワルシャワ没

作曲家・ピアニスト。二重姓の後半は夫の姓(の女性形)です。

サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていました。

1851年にワルシャワで出版された『乙女の祈り』(波: Modlitwa dziewicy, )がパリの音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale」に転載され、その名が広く知られるところとなりました。
『乙女の祈り』カバーに描かれたテクラ・バダジェフスカ
この曲を作曲したのち、J・バラノフスキと結婚し5人の子供をもうけました。

娘とピアノを演奏するテクラ・ボンダジェフスカ

小品を35曲ほど作曲しましたが、1861年に病弱のためにワルシャワにて38歳ほどで亡くなりました。

ボンダジェフスカの墓(ワルシャワ、ボヴォンズキ墓地

彼女に関する作品や資料については第二次世界大戦等により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られておらず、特に本国ポーランドでは認知度が低いそうです。

これは「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたためと、 
音楽教育を受けていないこの『少女』に対して、「浅薄な素人くささを超えられなかった」と、19世紀の音楽事典が酷評を加え、当時の「偏見」の存在を指摘されています。

日刊紙「Kurjer Warszawski」(1851年4月14日発行)より「乙女の祈り」出版を報じる記事。

1851年4月14日発行のワルシャワの日刊紙に「最近ボンダジェフスカ嬢作曲による《乙女の祈り》というピアノ曲が出版された。楽譜は各ミュージック・ショップで購入可能。価格は45コペイカ」という内容の記事が掲載されました。

楽譜はまずワルシャワで出版され、続いて1858年9月にフランスの音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale」の付録としてパリで発表されました。

世界各国の80以上の出版者から刊行され、幅広く人気を博しました。

続編として、同じ作曲家により「かなえられた祈り(「乙女の祈り」への答え)」が作曲されています。

「かなえられた乙女の祈り」


マンドリン四重奏

2024-12-03 21:00:00 | ロマン派
土曜市の夜は大阪樟蔭女子大学マンドリンクラブの定期演奏会でした。

部員数が少ない中、がんばっていました。


今年はマンドリン四重奏を今年卒業の部員と演奏してくれました。
これがなかなかよかったです。

カルロ・ムニエル(Carlo Munier、1859年7月15日 - 1911年2月10日)
イタリア ナポリ生まれ、イタリア フィレンツェ没。


マンドリン奏者、作曲家。

それまでワルツ・セレナーデ・行進曲のような軽音楽の分野に限られていたマンドリンを、クラシック音楽の楽器として認知させるよう尽力し、マンドリン復興の祖と評価されています。

幼くして父母を喪い、母方の祖父のパスクワーレ・ヴィナッチャ

に養育されました。
ヴィナッチャ家は18世紀前半から続く楽器製作メーカーとして知られていて、パスクワーレはマンドリンに改変を加え、モダンマンドリンの祖の一人とみなされています。

ムニエルはヴィナッチャ家の人々からマンドリンの演奏を教わり、初めての作品の『マンドリンとギターのための3つのマズルカ』はおじのジェンナーロに捧げられています。

最初に音楽の手ほどきを受けたヴィナッチャ家の工房で成長したムニエルは、カルミネ・デ・ラウレンティス(1869年にリコルディから『マンドリン教則本』を出版したナポリの音楽家)からマンドリンとギターのレッスンを受けました。

15歳の時にナポリ音楽院

に入学し、ピアノ・和声・作曲を学び、19歳で卒業しました。

卒業後はナポリで演奏会を開くようになり、また最初の作品が出版されました。

それは『椿姫』と『清教徒』を2つのマンドリン、マンドラ、ピアノの四重奏に編曲したもので、後者はイタリア王妃に献呈されました。

22歳の時にフィレンツェに移り、そこで後半生を過ごすこととなりました。
フィレンツェではすぐにヴィルトゥオーソとしての名声を確立し、またマンドリン・ギター教室を開きました。
著名な生徒には王妃のマルゲリータ(1851-1926年)
がいます。

1890年に第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドリュートからなるマンドリン四重奏団を結成し、イタリア全土で演奏活動を行いました。
そのためこの形態のアンサンブルが一般的になることとなりました。

1892年には著名なヴァイオリニストのカミッロ・シヴォリが主催するジェノヴァ国際コンクールで四重奏団は一等賞を獲得し、さらに『協奏曲ト長調』で作曲・演奏の両方で金賞を獲得しました。

1909年10月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869-1947年)


の前で『序曲ニ長調』などの自作の演奏を行い、賞賛の言葉を受けました。

1910年にマルセイユとアントウェルペンまで演奏旅行を行いましたが、フィレンツェに戻った直後に病にかかり死去しました。

最初の妻のルイーザは若くして亡くなり、ムニエルは『悲歌』を捧げています。
2番目の妻のアルミダとの間にはルイーザとエレナの2人の娘を儲けました


マンドリン四重奏は、マンドリン2本、マンドラ、マンドリンチェロとギターのために作られています。

マンドリン四重奏 op128



ブラスバンドでサロメ

2024-12-02 21:02:00 | ロマン派
土曜日午前は地域のコミュニティのお祭りのお手伝いをしました。

体育館の担当。
中学のブラスバンドがあったり

地元ダンスチームや
小学生有志のダンスや歌があったりします。

演目ごとに一斉に出入りがあるので、怪我しないようにエントラスにパンチカーペットをひいて外まででてから靴を脱いでもらいます。
体育館は土足厳禁。
今年から靴袋持参で来てもらうことになっていますが、なかなか浸透せず8割は袋を渡します。
3人で渡していきますが、靴のままで上る人も出てきて「靴をお脱ぎください。」「袋はお持ちですか?」と言い続ける感じです。

私は3年前は父の具合が悪くなって欠席、次の年はコロナ、最後は骨折で参加できませんでした。

今年GさんMさんと、「岩清水八幡宮で厄除けしてもらおう。」と誘われてお祓いにいった甲斐があって、今年は無事お手伝いすることができました。
PTAの子育て仲間や、子育てサロンを卒業した子どもを連れたおかあさんに出会ったり、地域の同窓会状態で楽しかったです。

午後からはトリオの合わせがあったので帰りました。

リヒャルト シュトラウス(1864-1949年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州ガルミッシュ バルテンキユルヒェン没

1903-1905年に作曲された歌劇「サロメ」op54はオスカー ワイルド

1882年、ナポレオン・サロニー撮影
の戯曲にヘートヴィヒ ラハマンがドイツ語約翻したものに音楽をつけたものです。

初演の広告

サロメの物語はもともと『新約聖書』の挿話ですが、オスカー・ワイルド
の戯曲になる頃には預言者の生首に少女が接吻するという世紀末芸術に変容しています。

シュトラウスは最初、アントン・リントナーの台本による作曲を考えていましたが、原文をそのまま用いる方が良いと判断し、原作の独訳を台本としています。

前奏なしの4場構成となっていて、第4場の「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」が著名で単独の演奏や録音も存在しています。
日本ではブラスバンドに編曲版が、コンクールの自由曲によく選ばれています。

歌劇「サロメ」あらすじ
紀元30年ごろ、ガリラヤ湖に面したヘロデの宮殿。

ビアズリー サロメ表紙オスカー ワイルド
地下の空の古井戸に幽閉されている預言者ヨカナーンの声が聞こえてきます。

ギュスターヴ・モロー サロメ1876年

そこへサロメが現れる。彼女は義父であるヘロデが自分に投げかける、情欲むき出しの視線に耐えかね、宴席を抜け出してきたのだったが、聞こえてくる声に興味を示し、「ヨカナーンをここへ連れて来い」といいます。

ヘロデの目 ビアズリー
現れたヨカナーンに圧倒されるサロメ。
ヨカナーンは彼女には見向きもせず、サロメの母ヘロディアスの淫行を非難しますが、サロメはなおも彼に近付こうとします。

ヨハネとサロメ
ヨカナーンはサロメをたしなめつつ自ら古井戸に戻ります。

やがてサロメを探してヘロデがヘロディアスや家臣たちとともに姿を現します。

へロディアの入場 ビアズリー
ヘロデはサロメを自分の側に呼び寄せ、関心を惹こうと酒や果物を勧めますが、サロメはまったく興味を示さず、ヘロディアスも娘を王に近づけまいとします。

そこへヘロデ夫妻の行状を非難するヨカナーンの声。 

ヘロディアスは激怒し、「彼を黙らせるか、ユダヤ人たちに引き渡してしまえ!」と叫び、ユダヤ人とナザレ人たちは言い争いを始めます。

ヨカナーンの声はなおも響いてくるので、心を乱されたヘロデは気分直しにサロメに舞を所望します。

サロメははじめはそれに応じようとしません。
ヘロデが「褒美は何でもほしいものを与える。」と持ちかけたため、サロメは裸身に7枚の薄いヴェールを身につけて踊り始めます。

ベリーダンス 7つのヴェールの踊り ビアズリー

官能的な舞が進むにつれ、ヴェールを一枚ずつ脱ぎ捨ててゆくサロメ。

ヘロデは激しく興奮し、やがて舞を終えたサロメに何が欲しいかと尋ねます。

サロメは銀の大皿に載せたヨカナーンの生首を所望します。

さすがに狼狽したヘロデは代わりのものとして「宝石や白いクジャク、あるいは自分の所領の半分ではどうか、」と提案するものの、サロメは頑として合意しません。

ヘロデはとうとう根負けし、ヘロディアスが彼の指から死刑を命じる死の指輪を抜き取って首切り役人に渡します。

役人は古井戸の中へ入ってゆき、サロメはその近くで耳を澄ましています。

不気味な静寂だけが続き、サロメが苛立ちを募らせていると、騒々しい大音響が響き、首切り役人が銀の大皿に乗せたヨカナーンの生首を持って現れます。

グイド・レーニ作「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」

クライマックス ビアズリー 1894年
サロメがヨハネの首に口づけをし、有名なセリフ「おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン」と語る場面。
サロメは狂喜してそれを掴むと、「お前は私にくちづけさせてはくれなかった。だから今こうして私が、」と長いモノローグを歌った後、恍惚としてヨカナーンの生首にくちづけします。

聖ヨハネの首を持つサロメ(ティッツアーノ、1515年頃作)
そのさまに慄然としたヘロデはサロメを殺せと兵士たちに命じ、サロメは彼らの楯に押しつぶされて死にます。

歌劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り ブラスバンド版で





おとぎの絵本

2024-11-30 21:56:00 | ロマン派
金曜日午後はピアノのTさんと、子育てサロンのスタッフOさんと

12月10日(火)10:00〜会館との2での「クリスマスコンサート」
の打合せと練習でした。

プログラムが固まってきました。
シュテクメットの「歌の翼変奏曲」
バスフルートでブラームスの「子守唄」
ヘンデルの「フルートソナタ」からヴィヴァーチェ

絵本2冊に音楽をつけて演奏しながら、Oさんに読んでもらいます。

演奏を聞いてもらった後に、子どもたちにハンドベル

を持ってもらって「きよしこの夜」

Oさん手作りのフェルトのクリスマスベルを子どもたちに鳴らしてもらって「ジングルベル」

ファミリーポートで借りてくる楽器で子どもたちに加わってもらって「あわてんぼうのサンタクロース」

ピンクのオーガンジーの布をグノーの「アヴェ・マリア」に合わせて動かして遊ぶパラバルーン。
シューマン
最後にサンタさんがプレゼントを持って登場。
バックのクリスマスメドレーを演奏して終わります。

絵本は、一冊はボロディンのノットゥルノ一曲で読みますが、もう一冊はシーンに合わせて曲を変えます。
チリビリビン、ドビュッシーの小さな羊飼い、へ調のメヌエット、ドビュッシーの小さな黒ん坊、シューマンのトロイメライ、きよしこの夜の6曲を演奏します。

長くはないですが14曲とメドレー。
子どもたちも飽きずに参加してくれるとおもっています。

一緒に作ってくれるTさん、絵本を読んでくれるOさんに感謝です。

ロベルト・シューマン(1810-1856年)ザクセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン ライン州ボン没

のピアノとヴィオラのための『メルヘンビルダー』(邦名おとぎの絵本)作品113は、1851年3月に作曲しました。

この作品は、ドイツの指揮者のヴィ​​ルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキ(1822-1896年)

に捧げられています。

4つの個性的な小品から成り、ロマン派時代のヴィオラをフィーチャーしたオリジナル作品です。

シューマンは、各楽章でどのような生き物や出来事が描かれているのか、手がかりをほとんど与えてくれません。

1853 年に作曲されたクラリネット、ビオラ、ピアノのための「メルヘンの描写」メルヒェンツェルゲンop132

も、細部は演奏者と聴衆の想像力に委ねられています。

この作品の自筆原稿は2014年5月にアメリカ議会図書館によって購入され、現在はそこに保管されています。


ニヒト・シュネル(速くない)ニ短調
レーブハフト(活気のある)ヘ長調
ラッシュ(クイック)ニ短調
Langsam, mit melancholischem Ausdruck (ゆっくりと、憂鬱な表情で)ニ長調





ガールズトーク

2024-11-28 21:09:00 | ロマン派
高校の時の部活漫研の同窓生4人と、なぜか隣の高校のBさんとJR寺田町すぐのSさんの家に集まりました。

残念ながら2人は欠席でしたが…。

会ったら女子高生に戻ってしまいます。

11:00に集まって16:30までずっと途切れること無くおしゃべりしました。

話しても話してもお話しは尽きません。

次回は。3月頃に集まることになりました。

ヴェンツェンツィオ ベッリーニ(1801-1835年)シチリア王国カターニア生まれ、フランス王国パリ没

ベッリーニ
ピエトロ・ルッキーニの肖像画
の歌劇「ノルマ」。

ノルマは、アレクサンドル・スメ(1788-1845年フランスの詩人)

の戯曲『ノルマ、あるいは子殺し』を基に、ジュゼッペ・ロマーニ(1788-1865年.)

が台本を書いた2幕のオペラです。
1831年12月26日に ミラノ・スカラ座で初演されました。

初演日は評判は良ありませんでしたが、これはライバルの画策があったと言われています。
2日目から徐々に評価が高まり、そのシーズン30回は上演され、翌年も続き、1832年にはイタリア全土で上演されました。

この年、他のオペラも評判が良く、ベッリーニはその地位を高めました。

1837年にはリヒャルト ワーグナーがこのオペラを指揮しました。
彼はこのオペラが気に入り、自分でも
バスのアリアを書きその中に挿入させましたが、これは現在では演奏されません。

ドメニコ・ドンゼッリ(ポリオーネ)、ジュディッタ・パスタ(ノルマ)、
ジュリア・グリシ(アダルジーザ)
オリジナルキャスト

歌劇「ノルマ」
舞台はローマ占領下のガリア。
ガリアのローマ総督ポリオーネ
彼の元恋人ノルマ
そして若いアダルジーザの三角関係を中心に展開します。

ドルイド僧オロヴェソが率いるローマ占領軍に対するガリア人の反乱が起こります。

ドルイド教寺院の高位の女祭司であるノルマ

初演ノルマ役を演じるジュディッタ・パスタ
は、ドルイド教の貞潔の誓いを破ってガリアのローマ総督ポリオーネとの間に 2 人の子どもをもうけました。

その後、恋人が友人の若いドルイド教の女祭司アダルジーザ
ジュリア・グリジ 1831年アダルジーザ役
に恋していることを知ります。
アレッサンドロ・サンキリコによるオリジナル作品の第1幕第2場の舞台デザイン

アダルジーザはノルマに「彼を諦めて去る。」と言いますが、彼は拒否します。

ノルマは子どもたちと自殺しようとしますが、子どもの寝顔をみているうちに思いとどまります。

変わりにノルマは司祭に子どもたちを託し、自分の過ち(巫女の身でポリオーネと通じたこと)を告白し、火刑を宣告されます。
第2幕フィナーレ、
オロヴェソ役のルイージ・ラブラシュ、ノルマ役のジュリア・グリシ、ポリオーネ役のドミニク・コンティ。
ハー マジェスティーズ シアター、ロンドン、1843

ポリオーネはノルマの自己犠牲に再びノルマへの愛に目覚め、彼女とともに火あぶりにされます。

第1幕でアダルジーザはポリオーネにノルマが彼の恋人であることを知らずに、巫女の身で愛する人ができたことを相談します。
何も知らないノルマもアダルジーザに
「ああ!勇気を出して私を抱きしめて」と彼女を巫女としての誓いから解放すると誓います。

この後、真実がわかり2人はポリオーネに怒りをぶつけます。


81歳現役のフルーティスト

2024-11-24 21:00:00 | ロマン派
土曜日の朝は伊藤公一先生のマスタークラスでした。

梅田ナビオ前には巨大クリスマスツリー。
今頃からクリスマス商戦をやっていて12月になったら何をするのか?
なんて思ってしまう私は一生お金儲けとは無縁なのかも。
仕方ないなぁ。

今回も伊藤先生に絞られました。
「当たり前のことが当たり前にできる」ようになるのは何時のことかやら…。

目の前のことをコツコツやるしかありません。
まだまだ諦めません。
だって81歳の先生が自分の成長を諦めていないのだから…。

フランツ ドップラー(1821-1883年)
オーストリア帝国ガリツィア レンベルク(現ウクライナ リヴィウ)生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国バーデン バイ ウィーン没

は、フルート曲で有名なハンガリー人の作曲家です。

生前は、むしろオペラやバレエなどの舞台音楽の作曲家として評価が高かったそうです。

また、フランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』のいくつかを編曲したことでも知られています。

オーボエ奏者であった父親からフルートの指導を受けます。

18歳でブダペスト歌劇場

ハンガリー国立歌劇場ブダペスト
の首席フルート奏者に就任します。

1853年
その後はウィーン宮廷歌劇場

1898年頃
の首席フルート奏者から首席指揮者の地位へと昇り詰め、1864年から1867年までウィーン音楽院
1812年設立
のフルート科の教授も務めました。

オペラやいくつかのフルート協奏曲のほか、超絶技巧を要する華麗なフルート小品を残しています。

フルート二重奏曲やフルート二重奏のための協奏曲といった作品は、フルートのヴィルトゥオーソ兄弟としてヨーロッパ中を席巻しました。

ドップラー兄弟:フランツ(左)カール(右)
弟カール・ドップラー(ドップレル・カーロイ)との共演のために作曲されています。
日本では、東洋的な曲想をもつ『ハンガリー田園幻想曲』作品26が人気があります。

弟カールともどもフルートのヴィルトゥオーソにして作曲家でした(兄弟ともベーム式フルートを好まず、旧式のフルートを使い続けました)。
カールは左利き用のフルートを作らせ、2人はこのようなスタイルで演奏していたと言われています。
兄のフランツは弟カールは左利き。ヤン・グリーム(Jan Grimm)、右・左利きフルート
セバスチャン・ジャコー(Sebastian Jacot)、 フルートの再現演奏。ユンヤング・リー(Yun-Yang Lee)、ピアノ

カールの子である甥アールパード・ドップラー(ドップレル・アールパード、Árpád Doppler)も作曲家となり、米国で活動しました。

「ハンガリー田園幻想曲」は作曲年と動機については不明ですが、おそらくドップラーがウィーンに移る前に、ブダペスト歌劇場のフルート奏者を務めていた時期の作品といわれています。しかし、今日ではドップラーの代表作として日本ではもっともよく演奏されています。

元々フルートと管弦楽のために書かれた楽曲てすが、フルートとピアノのデュオ向け編曲版で演奏されることが多くなっています。

伊藤公一先生の演奏です。



心肺蘇生法

2024-11-18 21:00:00 | ロマン派
日曜日の朝は実家でレッスンした後、牧野に戻って地元の小学校で「救急救命法講習会」を受けました。

子育てサポートをするので5年に一度位は受けてくださいと言われています。

3度くらい受けていますが、コロナで飛んでしまい、間が空きすぎてしまいました。たにはだ

近くでやってくれるので助かります。
地元の消防団の方が開講してくれました。

もし近くで倒れて意識がなく、呼吸が止まっている人がいたらどうしますか?

1安全を確認
2反応を確認 
3大声で助けを呼びます。救急車やAEDを取ってくるように頼みます。
4呼吸を確認
5胸骨圧迫 30回(一分に100-120のテンポ)
6人口呼吸2回
5 6を救急車が来るまで続けます。

すぐに胸骨圧迫=心肺蘇生法を行うことで生存率がグンと上がるそうです。

胸骨圧迫と言ってもどれくらい押していいのか?
流血していたら?
心臓が止まったら脳に血流がいかないので、とにかく胸骨圧迫をした方がいいそうです。 

赤ちゃんや子どもの場合は?
体の厚みの3分の1まで圧迫。
赤ちゃんは抱いて呼吸ができるようにして指2本を乳首の間の少し下に縦に置き、押すそうです。横に置くと骨が折れやすいそうです😱
 
それでも肋骨がもし折れても、しないよりした方がいいそう。

AEDが来たら、機器の指導に従って電気ショック、心肺蘇生法を続けます。

人形で押し加減がわかりますが、思ったよりたくさん重みをかけて押さなくてはなりません。

AEDは、市役所、学校、コンビニ、駅などに置いてあります。

聞いただけでは加減がわかりません。
みなさんの自治体でも無料…税金で受けられます。大切な人を将来助けられるかもしれません。
受講、お勧めです。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没

は、警察署で書記官を務める父が生後まもなく亡くなり、革命に関わり亡命生活をしたりしました。

不安定な生活を送っていましたが、バイロイト王国のルートヴィヒ2世の寵愛を受け、1876年にはバイロイト祝祭劇場が完成し、ワーグナーの作品だけが上演されることになります。

そのワーグナーは
1883年2月13日、ヴェネツィアに旅行中、突然客死しています。
以前から患っていた心臓発作が起きての死だったと言われています。

彼が、最後に書いていた論文は

『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも書いていました。

妻のコジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったとい言います。
遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬されました。

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓

ワーグナー最後の作品は舞台神聖祝典劇『パルジファル』(Bühnenweihfestspiel "Parsifal" )1882年に完成させた楽劇です。 



全3幕。原語ドイツ語。台本も作曲家自身によります。

初演は1882年7月26日、バイロイト祝祭劇場。

中世(10世紀ごろ)スペインのモンサルヴァート城およびクリングゾルの魔の城。


第1幕
老騎士グルネマンツと小姓たちが傷の治療のために湖へ向かうアンフォルタス王を待っているところへ、呪われた女クンドリが現れ、王の薬を託します。

Willy Pogany ~ Parsifal by Richard Wagner ~ Crowell ~ 1912 ~ via Golden Age Comic Book Stories

かつてアンフォルタス王はクンドリに誘惑され、聖槍を奪われて傷つけられていました。癒えない傷口からは、絶えず血が流れ出し、罪の意識を伴ってアンフォルタス王を苦しめます。

グルネマンツは魔法使いクリングゾルの神託「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」を聞いていました。
そこへ、湖の白鳥を射落とした若者が引っ立てられてきます。

グルネマンツはこの若者こそ神託の顕現ではないかと期待し、若者を連れて城へ向かいます。

城内の礼拝堂で、聖杯の儀式が執り行われます。しかし、若者は茫然として立ちつくすばかり。グルネマンツは失望して若者を追い立てます。

第2幕
魔法使いクリングゾルの魔の城。
クリングゾルはクンドリに、魔の城に侵入した若者を誘惑し堕落させるように命じます。
クンドリは抵抗しますが、結局言いなりになります。
若者は襲いかかってくる兵士たちをなぎ倒して進むうち、クリングゾルの魔法で、あたりは花園になります。

花の乙女たちが無邪気に舞いながら若者を誘います。
やがてクンドリが「パルジファル!」と呼びかけ、初めて若者の名が明かされます。

クンドリはパルジファルの母親の愛を語り、キスします。ところが、これによって、パルジファルは知を得て、アンフォルタス王の苦悩を自分のものとすします。
なおもクンドリはパルジファルに迫ります。しかし、パルジファルはこれを退けます。

誘惑に失敗したと悟ったクリングゾルが現れ、聖槍をパルジファルめがけて投げつけます。

聖槍はパルジファルの頭上で静止し、パルジファルがそれをつかんで十字を切ると、魔法が解け、城は崩壊して花園は荒野と化します。

第3幕
隠者となったグルネマンツは倒れているクンドリを見つけます。
そこに武装した騎士パルジファルが現れます。
いまやアンフォルタスは聖杯の儀式を拒否し、先王ティトゥレルも失意のうちに没し、聖杯の騎士団は崩壊の危機に瀕していました。

クンドリが水を汲んできて、パルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水をかける洗礼の儀式をすると、パルジファルもまたクンドリを浄める3人は城に向かいます。
城では、騎士たちの要請によって、先王ティトゥレルの葬儀のための儀式が始まろうとしています。

アンフォルタスは苦悩の頂点に達し、「我に死を」と叫びます。

そのとき、パルジファルが進み出て、聖槍を王の傷口にあてると、たちまち傷が癒えます。

パルジファルは新しい王となることを宣言、聖杯を高く掲げます。
合唱が「救済者に救済を!」と歌う。聖杯は灼熱の輝きを放ち、丸天井から一羽の白鳩が舞い降りて、パルジファルの頭上で羽ばたき。クンドリは呪いから解放されてその場で息絶えます。

第1幕フィナーレ


ギターとコンサーティナーの名手

2024-11-17 21:00:00 | ロマン派
土曜日は今津公民館で西宮ギター練習会でした。

今回は一度も行ったことのないルートで行きました。
京阪天満橋で地下鉄谷町線に乗り換え、東梅田で阪神に乗り換え、直通快速で甲子園口。そこから各駅二駅で久寿川駅。そこで降りて今津公民館へ、

実は久寿川駅からのほうが100mほど近いのです。

しかし、お店が無い。
今津は阪急今津線と阪神が乗り入れているので、駅前はスーパーやコンビニで
にぎやかです。
お昼ごはんを買い損なって…でもそんなこともあろうかとチーズと豆のセット、紅茶の水筒を持参していました。   

それに途中で和蝋燭のお店を見つけました。

ちょっといい感じ。



会場に着いたら豆とチーズを食べて、

ギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」イベールの「間奏曲」モーツァルト「フルートソナタop14」を演奏しました。

みなさん、熱のこもった名演ばかり。
私もギターの曲だいぶ覚えました。

ジュリオ・レゴンディ(1822 - 1872年)スイス ジュネーブ生まれ、イングランド王国ロンドン没

ジュリオ・レゴンディ リトグラフ、ヨーゼフ・クリーフーバー作、1841年。

は、ギタリスト、コンサート奏者、作曲家で、フランスと(主に)イギリスで活躍しました。

レゴンディは、スイスのジュネーブで、ドイツ人の母親とイタリア人の父親の間に生まれました。

1831年、フェルナンド・ソル(1778-1839年)

は、天才少年だったレゴンディがまだ9歳のときに、 作品46「友情の思い出」を捧げました。

1831年9月3日、ロンドンのロイヤル・アデルフィ劇場で演奏する若きジュリオ

1831年9歳の時 ロンドン。
タイムズの1831年6月16日、3ページに
「新しい音楽基金 レゴンディという名前の少年が、6歳から7歳の間、ギターでファンタジアを演奏しました。 「彼はピアノの上に置かれた椅子に座っていました。」という記録があり、ギターの神童として紹介されています。

レゴンディのコンサーティーナ(1829年制作)の曲のほとんどはイギリス式のために書かれたものです。

Lachenal の金属製エンドのイングリッシュ コンサーティーナ。

彼はこの分野でも名手でした。

しかし、ギター曲の方がよく知られています。

彼のギター独奏曲は、練習曲集、ベリーニのテーマによる変奏曲、そして5つの大作から構成されています。
 
レゴンディはロンドンで亡くなりました。

ヴェンチェンチオ ベリーニ(1801-1835年)

のオペラ「カプレッティとモンテッキ」は1830年、ヴェネツィア フェニーチェ劇場


で初演されました。

シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにフェリーチェ ロマーニ(1788- 1856年)

が台本を書きました。

ジュディッタ・グリージとアマーリア・シュッツによる1830年のスカラ座での上演
レゴンディ作曲、オペラ「カプレッティとモンテッキ」の主題による変奏曲 ギター独奏

1845年に作曲されましたが遺失したと思われていました。2007年になって再発見されました。