コンサートが一つ終わって、ずっと練習していたドップラーをとりあえず棚上げに。
(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]
にも師事しています。
に移ります。
と結婚しました。
が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。
の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
次は。26日にやるフォーレのドリーから3曲、
クーラウのフルート二重奏op85第1楽章、ドップラーのアンダンテとロンド、またまたクーラウのトリオop119
、「カルメン」トリオ編曲、ウェーバーのトリオに未定の曲。
それから1月にはハープの発表会でフルートでビゼーのアルルの女のメヌエットとベルガマスク組曲、ハープとヴァイオリンで「カヴァレリアルスティカーナ」…遊んでは居られません。
とは言え基礎練。
頑張りま〜す。
カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826年)神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティーン生まれ、イギリス ロンドン没
フランツ・アントン・フォン・ウェーバーとウィーン出身の歌手であった2度目の妻ジェノヴェーファ・ウェーバーの3人の子どもの長男として生まれます。
ウェーバーは先天性の股関節障害を持って生まれ、4歳になるまで歩き始めませんでした。しかし、その頃にはすでに、彼は有能な歌手でありピアニストでした。
ウェーバーが生まれた次の年、父フランツは劇団を結成します。
そのため、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなりました。
幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せませんでした。
しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼンでヨハン・ホイシュケルから本格的な音楽教育を受け、才能を見せます。
その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(1737-1806年)
(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]
にも師事しています。
ザルツブルクでのカールの日々は、1798年3月13日に結核で亡くなった母ジェノヴェーファと、1798年12月29日にミュンヘンで1歳になる妹アントネッタの死によって暗い影を落としました。母の死後、父方の叔母アデライデがカールの世話を引き継ぎました。
1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲します。楽譜は、翌1800年に火事で消失しています。
1803年半ば、ウェーバーはウィーンで、マンハイム、ストックホルム、ダルムシュタットの重要な音楽学校の創設者であるアベ・フォーグラーのもとで勉強を続けました。
そこでジャコモ・マイアベーアとして知られるヤコブ・マイヤー・ベーアで、ウェーバーの親友となった。手紙の中で彼らはお互いを「兄弟」と呼んでいました。
1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、会計操作の問題に巻き込まれ、裁判では認められたものの、
民事法では借金を背負うことになり、2年後には楽長を退きます。
冷静になる副作用として、ウェーバーは日記をつけ始め、支出や通信をリストアップし、特別な出来事について時折コメントするようになりまし。
この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声が出せなくなりました(声を失うまではかなりの美声だったと言われています)。
その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とします。
1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力します。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させました。
1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)
に移ります。
1817年11月4日シルヴァーナのタイトルロールを創作した歌手カロリーネ・ブラント
と結婚しました。
当時宮廷ではイタリア・オペラが主流でしたが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑みます。
結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。
また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行いました。
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』
が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。
この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われています。
この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場
の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
を作曲します。
そのとき彼は結核を患っていましたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していました)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳でした。
コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されましたが、
18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還しました。
フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259は1818-1819年に作曲されました。
1817年34歳のウェーバーは、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移り、放浪生活から脱出、ここからウェーバーの快進撃が、はじまります。その頃の作品です。