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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

韓国の音楽事情

2025-04-21 00:21:00 | ロマン派
韓国2日目。部屋でロッテモールで買った野菜総菜を食べました。
その後、少し部屋で練習した後、(案外音は響きません。苦情が来たらすぐやめるつもりでフルパワーではない音量で)

ソウルまで電車で移動。
その後特急の乗り換え2時間。
大邱市へ。
特急を待っている間にロッテOUTLETモールで靴買いました。

明日ナイキのスニーカーででると行ったら買ってくれました。
本当にスニーカーにしようと思ってたんだけれど…「そんなんだめだろ。」と言われるとあかん気がしてきて買ってしまいました。

旧駅は日本軍が建てたものだそうです。
中之島の日本銀行とそっくり。

特急はなかなか快適。






シート、席幅が広くてゆったりしています。
「フランスの車両をモデルにしたんだ。」

よく聞いたら1stクラス…この電車オタク!
Wi-Fi、食事車両が使えると言うので行ってくれましたが、
ナッツとソルトクッキーのセットとペットボトルの水200mlサイズでした。



都会ばかり見てきましたが、さすがに電車で見る景色は田園や川。

山はトンネルがたくさんあって日本の山陽道みたいな感じかな。
大邱市着いたら今日やって来る組と合流。
夕方は練習です。

練習後

東横インの近くの餃子専門店でエスカルメンバーと夕食。

焼き餃子と蒸し餃子

水餃子

豚まん食べてお腹いっぱい。
ビール無しの店でしたが、美味しくって大満足。

お昼食べられなかったからね。

最近の韓国のクラッシック音楽事情についてハンギョレ新聞の記事がありました。

音楽院でのきめ細やかな教育の他にも、オーディションで選ばれた才能ある若者を音楽英才アカデミーという教育機関に集め、集中的に学ばせると言う方法で世界コンクールの優勝者を多数輩出しています。

ハンギョレ新聞
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/43817.html

若き天才の一人、「イム・ユンチャン

2015年錦湖英才コンサートのポスターに載った11歳のイム・ユンチャン=錦湖アートホール提供//ハンギョレ新聞
も英才教育システムの恩恵を受けた。7歳で「友達がテコンドーの道場に通っている間、何もせずにはいられなかったので、マンション近くの商店街にあったピアノ教室に通った」という彼は、小学校2年生の時、偶然芸術の殿堂音楽英才アカデミーの広告を見てオーディションに参加し、合格した。そのように入った音楽英才アカデミーで、後れを取っていた基礎を固め、着実に実力を積んでいった。13歳の2017年からは、韓芸総付設の英才教育院で、ピアニストのソン・ミンスに師事し、急成長した。彼は2021年に韓芸総に正式入学し、国内だけで着実に専門的な教育を受けている。」ハンギョレ新聞

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ( Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов, Sergei Vasil'evich Rachmaninov、1873- 1943年)
ロシア帝国ノブゴロド県セミュノヴァ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

イワノフカでピアノ協奏曲第3番の作曲に取り組むラフマニノフ

ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30は、
1909年の夏にタンボフ州イワノフカの別荘で、同年秋に予定していた第1回アメリカ演奏旅行のために作曲されました。

全曲の完成は同年9月23日のことでした。
時間の制約からラフマニノフはこの作品をロシア内で練習することができず、アメリカ合衆国に向かう船の中に音の出ない鍵盤を持ち込んで練習を仕上げたそうです。

同年11月にアメリカで初演された後、1910年にグートヘイリ社により出版され、作品はヨゼフ・ホフマン(1876-1957年)」に献呈されました。

後にラフマニノフはこの曲をカットして演奏するようになりました。

1939年から翌年にかけて行われた録音でも、カットした版で演奏しています。
かつては他のピアニストもこれに倣って一部をカットして演奏することが多かったのですが、
最近ではカットせずに演奏されることが多いです。


失敗と成功と失敗

2025-04-18 21:01:00 | ロマン派
フルートケースの作成中。
中はフェルト。
正規品は丈夫でいいのですが、重たい。
明日から韓国大邱市へ行きます。



これにフルートアンサンブルで出演します。
楽器は手荷物に預けられないのでなんとか手荷物にしようと言う魂胆です。
2月に中身を縫いましたが…。

縦を塗ってから底を縫えばよかった。縦を手縫いにするのはとても縫いにくかった。
布が伸びないのでミシンかけられなかった。
作りながら考えるスタイルなのでこういうことよく起きます。

…そして懲りない。


マジックテープで止める方式にしましたが、

肩にかけてみると、フルートの重みで開いてきます。
「これはイカン!」とあわててマジックテープのハギレを足しましたが、やっぱり空いてしまいます。

原因はフルートが重すぎる…。
小学生のランドセルみたいにお辞儀をしたら、道にぶちまけてしまいます。

マジックテープの裏をリボンで補強した後、革紐とボタンで引っ掛けることにしました。
雨は防げないけれど、とりあえずぶちまけることはなさそう。

ワンショルダー持ち

ランドセル持ち
どちらもいけます。
そして軽い!
これでなんとか明日は大丈夫。

…って、まだスーツケースの中身用意してない〜。
失敗した作曲家で検索してみると、AIさんがルネサンスもバロックも古典もロマン派もいません。と出てきました。
が、ほとんどの作曲家が失敗しては立ち上がってきています。
ベルリオーズもその一人。

だいたいフランス革命だって王政と共和制を行ったり来たりしながら変わってきたのだし…ベルリオーズも流動的な時代に生まれています。

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803- 1869年)フランス共和国ラ コート サンタンドレ生まれ、フランス帝国パリ

1832年当時のベルリオーズ(エミール・シニョルによる肖像画)
18歳でバカロレア(大学入学資格試験)に合格して医学部に進んだものの、解剖を見てひるみ断念。

1823年パリ音楽院に入学
ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲します。

自筆譜の表紙
1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されましたが、未熟であるがために失敗します。

この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収めます。

またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てています。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲します。
しかし選外に終わります。
以来毎年応募。

6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。 

1929年7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』


を作曲しますが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わります。

1830年4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』(アッシリア王が戦いに破れ、愛妾を殺し、宝物に火を点け自ら死ぬ)

1827年ウジェーヌ ドラクロワ画
を作曲します。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞します。

2月に書いた「幻想交響曲」が大成功し、
ローマ賞の受賞ローマ留学から帰ったらマリー モナーク
と結婚の約束をしていましたが、ローマに着いた途端、マリーの母親から婚約破棄とマリーとプレイエルとの結婚を知らせる手紙を受け取ります。

この頃のベルリオーズの人生は失敗と成功を繰り返し、荒波に翻弄されていました。 

ローマ賞を逃した「クレオパトラの死」

1.Allegro vivace con impeto – それで終わりです! –

2. Lento cantabile
ああ!どれほど遠い日々が過ぎ去ったか、私の記憶の苦しみは

3Méditation. Largo misterioso.
.偉大なファラオ、高貴なラギデス(ヘレニズム時代のエジプトを支配したマケドニア人のプトレマイオス朝を指す言葉。プトレマイオス1世が前304年に建国しました。)

4. Allegro assai agitato.
いや!…いや、あなたの葬儀場から









別れの曲

2025-04-15 20:55:00 | ロマン派
今朝gooブログ閉鎖のお知らせが来ていて驚きました。
引越し…できるみたいだけれど、できるかな?4700件もの記事大丈夫かな?
心配です。

11月10日までは運営されるようなので、
しばらくいろいろなブログを試してみて使いやすい所を探すつもりです。
せっかくブロガーのみなさんや読んでくださる方とも交流できるようになってきたのに本当に残念です。

今までのお付き合いから、gooブログさんは引越しのサポートもあり、最後まで責任ある運営をしてくださると信じています。

フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810、1809年説も - 1849年)ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没

1832年ピアノ練習曲op10の第3番は
日本においては「別れの曲」の名で知られています。

西欧においては「Tristesse」(悲しみ)の愛称で知られています。
フランス語圏では「L'intimité」(親密、内密)、
英語圏で「Farewell」「L'Adieu」(別れ、別離)と呼ばれることもあるそうです。

1833年初版の表紙
テンポ指定はニューヨークのレーマン・コレクションの自筆譜ではVivace(活発に)、ワルシャワのショパン博物館の自筆譜ではVivace ma non troppo(活発に、しかし過度にならずに)と書かれています。
しかし。出版の際にショパンがLento ma no troppo(ゆっくりと、しかし過度にならずに)に変更したと考えられています。

ドイツの学者でショパンの伝記作家でもあるフレデリック・ニークス(1845年 - 1924年)によると、ショパンはドイツ人の弟子で写譜師で作曲家のアドルフ・グットマン(1819 - 1882年)

にショパンは「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」と語ったと伝えられています。

またある時、グットマンがそれを練習していたとき、先生は両手を組んで叫びました。『ああ、わが祖国よ!』と、泣き叫んだそうです。

1830年彼の祖国ポーランドとリトアニアで「11月蜂起」が起きます。
ワルシャワでロシア帝国の支配に抵抗して若い下士官たちが蜂起。それにポーランド中の大部分が加わりました。

地域的に成功したところもありましたが、1832年10月、ロシア軍に鎮圧されました。

祖国の戦いに加わるために祖国に戻った友人もいましたが、
ショパンはその間祖国の土の入った銀の盃を持って、イタリアやオーストリアをまわり、音楽活動をしていました。

ウィーンでは反ポーランドの気運があり、ショパンはあまり活躍できず、フランス、パリに向かっています。

パリで祖国の舞踊音楽を元に作曲した「ポロネーズ」を演奏するショパン

そこで家族や市民の安否を案じ、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪い、反乱軍を鎮圧することを赦した神に幻滅しました。

期せずしてポーランドからの移民の1人となったショパンは二度と祖国に帰ることはできませんでした。

その頃の作曲。
エチュードop10第3番「別れの曲」



死後に友人の手によって完成

2025-04-13 21:00:00 | ロマン派
土曜日、ラサーラ・ディ・オルフェオで韓国大邱市での神戸市との交流コンサートの最後の練習でした。

今回はエスカルLINEで、Aさんが時間の確認してくれて、間違い無し。と
京橋から各駅に乗って、あと少しで尼崎。
というところで、電車がゆっくり停まりました。
あらら?!
と思いましたが、「信号待ちです。」とアナウンスがあり、しばらくで回復するのかと待っていました。

すると、今度は「京都駅構内の確認のため、京都線、神戸線停まっています。」
本当に最近電車運が無い。
エスカルLINEに延着の報告を入れ、しばらく待っていると10分ほどで回復しました。 

早めに出て、座って行こうとしたのですが、こうなると快速に乗り換えた方が早いかもと尼崎で思いましたが、快速が時間通りに来るのかどうか?
迷っているうちに発車。

次は芦屋。
今度はアナウンスがあり、快速に乗ったほうが住吉に早く着くことがわかって乗り換え、ポートライナーに乗り換え六甲センターアイランドへ、オルフェオに12時5分前に滑り込みました。

遅れないでよかった〜!
練習は「アルルの女」第二組曲。
前回コピーを新しくしたので読めます。うれしいです。
韓国の人と演奏するアリラン。
そして日本の曲「ふるさと」と韓国の歌が増えてました。

アンサンブルは楽しいです。
前回使った「ファランドール」
の太鼓。


皮を締めることができるそうです。
「パストラーレ」のタンバリンは皮無しの方がいい感じ。
チラシできてきました。


ジョルジュ ビゼー
Georges Bizet (1838-1875年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

1850年
アルルの女』(: L'Arlésienne)は、ジョルジュ・ビゼーによる全27曲の付随音楽であり、アルフォンス・ドーデ(1840-1892年)

の同名の短編小説『アルルの女』およびそれに基づく戯曲の上演のために1872年に作曲されたものです。

付随音楽から編曲された2つの組曲が一般には最も広く知られています。

「アルルの女」第2組曲は、ビゼーの死後の1879年に彼の友人エルネスト・ギロー(1837-1892年)

の手により完成されました。

ギローは管弦楽法に長けていただけでなく、ビゼーの管弦楽法の癖についてもよく把握しており、『アルルの女』以外の楽曲も加えて第1組曲と同じようなオーケストラ編成で編曲しました。

第二組曲
第1曲『パストラール』
劇音楽No.7 導入曲および合唱から。もともと二部に分かれていた曲を、ギローは三部形式に構成し直しています。

第2曲『間奏曲』
劇音楽No.15 導入曲から。中間部のアルト・サクソフォーンによる敬虔な旋律は、『神の子羊』という歌曲としても歌われました。

第3曲『メヌエット』
アルルの女といえば、この曲と連想されるほど有名な曲ですが、実はビゼーの歌劇『美しきパースの娘』の曲をギローが転用、編曲したものです。
フルートとハープによる美しい旋律が展開されます。

第4曲『ファランドール』
劇音楽No.21 ファランドールなどからギローが終曲として構成。
プロヴァンス民謡『3人の王の行列』(短調)に基づく旋律とファランドールが組み合わされ、熱狂的なクライマックスを築き上げられます。
『ファランドール』の軽快な旋律は、民謡『馬のダンス』(長調)に基づきます。











楽器マニア再び

2025-04-09 20:49:00 | ロマン派
午前中、子育てサロンのお手伝い。
図書館に行った時に「3歳までの子どもたちに読む絵本でいいのありますか?」と聞いたら教えてくれました。
「お母さんにも読む本ありますか?」と聞くと何冊か出してくれました。
どれもいい絵本でした。
今回特にいいと思ったのは

「ずっといっしよ」
アリスン ブラウン絵
スムリティ ブラザーダム ボールズ文
俵万智翻訳
WEVE出版

かわいい絵で
動物のお母さんか子どもと、一緒にいる姿が描かれてぃます。
楽しい時は一緒に笑い。
あなたの手は絶対に離さない。
しかし、よく見ると抱き
しめるのではなく、怒っている子どものそばで、ニコニコ笑いながらおさまるまで、本を読んで見守ったりしています。
その距離感が爽やかで気持ちいい。
子どもたちも楽しんでいるようでしたが、お母さんたちが食いつくように見てくれました。

子育てサロン ぽっぽくらぶ
会館トノ2 毎月第二火曜日 
10:00〜11:30申込不用 無料
保護者と子ども

午後からはピアノの神澤美穂さん宅におじゃまして、角谷雅一さんとクーラウの「トリオop119」とマレの「組曲Gdur」
を合わせました。

お宅に着くと角谷さんがもう来ていて、「今日はこれで吹きますよ。」と言うので見せてもらったフルートは、


「マイヨンフルート、ブリュッセル。」
「おおっ!…聞いたことない。」
「ブリュッセルってどこだった?」
「ベルギー!」と言うボケ具合。
フルートの有名どころはフランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、日本に集中しています。

さすがにベルギーは知らなかった…。


円錐管を見せ合いっこ。
こちらはドイツ、私のはフランス。
マレを円錐管で吹こうかと思っていましたが、角谷さんの円錐管の音程が安定しないのとキーに不具合が未だあるので辞めて、今回は薩摩つげの頭部管をパウエル洋銀に着けてお貸しし、私のパウエルグラナディラ(アフリカンブラックウッド)の頭部管と合わせて演奏することにしました。
なかなかいい感じです。

マイヨン フルートについて調べてみました。
Anthony Baines の Woodwind Instruments and Their History(木管楽器の歴史) の中に1950年代のイギリスにおいてマイヨンは重要な楽器でした。
「The Buffet and the Heckel」の段落を読むと、
「(フランス式の)代表的なメーカーはパリのビュッフェ・クランポンですが、1930年代までイギリスで好まれた別のメーカーは、ブリュッセルのマイヨンでした。これらの楽器は、それ以前にイギリスで作られていた楽器に非常に似ていた。」と、あります。
これは主に木管楽器バソンのことです。

Mahillon Bruxelles と並んで Mahillon London と二種類あります。
マイヨンは、ベルギーのブリュッセルにあった総合楽器メーカー、C. Mahillon とわかりました。

Charles Boomee Mahillon (1813 -1887) が1836 年に創業し、ベルギーの軍楽隊御用達の管楽器メーカーとして繁盛しました。

1844 年にロンドンに支店を開き、イギリスにも販路を開いたようです。
Charles Mahillon はイギリスで見習修業をしました。
ブリュッセルに戻ったあとは、義兄のG. C. Bachmann とともに Bachamann & Mahillon という楽器メーカーを立ち上げ、その後1836年に C. Mahillon として独立しました。

マイヨンは1844年にロンドンに「支店」を開いています。

有名なメーカーヘッケルの創業者、Johan Adam は息子のWilhelm の見習工期間が終了すると、旅職人(Journeyman)としてマイヨンに送り込んでいます。

1875年のことで、この年Wilhelm Heckel はブリュッセルのアルベルト(アルバート式クラリネット)、マイヨン、ハノーバーのマイヤー(フルート)、ドレスデンのヘッケル(親戚、金管楽器)で研修を受けています。

マイヨンの息子のことはもう少し詳しくわかっています。

ヴィクトル=チャールズ・マヒヨン ( Victor-Charles Mahillon、1841-、1924年)ブリュッセル都市圏生まれ、フランス サン・ジョアン・デ・カップ・フェラット没

音楽家、楽器製作者、音楽をテーマにした作家でした。
彼は、楽器博物館として知られる王立音楽院楽器博物館の創設者であり、初代学芸員でした。

彼は 1500 を超える楽器を製作、収集し、解説しました。
楽器製作者と楽譜出版者の家に生まれ、
父はシャルル・マイヨン(1813-1887)、
母はジョセフ=ジャン・マイヨン(1848-1923)、
母は楽器製作者の一族に生まれています。

マイヨンは、部分的に独学で音響学と楽器学を学び、1865年に父親の楽器工場で働き始めました。1869年に音楽雑誌「L'Echo musical」を創刊し、1886年まで発行されました。

ブリュッセル王立音楽院

彼は1879年からブリュッセル王立音楽院

の楽器コレクションの初代学芸員を務め、自身の楽器を多くコレクションに寄贈しました。

彼は音響科学、特に管楽器に深い関心を持っていました。
彼の音響学の研究は当時としては先進的であり、歴史的にも興味深いものでしたが、大部分は取って代わられてしまいました。

彼は歴史的に興味深いヨーロッパの管楽器を多数収集したほか、世界中から民族学的に興味深い標本を多数収集し、3巻からなるカタログを作成しました。

『ブリタニカ百科事典』第 9 版に掲載された彼のいくつかの記事は、今でも興味深いものです。

1885年、彼はロンドンで開催された国際発明博覧会の一連のコンサートで使用する楽器をアルフレッド・ジェームズ・ヒップキンスに提供した。

1890 年に彼はブライアン・グリーンと共同で、より詳細な体音楽器の分類を開発しました。彼の楽器の分類は後に採用され、現在でも使用されています。

さて、角谷さんのマイヨンフルート、パワーがあり、低音から高音までバランスよく響きました。
YouTube探しましたが、さすがにマイヨンフルートはありませんでした。

代わりにマイヨンのホルン。
ジャン・デジレ・モンタニー・アルトー(1803- 1887年)フランス パリ生まれ、サン=ジョス=タン=ノード没
ベルギーのホルン奏者です。

アルトーの父親はブリュッセル歌劇場のソロホルン奏者で、ギターとバイオリンの名手でした。
歌手として、彼の父親はモーリス・モンタニーと名乗っていましたが、この名前はジャン・デジレも使っていました。

ジャン・デジレは父親から歌とホルンの両方のレッスンを受けました。

1843年にブリュッセル音楽院のホルン教授となり、1849年にはベルギー王の私設礼拝堂でホルン独奏者となりました。

アルトーはホルンのための24の練習曲のほか、ホルンとピストンコルネットのための幻想曲と四重奏曲も作曲しました。

ジャン デジレの
「組曲6つのメロディー」第6番第3楽章




東西の花の歌

2025-04-08 21:01:00 | ロマン派
土曜日に天神川の土手に行った後、実はもう一つ木津川支流の井手町の玉川に行きました。

すぐ近くなのですが、歌にも詠まれた名所です。
混んでいると思って避けていましたが、ダメ元で行ってみました。

井手町役場を、レストランと産直品を買える場所を一体化されていて駐車場も広く、あまり待たずに入れました。人は多かったですが…。

駒とめて 猶水かはん
山吹の 花の露そふ 
ゐでの玉川
         〈藤原俊成〉
新古今和歌集(1205)
春下・一五九

馬を止めてやはり水を飲ませよう。山吹の花の露が加わる井出の玉川で。
と言う意味です。


藤原俊成
[1114~1204年]
平安後期の歌人。名は「としなり」とも「しゅんぜい」とも読まれます。
藤原定家の父。法名、釈阿。

幽玄体(「幽玄」目に見えるものだけでなく、見えない部分やその奥にあるものを感じ取る。もののあはれを感じさせる中世に通じる歌)の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをしました。

後白河院の院宣により、「千載和歌集」

を撰進。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風体抄」などを書きました。

紅葉の新芽と桜と玉川もいい感じ
井手町付近には奈良時代、
橘諸兄(684-757年)

の管轄区でした。

橘諸兄は玉川近くに別邸を構えていて、井手左大臣と呼ばれていました。

この井手の玉川は、水量が乏しく、そのため水無川とも呼ばれていました。
そこで諸兄は井手の玉川から庭に水を引き入れて、一面に山吹を植えました。

それが玉川をはじめ、井手の邑に咲き誇るようになったので、いつしか山吹は井手の枕詞となり、多くの歌に詠われました。

今は山吹よりも桜が多い玉川沿い
他にも
小野小町、源順、後鳥羽天皇などが、井出の山吹の歌を残しています。

多くの歌人が詠んだのも、橘諸兄が権勢を発揮し、力に及ぶ恭仁京(740-743完成せず終わりました。)に遷都したのも大きかったと思われます。
また、橘諸兄は失脚した後、息子の奈良麻呂が反乱を起こした時にも、天皇の血筋であったからか、巻き込まれず、74歳まで生きました。

奈良麻呂は彼の死後再び謀反を起こし処刑されています。

山吹は日本固有の種でKerria japonicaという学名がついています。
この名はキューガーデンに持ちこんだ
ウィリアム カー
William Kerr(?〜1818年)に因んでつけられました。

アブラハム・ヤコバス・ウェンデル作「ケリア・ジャポニカ」、1868年
ヨーロッパにプラントハンター(植物採取家)が現れ、世界中から花を集めていた頃の音楽。

シャルル グノー(1818-1893年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン・クルー没

ナダール撮影のグノー

1859年オベラ「ファウスト」5幕はゲーテの「ファウスト」を元に書かれました。

年老いた学者ファウストは悪魔メフィストフェレスに村の美しい娘マルグリートの幻影を見せられ、魂と引き換えに悪魔と契約してしまいます。

ファウストにマルグリートの幻影を見せるメフィストフェレス

悪魔の力で若返ったファウストは、マルグリートを口説き、関係を結び、その後捨てます。

アリ・シェフェールによるファウストとマルグリート
マルグリートはその後身ごもり、それでもファウストを待ちながら子どもを産みます。

彼女の兄ヴァランタンはファウストに決闘を挑みますが、悪魔の力を借りたファウストに勝てず、マルグリートに「呪われろ」という言葉を残して亡くなります。

ファウストはメフィストフェレスに連れられてワルプルギスの夜を過ごします。
しかしマルグリートを忘れられない。

マルグリートも糸を紡ぎながらファウストが帰ってくるのを待っています。

しかし、マルグリートのもとへ戻ると彼女は生まれた子どもを殺して牢獄にいます。
ファウストに出会って喜び会う二人。
が、マルグリートは様子がおかしい。実は狂っていたのです。

メフィストフェレスが二人の前に現れ、牢獄から逃してやろうと言いますが、マルグリートは行こうとしない。

すると牢獄の壁が開きマルグリートは昇天していきます。

大天使ミカエルが現れ、メフィストフェレスを倒します。

マルグリートが神に祈ると、天使たちの合唱「救われた!キリストはよみがえられた!」(Sauvée ! Christ est ressuscité !)が聞こえ、マルグリートは神の元に救済されていきます。

この中でファウストと対照的な純朴な村の若者シベールが恋するマルグリートに渡そうと美しい花を用意して歌う「花の歌」

せっかくの花をメフィストフェレスはその力で枯らしてしまい、告白はできません。
シベールは、メゾソプラノが男性に扮して演じます。


2025-04-06 20:49:00 | ロマン派
土曜日の朝、家でレッスンの後、「おばあちゃんから招集が来た!」と次男。
「なんかお弁当作ったからって。」
「え?どこに行くって?」
「わからん。」
しかし、胃袋をつかまれている次男はいそいそと準備。
空いていた私と夫も結局一緒に…。
実家に行くと「どこ行くの?」
「どこ行こか?」
…やっぱり。
ググってみたけれど、有名どころは近寄れない。混んでるだろうから。車だし。

ということで、いつもの蟹満寺の駐車場横の天神川(木津川の支流)の土手。

すぐ入れて

母も満足。

豆ごはんのおにぎり

しょうがとねぎのだし巻き卵と、ししゃものみりん干し、ほうれん草のおひたし。

おいしゅうございました!

すみれ

ホトケノザ

はこべ

たんぽぽ

カラスノエンドウ

いぬふぐり

なずな

かがんで採り出したのは

ちょっととうのたったつくし。
帰って

夕飯に天ぷらにしてみんなで食べました。
美味しかった!

エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg 、1843 - 1907年)

1880年『2つの悲しき旋律』( To elegiske melodier)作品34を作曲しました、
2曲からなる弦楽合奏曲です。

ノルウェーの農民詩人オスムン・オラヴソン・ヴィニエ(1818年 - 1870年)

の詩による歌曲集『12のメロディ』作品33から2曲を選んで編曲したものです。

ヴィニエはノルウェーの詩人の中でもランスモール(ニーノシュク書籍の言葉」の意)とならんでノルウェーで公認されている文語(書き言葉))による詩作の先駆者でした。 

民族的音楽の創作を志していたグリーグは、ヴィニエの詩に大きな刺激を受け、15曲の歌曲を作曲しました。

最初の作品は1873年に、大部分は1880年に作曲しているが、このうち12曲が『12のメロディ』作品33として、2集に分けて1880年に出版されました。

歌曲集の出版と同年、グリーグは生地ベルゲンのオーケストラ「ハルモニエン」(現ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団)の指揮者に就任しましたが、同楽団での演奏を考えて、歌曲のうち2曲を弦楽合奏用に編曲しました。

出版は、翌1881年にライプツィヒのペータースから行われ、友人のハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(1843−1900年)

に献呈されました。なお、ピアノ独奏、連弾用にも編曲され、1887年に同社から出版されています。

『12のメロディ』からは他にも1曲が、『2つのメロディ』作品53(1891年)の第1曲として弦楽合奏用に編曲されています。

第1曲 傷ついた心
原題は原曲ともに Hjertesår で、「胸の痛手」とも訳されます。

原曲は作品33の第3曲で、生活との戦いに疲れ傷ついた詩人の心が、春の訪れごとに蘇ることを歌っています。編曲にあたり、その第1節と第3節のメロディ、あるいはハーモニーにわずかな変更を加えています。

第2曲 春
原題は原曲ともに Våren 。
ペータースから出版の際、初版では Der Frühling とドイツ語訳されましたが、再版の際に詩の内容を暗示するため Letzter Frühling (最後の春)と改題されました。

これが誤訳されたことから、日本では「過ぎにし春」あるいは「過ぎた春」の題名で呼ばれることもあります。

原曲の詩は、その年の春の到来を、自分にとっては最後の春であろうという感慨とともに眺める、という内容です。
グリーグの代表的な歌曲の一つであり、1894年に管弦楽伴奏版も作られています。

ピアノとチェロ編曲版で「過ぎにし春」











フランチェスカ・ダ・リミニ19世紀の流行

2025-04-05 20:53:00 | ロマン派
木曜日レッスンと考古資料館の後に出町柳駅近くの鴨川辺りを桜につられて歩きました。
と言っても駅の周りだけですが、


桜の下の方に咲いているのは

木瓜の花です。

お天気はいいですが、この日は風が強く寒かった。
出町柳の柳も風になびいていました。



もう春ですね~!

金曜日は坂田恭子さんがうちに合わせに来てくれました。
タファネル作曲トマの「フランチェスカ ダ リミニの主題による幻想曲」を練習しました。

フランチェスカ ダ リミニ(Francesca da Rimini)(1255−1285年)は
イタリアのラヴェンナ領主グイド・ダ・ポレンタの娘です。
(フランチェスカ・ダ・ポレンタ(Francesca da Polenta)とも呼ばれます。)

ダンテ アリギエーリ(1265-21年)

サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画(1495年)
が、「神曲」地獄篇に彼女を登場させたことから、1800年代後期のロマン派以降の作曲や作家にインスピレーションを与え、大流行しました。

グイド・ダ・ポレンタは、マラテスタ家(13世紀から15世紀初頭勃興し、リミニ、ペーザロ、チェゼーナを吸収していった家系)

マラテスタ家の紋章
との争いを終わらせるため、娘フランチェスカをリミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタ(ジャンチョットとも)へ嫁がせることにしました。

ドミニク・アングル『パオロとフランチェスカを発見するジャンチョット』(1819年)
ジョヴァンニは勇猛ですが、足が不自由で容姿が醜く、グイドは、フランチェスカがジョヴァンニを嫌ったことを知り、ジョヴァンニのハンサムな弟パオロ・マラテスタ(1246−1285年)を代理人として結婚式を執り行いました。

パオロとフランチェスカ』アンゼルム・フォイエルバッハ画、1864年)
フランチェスカとパオロは恋に落ち、フランチェスカは結婚式翌日の朝まで、自分が騙されたことに気づきませんでした。

ある時、フランチェスカとパオロは、2人でランスロットとグイネヴィア王妃の物語を読んでいるうちに互いに惹かれ合い、不意にパオロはフランチェスカを抱き寄せます。

オーギュスト・ロダン『接吻』(1888年) - 初期タイトルはFrancesca da Rimini
その直後、2人の密会を物陰から盗み見ていたジョヴァンニが、2人を殺しました。

『パオロとフランチェスカ』(ウィリアム・ダイス画、1837年)

シャルル=ルイ=アンブロワーズ・トマ(Charles Louis Ambroise Thomas, 1811- 1896年)フランス帝国メス生まれ、フランス共和国パリ没

弦楽器奏者の父に音楽教育を受け、12歳の時に父が亡くなると、母と兄とともにパリに移り、1828年パリ音楽院に入学します。

1832年にカンタータ『エルマンとケティ Hermann et Ketty』によってローマ大賞を受賞。3年間ローマに留学、その後は、オペラ界に進出。
ローマ留学当時のアンブロワーズ・トマ。ジャン=イポリット・フランドラン画、1834年
成功を収めます。
1871年からはパリ音楽院の教授を亡くなるまで務めました。

20作のオベラを作曲しています。
なかでも最も知られ、成功したのはオベラ「ミニヨン」でその中のアリア「君や知るや南の国」は今でも人気を誇っています。

他にも5幕もののオベラ「ハムレット」も成功しています。

しかし、1882年、彼の書いたもう一つの5幕もののオベラ「フランチェスカ ダ リミニ」は忘れられてしまいました。
近年、オベラの楽譜、上演はありません。

調べてみれば
imslp楽譜図書館によると
Jules Barbier (1825–1901)
Michel Carré (1819–1872)の台本により書かれたこと、

オーケストラの各パートの表紙

が見られますが、中身まではダウンロードできません。
そしてこの楽譜の下の段。
フルートの幻想曲と同じ旋律!

フルートの「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」の作者

クロード・ポール・タファネル(Claude Paul Taffanel,) (1844 - 1908年)フランス王国ボルドー生まれ、フランス共和国パリ没
は、フランスのフルート奏者、作曲家。フルートのフランス楽派の創始者であり、20世紀におけるフルートの演奏指導において主流となる教本「タファネル&ゴーベール」を書き、現在でも世界中で使用されています。
また、指揮者としても活躍しました。

タファネルは、9歳の時に父親からフルートのレッスンを受けました。 
10歳で最初のコンサートを行った後、パリ音楽院でヴァンサン・ドルスに師事しました。

1860年に卒業すると、16歳でフルート演奏で数々の賞のうち最初の賞を受賞しました。

タファネルは、ソリストとオーケストラ奏者として30年以上にわたり充実したキャリアを築き、当時の最高のフルート奏者として知られるようになり、フルートを音楽界の主流に再定着させました。

1893 年、タファネルは音楽院のフルート教授になりました。
彼は生徒たちに、軽く注意深く調節されたビブラートを含む、新しい、より滑らかなスタイルで演奏するように指導しました。

タファネルは音楽院の生徒の必修科目も刷新しました。


1894年から、教材の19世紀の音楽の多くを、ヨハン・セバスチャン・バッハや18世紀の他の作曲家の作品に置き換えました。
それまで、フランスの音楽家たちは(一握りのオルガン奏者を除いて)イギリス、ドイツ、オーストリアを席巻していたバッハの復活を無視していました。

1897年、タファネルは音楽院のオーケストラクラスの主任にもなりました。

タファネルがフルート演奏を変えたもう一つの側面は、ビブラートの使用です、これは後にフランス・フルート派によって開発された基準とは著しく異なっていました。

タファネル=ゴーベール方式では、特に古楽の演奏ではビブラートを推奨していませんでした。
しかし、フルーリによれば、タファネル自身は「軽く、ほとんど感知できないほどのビブラート」を使用していました。

タファネルのトマの主題によるオベラ「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」は
〜地獄の導入部(ヴェルギリウス(神曲に登場するダンテを導く古代ローマの詩人)の出現)
〜第3幕のバレエのディヴェルティスマン(ストーリーとは関係ない踊りのシーンの音楽)
〜アダージョ
〜サルタレッロSaltarello(小さな跳躍を意味する中世ヨーロッパで流行った3拍子の舞曲)とセヴィリアーナSevillana(スペインのセビリア地方に伝わる民謡や踊り 通常8分の6拍子)


ピタゴラスと天体の音楽

2025-04-03 21:00:00 | ロマン派
今日は1日家でレッスンでした。
月曜日エスカルで渡辺橋サロン ド プリンシパルに行った時に発見した枝垂れ桜。

中之島市立科学館と中之島美術館の

敷地に咲いている桜です。
科学館は
大阪市制100周年事業として、関西電力から65億円の建物設備の寄付を受けて1989年に開館しました。
夢宙ときめき館」という愛称を使用していた時期もありました。

前身は日本初の科学館であり、初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(開館は戦前の1927)です。

1930年大阪市立電気科学館

科学館が所在する中之島4丁目にはかつて大阪大学理学部

がありました。

日本で初めて天体電波観測が行われた地ともいわれ、関連する資料の収集や研究を積極的に行われています。

常設展示では参加型を中心に200のアイテムがあるほか、サイエンスショーなどが行われています。

2008年7月18日には展示場がリニューアルされ、1928年に東洋最初のロボット(人造人間)とされた學天則を復元した実物大の動態模型が公開されました。

プラネタリウムは過去に数回リニューアルされ、2022年2月のリニューアルで全天周映像システムMediaGlobeΣ SE(コニカミノルタプラネタリウム社)
と連動する形で、スペースエンジンにSkyExplorer(RSACosmos社)、プロジェクターにGTZ380 (SONY) を導入しました。

また、収蔵資料として日本初のプラネタリウム(カールツァイスII型)

大阪市立科学館に展示されている日本最古のプラネタリウム投影機(大阪市立科学館のカール・ツァイス・イェーナ社製「ツァイスII型」
や、大阪大学で使われたコッククロフト・ウォルトン型加速器、

コッククロフト・ウォルトン電圧増倍回路。原子爆弾の開発に利用された初期の粒子加速器の一つに備え付けられていた。1937年にアイントホーフェンのフィリップス社により建造された。現在はロンドンのサイエンス・ミュージアムに展示されている。
日本初の本格的化学研究所である舎蜜局(せいみきょく)
についての資料、戦前からの電気計測器や電気設備に関する資料などのコレクションを持っています。

また、戦前からの天文学を中心とする普及書籍・雑誌のコレクションは西日本一です。

「天体の音楽」op285は
ヨーゼフ・シュトラウス(Josef Strauss、1827 - 1870年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
により作曲されました。

紀元前6世紀のギリシャの哲学者ピタゴラス(BC526-BC496年)

は、天体の運行が人間の耳には聞こえない音を発しており、宇宙全体が一つの大きなハーモニーを奏でていると考えました。

古代ギリシアの音楽理論では、音楽の調和(ハルモニア)は宇宙の調和と同じと考えられていました。

これが「天球の音楽」などと呼ばれる思想です。

この古代ギリシアの思想は、19世紀のロマン主義的な雰囲気に合致し、流行になっていました。

1863年、ヨーゼフ・シュトラウスは兄のヨハン・シュトラウス2世(1825-1899年)

から、ウィーン大学医学生らにより構成される「医学舞踏会」の音楽監督を引き継ぎました。


ウィーン大学
1868年にヨーゼフを再任した「医学舞踏会」の委員会は、流行の「天球の音楽」を舞踏会のテーマとすることを決定し、それにふさわしい音楽をヨーゼフに求めました。

通常、慣習として献呈曲には主催者と関係のある曲名がつけられていましたが、このワルツには医学とは無関係な『天体の音楽』という曲名が与えられました。

1868年1月21日にゾフィエンザールにおいて初演されました。



ウィーンにあったゾフィー大公妃にちなんで命名された温水プール、冬は音楽ホールとして使われました。

この日、会場全体が星を散りばめた青色の絹布で飾りつけられていました。

一部から『天体の音楽』という曲名が祝祭にそぐわないとみなされましたが、初演は大成功を収め、結果的にこの作品はヨーゼフの代表作となりました。

曲の構成は
5つの小ワルツから構成される、典型的なウィン・ワルツの形式をとっています。

ヨーゼフ シュトラウス作曲「天体の音楽」op285


大フィルのクラリネット奏者のように演奏する

2025-03-31 21:01:00 | ロマン派
日曜日は韓国大邱市の交流がコンサートの練習が六甲アイランドセンターのラサーラ ディ オルフェオフルートアンサンブルエスカルでありました。

LINEで14:00〜と書いてあったので行ってみると、魚崎辺りで「久米さん来る?」と連絡が「今日は13:00からですよ。」
「えっ!」とボートライナーの中で飛び上がった私。

早めに出たつもりが、大遅刻。
グループLINEをよく見返してみると「13:00からに訂正します。」との1文が…。

ひゃ~!

他にも2人ほど2時だと思っていました。

着いてみると「アルルの女」組曲をやりますが、1は終わって2は途中でした。
が〜ん!本当に落ち込みます。

「メール送ったよね!」と榎田先生。
「すみません。見逃してました。」と頭下げて入りました。
クヨクヨしている暇はありません。
すぐ練習に加わりました。

前はバスを吹いていたので、3rdは初めて。
その上楽譜が見えにくい。
送ってもらったPDFがいくらプリントアウトしなおしても薄いです。
全部音名を振ってみましたが、慣れてないからうまく読めません。

後で原譜を再コピーさせてもらいました。

韓国演奏に行くメンバー外部の人も加わって、うまい人が多くて、吹きやすくとても刺激になりました。

韓国の練習の後は、いつものメンバーでエスカルの練習。

大阪と神戸、メンバーどちらに参加してもいいシステムです。
神戸でするのは久しぶりです。

いつもの「フィンガルの洞窟」ドボルザークの「セレナーデ」を練習しました。

「フィンガル」を必死で間違えないように吹いていたら、「冷たすぎるんだよ!」と榎田先生の檄!

「大フィル時代にここはクラリネット2本で演奏するんですが、それが本当に美しかった。

ただ吹くんじゃなくてもっとこうなんていうかもっと情感を込めて!」

うーん!大フィルの名手と比べられても…と思いましたが、やるしかありません。
こちらも必死。
絶対になんとかします。

フェリックス メンデルスゾーン バルトルディ(1809−1847年)自由都市ハンブルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没

1830年
『フィンガルの洞窟』作品26は、1830年に作曲した演奏会用序曲です。

原題は『ヘブリディーズ諸島』(Die Hebriden)ですが、日本語では通称の『フィンガルの洞窟』の方が多く用いられています。


二度目の旅に出発しました。
彼の両親が彼に資金を提供しました。
旅の目標:はフェリックスが世界市民になること。数か月または数年かかるこのような旅は、非常に費用がかかります。

両親は彼を誇りに思っていることを示しています。


メンデルスゾーンがゲーテのために演奏する、1830年、モーリッツ・オッペンハイム作、1864年

メンデルスゾーンは5か月間ベルリンの自宅に滞在しました。

その後彼の最初の教育旅行はイングランドとスコットランドでした。

そこで彼は音楽家、出版者、イギリスの貴族とのつながりを確立しました。

この時、メンデルスゾーンは21歳、すでに芸術の頂点に達していました。

最高の指揮者の一人、最も想像力豊かなピアニストの一人、そして当時の最も興味深い作曲家の一人として、大衆は彼を愛し、崇拝していました。

1830年発行ヘプリティーズ諸島の表紙 王立大学図書館ロンドン

「フィンガルの洞窟」についての詳細はブログに取り上げたので
https://blog.goo.ne.jp/m-fluteangel16/e/0c7b5531f0905d9cecf4d5b5a9e57b7f

今回は在りし日の朝比奈隆先生指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団のメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」
おそらくフルートは榎田雅祥先生