音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

心肺蘇生法

2024-11-18 21:00:00 | ロマン派
日曜日の朝は実家でレッスンした後、牧野に戻って地元の小学校で「救急救命法講習会」を受けました。

子育てサポートをするので5年に一度位は受けてくださいと言われています。

3度くらい受けていますが、コロナで飛んでしまい、間が空きすぎてしまいました。たにはだ

近くでやってくれるので助かります。
地元の消防団の方が開講してくれました。

もし近くで倒れて意識がなく、呼吸が止まっている人がいたらどうしますか?

1安全を確認
2反応を確認 
3大声で助けを呼びます。救急車やAEDを取ってくるように頼みます。
4呼吸を確認
5胸骨圧迫 30回(一分に100-120のテンポ)
6人口呼吸2回
5 6を救急車が来るまで続けます。

すぐに胸骨圧迫=心肺蘇生法を行うことで生存率がグンと上がるそうです。

胸骨圧迫と言ってもどれくらい押していいのか?
流血していたら?
心臓が止まったら脳に血流がいかないので、とにかく胸骨圧迫をした方がいいそうです。 

赤ちゃんや子どもの場合は?
体の厚みの3分の1まで圧迫。
赤ちゃんは抱いて呼吸ができるようにして指2本を乳首の間の少し下に縦に置き、押すそうです。横に置くと骨が折れやすいそうです😱
 
それでも肋骨がもし折れても、しないよりした方がいいそう。

AEDが来たら、機器の指導に従って電気ショック、心肺蘇生法を続けます。

人形で押し加減がわかりますが、思ったよりたくさん重みをかけて押さなくてはなりません。

AEDは、市役所、学校、コンビニ、駅などに置いてあります。

聞いただけでは加減がわかりません。
みなさんの自治体でも無料…税金で受けられます。大切な人を将来助けられるかもしれません。
受講、お勧めです。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没

は、警察署で書記官を務める父が生後まもなく亡くなり、革命に関わり亡命生活をしたりしました。

不安定な生活を送っていましたが、バイロイト王国のルートヴィヒ2世の寵愛を受け、1876年にはバイロイト祝祭劇場が完成し、ワーグナーの作品だけが上演されることになります。

そのワーグナーは
1883年2月13日、ヴェネツィアに旅行中、突然客死しています。
以前から患っていた心臓発作が起きての死だったと言われています。

彼が、最後に書いていた論文は

『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも書いていました。

妻のコジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったとい言います。
遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬されました。

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓

ワーグナー最後の作品は舞台神聖祝典劇『パルジファル』(Bühnenweihfestspiel "Parsifal" )1882年に完成させた楽劇です。 



全3幕。原語ドイツ語。台本も作曲家自身によります。

初演は1882年7月26日、バイロイト祝祭劇場。

中世(10世紀ごろ)スペインのモンサルヴァート城およびクリングゾルの魔の城。


第1幕
老騎士グルネマンツと小姓たちが傷の治療のために湖へ向かうアンフォルタス王を待っているところへ、呪われた女クンドリが現れ、王の薬を託します。

Willy Pogany ~ Parsifal by Richard Wagner ~ Crowell ~ 1912 ~ via Golden Age Comic Book Stories

かつてアンフォルタス王はクンドリに誘惑され、聖槍を奪われて傷つけられていました。癒えない傷口からは、絶えず血が流れ出し、罪の意識を伴ってアンフォルタス王を苦しめます。

グルネマンツは魔法使いクリングゾルの神託「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」を聞いていました。
そこへ、湖の白鳥を射落とした若者が引っ立てられてきます。

グルネマンツはこの若者こそ神託の顕現ではないかと期待し、若者を連れて城へ向かいます。

城内の礼拝堂で、聖杯の儀式が執り行われます。しかし、若者は茫然として立ちつくすばかり。グルネマンツは失望して若者を追い立てます。

第2幕
魔法使いクリングゾルの魔の城。
クリングゾルはクンドリに、魔の城に侵入した若者を誘惑し堕落させるように命じます。
クンドリは抵抗しますが、結局言いなりになります。
若者は襲いかかってくる兵士たちをなぎ倒して進むうち、クリングゾルの魔法で、あたりは花園になります。

花の乙女たちが無邪気に舞いながら若者を誘います。
やがてクンドリが「パルジファル!」と呼びかけ、初めて若者の名が明かされます。

クンドリはパルジファルの母親の愛を語り、キスします。ところが、これによって、パルジファルは知を得て、アンフォルタス王の苦悩を自分のものとすします。
なおもクンドリはパルジファルに迫ります。しかし、パルジファルはこれを退けます。

誘惑に失敗したと悟ったクリングゾルが現れ、聖槍をパルジファルめがけて投げつけます。

聖槍はパルジファルの頭上で静止し、パルジファルがそれをつかんで十字を切ると、魔法が解け、城は崩壊して花園は荒野と化します。

第3幕
隠者となったグルネマンツは倒れているクンドリを見つけます。
そこに武装した騎士パルジファルが現れます。
いまやアンフォルタスは聖杯の儀式を拒否し、先王ティトゥレルも失意のうちに没し、聖杯の騎士団は崩壊の危機に瀕していました。

クンドリが水を汲んできて、パルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水をかける洗礼の儀式をすると、パルジファルもまたクンドリを浄める3人は城に向かいます。
城では、騎士たちの要請によって、先王ティトゥレルの葬儀のための儀式が始まろうとしています。

アンフォルタスは苦悩の頂点に達し、「我に死を」と叫びます。

そのとき、パルジファルが進み出て、聖槍を王の傷口にあてると、たちまち傷が癒えます。

パルジファルは新しい王となることを宣言、聖杯を高く掲げます。
合唱が「救済者に救済を!」と歌う。聖杯は灼熱の輝きを放ち、丸天井から一羽の白鳩が舞い降りて、パルジファルの頭上で羽ばたき。クンドリは呪いから解放されてその場で息絶えます。

第1幕フィナーレ


ギターとコンサーティナーの名手

2024-11-17 21:00:00 | ロマン派
土曜日は今津公民館で西宮ギター練習会でした。

今回は一度も行ったことのないルートで行きました。
京阪天満橋で地下鉄谷町線に乗り換え、東梅田で阪神に乗り換え、直通快速で甲子園口。そこから各駅二駅で久寿川駅。そこで降りて今津公民館へ、

実は久寿川駅からのほうが100mほど近いのです。

しかし、お店が無い。
今津は阪急今津線と阪神が乗り入れているので、駅前はスーパーやコンビニで
にぎやかです。
お昼ごはんを買い損なって…でもそんなこともあろうかとチーズと豆のセット、紅茶の水筒を持参していました。   

それに途中で和蝋燭のお店を見つけました。

ちょっといい感じ。



会場に着いたら豆とチーズを食べて、

ギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」イベールの「間奏曲」モーツァルト「フルートソナタop14」を演奏しました。

みなさん、熱のこもった名演ばかり。
私もギターの曲だいぶ覚えました。

ジュリオ・レゴンディ(1822 - 1872年)スイス ジュネーブ生まれ、イングランド王国ロンドン没

ジュリオ・レゴンディ リトグラフ、ヨーゼフ・クリーフーバー作、1841年。

は、ギタリスト、コンサート奏者、作曲家で、フランスと(主に)イギリスで活躍しました。

レゴンディは、スイスのジュネーブで、ドイツ人の母親とイタリア人の父親の間に生まれました。

1831年、フェルナンド・ソル(1778-1839年)

は、天才少年だったレゴンディがまだ9歳のときに、 作品46「友情の思い出」を捧げました。

1831年9月3日、ロンドンのロイヤル・アデルフィ劇場で演奏する若きジュリオ

1831年9歳の時 ロンドン。
タイムズの1831年6月16日、3ページに
「新しい音楽基金 レゴンディという名前の少年が、6歳から7歳の間、ギターでファンタジアを演奏しました。 「彼はピアノの上に置かれた椅子に座っていました。」という記録があり、ギターの神童として紹介されています。

レゴンディのコンサーティーナ(1829年制作)の曲のほとんどはイギリス式のために書かれたものです。

Lachenal の金属製エンドのイングリッシュ コンサーティーナ。

彼はこの分野でも名手でした。

しかし、ギター曲の方がよく知られています。

彼のギター独奏曲は、練習曲集、ベリーニのテーマによる変奏曲、そして5つの大作から構成されています。
 
レゴンディはロンドンで亡くなりました。

ヴェンチェンチオ ベリーニ(1801-1835年)

のオペラ「カプレッティとモンテッキ」は1830年、ヴェネツィア フェニーチェ劇場


で初演されました。

シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにフェリーチェ ロマーニ(1788- 1856年)

が台本を書きました。

ジュディッタ・グリージとアマーリア・シュッツによる1830年のスカラ座での上演
レゴンディ作曲、オペラ「カプレッティとモンテッキ」の主題による変奏曲 ギター独奏

1845年に作曲されましたが遺失したと思われていました。2007年になって再発見されました。


クリスマスコンサート打合せ

2024-11-12 21:00:00 | ロマン派
ピアノのTさんと「子育てサロン」のクリスマスコンサートの打合せです。

お昼ごはんを用意しました。
食べた後はお茶。
…ばっかりでは進みません。
まず、クリスマスの絵本に先週考えた音楽をつけるのですが、もともとの文章が長いので短い言葉を考えておきました。

それと音楽を合わせるのですが、頭の中だけでは難しいので今日は当てたい音楽を、録音しました。
使うのは少しでも長めに録音しておいて後でカットしたり繋げたりします。
もちろん手動です。

それがすんだら、聴いてもらいたい3曲。
メンデルスゾーンの「歌の翼に」による幻想曲。

バスフルートでブラームスの子守唄

ヘンデルのフルートソナタ

みんなて鈴を鳴らして合わす「ジングルベル」
いろいろな楽器で合わせる「あわてんぼうのサンタクロース」
グノーのアヴェ・マリアでハラバルーン。
サンタクロースがプレゼントを配る音楽の「クリスマス・キャロルメドレー」
結構な曲数になりました。
Tさんに感謝です。
プログラムはスタッフのYさんが作成してくれます。
プレゼントはOさんがお手伝いしてくれます。
後も
みんなが助けてくれるでしょう。

やっと目処がついてほっとしました。

子育てサロンのクリスマスコンサート
12月10日(火)10:00〜会館との2
入場無料 対象子育て中の保護者と子どもたち。

フランツ リスト(1811-1866年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

は、『クリスマス・ツリー』(独: Weihnachtsbaum)を、フランツ・リストが1874年から1876年にかけて作曲しました。ピアノ曲。

この曲はリスト晩年のローマ時代に、孫娘ダニエラ


1873年頃のコジマの子供たち - 左からイゾルデ、エヴァ、ジークフリート、ブランディーヌ、ダニエラ
リストの次女コジマは指揮者ハンスフォンビューローと結婚していて4人の娘がいました。
1870年彼と離婚してワーグナーと結婚しました。ジークフリートはワーグナーとの子どもで1869年に生まれました。
のために作曲したものです。
1980年に、12曲にまとめた版がベーレンライター出版社から出版されました。

この曲は古い民謡や教会の聖歌などを原型としたもので、日本でも1988年に日本リスト協会によって初演されています。

クリスマスツリー
第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite ; この楽曲は詩篇歌の歌詞がついていますが、ピアノのみでも弾くことが可能な曲です。

第2曲 おお、聖なる夜! O heilige Night! ; この楽曲も第1曲と同様に、クリスマスの歌詞が付いています。

第3曲 かいば桶をかこむ羊飼いたち Die Hirten an der Krippe  ;  この楽曲はハルモニウムで弾くことも可能です。6/8拍子の曲。この楽曲の動機は、アッシジの聖フランチェスコの太陽賛歌と共通しています。 

第4曲 信者たちよ、キリストへ Adeste fideles ; この楽曲は東方三博士の行進になっていて、今日でも教会で賛美歌として歌われています。

第5曲 スケルツォーソ Scherzoso ; 人々がクリスマス・ツリーのろうそくに火をともします。

第6曲 鐘 Carillon ; 教会の鐘が静かに鳴ります。

第7曲 仮眠のうた Schlummerlied  
第8曲 古い田舎のクリスマスの歌 Altes provencalisches Weihnachtslied  

第9曲 晩鐘 Abendglocken ; リストは青年期から晩年まで鐘をピアノで表現しています。

第10曲 むかし Ehemals  

第11曲 ハンガリー Ungarisch-Natale Ungherese

第12曲 ポーランド Polnisch-Natale Polacco

第11曲と第12曲は技巧的で、それぞれリストとカロリーヌの故郷を象徴しているといます。

第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite





大麦糖の踊り

2024-11-11 21:00:00 | ロマン派
フルートアンサンブル「エスカル」の第4回定期演奏会
11月10日(日)開催しました。
プログラムは
エルガー「ニムロッド」
チャイコフスキー「くるみ割り人形」組曲

ドビュッシー「小組曲」
ビゼー「アルルの女第二組曲」
アンコール「赤とんぼ」を演奏しました。



バスフルートセクション
リアクションくださったり、コメントくださったり、読んで、聴いていただいて応援くださったみなさん。
本当にありがとうございました。
みなさんの温かい励ましのおかげで無事演奏することができました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没


1892年初演されたバレエ音楽「くるみ割り人形」のなかでクララが助けたくるみ割り人形。
王子の姿になりお菓子の国を案内します。

その中でディベルティスマン(気休め)として様々な国のお菓子の精が踊りを披露します。

その中の一曲。
「ロシアの踊り トレパック」

トレパックは
大麦糖(または大麦糖キャンディ)のことで、伝統的な飴(ハードキャンディ)。
大麦の抽出物から作られ、黄色やオレンジ色をしていることが多いそうです。



イギリスでは、ねじった棒の形で販売されていました。

16、17世紀のフランス宮廷で珍重された、ねじり棒のようなキャンディーという説もあり、おそらくフランスで上演された時にそのイメージになったのではないかと思われます。



しかしそのまま直訳すると「大麦糖の精の踊り」

ロシアの踊りとあるように
伝統的なロシアとウクライナの民族舞踊コサックダンスに基づいています。




行商人

2024-11-09 21:02:00 | ロマン派
レッスンの時は、京都今出川通りをバスで出町柳駅から、大宮まで行きます。
途中に同志社が見えたり

考古学博物館で「平安ファッション考古学」をやっていたりします。


すっかり見かけなくなった研屋さんの看板がいい味出しています。

スペインにも研屋さんがいてafiladorといいます。この言葉にはプレイボーイ、女たらしと言う意味もあるそうです。
彼らは笛を吹きながら街角にやってきて、ハサミや包丁を研いでくれます。
その研屋の笛 チフロと言います。

パンフルートや、サンポーニャと同じ音の出し方です。
英語ではシャープナーパンフルート。
こんな感じ。 

研屋のように街から街へ商売をして回るのは行商人。

フリードリヒ クーラウが、オンスロウの作ったオペラ「行商人」の主題による前奏とロンドop98を作っています。

もともとのオペラ「行商人」についての資料は少なくあまり見つけられませんでしたが、当時流行っていたようで、クーラウはピアノ独奏にも主題を使っています。

フレデリック カルクブレンナーも間奏曲と行進曲をピアノ独奏曲を書いています。


アンドレ・ジョルジュ・ルイ・オンスロー(1784 - 1853年) フランス王国クレルモン フェラン (オーヴェルニュ) で生まれ、1853 年 10 月 3 日にクレルモン フェラン没



は、イギリス貴族の伯爵父ドワート
は1781年フランスに移住し、ブラントーム家の親戚であるマリー・ロザリー・ド・ブルデイユ (1761-1842) と結婚。

ジョージは1803年から1805年にかけてイギリスでクラマーからピアノのレッスンを受けました。

ジョージは1803年から1805年にかけてイギリスでクラマーからピアノのレッスンを受けます。

1808年7月にシャルロット・フランソワーズ・デルフィーヌ・ド・フォンタンジュ(1790-1879)と結婚しました。

1829年、彼は狩猟の事故で聴覚の一部を失い、その痛みを「デ・ラ・バレ」として知られる五重奏曲の中で描写しました。

1829年、彼はメンデルスゾーンとともにロンドン・フィルハーモニー協会の名誉会員に昇進し、それを記念して第2交響曲作品42を作曲し、1832年3月4日に初演しました。

1839年、相続を争った兄弟たちに対する訴訟で敗訴しました。彼はチャレンドラット城を去り、ベルリーヴェに別の城を建てました。

「行商人または木こりの息子」はオンスローの3つのオペラのうちの2番目の作品で、1826年に作曲され、1827年11月22日にオペラ=コミック座で初演されました。
台本は、ウジェーヌ・ド・プラナール(1783-1853年)
によって書かれました。

架空のロシアを舞台にしたこの作品は、皇帝の若き皇太子アレクシスの冒険物語です。  


王を虐殺した王位を狙う悪党から逃れた後、アレクシスは自分の正体を知らない木こりの世話になります。

数年後、行商人に変装した簒奪者の手下に見つかり、刺されます。

しかし、アレクシスはその裏切り者を倒し、地位を回復し皇帝となり、長年愛していた船乗りの女性と結婚します。

ジョージ・オンスロー作『行商人』(1827年)のバレンタイン役のマリー・デブロス
オペラ「行商人」序曲


ご当地のお菓子

2024-11-07 21:00:00 | ロマン派
台湾のお土産の台湾動物クッキー。

パッケージもおしゃれ

センザンコウ穿山甲 

哺乳類だそうです。これだけの種目でアルマジロみたいに硬い鱗で覆われているそうです。

コウテイキジ皇帝雉

霧が濃く、天気が悪く、薄暗いときに出てくるのを好むため、「霧の王」と呼ばれているそうです。
台湾のみに生息しています。

台湾ツキノワグマ

やはり台湾の固有種で絶滅危惧種に指定されています。

台湾イノシシ

台湾固有種で少数民族の食肉となっていて、食文化と種の保存で論争になっているそうです。

私の中で台湾土産のお菓子といえば、パイナップルの入ったパイやクッキー、月餅でしたが、このお菓子はイメージを一変させました。

お客様にも出してみましたが、評判が良く、見た目もユニークなので盛り上がるし、材料も台湾で採れた黒糖を使うなど厳選されていて、優しい甘さで美味しかったです。
また、お土産買ってきてね💖

1876年までライプツィヒではヒバリの肉が食べられていました。

ライプツィガー レアヒェという料理はライプツィヒの名物で、ヒバリ(レルヒェ)が使われ、ハーブと卵と一緒にローストされ、パイ生地のフィリングとして提供されていました。
1720年には、ライプツィヒで40万羽のヒバリが販売されたと言われています。

農業の重要性を認識したザクセン王アルブレヒト1世(1828-1902年)により

によりヒバリの狩猟が1876年に禁止されます。 (ヒバリは穀物類につく虫を捕食するので)

ウィーン食文化辞典(1894年発行)

によると、19世紀末までライプツィヒからヒバリは輸出されていました。

禁止後は、伝統的なペストリーは牛肉のペストリーに取って代わられました。

狩猟禁止が課されて間もなく、地元のパティシエがライプツィヒのレルヒェの新しい甘いバージョンを作り出し、ヒバリの保存に貢献したそうです。
 
砕いたアーモンド、ナッツ、チェリーを混ぜたショートクラストでできています。

チェリーは鳥の心臓を象徴しています。
その上に、交差した2本の生地の格子が乗っています。

ライプツィヒのレルヒェ(ヒバリ)という名称は、1998年以来ザクセン州パン職人組合によって保護されています。

ライプツィヒの名物と言えばおそらくこの方もヒバリ料理を食べていたかも。

フェリックス メンデルスゾーン (1809-1847年) 自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

1847年メンデルスゾーン
は、1839年、ヨハン ウーラント (1787-1862年)の詩に 曲をつけています。
混声アカペラ合唱曲集「最初の春の日」op48の4番目の曲

「レルヒェゲサング」
「ヒバリの歌」
何と愛らしい響きだ!
おおヒバリたちよ!
お前の歌は空高く上り 
幸せに飛び交う
お前も運んでくれ 
私をそこまで
私も歌おう 
お前と一緒に
私たちは昇って行こう
雲を抜けて太陽まで




乾いた花でも

2024-11-05 21:01:00 | ロマン派
連休最終日は実家でレッスン。
詳しくは言えませんが、いろいろな事情、お仕事、健康問題などなどあってもずっと通ってくださる生徒さんたちに、本当に感謝です。

写真のお花は母が毎月活けているのですか、いつもは植えている菊を切ったり、買ってきて活けるのですが、「庭の菊が、葉ばかり多くなって花が咲かない。買ってきても暑くてすぐ枯れるし…。」と言っていると思ったら…。

まさかの菊の花のフェイク品。

「今年は父のお墓の生花がすぐ枯れる、そりゃそうだね。暑すぎるよね。」と言っていました。

周りのお墓を見たら、美しいお花がたくさん。よく見たら造花。
「これもいいかも。」
ということで母もフェイクを使うことになりました。
生きた葉を一緒に入れているので本物みたいに見えます。

それもいいかもうちも南向きの部屋は暑いので生花は好きですがすぐ枯れるので何年も活けていません。
ドライフラワーを活ける?くらいで。

愛(気持ち)があればフェイクフラワーでも赦してくれるよね。たぶん。


ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ヴァージナル没

が1875年にパリオペラ コミック座で、初演した「カルメン」は初演時は不評でした。
しかし、客の入りは悪くなく、ビゼーの元へは改作して上演しないかと声がかかります。
ビゼーはそれに応じようとしていましたが、突然慢性扁桃炎に倒れ、療養中に心臓発作を起こし亡くなってしまいます。

オペラ「カルメン」はそれから徐々に人気が出て、現代ではもっとも上演回数の多いオペラの1つです。
初演時のポスター

その中の
「花の歌」は、第2幕で、ドン・ホセ(テノール)によって歌われるアリアです。

歌詞から「おまえの投げたこの花を」(La fleur que tu m'avais jetée)の題名でも呼ばれています。

形式上は二重唱の一部ですが、単独のアリアとしてよく取り上げらています。

第2幕の後半のカルメンとドン・ホセの二重唱の場面。

帰営ラッパに気づいて兵営に戻ろうとするドン・ホセに、カルメンは愛を疑う言葉をかけます。
それに対してドン・ホセは二人が初めて出会ったとき(第1幕、「ハバネラ」の場面)に受け取った花を取り出し、愛を歌います。

「花の歌」
おまえが投げた この花を
俺は牢の中でも手放さなかった
しぼんで ひからびてしまっても
甘い匂いは変わらなかった

何時間も 何時間も じっと
まぶたを閉じたまま
その匂いに酔いしれながら
闇の中で おまえを 思い浮かべた

おまえを呪ってやりたいと思った
おまえを憎んで こう言いかけた
なんでまた あんな女に
俺はめぐりあったんだろう?と

そのあとで  そんな自分を責め立てて
気がつけば 俺の望みはただひとつ
ただひとつ 希望はひとつ もう一度 おまえに会うこと
おお、カルメン!おまえに会うことだけ!

なぜなら おまえはやってきて
俺をちらりと見ただけで
もう 俺をとりこにしてしまったんだ
おお!俺のカルメン!
俺はおまえのものだったんだ!
カルメン!おまえを愛している!





ミルリトンはフランスのお菓子

2024-11-04 21:01:00 | ロマン派
月曜日は渡辺橋駅近くのサロン・ド・プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」定演前大阪での最終練習でした。
これてす。

実は六甲アイランドオルフェオでは、9日にもう一度練習があります。

プログラムは
ビゼーの「アルルの女」第2組曲
エルガーのエニグマより「ニムロッド」
ドビュッシーの「小組曲」
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の組曲

私は「小組曲」をコンサートフルートで他をバスフルートで演奏します。
バスフルートはGの音が出なくなって、何度締めても緩むので、榎田先生が「キーのネジをボンドで止めなさい。」といわれるのでボンドで止めるという暴挙に出てからまあまあ音が出るようになりました。
タンポがだめなのはどうしようもありません。
ノーブランド、ノーメーカーの古い楽器をお借りしたので、楽器屋さんも調整する部品が無いし、取り寄せるにも情報が無いのでわかりません。ということで断られました。

が、今回はこのまま、頑張ります。
ベストを尽くすしかありません。

榎田先生、今頃になってドビュッシーが終わってバスフルートに持ち替えようとすると、「あれ?フルートはこれだけだったかな?」ですって!
まあ、そんなものでしょうね。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が1892年に作曲したバレエ音楽「くるみ割り人形」はマリインスキー劇場で初演されました。

1892 年12 月6 日 (18) 、 サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場でのバレエ初演

1892年に帝国マリインスキー劇場で上演された劇「くるみ割り人形」の断片:マリアンナ - リディア・ルブツォワ、クララ - スタニスラヴァ・ベリンスカヤ、フリッツ - ヴァシーリー・ストコルキン
エルンスト テオパルド ホフマン(1776-1822年)プロイセン王国 ケーニヒスベルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没
の寓話「くるみ割り人形とねずみの王様」に基づいています。
台本は、1844年に父アレクサンドル・デュマによって作られた童話の改作からなっています。

「葦笛の踊り」はクララがネズミの王様から救ったくるみ割り人形が王子の姿を取り戻し、招待されたお菓子の王国でクララと王子の前で踊られるディベルティスマン(気晴らし)の中の一曲です。

ロシアの初めの台本では
羊飼いの踊り (デンマークのマジパン)
となっていました。 

マジパンはアーモンドと砂糖を練ってペースト状にしたもので、デンマークではケーキやタルト、チョコレートに入れるなど、スイーツづくりには欠かせないものです。


このチョコの中に入っているものがマジパンだそうです。

フランス語では
Danse des mirlitons
ミルリトンの踊り

それがなぜミルリトンになったのか?
謎はすぐ解けました。
アンデルセンのホームページにあったこのケーキ。

デンマークケーキと書いてあって中にマジパンが入っています。

フランスのミルリトン

ミルリトンはアーモンドクリームのタルトだそうです。
フランス ルーアン(ノルマンディー地方)の伝統菓子で

似ているでしょう?

ミルリトンのもう一つの意味は、
1つはカズーという声を音に変換する仕組みを使った笛の意味ですが、チャイコフスキーの葦笛とは似ても似つかない音色です。

もう1つが騎兵の帽子とのこと。

ルイ15世のルイドール金貨も、

ミルリトン。関係ないですね。

なぜ葦笛?

ロシアの次に初演サれたのがアメリカでその時「Dance of Reed pipe」葦笛の踊りが使用されました。
それをフランスに入れた時に誤訳された…。
では、デンマークと羊飼いはどこに行ったのか?
フランスのお菓子のミルリトンに引っ張られて無くなった?

謎は消えません。
ミルリトンはすっかりフランス風に葦笛を持って、踊られたりもしています。







万霊節

2024-11-02 21:00:00 | ロマン派
10月31日5歳児を幼稚園にお迎えに行って、1時間ほど預かりました。
ハロウィンパーティーが幼稚園であったそうで、

こんなのを頭に着けて幼稚園から出てきました。
「ジャック オー ランタンとか、骸骨がいた。」
「明日から11月、カレンダー作ろう!」と言い出し、カレンダーを作りました。

ハロウィンはすっかり根付いているようです。
地元の商店街でも扮装をして「トリックオアトリート!」と言うとお菓子を貰えるお祭りと模擬店が出ていました。

ハロウィンの起源はケルトのドルイド僧の儀式と言うのはどうも捏造だそうです。
といっても近世にはもう信じられていたようで、民間のお祭りという位置づけでした。

キリスト教の万聖節の前夜祭(All Hallow's evening→Hallow's even→Hallowe'en)とされますが、万聖節自体はローマやフランク王国で7世紀~9世紀に始まり、17世紀には万霊節(11月2日)としてイングランドやウェールズ、アイルランドで、これと似たお祝いがあったそうです。

現在、万聖節は祝われず、カトリックでもプロテスタントでも、キリスト教ではハロウィンは正式な祝祭ではありません。

冬の始まりが新年の始まりとされ、11月1日が万聖節、その前日10月31日が万霊節。

あらゆる死者の霊が地上に帰ってくる…日本のお盆のような感じ?

19世紀になりアイルランド、英国から大量に移民がアメリカへ到着し、万聖節が伝えられました。

案外、歴史は浅いです。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1964年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、 ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン行政管区
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン没

が1885年ヘルマン・フォン・ギルムの詩につけた
歌曲「万霊節」Allerseelen

初めて作った歌曲集『「最後の葉」("Letzte Blätter" )による8つの歌曲』作品10の中の一曲です。

シュトラウスの歌曲の中でも特に演奏機会の多い作品で、畑中良輔は、「この比類のない美しさと清純さは、彼の壮大な交響詩が滅ぶことはあっても、おそらく永遠のものとして残るであろうと思われる」と言っています。

「万霊節」
テーブルの上に香り高い木犀を置いて
名残の赤いアスターをこちらへ

そしてまた愛について語り合おう
かつてのあの五月のように

手を伸べておくれ
僕はひそやかに握ろう

もし人に見られても気にしない
甘いまなざしをひとめ僕に

かつてのあの五月のように

今日はどのお墓も花と香りに満ちて
1年に1度だけ死者が自由になる日

僕の胸においで もう一度君を抱きしめよう
かつてのあの五月のように

かつてのあの五月のように


フランスヴァイオリンソナタの最高峰

2024-10-29 21:02:00 | ロマン派
月曜日お昼はセンメルトリオの練習でした。
ピアノの坂田恭子さんとヴィオラの金重美代さんとフルート久米で作ったグループですが、昨年は坂田さんが入院し、復帰2ヶ月。
喜んでコンサートの約束をして、集まろうというこの日の2日前。
金重さんが、ヴィオラを弾く指を骨折したと連絡が…。

かわいそうに写メ送ってくれましたが、親指が倍くらいに腫れ上がっています。

「どうしようか?」と迷っていたら坂田さんからLINEで「2人だけでも練習しておきましょう。」
ということで、金重さんがいつ帰ってきてもいいように練習することになりました。
曲はビゼーの「カルメン」組曲をフルート、ファゴット、ピアノに編曲したものです。

金重さんに譜面を見せてファゴットからヴィオラへの変更は可能と聴いていました。

お茶をしながら練習して、「他にも何かやる?」と坂田さん。

この前チェロの斉藤さんとやったヘンデルのフルートソナタCdur。
通奏低音はピアノ版もあります。

ピアノもちょっといい感じ。

それからフランクのソナタ。
これは原曲はヴァイオリンですが、フルート編曲版もあってフルートの一般的なレパートリーの1つになっています。
5楽章全部やってみたら、結構な時間になりました。

金重さん今日精密検査だそうです。
軽く済みますように祈っています。

セザール フランク(1822-1890年)ネーデルラント連合王国リエージュ生まれ、フランス共和国パリ没

ヴァイオリンソナタ イ長調(Sonata Pour Piano et Violon en La majeur)FWV 8は、ベルギー出身の作曲家・オルガニストであるセザール・フランクが、1886年に作曲したヴァイオリンとピアノのためのソナタです。

フランス系のヴァイオリンソナタの最高傑作といわれ、同郷の後輩であるヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイ
(1858-1931年)ベルギー リエージュ生まれ、ベルギー ブリュッセル没

の結婚祝いとして作曲され、彼に献呈されました。

初演は1886年12月16日にイザイによってブリュッセルで行われました。
このソナタはピアノとヴァイオリンの音楽的内容が対等であり、ピアノはヴァイオリンの伴奏ではなく、ヴァイオリンも単なる独奏楽器ではなく、ピアノとヴァイオリンの二重奏曲と呼ぶべき大曲です。

この作品の成功は轟きわたることになります。

イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏しました。

彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持ちました。  

20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記しています。

「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である。」