音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

リュートの大家

2025-01-22 22:58:00 | ルネッサンス
びっくり!再掲したら本文消えてしまいました。どこか変なところを触ったのか?
聴き合い会のレポートしたんだけど…。
タイトル写真は素晴らしかったマンドリンの宮澤拓之さん。

ノイジドラーのピアノとビウエラの聞き比べおもしろかったので音楽だけ復元。

ハンス ノイジドラー(ノイジトラーはプレスブルク(現在のスロバキア、ブラティスラヴァ)で生まれ、1530年にドイツのニュルンベルクに定住した際に初めて歴史の記録に登場します。
2月に市議会から居住許可証を発行され、9月にその地で結婚しました。

1531年4月に市民権を取得し、その後すぐにツォテンベルクに家を購入しました。1530年代にはそこでリュートを教え、1536年から1549年の間に8冊のリュート音楽の本を出版し、1550年までには弦楽器製作者としても事業を開始しました。

最初の妻との間に13人の子供をもうけましたが、その結果、莫大な経済的困難に陥り、最終的に借金を返済するために家を売却しました。

1556年1月に妻が亡くなり、5か月後に再婚しました。

2番目の妻は1562年8月に亡くなる前にさらに4人の子供を産みました。

ノイジトラーはニュルンベルクで亡くなりました。

ハンスの息子であるメルヒオール・ノイジトラー(1531年 - 1590年)とコンラート・ノイジトラー(1541年 - 1604年以降)もまた、著名なリュート奏者および作曲家でした。)



野菜の画家の時代

2025-01-11 21:01:00 | ルネッサンス
病院の朝食。

お昼ご飯

夕ご飯

お昼ご飯
白ご飯とパンは残しました。
うちの食事より野菜が少なくてびっくりしました。
高いものね。野菜。
近所の安さが売りの業務用スーパーでキャベツ700円…びっくり!

久御山イオンの道の駅でアスパラ菜、わさび菜、水菜が一束100円だったのでそういうのを買ってきて料理しています。
優等生だった小松菜だって198円だったから…。
アスパラ菜って初めてですが、なんとか料理しています。

しかし、年中キャベツがあるなんて元々不思議なことですね。
春までうちではキャベツはお休みです。
旬の白菜が高いのは悲しいけど。

みんな、身体に気をつけて、なんとか乗り切りましょう。

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526〜1593年)イタリア ミラノ生没

の描いた「庭師」1587-1590年には
お皿に盛られた大根や玉ねぎなどの野菜が描かれています。
静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られています。
この画面を、そのままひっくり返してみてください。

アルチンボルドは画家の息子として生まれました。

1549年よりステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残しました。

1556年、ジュゼッペ・メーダと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作します。1558年にはコモ大聖堂聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけました。

1562年、アルチンボルドはウィーンにてフェルディナント1世(1503-1564年)

の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世(1527-1576年)

や孫にあたるルドルフ2世(1552-1612年)

にも仕えました。

アルチンボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけました。

また、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮しました。
ハープシコードのような楽器も発明しましたた。

アルチンボルドが描いた伝統的な宗教画は現在では忘れ去られてしまっていますが、野菜や果物、木の根といったもので構成された独特の肖像画は、現在でも多くの人を魅了し続けています。

多くの学者たちは、アルチンボルドの作風は謎やパズル、風変わりなものに魅了されていたルネサンス期を反映していると言います。

1593年、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノで死去しました(死因は腎結石)。

死の少し前に『フローラ』、

『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』

といった傑作を完成させ、プラハに送っています。

ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、アルチンボルドに高い地位を与えました。

1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られました。

アルチンボルドの作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックのアンブラス城(ルドルフ2世のその他のコレクションも所蔵)、パリのルーヴル美術館、スウェーデンのいくつかの美術館に分かれて所蔵されています。

「ウェイター」1564年作は中之島美術館に所蔵されています。

この頃ウィーンで活躍した作曲家にルートヴィヒ ゼンフル(1486-1543年)スイス バーゼル生まれ、ミュンヘン没

皇帝マクシミリアン1世(1459-1519年)

のアウクスブルクの宮廷に加わり、1504年の一度きりの里帰りを除いて、バーゼルには二度と帰国しませんでした。

1497年にウィーンの帝室礼拝堂の聖歌隊員となりますが、やがて声変わりを迎えると、当時の聖歌隊を追われました。

当時の習慣に従って、おそらく1500年から1504年までの間に、3年にわたって聖職者を目指して学生生活を送っています。

この間にハインリヒ・イザークに師事し、その浄書係も務めた。イザークのライフワークにして最大の作品である《コラリス・コンスタンティヌス》を写譜したことや、この作品をイザークが完成させられずに世を去ると、ゼンフル青年が補筆して実用版をまとめ上げました。

1508年から1510年までしばらく研修旅行でイタリアを巡った後、ウィーンの帝室礼拝堂に復帰し、1517年に旧師イザークが没すると、その後任としてマクシミリアン1世より宮廷作曲家に任命されました。

翌1518年に狩猟の事故で片足を切断、1年のあいだ廃疾者として過ごします。
そのうえ1519年にマクシミリアン1世が崩御すると、新皇帝カール5世は宮廷楽団員をあらかた解雇し、ゼンフルも職を失いました。

しかもカール5世は、前皇帝がゼンフルに保証した廃疾給付の支払いを反古にしました。

それからゼンフルは2年間、主に職探しのため各地を遍歴しますが、積極的な作曲活動も行ないました。

1521年にはウォルムス帝国議会にも出席し、公式にプロテスタントに改宗したことはなかったものの、
マルティン・ルター(1483-1546年)

に好意的になり、後に宗教裁判所で訊問を受けて僧籍を諦めざるを得なくなります。

1530年よりルター派のプロイセン大公アルブレヒトや、ルター本人と旺盛な文通を行うに至りました。

最終的にゼンフルはミュンヘンの宮廷楽団員として雇われ、そのままこの地で一生を送ることとなりました。

当時のバイエルン大公が、比較的プロテスタントに寛容だったためもあります。アルブレヒト大公との往復書簡からすると、ゼンフルは1540年になるまでには病に倒れていたらしく、1543年の前半には故人となりました。

「あなた無しでは喜びはありません。」




居酒屋の裏話し

2025-01-05 21:00:00 | ルネッサンス
今日は、エスカルメンバーの竹内聡さんのお宅で新年会でした。

竹内さんの奥様はフルーティストの吉岡美恵子先生です。

竹内さん(前列)と今川さん(後列左)と吉岡先生(後列右]
今川さんと待合せて行くと、メンバーの田中さんご夫妻と駅で一緒になりました。

4人で着くと竹内さん、吉岡先生ご夫婦で宴会の食事の準備で大忙し。

グラスやお箸などを並べるとぞくぞくメンバーが集まってきて、榎田先生もいらっしゃいました。

すべてお二人の手作り。
オードブルに
数の子と野菜のゼリー寄せ、

お節のお煮しめ、

きのこのキッシュ

ペスカトーレ、
お肉

ラザニア
締めはエッグホールの乗ったシフォンケーキ。

お酒は持ち寄りでしたので、私はうちにあった白酒を持っていきました。

私は飲まないのでわからなかったのですが、「これはうまいいいお酒だよ!」と中国出張の長かった〇〇さんが言い出し、
みんな飲める人は呑みましたが、58度。
さすがにきつかったらしく田中さんは、寝てしまいました。

びっくりしたのはピアノのSさん。
ワイングラスにつぐと
クイッと呑んで涼しい顔で「おいしい。」ですって!

呑み話しばかりではなくて合奏もしたり、榎田先生の大フィル時代の話しを伺ったり楽しい話しもたくさんしたのですが…。まあ新年会はこんなものです。

昔々、1534年フランス パリで出版された混声合唱のための楽譜。
ピエール アタンナン発行「28の歌」
の中の一曲は「居酒屋の裏話し」
平和な酒宴は500年前から同じようです。

「居酒屋の裏話し」省訳
さあ、居酒屋に行きなさい!
仲間たちを呼んでおいしいワインを呑みなさい。
できるだけ大量に呑みたいです。
手をきれいに洗って、歯を洗って、白ワインで歯を乾かそう!
美しい美女を誘って
それからえんどう豆、良いハム、ホットソースのパスタ
食欲を満たせ!





ドイツ音楽の父のクリスマスの歴史

2024-12-10 20:57:00 | ルネッサンス
月曜日は午後から火曜日の子育てサロンでのクリスマスコンサートの合わせ練習です。
絵帆を読んでくれるOさんはスタッフの1人なのですが、なかなか絵本を読むのが上手いです。
音楽に合わせて読むのは難しいと思うのですが、昔、合唱をされていたとかで、楽譜を読みながら上手く合わせてくれます。

ピアノのTさんも絶賛。

明日はなんとかうまく行きそうです。

ドレスや楽器、鈴やタンバリン、会館はピアノが無いので電子ピアノ。
これを持っていくと車の荷台は一杯になりました。

これとOさんが作ってくれたフェルトのベル。Yさんのプログラム、会館にあるクリスマス飾り、ボードに貼る歌詞カード、ハンドベル、パラバルーン、クリスマスプ…おっと!これは秘密。

バスフルート
子どもたち、たくさん来てくれると良いなぁ〜!

ハインリッヒ シュッツ
Heinrich Schütz (1585 - 1672):
神聖ローマ帝国ケレストリッチ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ドレスデン没
 
クリストフ・スペトナー画。1650–60年頃、ライプツィヒ
ハインリヒ・シュッツはドイツの初期バロック音楽を代表し、ヨハン・ヘルマン・シャインやザムエル・シャイトとともに「3S」と呼ばれています。

大バッハ生誕のちょうど100年前に生まれ、ドイツ音楽に息吹を与えた「ドイツ音楽の父」と形容されています。

1585年にドイツ中部テューリンゲン州ケストリッツで、宿屋を経営するクリストフ・シュッツとユーフロジーネ・ビーガーの長男(8人兄弟の2番目)として生まれ、翌日、同地の聖レオンハルト教会で洗礼を受けました。

1590年に家族はワイセンフェルスに移って新しい宿屋の経営を始め、ここで少年時代を過ごしています。

1599年、14歳のシュッツはヘッセン=カッセル方伯モーリッツ

に音楽の才能を見出されてカッセルの教会学校の歌手となり、ギムナジウムに入りました。

1607年からはマールブルクで法律を学ぶことができるようになり、同時にオルガン演奏と作曲の勉強も始めました。

卒業後、方伯の奨学金を得て、1609年にイタリアに赴き、ヴェネツィア サン・マルコ寺院


のオルガニストであるジョヴァンニ・ガブリエリの弟子となりました。

この間、1611年に最初の公式曲集「イル・プリモ・リブロ・ディ・マドリガリ」(マドリガル集第1集、SWV 1-19)を完成しました。

死の床にあったガブリエリから、シュッツは指輪の遺贈を受けています。

シュッツが「師匠」と呼んだのは生涯でガブリエリただ一人でした。その師匠ガブリエリは1612年に亡くなりました。

翌1613年、ドイツに帰り、方伯モーリッツのはからいでカッセルの第2オルガニストに就任。

1615年、ザクセン選帝侯
ヨハン・ゲオルク1世(1585- 1656年)ザクセン選帝侯(在位:1611 - 1656年)
の宮廷に移って、ドレスデン宮廷楽団(現在のシュターツカペレ・ドレスデン)

の指揮を委ねられました。

当時の楽長ロギエール・ミヒャエルは病気療養中で、ミヒャエル・プレトリウスが代行していたため、初めはプレトリウスと並んで指揮を執っていました。

1617年に正式に宮廷礼拝堂つきの作曲家となり、1621年にプレトリウスが死んで後は、1672年に亡くなるまでシュッツが楽長の地位につきました。

1627年
この間、1619年に「ダビデ詩篇歌集」を刊行して方伯に献呈しました。

ダビデ詩篇歌集 初版の表紙

同年にマグダレーナ・ウィルデックと結婚し、その後、二人の娘を得ましたが、アンナ・ユスティーナは17歳で亡くなりました。

一方ユーフロジーネは、ライプツィヒ市長を務めたクリストフ・ピンカーと結婚したものの、彼らの娘ゲルトラウト・ユーフロジーネには子どもがなかったため、シュッツの血統は絶えています。

クリスマスの歴史
オラトリオ 喜ばしきイエス・キリスト生誕の物語 
Weihnachtshistorie SWV 435 (1664)
福音書、ルカとマタイによるクリスマスの物語を、教会の礼拝で使用する音楽として作曲されました。

この作品はおそらく 1660 年にドレスデンで初演され、1664 年に部分的に出版されました。
東方の3博士がイエス・キリストがお生まれになったと聞き、探しにやってきました。

ヘロデ王はこれを聞いて恐れ、エルサレム全土も同行し、民の中から祭司長と律法学者をすべて集め、キリストがどこで生まれるのか尋ねたところ、彼らはヘロデに言った、

大祭司と律法学者
ユダの地のベツレヘムで、預言者は次のように書いているからです:そして、ユダの地のベツレヘムよ、あなたはユダの君主の中で決して最も小さい者ではありません。なぜなら、あなたから私のところに公爵が来るからです。わが民イスラエルの主となってください。





ハートの楽譜

2024-11-27 21:00:00 | ルネッサンス
5歳児さんは今月6歳になりました。

段ボールに穴を開けて

滑り台を作ってガチャポンのボールを転がしてどの穴に落ちるか?と遊びます。

外には「ハートマーク描いて。」と言われたのでいっぱい描きました。
自分で紙飛行機とディスプレイしました。

子どもが成長するのは早いです。

ボード・コルディエ (Baude Cordier)(1380-1440年)は、フランスのランス生まれ、ディション没。

アルス・スブティリオル
(14世紀フランスのポリフォニー音楽様式は、フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)の音楽理論書に因んで、アルス・ノヴァ Ars Nova と呼ばれていますが、その後期の極まったものを特に、アルス・スブティリオル Ars Subtilior といいます。「精妙な技法」という意味)

の代表的人物に数えられています。
世俗曲の作曲家で、そのほとんどがロンドーです。

当時のフランス音楽に典型的な、複雑なリズムを駆使した楽曲がいくつか見られるものの、その他はより単純で、叙情的な旋律に重きが置かれています。

シャンティー写本』
Codex Chantilly (Musée Condé, MS 564)

には、着色されたハート型の楽譜に記譜されたロンドー《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》


と、円形の楽譜に記譜されたカノン形式によるロンドー《コンパスを使って完全に描かれた Tout par compas》
の2曲が収められいて有名です。

《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》
美しく、善く、賢く、優しく、高貴なる方へ
年の改まるこの日に
新しき歌を奉る
貴方に捧げし、我が♡の中で

この貢物を受けること躊躇うなかれ
伏して希う、我が愛しの人よ

我は汝を愛すること深き故に、
二心なし我は知る、
ただ貴方のみ
その令名を皆称えて曰く
至高の美の華




骨の悩みが解決しました。

2024-11-06 21:01:00 | ルネッサンス
次男骨折の最終診断。
レントゲンを撮って、術後最終検診。
ようやく病院を卒業できます。

写真は「照射中」だけが昭和なレントゲン室。

次男、今年2月に職場で転倒し左膝蓋骨を骨折。チタンの杭で骨をくっつける手術をしたら手術失敗して杭がゆるゆる。
骨が早くくっつく超音波機器をかしだされ1ヶ月毎日20分、それを当て、半年後の先月に杭を抜きました。

左膝に15センチほどの縫い合わせた傷がありますが、ほぼ痛みはないそうで卒業になりました。

労災なので料金は掛かりませんでしたが、2ヶ月は休職。車で通勤。
家族もいろいろ影響がありました。
怪我はしないのが1番です。 
私もほっとしました。

聖母マリアのカンティガ
聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)は、中世ガリシア・ポルトガル語(イベリア半島北西部で使われていた言語)で書かれました。
420曲からなる頌歌(カンティガ)集です。

カスティーリャ王アルフォンソ10世(アルフォンソ賢王、1221年~1284年)
アルフォンソ1世カンティガ集の一部の作者とも言われています。
の治世に成立しました。

中世の単旋律曲集としては最大のもののひとつで、すべての曲が聖母マリアに言及しているのが特徴です。
エル・エスコリアル修道院のE写本は、様々な楽器を奏でる2人組の音楽家たちを描いたカラーのミニアチュールで彩られています。

また、物語の挿絵になっているのもあります。

カンティガの322番目の曲は
貪欲に食べた男が喉にウサギの骨を詰まらせてしまい、マリアの奇跡で骨が取れて助かったと言う内容になっています。


北ヨーロッパからフランドル楽派

2024-10-17 21:07:00 | ルネッサンス
妹が北海道出張して帰ってきました。
いろいろと仕事のことで勉強した他に、北海道旅行も満喫したみたい。
姪たちは今年家を出てしまったので、母と私たちにお土産を買ってきてくれました。

いくらと、北海道と言えば

毛蟹。
手慣れた次男がバキバキッっと甲羅を開けて身をほぐしてくれました。



家で採れたすだちで食べたら爽やかな酸味と蟹身の甘みが混じって最高!

おしゃべりな母もしばし無言、もちろん私も無言になりました。 
美味しかった〜。
贅沢〜!
妹に感謝❣️

ローマ中心の繁栄がありましたが、経済の衰退、ペストの流行により、北回りの航路が取られるようになりました。
それはベルギーの港での交易をもたらし、そこを中心としたフランドル地方の繁栄を導きました。

フランドル地方は正確にはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域を総称して呼びます。

毛織物業が盛んで、ヨーロッパの先進的地域として発展しました。

1338年~1453年の百年戦争は、この地方の争奪をめぐって勃発しました。
音楽もフランドル楽派という人たちがヨーロッパ各地に出かけ先進的な働きをしました。

ヨハネス・オケゲム(1410年頃 - 1497年)エノー伯爵領サン=ギラン生まれ、フランス トゥール?没

ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名でした。

比例カノン()を用いた《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができます。


オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は込み入っています。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画す点です。


オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされました。

幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきました。

当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っています。
オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されています(1443年~1444年採用)。

1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世


にムーランで仕えました。
1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任しました。

フランス宮廷での――シャルル7世


とルイ11世


への――仕官に加えて、ノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも職務を得ました。

1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になります。

その後ブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残しています。
おそらくその地で没したのだろうと言われています。

生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげています。

アントワーヌ・ビュノワ


が1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれません。
オケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なされています。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。

オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されています。

《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムです。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっています。また作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲あります。

「Mort tu as navre de ton dart」
死んだあなたは自分の芸術を残念に思います
喜びの父
標準を導入することで
バンバンワの優しさの守護者について
彼の体は不平を言い、嘆いている
刃の下に誰がいるのか
ああ、憐れんでください
魂のために祈ってください。
(後略)










復興

2024-10-11 21:02:00 | ルネッサンス
裏庭のマンデビラ・スプレンデンス/ディプラデニア・スプレンデンス
長っ!
和名はあまり使われないそうです。

メキシコ〜アルゼンチン原産
夾竹桃も仲間にいます。
昨年植えた時に少し咲いただけで枯れて枝?蔓?だけになってしまったので死んでしまったかと思いました。
夏の間もほぼ葉もなく、、いよいよだめかと思いました。
しかし、秋雨が降り出すと復活!
きれいです。

ルネサンス(仏: Renaissance)は、Re再び + naissance 誕生。
「再生」「復活」などを意味するフランス語です。

古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。
14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まりました。

19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用しました。

その後、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになります。

また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかになりました。

14世紀から15世紀のイタリア半島でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいないことから、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えられます。

イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定されています。

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期です。

16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがされました。

主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ(1545年/1551年頃 - 1618年)は、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年)、ピエトロ・ストロッツィです。

彼らは従来のポリフォニー音楽(複数の独立した声部からなる多声音楽)では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がりました。

また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッッペーアの戴冠』といった傑作が生まれました。

ヴィンチェンツォ ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年) フィレンツェ生没


は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイの父で、リュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父。

後期ルネサンス音楽の重要人物であり、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。

振動弦と気柱における振動の物理の数的研究。

モノディ(レチタティーヴォにきわめて近い音楽的形式)の創始者の一人であり、オペラにおいてレチタティーヴォが使われることになったのは一般にヴィンチェンツォの功績だと評価されています。

ヴィンチェンツォはマドリガーレ2巻やリュートのための楽曲、そして相当数の声楽とリュートのための楽曲を作曲しました。
後者は多くの点でバロック初期の様式を先取りしたもので、ヴィンチェンツォの最も重要な作品であると考えられています。

なお、オットリーノ・レスピーギ『リュートのための古風な舞曲とアリア』第1組曲の第2曲「ガリアルダ」は、ヴィンチェンツォの作品を元にしています。






地球儀と描かれた歌集

2024-10-03 21:04:00 | ルネッサンス
夕方5歳児をお預かりしました。
子育てサポーター、本当は火曜日と水曜日預かる予定でしたが、火曜日は子どもが体調不良になり、水曜日と木曜日。

「前何をしてたっけ?」
「電車描いてたんと違う?」と私。
「違うよ。それは終わってその後。」
「なんだったけ?」
幼稚園の帰りの車の中で思い出しました。
「日本地図!」
「そう!」
前週日本地図の歌を歌いながら、地図を描いてくれました。
これがよくできた歌で歌うと47都道府県の名産と名前を覚えられます。
次はなんの特徴だろう?と大人でもつい興味を持ってしまいます。
調べたら山口あいさんの作詞作曲でYouTube動画あがっていました



1533年、ハンス ホルバイン(1497-1543年神聖ローマ帝国アウグスト生まれ、イングランド王国ロンドン)

の描いた「大使たち」には、

イングランド王ヘンリー8世のローマ・カトリックからの離脱を思いとどまらせようと、フランスからロンドンへ送られた外交官ダントヴィルとその友人の司教セルヴ(右)が描かれています。
ヘンリー8世

自身の命令で描かれました。

2人の当時の年齢は、ダントヴィルについては、彼が手にしている短剣の柄に


ド・セルヴについては、彼が右ひじを置いている書物の側面に入れられた書き込みから、


それぞれ29歳と25歳と推定されています。

2人の間にある棚には、様々な道具類が並べられています。

上段の左端には、天文学あるいは占星学のための天球儀が置かれており、これには、動物の図柄とともに、いくつかの星座の名称がラテン語で記されています。

その右隣には、円筒状の日時計が立てられており、この状態では、4月11日もしくは8月15日を示しています。

下段の左端には、地球儀が置かれており、これは、ニュルンベルクで1523年に発表されたヨハネス・シェーナー制作のものを写したものだそうです。

その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung”(数学書) (1527年)です。

その右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)です。

讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒のパラフレーズが写されています。
その近くに、11本の弦のうち1本がなぜか切れてしまっているリュートの他に、フルートを何本も入れたケースが描かれています。

これらの道具類は、数学、音楽、地理学、天文学を象徴していて、これらの4つの学科は、クワドリウィウム (quadrivium) を構成するものであり、2人の人物の高度な教養もしくは知性を表現しています。

画面左上には、キリストの磔刑像が、カーテンの後ろに半ば隠れるようにして見えています。

2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされている。

その床面の上には、長細い形状をした物体が描かれていますが、これは、アナモルフォーシス(ゆがんだ画像を円筒などに投影したり角度を変えてみたりすることで正常な形が見えるようになるデザイン技法)という画法が用いられており、画面の右方もしくは左方から鋭角的に見ると、頭蓋骨です。

頭蓋骨は、死の象徴。若くて可能性に満ちあふれていたとしても、死はいつ訪れるかわからない、というテーマが隠されています。

「Geystlich Gesangk Buchleyn」
「霊的歌集」
合唱用にハーモニーをつけた最初のドイツの賛美歌集1524年にヨハン・ワルターと、マルティン・ルターと共同でルターの24曲を含む32曲の宗教歌が収められています。

「トーデス・バンデンのキリストの遅れ」テノールパート

ワルターは3~5パートに編曲し、メロディーはテノールで演奏。
ルターはパート集に序文を書きました。このコレクションは、すべてのプロテスタント歌曲のルーツと呼ばれています。 




アルス・ノヴァ(新技法)

2024-09-16 20:59:00 | ルネッサンス
9月15日は知恩寺手作り市
ご近所のママ友Mさん、Gさんと朝8:52発の電車で行きました。

真っ先にいつもの袋物屋さん。
楽譜入れ、ペン入れ、消しゴム入れ、楽器スタンド入れ、楽器メンテグッズ入れ。
こっちは撮影OKの食品サンプル屋さん、

キーホルダーなど小さなものが人気。

やっぱり暑かった〜!

その場でセットしてくれるミニチュア店舗
疲れたのでお昼は近くのサイゼリア。

食後のコーヒーゼリーとアイスのセット。
Gさんが買った帆布のバッグ。

安くて丈夫です。
今日の収穫。

お土産の招き猫

知恩寺は1212年法然が亡くなった時にその恩に報うために建立されました。
1331年地震が起き、その後流行り病が起き、七日七夜百万遍の念仏を称えながら大念珠繰りをしたところ疫病が治まったことから「百萬遍」の号が下賜されたそうです。(知恩寺ホームページより)

1322年頃にフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361年)によって書かれた、新しいリズムの分割法と記譜法を論じた音楽理論書『Ars nova (新技法)』

F-Pnm Français 146の Vitry のAman novi/Heu Fortuna/Heu me, tristis est anima mea の原稿、 Roman de Fauvelのバージョン

この本の名前に因んだ音楽様式「アルス・ノヴァ」がヨーロッパに広まります。

フランスの写本『ロマン・ド・フォーヴェル』のページ、パリ、BN Fr. 146(1318年頃)、「アルス・ノヴァ音楽の最初の実用的な情報源」

代表的な作曲家
ギヨーム ド マショー(1300年頃〜1377年)フランス王国ランス近郊生没



シャンパーニュ地方ランス近郊のマショーの貴族出身で聖職者になるための教育を受けます。

ボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハン
14 世紀のボヘミアの聖ヨハネの胸像、ボヘミアとルクセンブルクの紋章が描かれたプラハの聖ヴィート大聖堂
の秘書となり、ヨハンの兵と共にイタリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニアなどヨーロッパ各地に赴きました。

この間、ヨハンよりヴェルダン、アラス、サン・カンタン、さらに1334年もしくは1337年にランスのノートルダム大聖堂(司教座聖参事会員等の名誉職を得ました。

ノートルダム大聖堂

1346年、百年戦争初期のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、後のフランス国王ジャン2世(1350年 - 1364年)の妃であるヨハンの娘ボンヌ
ボンヌとジャン2世
に仕えます。
居をランスに構えます。

その後、1364年からフランス国王になったノルマンディー公シャルル(フランス王シャルル5世)、

同じくジャン2世の末子でブルゴーニュ公になったフィリップ(豪胆公)、

ナバラ王カルロス2世、

サヴォイア伯アメデーオ6世、

華麗な時祷書で知られるベリー公ジャン

など多くのパトロンに仕えました。

Dame, de qui toute ma joie (B42 または RF5)、1342 年以前、Le Remède de Fortuneより 

1349年のペスト(黒死病)大流行の後、自作品を集大成し、これらは数冊の『マショー写本』として残されています。

1359年 - 1360年には、ペスト禍が納まって再び始まった百年戦争のランス包囲戦を経験しています。

1377年4月、ランスにて死去。ノートルダム大聖堂に葬られました。

わが終わりはわが始まり
私の終わりは私の始まり 
わが終わりはわが始める
そして私の始まりと終わり
わが始めはわが終わり