音楽の喜び フルートとともに

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ここに春が来た!

2025-03-09 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の午後、近所の山田池公園に行ってきました。
ここは1500年前に作られた山田池を中心に1979年に整備された300本の梅林があります。
「そろそろ、見頃じゃない?」
小雨混じりですが…。

咲いてる!!

かわいい! 
梅一輪 一輪ほどのあたたかさ
        服部嵐雪

いろいろな種類の梅が。

咲いてて

素敵でした。

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini)1322-1397年イタリア フィレンツェ生没

ミニチュアのオルガンを演奏する
フランチェスコ・ランディーニ
(15世紀のスクアルチャルーピ写本より)

ランディーニの生涯の詳しいことは判明していません

父親はジョット派の著名な画家ヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-1358年)


でした。

子どもの頃、天然痘にかかって失明したことで、ランディーニは早くから音楽に打ち込むようになり、リュートなど多数の楽器演奏、歌、詩作、作曲を習得しました。

ランディーニがリュートとプサルタリーPsaltery


を結合させた「syrena syrenarum」という楽器(バンドゥーラ (Bandura)


の先駆と考えられている)などを発明したという記述が残っています。

1360年代の数年間ヴェネツィアに滞在していたキプロス王から月桂冠を授けられたという記述があります。

ランディーニは1370年以前に何度か北イタリアで過ごしていたとされています。

音楽のいくつかがその証拠で、たとえば、モテットは1368年から1382年までヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤めたアンドレア・コンタリーニ(1300-1382年)


に献呈されています。

さらに、ランディーニの作品のことが北イタリアの文献によく出てきます。

1361年、ランディーニはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストに雇われました。

1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)で働きました。

ランディーニは当時の政治的・宗教的論争に深く関わりましたが、フィレンツェ当局の恩恵は受け続けていたようです。

ランディーニはトレチェント音楽(1300年代のイタリア音楽)の作曲家の多くと面識があり、その中でもロレンツォ・ダ・フィレンツェ(?-一1373年)はサンタ・トリニタ修道院で一緒でした。

また、アンドレア・ダ・フィレンツェ(Andrea da Firenze)とは1370年代に知り合いました。

1375年頃かあるいはそのすぐ後、アンドレアはフィレンツェの僕会(下僕会。Servite Order)のオルガン製作の相談役にランディーニを雇いました。

楽器を調律する3日間に二人が飲んだワインの領収書が残っています。

ランディーニは1379年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂(Santissima Annunziata, Florence)


で新しいオルガン製作を助け、1387年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

のオルガン建造計画に励みました。


当時の作家たちの多くが、作曲家のみならず歌手、詩人、オルガニスト、さらに情熱的に献身的なフィレンツェ市民としてのランディーニの名声を証言しています。

音楽で聴衆を感動させるというランディーニの評判はかなり高く、作家たちは「その旋律の甘美さはまるで胸から心臓を飛び出させるほど」と記しています。

ランディーニは死後、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。
そこにはポルタティフ・オルガン(en:Portative organ)
セシリアがポルタティーヴォを演奏している様子を描いたもの(アルテ・ピナコテークのバルトロメウ祭壇の詳細)。パイプの右側にふいごが見えます。
らしきものを持ったランディーニの姿が描かれています。

ランディーニ作曲
Ecco la primavera
ここに春が来ました。

それは心を喜ばせます。

恋に落ちる時が来た

みんな幸せそうに見えます。

私たちは空気と時間を大切にしています 。

それは変わらない喜びを呼びます。

この曖昧な時の中で

すべてにはかなさがあります。

鮮度抜群のハーブたち

そして花が草原を覆う

そして飾られた木々

私も同じです。















寛容な時代

2025-02-11 21:00:00 | ルネッサンス
1ヶ月ぶりに京都今出川大宮の冨久田治彦先生のレッスンでした。
1ヶ月練習していたライヒャのスケールエテュードの3番、1ヶ月開くからと毎日4番も練習していたのに、楽譜…忘れました!
こんなこと初めて。

バ〜ンと2回分やってドヤ顔するはずだったのに〜。
残念。来月3回分…はさすがに時間がなくて上がらないでしょう。

しかし、ギターの渡邉信行さんとするレニャーニのグランドデュオは見てもらいました。
今朝、なんと渡邉さんが、imslpの楽譜から印刷譜を起こして送ってくれました。
1800年代のスコアの無い楽譜、つまり手書きパート譜だけだったのを楽譜ソフトで結合譜を作り、パート譜を…。
すごい!
見やすい!
ただし今日は前の楽譜が慣れているので手書き譜で見ていただきました。

2カ月ぶりですが「今日は。音がいいね!」と褒めてもらってうれしかった。

高音を吹くときに口を緩め、低音を吹くときに逆に口を固めに絞る。
フォルテで緩め、ピアノで固める。

これを徹底するように言われました。
なるほど納得です。

冨久田先生のレッスンは具体的でわかりやすいです。

今日はこの前の雪が、嘘のように暖かかったです。

帰りに市バスに乗ったら、前から足の悪い人がやってきました。
市バスは後ろから入って前からでる方式です。ゆっくり回ろうとしていると、
運転手さん、前のドアを開けて、「前から入ってください。」
ルールはいろいろあるのだろうけど、こういうの好きです。


宗教寛容令(しゅうきょうかんようれい、 英:Edict of toleration)とは、特定の宗教の信者が迫害されないこと、すなわち特定の宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証したものです。
古来何度か出されています。

古代
紀元前539年 – キュロス・シリンダー:アケメネス朝のキュロス2世

が、バビロンのマルドゥク信仰など様々な信仰(ユダヤ教も含むとされる)の復興を認めたものです。

311年 – ガレリウスの宗教寛容令:ローマ帝国の皇帝ガレリウス、コンスタンティヌス1世
ふさはリキニウスが発した勅令。ディオクレティアヌス時代からのキリスト教迫害を公式に終わらせました。

中世
1264年9月8日 - カリシュの法令:ヴィエルコポルスカ公ボレスワフ・ポボジュヌィ

が発した、ユダヤ人の高い法的地位を認めた法令。

1436年 – バーゼルの誓約:バーゼル公会議において、神聖ローマ皇帝ジギスムント

らがボヘミア王国のウトラキスト(フス派穏健派)の信仰を一部許容しました。

近世
1562年1月 – サン=ジェルマン勅令:一月勅令とも。フランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシス 

が、ユグノーの信仰を条件付きで認めた勅令。2カ月で破棄

1568年1月28日 – トルダの勅令:「宗教寛容と良心の自由の法令」とも。東ハンガリー王国のヤーノシュ2世 

が発した勅令。国内で従来認められていたカトリック、ルター派、カルヴァン派に加えてユニテリアンの信仰も保証しました。その他の信仰も、公式な保護は与えないながらも認めました。

1573年1月28日 – ワルシャワ連盟協約
ワルシャワ連盟協約の原本
ポーランド・リトアニア共和国の貴族が締結しました、あらゆる信教の自由を認めた法令。後にヘンリク条項に加えられ、以降のポーランド王は即位する際に必ず宣誓することを義務付けられました。

1579年1月23日 – ユトレヒト同盟:八十年戦争において、プロテスタントの多いネーデルラント北部の独立派7州が結成した対スペイン同盟。個人の信教の自由を認めるとともに、今後カトリック州が信仰を捨てずに同盟に加わることを認めました。

1598年4月13日 – ナントの勅令

:フランスのアンリ4世が、ユグノーに限定的な信教の自由を認めた勅令。公の場での信仰、集会の許可、公職や大学への就職、要塞都市の維持を認めました。1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を破棄。

1609年 – ルドルフ2世の勅書:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世

が、ボヘミア王としてボヘミア・シロンスクの非貴族階級を含めた全住民に信教の自由を認めました。

1649年4月21日 – メリーランド寛容法:アメリカ東海岸のメリーランド植民地で、キリスト教内での信教の自由を認めた法律。イギリスのアメリカ植民地において宗教的寛容を唱えた2番目の法令で、ヘイトスピーチを制限したものとしては世界初。  法令は1649年に破棄され、また復活し、アメリカ合衆国憲法修正第1条(1791年制定)制定に大きな影響を与えました。

1664年9月16日 – ブランデンブルク寛容令:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム

が発布した宗教寛容令。
プロテスタント各派間の寛容を定めるとともに、カトリックやプロテスタントが他宗派の信条を批判することを禁じました。

1689年5月24日 – 寛容法:
イングランド議会で可決され、ピューリタンなどの非国教徒プロテスタントに対する差別を撤廃した法律。ただしカトリックやユニテリアンなど急進派プロテスタントは意図的に除外されました。

1692年3月22日 – 天主教公認の上諭:清の康熙帝

が、イエズス会によるカトリック布教を公認し、宣教師や教会への攻撃を禁じました。
1724年にキリスト教を再び全面禁止。

1712年3月29日 – ビューティンゲン寛容法:イーゼンブルク=ビューディンゲン伯エルンスト・カジミール1世が、完全な思想・良心の自由を認めた法令。

1773年6月17日 – エカチェリーナ2世

の寛容勅令:ロシアのエカチェリーナ2世が、国内のタタール人などのムスリムの抗争への対応として発した勅令。ロシア領内に存在するあらゆる信仰に対する寛容を約束しました。

1781年10月13日/1782年1月2日 – ヨーゼフ2世の寛容令・寛容勅令:神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 

がハプスブルク帝国内の非カトリック教徒(ルター派、カルヴァン派、セルビア正教)に信教の自由を与えた法令(ヨーゼフ主義)。1782年の勅令ではユダヤ人も適用範囲に含めました。ヨーゼフ2世は1790年の死で撤回。

1784年 – トリーア寛容勅令:トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェル・フォン・ザクセンが、トリーア領内のプロテスタントへの寛容を述べた勅令。

1787年11月29日 – ヴェルサイユ勅令:フランスのルイ16世

が、ユグノーやユダヤ人など非カトリック教徒に公民としての権利を認めた勅令。

近代
1839年7月17日 – ハワイ寛容勅令:ハワイ王国のカメハメハ3世が、従来優勢だったプロテスタントに加えてカトリックの宣教も認めた勅令。

1844年3月21日 – 1844年の寛容勅令:オスマン帝国において、イスラーム圏での「背教の罪」が必ずしも死刑とはならないとする解釈が出され、パレスチナへのユダヤ人植民が容認されました。

1847年3月30日 – フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

の寛容勅令:プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、棄教の自由を認めました。

20世紀
1905年4月30日/1906年10月30日 – ニコライ2世の寛容勅令:ロシアのニコライ2世

が、ロシア正教会以外の宗教に法的地位を与えた勅令。1906年の勅令では、ロシア正教会から分離したセクトにも法的地位を認めました。

1598年ナントの勅令を出したアンリ4王妃マリー・ド・メデシスとアンリ4世の結婚。

新作オペラ「エウリディーチェ」(史上第2番目のオペラとなる!)は、ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年8月20日 - 1633年8月12日) 

はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物。

16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。

想像で捉えるほかありませんが、ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなセリフを用いる劇が考えられました。 

この運動の中で、1597年ごろにペーリがギリシャ神話を題材にした『ダフネ』(Dafne)を作曲しました。 

これが今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品です(台本はすべて現存していますが音楽は断片のみが伝わっています)。
後のペーリの作品である『エウリディーチェ』
フィレンツェで16世紀末から活動していた芸術家集団「カメラータ」による、古代ギリシア悲劇を再興させようとする試みの中で生み出された作品です。

ペーリは、この作品でモノディ様式を駆使し、また、『エウリディーチェ』の序文で、語りの部分における音高の変化と、歌の音程のある動きとが古代ギリシア演劇の理論において区別されていたことに触れ、語りと歌の中間をいく、古代ギリシアの人々が英雄詩の吟唱に用いていたと考えられるものを見いだそうとしたと述べています。

通奏低音が据え置かれる中、歌唱声部は協和音と不協和音の間を行き来し、特に強調すべき音節(単語)に達した際には、協和音となるように留意しました。

なお、ペーリは、オッターヴィオ・リヌッチーニと組む形で1598年に音楽劇《ダフネ》を制作・発表していたが、この作品の音楽は失われている

台本は、ギリシア神話に基づき、リヌッチーニによって書かれました。

1600年10月、フランス王アンリ4世とマリーア・デ・メディチ

の婚礼の催し物として、フィレンツェのピッティ宮殿において初演されました。

エウリディーチェ
プロローグ
「悲劇」と名付けられた登場人物により、有節歌曲の形式で、王室の婚礼に対する祝福の言葉が歌われます。

トラーキアの野
オルフェオとエウリディーチェの婚礼の場面から始まります。
エウリディーチェが自らの幸福な気持ちを歌い、仲間のニンフたちともに去る。オルフェオが友人たちと現れ、「過去の苦しみも今は幸せに変わった」と歌い、ティルシが婚礼の神を称えて「こよなく美しい星が清らかに燃える中で」と歌う。しかし、ダフネーが現れて、エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだ、と告げます。

オルフェオはエウリディーチェを取り戻しに行く決意を固め、「私は泣かない、嘆かない」と歌います。 

地獄
オルフェオは、女神ヴェーネレの導きで地獄の入口にたどり着きます。

ヴェーネレは、「あとは自分の音楽の力で進むように」と告げて立ち去ります。
オルヴェオが「私の涙に泣け、地獄の霊たちよ」と歌うと、地獄の王プルトーネは憤りますが、オルフェオの歌声に感動したプロセルピナやカロンテに促され、地獄の掟を破り、オルフェオにエウリディーチェを返す決断をします。

トラキアの野
友人たちがオルフェオの安否を気遣っていると、エウリディーチェを連れてオルフェオが現れます。

オルフェオは「私の歌に喜べ、緑の森よ」と歌い、エウリディーチェが続いて「この喜ばしい大気の中で」を歌います。一同がオルフェオの音楽の素晴らしさを讃えて幕となります。

「エウリディーチェ」プロローグ トラキアの野 「森の中なら」



リュートの大家

2025-01-22 22:58:00 | ルネッサンス
びっくり!再掲したら本文消えてしまいました。どこか変なところを触ったのか?
聴き合い会のレポートしたんだけど…。
タイトル写真は素晴らしかったマンドリンの宮澤拓之さん。

ノイジドラーのピアノとビウエラの聞き比べおもしろかったので音楽だけ復元。

ハンス ノイジドラー(ノイジトラーはプレスブルク(現在のスロバキア、ブラティスラヴァ)で生まれ、1530年にドイツのニュルンベルクに定住した際に初めて歴史の記録に登場します。
2月に市議会から居住許可証を発行され、9月にその地で結婚しました。

1531年4月に市民権を取得し、その後すぐにツォテンベルクに家を購入しました。1530年代にはそこでリュートを教え、1536年から1549年の間に8冊のリュート音楽の本を出版し、1550年までには弦楽器製作者としても事業を開始しました。

最初の妻との間に13人の子供をもうけましたが、その結果、莫大な経済的困難に陥り、最終的に借金を返済するために家を売却しました。

1556年1月に妻が亡くなり、5か月後に再婚しました。

2番目の妻は1562年8月に亡くなる前にさらに4人の子供を産みました。

ノイジトラーはニュルンベルクで亡くなりました。

ハンスの息子であるメルヒオール・ノイジトラー(1531年 - 1590年)とコンラート・ノイジトラー(1541年 - 1604年以降)もまた、著名なリュート奏者および作曲家でした。)



野菜の画家の時代

2025-01-11 21:01:00 | ルネッサンス
病院の朝食。

お昼ご飯

夕ご飯

お昼ご飯
白ご飯とパンは残しました。
うちの食事より野菜が少なくてびっくりしました。
高いものね。野菜。
近所の安さが売りの業務用スーパーでキャベツ700円…びっくり!

久御山イオンの道の駅でアスパラ菜、わさび菜、水菜が一束100円だったのでそういうのを買ってきて料理しています。
優等生だった小松菜だって198円だったから…。
アスパラ菜って初めてですが、なんとか料理しています。

しかし、年中キャベツがあるなんて元々不思議なことですね。
春までうちではキャベツはお休みです。
旬の白菜が高いのは悲しいけど。

みんな、身体に気をつけて、なんとか乗り切りましょう。

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526〜1593年)イタリア ミラノ生没

の描いた「庭師」1587-1590年には
お皿に盛られた大根や玉ねぎなどの野菜が描かれています。
静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られています。
この画面を、そのままひっくり返してみてください。

アルチンボルドは画家の息子として生まれました。

1549年よりステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残しました。

1556年、ジュゼッペ・メーダと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作します。1558年にはコモ大聖堂聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけました。

1562年、アルチンボルドはウィーンにてフェルディナント1世(1503-1564年)

の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世(1527-1576年)

や孫にあたるルドルフ2世(1552-1612年)

にも仕えました。

アルチンボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけました。

また、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮しました。
ハープシコードのような楽器も発明しましたた。

アルチンボルドが描いた伝統的な宗教画は現在では忘れ去られてしまっていますが、野菜や果物、木の根といったもので構成された独特の肖像画は、現在でも多くの人を魅了し続けています。

多くの学者たちは、アルチンボルドの作風は謎やパズル、風変わりなものに魅了されていたルネサンス期を反映していると言います。

1593年、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノで死去しました(死因は腎結石)。

死の少し前に『フローラ』、

『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』

といった傑作を完成させ、プラハに送っています。

ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、アルチンボルドに高い地位を与えました。

1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られました。

アルチンボルドの作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックのアンブラス城(ルドルフ2世のその他のコレクションも所蔵)、パリのルーヴル美術館、スウェーデンのいくつかの美術館に分かれて所蔵されています。

「ウェイター」1564年作は中之島美術館に所蔵されています。

この頃ウィーンで活躍した作曲家にルートヴィヒ ゼンフル(1486-1543年)スイス バーゼル生まれ、ミュンヘン没

皇帝マクシミリアン1世(1459-1519年)

のアウクスブルクの宮廷に加わり、1504年の一度きりの里帰りを除いて、バーゼルには二度と帰国しませんでした。

1497年にウィーンの帝室礼拝堂の聖歌隊員となりますが、やがて声変わりを迎えると、当時の聖歌隊を追われました。

当時の習慣に従って、おそらく1500年から1504年までの間に、3年にわたって聖職者を目指して学生生活を送っています。

この間にハインリヒ・イザークに師事し、その浄書係も務めた。イザークのライフワークにして最大の作品である《コラリス・コンスタンティヌス》を写譜したことや、この作品をイザークが完成させられずに世を去ると、ゼンフル青年が補筆して実用版をまとめ上げました。

1508年から1510年までしばらく研修旅行でイタリアを巡った後、ウィーンの帝室礼拝堂に復帰し、1517年に旧師イザークが没すると、その後任としてマクシミリアン1世より宮廷作曲家に任命されました。

翌1518年に狩猟の事故で片足を切断、1年のあいだ廃疾者として過ごします。
そのうえ1519年にマクシミリアン1世が崩御すると、新皇帝カール5世は宮廷楽団員をあらかた解雇し、ゼンフルも職を失いました。

しかもカール5世は、前皇帝がゼンフルに保証した廃疾給付の支払いを反古にしました。

それからゼンフルは2年間、主に職探しのため各地を遍歴しますが、積極的な作曲活動も行ないました。

1521年にはウォルムス帝国議会にも出席し、公式にプロテスタントに改宗したことはなかったものの、
マルティン・ルター(1483-1546年)

に好意的になり、後に宗教裁判所で訊問を受けて僧籍を諦めざるを得なくなります。

1530年よりルター派のプロイセン大公アルブレヒトや、ルター本人と旺盛な文通を行うに至りました。

最終的にゼンフルはミュンヘンの宮廷楽団員として雇われ、そのままこの地で一生を送ることとなりました。

当時のバイエルン大公が、比較的プロテスタントに寛容だったためもあります。アルブレヒト大公との往復書簡からすると、ゼンフルは1540年になるまでには病に倒れていたらしく、1543年の前半には故人となりました。

「あなた無しでは喜びはありません。」




居酒屋の裏話し

2025-01-05 21:00:00 | ルネッサンス
今日は、エスカルメンバーの竹内聡さんのお宅で新年会でした。

竹内さんの奥様はフルーティストの吉岡美恵子先生です。

竹内さん(前列)と今川さん(後列左)と吉岡先生(後列右]
今川さんと待合せて行くと、メンバーの田中さんご夫妻と駅で一緒になりました。

4人で着くと竹内さん、吉岡先生ご夫婦で宴会の食事の準備で大忙し。

グラスやお箸などを並べるとぞくぞくメンバーが集まってきて、榎田先生もいらっしゃいました。

すべてお二人の手作り。
オードブルに
数の子と野菜のゼリー寄せ、

お節のお煮しめ、

きのこのキッシュ

ペスカトーレ、
お肉

ラザニア
締めはエッグホールの乗ったシフォンケーキ。

お酒は持ち寄りでしたので、私はうちにあった白酒を持っていきました。

私は飲まないのでわからなかったのですが、「これはうまいいいお酒だよ!」と中国出張の長かった〇〇さんが言い出し、
みんな飲める人は呑みましたが、58度。
さすがにきつかったらしく田中さんは、寝てしまいました。

びっくりしたのはピアノのSさん。
ワイングラスにつぐと
クイッと呑んで涼しい顔で「おいしい。」ですって!

呑み話しばかりではなくて合奏もしたり、榎田先生の大フィル時代の話しを伺ったり楽しい話しもたくさんしたのですが…。まあ新年会はこんなものです。

昔々、1534年フランス パリで出版された混声合唱のための楽譜。
ピエール アタンナン発行「28の歌」
の中の一曲は「居酒屋の裏話し」
平和な酒宴は500年前から同じようです。

「居酒屋の裏話し」省訳
さあ、居酒屋に行きなさい!
仲間たちを呼んでおいしいワインを呑みなさい。
できるだけ大量に呑みたいです。
手をきれいに洗って、歯を洗って、白ワインで歯を乾かそう!
美しい美女を誘って
それからえんどう豆、良いハム、ホットソースのパスタ
食欲を満たせ!





ドイツ音楽の父のクリスマスの歴史

2024-12-10 20:57:00 | ルネッサンス
月曜日は午後から火曜日の子育てサロンでのクリスマスコンサートの合わせ練習です。
絵帆を読んでくれるOさんはスタッフの1人なのですが、なかなか絵本を読むのが上手いです。
音楽に合わせて読むのは難しいと思うのですが、昔、合唱をされていたとかで、楽譜を読みながら上手く合わせてくれます。

ピアノのTさんも絶賛。

明日はなんとかうまく行きそうです。

ドレスや楽器、鈴やタンバリン、会館はピアノが無いので電子ピアノ。
これを持っていくと車の荷台は一杯になりました。

これとOさんが作ってくれたフェルトのベル。Yさんのプログラム、会館にあるクリスマス飾り、ボードに貼る歌詞カード、ハンドベル、パラバルーン、クリスマスプ…おっと!これは秘密。

バスフルート
子どもたち、たくさん来てくれると良いなぁ〜!

ハインリッヒ シュッツ
Heinrich Schütz (1585 - 1672):
神聖ローマ帝国ケレストリッチ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ドレスデン没
 
クリストフ・スペトナー画。1650–60年頃、ライプツィヒ
ハインリヒ・シュッツはドイツの初期バロック音楽を代表し、ヨハン・ヘルマン・シャインやザムエル・シャイトとともに「3S」と呼ばれています。

大バッハ生誕のちょうど100年前に生まれ、ドイツ音楽に息吹を与えた「ドイツ音楽の父」と形容されています。

1585年にドイツ中部テューリンゲン州ケストリッツで、宿屋を経営するクリストフ・シュッツとユーフロジーネ・ビーガーの長男(8人兄弟の2番目)として生まれ、翌日、同地の聖レオンハルト教会で洗礼を受けました。

1590年に家族はワイセンフェルスに移って新しい宿屋の経営を始め、ここで少年時代を過ごしています。

1599年、14歳のシュッツはヘッセン=カッセル方伯モーリッツ

に音楽の才能を見出されてカッセルの教会学校の歌手となり、ギムナジウムに入りました。

1607年からはマールブルクで法律を学ぶことができるようになり、同時にオルガン演奏と作曲の勉強も始めました。

卒業後、方伯の奨学金を得て、1609年にイタリアに赴き、ヴェネツィア サン・マルコ寺院


のオルガニストであるジョヴァンニ・ガブリエリの弟子となりました。

この間、1611年に最初の公式曲集「イル・プリモ・リブロ・ディ・マドリガリ」(マドリガル集第1集、SWV 1-19)を完成しました。

死の床にあったガブリエリから、シュッツは指輪の遺贈を受けています。

シュッツが「師匠」と呼んだのは生涯でガブリエリただ一人でした。その師匠ガブリエリは1612年に亡くなりました。

翌1613年、ドイツに帰り、方伯モーリッツのはからいでカッセルの第2オルガニストに就任。

1615年、ザクセン選帝侯
ヨハン・ゲオルク1世(1585- 1656年)ザクセン選帝侯(在位:1611 - 1656年)
の宮廷に移って、ドレスデン宮廷楽団(現在のシュターツカペレ・ドレスデン)

の指揮を委ねられました。

当時の楽長ロギエール・ミヒャエルは病気療養中で、ミヒャエル・プレトリウスが代行していたため、初めはプレトリウスと並んで指揮を執っていました。

1617年に正式に宮廷礼拝堂つきの作曲家となり、1621年にプレトリウスが死んで後は、1672年に亡くなるまでシュッツが楽長の地位につきました。

1627年
この間、1619年に「ダビデ詩篇歌集」を刊行して方伯に献呈しました。

ダビデ詩篇歌集 初版の表紙

同年にマグダレーナ・ウィルデックと結婚し、その後、二人の娘を得ましたが、アンナ・ユスティーナは17歳で亡くなりました。

一方ユーフロジーネは、ライプツィヒ市長を務めたクリストフ・ピンカーと結婚したものの、彼らの娘ゲルトラウト・ユーフロジーネには子どもがなかったため、シュッツの血統は絶えています。

クリスマスの歴史
オラトリオ 喜ばしきイエス・キリスト生誕の物語 
Weihnachtshistorie SWV 435 (1664)
福音書、ルカとマタイによるクリスマスの物語を、教会の礼拝で使用する音楽として作曲されました。

この作品はおそらく 1660 年にドレスデンで初演され、1664 年に部分的に出版されました。
東方の3博士がイエス・キリストがお生まれになったと聞き、探しにやってきました。

ヘロデ王はこれを聞いて恐れ、エルサレム全土も同行し、民の中から祭司長と律法学者をすべて集め、キリストがどこで生まれるのか尋ねたところ、彼らはヘロデに言った、

大祭司と律法学者
ユダの地のベツレヘムで、預言者は次のように書いているからです:そして、ユダの地のベツレヘムよ、あなたはユダの君主の中で決して最も小さい者ではありません。なぜなら、あなたから私のところに公爵が来るからです。わが民イスラエルの主となってください。





ハートの楽譜

2024-11-27 21:00:00 | ルネッサンス
5歳児さんは今月6歳になりました。

段ボールに穴を開けて

滑り台を作ってガチャポンのボールを転がしてどの穴に落ちるか?と遊びます。

外には「ハートマーク描いて。」と言われたのでいっぱい描きました。
自分で紙飛行機とディスプレイしました。

子どもが成長するのは早いです。

ボード・コルディエ (Baude Cordier)(1380-1440年)は、フランスのランス生まれ、ディション没。

アルス・スブティリオル
(14世紀フランスのポリフォニー音楽様式は、フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)の音楽理論書に因んで、アルス・ノヴァ Ars Nova と呼ばれていますが、その後期の極まったものを特に、アルス・スブティリオル Ars Subtilior といいます。「精妙な技法」という意味)

の代表的人物に数えられています。
世俗曲の作曲家で、そのほとんどがロンドーです。

当時のフランス音楽に典型的な、複雑なリズムを駆使した楽曲がいくつか見られるものの、その他はより単純で、叙情的な旋律に重きが置かれています。

シャンティー写本』
Codex Chantilly (Musée Condé, MS 564)

には、着色されたハート型の楽譜に記譜されたロンドー《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》


と、円形の楽譜に記譜されたカノン形式によるロンドー《コンパスを使って完全に描かれた Tout par compas》
の2曲が収められいて有名です。

《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》
美しく、善く、賢く、優しく、高貴なる方へ
年の改まるこの日に
新しき歌を奉る
貴方に捧げし、我が♡の中で

この貢物を受けること躊躇うなかれ
伏して希う、我が愛しの人よ

我は汝を愛すること深き故に、
二心なし我は知る、
ただ貴方のみ
その令名を皆称えて曰く
至高の美の華




骨の悩みが解決しました。

2024-11-06 21:01:00 | ルネッサンス
次男骨折の最終診断。
レントゲンを撮って、術後最終検診。
ようやく病院を卒業できます。

写真は「照射中」だけが昭和なレントゲン室。

次男、今年2月に職場で転倒し左膝蓋骨を骨折。チタンの杭で骨をくっつける手術をしたら手術失敗して杭がゆるゆる。
骨が早くくっつく超音波機器をかしだされ1ヶ月毎日20分、それを当て、半年後の先月に杭を抜きました。

左膝に15センチほどの縫い合わせた傷がありますが、ほぼ痛みはないそうで卒業になりました。

労災なので料金は掛かりませんでしたが、2ヶ月は休職。車で通勤。
家族もいろいろ影響がありました。
怪我はしないのが1番です。 
私もほっとしました。

聖母マリアのカンティガ
聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)は、中世ガリシア・ポルトガル語(イベリア半島北西部で使われていた言語)で書かれました。
420曲からなる頌歌(カンティガ)集です。

カスティーリャ王アルフォンソ10世(アルフォンソ賢王、1221年~1284年)
アルフォンソ1世カンティガ集の一部の作者とも言われています。
の治世に成立しました。

中世の単旋律曲集としては最大のもののひとつで、すべての曲が聖母マリアに言及しているのが特徴です。
エル・エスコリアル修道院のE写本は、様々な楽器を奏でる2人組の音楽家たちを描いたカラーのミニアチュールで彩られています。

また、物語の挿絵になっているのもあります。

カンティガの322番目の曲は
貪欲に食べた男が喉にウサギの骨を詰まらせてしまい、マリアの奇跡で骨が取れて助かったと言う内容になっています。


北ヨーロッパからフランドル楽派

2024-10-17 21:07:00 | ルネッサンス
妹が北海道出張して帰ってきました。
いろいろと仕事のことで勉強した他に、北海道旅行も満喫したみたい。
姪たちは今年家を出てしまったので、母と私たちにお土産を買ってきてくれました。

いくらと、北海道と言えば

毛蟹。
手慣れた次男がバキバキッっと甲羅を開けて身をほぐしてくれました。



家で採れたすだちで食べたら爽やかな酸味と蟹身の甘みが混じって最高!

おしゃべりな母もしばし無言、もちろん私も無言になりました。 
美味しかった〜。
贅沢〜!
妹に感謝❣️

ローマ中心の繁栄がありましたが、経済の衰退、ペストの流行により、北回りの航路が取られるようになりました。
それはベルギーの港での交易をもたらし、そこを中心としたフランドル地方の繁栄を導きました。

フランドル地方は正確にはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域を総称して呼びます。

毛織物業が盛んで、ヨーロッパの先進的地域として発展しました。

1338年~1453年の百年戦争は、この地方の争奪をめぐって勃発しました。
音楽もフランドル楽派という人たちがヨーロッパ各地に出かけ先進的な働きをしました。

ヨハネス・オケゲム(1410年頃 - 1497年)エノー伯爵領サン=ギラン生まれ、フランス トゥール?没

ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名でした。

比例カノン()を用いた《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができます。


オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は込み入っています。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画す点です。


オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされました。

幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきました。

当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っています。
オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されています(1443年~1444年採用)。

1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世


にムーランで仕えました。
1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任しました。

フランス宮廷での――シャルル7世


とルイ11世


への――仕官に加えて、ノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも職務を得ました。

1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になります。

その後ブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残しています。
おそらくその地で没したのだろうと言われています。

生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげています。

アントワーヌ・ビュノワ


が1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれません。
オケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なされています。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。

オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されています。

《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムです。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっています。また作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲あります。

「Mort tu as navre de ton dart」
死んだあなたは自分の芸術を残念に思います
喜びの父
標準を導入することで
バンバンワの優しさの守護者について
彼の体は不平を言い、嘆いている
刃の下に誰がいるのか
ああ、憐れんでください
魂のために祈ってください。
(後略)










復興

2024-10-11 21:02:00 | ルネッサンス
裏庭のマンデビラ・スプレンデンス/ディプラデニア・スプレンデンス
長っ!
和名はあまり使われないそうです。

メキシコ〜アルゼンチン原産
夾竹桃も仲間にいます。
昨年植えた時に少し咲いただけで枯れて枝?蔓?だけになってしまったので死んでしまったかと思いました。
夏の間もほぼ葉もなく、、いよいよだめかと思いました。
しかし、秋雨が降り出すと復活!
きれいです。

ルネサンス(仏: Renaissance)は、Re再び + naissance 誕生。
「再生」「復活」などを意味するフランス語です。

古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。
14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まりました。

19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用しました。

その後、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになります。

また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかになりました。

14世紀から15世紀のイタリア半島でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいないことから、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えられます。

イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定されています。

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期です。

16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがされました。

主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ(1545年/1551年頃 - 1618年)は、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年)、ピエトロ・ストロッツィです。

彼らは従来のポリフォニー音楽(複数の独立した声部からなる多声音楽)では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がりました。

また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッッペーアの戴冠』といった傑作が生まれました。

ヴィンチェンツォ ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年) フィレンツェ生没


は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイの父で、リュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父。

後期ルネサンス音楽の重要人物であり、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。

振動弦と気柱における振動の物理の数的研究。

モノディ(レチタティーヴォにきわめて近い音楽的形式)の創始者の一人であり、オペラにおいてレチタティーヴォが使われることになったのは一般にヴィンチェンツォの功績だと評価されています。

ヴィンチェンツォはマドリガーレ2巻やリュートのための楽曲、そして相当数の声楽とリュートのための楽曲を作曲しました。
後者は多くの点でバロック初期の様式を先取りしたもので、ヴィンチェンツォの最も重要な作品であると考えられています。

なお、オットリーノ・レスピーギ『リュートのための古風な舞曲とアリア』第1組曲の第2曲「ガリアルダ」は、ヴィンチェンツォの作品を元にしています。