妹が北海道出張して帰ってきました。
いろいろと仕事のことで勉強した他に、北海道旅行も満喫したみたい。
姪たちは今年家を出てしまったので、母と私たちにお土産を買ってきてくれました。
いくらと、北海道と言えば
毛蟹。
手慣れた次男がバキバキッっと甲羅を開けて身をほぐしてくれました。
家で採れたすだちで食べたら爽やかな酸味と蟹身の甘みが混じって最高!
おしゃべりな母もしばし無言、もちろん私も無言になりました。
美味しかった〜。
贅沢〜!
妹に感謝❣️
ローマ中心の繁栄がありましたが、経済の衰退、ペストの流行により、北回りの航路が取られるようになりました。
それはベルギーの港での交易をもたらし、そこを中心としたフランドル地方の繁栄を導きました。
フランドル地方は正確にはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域を総称して呼びます。
毛織物業が盛んで、ヨーロッパの先進的地域として発展しました。
1338年~1453年の百年戦争は、この地方の争奪をめぐって勃発しました。
音楽もフランドル楽派という人たちがヨーロッパ各地に出かけ先進的な働きをしました。
ヨハネス・オケゲム(1410年頃 - 1497年)エノー伯爵領サン=ギラン生まれ、フランス トゥール?没
ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名でした。
比例カノン()を用いた《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができます。
オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は込み入っています。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画す点です。
オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされました。
幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきました。
当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っています。
オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されています(1443年~1444年採用)。
1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世
にムーランで仕えました。
1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任しました。
フランス宮廷での――シャルル7世
とルイ11世
への――仕官に加えて、ノートルダム寺院
や聖ブノワ寺院にも職務を得ました。
1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)
からカスティーリャ王女イサベル
への求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れました。
ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になります。
その後ブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残しています。
おそらくその地で没したのだろうと言われています。
生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげています。
アントワーヌ・ビュノワ
が1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれません。
オケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なされています。
現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。
オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されています。
《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムです。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっています。また作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲あります。
「Mort tu as navre de ton dart」
死んだあなたは自分の芸術を残念に思います
喜びの父
標準を導入することで
バンバンワの優しさの守護者について
彼の体は不平を言い、嘆いている
刃の下に誰がいるのか
ああ、憐れんでください
魂のために祈ってください。
(後略)