音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

骨の悩みが解決しました。

2024-11-06 21:01:00 | ルネッサンス
次男骨折の最終診断。
レントゲンを撮って、術後最終検診。
ようやく病院を卒業できます。

写真は「照射中」だけが昭和なレントゲン室。

次男、今年2月に職場で転倒し左膝蓋骨を骨折。チタンの杭で骨をくっつける手術をしたら手術失敗して杭がゆるゆる。
骨が早くくっつく超音波機器をかしだされ1ヶ月毎日20分、それを当て、半年後の先月に杭を抜きました。

左膝に15センチほどの縫い合わせた傷がありますが、ほぼ痛みはないそうで卒業になりました。

労災なので料金は掛かりませんでしたが、2ヶ月は休職。車で通勤。
家族もいろいろ影響がありました。
怪我はしないのが1番です。 
私もほっとしました。

聖母マリアのカンティガ
聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)は、中世ガリシア・ポルトガル語(イベリア半島北西部で使われていた言語)で書かれました。
420曲からなる頌歌(カンティガ)集です。

カスティーリャ王アルフォンソ10世(アルフォンソ賢王、1221年~1284年)
アルフォンソ1世カンティガ集の一部の作者とも言われています。
の治世に成立しました。

中世の単旋律曲集としては最大のもののひとつで、すべての曲が聖母マリアに言及しているのが特徴です。
エル・エスコリアル修道院のE写本は、様々な楽器を奏でる2人組の音楽家たちを描いたカラーのミニアチュールで彩られています。

また、物語の挿絵になっているのもあります。

カンティガの322番目の曲は
貪欲に食べた男が喉にウサギの骨を詰まらせてしまい、マリアの奇跡で骨が取れて助かったと言う内容になっています。


北ヨーロッパからフランドル楽派

2024-10-17 21:07:00 | ルネッサンス
妹が北海道出張して帰ってきました。
いろいろと仕事のことで勉強した他に、北海道旅行も満喫したみたい。
姪たちは今年家を出てしまったので、母と私たちにお土産を買ってきてくれました。

いくらと、北海道と言えば

毛蟹。
手慣れた次男がバキバキッっと甲羅を開けて身をほぐしてくれました。



家で採れたすだちで食べたら爽やかな酸味と蟹身の甘みが混じって最高!

おしゃべりな母もしばし無言、もちろん私も無言になりました。 
美味しかった〜。
贅沢〜!
妹に感謝❣️

ローマ中心の繁栄がありましたが、経済の衰退、ペストの流行により、北回りの航路が取られるようになりました。
それはベルギーの港での交易をもたらし、そこを中心としたフランドル地方の繁栄を導きました。

フランドル地方は正確にはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域を総称して呼びます。

毛織物業が盛んで、ヨーロッパの先進的地域として発展しました。

1338年~1453年の百年戦争は、この地方の争奪をめぐって勃発しました。
音楽もフランドル楽派という人たちがヨーロッパ各地に出かけ先進的な働きをしました。

ヨハネス・オケゲム(1410年頃 - 1497年)エノー伯爵領サン=ギラン生まれ、フランス トゥール?没

ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名でした。

比例カノン()を用いた《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができます。


オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は込み入っています。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画す点です。


オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされました。

幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきました。

当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っています。
オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されています(1443年~1444年採用)。

1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世


にムーランで仕えました。
1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任しました。

フランス宮廷での――シャルル7世


とルイ11世


への――仕官に加えて、ノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも職務を得ました。

1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になります。

その後ブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残しています。
おそらくその地で没したのだろうと言われています。

生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげています。

アントワーヌ・ビュノワ


が1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれません。
オケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なされています。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。

オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されています。

《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムです。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっています。また作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲あります。

「Mort tu as navre de ton dart」
死んだあなたは自分の芸術を残念に思います
喜びの父
標準を導入することで
バンバンワの優しさの守護者について
彼の体は不平を言い、嘆いている
刃の下に誰がいるのか
ああ、憐れんでください
魂のために祈ってください。
(後略)










復興

2024-10-11 21:02:00 | ルネッサンス
裏庭のマンデビラ・スプレンデンス/ディプラデニア・スプレンデンス
長っ!
和名はあまり使われないそうです。

メキシコ〜アルゼンチン原産
夾竹桃も仲間にいます。
昨年植えた時に少し咲いただけで枯れて枝?蔓?だけになってしまったので死んでしまったかと思いました。
夏の間もほぼ葉もなく、、いよいよだめかと思いました。
しかし、秋雨が降り出すと復活!
きれいです。

ルネサンス(仏: Renaissance)は、Re再び + naissance 誕生。
「再生」「復活」などを意味するフランス語です。

古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。
14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まりました。

19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用しました。

その後、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになります。

また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかになりました。

14世紀から15世紀のイタリア半島でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいないことから、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えられます。

イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定されています。

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期です。

16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがされました。

主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ(1545年/1551年頃 - 1618年)は、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年)、ピエトロ・ストロッツィです。

彼らは従来のポリフォニー音楽(複数の独立した声部からなる多声音楽)では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がりました。

また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッッペーアの戴冠』といった傑作が生まれました。

ヴィンチェンツォ ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年) フィレンツェ生没


は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイの父で、リュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父。

後期ルネサンス音楽の重要人物であり、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。

振動弦と気柱における振動の物理の数的研究。

モノディ(レチタティーヴォにきわめて近い音楽的形式)の創始者の一人であり、オペラにおいてレチタティーヴォが使われることになったのは一般にヴィンチェンツォの功績だと評価されています。

ヴィンチェンツォはマドリガーレ2巻やリュートのための楽曲、そして相当数の声楽とリュートのための楽曲を作曲しました。
後者は多くの点でバロック初期の様式を先取りしたもので、ヴィンチェンツォの最も重要な作品であると考えられています。

なお、オットリーノ・レスピーギ『リュートのための古風な舞曲とアリア』第1組曲の第2曲「ガリアルダ」は、ヴィンチェンツォの作品を元にしています。






地球儀と描かれた歌集

2024-10-03 21:04:00 | ルネッサンス
夕方5歳児をお預かりしました。
子育てサポーター、本当は火曜日と水曜日預かる予定でしたが、火曜日は子どもが体調不良になり、水曜日と木曜日。

「前何をしてたっけ?」
「電車描いてたんと違う?」と私。
「違うよ。それは終わってその後。」
「なんだったけ?」
幼稚園の帰りの車の中で思い出しました。
「日本地図!」
「そう!」
前週日本地図の歌を歌いながら、地図を描いてくれました。
これがよくできた歌で歌うと47都道府県の名産と名前を覚えられます。
次はなんの特徴だろう?と大人でもつい興味を持ってしまいます。
調べたら山口あいさんの作詞作曲でYouTube動画あがっていました



1533年、ハンス ホルバイン(1497-1543年神聖ローマ帝国アウグスト生まれ、イングランド王国ロンドン)

の描いた「大使たち」には、

イングランド王ヘンリー8世のローマ・カトリックからの離脱を思いとどまらせようと、フランスからロンドンへ送られた外交官ダントヴィルとその友人の司教セルヴ(右)が描かれています。
ヘンリー8世

自身の命令で描かれました。

2人の当時の年齢は、ダントヴィルについては、彼が手にしている短剣の柄に


ド・セルヴについては、彼が右ひじを置いている書物の側面に入れられた書き込みから、


それぞれ29歳と25歳と推定されています。

2人の間にある棚には、様々な道具類が並べられています。

上段の左端には、天文学あるいは占星学のための天球儀が置かれており、これには、動物の図柄とともに、いくつかの星座の名称がラテン語で記されています。

その右隣には、円筒状の日時計が立てられており、この状態では、4月11日もしくは8月15日を示しています。

下段の左端には、地球儀が置かれており、これは、ニュルンベルクで1523年に発表されたヨハネス・シェーナー制作のものを写したものだそうです。

その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung”(数学書) (1527年)です。

その右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)です。

讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒のパラフレーズが写されています。
その近くに、11本の弦のうち1本がなぜか切れてしまっているリュートの他に、フルートを何本も入れたケースが描かれています。

これらの道具類は、数学、音楽、地理学、天文学を象徴していて、これらの4つの学科は、クワドリウィウム (quadrivium) を構成するものであり、2人の人物の高度な教養もしくは知性を表現しています。

画面左上には、キリストの磔刑像が、カーテンの後ろに半ば隠れるようにして見えています。

2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされている。

その床面の上には、長細い形状をした物体が描かれていますが、これは、アナモルフォーシス(ゆがんだ画像を円筒などに投影したり角度を変えてみたりすることで正常な形が見えるようになるデザイン技法)という画法が用いられており、画面の右方もしくは左方から鋭角的に見ると、頭蓋骨です。

頭蓋骨は、死の象徴。若くて可能性に満ちあふれていたとしても、死はいつ訪れるかわからない、というテーマが隠されています。

「Geystlich Gesangk Buchleyn」
「霊的歌集」
合唱用にハーモニーをつけた最初のドイツの賛美歌集1524年にヨハン・ワルターと、マルティン・ルターと共同でルターの24曲を含む32曲の宗教歌が収められています。

「トーデス・バンデンのキリストの遅れ」テノールパート

ワルターは3~5パートに編曲し、メロディーはテノールで演奏。
ルターはパート集に序文を書きました。このコレクションは、すべてのプロテスタント歌曲のルーツと呼ばれています。 




アルス・ノヴァ(新技法)

2024-09-16 20:59:00 | ルネッサンス
9月15日は知恩寺手作り市
ご近所のママ友Mさん、Gさんと朝8:52発の電車で行きました。

真っ先にいつもの袋物屋さん。
楽譜入れ、ペン入れ、消しゴム入れ、楽器スタンド入れ、楽器メンテグッズ入れ。
こっちは撮影OKの食品サンプル屋さん、

キーホルダーなど小さなものが人気。

やっぱり暑かった〜!

その場でセットしてくれるミニチュア店舗
疲れたのでお昼は近くのサイゼリア。

食後のコーヒーゼリーとアイスのセット。
Gさんが買った帆布のバッグ。

安くて丈夫です。
今日の収穫。

お土産の招き猫

知恩寺は1212年法然が亡くなった時にその恩に報うために建立されました。
1331年地震が起き、その後流行り病が起き、七日七夜百万遍の念仏を称えながら大念珠繰りをしたところ疫病が治まったことから「百萬遍」の号が下賜されたそうです。(知恩寺ホームページより)

1322年頃にフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361年)によって書かれた、新しいリズムの分割法と記譜法を論じた音楽理論書『Ars nova (新技法)』

F-Pnm Français 146の Vitry のAman novi/Heu Fortuna/Heu me, tristis est anima mea の原稿、 Roman de Fauvelのバージョン

この本の名前に因んだ音楽様式「アルス・ノヴァ」がヨーロッパに広まります。

フランスの写本『ロマン・ド・フォーヴェル』のページ、パリ、BN Fr. 146(1318年頃)、「アルス・ノヴァ音楽の最初の実用的な情報源」

代表的な作曲家
ギヨーム ド マショー(1300年頃〜1377年)フランス王国ランス近郊生没



シャンパーニュ地方ランス近郊のマショーの貴族出身で聖職者になるための教育を受けます。

ボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハン
14 世紀のボヘミアの聖ヨハネの胸像、ボヘミアとルクセンブルクの紋章が描かれたプラハの聖ヴィート大聖堂
の秘書となり、ヨハンの兵と共にイタリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニアなどヨーロッパ各地に赴きました。

この間、ヨハンよりヴェルダン、アラス、サン・カンタン、さらに1334年もしくは1337年にランスのノートルダム大聖堂(司教座聖参事会員等の名誉職を得ました。

ノートルダム大聖堂

1346年、百年戦争初期のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、後のフランス国王ジャン2世(1350年 - 1364年)の妃であるヨハンの娘ボンヌ
ボンヌとジャン2世
に仕えます。
居をランスに構えます。

その後、1364年からフランス国王になったノルマンディー公シャルル(フランス王シャルル5世)、

同じくジャン2世の末子でブルゴーニュ公になったフィリップ(豪胆公)、

ナバラ王カルロス2世、

サヴォイア伯アメデーオ6世、

華麗な時祷書で知られるベリー公ジャン

など多くのパトロンに仕えました。

Dame, de qui toute ma joie (B42 または RF5)、1342 年以前、Le Remède de Fortuneより 

1349年のペスト(黒死病)大流行の後、自作品を集大成し、これらは数冊の『マショー写本』として残されています。

1359年 - 1360年には、ペスト禍が納まって再び始まった百年戦争のランス包囲戦を経験しています。

1377年4月、ランスにて死去。ノートルダム大聖堂に葬られました。

わが終わりはわが始まり
私の終わりは私の始まり 
わが終わりはわが始める
そして私の始まりと終わり
わが始めはわが終わり







さらばラノワのよき酒よ

2024-08-31 21:00:00 | ルネッサンス
韓国からのお土産。
立派な箱。
「なに、なに?」と私。
「どうせ酒やろ。」次男。

白酒。52度!
中国のお酒です。
露骨にがっかりする次男と私。
ほぼお酒飲めません。
夫はよほど酒好きと思われているみたいです。
このお酒、ググってみたらアマゾンでも楽天でも品切れでした。

お酒好きな人にはたまらないものなのでしょうね。

紀元前4000年以上前、メソポタミアで人類が農耕生活をはじめた頃、放置してあった麦の粥に酵母が入り込み、自然に発酵したピールが起源とされています。

最古の記録としては、紀元前3000年頃にメソポタミアのシュメール人が残した粘土板に当時のビールのつくり方が描かれています。

ワインの起源も同じくメソポタミア地方で、初めて文献に登場したのは紀元前2000年頃。メソポタミアの英雄詩"ギルガメッシュ叙事詩"の中に、葡萄酒を飲ませた記述があります。

ヨーロッパでは14世紀にポップを使う製法が発見されます。
1516年にはドイツで「ビール純粋令」が発布されました。
ビール純粋令は、食品の品質保証に関して、世界最古の法律のひとつです。

「ビールは大麦、ホップ、水のみを原料とすべし」。
ギヨーム・デュファイ(Guillaume du Fay)(1397 - 1474年)ブラバント公国ベーアセル?生まれ、フランス王国カンブレー没

はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家です。
音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠です。

1409年から1412年まで、少年合唱隊で教育を受け、才能を認められます。

1414年、カンブレ近郊のSt.Géry(サンジェリー)教会で働きはじめます。

カンブレ
1414年から18年までコンスタンツ公会議に同行し、1418年にカンブレに戻り副助祭となります。
イタリアのリミニ宮廷に移り本格的な作曲を始めます。

リミニ
1424年に、カンブレに戻り、ラン(ラノワ)大聖堂で副助祭であったと考えられています。
1426年、イタリアのボローニャに移動し、1428年には司祭となります。その後、1433年までローマで教皇庁の歌手となります。

1433年、サヴォワに移動し、ブルゴーニュ公やジル・バンショワと会います。

デュファイ (左)とバンショワ
1435年に再び教皇庁の歌手になりますが、1436年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)

の献堂式のために「ばらの花が咲く頃」という曲を作っています。
1437年に再びサヴォワに移動し、ブルゴーニュ公
ブルゴーニュ公“善良公”フィリップ3世』(1456年頃)、(在位1419-1467年)
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン画)ぬ
に仕え、その後、サヴォアとカンブレの間を行き来します。

1459年、カンブレに戻り、オケゲム、ビュノワと親交を持つほか、ジョスカン・デ・プレらとも接触したと考えらます。
1474年11月27日没。

さらばラノワのよき酒 (Adieu ces bons vin de Lannoys)

ドナート・マンチーニによると
「タイトルにその言及があるこの優雅なロンドは、1423年から1426年の間にデュファイがラノワで幸せな年月を過ごした証拠と言われています。

歌詞は、その地の良質なワイン(「ボン・ヴァン」)と美しい女性たちを懐かしく思い出し、彼女らに悲しくも惜しげもない別れを告げています。」

「さらばラノワの良き酒」
さらば、この良きラノワのワインたち、
さらば淑女たち、さらばボルゴワ、
さらば愛する人、
さらばすべての遊び心のある喜び、
さらばすべてのガロワの仲間たち。
後略



古楽器集合

2024-08-24 21:00:00 | ルネッサンス
金曜は第15回聴き合い会でした。
これは、先日ご紹介した復刻1700年代マンドリンです。
稲田さんも来てくれました。

弾けませんよ。
ポーズだけ。
でも触ってみたらわかることもあります。
まず軽いです。
220グラム。
持っていて苦になりません。 
フレットを押さえる左手も楽に押さえられます。
モダンマンドリンは二本の弦を、しっかり押さえないといけないので、指にくっきり二本のラインが入りますが、これはぎゅっと押さえなくても音が出ます。

また、ギターに比べてネックが細いので頑張って指を広げなくても楽々どのフレットも届きます。

右手はマンドリンよりも幅狭め長めの薄いピックで弦を捉えやすくより繊細な表現ができそうです。

稲田さんが言っていたストレスフリーの意味がわかってきました。

今回は、奥田さんと私のフルート、瀬さ渡瀬さんのモダンギター、河塚さんの19世紀ギター、古楽器ビウエラの斎藤さん、高島さんの二胡。
坂田さんと早井さんのピアノと後匿名希望の歌の方、見学も来られました。

みなさん、熱意ある演奏でルネサンス音楽から、現代日本の武満徹、唱歌までバラエティ豊かでした。

ルイス・デ・ナルバエス( 1526- 1549年活躍)イタリアグラナダ生まれ、



作曲家でビウエラ奏者。
生前から高く評価されていたナルバエスは、今日ではビウエラのための多声音楽集『デルフィンの書物』で知られ、この中には最古の変奏曲も含まれています。

また、同時代のイタリア風リュート音楽をビウエラに取り入れた最古の作曲家としても知られています。

ナルバエスの生誕日や生年月日さえも正確にはわかっていません。

彼はグラナダで生まれ、現存する最古の文献によると、1526年にはフランシスコ・デ・ロス・コボス・イ・モリーナの家庭にいたといいます。

コボスは芸術のパトロンとして有名で、カール5世統治下のカスティーリャ王国の国務長官兼評論家を務めていました。

ナルバエスはパトロンが1547年に亡くなるまでバジャドリッドで暮らしましたが、1539年から1540年にかけてはメディナ・シドニア公爵に仕えていました。

この時期に、作曲家は大規模な音楽コレクション『デルフィンの書物』 (バジャドリッド、1538年)

表紙

を出版しました。

1548年までにナルバエスは王室礼拝堂の音楽家として雇われ、聖歌隊員に音楽を教えていました。

彼の同僚には有名な鍵盤楽器作曲家のアントニオ・デ・カベソンがいました。

ナルバエスとカベソンはともにスペイン摂政フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)の音楽家として雇われ、摂政の多くの旅に同行しました。
ナルバエスに関する最後の言及は、そのような旅の1つに関するもので、1549年の冬、彼は低地諸国に滞在していました。

ナルバエスは生前、特にビウエラ演奏で非常に高く評価され、4つのパートを即座に別の4つのパートの上に即興で演奏できたと伝えられています。
彼の息子アンドレスも熟練したビウエラ奏者になりました。

ナルバエスのファンタジー14番







雨の後、私は見た

2024-08-08 21:00:00 | ルネッサンス
降りそうで降らない。降っても少しだけ。
レッスンのみなさんとのご挨拶も
「暑いですね。」
「今年は異常ですね。昨年もひどいと思ったけれど、一段階上がった気がしますね。」
庭の植木も水をあげても、昼間には頭を下げてしまいます。

夕方になったら『雨降らないかな?』と待ってしまいますが今週はあまり降りません。降ってもお湿り程度。
降り過ぎるのも困りますが、そろそろ少し降っても良さそうです。

ルカ マレンツィオ(1553-1599年)

おそらくブレシア大聖堂
の礼拝堂の G. コンティーノの弟子であったと思われます。

トレントの礼拝堂でしばらく奉仕し、1578 年から 1585 年まではモデナのルイージ デステ枢機卿に仕えました。  
1588年から1589年にかけて、彼はフェルディナンド公

とロレーヌのクリスティーナの結婚式のためにメディチ家の宮廷に出席し、I.ペリやE.デ・カヴァリエリと連絡を取りながら、祝賀会の作曲に貢献しました。

この機会に彼は、マドリガルの枠内に留まりながらも、すでにフィレンツェの「リサイタル・カンタンド」(オペラの源流)を先取りした「ミューズとピエリデスの競争」と 「コンバット・ピティコ・ディ・アポロ」を作曲しました。

その後ローマに住み、オルシーニ家(1589年~1592年)とアルドブランディーニ枢機卿(1593年~1595年)に仕えました。

1595年に彼はポーランド王
ジグムント3世
の宮廷に仕えました。

1598年に彼はヴェネツィアに戻りました。彼の生涯の最後の時期に関する情報はありません。

タッソとグアリーニの友人であり、「音楽的ペトラルキズム」(イタリアのペトラルカ(1304-1374)の抒情詩に影響を受けた考えのこと)の最大の提唱者であるマレンツィオは、モンテヴェルディの直接の先祖であるマドリガルの発展における最高潮の瞬間を代表しています。

音の象徴主義(マドリガリズム)と「視覚音楽」の技巧は、彼の作品の中で、気候の描写と感覚を結びつけています。

リズムと言葉の意味に注意を払っていますが、マドリガーレがもはや詩的な形式に従属するのではなく、本質的に音楽重視になっています。

彼の音楽の特質は、長音階の範囲全体にわたる旋律の発明と、最も大胆な半音階の変化にも論理的な一貫性を持ち、ジェズアルドに見られた実験的な半音階の使用をより柔軟に展開しています。

マレンツィオの作品は、多数のマドリガーレ コレクション (5 声のマドリガーレ 9 冊、6 声のマドリガーレ 6 冊、4 声と 4 6 声のマドリガーレ 2 冊、5 声の精神的および時間的マドリガーレ 1 冊) に加えて、人気のあるヴィラネルとナポリの 3 声のアリア、そして神聖なジャンルではモテット、神聖なカンティオン、アンティフォンです。

四声のマドリガーレ
Non vidi mai dopo notturna pioggia
「夜の雨が降った後私は空に見た」

夜の雨が降った後の静かな空気の中を星が動き、
露と霜の中でより明るく燃えているのを
見るたびに、目の前に星の瞳が見える。
人生の疲れが癒される。
美しいベールの影に星を見たように。
あの日、星の美しさで空が燃え上がるのを見たように
涙を流しながらも星が輝き続けるのを見て
私は永遠に燃える。



カエルのダンス

2024-07-27 21:00:00 | ルネッサンス
金曜日、ギターのH嬢が小型の水槽を大切そうに牧野に持ってきました。

中にいたのは、クランウェルツノガエルの小夏。

金曜日から、月曜までうちでお預かりします。
H嬢は伊丹の昆虫館主催の昆虫ツアーに参加するため、小夏姫を3泊4日、生物オタクの次男が面倒を見ることになったのです。

ところが金曜日は次男夜勤。
私が見ています。

このブログを読んでくれている人たちの中には、虫やカエルが苦手な人がいるので写真は自粛。

500円玉よりちょっと大きいくらいで、黄緑色と、薄茶色のまだら模様。
日本のトノサマガエルよりは寸詰まり…つまりだるまに近いです。
かわいい💖

写真は1日1回のお水換えの時にボウルに移っていただいている時のものです。
人の手で直かに触るとやけどするらしく、スプーンでボウルにそっとお移りいただきます。

結構跳ぶらしいのでザルで蓋をしています。
大人しくてじっとしているので、心配になりますが、水を替えてキレイにした水槽に戻すと、2跳ねしました。

買ってきたコオロギを週2回やるそうですが、次は土曜日。
コオロギではなく、

乾燥餌をあげます。このうちの一粒。
餌やりたい。土曜日が待ち遠しい。
むふふ…。

ミヒャエル プレトリウス(1571-1621年)神聖ローマ帝国チューリンゲン地方クロイツブルク生まれ、神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領ヴォルフェンビュッテル没

トルガウやフランクフルト・アン・デア・オーダー、ツェルプストなどで学びます。

フランクフルトのマリア教会

オルガニスト

聖マリア教会のオルガン
を務めた後、1604年からヴォルフェンビュッテル宮廷
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領 国章


ヴォルフェンビュッテル宮殿
にてオルガニスト兼宮廷楽長に就任します。

1613年から1616年まで、ドレスデンのザクセン宮廷

に仕え、ヴェネツィア楽派の複合唱様式による最新のイタリア音楽を演奏しました。

ジョヴァンニ・ガブリエーリのようなヴェネツィア楽派の作品を熟知していたおかげで、プレトリウスはその後教会コンチェルト様式を発展させました。

プレトリウスの作品は、1000曲以上のコラールと賛美歌の編曲を含む9巻の曲集『シオンの音楽』(Musae Sioniae, 1605年 - 1610年)


があります。
そのほかは、ほとんどがルター派教会のための作品です。

1612 年に出版された 300 曲以上の器楽舞曲集『テルプシコレー』 (Terpsichore)
は、プレトリウスの現存する唯一の世俗音楽集です。

3巻の論文集『音楽大全』(シンタグマ・ムジクム、Syntagma musicum, 1614年 - 1620年)

パーティーガーディのページ
は、同時代の演奏習慣や楽器について詳細な説明と図解がなされ、音楽学・形態学研究や古楽演奏の分野にとって重要な文献となっています。

「テレプシコーレ」でプレトリウスがフランスの舞踊レパートリーを基に、他国の曲もいくつか加えて作曲しています。

プレトリウスは作曲ではなく編曲のみを手掛けたとされています。 

その舞曲の 1 つに「カエルのバレエ」があります。
ダンスは伝わっていませんが音楽に合わせて飛び跳ねるダンスを想像することができます。



水の妖精のいたずら

2024-07-20 20:58:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

今日は8月4日木村門下発表会最後の練習でした。
力が入ります。
直子先生の適確なご指導で音楽の流れが変わります。
私もアウフタクトの取り方、中途半端な演奏をしているとすぐに見透かされてしまいます。

まだ課題が残る中、とりあえず宿題を頂いで終了。

いつものケーキタイム。
いつものケーキ屋さんが閉店されたので、牧野で有名なれんげそうで、買ってから行きました。
1時間以上、やっぱり少し崩れてしまいました。

直子先生、初めは冷たいペットボトルの紅茶を、ケーキ時にはフォートナム&メイスンのアールグレイを入れてくださいました。

駅からの歩くので、来た時は冷たいもの練習の後はケーキに合う温かい紅茶。
この気遣いが沁みます。
来月の発表会にも俄然やる気が出てきました。…単純!

帰ろうとマンションを出たら、なんだか膝の裏が冷たい。
「あれ?」と思って下を見たら、ポタポタと水滴が、「あっ!」と思うと道路に染み…。

バッグの中に入れた水筒が何かのはずみで蓋が空いたみたい。 
家から入れてきた紅茶が、ほぼすべてバッグの中でこぼれ出しまっていました。
すぐに直子先生に電話。
「どうしたの?」
「バッグの中の水筒の蓋が空いてこぼれてしまいました。ごめんなさい。部屋の中で床を汚したかもしれません。」
「あらら…。こっちは大丈夫みたいよ。久米さんは大丈夫?」
「はい。ごめんなさい。床は大丈夫でしょうか?」もうパニックで何言ってるのか?!
家帰ってみたら、フルートはポリエチレンの気泡緩衝材で包んでいたので濡れませんでした。
楽譜もクリアケースの閉じてる方が濡れていたので無事。

こぼれた紅茶のほとんどは運の良いことにハンドタオルとエコバックが吸ってくれていました。
洗えばいいだけ。

ビニールのカードケースがずぶ濡れで紙のポイントカードが数枚ブヨブヨになっただけで、ブラのカードは乾けば実害無し…よかった。

なぜ開いたのかなぁ?今までこんなことは一度もありません。
水の精(ニンフ)のいたずらかも?
(ただの不注意)

ロレンツォ・アレグリ(1567年 - 1648年)はイタリアの作曲家で、フィレンツェのメディチ家の宮廷で活動しました。

彼は主にリュート奏者として知られ、リュートのために舞曲を作曲し、時には歌も作曲しました。

ロレンツィーノ・トデスコやテデスコと呼ばれることもあるため、ドイツ系であると考えられます。

ヘンリエッタ ラエ「水の精」1919年

「センナのニンフたち」の5つの踊り