今日夕方、久しぶりに子育て仲間3人を招いてお茶をしました。本当は後二人いるんですが、都合が悪く、今日は4人でお茶。長い人は公園のお砂場から、子どもの幼稚園、小学校、中学校、高校まで長いお付合いになりました。
子どもという共通点を除いては、会えなかった人たちです。口八丁、手八丁は共通してるかな?こんなの作りたいんだけど、というと、言葉で言うより早く、動いている。得意技は違うんだけれど、さっと相手が困っているところを埋めてしまう。そして、センスがあう。「それは、かっこ悪いで。」とはっきりいわれちゃう。全盛期には、手作り品をガレージセールで売りまくりました。それが無くなったら、終わるかと思ったら、まだ続いています。
たぶん、考え方も子育ての方針も全然違う。でも、なんだか大丈夫。話していると癒されて元気がでます。
PTA、音楽仲間、アンサンブル、地域のボランティア、CAP、仕事仲間。どれも作業しだしたら、大変。ギクシャクして、つっかえて、休眠状態だったり、自然消滅したり。けれど、このグループは月一回くらい、もう10年以上、続いています。なんだか不思議な関係です。
子育てには相談できる仲間が必要です。一致する必要はないです。私と子どものことを気にかけてくれる、あなたとあなたの子どものことが気にかかる。子どもごと「おいで。」と言ってくれる。そういうことが大切なんです。そして子どもが大きくなってきたら、大変なところを一緒に切り抜けてきた戦友のようになれます。
人一人育てるのは大変な事業。えらい教育者も、哲学者も、宗教者も及ばない。なぜなら、生活だから、24時間休みなく実践する現場なんて、どんな職業にもない。情報を交換し、悩みを共有し、苦しみを分かち合い。喜びを作りあい。楽しみを作りあい。そんな仲間。私は幸せな子育てができた。後数年、途上だけれど、きっとまた、分かあいながら、行くんだろうと思います。ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします。
子どもの左足が消えています。心霊写真…の作り方をTV番組でやっていました。足を思いっきり振ってシャッターをきると、足が消えて見えます。下の息子はこんな実験が大好き。アルミ缶で綿菓子作りの時はひどかった。お砂糖がこげて、結局友達と、缶にこびりついたお砂糖をなめて終わりました。
サトイモを使った料理を思いついた友達のために製作実験「サトイモ買って!」と学校から帰った途端、大声で叫び、台所で友達を招んで実験開始。サトイモ料理のバリエーションが何種もできました。
と、ここまで書いたら、息子がレシピを紹介しろと、言ってきました。「誰か、作って、「おいしかった」とかいってくれるかもしれないぞ。」だって。
このブログは音楽がテーマなんだけど、・・何がいいたいかというと、音楽も感動と実験。「おもしろい!」「どうやったらあんな曲が吹けるんだろう?」「こうやったらどうなんだろう?」「みんなは、どう感じるんだろう?」「そう思うんだ(聴こえるんだ)おもしろい!」って繰り返し。理屈は後からついてくる。
親バカっぽいけど、レシピをひとつ紹介します。
「サトイモの油揚げ」(ネーミングも息子)
材料 4人分 サトイモ 5、6個
もち 4個
しょうゆ 多め
作り方 サトイモの皮をむき、半分にきりゆでる。
もちを4等分にきる。 4~5分焼く。
サトイモに箸がささったら、つぶしてもちと混ぜる。
しょうゆ多めに入れ混ぜる。
フライパンに油をしき、こげめがつくまで、あげ。
お好みでぽんずをかける。
P.S.しょうゆ多めと言うのは、たぶん大さじ一杯位だと思います。
隣で彼が、「プラス、パン粉をまぶすと、カリッとしておいしい。後、失敗しても責任は負いませんので、苦情は書き込まないで下さい。」と、のたまわっています。夕飯の一品に困ったらお試しあれ。
今日は梅田でレッスン。ぎんなんが一週間でこんな感じに。変化がわからない人は10月22日をみてね。
月2回のレッスンを確保するのが10月は難しいです。10月は先週と続いてなので、教則本の練習があまり進んでいません。基礎練習1時間半とると、24日のコンサートの練習で終わってしまい、土日もセミナーで一日缶詰。とりあえず基礎練習とイベールをちょこっとさらっただけで惨敗でした。
先生は後2年で還暦ですが、つやつや、にこにこ。いつも元気で楽しそうです。
今日は、イベールの最後のフレーズのアーティキュレーションがスラーとタンギングが明瞭にするようにと、お手本を吹いてくださり、「さあ、どうぞ。」と言われて、彼我のあまりの違いに思わずため息が。
すると、先生「そこは、ため息をつくとこと違うよ。」とニコニコ。
「ボクは、若いでしょう。ためいきついたり、できないとか、難しいとか、暑いとか、寒いとか。言ったら、どんどん疲れていくよ。ボクは最近全然つかれへんねん。どんどん疲れなくなってくるんよ。それはね、こういう言葉を使わないこととね、それと呼吸。みんなほとんど息をはけてないよ。息を大きく吸ったらね、必ず吐かないと。一杯吐いていれば、体は元気でいられるのよ。フルートを吹いてれば元気でいられるよ。」
「それから、ここは、出来あがったものをみせる場じゃないでしょ。できてないところをできるようにしていくところなんだから、できていないのが当たり前、ため息ついているひまなんかないよ。」
本当に先生はお若いです。話しているうちに体が温かくなってきました。
レッスンに行くといつも元気をもらえます。よかった。これでまた、次のレッスンまでがんばれます。
日が落ちるのが早くなってきました。5時半の空はもうこんな感じ。遅帰りの子ども達が帰る6時は真っ暗。校門前で親の帰りを待つ子ども達を見るのは、ちょっと切ないです。
「夕焼け小焼け」 中村雨紅作詞 草川 信作曲
1・夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手々つないで みな帰ろう
からすといっしょに かえりましょ
2・子供が帰った 後からは
まるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
草川信は雑誌「赤い鳥」のメンバーで「どこかで春が」「ゆりかごの歌」などを作曲した人です。
童謡作家の中村雨紅は東京八王子の生まれで、夕焼け小焼け記念館があるそうです。
今日は、児童会の帰りに一番星を見ました。
冷蔵庫は早くても水曜日。しかも奥行きが3センチ長くなります。シンクの並びにピッタリなものをと選んだのに。狭い我が家には3センチでも大問題。それにしても、電化製品の故障って以前に比べて多くなったと思いせんか?新品と交換するということは使える部分も廃棄するっていうこと。こういう使い捨てって、心が荒れると思いませんか?作っものや、作った人への感謝や、愛着って、物つくりへの原動力になるんじゃないかな?故障が多くなったのと使い捨てはつながっていると思います。
究極の人による手作り品。音楽を演奏する者としては、受け入れ難いものがあります。
エンデの「ネバーエンディング・ストーリー」ではファンタージェンを闇が侵略してきます。それを守っているのは「おさな心の君」。彼女とファンタージェンは、普通の男の子の信じる心によって守られます。
闇とは、こういう荒れる心、無気力さ、絶望感。目の前の欲望の前に、物を使い捨てる、人も使い捨てる、兆単位のお金が、生産や労働とは全く関係の無い投機によって、一瞬にして消え去ります。
先進国に生きると言うことはこういう世界を支えている、加担していると言うことなんだとつくづく思います。
この中で、あきらめない。期待し信頼し続けると言うことが、大人である私に課せられた試練なんだと思います。
穂谷川は緑のじゅうたん。もう少し行くと淀川に合流します。
冷蔵庫が壊れました。1月に買ったばかりなのに・・・。冷凍庫は大丈夫ですが、冷蔵庫が冷えません。金曜日に連絡して、土曜日に修理の人がきました。18時に来て、19時までいましたが、結論は、修理できない。冷蔵庫のモーターが壊れていて、冷えないのだけれど、もう、新しい製品が出て、品番の在庫が無いので、部品の在庫も無い。よって、相当の別品にお取替えだそうです。
新品になるのはうれしいけれど、エコロジーが叫ばれているおり、こんなことでいいのだろうか?
月曜日までセンターがお休みなので、連絡が取れるのは月曜。冷蔵庫が来るのは、それからまだ先だそうです。しかも遅い。活気も無い感じ。なんだかなぁ。
やっぱり、ピンクのコスモス。最近はオレンジの黄花コスモスが大流行ですが、ピンクのコスモスも健在でした。色によって同じ花でも受ける感じが全く違います。私が感じるのは、ピンクは淡い、可憐。オレンジは濃い、元気。っていう感じかな。
音楽の色彩というと、調整ですが、絶対音感を持たない私は、そう敏感に感じませんが、それでも、今暗い感じの調整になったとか、透明になったとか、明るい感じになったとかは感じます。
葉月最相さんの「絶対音感」小学館1998年によると、「メシアンはC D♭ E♭ E F♯ G A Bの音程配列ではバイオレット、C D E♭ E F♯ G A♭ B H ではグレーの奥からきんが反射してきて、オレンジ色の粒が散らばって、そこに黄金色に輝いている濃いめのクリーム色が・・・などといろんな色がみえたようです。」と書いています。
また、その中で來孝之氏は「ドは赤、レは黄、ミは緑、ファはオレンジ、ソは空色、ラは紫、シは白。・・・・なぜこうなるのかずっとわかりませんでした。みんなも同じなのかと思っていました。・・・原因が1960年頃にヤマハ音楽教室で採用されていた色音符だと思いあたったとき、実は改めて子どもの頃の刷り込みの深さに恐ろしくなった。」といっています。
京都市立芸術大学の大串健吾さんの調査によれば、共通して、ハ長調=白、ト長調=青、ニ長調ホ長調=橙や黄色、イ長調=赤・・・といった色彩イメージがあることがわかったといいます。
今聞いている曲が、何調か認識しながら聞くことが出来る。ヘ長調だと認識しながら「田園」を聞くことによって、鑑賞することによって、壮大な田園風景を思い浮かべ、緑のイメージが記憶に残る。とも書いています。
作曲家や演奏家のすべてが音と色を結びつけているかどうかわかりませんが、私はこれが、不作為の3つの点を見た時に顔だと人間が認識してしまうような、脳のカテゴリー化の作業の一つのような気がしてきました。明瞭なイメージがあるために、曲や、音を記憶に残しやすく、したがって、演奏技術の向上に役立ったり、暗譜をしやすいなど、記憶にとって合理的なメリットがあるのだろうと思いました。
そう色の明瞭なイメージが無くても、調性が変ったりすると、不安になったり、明るくなったり、自信に満ちたり、気分が変り、そのことで音楽を楽しんでいる人はたくさんいて、きっとそれで、充分だと思います。
赤は情熱、青は理性なんていっても、赤い理性や青い情熱なんていう表現が、もっとクールでおしゃれだと言う人もいるだろうし、色も音も単なる記号で、情感を伝えあう手段で、全部同じなんてあり得ない個人的な感覚なんだろうなぁという気がします。
まだ幼稚園に行く前のこと、「エリーゼのために」をいたずらものの叔父が、ピアノを弾いて、聞かせてくれました。「これはお化けが出てくる時の音楽だよ。」私は、しばらく我慢して聞いていましたが、途中の展開部まで来た時には、怖くて我慢できなくなって泣き出して「やめて、やめて」と逃げてしまいました。
一つ下の従妹にも、同じいたずらをしたら、「お化けがでたら、ウルトラマンになって、やっつけてやる!」とそこにとどまり続けたそうです。
どちらもお化けについては、叔父の刷り込みから逃れることができなかったわけですが、カテゴライズ化を積極的に捕らえた従妹は、バンバンピアノを弾いて、小6には、ポップスくらい、一度、聞いただけで何でも弾いていましたが、中学に行く時にすっぱりやめて、今は英語の教師をして、音楽とは無縁です。
消極的に捕らえた私は、カテゴライズ化できるほど、練習もせず。ゆっくりオルガンを弾いたり、ピアノに転向したり、合唱団に入ったり、あちこちいい加減に音楽を楽しみ。その後6年ほどして、あれほど怖かった、エリーゼのためにを弾いてお化けなんか出てこない愛らしい曲だったんだ自分で気づき。
おかしいけれど、何十年も自分の成長をあきらめず、音楽を楽しんでいます。
どちらがいいなんて一言ではいえないし、色が見える人は見えない世界を知らないし、見えない人は見える世界を絶対わからない。そのうち私がわかるようになったら、違いをいえるかもしれないけれど、自動的に色が浮かんだら、今の見え方はどうなるんだろう?その瞬間音楽によって起きる気分のゆらぎは違ってくるのかもしれない。それは、ちょっと怖いかも知れないなんて想像してみるだけです。
近所の保育園の庭に石榴(ザクロ)がなっています。赤くてピカピカ。とってもみごと。息子はざくろが大好きですが、我が家ではなりません。流通していないので、友達に頼んでわけてもらいます。中も、ルビー色の実がびっしりなっていて、美しいです。祖母の家にもなっていました。懐かしい色と味です。
今日は保育園でフルートコンサート。
ディスニーメロディに、モーツアルト、白鳥。そして、ドビュッシーの月の光と、絵本の読み聞かせでコラボ。
4歳児~6歳児は晴れていたら公園にお出かけするはずでしたが、雨で残念。
「今日は音楽を聴きなさいってことですねぇ。」と園長先生。
地域の親子連れも交えて100名ほどのコンサートになりました。
「0歳児は入れたらまずいでしょうか?」園長先生の心配そうな声に
「ぜひ、入れてあげてください。0歳から1歳の子ども達が一番、音楽を聴いてくれるんですよ。」
園長先生、とたんにうれしそうなお顔
「もしかして騒いだりしたら、途中で退席するかもしれませんが。」
「きっと、大丈夫ですよ。」
昨日までドキドキだったパートナーのピアニストさんも、本番はどうどうと、落ち着いてさすがの演奏で、フォロー私も安心して演奏できました。
読み聞かせのYさんも、普段やったことの無い、司会までお願いされて、たいへんだったと思いますが、暖かい司会ぶりで、子どもたちもどんどん巻き込んで楽しい場をつくりあげてくれました。
保育園での演奏は本当に力をもらえます。
人を信じる力、音楽を楽しむ力、新しいものを受け入れる力。
後半、ポニョとさんぽで子ども達は、とにかく大合唱。みんな大声で、お口を大きく開けて。こういう子ども達の声を、なぜそのまま伸ばせないのでしょう?
恥ずかしい。照れくさい。どうせ、わたしなんか。全部、比較と競争の中から出てきた言葉。好きなもの好きと、楽しいことを楽しいと言わないのはなぜでしょう?
自分に言うことは人にも言う。あんなんで恥ずかしくないの?あんたなんかたいしたことない。
人には言わないというのは嘘。心のシステムは変らない。口に出さないだけ、心の中で言っていても、同じ。
私も恥ずかしいと口に出す数ほど、いや、もっとかも。心の中で人にも言ってきました。
演奏が終わってから園長先生に聞きました。「0歳児、1歳児さんはどうでしたか?」
「あの子達が、こんな風になるなんて知らなかったわ。目新しいというか、新しいものへの興味で、全身で聞いていましたよ。びっくりしたわ。ほんと、おっしゃるとおり、一番聴いていましたよ。音楽の力ってすごいですねぇ。」
こどもたち、気づかさせてくれてありがとうございます。先生たち出会わせてくれて、ありがとうございます。仲間達へ一緒に演奏してくれてありがとうございます。
素晴らしい子ども達、素晴らしい先生達、素晴らしい仲間たち。
私はこんな機会をもてて、本当に幸せです。
今日は梅田でレッスン御堂筋のイチョウがもう実をつけています。落ちている実の写真を撮っていると、またぎんなんがゴツンと落ちてきました。
大江橋を渡る時に、中ノ島新線の駅が目に入りました。ウッディで景観を破壊せずいい感じです。乗るのはまだ先になりそうです。
今日はアルテ3巻25番と、イベールのフルートコンチェルト。
25番は長い曲ですが、始めの跳躍の部分。
「とにかくもっと、よく聴くこと。」
「聴く為の耳を育てること。」
ソノリテの跳躍の練習を、2つずつスラーで、固定音に拍頭がある場合と、アウフタクトがある場合と2パターンを吹いてくださり、
後の音を減衰する場合、力が入らないように、特に後ろの音が高い音のときに力が入るので、ゆっくりとよく音を聴きながら演奏する事が大切です。
とにかく私の場合、すぐに早く練習してしまうので、「ゆっくり、ゆっくり」そしていろんな角度から練習すること。そのことを、何度も何度も聞いているのに、またまたまたまた・・・。
なかなか学べない私です。・・・無駄に頑固。のろまのイラチ。
落ち込んでいる暇はないです。練習!練習!今度はゆっくりね。
「歌の翼に」は、ドイツロマン派の作曲家メンデルスゾーンによる1836年作曲の歌曲集「六つの歌」作品34の第2曲です。
シュテックメストがフルートで「歌の翼に幻想曲」を書いていて、フルートの定番曲のようによく演奏されています。
メンデルスゾーンもハイネもドイツ生まれのユダヤ人です。メンデルスゾーンは幼い頃から天才的な能力を発揮して、長じてからは、ドイツ音楽界の重鎮として君臨していましたが、それでも差別的な扱いに悩んでいたらしいです。38歳でクモ膜下出血でなくなりました。ハイネは、3月革命の影響でドイツからフランスのパリへ移住しましたが、資金援助を受けなくては生活できませんでした。
ガンジス川のほとりの楽園を夢見るハイネの詩に共感したのは、メンデルスゾーンも異邦人としてドイツに生きていたからかもしれません。なくなって3年後には、ワーグナーが「音楽におけるユダヤ性」と言う論文を書いて、音楽性を否定していたり、一方で銅像を建造されたり、また、数年後にはナチスによって禁止され、その後回復するなど、評価や音楽的地位が上がったり下がったり。
ユダヤ人は、子どもが生まれると、学術や芸術の世界で力を発揮するように教育されるそうです。それもこの不安定な位置から来るもののように思われます。
「歌の翼に」ハイネ詩・久野静夫訳詞・J.L.F.メンデルスゾーン作曲
1.
歌の翼(つばさ)に あこがれ乗せて
思いしのぶ ガンジス
はるかの かなた
うるわし花園に 月は照りはえ
夜の女神(めがみ)は 君をいざなう
夜の女神は 君をいざなう
2.
すみれの花は ささやく 星に
ばらは ほほえみて
ほのかに 香る
うるわしの花園に 鳥はたわむれ
夜の女神は 君をいざなう
夜の女神は 君をいざなう
3.
今宵(こよい)も憩(いこ)わん 椰子(やし)の葉陰
ともに語りて 楽し夢見ん
楽し夢見ん 楽し夢