水曜日は午後はピアノのTさんと子育てサロンのクリスマスコンサートの打合せです。
かわいいでしょ💖
ボロディンは、 62歳のジョージア貴族ルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリと、25歳の既婚ロシア人女性エヴドキア・コンスタンチノヴナ・アントノワの私生児としてサンクトペテルブルクで生まれました。
と出会い、彼から音楽を学びましたが、生涯趣味として音楽に関わりました。
に捧げられました。この四重奏曲は結婚20周年記念の贈り物であり、ハイデルベルクでの夫婦の初めての出会いを想起させる曲目です。
が率いる弦楽四重奏団によって再演されました。
プログラムがやっと決まり、後は練習あるのみ。と言っても、お茶とお菓子は欠かせません。
おしゃべりして、練習して…。
今年はバスフルートと木管頭部管も使うことにしました。
また、ボロディンの弦楽四重奏曲のノットゥルノで絵本を読むことにしています。
サロンの、スタッフYさんがプログラムを作ってLINEで送ってくれました。
かわいいでしょ💖
私は音楽の他に絵本の製本が残っています。テープや色画用紙が足りなくなったので夜買いに出ました。
だいぶ寒くなっていました。
12月10日(火)10:00 会館との2
ぽっぽくらふのクリスマスコンサート
サンタクロースもやってくる…かも。
申込み不要、無料 対象3歳までの子どもと保護者 妊婦さん。
ご来場お待ちしています。
アレクサンドル ボロディン(1833-1878年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生没
ボロディンは、 62歳のジョージア貴族ルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリと、25歳の既婚ロシア人女性エヴドキア・コンスタンチノヴナ・アントノワの私生児としてサンクトペテルブルクで生まれました。
貴族であるゲデヴァニシヴィリは彼をロシア人農奴の一人であるポルフィリー・ボロディンの息子として登録しました。
この登録の結果、アレクサンドルと名目上のロシア人父ポルフィリーは、アレクサンドルの実父ルカの農奴として正式に登録されました。
ジョージア人の父は、アレクサンドルが7歳のときに彼を農奴から解放し、彼と母親に住居と金銭を提供しました。
それにもかかわらず、アレクサンドルは母親から公に認められることはなく、若いボロディンは母親を「叔母」と呼んでいました。
家庭教師をつけられ、家と資金援助を父から受けて高い教育を受け、サンクトペテルブルクの医科外科アカデミーに入り、卒業しました。
1862年からは同校の教授に就任し化学の分野で成果を上げ続けました。
ボロディンは1862年にミリイ・バラキレフ(1837-1910年)
と出会い、彼から音楽を学びましたが、生涯趣味として音楽に関わりました。
バラキレフ・サークルのメンバーの中で、チェロ奏者として室内楽の演奏にも熱心で、1859年から1861年にかけてハイデルベルクで化学を学んでいた時期には室内楽への関心を高めています。
この初期の時期には、室内楽作品のほか、弦楽六重奏曲やピアノ五重奏曲も作曲されています。
また、ボロディンは、フェリックス・メンデルスゾーンの作品を参考にして、楽曲の主題構成や楽器構成を作っています。
弦楽四重奏曲第2番は、アレクサンドル・ボロディンが1881年に作曲しました。
ボロディンの妻エカテリーナ・プロトポワ
に捧げられました。この四重奏曲は結婚20周年記念の贈り物であり、ハイデルベルクでの夫婦の初めての出会いを想起させる曲目です。
4つの楽章のうち、第3楽章「ノットゥルノ」が最も有名です 。
ボロディンは1881年、モスクワ南東部のジトヴォにある友人でマイナーな作曲家ニコライ・ロディジェンスキーの邸宅に滞在していたときに、弦楽四重奏曲を急いで作曲しました。
メンデルスゾーンの影響があったせいで、ロシア5人組に属するモデスト・ムソルグスキーなどからは「ロシア国民楽派の信条に反する」と強い非難を浴びました。
初演は完成の翌年の1882年2月7日(または3月9日)に、サンクトペテルブルクで開催されたロシア音楽協会の演奏会で、前作を初演したガルキン弦楽四重奏団によって行われました。
また、同年12月23日には、レオポルト・アウアー
が率いる弦楽四重奏団によって再演されました。
1894年再版
楽譜はボロディンの生前には出版されず、ボロディンが亡くなった翌年の1888年に、ライプツィヒのベリャーエフ社から出版されました。