音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

山の中で軍隊は眠り続ける

2025-01-12 21:00:00 | 国民楽派
安静第一の術後ですが、車に乗ってるだけならいいだろう。ということで母を誘って夫、次男と近江八幡へ、

八幡山のロープウェイに乗って

山頂から琵琶湖が見えます。

そして猫さん。丸々太ってた。妊娠中か?

雪だるま

日陰には雪が残っていました。

絶景を楽しんだ後、日牟禮神社にお参り。

たねやさんで最中を買って帰りました。

途中、鏡の里

でキャベツ230円だったので、昨日した決意をもう翻して買ってしまいました。
近江の畑にはキャベツが並んでいました。寒くても採れるのですね。

それにしても息子に腕を下から抱えられて歩くようになるとは…。
そこまでして昇るか?!
ぼちぼちですが、いい空気を吸って気分もスッキリ。とにかく治りつつあるみたいです。

『ブラニークのバラード』( Balada Blanická)、
原題『ブラニークの騎士』(チェコ語:で Blaničtí rytíři)は、
ヤロスラフ・ヴルチリッキー(1853-1912年)チェコの抒情詩人


のテキストに基づいて
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)オーストリア帝国モラヴィア辺境伯フクヴァルディ生まれ、チェコスロバキア、オストラヴァ没

が1920年に作曲した交響詩です。  

ヤナーチェクの3番目の交響詩。
初演は1920年3月21日にブルノで行われました。

この作品は、独立の強力な支持者の当時のチェコスロバキア大統領トマーシュ・ガリグ・マサリク(1850-1937年)

に捧げられました。
チェコスロバキアは、ヤナーチェクが作曲を始める前年の1918年に独立国となっていました。

ヤナーチェクは、ブラニーク山

に眠る小さな軍隊についてのチェコの伝説に基づく、ヴルチリツキーの農民のバラッド(チェコ語でセルスケー・バラディ)の物語詩を原典としました。

以前にも、この伝説に触発されたチェコの作曲家がおり、その中には、交響詩集『わが祖国』を「ブラニーク」という曲で締めくくったベドジフ・スメタナや、同名のオペラを作曲したズデニェク・フィビフがいます。

しかし、ヴルチリツキーは、この伝説に独自の平和主義的なひねりを加えました。
元の伝説によると、困難な時期に軍隊が目覚め、チェコ人の敵を殺すということになっています

しかし、ヴルチリツキーのユートピア版の物語では、武器が根絶されたため、軍隊は眠り続けています。

モスクワ川の日の出

2025-01-10 21:01:00 | 国民楽派
7:00出発。1月8日は1年の内で1番日の出が遅い日だそうです。
大阪では7:06日の出。
これからどんどん日の出は早くなってきます。


無事手術終わりました。
右目は真っ赤で眼帯をしているので、鏡を見るとちょっと自分でも引いてしまいますが、よく見えます。

楽譜が見えるように45センチに合わせてもらったので近場はバッチリ。
視力検査は遠いので眼鏡をかけて1.0

それでもだいぶ見えるようになりました。
左目は1月29日。
これはだいぶ期待が持てます。

1週間は安静。目薬、3種を日に4回。
洗顔、洗髪禁止。

多くの方に応援していただいて感激しています。
本当にありがとうございました。

オペラ「ホヴァーンシチナ」(ホヴァーンスキー事件)は1872年

モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)ロシア帝国ブスコフ州生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

によって書き始められました。

1875年第1幕と第2幕を完成させましたが、第3幕の半ばでウラジミール スターソフ(1824-1906年)

に批判され続きは難航しました。
結局第5幕の合唱の手前まで書いたところでムソルグスキーは亡くなります。

そこで旧友リムスキー・コルサコフ(1844-1908年)

が1882年改訂編曲して完成させます。
しかしこの改訂を帝国劇場は赦さず、上演は長らくされませんでした。
リムスキー・コルサコフが亡くなってからマリインスキー劇場で上演されました。

1959年にショスタコーヴィチ(1906-1975年)

がムソルグスキーのピアノ版をもとに忠実に再現しました。

現在ではリムスキー・コルサコフ版は前奏曲「モスクワ河の夜明け」が演奏・録音される程度で、大半はショスタコーヴィチ版が用いられています。

他に1913年ストラヴィンスキー版、
ゲルギエフ版などが、存在します。
れている。

前奏曲
『モスクワ川の夜明け(Рассвет на Москве-реке)

「前奏曲」(Прелюдия)と訳されました、草稿には「序奏」(Вступление)と記されています。

川の小波、鳥のさえずりなど、モスクワの夜明けの美しさが変奏曲の形式で描かれ、続くオペラ本編の人間たちの壮絶な政治闘争の描写と好対照を成しています。

1682年の銃兵隊反乱を描いたコルズーヒンの絵画(1882年)。ピョートル1世のおじイヴァン・ナルイシキンを連行・殺害する銃兵隊、それを嘆く母ナタリヤ・ナルイシキナと幼いピョートル、その横にソフィア・アレクセーエヴナ。
ピョートル(大帝)

がまだ幼いころ、父帝が亡くなり、兄イヴァンとその摂政ソフィアとの家督争いとなっています。

モスクワでは銃兵隊を束ねるホバンスキー公

が摂政のソフィア

にそそのかされて反乱を起こし、ピョートルを陥れようとしていました。
が、ソフィアは力を強めたホバンスキーを嫌い、

部下のゴリツィン公

を使ってホバンスキーを陥れようとする。
ホバンスキーはというと、1人の女(エマ)を親子で取り合ったりしていてのんきにしています。

ホバンスキーの息子アンドレイの元カノのマルファは占い師で、
ホバンスキーは王位を狙っているというデマを流されたためにピョートルにも狙われ、暗殺されます。

ゴリツィンも失脚し流刑の身となる。やがて、旧勢力である古儀式派がすべて粛清されることがわかり、ドシフェイらは殉教する決意をします。

ピョートルの軍が旧勢力を一掃するために近づいてきます。
マルファは絶望しているアンドレイをともなって殉教者らと運命を共にします。

銃兵処刑の朝 スリコフの絵画(1881年)
最後は修道院に立てこもって火を放って全員焼け死にます。

ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア。レーピンの絵画(1879年)。 太った醜女として描かれ、窓外には処刑された銃兵の遺体が見えますムソルグスキー

前奏曲「モスクワ川の夜明け」



音楽は趣味

2024-12-05 21:00:00 | 国民楽派
水曜日は午後はピアノのTさんと子育てサロンのクリスマスコンサートの打合せです。

プログラムがやっと決まり、後は練習あるのみ。と言っても、お茶とお菓子は欠かせません。
おしゃべりして、練習して…。

今年はバスフルートと木管頭部管も使うことにしました。

また、ボロディンの弦楽四重奏曲のノットゥルノで絵本を読むことにしています。

サロンの、スタッフYさんがプログラムを作ってLINEで送ってくれました。

かわいいでしょ💖

私は音楽の他に絵本の製本が残っています。テープや色画用紙が足りなくなったので夜買いに出ました。
だいぶ寒くなっていました。

12月10日(火)10:00 会館との2
ぽっぽくらふのクリスマスコンサート
サンタクロースもやってくる…かも。
申込み不要、無料 対象3歳までの子どもと保護者 妊婦さん。
ご来場お待ちしています。

アレクサンドル ボロディン(1833-1878年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生没

ボロディンは、 62歳のジョージア貴族ルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリと、25歳の既婚ロシア人女性エヴドキア・コンスタンチノヴナ・アントノワの私生児としてサンクトペテルブルクで生まれました。

貴族であるゲデヴァニシヴィリは彼をロシア人農奴の一人であるポルフィリー・ボロディンの息子として登録しました。

この登録の結果、アレクサンドルと名目上のロシア人父ポルフィリーは、アレクサンドルの実父ルカの農奴として正式に登録されました。

ジョージア人の父は、アレクサンドルが7歳のときに彼を農奴から解放し、彼と母親に住居と金銭を提供しました。

それにもかかわらず、アレクサンドルは母親から公に認められることはなく、若いボロディンは母親を「叔母」と呼んでいました。

家庭教師をつけられ、家と資金援助を父から受けて高い教育を受け、サンクトペテルブルクの医科外科アカデミーに入り、卒業しました。
1862年からは同校の教授に就任し化学の分野で成果を上げ続けました。

ボロディンは1862年にミリイ・バラキレフ(1837-1910年)

と出会い、彼から音楽を学びましたが、生涯趣味として音楽に関わりました。

バラキレフ・サークルのメンバーの中で、チェロ奏者として室内楽の演奏にも熱心で、1859年から1861年にかけてハイデルベルクで化学を学んでいた時期には室内楽への関心を高めています。

この初期の時期には、室内楽作品のほか、弦楽六重奏曲やピアノ五重奏曲も作曲されています。
また、ボロディンは、フェリックス・メンデルスゾーンの作品を参考にして、楽曲の主題構成や楽器構成を作っています。

弦楽四重奏曲第2番は、アレクサンドル・ボロディンが1881年に作曲しました。  

ボロディンの妻エカテリーナ・プロトポワ


に捧げられました。この四重奏曲は結婚20周年記念の贈り物であり、ハイデルベルクでの夫婦の初めての出会いを想起させる曲目です。

4つの楽章のうち、第3楽章「ノットゥルノ」が最も有名です 。

ボロディンは1881年、モスクワ南東部のジトヴォにある友人でマイナーな作曲家ニコライ・ロディジェンスキーの邸宅に滞在していたときに、弦楽四重奏曲を急いで作曲しました。

メンデルスゾーンの影響があったせいで、ロシア5人組に属するモデスト・ムソルグスキーなどからは「ロシア国民楽派の信条に反する」と強い非難を浴びました。

初演は完成の翌年の1882年2月7日(または3月9日)に、サンクトペテルブルクで開催されたロシア音楽協会の演奏会で、前作を初演したガルキン弦楽四重奏団によって行われました。

また、同年12月23日には、レオポルト・アウアー


が率いる弦楽四重奏団によって再演されました。

1894年再版
楽譜はボロディンの生前には出版されず、ボロディンが亡くなった翌年の1888年に、ライプツィヒのベリャーエフ社から出版されました。













信じられないほど美しい曲

2024-11-19 21:01:00 | 国民楽派
月曜日、フルートアンサンブル「エスカル」の練習日でした。
渡辺橋近くのサロン ド
プリンシパル。
定期演奏会が10月20日に終わって、新しい曲を模索中です。

榎田先生に練習前にレッスンしてもらいました。
ロングトーンは女性で45秒は続ける吹き方で練習すること。
基本pianissimoで。
アンブシュアは、できるだけ細い息が出るように…。
私は少し大きいようです。
もう少し締めて、そのためにもビアニッシモのロングトーンの練習がいいそうです。下顎を前に前歯の上下が合うくらい。少し下目に吹くといい音がします。

息も続くし、音量は簡単に上げられます。

タンギングは基本舌が歯の間から外に出るモイーズのソノリテが基本です。
歯の付け根に置くというタンギングは切れが悪いのでしない。
鋭く。
タンギングの音が聞こえるように、ベネットもそうだったそうです。
CDで聴くとそういうことがわからない。
そばで聴くと、汚いくらいタンギングの音がしたそうです。

ヴィヴラート、モデラートの速さで一拍に3回くらい。
波は大きくし過ぎない。

以上を気をつければもっと音が良くなるはず!
ということで頑張ります。

新しい楽譜が来ました。
2曲、来年の定期演奏会の候補曲。

一曲はヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」
後一曲はドボルザークの「セレナーデ」
初見大会。
今回はバスフルートを持っていなかったのでどちらもコンサートフルートで2ndを吹かせてもらいました。

榎田先生「ドボルザークにしてはこの曲はいい曲なんだよ。土臭い、田舎っぽいところがなくってね。」

それからマーラーのアダージェットをやりたいというメンバーに
「マーラーは好きじゃないんだよ。情緒的過ぎる、俺はもうちょっと硬いやつが好きなんだ。」

「このヘンデルのようなやつ。」
ですって!
ドボルザークの第一楽章が終わったら
「この曲はね。信じられないほど美しい曲なんだよ。本当はね!」
はい、私たちの演奏ではまだまだです。



アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラボゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没

弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 B.52 は、アントニン・ドヴォルザークが作曲した弦楽合奏のためのセレナーデ。
この曲はドヴォルザークが33歳だった1875年5月に11日間という短い期間で一気に書き上げました。

ドヴォルザークは2年前(1873年)に初恋の相手だった女性の妹アンナ

と結婚していて、作曲に着手する2か月前には、ブラームス

や音楽評論家ハンスリック

らが審査員を務めるオーストリア政府奨学金の審査に合格、当時の自身の年収の倍を超える額の奨学金を5年間にわたって受給することが決まりました。

当面の生活の安定が約束された状況下で作曲に打ち込むことが出来るという幸福感からこの作品を書き上げています。

この作品を書き上げた翌月(1875年6月)には、スラヴ的な親しみやすい旋律が満載の『交響曲第5番ヘ長調』の作曲に着手して、1か月余りの期間を費やして完成しました。

2年後の1877年には『スターバトマーテル』を完成、さらにその翌年の1878年には『スラヴ舞曲集』作品46を作曲して大ヒットとなるなど、この作品の前後数年間に作曲された楽曲によって国際的名声を得ています。

本作の初演は作曲の翌年、1876年にプラハ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏により行われました。

Moderato
Tempo di valse
Scherzo: Vivace
Larghetto
Finale: Allegro vivace




山の夜

2024-11-10 22:19:00 | 国民楽派
近江富士。

長男が出張するのに「スーツケースが無いので買いに行くから手伝って。」
と聞いた夫。
「スーツケースあるから持っていくよ。」
と、言うことで

いつもの京阪鉄橋。

見えてきました近江富士。



スーツケース長男宅に運びました。
新しい家電が増えていました。

大型テレビの次は。


コーヒーメーカー。
1人を楽しんでいるみたいです。
野菜を買って、先月持ち込んだカセットコンロでお鍋をして久しぶりの家族団らんして食べました。

コダーイ・ゾルターン(1882ー 1967年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ケチケメート生まれ、ハンガリー ブタペスト没

作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。 

幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごしました。

父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始めます。系統的な音楽教育を受けることはほとんどありませんでした。

1900年、ブダペスト大学のハンガリー語・ドイツ語学科に入学し、同時にブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のリスト・フェレンツ音楽大学)で音楽を学びました。 
そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学びました。ケスラーは、マックス・レーガーの従兄で、ブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家でした。

後にコダーイは民俗音楽学の分野における重要人物のひとりとなりました。

1905年から人里離れた村を訪れて曲を集め、1906年にはハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」(A Magyar népdal strófaszerkezete) を書きました。

この頃、コダーイは後に妻となるシャーンドル・エンマ


と出会っています。

さらにエンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに会い、彼にハンガリー民謡の手ほどきをしました。
2人は共に民謡集の出版を手がけました。

コダーイ(左)と2番目の妻のピーツェリー・サロルタ(中)、そしてベーラ・バルトーク(右)(音楽院にて)1960年代

哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。
そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受けます。

1907年にブダペストに戻り、ブダペスト音楽院教授となります。
コダーイは第一次世界大戦中も休みなく民謡収集の旅へ出かけました。

1910年には19歳年上のエンマと結婚しました。



エンマは作曲家・ピアニストで、著名な作曲家とコダーイを繋ぎました。

コダーイはこの間に2曲の弦楽四重奏「チェロとピアノのためのソナタ」と「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」を発表します。

これらはすぐには成功しませんでしたが、1923年にブダ・ペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」が初演され、大成功を収めました。

この後、コダーイは自作の指揮でヨーロッパ中を巡る事になります。

1925年の児童向け合唱曲 「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、コダーイは音楽教育に大きな興味を持つようになります。

教育用の曲を多数書き、同様に書物も出版します。
この分野におけるコダーイの研究はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与えました。

カーウェンのソルフェージュ手話の描写。これをコダーイは流用しています。

著作の数々は音楽教育を理解するための原理を定めました。

コダーイはまた、プロの合唱団のための曲と共に、「マロシュセーク舞曲」「ガランタ舞曲」「『孔雀』による変奏曲」「ミサ・ブレヴィス」を作曲しました。

オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、有名となりました。

1920年代にも引き続き、ハンガリーの村々を回り、民謡を収集・録音する作業を続け、民俗音楽における多数の論文を執筆し、また民謡に基づく合唱を作曲していきました。

1930年にはブダペスト大学の哲学科で学生に講義を行い、その中の討論で民俗音楽の歴史と意義についての議論を深めていきました。

コダーイは第二次世界大戦中もブダペストに残り、1942年に教職から退きました。

戦争中は「いくさ歌」や「神の奇跡」などペテーフィ・シャーンドル(1823-1849年詩人ハンガリー革命影響を与えた)


の愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をしました。

戦闘がブダペストで始まると、修道院に待避し、そこでオルガン曲のミサ・ブレヴィスを合唱・独唱・オーケストラ用に編曲しました。

戦争が終わった1945年ハンガリー国民芸術会議の議長となり、1962年にはハンガリー人民共和国の勲位を受けました。

コダーイはその他に国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長の職につきます。

1956年のハンガリー動乱では大統領候補に推されました。

1958年に妻エンマが亡くなります。

翌年12月には当時19歳でリスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタと再婚しました。

その後、1960年から66年にかけては毎年、海外に長期旅行し、様々な講演や会議への出席をこなしました。

コダーイは1967年に亡くなり、ブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬されました。84歳没。

「山の夜」は女性合唱のために作曲されました。



おばあさんのメヌエット

2024-10-02 21:02:00 | 国民楽派
火曜日は、朝から母の検診。
大動脈弁を手術して3年目。
心臓外科の先生に「経過は良好!今日で卒業しましょう。後は内科の先生に見ていただきましょう。」と満面の笑みで言われました。
母も嬉しそう。

「ありがとうございました。」
ということで、心臓外科の方は卒業しました。

イオン久御山の王将でお昼を食べて、帰りました…ということになるわけがなく。
「服を見たい。」
と言うのでいつものブティックへ。
すると、びっくり!
そこにあった4.5軒のお店が全部無くなって無印良品になっていました。

すべて無印で揃えられます。
私はフリーズドライのスープを、母はカーディガンとセーターのアンサンブルを買いました。
生鮮食料品を買って、実家まで送っていると、栗東の長男から母のスマホに電話。

「今日は早く仕事終わったから、行ってもいい?」
「いいよ!何時頃?」
「6時。」
「明日は休み?」
「違う。」
なんと、2時間かけて夕食を食べに帰ってくるのです。
ありがたいおばあちゃんです。
母は早くから出る幕がありません。
「ありがとう〜。」
と、母に言うしかありません。

エドヴァルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルデン生まれ、ノルウェー ベルデン没

の、ピアノ曲集「抒情小曲集」は


1867年24歳から1903年60歳にかけて作曲されました。
全66曲。6~8曲ごとにまとめられて出版され、全10集からなります。
第1集はコペンハーゲンの出版社から、第2集以降はドイツのペータースから出版されました。

「蝶々」(作品43-1)、「春に寄す」(作品43-6)、「トロルドハウゲンの婚礼の日」(作品65-6)などは特に有名です。

第9集は1898年55歳ら1899年56歳初めに書かれ、同年に出版されました。

1867年に結婚した従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)

への愛を表現した「あなたのそばに」や、1歳で亡くした子どもへの「ゆりかごの歌」などが収められています。

「おばあさんのメヌエット」作曲の意図詳細は不明ですが、グリーグのなんとなくユーモラスで温かい眼差し、案外ピリッとしたところもあるおばあさんの姿が目に浮かびます。


抒情小曲集第9集
1.水夫の歌

2.おばあさんのメヌエット

3.あなたのそばに

4.山の夕べ

5.ゆりかごの歌

6.憂うつなワルツ

第9集 第2番「おばあさんのメヌエット」





300年の命マクロブロス事件

2024-09-21 22:39:00 | 国民楽派
ミヤコグサ。
病院の駐車場に咲いていました。

病棟の待合室で待っていると、目の前のエレベーターホールにベッドごと降ろされて来ました。
全身麻酔で前回は爆睡中でしたが、今回は少し目が覚めかかっているみたいで、頭上の手術着の先生と話すと薄めを開けたり、首を振ったりしました。
『よかった!大丈夫。』

先生も「無事、終わりました。」
と、言ってくれました。

まあ、簡単な手術だから…でも前回の失敗もあるから…。
とにかく無事終わってよかったです。
明日以降いつ帰っても良いそうです。

レオシュ ヤナーチェック(1854-1928年)オーストリア帝国モラヴィア辺境伯フクヴァルディ生まれ、チェコスロバキア オストラヴァ没

1923-25年の間に作曲したオペラ「マクロブロス事件」
ヤナーチェックは年下の既婚女性カミラ・シュテッスロヴァ

への熱狂的な偏愛から着想を得て書かれました。
第1幕
コレナティ法律事務所、プラハ、1922年

コレナティの書記官は、グレゴール対プルスの遺言検認訴訟がほぼ 1 世紀にわたって続いていることに気付きます。

コレナティは、裕福で貴族的なプルス家に対して中流階級のグレゴール。

アルバート グレゴールが訴訟について質問にやってきます。

書記官の娘クリスティーナは若いオペラ歌手で、リハーサルで見た有名な歌手エミリア マーティを褒め、「自分はエミリア マーティのようなアーティストにはなれない。」と認めます。

エミリア・マーティ

がグレゴール事件に興味を示して入って来たので、コレナティは彼女に事件の概要を説明します。

ジョセフ・フェルディナンド・プルス男爵は1827年に亡くなり、遺言書も嫡出子も残しませんでした。
男爵のいとこが財産を主張しましたが、アルバートの先祖フェルディナンド・グレゴールも、男爵が彼に財産を約束していたと主張しました。

各当事者は実際の遺言書を提出できません。
ここでエミリアが口を挟みます。
彼女は昔の出来事について異常なほど詳しく話し、「フェルディナンド・グレゴールはジョセフ ブルス男爵とオペラ歌手エリアン・マグレゴールの私生児です。」といいます。

コレナティは、遺言書がないので、この事件は男爵のいとこ側が有利のようだと言います。

エミリアは、「遺言状は実際に存在する。」と言い、「プルス邸の古い戸棚にその文書があるかもしれない。」と語ります。

コレナーティは調査に行き、アルバートはエミリアに、「もし財産を受け取れなければ無一文になって自殺する。」と言います。
アルバートはエミリアに夢中で、彼女に言い寄ります。
しかし、エミリアは無関心で冷たく彼を拒否します。
しかし、彼女は遺言書と一緒に見つかる文書の回収に協力してほしいと頼みます。

コレナティはヤロスラフ プルスと共に戻ってきます。
彼らはエミリアが言った場所に遺言書を見つけ、ヤロスラフは「フェルディナンド・グレゴールが男爵の私生児であることを証明できれば勝利だ。」とアルバートを祝福する。エミリアは「それを証明できる。」と言います。

第2幕
オペラハウスの空っぽの舞台

舞台係と掃除婦がエミリアの素晴らしい演技について話し合う。ヤロスラフ・プルスが息子ヤネクとクリスティーナを連れてエミリアを探しにやってきます。
クリスティーナはヤネクと交際中ですがヤネクはエミリアに夢中。
エミリアが入ってきますが、ヤネクや高価な花を持ってきたアルバートなど全員を拒絶します。

老いたハウク=シェンドルフ伯爵が入ってきて、「エミリアは半世紀前にアンダルシアで情事があったロマの女性、エウジェニア・モンテスだ。」と言います。

エミリアは伯爵に「エウジェニアは死んでいない。」と告げ、スペイン語で彼を愛称で呼び、キスを求めます。

ヤロスラフはエミリアがなぜ自分の家族に興味を持っているのか説明を求め、男爵の子どもの母親はエリーナ・マクロプロスと記録されていることを明かします。
エミリアは「エリーナは彼がラブレターを読んだエリアン・マクレガーと同一人物かもしれない。」とほのめかします。

「フェルディナンド・マクロプロスの子孫だけが財産を主張できる」とヤロスラフは告げます。

エミリアは遺言書と一緒に見つかった謎の文書を買い取ると申し出ますが、ヤロスラフは拒否して立ち去ります。

アルバートが戻ってきて再び愛を訴えますが、エミリアは眠ってしまいます。

エミリアは文書を取ってくるようにヤネクに頼みますが、これを耳にしたヤロスラフはヤネクに立ち去るように命じ、「エミリアが彼と一緒に夜を過ごすなら、文書を提供する。」といいます。

第3幕
翌朝のエミリアのホテルの部屋

エミリアとヤロスラフは一夜を共にします。エミリアの冷たさにがっかりしながらも、ヤロスラフは書類の入った封筒を彼女に渡します。
息子のヤネクがエミリアに夢中になり自殺したという知らせが届きます。

ヤロスラフは悲しむが、エミリアは無関心。
ヤロスラフが彼女の反応に怒りを表明する間もなく、ハウク=シェンドルフ伯爵が入ってきます。
ハウク=シェンドルフ伯爵は「妻と別れ、エミリアとスペインへ駆け落ちしたい。」と言います。

アルバート、コレナーティ、クリスティーナが医者を連れて入ってきて、ハウク=シェンドルフ伯爵を連れ去ります。

コレナーティはエミリアの筆跡がエリアン・マグレガーの筆跡と一致していることに気づき、偽造を疑います。
彼女は「朝食を食べたら全てを明らかにする。」と言います。

残りの一行は彼女の書類や所持品を捜索し始める。捜索隊は多くの書類や記念品を発見するが、それらすべてに「EM」というイニシャルがついた名前が記されています。

ヤロスラフは、「フェルディナンドの出生証明書にあるエリーナ・マクロプロスの筆跡もエミリアの筆跡と一致している。」と言います。

エミリアは真実を話すことにします。

彼女はエリーナ・マクロプロス、



1575年生まれ、皇帝ルドルフ2世の宮廷錬金術師ヒエロニムス・マクロプロスの娘です。
ヒエロニムスは皇帝に、寿命を延ばす薬を作るよう命じられます。
薬が完成すると、皇帝は錬金術師に、まず娘に試すよう命じます。
彼女は昏睡状態に陥り、ヒエロニムスは刑務所に送られました。

1週間後、エリーナは目を覚まし、処方箋を持って逃げ出しました。
彼女はそれ以来3世紀にわたって放浪生活を送り、史上最高の歌手の一人となりました。

彼女は長生きであることを隠すために、「ユージニア・モンテス」、「エカテリーナ・ムイシュキン」、「エリアン・マクレガー」など、さまざまな名前を名乗りました。 

自分の秘密をジョセフ男爵に打ち明け、その調合法を彼に伝えました。
男爵はそれを息子への遺言に添付しました。しかし、その文書は男爵の死後、彼の書類の中に紛れ込んでしまいました。

薬の効き目がついに切れるエリーナは、さらに 300 年の命を得るための処方箋を望んでいました。

彼女の顔に老化の兆候が現れると、最初は彼女の話を信じなかった他の人々も、次第に彼女の話を信じ、哀れみを感じるようになります。

エリーナは、永遠の若さが疲れ果てた無関心を招いたことに気づき、喜びと目的意識は生まれつき短い人生から生まれることを理解して、自然に死を迎えることを決意します。

驚く見物人の目の前で急速に老いていくエリーナは、クリスティーナに処方箋を提供し、彼女自身が偉大な芸術家になるように言います。

しかし、クリスティーナは羊皮紙をろうそくの炎で燃やします。
エリーナはギリシャ語で主の祈りの最初の言葉を暗唱しながら最後の眠りにつきます。




こどものために

2024-08-21 21:06:00 | 国民楽派
亀メロンパン。時々夫がお土産を買って帰りますが、実質重視か、おチャラカ系が多く、かわいいものは珍しい。
珍しかったので写真を撮りました。


月曜は2時間ほど赤ちゃんのサポート。
お盆休みの間に、一回り大きくなって、寝返りまでもう少しになっていました。
目も合うようになって、「おすわりどっせ、いすどっせ…」と歌うとにた〜っと笑うようになりました。
かわいい💖

今日はダブルヘッダーで
夕方は5歳児のサポートでした。
私が幼稚園に迎えに行くと
「やった、飛行機!」とガッツポーズをしました。
2週間前の遊びをよく覚えていました。
なんかうれしい。

ベラ バルトーク(1881-1945年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ナジセントミクローシュ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン没

1907年バルトーク
子どもや初心者を対象としたピアノ曲集「子どものために」は、ブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲しました。

旋律にはハンガリーとスロバキアの民謡がほぼそのままの形で使われていて、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としてもバルトークの最初の大規模な曲集です。

バルトークは自分の足で歩いてハンガリー民謡を集めています。
その中の310曲を編曲しています。

1910年頃のオーストリア=ハンガリー帝国の民族分布。緑色がマジャル人(ハンガリー人)、ハンガリー北方の茶色がスロバキア人、ハンガリー東方のオレンジ色がルーマニア人

民謡の採集は全土に渡り、2000曲ほど採譜しています。

スロバキアの農村で民謡を録音するバルトーク(左から4人目)(1907年)
1908年コダーイと共著の歌とピアノのための民謡編曲集『20のハンガリー民謡(ハンガリー語版)』を作成し、その年の12月にブダペストのロジュニャイ・カーロイ社(Rozsnyai Károly、以下「ロジュニャイ社」)から出版しました。

しかし、この曲集はほとんど反響が無く、バルトークは

「『20のハンガリー民謡』それは幅広い層の人々に、探し当てた宝の一部分を紹介するために書いたのです。(略)しかしみんなは何のことだかわかりませんでした。長い間、反響もありませんでした。」と言っていたそうです。— セーケイ・ユーリア、『バルトーク物語』p.157

『20のハンガリー民謡』の失敗は、バルトークが大人達への「啓蒙」をあきらめ、将来の聴衆となる子供たちの耳を養うことに目を向ける契機となりました。

また、後年のバルトークは、

「ピアノを学習する子どもたちに、「民謡のもつ簡素で感傷的ではない美しさ」を知ってもらうために『子どものために』を作曲したと言っています。

『子供のために』の初版は1908年から1910年にかけて、まずハンガリー編が、次いでスロバキア編が作曲・出版されました。

作曲当時のバルトーク

第28番合唱曲「雄鶏を生かしておこう、生かしておこう」
第29番「おかあさん、ブーツが破れちゃった」 
第30番 「冷やかし歌」 
第31番 「星よ、星よ!恋人のもとへたどり着けますように、夜の道を照らしてください」
第32番 「白い豆の花」
第33番 未婚のまま歳を重ねた女性の、自嘲気味な開き直り(譜例・上)と、孤独(譜例・下)が表現されています。
第35番 兵役で任地へ赴く若者がブダの山から街を見下ろしながら恋人のことを想い、「これから僕は森の中にある兵舎に閉じ込められる」と前途を悲観する歌
第36番 「酔っぱらいのうた」 
第38番 「冬至の歌」
第42番 「豚飼いの踊り」「雄鶏を生かしておこう、生かしておこう」




実のなる頃のファンダンゴ

2024-07-25 21:06:00 | 国民楽派
裏庭で採れたトマト。
今年は、例年作っていたミニトマトではなく、中位の品種。

収穫時期が遅くてひび割れてしまいました。
でも、これが甘くて美味しかった!

暑くて、時々水をあげられなかったり…。
トマトは少し足りないくらいがいいのかも。
水をやりすぎると水臭くなってしまいます。
今回は怠惰な私にいい加減だったようです。

次々と実をつけつつあります。

マヌエル デ ファリャ (1876~1946年) スペイン カディス生まれ、アルゼンチン アルタ・グラシア没
の、バレエ音楽〈三角帽子〉は
通りすがりに、粉屋の女房を見染めた代官が、横恋慕を押し通そうとしたあげく、しっかり者の女房と粉屋に巧みにかわされて大恥をかくというお話しです。

トマト…ではありませんが、ブドウという楽章が、あります。

〔女房はブドウの房を差し出したりして適当に御機嫌をとりながら、闘牛士よろしく、あせる代官をじらし、翻弄します。

あげくのはてには足をすべらせて倒れた代官の埃りを払うふりをして、粉屋といっしょに代官をさんざん叩きます。
さすがに、代官も、からかわれているのに気付いて怒りますが、身から出た錆なので、仕方なく退散。

そこへ巡査が現れます。

夫婦は少しの間、神妙さを装いますが、巡査が立ち去ると再びファンタンゴを踊り出します。

ファンダンゴ(Fandango)はスペイン起源のダンス、またはそれとともに歌われる歌あるいは音楽。

特にフラメンコで男女ペアで踊るダンスが有名です。 

18世紀のカスティーリャのファンダンゴ・ダンサー

元来はギターと手拍子またはカスタネットで伴奏する活気あふれるダンスで、英語などではその様子から派生した「馬鹿騒ぎ」の意味でも使われます。
元は6/8拍子で、その後3/8拍子、3/4拍子にもなりました。
この動画は、スペイン国立バレエ団によるより伝統的なフラメンコに近づけた演出、編曲による舞台です。










花も咲かない世界

2024-05-15 21:00:00 | 国民楽派
今日は子育てサロンでした。
次男が骨折ったまま働きに出てるので車がありません。
うちから会館まで1.5キロ、久しぶりに歩きました。
子どもたちと遊んだあと歩いて帰ると、お馴染の景色もいろいろ変化があることに気づきます。

ここは人が住んでいましたが、廃屋になっていました。

猫さんだけがのび〜っとしていました。カメラを向けたらそっぽ向いて行ってしまいました。

この校区は空き家が増え、高齢化率高いです。
経済もインフラもイノベーションも人口がある程度維持できてこそ。
子どもがいないとお金も使わない。
引越しもないので、不動産も動かない。レジャーにもいかない。
国力も下がり、円も安くなる。
お花畑で何が悪いのでしょう。
花も咲かない不毛の国に誰が育つでしょうか?
本当は経済の問題なんて無くても、子ども達の声や笑顔があふれる世界がいいです。世界を暴力や恐怖や不安で満たさないで。

モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)ロシア帝国カレヴォ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1865年ムソルグスキー
ムソルグスキーは魔術と悪魔の幻想というテーマに早くから興味を持っていました。
1858 年19歳に遡り、彼はN.V. ゴーゴリ

1809-1852年ゴーゴリ
の「イワン クパーラ前夜」

  
ディカーニカ近郷夜話 ロシア民話を下にしたゴーゴリの創作集で「イワンクバーラ前夜」が収められています。
を基にしたオペラの制作を計画していました。

2年後、彼はメングデンの戯曲「魔女」に基づいて作曲をデザインしました。

そのプロットは主要な特徴においてすでに「はげ山の一夜」のほぼ完成版でした。

1860年9月26日付のM・A・バラキレフへの手紙の中で、ムソルグスキーは台本の主な部分を挙げています。

「…魔女たちの安息日、魔術師たちの個々のエピソード、このくだらないものたちの厳粛な行進、フィナーレ…」

1866 年の春、出版されたばかりのM. S. ホチンスキーの魔術に関する本にインスピレーションを受けて、作曲家はバラキレフにこう告げました。

「私は魔女のスケッチを始めました、...悪魔の列車はまだ私を満足させません。」

そして4か月後、
「魔女について話したいと思っています。」

イメージは数年かけて徐々に成熟していきました。

6月23日にスコアを完成させたムソルグスキーは、リムスキー=コルサコフと喜びを分かち合い、ミュージカル映画のプログラムとそのコンセプトの特徴を詳細に説明しました。

「構成の計画と形式は非常に独創的です...散りばめられたバリエーションの形式は、このような混乱に最も適していると思います。作品の全体的な特徴は熱く、長さはなく、つながりは緊密です。」

1867年7月12日付のV.V.ニコルスキーへの手紙の中で、ムソルグスキーは次のように書いています。

「 ...私の故郷の畑に注ぎ込まれ、ロシアのパンによって栄養を与えられたオリジナルのロシアの作品です。」

聖ヨハネ祭(洗礼者ヨハネの誕生日)の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグ(黒い神」夜や闇、破壊と死、冥府の神・悪神とも言われています。)


が現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」というロシアの民話に基づいています。