音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

甘いお菓子とハプスブルクの外交官

2023-03-31 20:57:00 | バロック
矢場とんの豚まん。
3月は夫の出張が復活。
お土産も復活!

銀座ねんりんやのバウムクーヘン。
渡辺製菓仙台のまころん。


三方六のバウムクーヘン

岩手大船渡のかもめの卵。

今月もお仕事ご苦労様でした。
そして、ごちそう様でした!

ウィーンのお土産と言えば、甘いお菓子。
エステルハーツィ トルテ。

コニャックやバニラで味付けしたバタークリームをアーモンドのメレンゲ(マカロン生地)で挟んで作ります。トルテはフォンダン(砂糖と水を混ぜ合わせたもの。ゼラチンやグリセリンが使用されることもある)のグレーズで覆われ、特徴的なチョコレートのしまもようで装飾がされています。

エステルハージ シュニッテはエステルハージトルテの変種だそうです。

パウル アントン エステルハージ(1786ー1866年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウイーン生まれ、バイエルン王国レーゲンスブルク没


ハンガリーの外交官に因んでその名がついたと言われています。

エステルハージ家と言えば、ハイドンパトロンとして名を残しています。

彼の父ミクローシュ エステルハージ(1765ー1833年)はクラリネットを嗜み、ナポレオン戦争の時にハプスブルク家皇帝フランツ2世の救出に尽力しました。義勇軍を編成し、皇帝を守る手助けもしていました。

彼はハイドンに6つのミサ曲を注文しています。
ベートーベンのミサ曲も注文していて、初演の時、ミクローシュはこれを酷評したためにベートーベンは激怒して彼の邸宅から去りました。

ミクローシユの息子のパウル アントンは外交官とメッテルニヒ政権下での彼の部下も務めました。

1809年にハイドンは亡くなります。

この年、時の当主ニクラウス2世はナポレオン1世からハンガリー王位を提供されましたが、拒否しハプスブルク家を指示しました。

その後、エステルハージ家は財政難に陥り、1871年には美術品もハンガリーの国有財産となります。

パウル アントンも晩年は貧しかったと言われています。

ハイドンの交響曲第94番「驚愕」






小鳥が活躍!

2023-03-30 21:01:00 | 近代
うちの裏庭のすみれが満開。

かわいいのもやってきて


ヤシの皮を盗んで行きます。
たぶん、どこかでメジロの巣になります。
カラスは毎年来て、ヤシの鉢を丸裸にするので、ヤシの鉢は諦めてプラの鉢を入れて周りにヤシを詰めてみました。
すると、今度は取りやすいのか、小さなメジロまでやってきてせっせと巣造りの準備。仕方ないなぁ…!

セルゲイ セルゲィーヴィチ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ(現ウクライナ)生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

1918年
1918年モスクワでの仕事が革命で中に浮いた状態になり、アメリカ合衆国に行く決意をします。

教育人民委員のアナトリー ルナチャルスキーに許可を得にいくと「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい」という言葉とともに許されます。

アメリカでは、公演は成功せず、ロシアには帰りたくないとパリでバレエ「リュス」の仕事をディアギレフと行います。

これが成功し、ロシア国内でプロコフィエフの評価が上がります。
1923年スペイン人歌手のリーナ(カロリナ コディナ) とヴァイマル共和国で結婚します。

ロシアとパリを行き来する生活のあとの1936年ナターリャ サーツの中央児童劇場のために「ピーターと狼」が作曲されます。
サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲 sweet Song とチャッターボックスを書くように説得し、これらをザ リトル ピッグスを加えて、最終的に3つの子供の歌作品68として出版しました。

1936年プロコフィエフと二人の息子、スヴャスラフ、オレグ、妻のリーナ
1938年保養地で23歳の共産党幹部の娘ミーラ メンデリンが47歳のプロコフィエフに一目惚れし、以来作品を英訳したり、リブレット(代本)を見つける手助けをしたりして同行するようになります。
やがてリーナが知ることになります。

リーナの言い分
最初に出会った後にあなたが何を書いたか思い出してください。ほとんどあなたが[メンデリソンとその家族を]選んだのではなく、彼らの方があなたを「選んだ」 - どこで?ある保養地で - 砂粒ではない、[セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ]この国を率いる作曲家、家族的な雰囲気を纏う有名人、2倍の歳をとっている。「きっとあなたは『一目惚れ』というだろう - 誰がそれを信じる?」キスロヴォツクでは彼女がどこにいてもあなたを追っていたという事実に対し、十分な目撃情報があるのです」

1945年プロコフィエフは17歳のオレグに離婚届けを届けさせようとしますが、母の幸福を思い、彼は断ります。

1947年ソビエト政府はリーナとの婚姻はヴァイマル共和国で行われ、ソビエト政府への手続きをされていないということで認められず。

1948年ミーラと結婚します。

一方、裁判の5日後、リーナはスペインの母に送金しようとしたことをスパイと告発され、20年の重労働の判決が下りました。
その後8年で、釈放されスペインに帰っています。

プロコフィエフの始めの家族のことを考えるともやもやします。
アメリカが大恐慌に陥り、仕事が無くなり、1935年ソ連に帰ることにしますが、この時リーナは引き止めています。ストラヴィンスキーから作品の検閲があるので帰国するのはやめたほうが良いとアドバイスされていました。がプロコフィエフは聞きませんでした。

交響的物語「ピーターとオオカミ」作品64は、ミーナと子どもたちと家族でいた最後の日々の作品です。

おじいさんとピオネール(ソビエト共産主義少年団)の少年ピーターが、アヒルや、小鳥、猫と森の牧場に住んでいます。

ある日、狼が現れ、猫は逃げ、アヒルは頭から飲まれてしまいます。

ピーターは小鳥と相談し、紐の一方を小鳥が咥えて飛び、狼のしっぽを捉え、ピーターが一方の端を木にくくりつけます。

そこへ、狩人たちが現れ、狼を捕まえ、動物園への勝利の行進を始めます。

小鳥 フルート
アヒル オーボエ
猫 クラリネット
おじいさん ファゴット 
狼  3本のフレンチホルン
猟師 木管楽器 トランペット ティンパニ、バスドラム 
ピーター 弦楽合奏

短い人形アニメ版みつけました。




ベートーヴェンの「春」

2023-03-29 21:18:00 | 古典
月曜は渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル練習でした。

今日から、6月の発表会に向けてバスフルート、アルトフルートを入れた五重奏でアンダーソンの「ブルー・タンゴ」の練習と、「神戸エスカルとみなさん「田園」も練習しませんか?」と榎田先生のお誘い。

フルートオーケストラ版ベートーヴェンの「田園」を演奏することになりました。

「低音が厚い方がいいな。」と言われるので「私、バスフルート吹きたい!」と、言ってしまいました。
前からバスフルートを吹いている田中さん、アルトフルートの高橋さん。
高橋さんがバスフルートを持っているそうで借していただくことになりました。
廣阪さんはアルトフルートを持っているので、そのままお願い。
今川さんは2ndフルートに。

さて大阪メンバーだけで「田園」初見練習。
バスフルートはまだ来ていないので、コンサートフルートで、低音。
オクターブ違いなので読みやすいです。

驚きは、榎田先生、今日持参のコンサートフルート!
ルーダル カルテの円錐管。

たぶん1800年代のフルートに、象牙の頭部管を作ってもらって使っているそうです。
「爆音がするんだけどね。もう禁制品だから高いよ。」
「象さんは可哀想なんだけどね。なんとかならねえのかなぁ…。」と榎田先生。

そうでした。お琴の柱や爪、三味線のバチも象牙で、もうずっと前から国内にあるものを回しているだけで高いと母も愚痴っていました。

しかし、この象牙+ルーダル カルテが爆音!

これで1stを吹いてくださったら、音量も大きくぎゅっとしまったいい音!

後で試奏させてもらいました。
音が集まる感じで吹きやすい、そして
木管らしくやさしい音でした。

ルートヴィヒ フォン ベートーヴェン(1770ー1827年)新星ローマ帝国ケルン選定候領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


1803年ベートーヴェン
1792年ウィーンに移ったベートーベンは人気が出て多くの貴族から演奏の招待を受けるようになります。ほとんどを無視していますが.後援者も得ています。

そのうちの1人カール リヒノフスキー侯
からイタリアの弦楽器一式

第一バイオリンニコロアマティの門下生1700年
第2バイオリンおそらく CF ランドルフィ18世紀
ビオラ ヨハン アントン ゲーラー18世紀後半



チェロ ニコラ アマティの門下生おそらくグァルネリ17世紀 (ボンのベートーヴェンハウス)

と600フローリン(貴族の秘書、執事、教師、役人の年収くらい)の年金をもらっています。また、彼の所有する家に下宿しています。

その頃父ヨハン

が亡くなりますが葬儀のためにボンに帰ることもありませんでした。

ハイドン

のレッスンを受けるためにウィーンに来ましたが、ハイドンは多忙でレッスンは受けられず。しかし、ベートーベンの人気は上がりつつありました。

1796年には同世代で最も評価される作曲家となっています。
プラハ、ドレスデン、ライプティヒ、ベルリンを旅行し、6ヶ月に及ぶ演奏会を行いました。

20代半ばより持病の難聴が悪化し、28歳には最高度難聴者となっています。

絶望から1802年(32歳)にはハイリゲンシュタットの遺書


を書き、自殺も考えました。

「私の脇にいる人が遠くの横笛フレーテの音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう」
「たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。…」
「私の覚悟はできている。――二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間(フィロゾーフ)になることは容易ではない。」

この前1800-1801年(30歳ー31歳)に書かれたのが「ヴァイオリン ソナタ第5番」です。

ベートーヴェンがどのような想いでこの曲を書いたのかわかりません。
しかしそののびやかな幸福感あふれる曲想から、「春」「スプリング ソナタ」と呼ばれています。






季節の空気

2023-03-28 21:07:00 | バロック
桜が満開でした。
雨が降って、花粉症は一休み。
この時節は雨が恋しいです。


れんげも咲いて、春の気分満載。

母はチューリップを飾っていました。
きれいです!

チューリップは、トルコのアナトリア地方原産でトプカプ宮殿や、モスクのタイルに描かれています。



トルコからヨーロッパに入ったのは16世紀。
オスマン帝国のオーストリア大使、オージェ ギスラン ブスベック
によって伝わります。

この時ターバン(チュルバン)と誤って伝わったためにチューリップと呼ばれるようになりました。

ブスベックの友人クルシウス


がライデン植物園


に持ち込み栽培を始めると評判になり、盗難騒ぎまで起き、植物園での栽培は中止しましたが、チューリップはヨーロッパ中に広がりました。

17世紀の初めにはチューリップはオランダでデリヴァティヴ取引きの起源になりました。

1602年証券取引所
初めは植物愛好家の取引きでしたが、投機の対象になり、珍しい品種のチューリップの球根が高値で取引されるようになり、チューリップ バブルが起きました。

1637年チューリップの価格が暴落し、チューリップ バブルは終焉しました。

ジェームズ オズワルド(1710-1769年)スコットランド クレイル生まれ、ハートフォードシャー没

ジョージ3世


の室内作曲家に任命されました。

「季節の空気」は96曲になる曲集で、異なる花や樹木の名前がつけられています。
ヴァイオリン、フルート、オーボエ、チェロで演奏できます。
その中の一曲が「チューリップの行進」です。





チューバの歴史

2023-03-27 21:00:00 | 楽器
日曜日はドルチェ楽器のアカデミーの発表会でした。

ペリルーのバラードをピアノの坂田さんと演奏しました。
午前中京田辺の実家でレッスンしてから梅田へ、ぎりぎりで着替えて試奏部屋へ。
楽器屋さん主催だと施設の心配がないのでいいです。
控室と着替え部屋、試奏室もあります。
ホールは地下で、控室では小さいながら試奏もでき、大画面のモニターで演奏も聴けます。

私の前に演奏されていたのはチューバ。
ロドニー ニュートンのカプリチオ。いい演奏でした。

クラリネットやトランペットもいます。
聴けなかったけど。

ピアノはスタンウェイで坂田さん「弾き心地よかった~。」と言ってました。

ホールの響きも、よかったです。

ちょっとバタバタしたけれど気楽に発表できて私も気持ちよかった~!

お土産も頂きました。フルート拭き。

チューバはもともとラテン語で「管」という意味です。英語の「tube」と同じ意味です。ローマ時代に用いられていた楽器の名前です。旧約聖書にも現れるこの呼び名はいわゆるラッパを指すもので、管楽器の名称として使われていました。

それが、19世紀に入って登場した低音金管楽器の名称としても使われるようになりました。

古くはセルバン


と呼ばれる木製の有孔の楽器が使われており、この流れを組んだバソン リュス(ロシアンバスーン)、セルバン フォルビール


といったバスホルン、またはアップライト セルバンと呼ばれる木製のキー式の楽器が生み出されています。

18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、軍隊楽器を中心に木製の管楽器を金属で制作する試みがされ、ビューグルが誕生しました。

1813年ドイツでヴァルブ機構が開発され、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてヴァルブが取り入れられ始めました。

この動きはやがて低音金管楽器にも波及し、1817年にフランス製開発されたキー式の低音金管楽器オフィクレイド

がドイツに導入されると、既にヴァルブ式の楽器に慣れていたドイツの演奏者のためにヴァルブ機構を備えた低音金管楽器が開発されました。

その代表的なものが1829年に ウィーン の楽器製作者ヨーゼフ リードル(1788ー1837年)によって発表されたボンバルドンです。


ボンパルドンは両手で操作するオフィクレイドと異なり片手の3本のヴァルブで操作可能で複雑な運指を必要としませんでした。
これは管を C から F に延長することで達成されていましたが、使用音域はオフィクレイドと変わりませんでした。ボンバルドンはウィーンの軍楽隊とウィーン宮廷劇場の管弦楽団で採用され、1970年代まで使用されました。


このボンバルドン製の楽器に右手用の3本のヴァルブに左手で操作する2つのヴァルブを追加して、 F 管の最低音を使用できるようにしたのが、ベルリンのプロイセン軍楽隊長ヴィルヘルム ヴィープレヒト(1802-1872年)

とベルリンの楽器製造職人ヨハン ゴッドフリート モーリッツによるベルリン式のピストンヴァルブを採用した最初の実用的なチューバです。F 管バスチューバとされ、この楽器は1835年に特許が取得されています。



モーリツの開発したチューバは軍隊対応の楽器であったため、登場してしばらくはプロシアの国外に普及しませんでしたが、リヒャルト ワーグナーがチューバの低音を好んで、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」などでF 管バスチューバ

を活躍させたことにより、プロイセン国内ではオーケストラに取り入れられるようになりました。

1871年プロイセンがドイツ統一を達成すると1875年にはウィーンの管弦楽団がチューバを正式採用し、1876年バイロイト音楽祭でマイスタージンガーが演奏されました。

イギリスはオフィクレイドを19世紀末まで使用していましたが、ワーグナーのオペラの普及とともに徐々に姿を消し、20世紀になる頃にはほとんど見られなくなりました。

また、19世紀の中頃には他にシュドロフォンと呼ばれる低音金管楽器も存在していましたが、やがてこれらの名前はすたれ、チューバの名前が一般的になりました。

19世紀中頃にはF や D 字型などチューバの形状は様々でしたが、アドルフ サックス

によって一連のサクソクルンがまとめられ、この楽器に見られる長円型と次第に収束していきました。

最近では、低音域の豊かな音量を求め、全般的に大型化の傾向が見られます。

チューバは音域によってテナー、バス、コントラバスの3種類に分類されます。さらにチューバはピストン式やロータリー式に別れます。
テナーチューバはユーフォニアムと呼ばれています。
日本ではロータリー式をテナーチューバ、ピストン式をユーフォニアムと呼び習わしています。

また、ウインナーチューバ、フレンチチューバ、マーチングチューバなどの種類があります

ロドニー ニュートン(1945年ー)イギリスバーミンガム生まれ
バーミンガム音楽学校(現在ローヤルバーミンガム音楽院の名誉会員)音楽教育をうけます。

20年後にロンドンフィルムスクールで大学院教育を受けました。サフォード大学では作曲の修士号と博士号を取得しています。

1967年からオーケストラ奏者ティンパニ、パーカッションを演奏し、作曲もしらします。
BBC トレーニングオーケストラのメンバーで1974年にナショナルオペラのオーケストラに参加し、そこで11年間在籍し、最後の5年間はプリンシパルティンパニストを務めました。この期間に多くのジャンルで作曲し、ユナイテッドミュージックカプリシェアのパートタイムプロモーションマネージャーおよび編集者として音楽出版に関わりました。 

1985年フリーランスのティンパニストおよびパーカッションとして演奏を続けながら、映画やテレビ音楽の作曲、編曲、指揮に携わるようになりました。

英国公立音楽院客員講師も務めます。

1990年代にはミリタリーバンドに作曲家として参加し、バンドマガジンの特集編集者を9年間努めます。







樹脂フルートはフルートか?!

2023-03-26 21:00:00 | 楽器
今日は梅田ドルチェ楽器さんで伊藤公一先生のマスタークラスでした。

ミッチリ絞られて、帰ろうとしたら、次の練習生の方が、「ブログ見てますよ!」
恥ずかしい!うれしいけど…。

音楽を少しでも身近に感じてもらえると嬉しいです。
でも、専門的にお知りになりたい方は、本に当たったり、原典に当たったりして調べてくださいませませ。

もちろん自分としては、正確さを裏付けるためにできるだけ調べたりはしていますが…。
このブログはあくまで楽しい音楽への入口?サイドメニューとお考えください。間違っても直接引用などしないように😅🙏

今日はマスタークラスの後、ドルチェ楽器の

安川翔太さんにフルート3本紹介いただきました。

一本はGuoフルートの「グラナティッテテナー フルート」バスフルート

バスフルートと同じ音域を演奏できます。金属のバスではほぼ見ないH管。
樹脂でできているので軽いからできる技です。

音色は金属のフルートと変わりなくなってきましたが、音量は少し小さい気がしました。
でも優しい音色で楽しめる感じがしました。

古い楽器も2本試しました。
リブレというフランスの古い楽器ともう一本は「わかりません。」と翔太さん。

リブレはC♯キーに樹脂がついています。優しい音でレスポンスがとてもよかったです。
名無しの一本も可愛い音でした。
買わなくても、気持ち良くいつも試させてくださるので嬉しくてつい寄ってしまいます。

最近では樹脂フルートも各社出されています。
他にもNUBO


Tocco

Guo

軽量で子どもの教育用として考案されたそうですが、最近では特殊管も出されています。

昔の樹脂フルートからすると、ここ数年で格段の進化があったと思います。




亡き友に捧げた曲

2023-03-25 21:11:00 | 近代
うちのサンルームのいちごが満開!
しかし、この密植では実はならないかも。一株だけだったのだけれど、冬を越したらこんなことに…。
可愛いです。
いちごや、ワインにクラッシック音楽を聴かせて育てるといい味になるとか…。
ネットを見るとクラッシック音楽を聴かせたいちごやワインの販売情報が溢れています。
それに反して科学実験を行っていちごやワインには耳がありません。と結論づけている人がいたり…。

百家争鳴。

私は科学はわかりませんが、人間は音楽とともに生きてきて、特に何百年も歌い継がれたり、演奏されてきた音楽は何か意味があると思うのです。

音は微粒子の振動だとすると、耳のないいちごや発酵するワインにだって何かを促す効果があるような…。

そして人間は長く音楽を聴いて泣いたり笑ったりしてきたのは、生まれた時代や国籍、場所、言語が変わっても人間には何か不変な共感するものがある。その証明じゃないかと思うのです。

その共感で繋がれば戦争なんてできない。演奏するときいつもそのことを考えます。

モーリス ラヴェル(1875ー1937年)フランス共和国シヴール生まれ、フランス共和国パリ没

が作曲した「クープランの墓」は1914年から1917年にかけて作曲されたピアノ組曲です。


第1次大戦で戦死した知人たちへの思い出に捧げられているラベル最後のピアノ独奏曲です。

そして、1919年に4曲を抜粋した管弦楽版が作曲者自身により作られました。

サラエヴォの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者フェルディナンド大公が暗殺された事件を発端にして始まった第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに戦線布告すると、ロシアは総動員令を出します。対抗してドイツはロシアに対し宣戦布告すると、ロシアは三国協商を通じて同盟関係にあるフランスに西部で戦線を開くように要請しました。
1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れてドイツに戦線を起こしました。

世界中を巻き込んだ。この戦争は1919年パリ講和会議においてイギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカが会議を指導し、講和条約を敗戦国に押し付け終結しました。

ラベルは野戦病院の病院舎の運転手として従軍しましたが、1916年健康を害してパリに戻り、1917年除隊しました。

の頃、ラベルは母親を失い.大戦により多くの知人らを失いました。

フランソワ クープラン(1668ー1733年)フランスパリ生まれ、パリ没

は、フランスの偉大なバロック音楽の作曲家です。太陽王ルイ14世の宮廷音楽家で、「クラヴサン曲集」「クラヴサン奏法」など200曲以上の作品を残しています。
ラヴェルは特定のクープランの曲ではなく、フランス音楽への敬意を込め、古典的舞曲を使うことでフランスのために亡くなった友人への弔慰を表したと思われます。

プレリュード
ジャック シャルロ中尉(マ メール   ロワ)のピアノ独奏版の編曲者)に捧げられています。

フーガ
ジャン グルッピー少尉に捧げられています。ラベルは彼の母親にスペインの曲を捧げています。

フォルラーヌ
ガブリエル ドュリュック中尉(サン =ジャン=ド=リュズ出身のバスク画家)に捧げられています。フォルラーヌは北イタリアを起源とする古典的舞曲のことです。

リゴドン
ピエール & パスカルのゴーダン兄弟(ラベルの幼馴染)に捧げられています。

メヌエット
ジャン ドレフュス(ラベル除隊後の家主)に捧げられています。

トッカータ
初演者であるマルグリット ロン

の夫ジョゼフ ドゥ マリアーヴ大尉に捧げられています。

1919年
トッカータとフーガを除いた残り4曲は、ラベル自身によってオーケストレーションされています。


大バッハの大伯父ヨハン

2023-03-24 21:07:00 | バロック
雨の京都
お花見もしないうちに桜も散りそう。
冨久田先生のレッスン。
ペリルーのバラードを見てもらい、

先生お勧めのパン屋さんに寄りました。
今出川大宮のバス停を出町柳駅と反対に少し歩いた所。
「ここは、中で食べられるよ。」と、おっしゃっていた通り、椅子と机が並べてありました。

フランスパンにオレンジピールとはちみつが挟んであるパン。フランスパンが得意みたいです。他にもいろいろ挟んであるのがありました。
オレンジのタルトケーキは美味しかったです。
京都のパン屋さん、いいなあ!

バッハの先祖はドイツ中部のチューリンゲンに住み着いたのは1580年頃と言われています。その家系図によれば一番古いのは1550年頃に亡くなった初めのバッハはヨハン セバスチャンから数えると5代前、祖父のそのまた曽祖父です。

音楽の関わりがはっきりしてくるのはその一代後のファイト バッハからです。彼の本職はパン屋でツィターを弾くのが好きで、水車小屋で粉を引く際にツィターを爪弾きながら仕事をしていたと伝えられています。

この人は敬虔なルターの信者であったことがわかっていて、そのことでハンガリーを追われ、故郷のドイツに戻ってきたと言われています。

ヨハン セバスチャンが音楽的才能を示すとともに、敬虔なルター派のクリスチャンとしての生活を送る源流となりました。

セバスチャン バッハが書いた家系図を孫娘が写したものが残っています。それによると、ヨハン セバスチャン バッハの同世代のうち15名中11名が音楽に関する職業に従事しています。

遡って父親の世代に行くと9名全員。さらにその上の祖父より上の世代では6名全員。セバスチャンの子供の世代は23名中、21名が音楽に携わっています。

街音楽師、教会のオルガニスト、カントル、音楽教師、様々な楽器の奏者など多岐に渡っています。


ファイト バッハ(1578年以前)の息子はヨハンネス(1550ー1626年
その息子(ファイトの孫)3人いて、次男のクリストフ(1613ー1661年)が
3男ヨハン アンブロジウス(1645ー1695年)

彼はヨハン セバスチャン(1685ー1750年)の父親です。
ヨハン セバスチャン バッハ大バッハ

ヨハンネスまではパン屋も継いでいたのでヨハンは父親の焼いたパンを食べて育ったはず。

このヨハンネスの長男ヨハンは一族の音楽財産を非常に大切にし、それらを曲集としてまとめて保有していました。「古いバッハ家の資料集」(Altbachisches Archiv)と呼ばれるこの曲集に登場する作曲家のうち1番年長なのがヨハン バッハ(1604〜1673年です。

モテット「私たちの命は影のようなもの」を作曲しています。


6声の第一合唱と3声の第2合唱という構成で描かれています。
第2合唱には隠された(lantantis)という言葉がついています。
第一合唱とは離れた場所で恐らく聴衆から見えない所に配置されて演奏されたものと思われます。


国内で2本だけ

2023-03-23 21:08:00 | 楽器
21日のフランスしばりコンサートでシトールを演奏された方がいました。

シトールというのは、中世に演奏されていた楽器で誰も本物を見たことがありません。
聖母マリアの「カンティガ集」に描かれていたものがそのモデルです。

聖母マリアのカンティガ集はポルトガル中世ガリシア ポルトガル語で書かれた420曲からならなる頌歌(カンティガ)です。カスティリア王アルフォンソ10世(1221〜1284年)

の治世に成立しました。

中世の旋律集としては、最大のものの1つで全ての曲が聖母マリアに言及しているのが特徴です。10曲目ごとに賛美歌が挿入されています。

4冊の写本で伝えられています。
2冊はエスコリアル修道院、1冊はマドリードのスペイン国立図書館が所蔵し、一冊はフィレンツェ国立中央図書館に残っています。

エル  エスコリアル修道院のE写本は様々な楽器を奏でる2人の音楽家たちを描いたカラーのミニアチュールで彩られています。
 

ビエウラ
また、同修道院のt写本とフィレンチェ国立中央図書館所蔵本 f写本には物語的な挿絵


が豊富に掲載されています。

リュート
ただし、ここに書かれている樂譜の書き方のほとんどはまだ確立されておらず音楽の再現は試みられていますが少ないです。
シトール
ここに描かれているのがシトールです。
この絵をもとに楽器を再現したそうです。

ピックで、演奏します。
日本にはまだ2本しか入ってきていないそうです。その1本!
カンティガ集第1より「今、彼は私を見つけたいと思っています。」

聖母マリアのカンティガ集 42番、栄光ある乙女








フランスしばりのコンサート

2023-03-22 21:00:00 | コンサート
萩原天神の「いつもの処」で奏し合い会でした。
テーマは「フランス」

フランスの音楽家、フランスを描いた音楽、ゆかりがあればOKという奏し合い会でした。

私はクロード アシル ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン アン レー生まれ、フランス共和国パリ没


の1890年作曲の「ベルガマスク組曲」をヴィオラの金重さんとピアノの坂田さんと演奏。
フランス共和国1890年作曲の作品。

私と坂田さんでもう一曲、
アルベール ペリルー(1846ー1936年)の「バラード」、これはフランスパリ音楽院の卒業試験のために1903年作曲。タファネルに献呈されています。

廣坂さん、今川さんと私でジョセフ ボタン ド ボワモルティエ(1689-1755年)ロレーヌ デオンヴィル生まれ、ロワシー アン ブリ没

のフルートトリオ ソナタop7-1
1725年作曲されました。
バロック時代に活躍しました。
300曲以上の曲を作り、樂譜を売ることにより貴族に雇われずに自立した生活を送れた初めの作曲家だといわれています。

ボワモルティエの五本のフルートのための協奏曲op15の6番も演奏。
こちらは1727年の作品です。