音楽の喜び フルートとともに

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ボワモルティエ フルートトリオ

2022-02-28 22:54:14 | バロック
今日は京阪中之島線渡辺橋駅近くのサロン ド プリンシパルで榎田雅祥先生のアンサンブル体験に行ってきました。


コロナのせいか、参加者は私とAさんの2人。
神戸の方では、人数が多いそうです。

曲は3人出来るジョゼフ ボダン ド ボワモルティエ(1689-1755年)
ロレーヌ ティオンヴィル生まれ、ロレーヌ ロワシー アン ブリ没

フルートトリオ。
モテット作曲家のジョゼフ ヴァレット モンティニーに音楽教育を受けます。
1713年ベルピニャンに移り、王立専売公社でタバコ製造に携わります。
マリー ヴァレットと結婚。
彼女はモンティニーの親戚で父親はゆたかな金細工商人でした。

楽譜の出版活動を始めるとパリで評価されるようになります。
1724年パリにうつり、桁外れの作曲に励み、声楽、器楽、劇音楽を作り、中でも声楽曲だけで1747年までに100曲を出版しています。

声楽曲が人気を呼び、経済的支援者無しで財を成しました。

フルートのためにも多くの作品を書いています。
「自立というのは、助けてくれる人をたくさん持つということ」と安富歩さんが言われてましたが、本当にその通り。

この時代パトロンを持つか、貴族に雇われるのが一般的でした。
ボワモルティエは、たくさんの楽譜を買ってくれる人に支えられて、自立した生活を、送っていたのでした。

今日演奏したのは、トリオ・ソナタNo5op7 1725年以前パリでの作品です。
ロココ朝ルイ14世の時代の演奏スタイルは、アルマンドは早めの踊りの曲です。
16分音符は、イネガルで演奏しましょう。バロック時代のスイングです。
付点16分音符と32分音符で。

トリルは必ず上から。
なぜなら、バロックフルートはふぁみという運指は、下からはできない構造になっていました。
ふぁの音を少し長くアクセントをつけてからトリルをしていました。

ビブラートは、テンポ一拍108に3回。結構早めで行うのがフランス風。


「イネガルで演奏しているものは、ほとんど無いよ。」と榎田先生が言われたように見つけられませんでした。






キエフの大門

2022-02-27 21:15:22 | 国民楽派
JR二条城駅までSuicaのチャージに行ったついでに、嵐山まで行きました。
渡月橋の側を散策。
温かい日でカルガモが仲良く日向ぼっこ。




嵐電嵐山駅、足湯ができていました。

「キエフの大門」は、モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)


が、1874年に作曲したピアノ組曲「展覧会の絵」10曲のうちの10番目、最終曲です。

1870年頃、ヴィクトル ハルトマンとう建築家と出会います。

親交を結ぶも3年後、ハルトマンは、39歳で動脈瘤により急死します。

ムソルグスキーは衝撃を受け、ハルトマンの健康に気を配るなど「もっとなにか出来たのではないか?」と落ち込みます。

未亡人のために、友人たちがハルトマンの展覧会をサンクトペテルブルク美術アカデミーで開催します。

そこを訪れたムソルグスキーは、半年後「展覧会の絵」を完成させます。

「キエフの大門」はウクライナの首都キエフに1037年ヤロスラウ賢公が町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西に向かう入口に大門を建築しました。

キリスト教の町であることを見せるために受胎告知の教会が門の上に作られていたそうで「黄金の門」と呼ばれていたそうです。

1240年、モンゴル帝国の軍勢によって破壊されます。

再建されることなく放置されていたこの門に注目が集まったのは1832年ロフヴィーツィクィイが発掘調査を行い、史跡として保存しました。

その後、
1869年キエフ市が門を再建しようとコンペティションを開きます。
ハルトマンは絵を描き、そのコンペに応募しましたが、途中でコンペは中止されました。

1982年になって黄金の門は復元。
遺跡を覆うように建設されました。
「キエフの大門」は、ハルトマンの絵を見たムソルグスキーによって作曲されました。
私は展覧会の絵の最後はキエフの大門をくぐって新しい世界に臨む友への祝福の曲のような気がしています。

ハルトマン作キエフの大







キエフ劇場

2022-02-26 21:30:33 | 音楽
生徒さんからひなあられとひなだんごを伊予和紙のマットつきで頂きました。
以前作った千代紙のおひなさまとフェルトのマトリューシカ雛を飾りました。
子育てサロンでおかあさんたちと作ったものです。
また、集まって作れるようになれる日が来るかしら?

タラス シェフチェンコ ウクライナ国立歌劇場は1856年建設されました。

フェルディナンド バーガーは、多くの才能ある歌手、音楽家、指揮者を招いて新しい劇団を結成。

市議会は公演にあたって市立歌劇場を使用するように提案。
キエフ市立歌劇場と名づけられました。公演の初日は休日になり、アレクセイ ヴェルトフスキーのオペラ「アスコルドの墓」
がデビューでした。

1896年、この劇場はチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」を上演後火災で焼失。

1902年国際コンペティションが行なわれ、優勝者ヴィクトル シュレーダーの設計で再建されました。 

ウィーンのアール・ヌーヴォー風の建築で、舞台は当時最新の技術を用いられました。





ラフマニノフのオペラ「アレコ」リムスキー・コルサコフの「雪娘」などの初演、グリンカ、モーツァルト、ロッシー二などの古典の上演。
1934年にはウクライナの首都がキエフに移転。バレエ、合唱、オーケストラの拡大。
以来内外の傑出した芸術家の作品を上演し続けています。

この劇場を根拠にするキエフバレエ団は、ボリショイ、マリンスキーバレエ団とともに三大バレエ団として公演しています。



キエフバレエは古典の上演を主に行ってきましたが、新しい作品にも意欲的に取り組んでいます。

しかし、2.24で劇場は閉鎖。ホームページの更新も止まっています。

バレエ「雪の女王」は、アンデルセンの作品にチャイコフスキーの曲を使って、新しい世界を表現しています。
全編篇もYou Tubeで公開されています。


戦争と平和

2022-02-25 21:56:35 | ロマン派
近江富士が真正面に見えます。

セルゲイ セルゲーヴィチ プロコフィエフ(1891-1953年)

ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没。
ソンツォフカは現在ウクライナ、ドネツィク州ソンツォフカのことです。
貴族に雇われた農業技術者の父と農奴の母のもとに生まれ、領主の庇護で音楽教育を受けます。

帝政ロシアのサンクトペテルブルク音楽院

でグラズノフの後押しで、作曲、ピアノを学び、ピアニストとして名を上げます。
第一次世界大戦のときは、オルガンを学ぶことで徴兵を免れ、2月革命の騒乱の時は(今は音楽を必要としていない。)とアメリカ合衆国へ出国、ヨーロッパなどで活躍しました。

モスクワとパリを仕事で往復した後1936年モスクワに帰りました。

1941年独ソ戦が勃発。
モスクワの前まで攻め込まれましたが、西側連合国と共闘し、ナチスドイツを敗北させました。
このときソ連の死亡者は2000〜3000万人、ドイツは600〜1000万人民間人含む。
ソ連は第2次大戦の交戦国の中で最も多い死亡者を出しました。

プロコフィエフは、当時初めの妻リーナと喧嘩別れしていたものの、一緒にモスクワから避難しようと説得しています。
聞き入れられず、息子とリーナはモスクワに残ります。

プロコフィエフは避難先のコーカサスでレフ トルストイの「戦争と平和」をオペラにしています。

ナポレオンのロシア侵攻と独ソ戦を重ね合わたようです。

何度も書き直されました。
第1稿は、芸術問題委員会による審査で英雄的側面を強調するようにと歌を抒情的にするようにと言われ改訂しましたが、第2稿は演奏直前で指揮者が辞職、上演中止。

第3稿は1946年作品が大きすぎたため、2つに分けて上演する予定でした。第1部は大成功。1947年に105回上演されたものの、第2部はドレスリハーサルに進んだところで「歴史認識の誤り」のため上演中止になりました。

第4稿は検閲で問題になった第9場11場、エピグラフと第7場を削除。
1953年上演され西側で人気を博すも、完全版ではありませんでした。

第5稿で全ての削除部分を復活。新しい部分を加えて1959年ようやく完全版が上演されました

しかしすでにプロコフィエフは1953年3月5日亡くなっていました。
奇しくも検閲で彼を阻んたスターリンが亡くなったのも同じ日でした。





ナイチンゲール ドンジョン

2022-02-24 21:12:59 | 名曲
オンラインレッスンはトラブルでした。
Lineのビデオ通話を使っていますが、通信環境が悪く、うまく繋がりません。
やっと繋がったと思ったら遅くて、会話にならないどころか、画像も固まって動きません。
「どうしよう?」
思いきって画像を諦め、通話機能だけを使ってレッスンしました。
まあまあうまくいきました。

もう、機種変しないと限界かなぁ…。

今日のレッスン曲はヨハネス ドンジョン(1839-1912年)フランス
ナイティンゲール


1830年頃のパリにはフルートの名手が集まっていました。
パリ音楽院でトルゥーに師事し1856年卒業、パリオペラ座管弦楽団、パリ音楽院管弦楽団、パドルー管弦楽団でフルート奏者として活躍します。
1866年のパリ音楽院の管弦楽団は主席がアルテ、二番がタファネル、三番がドンジョンという豪華さでした。

1839年にパリ音楽院ではベーム式フルートを採用しないと決めたトルゥーの弟子ですが、卒業後はベーム式のルイロットを使っていたそうです。

ナイチンゲールは小夜啼鳥(サヨナキトリ)と言われている鳥で、声が美しく夜鳴き鶯、西洋のウグイスとも言います。

Nightingale は、古語英語で夜に歌うという意味です。

渡り鳥でヨーロッパ中央部からアフリカ南部に渡り越冬します。
フルートのナイチンゲールは、どうでしょう?


ダンテ神曲による交響曲

2022-02-23 21:45:45 | ロマン派
少しずつ春に近づいているけれど、まだ、遠く。
雪害が心配です。

フランツ リスト(1811-1886年)
オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没の

1855-1856年作曲の「ダンテ神曲による交響曲」
10歳でピアニストとして演奏を行っていたリストは、11歳でウィーン音楽院に入学、アントニオ サリエリに学び、翌年はパリ音楽院に入学しようとしましたが、外国人を理由に拒否されます。
アントン ライヒャに師事します。
15歳で父を亡くし、ピアノ教師として家計を支えました。

演奏すると、失神する女性がいてアイドルのような扱いを受けます。
マリー ダグー伯爵夫人と1835年から10年の同棲生活で三人の子どもをもうけます。
1847年マリーと別れたリストはカロリーネ ツー ザイン=ヴィドゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲しますが、複雑な財産問題もあって結婚できませんでした。
1848年ヴァイマル宮廷学長として招かれ、そこで作曲に専念します。

そこで作曲したのが「ダンテ交響曲」です。

ダンテ アリギエーリ(1265-1321年)

フィレンツェの詩人、哲学者の書いた「神曲」は、
9歳の時に出会って、18歳で恋い焦がれたベアトリーチェ
ロッセリーニのベアトリーチェ
詩篇をいくつか送りますが、結局大した進展もないまま、別れ、ベアトリーチェはその後銀行家と結婚し、24歳で亡くなります。
ダンテは彼女を天国にいてダンテを助ける永遠の淑女として「神曲」の中に書きます。

大きくは
古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに「地獄」
ボッティチェリの地獄


「煉獄」「天国」を巡るストーリーですが、リストはそれを三楽章仕立てで書くはずでしたが、ワーグナーに構想を手紙で知らせたところ、「天国の喜ばしさを音楽で表現するのは不可能だろう」と返信されて、天国を仰ぎ見つつ終わるという形になり二楽章になりました。



ギターとフルート合わせ

2022-02-22 21:41:54 | 近代
今日はギターの田郷祐樹さんと合わせ練習でした。

牧野駅まで来てもらって、

ケーキ頂きました。
紅茶を飲んで、バッハのフルートソナタBWV1035

びっしり合わせました。

家族分も…ありがとうございます。

「ギターとフルートのいい曲無いかなぁ?」と次の曲を探し中。
「ジュリアーニは古典とロマン派の間ですが、」
「ぼくはそれぐらいの曲好きです。あまり近代の曲はちょっと…。」

「ヴィラ=ロボスの曲なんかどうですか?」
「フルートとギターの曲とありますよ。」
「ヴィラ=ロボス好きです。」
「あ…。でも、あれは近代っぽいなぁ。」
「そんなのありますか。」
「はい、あります。」
ヘクトール ヴィラ=ロボス(1887-1953年)


ブラジル帝国リオデジャネイロ生没
は、リオデジャネイロ音楽院で学びますが、アカデミズム
に馴染まず、ブラジル民謡の収集をしたりしていました。
1923年からパリに留学アルトゥール ルーヴィンシュタインやエドガー ヴァーレーズに称賛されました。
1930年帰国するとブラジル民謡を取り入れた曲を発表
、国際的評価を得ました。

「花の分類」という、フルートとギターのための曲は、1935年作曲のブラジル風の曲想を近代奏法で表現した異色の作品です。





グラズノフの四季冬の情景

2022-02-21 21:58:16 | 近代
夕べ遅くから雪が降っていましたが、朝見ると積もっていました。
枚方市では今年初かも


わくわくして何枚も庭の写真を撮りました。

アレクサンドル グラズノフ(1899-1900年)

ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、フランス共和国パリ没
父は富裕な出版事業者(プーシキンの『エフゲニー オネーギン』の版元)で13歳で作曲し、ロシア五人組の一人バラキレフが15歳のグラズノフの作品をリムスキー=コルサコフに紹介し、彼の個人教授が始まりました。

1884年になるとミトロファン ベリャーエフ(1836-1904年)

ロシア帝国サンクトペテルブルク生没
が賛美者となり、西欧旅行に連れ出されヴァイマルでフランツ リストに引き合わされ、交響曲第1番を上演してもらっています。
その後も、ベリャーエフに音楽ホールを借りきって管弦楽曲を上演するなど、支援を受けます。

国際的に名声を博し、1890年代には交響曲、二つの弦楽四重奏曲、バレエ音楽『ライモンダ』、『四季』を完成、ペテルブルグ音楽院の教授になり国際的な名声も高まりました。

指揮者とのしての活動もあり、教授としては苦学生たちの暮らしにまで心を配り、時には巨額な収入を分け与え、ソ連政府に掛け合い、ユダヤ人音楽家をかくまい育てました。
ショスタコーヴィチも彼の庇護を受けて育ちました。
1917年ソ連がボリシェヴィキ体制になると、政府と学生たちの軋轢に悩むようになり、
1928年、ウィーンのシューベルト没後100周年記念行事に出席すると、死ぬまで帰りませんでした。

ヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに滞在しましたが、問われると亡命とは言わず、体調不良のせいだといいつづけたそうです。
1929年65歳で、10歳下のオリガ ニコライェヴナと結婚。連れ子のエレーナを養子にしました。

『四季』は1899年マリウス プティパの依頼で作曲しました。
1900年サンクトペテルブルクのエルミタージュ劇場で初演されました。
  1. 前奏曲
    1. 情景
    2. ヴァリアシオン:霜
    3. ヴァリアシオン:氷
    4. ヴァリアシオン:霰
    5. ヴァリアシオン:雪
    6. 終曲
    1. 情景
    2. バラの踊り
    3. 小鳥の踊り
    1. 情景
    2. 矢車菊とケシのワルツ
    3. 舟唄
    4. ヴァリアシオン:トウモロコシの精の踊り
    5. 終曲
    1. バッカナール
    2. 小さなアダージョ
    3. バッカスの礼賛
  2. アポテオーズ

冬の情景は本当に雪景色を思い起こさせます。


朧月夜

2022-02-20 21:39:48 | 名曲
滋賀の琵琶湖湖畔、なぎさ第一公園には、地域の人たちが守っている菜の花畑があります。
黄色いじゅうたん。

そんなに広くはないですが、保持のための協力金を箱に入れるだけでこの景色

そしてこの土手の向こうは

琵琶湖です。
対岸の白いものは雪の塊です。

朧月夜は1914年尋常小学校唱歌として採用されました。
作曲は
岡野禎一(1871-1941年)

鳥取県邑美郡古市村生まれ、東京没。
士族の息子ですが、早くに父を亡くし極貧の中に育ちます。
21歳の時に洗礼を受けキリスト教会の宣教師からオルガンを学びます。

東京音楽学校に入学、卒業すると教師になります。
故郷、春が来た、春の小川、紅葉、桃太郎、夕やけなど唱歌、各地の校歌を多く作曲しました。

詞は高野辰之(1876-1947年)

長野県水内郡永江村生まれ、
長野県下高井郡豊郷村没。
東京帝国大学でを学び、国文文学博士となります。
邦楽研究として東京音楽学校で研究。
唱歌の歌詞を委託され、岡野貞一とのコンビでたくさんの唱歌を書きました。

この歌詞、日本語がこのメロディと本当にあっていて美しいと思います。

朧月夜
  1. 菜の花畠に、入日薄れ、
    見わたす山の、霞ふかし。
    春風そよふく、空を見れば、
    夕月かかりて、にほひ淡し。
  2. 里わの火影ほかげも、森の色も、
    田中の小路をたどる人も、
    かはづのなくねも、かねの音も、
    さながら霞める 朧月夜。








ラクメ

2022-02-19 18:44:21 | 名曲
実家の隣の梅が満開になっていました。

きれいです。

「花の二重唱」はレオ ドリーブ(1836-1891年)

フランス王国サルト県サン ジェルマン デュ ヴァル生まれ、フランス共和国パリ没
のオペラ「ラクメ」の中で歌われます。

小説家ピエール ロティ(1850-1923年)


の自伝的小説「ロティの結婚」を元に書かれました。
ロティはフランス海軍士官のときに世界中を回っていて、ポリネシアでの体験にロマンスを混ぜて創作しました。

オペラ「ラクメ」は19世紀後半イギリスに支配されていたインドの話しで、バラモン教の僧侶の娘ラクメ

とイギリスの陸軍士官ジェラルド

の悲恋物語。
好奇心からバラモン教教会の庭に入り込みラクメを愛してしまったジェラルド。
僧侶の父は神聖なバラモン教を汚されたと復讐を誓います。

愛し合う二人。
ところがイギリス軍がやって来て、婚約者を思い出すジェラルド。
その様子を見て、絶望したラクメはチョウセンアサガオの葉を食べて、「神様へのお詫びは私がします。」と自殺します。
その中で歌われる花の二重唱は、人気があり、フルート二重奏としてもよく取り上げられます。