音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

今田聡美リサイタル

2024-04-30 21:00:00 | コンサート
4月29日は今田聡美さんのリサイタルてした。
ムラマツリサイタルホールでされました。

今田さんは伊藤公一セミナーで知り合ったセミナー仲間です。

素直で美しい音色は出会った頃から変わりません。
ピアノは造座千晴さん。

ゴーベールのロマンス。
一曲目というのに硬いところがなく、フレンチのキラキラした感じもあり素晴らしかった!

エラートの シンフォニッシユ カンツォーネ
コンクールの予選でよく使われる曲で、今田さんもこの曲で受けたことがあるそうです。
さすがによくこなれていて、素晴らしかったです。

今回はチェロ成川昭代さんも一緒です。

バッハのフルートソナタBWV1035は、ピアノもチェンバロに変えてチェロとの演奏でした。
優しい音色でフルートトラヴェルソのような感じに聞こえました。

ピアソラのタンゴエチュードから2曲。No.3No.4。
この優しい音色でどう演奏するのか?
興味がありましたが、どうしてなかなか、大人の雰囲気で、柔らかい良い意味で色気のあるピアソラでした。

タファネルのアンダンテ パストラルはゆっくりしたところはたっぷりと歌い、速いパッセージは丁寧で生き生きしてとても美しい演奏でした。

ムチンスキーは、今回のプログラムで一番現代に近い作曲家で、少し難解ですが、とてもお好きと言うことで、音色も近代に合わせて変化。
少し尖った感じで吹かれていて、幅広い表現力を感じました。

アンコールはチェロとピアノも出演して、ヴィヴァルディの「ごしきひわ」の第2楽章でした。最後にとっても癒やされました。

今回は曲を紹介したり、直接マイクで話しかけられるやり方でされました。
クラッシック音楽は、黙って出てきて黙って演奏して黙って帰るというスタイルが定番ですが、易しい解説などもあって、グッと客席と奏者の距離が近づいた感じでいいなと思いました。
話し方も親しみやすくて楽しかったです。

今田聡美さんのYouTubeチャンネル
さとみんチャンネル
肩のこらない楽しい曲を取り上げたり、アレンジ楽譜も売っています。

昨年3月のリサイタル最後の曲をアップされていました。

ベラ バルトーク(1881-1945年)ルーマニア スンニコラウ マレ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、音楽院を卒業してから後輩コダーイと共に各地の民謡や民族音楽を収集しその方面の研究に大きな足跡を残しています。

作品のなかにその素材を活用し、西欧的な音楽伝統に留まらない独自の音楽を築きました。

ポール アルマ編曲版は、彼が民族音楽を用いた一連のピアノ曲のなかで最も重要な曲集の一つである 「15のハンガリー農民歌」 を原曲としています。

ポール アルマ

(リスト音楽院で1920年から1924年にかけてバルトークの指導を受けたピアニスト、イムレ・ワイスハウス(1905 - 1987年)は、1933年以降はフランスに活動の拠点を移し「ポール・アルマ」の名前で現代音楽や、バルトークに影響された民俗音楽を基にした作品を書く作曲家としても活動しました。)による編曲は、原曲第6番のバラードを省略し、いくつかの曲でくり返しを付けたりフルート・パートに変奏させている他、曲の本質に触れる変更はしていません。

使用された原曲民謡(フルート版は6番は無い)
1.Rubato (Megkötöm lovamat - 私は馬を繋ぐ)

2.Andante (Kit virágot rózsám adott - 私のバラの花は誰に捧げたのか)

3.Poco rubato (Aj, meg kell a búzának érni -ああ、麦は熟したに違いない)

4.Andante (Kék nefelejcs ráhajlott a vállamra - 肩には青い忘れな草)

5.Scherzo. Allegro (Feleségem olyan tiszta - 私の妻はとても純粋です)

6.Ballade(Tema con variazioni). Andante - Poco adagio - Più andante - Maestoso (Angoli Borbála - アンゴリ・ボルバーラ)
ベーケーシュ県のヴェーステー(Vésztő)において収集された歌「アンゴリ・ボルバーラ(Angoli Borbála)」を変奏曲として扱いました。
歌詞の内容は、結婚前に恋人の子を身ごもった少女アンゴリ・ボルバーラが、それを恥とする母によって死に追いやられ、それを知らされた恋人も彼女を追って自殺するというもの。
バルトークは妻・マールタに宛てた手紙の一つにおいて特別な言及をしています。

「...7つのハンガリーの歌に和声を付け終えた。その中にはエクレシュ・ローザ(Ökrös Róza)の有名なアンゴリ・ボルバーラもある。是非、これを聞いて欲しい、というのも、こんなハンガリー語で、それに加えてアルフェルドのちょうど中心地で、そして更にそれに加えて、7/8の拍節で、本当の感動を聞く事ができるのだから...」(1917年の夏の終わりに。)

7.Allegro (Arra gyere, amőrre én - 私が行くところへ来てください)

8.Allegretto (Fölmentem a szilvafára - 梅の木に登った)

9.Allegretto (Erre kakas, erre tyúk - こっちの雄鶏、あっちの雌鶏)

10.L'istesso tempo(quasi trio) (Zöld erdőben a prücsök - コオロギの森)

11.Assai moderato (Nem vagy legény - あなたは独身じゃないから)

12.Allegretto (Beteg asszony, fáradt legény - 病める女、疲れる男)

13.Poco più vivo - Allegretto (Sári lovam a fakó - 私の馬サーリは色褪せた)

14.Allegro (Ësszegyűltek, ësszegyűltek az izsapi lányok - イズサップの女の子たちが、集まっている、集まっている)

15.Allegro 歌詞のない旋律。バグパイプによって演奏されました。




ピクルスの味

2024-04-29 21:27:00 | ロマン派
新緑の京都。
スカイラインがバッテリー上がってはいけないので、レッスンの後、母も誘って夫と次男と、私でドライブ。

実家は京田辺市、京都の南の端っこなので、そこから出発。

次男は脚が治ってないので、本当にドライブです。
八坂神社の前を通り抜けていきましたが、すごい人出。
どこにも停められずそのまま山へ
山道を行くと、ヤマツツジや野生の藤が満開でしたが、やはり停められない。
結局

八瀬花尻の土井のしば漬け本店。

しば漬けとお漬物を買って

裏山のせせらぎ

菜の花畑は紫蘇畑のお休み中のお仕事みたいです。

今日のお土産。キャベツ、紫蘇大根、生姜、玉ねぎのお玉はん。

お漬物というと、ヨーロッパではピクルス。

ジョアキーノ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領生まれ、フランス帝国パリ没

1836年、44歳の時にイタリア北部のボローニャで引退生活に入りました。
以降は亡くなるまで、料理の創作やレストランの経営を行うという生活を送っていました。

しかし、作曲活動から一切手を引いたわけではなく、毎週土曜日に自宅サロンで演奏会を催しては、ピアノ曲を中心とした自作を披露していました。

そういった作品を集めて、ロッシーニ自身が編纂したものが『老いの過ち』という曲集です。

ピアノ曲だけでなく、声楽曲、室内楽曲など様々な作品が集められています。

「老いの過ち」の中の1つ
第4巻「4つのデザートと4つの前菜」

第4集: Quatre mendiants 4つのデザート

1. No. 1. Les figues seches 干しイチジク(ただいま - こんにちは奥様)

2. No. 2. Les amandes アーモンド(真夜中の音 - こんにちは奥様)

3. No. 3. Les raisins 干しブドウ(私の小さなインコへ)

4. No. 4. Les noisettes ヘーゼルナッツ(私の愛するニニへ)


第4集: Quatre hors d'oeuvres 4つのオードブル

5. No. 1. Les radis ラディッシュ

6. No. 2. Les anchois アンチョビ: 主題と変奏

7. No. 3. Les cornichons ピクルス: 序章

8. No. 4. Le beurre バター: 主題と変奏


「4つのデザートと前菜」より

No3序奏 ピクルス






バスフルート欲しい!

2024-04-28 21:00:00 | 楽器
土曜日朝は梅田ドルチェ楽器で伊藤公一先生のレッスンでした。
先生のレッスンでは、基本的なことが、できていないことを気付かされます。
あたりまえなことあたりまえにできるようになりたいです。

レッスン後、ドルチェ楽器さんでバスフルートを吹かせていただきました。

サンキョウ、横バス。

重い。重厚感のあるフルート。
しかし、重すぎて一曲吹けないです。
銀製のマウスピース。
ベルトを、首にかけて支持棒をキャップに刺して使います。



これなら大丈夫。
しかし、100万超え。
それにサンキョウは、1ヶ月に一本しか作らないそうで今頼んで11月。

パールのバスフルートも試奏。

軽い。音色も軽い感じです。
これは待ち時間無しで買えます。
60万位、別売りの支持棒25000円
挟んで使うタイプです。

これは座って吹く時に使います。立っては使えません。

コタトの縦バスフルート

以前試させてもらいましたが、良く鳴ります。音もお気に入り、しかし!3年待ちで120万から、しかも時価なので、横バスも視野に入れようかな?

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
トッカータとフーガ ニ短調(ドイツ語:Toccata und Fuge in d-Moll)BWV 565は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲したオルガン曲で、数多いバッハのオルガン曲のなかでも特に知名度の高い作品のひとつです。

もともとはヴァイオリン用で、後にオルガン用に編曲されたという説もあり、復元を試みヴァイオリン独奏用に編曲した版(アンドリュー・マンゼら複数ある)による録音も存在しています。

バッハの自筆譜が現存せず、最も古い筆写譜が18世紀後半のものであること。

フーガの書法が異例であること。特に主題が単独で提示されるオルガンフーガ、および短調の変終止で終わるオルガンフーガはバッハの全生涯を通じて他に例がないことから偽作説が存在しています。

これをフルートカルテットリンクスがフルートで演奏しています。


リュートの時代

2024-04-27 21:00:00 | ルネッサンス
牧野生涯学習センターで月1回第11回聴き合い会を開催しています。
ワンコインで15分、誰でも出演できます。

今回は4月26日(土)13:00〜

古楽器のビウエラでマルコ ダル アクイラのリュートのためのリチェルカーレを演奏。
1500年代、リュートは楽器の王様でした。
ビウエラは主にイベリア半島で使われていてリュートは他の地方で使われていました。
が、今回はビウエラでリュートの曲を演奏されました。

ギター カーノのエル デリリオ、アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」

ヴィオラとピアノでグノーの「アヴェ・マリア」

リコーダー2本とギターでまさかの竹田の子守唄

フルートももちろん。
バッハ フルートソナタBWV1030

ほら貝
などなど…。

マルコ ダル アキーラ(1480 年頃 – 1538 年以降)

ポリフォニック・リチェルカーレ(多声の模倣的な対位法、メロディのある2つの声部の曲)と呼ばれる音楽形式で知られるヴェネツィアの リュート奏者および作曲家でした。

彼はアクイラ(イタリア中部)で生まれましたが、ヴェネツィアに住み、働いていました。

彼はヴェネツィア市内の貴族の邸宅でのコンサートで頻繁に演奏し、1505 年に『Tabullatura et rasone de meter ogni canto in liuto』(タブ譜とリュートの各曲の基準と理論)
を出版しました。

マグヌス ディエフォプリチャールによって作られたリュート、1604 年、クレムスミュンスター修道院。

1505 年 3 月 11 日、ダル アクイラはまた、あらゆるリュート曲をタブ譜にスコア化するために使用できるタブ譜

ミゲル・デ・フエンジャーナ著『オルフェニカ・リラ』 (1554年)の本に掲載されているビウエラの数値タブ譜の例。赤い数字(オリジナル)はボーカルパートを示します。(ダル アクイラのものは残されていません。)

の印刷方法を開発したとして助成金を受け取りました。

助成金を求める嘆願書の中で、他の印刷方法と他の方法で楽譜を作成した音楽の輸入の禁止、および侵害に対する罰金の一部の支払いも求めました。

しかし、彼の手法を実証した印刷は現存していません。

マルコ ダル アクイラのリチェルカーレ9番。






ピンクの世界

2024-04-26 21:00:00 | 近代
ボンザ マーガレット。
ピンクルージュ
ピンクかわいい。気づけばピンクの花がいっぱい!


マーガレット あずきちゃん。
フロックス…かな?


羽衣ジャスミンは、満開までもう少し。

いろいろなピンクの花盛り。

音に色を感じるというのは、よく言われていることです。
スクリャービンは音に色を感じて、それを下記のように言っていました。

C dur【ド】・・・赤、単純な
G dur【ソ】・・・オレンジ色の、赤みがかった黄色の、火のような
D dur【レ】・・・黄色い、太陽の
A dur【ラ】・・・緑、草色の
E dur【ミ】・・・緑がかった青、空色の
H dur【シ】・・・淡い青色の、空色の
Fis dur【ファ♯】・・・すみれ色に近い深い青
Des dur【レ♭】・・・すみれ色、純粋な
As dur【ラ♭】・・・ライラック色の、赤みがかった
Es dur【ミ♭】・・・青味がかった、鋼鉄色の、金属の
B dur【シ♭】・・・灰色の金属の、鉛色の
F dur【ファ】。。。赤い、深紅の

リムスキー=コルサコフはCdur白と言っていました。

色は個人差があって人によってまったく違うみたいです。

6歳までなら絶対音感は育てられるとして各社教育グッズを出しています。
鈴木楽器製作所のミュージックパッドの色

江口寿子さんの旗による絶対音感教育法。


江口さんによると、相対音感や音階、音を比較することを覚えると絶対音感はつかないので、その前に覚えると良いそうです。
音と色は記憶。と言うことなのでしょうか?

意味のないものに何かをイメージしてストーリーを作るということは子どもはよくやります。
私も子どもの頃、家の2階にお化けがいて、私1人の時にだけ出てくると思っていました。
それはただの思いだけでなく、本当に思えて、1人で絶対に2階に行けなかった…。

そのストーリーの1つが音と色の結びつきのように思えます。
その自分の中から湧き上がったイメージをすっ飛ばした絶対音感。
良いか悪いかはともかく、
ピンクはソシレ。
という世界を一回見てみたい気もします。

ソシレと言えばト長調。
いろいろありますが、ドビュッシーの「ピアノ三重奏」。

自筆譜が見つかったのは1982年,
チェロパートのみが残されていると考えられていました。ミシガン大学に遺贈されていた物が見つかりました。
然し最後の25小節は失われていて補筆されて演奏されています。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レ生まれ、フランス共和国パリ没

1884年マルセル・バシェによって描かれたドビュッシーの肖像画
1880年の夏、18歳になったドビュッシーは、チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人

の長期旅行にメック夫人の娘の音楽講師とピアニストとして同伴しました。

長期旅行では7月下旬にインターラーケン、8月にはアルカションを経由して、9月にメック夫人の別荘があるイタリアのフィレンツェに長期滞在していました。

ドビュッシーの仕事の中には、メック夫人とのピアノ連弾や、夫人が雇っていたポーランド人のヴァイオリニストでチャイコフスキーの弟子であるヴワディスワフ・パフルスキと作曲をすることも含まれていました。

他にも、チャイコフスキーの交響曲第4番を夫人と一緒に読譜したり、チャイコフスキーの『オルレアンの乙女』をピアノで読譜したりしました。

10月にチェリストのピョートル・ダニーリチェンコがメック夫人の家に加わった後に、ドビュッシーは11月まで滞在し、メック夫人によりトリオが結成されました。


メック夫人のために結成したトリオ。左から、ピョートル・ダニーリチェンコ(Vn)、ヴワディスワフ・パフルスキ(Vc)、クロード・ドビュッシー(P)《1880年》。

そしてそのために作曲されたのが「ピアノ三重奏」です。

ト長調、ピンク色が見えますか?










ピッコロデュオコンサート森本英希、藤原友紀

2024-04-25 21:02:00 | コンサート
4月23日の夜はアクアホールで森本英希さん、藤原友紀さんのピッコロデュオコンサートでした。

森本さんはアンサンブルリュネットなどの、活動で人気のフルーティスト。

藤原さんは若手期待の星。
伊藤公一フルートセミナーで出会ったセミナー仲間です。

お二人は安藤史子先生の門下と言うことで兄妹弟子共演企画でした。

ピッコロというと、吹奏楽やオーケストラで高音をビンビン吹いているイメージでこのコンサートも「超音波」と副題に入っていました。

しかし!!
お二人の二重奏はまったく違いました。
プログラム初めのヴィヴァルディ

の二本の「フルートのためのニ長調RV.533」は繊細で、優美。
レース編みのような美しさ。

友紀さんとピアノでルイージ ユーグ(1836-1913年)

の「幻想的ソナタ op100」は、フルートからのアレンジですが、超絶技巧をそう感じさせない演奏でした。

ドイナ ロタル(1951-)

のトンボは、従来のピッコロの演奏を一切封じられ、すべてホイッスルトーンで吹き切りました。
ロタルはルーマニアの人ですが、まるで節回しといい尺八のように感じました。

メルヴィン ラウフ Jr(1971- )アメリカ合衆国オタワ生まれ

「ナルキッソスのエコー」は、その名の通り、ナルキッソスとエコーのお話しを音楽にしたものですが、お二人のピッコロの中低音域を使い、追いかけ合うが捕まえられない。
なんとも言えない2人の悲劇を暗示する曲になっていました。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)


の平均律クラヴィーア曲集から「プレリュード」BWV862
平均律Wohltemperiertは、今のような使い方ではなく「いい湯加減」という意味であったと森本さんの紹介にあったように、柔らかで気持ちの良い演奏でした。

ロバート ビーザー(1954-)

の「思い出」はアメリカフルート協会からの委託作品ということで
1.Happy Face
2.Lily Monore
3.Y2K
4.Spain
5.Cindy Redux
6.Ground 0
と、ミニマルミュージック、民謡、2000年問題、スペインの歌、かつての自作のモチーフを入れた曲をバラエティ豊かに演奏され、最後のグラウンド0は、落涙もの美しさと深みでした。

そして森本さんのソロ
レオシュ ヤナーチェク(1854-1928年)オーストリア帝国モラヴィア生まれ、チェコスロバキア オストラヴァ没 

1924年作曲の「青い服の少年のための行進曲」JW7/9
ピッコロ、グロッケン、タンバリンとピアノのために作曲された曲でヤナーチェクの少年時代の聖歌隊での思い出を書いた曲です。
この曲が従来のピッコロのイメージかもしれません。
元気が良くて、跳ね飛んでいる感じでした。

最後はキャロル バーネット(1949-)
アイオワ州トゥビューク生まれ

の「二本のピッコロのための「伝説」」
「クーラウを連想させるものではなく、クーラウ好きが好きになれる曲」をと注文を受け書いたものです。
ポロネーズ、ワルツに続き、War danceで締めくくられます。
これも二人の掛け合いがおもしろい、楽しい曲でした。

藤原友紀さんの動画ありました。
アーロン コープランド(1900-1990年)アメリカ合衆国ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国ウェストチェスター州没

オペラ「テンダーランド」は
1952- 1954年にテレビのワークショップのために作られました。

舞台は1930年代のアメリカ中西部、春の収穫の時期、そして高校卒業の時期、農家の一家のお話です。

ローリーとベスは農家の姉妹で、長女ローリーは高校を卒業します。
農家の作業員のトップとマーティンが手伝いにやってきます。

卒業祝いのパーティでローリーとマーティンは恋に落ち、キスします。

おじいちゃんはこの恋に反対し、2人に出ていくように言います。

ローリーはマーティンと駆け落ちする決心をしますが、マーティンはトップに説得され、この家族を守るためにローリーに内緒で去ります。

残されたローリーは世界に飛び出して、自分の道を歩む決心をし、家族に別れを告げ、旅立ちます。
妹のベスは家族の最後の期待を背負って残されます。

コープランド作曲オペラ「テンダーランド」から「ローリーの歌」ピッコロバージョン 藤原友紀さんの演奏です。



雨が降る

2024-04-24 20:59:00 | 近代
火曜日朝は京都
今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。

雨の京都。
月1なのに雨率高いなぁ。
こってり絞られてプティメックでパン買って帰りました。
ピスタチオクリームのフランスパンが美味しかったです。
写真忘れたけど…。

ギヨーム・アポリネール(1880-1918年)
イタリア王国ローマ生まれ、フランス パリ没


図形詩とも呼ばれる「カリグラム」は、詩行を並べてある図形や絵を表わす方法で、文字を美しく書く(描く)カリグラフィー(書道を含む)と表意文字を意味するイデオグラムを組み合わせ「カリグラム」という言葉を生み出したのはアポリネールです。

彼はこのような表現によって「芸術、音楽、絵画、文学の統合」への一歩を踏み出しました。

没後の1918年に出版される『カリグラム』所収の詩「二等牽引砲兵」に含まれる5つのカリグラム、特に文字でエッフェル塔を描いたものが有名です。



このエッフェル塔は
« Salut monde dont je suis la langue éloquente que sa bouche ô Paris tire et tirera toujours aux allemands » という文章によって構成されています。

これはエッフェル塔が世界に語りかけるという想定で、「こんにちは、世界よ。私はその(世界の)雄弁な舌だ。その口であるパリは(おお、パリよ)現在もそして未来も、ドイツ人らに対して舌を出している(侮蔑している)のだ」という意味で、第一次大戦中に書かれました。

このカリグラムは、エッフェル塔をフランスの力の象徴として表現しています。

この詩集『カリグラム』は、詩の言葉が連なっているだけでなく、その文字が絵画のように配置されるという独特の表現がなされていて、文学と他ジャンルの芸術が融合したアート作品だといえます。

詩集「カリグラム」の中の「雨が降る」も同じく絵画のように表現されていて、言葉が窓に滴る水のように配置されています。

雨が降る
フランシス プーランク(1899ー1963年,)フランス 共和国パリ 生まれ、フランス パリ没

は1948年、この詩集に作曲しています。
かれは10代の頃からアポリネールの詩に傾倒していて、他にも19歳の時に「動物詩集」にも曲を書いています。

歌曲集 「カリグラム」
I.女スパイ
II.突然変異
III.南方へ
IV.雨が降る
V.追われる美女
VI.セミくらいには
VII.旅
Ⅷ.マズルカ

Ⅳ「雨が降る」
雨が降る 
女たちの声がまるで
思い出の中で
死んでしまったかのように

お前たちもまた 
素晴らしく降っている
私の人生の出会いたち
おお雨のしずくよ

そしてあの後足で立ち上がった
雲はいななき始める
耳に聞こえる町の全世界に
聞け 雨が降れば 
後悔と嫌悪が 
古い音楽に涙をこぼすのだ

聞け 束縛が切れ落ちるのを
お前を上と下で縛っていたものが


聖杯の周辺の物語

2024-04-23 22:19:00 | バロック
オランダカイウ属。
サトイモ科の属の一つ。サンテデスキア属ともいうそうです。
南アフリカ原産。
近所の庭で咲いていました。

カラー (calla) またはカラーリリー (calla lily) が最近では一般的になりました。

古くは「海芋」「海宇」(かいう)というそうです。

ギリシャ神話カロスが語源と書かれていましたが、元は取れませんでした。

カリスという美の女神はいましたが…。

こちらではないかな?
ゼウスから生まれたカリスは美と優雅を司る女神です。
1人ではなく、何人もいました。

『三美神』(アグライアー、エウプロシュネー、タレイア)、ラファエロ・サンティ/絵、1504-1505年頃、コンデ美術館所蔵
とか、

『プリマヴェーラ』(Primavera)細部、サンドロ・ボッティチェッリ/絵、1482-1485年頃、ウフィツィ美術館所蔵
こちらのお三人とか。
名前はわかりませんが、いろいろな三美神パターンがあるようです。
と、ここで調べていたらカリスに聖杯という意味があるそう。

晩餐のキリスト(16世紀)
ラテン語でCalix。



なんだかカラーの形が聖杯を思わせたりなんかしない?
立ち姿が美の女神という気もしますが…。

聖杯を求めて探索の旅に出るのはアーサー王の円卓の騎士の1人パルシヴァル。あるいはガラハッド、ガウェイン。

ヘンリー パーセル(1659-1695年)イングランド ロンドン生没

1691年に「アーサー王」というセミオペラをコヴェントガーデンのクィーンズ劇場で上演しています。

このオペラはアーサー王を借りて、チャールズ一世の王政復古、キリスト教、ゲルマン神話の魔法使いマーリンなどか入り混じった筋書きです。

大きくは
宿敵であるケントのサクソン王オズワルドによって誘拐された婚約者である盲目のコーンウォール王女エメリンを取り戻そうとするアーサーのお話になっています。

アーサー王より、終幕のシャコンヌ



信仰のアンリエット

2024-04-22 21:00:00 | 近代
日曜日は、ハープのリラックスコンサートでした。
日本ハープ協会関西支部の先生方主催。

天満橋駅近くの カフェ「馬車の扉」

ハープソロ演奏や、弾き歌い、カルテットなどなど。

私は野田先生に旋律を弾いていただいて、ゴセックのガボットを演奏させていただきました。
素敵なカフェで演奏できて、ハラハラ、ドキドキしましたが楽しかったです。

コンサートのあと、いちごタルトケーキが出てきてほっこり。

アンリエット・ルニエ(1875-1956年)フランスのハープ奏者・作曲家。
5歳になる前にピアノの手ほどきを受けていたが、8歳でセバスチャン・エラールの音楽教室でアッセルマンに師事。1885年にパリ音楽院に入学し、10歳のときハープ演奏で次席となり、11歳で首席になりました。

モデルケースとして異例の措置が取られ、当時14歳以下に履修が許されていなかった和声法と作曲の講義への出席が許可されます。

自作の《アンダンテ・レリジオーソ》を教師たちに見せるまで、6週間もこれを隠し続けていました。ルニエは女性は家にとどまるものとの発想に慣れきっていて、人目を集めることは気乗りがしなかったそうです。

12歳で音楽院を修了すると、フランス中で演奏し、弟子をとりだすと、パリの至る所から、自分よりも倍以上の年齢の入門者が集まりました。

15歳で最初のリサイタルをパリで開きますが、両親がアッセルマンの名をオーケストラの指揮者としてプログラムに印刷することを失念したばかりに、この旧師と不和を起こしてしまいます。

結局ルニエは、アッセルマンを宥めるために、身銭を切ってプログラムを刷り直します。が、その後もアッセルマンとの一触即発の関係は続きました。

アッセルマンはルニエの演奏会に指揮者を紹介することさえ拒み、ルニエの未出版作品の一部を、断りなく自分の授業に流用しました。それでもルニエは、アッセルマンに誠意を示し続けました。


アッセルマン(1845-1912年)
1901年に、音楽院在籍中に着手した《ハープ協奏曲 ハ長調》を脱稿させます。

が、ルニエは胃を弱らせており、病身に鞭打って演奏活動を続けたにもかかわらず、とうとう1回、シュヴィヤールの指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団とのコンサートを延期する破目になります。それでも、自作の協奏曲の上演によって、ルニエはヴィルトゥオーソとしても作曲家としても名を上げ、しかもハープを独奏楽器とするのに一役買い、他の作曲家によってハープ曲が作曲されるようになります。

1903年には、もう一つの出世作《伝説曲 Légende 》を作曲します。同年に11歳のマルセル・グランジャニーをパリ音楽院に送り込みますが、アッセルマンはグランジャニー少年の入学を一蹴しました。
翌年に少年は入学許可を得たものの、実技試験に参加することを許されませんでした。13歳で初めて実技試験に参加して、首席に輝いています。


マルセル グランジャニー(1891– 1975年)
1912年になって、アッセルマンと和解します。教授の地位を引き継いでもらいたいとアッセルマンに要望されました。
しかし当時、パリ音楽院の器楽科上級クラスに女性教授はいず、政府の指図で、パリ音楽院は教育省にその任命の承認を仰がなければなリませんでした。

結局ルニエは採用されず、マルセル・トゥルニエ

トゥルニエ(1879-1951年)
が後任教授に選ばれました。アッセルマンはルニエの落選を告げられた日の晩に亡くなっています。

その後ルニエは、エコール・ノルマル音楽院からの就任要請を断わって、1914年にルニエ・ハープコンクールを主催しました。

サルセードやグランジャニー、ピエルネやラヴェルといった錚々たる顔触れを審査員に迎え、覇者にはかなりの賞金が授与されました。



第一次世界大戦中は、市内に砲火が炸裂する中で、ほとんど夜毎のように慈善演奏会を行なって困窮する芸術家に匿名で至急送金しました。

戦後は、トスカニーニよりハープ奏者として契約するように要請されますが、母親の健康の衰えを理由に話を断わっています。

1922年にレジオンドヌール勲章の受章者に推薦されますが、宗教的信条を理由に受章を拒否しました。

ルニエは、ラジオ放送に出演し、1926年にはコロムビア・レーベルならびにオデオン・レーベルにて録音活動を行います。

ルニエのレコードは3ヶ月で売り切れとなり、なかでも《小さな妖精たちの踊り Danses des Lutins 》の音源はプリ・デュ・ディスク賞を獲得します。
しかし、スタジオ録音にルニエは憔悴し、二度と録音の契約を更新しようとはしませんでした。

第二次世界大戦中は、出版社の要望に応じて、『ハープ奏法』の執筆に取り掛かり、その完成に傾注しました。

フランスの休戦協定が結ばれると、入門者がルニエの許に殺到しました。

坐骨神経痛や神経炎に加えて、冬には気管支炎や肺炎の長患いや消化器の感染症により、危うく死に掛かったものの、大量の鎮痛剤を服用しながら指導を続けました。

トゥルニエがパリ音楽院での35年間の教師生活から身を退くと、ルニエは後任教授に就任するよう要請されましたが、トゥルニエよりも自分が年長だからという口実で、その申し出を断わっています。

しかしついにレジオンドヌール勲章は受章しました。

その翌年に《伝説曲》を含む演奏会を開き、「この曲を弾くのもこれきりになるでしょう」と言い、それから数ヵ月後の1956年3月に亡くなりました。

ルニエは、フランス第三共和政が政教分離を模索する中、金色の十字架を身に着け、自分の教会支持を露わにしました。このため、フランス政府より共和制の敵として睨まれました。

自分の信念をきっぱり貫く性分で、友人や弟子たちが恐れる中、ドイツのプロパガンダのポスターを破り捨てるという面もありました。

「シャルランの松」
ハープ二重奏です。




19歳の前奏曲

2024-04-21 21:00:00 | 近代
西宮ギター練習会主催のミニコンサートが原田の森 王子美術館でありました。

川原久美子さんと、イベールの「間奏曲」、ピアソラの「オブリビオン」、「リベルタンゴ」を演奏しました。

梅田で新開地行き特急に乗った途端、六甲で転落事故のため、遅延しています。ということでした。

座れたので待っていると定時に出発してホッとしました。
発生はずっと前で処理が終わったところだったみたいです。

13:00〜ですが、合わせていないので12:30の約束でした。
ここは、美術室です。以前は四階の音楽室でやっていましたが、美術室の方がなぜか音響が良いことを発見して、以来こちらでやっています。

音響が良いといい演奏も出やすく。
私も気持ちよく吹かせて頂きました。

阪南ギター練習会で一緒にだったKさんも参加されていて、5月にコンクールに出られるそうで、熱意あふれる演奏をされていました。
自己紹介で、大学のギター部でソロを弾いて以来、30年のブランクがあるそうです。

阪南の打上で「どうしたらギターうまくなれますか?」と私に聞かれたので「先生につくこと。」と答えたら、本当に先生につかれてもう3回通われたそうです。

私、ギターじゃないのに…少し嬉しい。
彼は本気です。

そしてもう一つは
「人前で演奏すること。」

ということで、この演奏会にも参加されていました。
他にも4月にいくつか出る予定だそうです。

本当に頑張っておられます。
うまくいきますように🙏

セルゲイ ラフマニノフ(1873-1943年)ロシア帝国ノヴゥゴロド州セミョノヴァ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没
「前奏曲 嬰ハ短調」作品3-2は、全部で5曲からなるピアノ曲集《幻想的小品集》作品3に収録されています。

1892年10月8日19歳の時に、モスクワ電気博覧会の祝賀会において作曲者自身によって初演されました。

この初演の後で、演奏会全体の中からこの曲のみを取り上げて、「熱狂を捲き起こした」との批評が掲載されました。

1892年5月29日にモスクワ音楽院
1901年モスクワ音楽院
を卒業してから、ラフマニノフが自由な芸術家として書き上げた最初の作品の一つです。

翌1893年に、恩師アントン・アレンスキー(1861-1906年)

に献呈されました《幻想的小品集》の第2曲として出版されました。

当時のロシア帝国は、1886年のベルン条約(1886年スイスベルンで発布された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルン条約、現在の世界的な著作権保護条約のもととなりました。)を批准していなかったため、ラフマニノフは出版社から、40ルーブル(現在で約1.64ドル≒250円)の報酬を得ただけでした。

ラフマニノフの従兄アレクサンドル・ジロティは1898年秋に西欧と米国で演奏旅行を行なった際、そのプログラムにこの曲を取り上げました。

そのため、まもなくロンドンの複数の出版社によって、「モスクワの大火」「最後の審判」「モスクワのワルツ」という名前で出版譜が出回りました。

アメリカでは、「モスクワの鐘」という名前で出版譜が出版されました。

この作品の人気ぶりは、「ラフマニノフの(例の)前奏曲」と呼ばれたり、ラフマニノフの演奏会で聴衆から、アンコールとして「Cシャープ!」との呼び声がかかったりするほどでした。

ラフマニノフは、この曲のあまりの評判によって、自分のそのほかのピアノ曲がかすんでしまうことを毛嫌いするようになりました。

それでもラフマニノフは、電気吹き込みとアンピコ社製ピアノロールを通じて、後世に本作品の自作自演を遺しています。

この曲をギター編曲して練習会で弾いている人がいました。おもしろかったので動画探してみました。