音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

おとぎの絵本

2024-11-30 21:56:00 | ロマン派
金曜日午後はピアノのTさんと、子育てサロンのスタッフOさんと

12月10日(火)10:00〜会館との2での「クリスマスコンサート」
の打合せと練習でした。

プログラムが固まってきました。
シュテクメットの「歌の翼変奏曲」
バスフルートでブラームスの「子守唄」
ヘンデルの「フルートソナタ」からヴィヴァーチェ

絵本2冊に音楽をつけて演奏しながら、Oさんに読んでもらいます。

演奏を聞いてもらった後に、子どもたちにハンドベル

を持ってもらって「きよしこの夜」

Oさん手作りのフェルトのクリスマスベルを子どもたちに鳴らしてもらって「ジングルベル」

ファミリーポートで借りてくる楽器で子どもたちに加わってもらって「あわてんぼうのサンタクロース」

ピンクのオーガンジーの布をグノーの「アヴェ・マリア」に合わせて動かして遊ぶパラバルーン。
シューマン
最後にサンタさんがプレゼントを持って登場。
バックのクリスマスメドレーを演奏して終わります。

絵本は、一冊はボロディンのノットゥルノ一曲で読みますが、もう一冊はシーンに合わせて曲を変えます。
チリビリビン、ドビュッシーの小さな羊飼い、へ調のメヌエット、ドビュッシーの小さな黒ん坊、シューマンのトロイメライ、きよしこの夜の6曲を演奏します。

長くはないですが14曲とメドレー。
子どもたちも飽きずに参加してくれるとおもっています。

一緒に作ってくれるTさん、絵本を読んでくれるOさんに感謝です。

ロベルト・シューマン(1810-1856年)ザクセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン ライン州ボン没

のピアノとヴィオラのための『メルヘンビルダー』(邦名おとぎの絵本)作品113は、1851年3月に作曲しました。

この作品は、ドイツの指揮者のヴィ​​ルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキ(1822-1896年)

に捧げられています。

4つの個性的な小品から成り、ロマン派時代のヴィオラをフィーチャーしたオリジナル作品です。

シューマンは、各楽章でどのような生き物や出来事が描かれているのか、手がかりをほとんど与えてくれません。

1853 年に作曲されたクラリネット、ビオラ、ピアノのための「メルヘンの描写」メルヒェンツェルゲンop132

も、細部は演奏者と聴衆の想像力に委ねられています。

この作品の自筆原稿は2014年5月にアメリカ議会図書館によって購入され、現在はそこに保管されています。


ニヒト・シュネル(速くない)ニ短調
レーブハフト(活気のある)ヘ長調
ラッシュ(クイック)ニ短調
Langsam, mit melancholischem Ausdruck (ゆっくりと、憂鬱な表情で)ニ長調





戦勝の美女

2024-11-29 21:02:00 | バロック
木曜日は京都の病院に行った帰りに藤森神社に寄りました。
昔はお水を頂きによく来ていました。

境内に美味しいお水が湧いています。

神功皇后が摂政3(203)年、新羅から凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのが起こりだそうです。

5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされています。

菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めています。


駈馬神事が馬の神事であることから馬の神として信仰され、

馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われて多くの人々の参拝があるそうです。(藤森神社ホームページより)

お稲荷さんもありました。

赤い鳥居がいい感じ

駐車場には柿の木

渋柿だよね。

でもかわいい実でした。
アントニオ・ヴィヴァルディ
(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

のオラトリオ『蛮族の王ホロフェルネスを討伐した勝利のユディータ』(Juditha triumphans devicta Holofernis barbarie)RV644
は、ピエタ音楽院のために1716年38歳のときに作曲されました。

ヴィヴァルディのオラトリオの中で唯一現存するものです。
『ユディト記』( Book of Judith)は、ユディトという女性の信仰を描く物語にのっとっています。

1716 年夏のコルフ島包囲戦でヴェネツィア共和国 がトルコ軍に勝利したことを祝うために委託されたもので、政治的な意味合いがあります。

この島はギリシャ、地中海にありヨーロッパ諸国の防壁として認識され、オスマン帝国の海軍と陸軍に何度も攻撃され 、 1537年、1571年、1573年、1716年の4度の有名な包囲攻撃を受けたものの、 1401年から1797年までヴェネツィアの手に留まり、その際も都市の防衛の強さが何度も証明されました。

オラトリオは完成し、 同年 11 月 にピエタ劇場で全員女性のキャストによって上演されました。

ヴェネツィアの詩人ジャコモ・カセッティが特別に書いたラテン語の台本が使用されました。

メラリの娘ユディトはマナセと結婚しましたが、夫を日射病で失って寡婦となりました。

彼女は美しく魅力的な女性で多くの財産を持っていましたが、唯一の神に対して強い信仰を持っていたため、人々から尊敬されていました。

ユディトⅠ グスターフ クリムト1901年
アッシリアの王ネブカドネツァルはメディア王との戦いにおいて自分に協力しなかった諸民族を攻撃するため、司令官ホロフェルネスを派遣します。

ホロフェルネスは軍勢を率いてユダヤへやってくるとベトリアという町を囲みました。
水源を絶たれたため町の指導者オジアは降伏を決意しますが、ベトリアに住んでいたユディトはオジアと民を励まし、神への信頼を訴えます。

ユディトはそこである作戦をたてます。
それはユディト自身が着飾ってホロフェルネスのもとに赴くというものでした。
ホロフェルネスの首を持つユディト ルーカス クラナッハ1530年 

ユディトは神に祈って、ホロフェルネスのもとへ向かいます。
エルサレム進軍の道案内を申し出た美しいユディトをホロフェルネスは喜んで迎えます。

ユディトは陣中で出される異邦人の食べ物を決して口にせず、4日待ちます。

4日目にホロフェルネスは酒宴にユディトを呼び出しました。
ホロフェルネスは泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠るホロフェルネスと2人だけで残されました。

そこでユディトは眠っていたホロフェルネスの短剣をとって彼の首を切り落としました。

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』ミケランジェロ カラヴァッジョ1602年 

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ1612年頃
ユディトは侍女と共に、首を携えてベトリアの町へ戻り、事の次第を報告しました。

ユディトのベツリアへの帰還
サンドロ ボッティチェリ1470年頃
ユダヤ人はこの機会を逃さず、出撃し、敗走するアッシリア軍を打ち破りました。

ユディトは105歳でなくなるまで、静かにベトリアの町で一人暮らしました。

ユディトとその侍女 アルテミジア・ジェンティレスキ1619年頃

アリア「 顔と敵」は、ユダヤ人陣営がユディタがホロフェルネスの首を切ったことを知る場面から取られています。





ガールズトーク

2024-11-28 21:09:00 | ロマン派
高校の時の部活漫研の同窓生4人と、なぜか隣の高校のBさんとJR寺田町すぐのSさんの家に集まりました。

残念ながら2人は欠席でしたが…。

会ったら女子高生に戻ってしまいます。

11:00に集まって16:30までずっと途切れること無くおしゃべりしました。

話しても話してもお話しは尽きません。

次回は。3月頃に集まることになりました。

ヴェンツェンツィオ ベッリーニ(1801-1835年)シチリア王国カターニア生まれ、フランス王国パリ没

ベッリーニ
ピエトロ・ルッキーニの肖像画
の歌劇「ノルマ」。

ノルマは、アレクサンドル・スメ(1788-1845年フランスの詩人)

の戯曲『ノルマ、あるいは子殺し』を基に、ジュゼッペ・ロマーニ(1788-1865年.)

が台本を書いた2幕のオペラです。
1831年12月26日に ミラノ・スカラ座で初演されました。

初演日は評判は良ありませんでしたが、これはライバルの画策があったと言われています。
2日目から徐々に評価が高まり、そのシーズン30回は上演され、翌年も続き、1832年にはイタリア全土で上演されました。

この年、他のオペラも評判が良く、ベッリーニはその地位を高めました。

1837年にはリヒャルト ワーグナーがこのオペラを指揮しました。
彼はこのオペラが気に入り、自分でも
バスのアリアを書きその中に挿入させましたが、これは現在では演奏されません。

ドメニコ・ドンゼッリ(ポリオーネ)、ジュディッタ・パスタ(ノルマ)、
ジュリア・グリシ(アダルジーザ)
オリジナルキャスト

歌劇「ノルマ」
舞台はローマ占領下のガリア。
ガリアのローマ総督ポリオーネ
彼の元恋人ノルマ
そして若いアダルジーザの三角関係を中心に展開します。

ドルイド僧オロヴェソが率いるローマ占領軍に対するガリア人の反乱が起こります。

ドルイド教寺院の高位の女祭司であるノルマ

初演ノルマ役を演じるジュディッタ・パスタ
は、ドルイド教の貞潔の誓いを破ってガリアのローマ総督ポリオーネとの間に 2 人の子どもをもうけました。

その後、恋人が友人の若いドルイド教の女祭司アダルジーザ
ジュリア・グリジ 1831年アダルジーザ役
に恋していることを知ります。
アレッサンドロ・サンキリコによるオリジナル作品の第1幕第2場の舞台デザイン

アダルジーザはノルマに「彼を諦めて去る。」と言いますが、彼は拒否します。

ノルマは子どもたちと自殺しようとしますが、子どもの寝顔をみているうちに思いとどまります。

変わりにノルマは司祭に子どもたちを託し、自分の過ち(巫女の身でポリオーネと通じたこと)を告白し、火刑を宣告されます。
第2幕フィナーレ、
オロヴェソ役のルイージ・ラブラシュ、ノルマ役のジュリア・グリシ、ポリオーネ役のドミニク・コンティ。
ハー マジェスティーズ シアター、ロンドン、1843

ポリオーネはノルマの自己犠牲に再びノルマへの愛に目覚め、彼女とともに火あぶりにされます。

第1幕でアダルジーザはポリオーネにノルマが彼の恋人であることを知らずに、巫女の身で愛する人ができたことを相談します。
何も知らないノルマもアダルジーザに
「ああ!勇気を出して私を抱きしめて」と彼女を巫女としての誓いから解放すると誓います。

この後、真実がわかり2人はポリオーネに怒りをぶつけます。


ハートの楽譜

2024-11-27 21:00:00 | ルネッサンス
5歳児さんは今月6歳になりました。

段ボールに穴を開けて

滑り台を作ってガチャポンのボールを転がしてどの穴に落ちるか?と遊びます。

外には「ハートマーク描いて。」と言われたのでいっぱい描きました。
自分で紙飛行機とディスプレイしました。

子どもが成長するのは早いです。

ボード・コルディエ (Baude Cordier)(1380-1440年)は、フランスのランス生まれ、ディション没。

アルス・スブティリオル
(14世紀フランスのポリフォニー音楽様式は、フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)の音楽理論書に因んで、アルス・ノヴァ Ars Nova と呼ばれていますが、その後期の極まったものを特に、アルス・スブティリオル Ars Subtilior といいます。「精妙な技法」という意味)

の代表的人物に数えられています。
世俗曲の作曲家で、そのほとんどがロンドーです。

当時のフランス音楽に典型的な、複雑なリズムを駆使した楽曲がいくつか見られるものの、その他はより単純で、叙情的な旋律に重きが置かれています。

シャンティー写本』
Codex Chantilly (Musée Condé, MS 564)

には、着色されたハート型の楽譜に記譜されたロンドー《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》


と、円形の楽譜に記譜されたカノン形式によるロンドー《コンパスを使って完全に描かれた Tout par compas》
の2曲が収められいて有名です。

《美しく気立て好く賢い女(ひと)よ Belle, bonne, sage》
美しく、善く、賢く、優しく、高貴なる方へ
年の改まるこの日に
新しき歌を奉る
貴方に捧げし、我が♡の中で

この貢物を受けること躊躇うなかれ
伏して希う、我が愛しの人よ

我は汝を愛すること深き故に、
二心なし我は知る、
ただ貴方のみ
その令名を皆称えて曰く
至高の美の華




世界を巡ってきた舞楽

2024-11-26 21:00:00 | 日本
月曜日、母の友人の方が出演される「第52回天王寺楽所雅樂公演会 雅亮会百四十年」がフェスティバルホールで上演されるということで、  

土曜日に母と前回は夕食を一緒に食べてから行ったのでそうしようとしたら、返事が二転三転。

「あれ?」と思って聞いたら
「その日は。お琴の先生方との会合でお昼アゴラで食べてくるから、夜になってもおなかいっぱい。」だって!
「ええなぁ〜。」
結局約束しないで当日。

食事は諦めて、家族の夕飯を用意して準急でゆっくり座っていこうと、時間を計算してLINEしたら、なかなか既読つかない。

仕方ないのでそのつもりで牧野駅に着いたら「守口から乗った。」
はあ?
しばらくしたら「もう着いた。」
仕方ないので、枚方市で準急を降りて特急に乗り変えました。

枚方市駅でみた交野線ラッピング電車
「特急は混むから嫌なんだけどな〜。」
「座ってゆっくり行くはずだったのに…。」
と心の中で叫びながら…。

しかもヤフー路線見てもでないと思っていたら、京橋で中之島線乗り換えたら牧野からのっていた同じ電車でした。

あ〜あ!そのまま乗ってればよかった。座っていけたのに…。これは私のミス。

母は渡辺橋駅のホームの椅子に座って待っていました。 

フェスティバルホールの赤階段 クリスマスツリー
今日の演目は天王寺楽所。
1500年前から伝わる舞楽。

聖徳太子が開創し、明治維新で天皇陛下が舞人を東京にお連れになった時に、存続の危機が訪れました。
その時小野松蔭が人々をまとめ上げ、楽所を建て直しました。そ
とき作ったなが雅亮会だそうです。
その雅亮会の140周年記念公演。

第二の危機は第二次世界大戦。
四天王寺は空襲で焼け落ち、貴重な衣装や楽譜が失われ、舞人たちも戦場に出て何人も亡くなりました。

小野樟蔭の息子せつ龍が立て直しをはかり、なんとか演目を復活させたそうです。

戦後、美智子さまの御前公演や、アメリカのカーネギーホールで出張公演を行ったりしています。

カーネギーホールでのポスター
しかし最近では大阪市の支援が減り、クラウドファンディングや篤志家の寄付に頼っているそうです。
この公演でもチケットを売り、なんとか自主運営を図っているそうです。 

今回は聖徳太子の頃から伝わり、またカーネギーホールでも公演された舞楽が披露されました。

本来は神仏に奉納される舞いです。
分かりやすいように浪曲師の春野恵子さんと落語家桂吉坊さんが狂言回しのように間に演じながら歴史をレクチャーしてくれました。
終演後お客さんの何人かが「わかりやすかったね」などと話されているのが聞こえてきました。

私が「あっ!」と思ったのは、オスマントルコの軍隊の軍楽隊の行進曲「チェッディン デデン」が、聖徳太子の戦勝祈願の曲と似ていたこと。

「舞楽陪臚」(バイロ)
パンフレットには天平年間に来日した林邑国(りんゆうこく)の仏教僧「仏哲」が伝えた「林邑楽」の中の一曲と書かれています。

林邑国は2世紀末〜7世紀初めにベトナムの広南省にあった王国です。

聖徳太子は物部守屋と対決した時にこの曲を演奏したところ戦勝したということです。
6世紀にトルコはまだないですが、小アジアにはイスラム教の国が起こり、その後東西に分裂しています。
仏哲がその影響を受けていても不思議ではありません。
東に渡ったこの曲が日本に来て聖徳太子と出会い、西に行ったものがオスマントルコを通してウィーンに伝わり「トルコ行進曲」に影響を与えたと思うとなんだかワクワクしてきました。
トルコ軍楽隊行進曲「チェッディン デデン」

舞曲「陪臚」2時間10分頃から「チェッディン デデン」に似ていると思ったところ。


登録有形文化財でコンサート

2024-11-25 22:25:00 | バロック
岸和田自泉会館で今川さんのフルート教室の発表会に出演してきました。

今川さんはフルートアンサンブル「エスカル」のメンバーです。

「エスカルで出て!」と言うことで友情出演。

トラヴェルソを田中さんと今川さんで披露。チェロは西先生。

チェロの西先生と共催されています。
ハイドンの「ロンドントリオ」を今川さんと久米フルート、西先生のチェロで。

フルートカルテットで大阪エスカルの田中聖平さん、垣内緑さん、今川さん、久米で「亜麻色の髪の乙女」「ラデツキー行進曲」フルート四重奏編曲版で演奏しました。

生徒さんたちもみんな熱演で素敵な演奏でした。

自泉会館は現在のユニチカの前身の一つ、岸和田紡績の2代目社長・寺田甚吉が、会社の社交場などとして昭和7年(1932)に設立した建物を、昭和18年(1943)に岸和田市へ寄贈。

以降、音楽ホールやギャラリー、会議室など文化活動の場として一般開放されています。

関西の建築家・渡辺節が設計した近世スパニッシュ風の建物は登録有形文化財に指定されており、建築業界でも注目されています。

イベントがないときのみ館内を見学でき、テレビドラマで使われたピアノなども展示されています。

(岸和田市ホームページより)

アントニン ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

ヴィヴァルディは172€-1740年書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したと書いています。この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしています。

1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演したました。

1724年には、ローマ教皇(おそらく同年5月に教皇に選出されたばかりのベネディクトゥス13世)


に二度謁見し、その御前で演奏した事も書いています。

1725年9月12日には、9月5日に挙式されたフランス国王ルイ15世

とマリー・レグザンスカ

1747年
の結婚式を祝うために、駐ヴェネツィア・フランス大使ジャック・ヴァンサン・ランゲ伯爵が主催したヴェネツィアでの祝宴でヴィヴァルディのセレナータ『グロリアとヒメネオ』(RV 687)が上演されました。

1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、この年のオペラ《テンペラーのドリッラ》で歌手のアンナ・ジローがヴィヴァルディのオペラで初めて主演を務めました。
ヴィヴァルディはその後1739年まで断続的に劇場の興行に携わっています。

1727年に作品9『ラ・チェトラ』を出版、神聖ローマ皇帝カール6世に献呈します。

1728年にトリエステでカール6世自身に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集を「ラ・チェトラ」として献呈します。
皇帝と親密になったヴィヴァルディは、多額の金品とパトロンの証の金鎖付きのメダリオンを賜りました。

1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かいました。

1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行いました。

この時期の作品群では、1724年頃に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」としてロジェの後を継いだミシェル=シャルル・ル・セーヌから出版されました。

1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が、『6つのフルート協奏曲』作品10として出版されます。

また生前出版された楽譜としては最後となる『6つの協奏曲』作品11と『6つの協奏曲』作品12のヴァイオリン協奏曲集が出版されています。

1740年頃にはパリのル・クレール社からチェロ・ソナタ集が出版されましたが出版経緯は不明です。

また12月には「メルキュール・ド・フランス」紙からチェロ・ソナタ集の出版広告が掲載されたが、実際に出版された可能性は低いと考えられています。

1730-32年
カンタータ 変ロ長調 RV.656「涙の泉、今ぞ泣け」変ロ長調(ソプラノと通奏低音のための)が書かれています。

おそらく、26歳から勤めていた、ピエタ慈善院(Ospedale della Pietà女子孤児院、救貧院、音楽院)での音楽教育のために書かれたと思われます。


12のカンタータ集の6番目の作品です。
12 Cantatas, D-Dl Mus.1-I-7 (Nr.6)
Partial Holograph manuscript, .

1.邪悪なアエネアス 作曲アントニオ トッツィ
Dunque il perfido Enea by Antonio Tozzi

2.美しいナイチンゲール 作曲ヴィヴァルディ
Usignoletto bello, RV 796, by Antonio Vivaldi

3.枝から枝へのスケルツァ ヴィヴァルディ
Scherza di fronda in fronda, RV 663, by Antonio Vivaldi

4.去っていく波のうねり ヴィヴァルディ
Geme l'onda che parte, RV 657, by Antonio Vivaldi 

5.夜だった ヴィヴァルディ
Era la notte, RV 655, by Antonio Vivaldi

6涙の泉よ、今ぞ泣け ヴィヴァルディ
Fonti di pianto piangete, RV 656, by Antonio Vivaldi

7.空に紅く昇る ヴィヴァルディ
Sorge vermiglia in ciel, RV 667, by Antonio Vivaldi 

8.慣例を超えて遅刻してしまったようですが、
Par che tardo oltre il costume, RV 662, by Antonio Vivaldi

9.疑惑の影で ヴィヴァルディ
All'ombra di sospetto, RV 678, by Antonio Vivaldi

10.最も不誠実な心 ヴィヴァルディPerfidissimo cor, RV 674, by Antonio Vivaldi

11.あなたはため息をつきながら慈悲を求める ヴィヴァルディ
Pianti sospiri e dimandar mercede, RV 676, by Antonio Vivaldi

12,疑惑の呼び出し ヴィヴァルディ
Qual per ignoto calle, RV 677, by Antonio Vivaldi。

「涙の泉よ、今ぞ泣け」
涙の泉、 心が涙で溶けるまで
たくさん泣いてください。  

私のフィーリ。
恋人の心 あなたは硬いダイヤモンドでできています。
今日あなたが 私の痛みで 壊れていないなら。

涙の泉... 私のあなたの頑固な心 ほど無慈悲な心はないように、 
あなた ほど荒涼とした心はない 、

私の愛する心よ。
あなたは忠実、彼女は変わり者。
あなたは彼女を愛し、彼女はあなたを憎み。
あなたは彼女に従い、彼女はあなたから逃げる。

痛みの中で、 抵抗できない時は、
苦しんだ心を溶かし、涙で溶かしてください。

私の目を見てください、 無慈悲なフィーリ。
ああ神よ 、あなたはなんと残酷で 、私はどれほど忠実で、 見てください、私がどれほどあなたを崇拝しているか。

そして愛が私の中にあるように、
あなたの美しさに等しい、
私の心の中の私を見てください 、
あなたの誇りとなろう。
私の目を見てください...



81歳現役のフルーティスト

2024-11-24 21:00:00 | ロマン派
土曜日の朝は伊藤公一先生のマスタークラスでした。

梅田ナビオ前には巨大クリスマスツリー。
今頃からクリスマス商戦をやっていて12月になったら何をするのか?
なんて思ってしまう私は一生お金儲けとは無縁なのかも。
仕方ないなぁ。

今回も伊藤先生に絞られました。
「当たり前のことが当たり前にできる」ようになるのは何時のことかやら…。

目の前のことをコツコツやるしかありません。
まだまだ諦めません。
だって81歳の先生が自分の成長を諦めていないのだから…。

フランツ ドップラー(1821-1883年)
オーストリア帝国ガリツィア レンベルク(現ウクライナ リヴィウ)生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国バーデン バイ ウィーン没

は、フルート曲で有名なハンガリー人の作曲家です。

生前は、むしろオペラやバレエなどの舞台音楽の作曲家として評価が高かったそうです。

また、フランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』のいくつかを編曲したことでも知られています。

オーボエ奏者であった父親からフルートの指導を受けます。

18歳でブダペスト歌劇場

ハンガリー国立歌劇場ブダペスト
の首席フルート奏者に就任します。

1853年
その後はウィーン宮廷歌劇場

1898年頃
の首席フルート奏者から首席指揮者の地位へと昇り詰め、1864年から1867年までウィーン音楽院
1812年設立
のフルート科の教授も務めました。

オペラやいくつかのフルート協奏曲のほか、超絶技巧を要する華麗なフルート小品を残しています。

フルート二重奏曲やフルート二重奏のための協奏曲といった作品は、フルートのヴィルトゥオーソ兄弟としてヨーロッパ中を席巻しました。

ドップラー兄弟:フランツ(左)カール(右)
弟カール・ドップラー(ドップレル・カーロイ)との共演のために作曲されています。
日本では、東洋的な曲想をもつ『ハンガリー田園幻想曲』作品26が人気があります。

弟カールともどもフルートのヴィルトゥオーソにして作曲家でした(兄弟ともベーム式フルートを好まず、旧式のフルートを使い続けました)。
カールは左利き用のフルートを作らせ、2人はこのようなスタイルで演奏していたと言われています。
兄のフランツは弟カールは左利き。ヤン・グリーム(Jan Grimm)、右・左利きフルート
セバスチャン・ジャコー(Sebastian Jacot)、 フルートの再現演奏。ユンヤング・リー(Yun-Yang Lee)、ピアノ

カールの子である甥アールパード・ドップラー(ドップレル・アールパード、Árpád Doppler)も作曲家となり、米国で活動しました。

「ハンガリー田園幻想曲」は作曲年と動機については不明ですが、おそらくドップラーがウィーンに移る前に、ブダペスト歌劇場のフルート奏者を務めていた時期の作品といわれています。しかし、今日ではドップラーの代表作として日本ではもっともよく演奏されています。

元々フルートと管弦楽のために書かれた楽曲てすが、フルートとピアノのデュオ向け編曲版で演奏されることが多くなっています。

伊藤公一先生の演奏です。



不思議の国のアリス

2024-11-23 21:01:00 | 現代
木曜日、梅田の阪急百貨店の前を通りかかったら、ショーウィンドウがすっかりクリスマス仕様。

今年は
「Meets the wonder Christmas」

これは?

仕掛けがあって動いています。

「不思議の国のアリス」のようで

もあり、違うようでもあり

不思議な世界。

たくさんの人がお立ち台に登って写真を撮っていました。

不思議の国のアリス』(ふしぎのくにのアリス、英: Alice's Adventures in Wonderland)は、イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドドソン がルイス・キャロルの筆名で書いた児童小説です。1865年刊行。

『子供部屋のアリス』表紙 / 絵はエミリー・ガートルード・トムソン

姉妹が昼下がり、川辺の土手で読書をしていると妹アリスの目の前に服を着た人の言葉をしゃべるうさぎが現れます。
そのうさぎを追いかけているうちに、アリスはうさぎ穴に落ちてしまいます。

そこには不思議な世界が広がっていました。
飲むと身体が大きくなる薬を飲んでしまったり、

3月うさぎのティーパーティー

に参加したり、
ハートの女王にクロッケーに誘われたり
裁判にかけられたりして

気がつくと姉のそばに戻っていました。

「黄金色の昼下がりに…」 (All in the golden afternoon ...) :巻頭に掲げられている献呈詩です。 

この物語成立の発端となった1862年7月24日のボート遊びと、そこで3人姉妹にお話をせがまれた情景を詠んでいます。

不思議の国のアリス』におけるアリス。テニエルの挿絵の彩色版。頭と腰のリボンはもとのモノクロの挿絵にはない
ディズニーが映画化したのは1951年。この詩に
サミー フェイン(1902-1989年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

が音楽をつけました。


7歳のアリス・リデル / キャロルによる1860年のポートレート。















バタバタびっくり交響曲

2024-11-22 20:51:00 | 古典
木曜日、金重さんに誘われて坂田さんと京橋でランチしました。

金重さん、先月腕を骨折してヴィオラを演奏できない。1月までギブスをしたまま。
1ヶ月自粛していたけれど、我慢できなくなって「ランチしましょう。」と連絡がありました。

金重さんおすすめのお店。
2100円でステーキランチが食べられました。
キャロットスープ

ステーキ、紫芋、じゃがいものフライ、三度豆、雑穀米のライスがついていました。

どれもいいお味。

デザートも甘さ控えめで美味しかったです。

金重さん、これからの計画をいろいろ練っているようです。
久しぶりにしゃべって
この後、塚口へ移動してハーブのレッスン。

今日はトラ猫さんがいました。



「レッドリバー」とハイドンの「交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94」の2楽章ハーブ独奏版。

「ゆっくり、ゆっくり演奏するように。」と野田先生、にっこり。
何度言われても慌ててしまいます。

それでもおまけで3ヶ月やっていた曲をようやく卒業しました。
ふぅっ〜!

夜は本町に移って

今川さんの発表会で演奏するフルートアンサンブルの練習です。
ハイドンの「ロンドントリオ」をチェロの方も入って今川さんと久米のトリオで、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「ラデツキー行進曲」をフルートカルテットで演奏します。

11月24日(日)12:00開演 岸和田市立自泉会館でやります。

バタバタしていましたが、なかなか充実の1日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)
神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

交響曲第94番 ト長調 Hob. I:94 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1791年作曲した交響曲です。

イギリス訪問時のロンドンで作曲された『ロンドン交響曲』のうちの1曲で、『驚愕』(または『びっくり』、英: The Surprise, 独: Mit dem Paukenschlag)の愛称で知られています。

ハイドンが長年楽長として仕えてきたエステルハージ侯の死去に伴って、同侯家を去ることになってから2度にわたって経験したロンドン旅行の1回目の滞在期間中の1791年に作曲されています。

「2度にわたるロンドン滞在」で書き上げた『ロンドン交響曲』(ザロモン・セット1791-1795年全12曲)のうちの1曲で、ハイドンが遺した全作品の中でも最も有名な作品の一つに数えられています。

ロンドン滞在1回目の期間中にあたる1792年3月23日に初演されています。

ハンガリー系貴族のニコラウス・エステルハージ侯爵(1670-1795年)

に長らく仕え、同候家お抱えの楽団の楽長として食卓向けの音楽を作るなど創作活動を行ってきたハイドンでしたが、1790年にニコラウス・エステルハージ侯爵が死去することで転機を迎えることとなります。

その後を継いだアントン・エステルハージ侯爵は父親の音楽愛好を受け継がずにお抱えの楽団を解散してしまい、この結果として肩書きだけの楽長と化したハイドンは同侯家を去り、自由な立場の音楽家としてウィーンに赴きました。

そのウィーンでは、ハイドンの噂を聞きつけて赴いてきたボン出身のヴァイオリニストで興行主としても知られるヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815年)ボン生まれ、ロンドン没

と出会います。

ハイドンはそこでザーロモンから、ロンドンに渡ってザーロモン自身が主催する演奏会のため作曲して欲しい、との依頼を受けます。

破格の待遇内容も併せて提示されたハイドンはザーロモンからの依頼を引き受け、1791年から92年にかけて、および1794年から1795年にかけての2度にわたってロンドンに渡航・滞在し、のちに「ロンドン交響曲」(ザロモン・セット)と総称されることになる計12曲の交響曲を書き上げます。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つです。

当楽曲もこれら全12曲の交響曲の一つとして、ロンドン旅行1回目の滞在期間初年にあたる1791年に作曲され、翌1792年3月にロンドンで初演されています。

この曲に付けられた『驚愕』という愛称は、第2楽章冒頭の主題が最弱音で2度繰り返し演奏された後の16小節目においてティンパニを伴ったトゥッティで不意打ちを食わせるように強く演奏するところから名付けられたもので、作曲者自身が命名したのではなく、初演から間もなくして初演地のロンドンで発行された新聞紙上に掲載された演奏評に由来します。

こうした作曲の仕方を採った背景として、ハイドン自身が1度目のロンドン滞在中に目の当たりにした聴衆のマナーの悪さがあったとされています。

当時、聴衆の中に居眠りをする者が少なからず存在していました。

ハイドンは、持ち前のユーモアさなどを活かし、この作曲を通じて聴衆をたたき起こそうと行動を起こしたのです。 
そして実際の演奏の場で、第2楽章の強奏箇所のところでハイドンはティンパニ奏者に対し力一杯叩くよう指示、狙い通りに聴衆がビックリして飛び上がりました。

愛称の『驚愕』は、英語表記では「The Surprise」と表されます。

一方、ドイツ語表記では「Mit dem Paukenschlag」と表されます。
直訳すると「ティンパニの打奏を伴った」という意味になります。




洋梨のかたちをした

2024-11-21 20:51:00 | 近代
いちごの鉢から、なぜか蔓で出てきました。 抜こうかな?と思っていたら花が咲きました。

調べてみたら、ゴーヤかすいか。

なぜ?
サンルームに入れっぱなしなのに。

まさか実はならないと思いますが、しばらく育ててみたいです。

エリック サティ(1866-1925年)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

いつも同じ色と形の服を着てこうもり傘を持って歩いていました。真っ黒いジャケットと山高帽子、こうもり傘がサティのスタイル。
死後こうもり傘が100本も家から出てきました。

「インテリアのような音楽」を目指していました。 

変わった名前の曲を量産しています。
1903年に作曲したピアノ4手のための「梨のかたちをした3つの小品」もその1つです。

1898年のサティ

当時、サティはクロード・ドビュッシーに「形式的な作品を作ってみては」と忠告され、調性、拍子、形式を明確にした曲を作曲することにします。

結果、この「梨の形をした3つの小品morceaux en forme de poire」が完成することになりました。

しかし、
フランス語の「梨(西洋梨)」という単語にはもう一つ「まぬけ」や「うすのろ」といった意味があります。

poireは
プログレッシブ辞典によれば
[女性名詞]

➊ ナシ(の実);⸨特に⸩ 洋ナシ.
➋ 洋ナシ形のもの.
➌ ナシブランデー,ポワール.
➍ ⸨話⸩ 間抜け,だまされやすい人.
➎ ⸨俗⸩ 顔;頭.
━[形容詞] ⸨話⸩ 間抜けな,お人よしの.

また、3つの小品となっていますが、実際には7つの小品からなっています。

しかし、最初から明らかな軽蔑が示されているにもかかわらず、形式はしっかりと存在しています。
調性があり、拍子があり、
作品の全体的な構造は完全に対称的です。
2つの作品紹介
3 つの作品
2つの最終部分


オリジナル版の表紙 ( Rouart-Lrolle et Cie、1911 年)
第1曲 始め方
4分の4拍子。
終止線もある。3小節単位の動機が終止線まで繰り返されます。

第1曲は元々は1891年に劇付随音楽「星たちの息子」の曲として作曲され、その後1897年頃に「グノシエンヌ」と改題された後、さらにこの作品へ流用されました。

第2曲 同じものの延長
4分の2拍子、ニ短調。

第3曲 小品Ⅰ
4分の2拍子、ハ短調。  

第4曲 小品Ⅱ
4分の2拍子 - 4分の4拍子、ハ長調 - ト長調 - 変イ長調。
快活な舞曲。再び最初の舞曲に戻っています。

第5曲 小品Ⅲ
4分の4拍子。
激しい曲想。明確なリズムが特徴的。 

第6曲 つけ加えて
4分の4拍子。
全体的に変化のない作り。プリマは単旋律的に演奏されます。 

第7曲 言い直し
4分の3拍子、変ロ長調
緩やかで優雅な旋律の舞曲で終わります。