アプリコットフレグランス4年目。
この花を最後に、葉がなくなってしまいました。
諦めずに水をやっていたら、土の中から3センチほどのカナブンの幼虫が1匹。
水が多いと、苦しいのか土の中から出てきます。
かわいそうだけれど、割り箸で掴んで、裏の川に流しました。
こんなのが、根を食べてたから葉がなくなっちゃったんだ。
と思ってたら、その翌日に1匹。次の日に2匹、また次に日に1匹。
小さな鉢に5匹もいました。
そういえば、今年はカナブンやハナムグリをたくさん見ました。
それから、数日。
葉が出てきました。農薬を入れたらこんなことはないのでしょうが、小さな庭とはいえ、薬は出来るだけ入れたくないので、毎日、よく見て虫を取ることになります。
小さなシャーレの中にも微生物が何万匹もいて、土の中や、水の中にもたくさんの生物や植物がいて、その中から私たちが好むというだけで、この花だけを咲かせることのわがままさ。
それでも、美しい花を見ると癒されます。
無垢な美しさに、愚かで、罪深い自分に涙が出ます。
奇跡の積み重ねの上に咲いた美しさに感謝の気持ちが湧いてきます。
自虐と言われるかもしれない。でも、そのことを忘れ切ってしまったら、人間はもうダメだと思うのです。
自分たちがたくさんの生命の犠牲の中で生れ、生命に支えられて生きていることを忘れたら、人は絶滅するしかない。
古代の人は、自分が生きるために、生命を犠牲にしていることをよく知っていました。
一日の始まりと終わり、食事の時、一年のうち何日かは、そのことを思い、祈り、祭司を行い、音楽を捧げ、祈り、踊り、芸術をささげ、感謝し、いつかは自分もその順番がきて、おなじところへ帰ることを意識していました。
いつから、滅菌し、隔絶し、優れた道具を使い、徹底的にやるようになったのか。
そこに、生命に対する祈りや、感謝はない。
私は、人類浄化のような思想と、優秀な殺菌剤が生まれた時期が一致するのは、偶然では無いと感じています。
今日午前中は久しぶりにピアノのTさんと打合せ。
穏やかなTさんが、相手だとつい話し過ぎてしまいます。
世間話や、子どもたちの話など他愛の無い話で終始しますが、いくら話しても終わりません。
あれこれ話しているうちに、プログラムの外観ができました。
コンサート本番も好きですが、このプロセスが好きです。練習で合奏するのも楽しいです。
こんなことばっかりやっていたいです。
これは、一昨日前の家の庭で、夫がひっかけて折ったバラの花。
つぼみだったのが、水切りして花瓶にさしておいたら、昨日、ほころんできました。
今日は全開。ちょと早すぎる。
水揚げを良くするためには、必ず水につけておいて、中で切ってください。
買ってきた切花でも同じです。切る瞬間、切り口が水の中に入っているのが大事。
それから思い切って5センチ位切ると水揚げがよくなります。
昔、習っていた華道の先生から教えてもらいました。うまくいきますよ。ぜひ、切花を活ける時は試してみてください。
今日はスーパームーン。さっき、撮影のため、外にでたら雲がかかって見えません。早くとっておけばよかった。試したいことがあったのになぁ。
代わりに地上のスーパームーン。マリーゴールド。
月のように丸くて、かわいいでしょ。よく咲いています。
どんどん咲く簡単なマリーゴールドは、花びらが重なっているところもゴージャス過ぎて、日本人としてはもうたくさんと思ってしまいます。
桜のようなはかなさもないところも、人気が今ひとつない理由かも、
しかし、マリーゴールドは丈夫でよく咲くので安心です。安心って大事。
バラが咲かなくなっても、水をあげるだけで元気に咲いてくれています。
それによく見ると、花びらが繊細できれい。
お月様は世界中に戦争による被害、天災による被災、人災、貧困にあえぐこどもたちがあふれていて、同じ月を見て泣いているなんて、知らないでしょう。
世界中の大人たちが、自分が一番傷ついて、苦しんでいるのだから、腹を立てて、仕返しをして世界をめちゃくちゃにしてしまってもいいと考えるから、子どもたちはいつもひどい迷惑をこうむっているのです。
これは政治の話ではありません。宗教でもありません。
右でも、左でもありません。
人権、
人として生きるために必要なこと、例えば、衣食住。言葉を発すること、意見を言うこと、トイレに行ったり、遊んだり、勉強したり、大人なら働いたりすること。
運動でも、活動でもありません。憲法に書かれていますが、憲法ですらない。憲法はそれを実現するために形にした方策であって、憲法それ自体が目的ではありません。
人としてこうありたい。ということ。
人として、人同士として、あたりまえの権利をお互いに大切にしましょう。
それだけのこと。
あなたにもあって、私にもある。
私にもあって、あなたにもある。
お互い様。と言ったほうが、いいのかもしれない。
同じ月の下で、安心して眠ることもできない子どもたちを作らないように。
相手の権利を取らないで、自分の権利を守るためにはどうしたらいいだろう?
人生は二者択一では無い。善悪でも無い。
複雑で、難しいことばかり、本当に嫌になってきます。
それでも、必ず、第3の道があります。
それを探すために時間がかかったり、苦悩するなら、いくら苦悩してもいい。
それが子どもたちに安心な世界を渡すということに繋がると信じるから。
サンフランシスコ、ラズベガス、グランドキャニオンに旅をしていた生徒さんが帰ってきました。
お土産のチョコレートのケースは紅葉しています。だいぶ寒かったようです。
グランドキャニオンの絵葉書。美しいです。
異国の香り。旅に出てリフレッシュされたのか、スッキリとした表情をされているように見えました。
レッスンは、「練習をする時間がなかった。」と言っておられましたが、音がまっすぐ太くなっていました。
旅行に行って、何歩も歩いたから身体が鍛えられて呼吸が深くなっているのかもしれません。
身体が出来ると音は良くなります。このままキープして欲しいなぁ。
午後は山手の実家でレッスン。
5年生のKさん。今月から来ています。
頭部管を持って、音を出すお稽古。
だいぶ音が出るようになってきたので、本体をくっつけて練習です。
小柄なのでフルートを持つのが難しそうですが、吹いてみると、なかなか太くていい音がしています。前回出なかった中音のGやAの音が出るようになっていました。
練習がんばってくれたんですね。うれしいです。
明日は運動会。得点係をするそうです。かけっこではなく、係りをするのが楽しみだそうです。
夜は父と2人、夕食を食べて、自主練しながら母を待ち、11時前に帰ってきました。
みんな頑張っています。私もがんばらなくちゃ。
水生植物園の温室に咲いていたネコノヒゲという名前のシソ科の植物。インド マレー産クミスクチン茶の原材料です。健康茶だそうです。私は飲んだことがないけれど・・・。
耐寒性がないそうですが、最近の関西なら耐えるかも。アレルギーがあるので猫は飼えないけれど、お花なら大丈夫。一度育ててみたい花です。
「学ぶ」ということについては、人間は子どもの時が一番能力があるそうです。
そりゃそうですね。
赤ちゃんは、生まれて3年くらいで、食べることを覚え、立つことを覚え、歩くことを覚え、言葉を覚えます。
音楽について言えば、6歳までに鍛えなくては絶対音感は覚えられないとも言われています。(・・・でも本音を言えば、人生80年時代。たくさんの方が、以前は無理だと考えられていたことに挑戦し、習熟したり、すごい記録を出していることを思えば、そう諦めることもないかもしれないと私は思っていますが)
比較して相対音感は、成人してからも鍛えられます。
私も長いこと相対音感がわかるようにいろんなことをしてきました。
1日何時間もスケールやアルペジオをやったり、歌ってみたり、ピアノを弾いておいて音名を当てるゲームをしたり。
しかし、どれも効率が悪く、あまり効果を感じませんでした。
それはやることが悪いのではなく、筋肉技というか、反復していればいずれわかるようになる。という感じの練習で、いいところもあって、指は早くなったし、調性の配列、GというとB、Dなんていうのが自動的に動くようにはなりました。
ですが、肝心の音は、3時間吹きっぱなしで吹こうと思うと、はじめからそういう体や、集中力になってしまうんですね。なので、あまり聞けていなかった。
それにわかならない人が、自分の音だけを聞いても、なかなか高いのか、低いのか?がわかるようにはなりません。
では、どうしたらいいのか?
赤ちゃんは、自分の中から言葉が出てくるわけではありません。親や周りの人の言っていることをまねて、言葉を覚えていくのです。
それだけでなく、発生語まで行かなくても、口を動かしたり、舌をうごかしてみたり、口の中の動きをいろいろな形にしてみたりいろんなことを試しています。それから、話しては、正されたり、伝わらなくて言い直したり、でもまたすぐ新しいことを試してみたり。
何が言いたいかというと、人を真似して、人に聴いてもらって、人に修正して貰うと、学ぶ効率が断然いいということです。
ハ長調のスケールを吹いてみて、聴いてもらって、ここがこうと言葉で修正してもらい、わかるまで吹いてもらって,また吹く。
そういう過程でI先生にレッスンをして頂くと、私も少しずつ音がわかるようになってきました。
その際、修正されると突然パニックになって、固まってしまうと先に進みません。
私もほうっておくとパニックになります。
なので、勇気を持つこと、今ここで誤りがわかってラッキーと思うことです。
赤ちゃんは伝わらないと、すぐまた親の様子を観察して次のやり方を試します。
なぜ、そうするのか?
親や世界をまるごと受け入れていて、信じていて、興味深く、おもしろいと思っているから。
できないかもしれないなんて思い悩んだりするよりも、好奇心が勝つから。
それに親のこのやり方は間違っているかもしれないとか、やる前に疑うことも無い。
ただ試したい。試してダメだったら捨てればいいのです。
やってみないことには、何もわからない。
音楽家にはいろいろな人がいます。
でも、より前向きで、人を信じている人が成功しやすいと私は思っています。
昨日、次男が福山に帰って家が静かです。
さて、今日は庭仕事。
シクラメンを植え替えて、すだちの収穫。
すだちは前の家では鉢植えで、「アゲハの幼虫に食べさせよう。」と虫好きの夫が子どものために買って来ました。
以来、膝丈くらいの大きさで、一年に4個食べられればいいほうでした。
それが2010年に、引っ越して小さな庭ができたので、地面に植えてみました。
2011年位のすだちの木。この年は胸位になって、8個ほど採れました。
「急に大きくなったなぁ。」
2014年、ちょっと採れました。少しづつ採って食べていたら、収穫が遅れて、もう黄色です。それでもよく絞れました。
そして、今年、大きくなりすぎると収穫するのに手が届かなくなるので、切り戻したところ、新芽も切ってしまい、収穫を諦めていたところ、実はあちこちついていたらしい。
こんな感じ。
まだまだあります。
こっちも
南は川側で、こちらかには、すだちと一緒についてきた南天の枝葉のおかげで、実がよく見えなかった。
近づいて、ちょこっと切るはずが、誤算でした。
色が薄くなっているのは、出来すぎたわけではなく、密植しすぎたせいです。
実と実がくっついて日が当たらないところが、黄色くなっているのです。
調べてみるとそうならないように実を間引きなさいとかいてありました(^^;)
冷蔵で持ちますが、これだけのすだちを入れる冷蔵庫がありません。
それではっと、ご近所のお友達に一斉メール。
10軒回って、家に帰ったら、すだちが梨や甘長とうがらし、ゴーヤーに変身していました♡
わらしべ長者・・・すだち長者です。ホクホク。
ゴーヤーはマグロ缶と炒めて、すだちを絞って食べたら、絶品。
トマトはうちでとれたもの。もうおしまいで大きくなりませんが、甘くておいしかった。
琵琶湖の帰り草津の道の駅で買った近江牛の牛すじ肉。400gで1000円。安い!
圧力鍋で玉ねぎと炊いて、じゃがいも、人参、ニラ、しめじと合わせて甘辛く煮て、しょうがをかけました。
お肉はトロットロ。お野菜も味がしみておいしかった。
次男はちゃんと食べてるかなぁ?
一緒に食べたかった。
琵琶湖博物館に隣接している水生植物園は、睡蓮の展示に力を入れています。
ロータス館という、温室もあるので、いつ来ても睡蓮の花が見れます。
普段あまり目にしないせいか、水の中から咲いている様は不思議で何か特別なものを感じます。
大賀蓮。これは数少ない今の季節に外で咲く花です。
ダスティン ホリエ エヴァリエゲリテット。
ここからは温室栽培。
サーガラハット
美しいなぁ。
まだまだありますが、ぼちぼち紹介します。
夏休みがようやく終わり、次男が明日福山に帰ります。そういえば、来た時に「琵琶湖博物館に行きたい。」と言っていたのを思いだし、両親も誘って行ってきました。
渋滞するも、意外に流れて1時間半位で到着。
琵琶湖は、ヨット大会?ジェットスキー大会とにぎやかですが、それを横目に、琵琶湖博物館へ。ここも大混雑。
黄河象のレプリカ。250万年位前には琵琶湖は大陸と地続きだったそうです。
体験しながら学べるようにいろんな仕掛けがあります。
ミトコンドリアやミジンコなど小さな琵琶湖在来生物もみられます。
気になったのはこれ。あけるなって、展示台の上。
これは、やっぱり仕掛けなんだろうか?次男、好奇心に負けてチラ見してしまいました。ごめんなさい。私も好奇心に負けて見ました。馬鹿な親子です。中味は言えません。
ここで残念な事実。
水生生物館がリニューアルのため、工事中・・・次男、ここがお目当てだったのに・・・。
気を取り直して水生植物館へ。
リコリス 秋月がお出迎え。
キサントソーマという熱帯植物。大きな葉です。ここに柄杓が置いてあって、お水をかけてくださいと書いてあります。柄杓で水を汲んでかけてみると、
水はたまになってコロコロと弾いてすぐに全部落ちてしまいます。
おもしろいので何度もやってしましった。
それから、この角のある植物は?
大オニバス。
これは、果物?
オスモシロキンという植物のお花でした。
いくつになっても好奇心を満たすのはおもしろい。
最後に草津の道の駅によって食料品を買って、帰りました。
暑い暑い夏が過ぎ、元気がなかったガーベラに花が戻って来てくれました。
FBのいいところは、いろいろな人の見方がわかるところ。
一つの記事もいろんなコメントが寄せられます。正直、嫌になっちゃうほど、醜悪な誹謗中傷のようなコメントもあるけれど、
メディアの読み方もいろいろあるんだってことが、わかっておもしろい。
面白かったのは、産経新聞の世論調査 安保法案でデモ参加者は全体のたった3.4%、これからデモに参加したいと思っている人は18.3%に過ぎない。という報道に、日本の人口に当てはめて計算した人がいて、人口の3.4%は425万人、参加したい人18.3%は2196万人だって。
合わせると21.7%国民の約2割。
5人に一人が安保反対デモに参加したか、参加したいと思っているということ。
そういうふうには記事からは私は読めなかったなぁ。
同じものを目にしていたり、聞いていたりしていても、人によって受け取るものは全く違うということを教えられました。
それに、元気な人たち、諦めない人が世の中にはたくさんいるということがわかって、私も元気になってきました。
FBは、ほとんどはたわいのない話。
寒くなってきたとか、散歩してたら、山に雲がかかったとか、美味しいものを食べたとか、地域のお祭りを手伝ったとか、
でも、それが大事なんだと思います。意見だって、いろいろある。全面的賛成、部分的賛成、積極的賛成、消極的賛成、積極的反対、消極的反対。変わることも有るし。
意見が違う人を敵とか味方とかいったら、ナチスの全体主義と同じ。
意見はみんな持ってもいいし、表明する権利もあります。
意見は違っても、自分と同じ、他愛のない生活の中の喜びや、悲しみを持つ人がそこにいると、見えていれば大丈夫。きっと。
今日はいろいろあって、言葉がどうしてもまとまりません。
書き始めては消し、半分書いては消し。
言えるのは安心がなくなったこと。そして、諦めないこと。
ネルソン・マンデラの言葉を代わりに投稿します。
生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
転ぶたびに起き上がり続けることにある。
我々が自分の持つ恐れから自らを解放するとき、
我々の存在は、同時に他の人々をも解放することができるのである
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。
人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。
遺恨の念は、毒を飲んでおきながら、それが敵を殺してくれると期待するようなものだ。
我々は自分に問いかける。
自分ごときが賢く、優雅で美しく、才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか?
だが、そうあってはなぜいけない?
私は民主的で自由な社会の実現のために生きている。
しかし、もし必要あらば、その理想のために私は死ぬことを覚悟している。
刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。
国家は、どのように上流階級の市民を扱うかではなく、どのように下流階級を扱うかで
判断されるべきだ。
人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、
また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、
不可能なのです。