音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

うお座の男

2024-12-31 21:01:00 | バロック
30日午後3:30過ぎ京田辺市の母のところへ行くと
「掃除はもうしないからいい。」と元気がない様子。
聞いてみたら何日か前から、咳が出て、熱があるらしい。

「病院に連れて行って。」
あらら…。
「来る前に行ってほしかったな。」
3人で来てしまった。コロナとかインフルだったら全滅。

京田辺市休日応急診療所
年末年始9:00-5:00やっていますが、要予約。
予約は8:30-14:30受付

田辺中央病院
休日、年末年始やっているということでしたが電話すると「混み合っていますので待つか、おかけ直しください。」 何度かけてもだめです。

中村病院
年末年始休診

公済会病院
繋がりました。
84歳、大動脈弁の手術をして、37.2度でも咳が止まらず、しんどいと伝えると
2時間待ちでよければということで連れて行くことにしました。

電話をしている間に庭木の剪定をしてくれていた夫と次男が車を出してくれました。

私はのこって植木の後片付け。

実家で待っていると、40分ほどで次男から電話。
「終わった。風邪の治りかけで大丈夫。今から帰る。」ということですぐ帰ってきました。
「そんなに待ってなかった5組位。」
「薬飲んだら熱下がって楽になったわ。」と母もさっきより元気そうです。
今度は近所のスーパーへ、母の買出し。
帰ると妹と姪がきていました。

料理の用意も半ば母がしてくれていて
「フグがあるから。」というので次男が薄く切って、残りはフグ鍋。

咳も止まって、さっきとは別人の母。
久しぶりに妹と姪と会えたのも良かったのか。
私も、団らんが楽しかったです。

トマーゾ・アントニオ・ヴィターリ(1663年3月7日 - 1745年5月9日)
イタリア ボローニャ生まれ、イタリア モデナ没


は作曲家、ヴァイオリニストでした。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリの長男として生まれました、

ヴァイオリンと通奏低音のためのト短調のシャコンヌで主に知られ、伝統的にこの作品の作曲者とされています。

この作品は、ドレスデンのザクセン州立図書館の原稿から出版され、ドイツのヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィドが編集した『ヴァイオリン演奏高等学校』(1867年)に掲載されました。

ドレスデン写本の最初のページ
この作品は遠音への幅広い転調があるため、純粋なバロック作品ではないという憶測が飛び交い、またヴィターリの他の作品との類似点がないため、現代の学者は作曲者認定に疑問を投げかけています。

シャコンヌ ト短調
ヴィターリのシャコンヌに関する最も古い文献は、ドレスデン国立図書館に所蔵され、Mus. 2037/R/1の棚番号が付けられた写本です。

ドレスデンのザクセン州立大学図書館

この写本は、ドレスデン宮廷楽長で働いていた写字生、ヨハン・ゴットフリート・グルンディッヒまたはヨハン・ヤコブ・リンドナーの手によるものと特定されており、1730年頃から1740年頃のものと推定されます。

シャコンヌは、転写時にドレスデン写本の最初のページの上部余白に「Parte del Tomaso Vitalino」(トマソ・ヴィタリーノのパート)と記されていました。
しかし、ヴィタリーノという作曲家は知られていません。

「ヴィタリーノ」のシャコンヌのスタイルの特徴の1つは、調性が激しく変化し、変ロ短調や 変ホ短調の広範囲に及ぶことです。
これはバロック時代には見られなかった転調で、調性の変化が一般的になったのはロマン主義になってからです。

しかし、17世紀のヴァイオリン作品には先例が存在します。

トマーゾ・ヴィターリのシャコンヌと特に関連があるのは、父ジョヴァンニ・バティスタの作品で、最も重要な作品の
Passagallo che principia per B. molle、e finisce per Diesis、およびBalletto à due ... che il Violino sona per B. molle、e il Violone sona per diesis です。

非調和変調の顕著な例は、1677 年のゲオルク・ムファットのヴァイオリン・ソナタにも存在しています。
なので、最終的な結論は出ていません。
そして、この曲は多くの疑問にもかかわらず現代でも人気の作品です。

なぜ?ヴィターリかって?
それはフグ鍋に因んでヴィターリがうお座の男性だからです。

魚座の男性は、芸術家タイプが多いく、独特の感性を持った不思議キャラ。競争社会を嫌い、自分の個性を生かせる場所を好みます。

また、人の心を落ち着かせるプロ。優しい言葉をかけてくれます。

ですって、シャコンヌで癒されたあなたうお座の男性と相性抜群なのかも…なんちゃって。





箒を持って踊るヒロイン

2024-12-30 20:49:00 | 近代
年賀状を出そうと近所の郵便局に行こうと、歩いていると椿の花が咲いていました。

季節を感じます。
うちでは小さな葉牡丹の寄せ植えを買ってきて植えました。

大きさ一つ3センチ位。
お正月飾りは以上。
とにかく貯めに貯めた机の上のあれやこれやを片付け、水回り、台所トイレ、洗面所、お風呂をせっせと洗い。
長男がなぜかくれたコーティング剤をぬりました。
これ、なかなかきれいです。
しかも汚れにくいらしいです。
塗って6時間待たないといけませんが…。

夫がコンクリートの駐車場を高圧洗浄機で掃除。一皮むけたみたいです。

しかし、1年まめた汚れはまだ落ちません。

明日は実家の掃除です。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト演奏モスクワ没
作曲のバレエ音楽「シンデレラ」は1840年「ロミオトジュリエット」の成功を経てキーロフ劇場から作曲依頼がありました。

しかしドイツのソ連侵攻やオペラ『戦争と平和』の作曲によって作業は中断され、完成は1944年、初演は1945年までずれ込みました。
台本はニコライ・ヴォルコフ、振付はロスチスラフ・ザハロフ、美術はピョートル・ウィリアムス、ガリーナ・ウラノワでした。

初演は成功し、プロコフィエフは1946年交響曲第5番ピアノソナタ第8番などと併せてスターリン賞受賞しました。

貴族の娘シンデレラは、母を亡くします。その後やってきた義母は連れ子の姉2人とシンデレラを召使いのようにこき使います。

その国の王子は、結婚相手を見つける舞踏会を開きます。姉たちは着飾って出かけますが、シンデレラは家を掃除するように言われ残ります。
そこに魔法使いが現れ、かぼちゃを馬車に、ネズミを騎手に変え、シンデレラにドレスを着た姿に変えお城に送り込みます。

シンデレラは舞踏会で注目の的になり、王子の心を捉えます。
しかし魔法は12:00の鐘が鳴ると解けてしまいます。
慌てて帰るシンデレラはガラスの靴を片方落として帰ります。
王子は「ガラスの靴を履けた人と結婚する。」とお触れを出し、シンデレラを探します。
城下の娘たちはみんなガラスの靴を試します。
シンデレラの姉たちも試しますが失敗。
最後にシンデレラが試すと靴はぴったり入ります。
王子と再会したシンデレラは彼と結婚し、末永く幸せになりました。

このバレエ音楽では、珍しく箒を持って踊るシーンがあります。






フランス王宮の絨毯と音楽

2024-12-29 21:02:00 | バロック
年末。やっと休みになった夫と次男が家にいる間に、ずっと変えたかったすり減ったマットの交換。
コーナンに行って切り売りのマットを敷くことにしました。
台所のカウンターやや食器棚の形にマットを切って

床下収納の形に切って
両面テープで貼って。



なんか良い感じじゃない?
だいぶ部屋が明るくなりました。
足元温かいし。
全体の掃除は明日かな。

うちのカーペットはシンプルな安いものですが、
フランスの絨毯は
1608年、アンリ4世(1553-1610年)


がピエール・デュポンの指示したㇳルコ式の絨毯の生産に始まりました。

この生産場所は、パリのすぐ西のシャイヨのサヴォナリーSavonnerie工場に移動しました。

SavonnerieとSimon Lourdetにより製作された絨毯がいわゆるルイ13世絨毯です。

それらは花瓶や籠の中に花とともに飾られます。
デザインはオランダ風、フランダース風の織物および絵に基づいています。

最も有名なSavonnerie絨毯はグラン ギャラリーGrande Galerie


とギャラリー  ダポロンGalerie d'Apollon






のために作られたものです。

ルイ14世(1638-1715年)

が1678年にヴェルサイユ宮殿に移ったとき、シャルル・ルブラン(1619-1690年)

の指示により作られた105の傑作は使用されることはありませんでした。

それらのデザインは、アカンサスの葉、建築様式の縁取り、および神話の場面(チェーザレ リパ1555-1622年
のイコノロギア
Cesare Ripa's Iconologie)という著作お手本にしたもので、ルイ14世の権力のシンボルを表現するものでした。

18世紀中ごろのデザイナーではピエール ジョズ ペロー(Pierre-Josse Perrot1678-1750年)が最もよく知られていす。

彼の作品と図面は、優雅なロココ様式の巻物、主要なバラ結び、シェル、アカンサス葉、および花の飾りで有名です。

サヴォナリー Savonnerie工場は、1826年にパリのゴブランに移動しました。
ボーヴェBeauvais工場は1780年から1792年までパイル絨毯を作りました。

オービュッソンAubussonの工場での生産は1743年に始まりましま。

フランスの絨毯が始まり、もっとも、栄えたルイ14世の時代、彼の宮殿で響いていた音楽は主にジャン パテイスト リュリ(1632-1687年)

そしてマラン マレー(1656-1728年)
 
ヴェルサイユの音楽でした。

ルイ14世の建築、敷物、音楽そのすべてが彼の力と繁栄を示すものでした。

1.壮大な戦争の空気(ジャン=バティスト・ド・リュリ、1707年)
2.組曲第1番ニ短調よりアレマンド(マリン・マレ、1686年)

3.ブーレ (J-B リュリー、1707)

4. クーラント第1組曲 ニ短調 (マレ、1686年)
5.バスルーム付きグランドエアー(J-B Lully、1707)

7.オーベルチュール〜シャコンヌ(J-BLully、1690年)

8.ロンドー (J-B Lully、1707)

9.愛の前奏曲 (J-B Lully、1681)

10. トルコ人の儀式のための行進(J-B Lully、1670年)



ビウエラと19世紀ギターとギター

2024-12-28 21:06:00 | 楽器
19世紀ギター。
聴き合い会で樋口さんが、弾いてくれました。

かわいい模様があります。

1820年頃のフランスの楽器だそうてす。


やはり聴き会い会で斎藤さんが弾いてくれたビウエラと似ています。

ビウエラは14世紀のイベリア半島(現在のスペイン周辺)で流行りました。
4コースの複、8本の弦が張られています。
19世紀ギターは、単弦
6本の弦が張られています。
もう少し経つとより大きな音を求めて現代のクラッシックギターが作られます。


ビウエラは一度忘れ去られ今世紀に入ってから書物の姿を見て復元されました。

聴き比べてみましょう。
19世紀ギターは復元ではなく、使われていたものが伝わっています。
「トリスタンの嘆き」14世紀イタリアの俗謡です。
ビウエラによる演奏です。

ソルのエテュードop31-8 19世紀ギターによる演奏です。
ソルの同じ曲で現代のクラッシックギターです。


トラヴェルソと通奏低音

2024-12-27 21:00:00 | バロック
木曜日は、今年最後の「聴き合い会」でした。
今回は古楽器のヴィオラ・ダ・ガンバの有馬さんとフルートトラヴェルソの今川さん、田中さんのハッセのソナタを演奏。

リュートの樋口真希さん

ビウエラの斉藤さん

1820年頃の6キーのフルート

でボワモルティエを吹いたのは角谷雅一さんとピアノ神澤さん。

もちろんモダンフルートやいつものギター。
クラリネットの小林さん

が来てくれてピアノの神澤さんと一緒に「ドリー組曲」を演奏しました。

ヨハン・アドルフ・ハッセ( 1699- 1783年)神聖ローマ帝国ベルケドルフ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没。

1740年
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受けます。

素晴らしいテノールの声の持ち主だったため、彼は劇団員の道を選び、1718年にラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加しました。

ハッセは歌手として成功を収めたことで翌1719年にブラウンシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、その後作曲も担うようになり、この地で1721年に、オペラ『アンティゴノス』(Antigonus)をもって作曲家デビューを果たしました。

この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させました。 

ハッセはヴェネツィア、ボローニャ、ローマを訪問したのち1724年にナポリへ着きます。

ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725年)


と親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けました。

彼の作曲した二声のセレナータはスカルラッティから学んだ音楽で作られ、成功を収めました。

この成功によってハッセの名声は高まり彼は単に有名なだけではない人気を得、ナポリ人から「親愛なるザクセン人(イル・サロ・サッソーネ)」と呼ばれるようになりました。

1726年にナポリの宮廷オペラのために作られた作品『セソストラート』(Sesostrato)は、彼の名をイタリア中に知れ渡りました。

1727年にヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のヴェネツィア貴族の娘ファウスティーナ・ボルドーニ、人気台本作家の詩人ピエトロ・メタスタージオと出会います。
メタスタージオとハッセは意気投合して親友となり、以後2人は終生の友情を保った。

1730年にザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷楽長に任命されたハッセは、直後にファウスティーナ(1697-1781年)
ファウスティーナの肖像(ロザルバ・カッリエーラ画、1730年代)
と結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得ました。

ザクセン公はすぐにドレスデンへ来ることを望みましたが、ハッセはおそらく妻の要望によってヴェネツィアに1年間留まり、ドレスデンへ移ったのは1732年の7月でした。

ハッセは9月にドレスデン初のオペラ『クレオフィーデ』の作曲をすると、後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移りました。

ロンドンで彼は、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この大家の競争者になるように誘いをかけられています。
しかし彼は賢明にもそれを丁重に断って、ロンドンには貴族オペラ・カンパニー発足のこけら落としとして上演されるオペラ『アルタセルセ』(Artaserse)(初演は1730年、ヴェネツィア)のリハーサルを監督をするだけの期間のみ滞在し、1734年になるとドレスデンに戻りました。

ファウスティーナはドレスデンで歌手として活躍していましたが、1733年にフリードリッヒ・アウグスト1世が崩御し、フリードリッヒ・アウグスト2世(1794-1773年)
が即位した後、次第に彼女の宮廷での人気が衰え、ハッセにヴェネツィアへ帰るように促します。

ハッセは長期休暇を取る権利を与えられていた為、望まれる度に外国へ招かれ、特に妻ファウスティーナの実家のヴェネツィアには妻を伴って度々赴き、妻が望むままに長期滞在を重ねました。 

ハッセはイタリア人に、その官職と貴族の養子であることから、シニョーレ・サッソーネ(ザクセン卿)と呼ばれ、敬愛されました。

プロイセンには国王フリードリッヒ2世(1712-1786年)

の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行いました。

フルート奏者でもある国王はハッセのフルート音楽も愛好していたと見られています。

1943年以降はウィーンにも度々訪問し、アントニオ・カルダーラ亡き後創作意欲を欠いていたメタスタージオを喚起させ、彼の台本によるオペラを初演しました、その間ドレスデンでも積極的に作曲し、その影響はドイツの他の都市にも広まりました。

1763年にフリードリヒ・アウグスト2世が崩御し、ハッセは高額の年金をもらい受けて宮廷楽長の職を引退しました。
しかしハッセの創作意欲はいまだ衰えず、彼は家族とともにウィーンへ移り、親友メタスタージオの台本で、更にいくつかのオペラ作品のウィーンでの初演を担いました。

1765年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741|1790年)

の戴冠式では祝典の為の音楽劇《エジェリアEgeria》の作曲を努める栄誉を得ました。

彼の最後の劇場用作品は、ミラノでのオーストリア=エステ大公フェルディナンドの婚礼のために制作された
オペラ《ルッジェーロRuggiero》(1771年)です。

既に引退していたハッセでしたが、大公の母マリア=テレジアがこちらも引退を決めていたメタスタージオに、ハッセが音楽を作ることを条件に台本作製を引き受けさせていたので、ハッセも親友の最後の仕事に力を貸す決断をしました。

同時に15歳のウォルフガング・モーツァルトの作品、セレナータ「アルバのアスカーニオ」も上演されました、

この時ハッセが「このような才能が出てきては我々はすっかり影が薄くなってしまうだろう」と言ったとレオポルト・モーツァルトの手紙に記されています。以前モーツァルトに会った時のハッセは友人への手紙に「父親が息子を甘やかしてその才能を駄目にしないか心配だ」とモーツァルトの将来を慮っています。

1781年ファウスティーナが没し、翌年メタスタージオがこの世を去ると、翌1783年にハッセも、名誉と成功に彩られた84歳の生涯を終えました。

ハッセとファウスティーナは共に同地のサン・マルクオーラ教会(Chiesa di San Marcuola)に埋葬されています。

アリア「やさしい4月の緑に」トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、ソプラノの演奏です。


田舎の騎士道

2024-12-26 21:06:00 | ロマン派
火曜日は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
少し早くつきすぎて、門の前で待っていたら

にゃ〜!

と足元に絡みついてくるフレンドリーな猫さんが…。

野田先生がやがて着かれて「えりちゃん、フレンドリーでしょう?」
昔飼っていた黒猫のクロベにそっくり。
連れて帰りたい✨

レッスンは基礎練とオールドチューンズの最後の曲「
なんとか終えて、オールドチューンズ卒業しました。
まだまだよちよちですが…。

後は来年1月19日の発表会で演奏する「カヴァレリアルスティカーナ」の間奏曲。
こちらはまだまだ…。
楽な指使いを教えてもらって目からウロコでした。
フルートだと替え指の他は指使いのことは考えなくても良いので、思いもしませんでした。
指使いのこと、もっと研究しようっと!

ピエトロ マスカーニ(1863-1945年)イタリア王国リヴォルノ生まれ、イタリア王国ローマ没

パン屋の両親の元に生まれます。
父はピエトロに法律を学ばせますが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学びます。

20歳で交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められます。
後援者の後押しでミラノ音楽院
ミラノ音楽院
に入り、アミルカレ・ポンキエッリ(1834-1886歌劇「ラ・ジョコンダ」時の踊りで有名)

に師事しましたが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始めます。

その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となります。 

1890年に、ローマの楽譜出版社ソンゾーニョの一幕歌劇コンクールに『カヴァレリア・ルスティカーナ』で応募します。
この歌劇は驚異的な成功を収めます。

しかし、これがその後の多くの作品を作ることを霞めてしまいました。
それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残しました。

1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。

ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。
このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じました。
遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノ再埋葬され、それと共に名誉回復されました。

歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』( Cavalleria Rusticana)


は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガ(1840-1922年)

による小説(1880年出版)戯曲(1884年初演)、にピエトロ・マスカーニが作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)です。
題名は「田舎の騎士道」という意味です。

台本

ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされています。

一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝。

マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となりました。

初版版
歌劇「カヴァレリア ルスティカーナ」

シチリア島のある村。
復活祭の朝。
トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人でした。
しかし、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまいました。

除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約します。

が、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまいました。

このことを知ったサンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまいます。
アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔します。

ここで間奏曲が演奏されます。

教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯します。
アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断ります。
緊張した空気の中、二人は決闘を申し合わせます。
アルフィオとトゥリッドゥが決闘前の儀式として抱擁する場面
トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌います。

トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥが殺された!」

という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕となります。





チャイコフスキーの「運命」

2024-12-25 21:03:00 | ロマン派
月曜の夜は6:30〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

階段を昇って、ドアを開けると
「あれっ?!なんでいるの?」と思わず声が出てしまいました。

ドルチェ楽器の安川さん。
どうも樹脂のバスフルートを榎田先生に言われて売りに来たらしいです。

しかも、エスカルメンバーがバスフルート在庫最後の2本をお買い上げ。
びっくりしました。

おかげでバスフルートを吹くメンバーがいっぱい。
というわけでバスフルートを私がエスカルメンバーとして吹くという需要がなくなってしまいました。

でも…でもSANKYOのバスフルート欲しいなぁ…。
どうしようかなぁ。
いずれにしても受注生産なので、あれが回ってくれば買っちゃうかもしれないけれど…。

もし来たら運命だな。これは。
来ない確率高そうだけど…。

年内最後の練習なので、忘年会でした。
1年間お世話になりました。良いお年をとご挨拶。
今年もフルートアンサンブル楽しかった!呑み会も!!
写真撮るの忘れました。

『運命』と言えば、ベートーヴェンの交響曲5番ですが、「運命」 作品77は、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が作曲した管弦楽のための交響詩、または幻想曲です。

1868年28歳の時に作曲されて1869年に初演が行われました。

ところが、後年チャイコフスキーが総譜を破棄してしまい、作曲者の死後3年経ってから遺作の作品番号を付されて出版されました。

チャイコフスキーが作曲に着手したのは1868年の9月末から10月初めにかけてでした。

いったん作曲を中断した彼は演奏旅行中のベルギーのソプラノ、デジレ・アルトーへと意識を集中させました。

デジレ・アルトー(1835-1907年)
彼はアルトーに恋愛感情を抱いていました。2人は結婚について話し合い、計画を先へ進めるべく1869年の夏にパリで再会することにします。

アルトーはオペラ会社との演奏旅行を続けるために彼と別れてワルシャワへと旅立っていきました。

チャイコフスキーは1868年11月2日までに曲の骨組みを固め、同年12月には記譜を終えました。

初演が行われたのは1869年2月27日にモスクワで開催されたロシア音楽協会の第8回演奏会で、指揮はニコライ・ルビンシテイン。

作曲時には既存の筋書きが基になったわけではありませんでしたが、初演に際してコンスタンティン・バチュシコフによる人間の生命の無常さを綴った韻文の言葉が総譜の標語として追加されました。

しかし、これがチャイコフスキー自身の発案であったのか、そもそも彼がこの韻文に精通していたのかどうかも定かではありません。
バチュシコフの韻文が陰鬱な主題である一方、音楽は壮大な、抒情的で、喜ばしいフィナーレと明るめの全体像の音楽となっていて、聴衆は両者の不一致に困惑しつつも音楽には温かい称賛を贈りました。

初日の夜、チャイコフスキーは弟のアナトーリに手紙をしたためています。

「あれは私がこれまでに書いた中でも最高のもののようです。少なくとも、人々はそう言っています(かなりの成功でした)」

続いてチャイコフスキーはミリイ・バラキレフの元へ総譜を届け、作品の献呈を受諾してくれるように頼みました。バラキレフはこれを受け入れ、自身がこの音楽をどう思うかに関わらず別途演奏の機会を設けると伝えました。

こうして本作は3月29日にサンクトペテルブルクにて行われたロシア音楽協会の第9回演奏会でバラキレフの指揮により再演さる運びとなりました。

しかし、再演での聴衆の反応は初演の時のように芳しくはありませんでした。

バラキレフがチャイコフスキーに宛てた手紙に

ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役

「貴方の『運命』はサンクトペテルブルクで]ほどよく上手い具合に演奏されました。(中略)拍手はあまり大きくありませんでしたが、これはおそらく曲の最後に置かれた訴えかけるような不協和音のためでしょう。

私も全く好まない部分です。
適切に練られておらず、非常にぞんざいにあつらえられたかのようです。
継ぎ目が顕わになっていますが、貴方の不器用な継ぎはぎは全てそうです。 

なにより、形式自体がさっぱり機能していません。全体が全く以て統一されていないのです。(中略)私はすっかり正直な気持ちで貴方へ書き送っています。貴方が私へ『運命』を献呈する意志を取り下げたりしないであろうと確信してのことです。貴方の献呈は私に対する思いやりのしるしとして私にとってはかけがえのないものです - そして私は貴方に深く心酔しているのです

M.バラキレフ - 心からの愛をこめて」

この頃、チャイコフスキーとデジレ・アルトーの両者の心中では共に結婚の意思に変化が生じていました。

双方ともそのことを相手に伝えたわけでありませんでしたが、それでもチャイコフスキーはニコライ・ルビンシテインを通じて彼女が別の男性と結婚したことを知らされてショックを受けました。

相手はスペインのバリトン、マリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスで、1869年9月のことでした。

チャイコフスキーがこの曲に向けていた好ましい見方も変化していきました - 彼はこれを失敗作とみなすようになりました。

1870年代に原稿を破棄してしまい、作曲者の生前には2度と演奏されることも出版されることもありませんでした。

しかし、彼はこの曲の抒情的主題をオペラ『オプリーチニク』
『オプリーチニク』の舞台美術となった町の通りの風景。アポリナリー・ヴァスネツォフ画、1911年。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。

チャイコフスキー没後の1896年、オリジナルの管弦楽パート譜を元に総譜が再構成され、作品番号77として出版されました。



アラゴネーズ

2024-12-24 21:33:00 | ロマン派
月曜朝は、自宅でチェロの斉藤千秋さんとピアノの坂田恭子さんとビゼー「カルメン」編曲版の合わせをしました。

早目に来た坂田さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を練習していると斉藤さんも早目に出たようで、早目に着きました。
お茶を入れようとすると「お茶はいいから、先に早く合わせましょう。」と斉藤さん。

まじめな方です。

カルメンの「アラゴネーズ」「アルカラの竜騎兵」「間奏曲」「ジプシーの踊り」をフルート、バスーン、ピアノのために編曲したものをフルート、チェロ、ピアノで演奏しようと言うのです。ビゼー

バスーンをチェロで。というと全く違うように思いましたが、音域が、同じという事もあってあまり違和感が無いです。

アルカラの竜騎兵などは、ピチカートを使うのがなかなかいいです。

一通り演奏したら落ち着いたのか「お茶を飲んでからやってもいいですか?」と聞くと「はい。」ということでようやくティータイムになりました。

お茶の後は「こんな楽譜を持ってきたけれど…。」と斉藤さんご持参のヴァイオリン、チェロ、ピアノのための小曲集を出されて、シューマン「トロイメライ」シューベルトの「子守唄」、マスカーニの「カヴァレリア ルスティカーナの間奏曲」などを初見で合わせました。



楽しかった!

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国プージヴァル没

作曲のオペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』を元に、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレット(台本)を作り、ビゼーが作曲した4幕もののオペラです。
音楽(歌)の間をレチタティーヴォではなくメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれていました。

1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座で初演されました。

「アラゴネーズ」は第4幕への間奏曲の後に演奏される曲で、
スペインの地方である「アラゴンのダンス」です。

アラゴン王国
アラゴンとは1035年に起源を持つアラゴン王国から始まる地域でイスラム教の影響が残る地域です。

オペラ「カルメン」ではこのあと第4幕の幕が上がり、お祭りが始まり物売りの声が響き、観客たちが待ち受ける中、闘牛士たちが入場してきます。
祭りの喧騒や闘牛士エスカミーリョに惹きつけられるカルメンに、捨てられたホセが悲劇を起こします。



クリスマス・ツリー

2024-12-23 21:03:00 | ロマン派
土曜日に行った梅田エスト1とナビオの間の道は小さなお店のショーウィンドウが並んでいます。
今の時期はクリスマスツリーの饗宴。
楽しくて、写真撮りまくってしまいました。

ピンクと白は、かわいい婦人服のお店。
こちらはモード系の婦人服。

カジュアルな洋服屋さん。

こっちはバッグの専門店

これは何だったのかな?わからなくなってしまいました。

フリフリレースのかわいい服のお店。
ナビオの入口はハローキティのクリスマスヴァージョン。

ナビオの入口前のクリスマスツリー

これは三階建ての建物くらいの高さがありましたが、こうやって撮ってみると周りの建物が大きくてさほど大きく見えませんね。

北ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の冬至のお祭り「ユール」から系譜を継ぐものではないかと言われています。

ゲルマン民族は「ユール」の際、樫の木を「永遠の象徴」として祭祀に用い、崇める対象としていました。

ユールログ1832年
クリスマス前夜に炉で焚く大きな薪のことで、発祥は中世ドイツといわれ。森で巨木を伐採して、多くの場合リボンで飾られ、家へと運ばれるます。
家に運ぶ際、同行しているうちで最年少の者は、薪の上に乗り、ブルターニュでは、家族の最年長者と最年少者がこの薪に乗って、祈りをささげました。
樫の木に代表される常緑樹を信仰する風習は、ゲルマン民族だけでなく、古代エジプト、中国、中近東など世界各地で確認されています。
 
古代ヨーロッパでは、強大なローマ帝国が徐々にその版図を広げていきます。キリスト教を国教とするローマ帝国は、キリスト教以外の宗教を認めなかったため、異なる宗教を持つ他民族としばしばぶつかることとなりました。

そんな中、8世紀のドイツ(当時のフランク王国)において、キリスト教布教活動のためにゲルマニアの地に踏み入れた宣教師が、ゲルマン民族のお祭り「ユール」に遭遇します。 

そんな異教の信仰を止め、正しいキリスト教の道へと導かなければと考えた宣教師は、樫の木を切り倒します。 

するとそのすぐそばからモミの木が生え、それを見た宣教師は「奇跡の木だ」と感動します。

と言うのは、モミは横から見ると三角錐型をしており、頂点に神、両端に神の子イエスと精霊が繋がっている「三位一体」を体現していると捉えられたためです。
これが、のちのクリスマスツリーとなりました。

ただ、これは「オーディンの樫の木」として伝わっている神話です。実際には、他民族を懐柔・征服する過程で、土着信仰の行事とキリスト教が融合していったのではないかと言われています。

常緑樹が使われるツリーは、古代から続く「永遠の象徴」を表現した存在です。
キリスト教では、これに加えて「神の永遠の愛や神が与える生命を象徴する」といった意味が込められています。
ツリーの頂上部に飾る星はイエス・キリストの降誕を知らせたベツレヘムの星を表しています。

また、クリスマスツリーは旧約聖書の『創世記』に登場する「知恵の樹」の象徴であるという説もあります。
蛇にそそのかされたアダムとイブが「禁断の果実」を口にし、その結果神によって楽園を追放されてしまうという話が有名ですが、その「禁断の果実」がなっていた木が「知恵の樹」です。
ツリーによく飾られる球形のオーナメントは、アダムとイブの食べた「禁断の果実」を象徴しているといわれています。

フランツ・リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

晩年のフランツ・リスト(おそらく1870年代以降)

「クリスマス・ツリー」Weihnachtsbaum S186は1874-1876年にかけて作曲された曲集です。
この曲はリスト晩年のローマで、孫娘ダニエラのために作曲したものです。


後列左から 
ダニエル、コジマ・ワーグナー
前列左から
アンナ・ラガー(リストの母親)
ブランディーヌ
ガバネス(家庭教師)

左からコジマ、ブランディーヌ、ダニエル
リストには3人の子供と6人の孫がいました。6人の孫の1人はブランディーヌの子ども、5人はコジマの子どもです。
ダニエラ・センタ・フォン・ビュローは1860年10月12日、ベルリンで生まれました。コジマとハンス・フォン・ビュローの娘、リストの最初の孫です。

1980年に、12曲にまとめた版がベーレンライター出版社から出版されました。


「クリスマスツリー」は古い民謡や教会の聖歌などを原型としたものです。

第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite ; この楽曲は詩篇歌の歌詞がついていますが、ピアノのみでも弾くことが可能な曲です。

第2曲 おお、聖なる夜! O heilige Night! ; この楽曲も第1曲と同様に、クリスマスの歌詞が付いています。

第3曲 かいば桶をかこむ羊飼いたち Die Hirten an der Krippe  ;  この楽曲はハルモニウムで弾くことも可能です。6/8拍子の曲。この楽曲の動機は、アッシジの聖フランチェスコ
現存最古のフランチェスコ像(スビアーコの聖窟のインフェリオーレ教会蔵、1223年作)
の太陽賛歌と共通しています。

第4曲 信者たちよ、キリストへ Adeste fideles ; この楽曲は東方三博士
イタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂にある、三博士のモザイク画(526年)。上にBALTHASSAR、MELCHIOR、GASPARと書かれている
の行進になっていて、今日でも教会で賛美歌として歌われています。
「誠実な人々よきたれ」という邦題がつけられています。

第5曲 スケルツォーソ Scherzoso ; 人々がクリスマス・ツリーのろうそくに火をともしますす。

ニューヨーク・ロックフェラー・センターのクリスマスツリー
第6曲 鐘 Carillon ; 教会の鐘が静かに鳴る情景を現しています。

第7曲 仮眠のうた Schlummerlied  
第8曲 古い田舎のクリスマスの歌 Altes provencalisches Weihnachtslied  

第9曲 晩鐘 Abendglocken ; リストは青年期から晩年まで鐘をピアノで表現しています。

第10曲 むかし Ehemals  

第11曲 ハンガリー Ungarisch-Natale Ungherese

第12曲 ポーランド Polnisch-Natale Polacco

第11曲と第12曲は技巧的で、それぞれリストとカロリーヌ

カロリーヌ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人。ポーランド系貴族で、祖国の膨大な領地を治める大地主。キエフでリストと知り合い、作曲家としての創作活動に専念すべきとリストを説得して、ピアニストから引退させた立役者であり、リストの後半生に最も大きな影響を持ったパートナーでもありました。読書とタバコを愛する知的教養の塊のような女性でした。
の故郷を現しています。

クリスマスツリー
り第4曲「信者たちよ、キリストへ 」Adeste fideles
「誠実な人々よきたれ」


低音の魅力

2024-12-22 20:59:00 | バロック
 土曜日伊藤公一先生のレッスンで梅田ドルチェ楽器に行きました。
またまたこってり絞られました。

先生はニコニコして穏やかで少しも怖くはないのですが、どんな音の乱れも聞き逃しません。

私が思っているレガートはレガートではなく、スタカートはスタカートではない。
合っていると思っている音はズレているという具合に…。
「楽譜に書かれている。あたりまえのことをあたりまえにする。」と言うのがどんなに厳しいことか身に叩き込まれるレッスンです。

、レッスンのあと、榎田先生が「ある。」と言っておられた樹脂のバスフルートを試しに3階でパウエルフルートフェアーをやっているはず、行ってみました。

フェアーの調整会…予約取れなかったです。
「久米さん、調整受けられますか?」と店員さんが聞いてくれました。
「出遅れて予約取れなかったんです。」と言うと
「それがたった今キャンセルが出て、12:40が空いているんです。どうされますか?」
12:35!
「うわぁ~!お願いします🙇」
飛びつきました。
「今日宝くじ買ったら当たるかも。」と調整の小林さん。
しっかり見ていただきました。

その間、バスフルートのお試し。
樹脂フルートのGou

グレーが出てきました。
吹いてみるといいです!
軽くて音も簡単に出て、調整もほぼ要らないそうです。
少し誤算はCと C#トリルキーが押しにくいこと、思っている位置にない上に内側に埋まっていて押しにくい。
これで39万円。

「個体差はあるのですか?」と聞くと
「ありますよ。」と茶色を出してきてくれました。
本当です。こちらの方が音が前に出る感じです。

「吹き比べていいですか?」というとSANKYOのバスフルートが出てきました。

ドロップ型のキーが、思いのほか押しやすいです。

「いいですね〜。」
「いいですね。」音色、音の出、申し分無いです。

良くなったとは言え、やっぱりこの音色にはかないません。
しかし、重たい。
「一曲吹けないわ。」というと
支持棒をつけてくれました。

膝に立てて使ったり、首から下げたストラップにつけて演奏するのと使い分けられます。長さも調整できます。

これは便利。

「これなら買いたい。高いですか?」
「これはリップ銀で116万円。」

樹脂が39万円なのでだいぶ違いますが、この音色なら買いたい。
ところがその楽器は先約が合って売れないそうです。
残念。
というか無かってよかったのか。
お財布のことをおもうとね…。
安くていい楽器はなかなかありません😭💦。

オーケストラでの低音木管楽器と言えばファゴットです。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1742年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、オーストリア大公国ヴェネツィア没

1725年

ファゴットのための協奏曲を量産しています。
現存しているRV466番から504番までの39曲の楽譜が残されています。
468と482は一部ですが。

すべてはファゴットと弦楽、通奏低音のための協奏曲になっています。
制作年代ははっきりとしていませんが、多くは1720年頃に作曲されています。
1720年と言えば
1718年-1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒ(1667-1739年 在位1678-1739年)

の宮廷楽長として奉職した最終年です。

ピエタ音楽院(1346年に孤児や棄児を養育するための慈善機関として設立されました。女子は主に音楽教育を男子は大工などの教育を受けました。音楽会の収入や寄付で、成り立っていました。)
ヴィヴァルディが教鞭をとったピエタ慈善院付属音楽院
で1716年から名実共に「協奏曲長」(Maestro de' concerti)に就任していたこともあり、おそらくこの音楽院のオーケストラのために作曲したのではないかと思われます。

このあとの
1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を正式に交わしています。

ファゴット協奏曲RV484